思索 その1

三十三歳の僕はどういう社会的役割をすべきか思索したもの。

 僕は精神病の三十三歳、男。
 日常、代わり映えのしない毎日を送っていて、もうそんな無聊にも慣れ、進歩も発展もない毎日を送っている。最近は、某IT業界の人が、人生は勇気を出せば変えられるなんて書いている本を読んだのだが、そんなものは、遠い異国の話でもあるようである。僕の毎日は判で押したように同じ規則に従っているのである。
 しかし、そういう毎日に無念を感じるでもない。むしろ、喜ばしい。毎日、同じように朝起きて、昼仕事をして、夜になると、こうしてひとりでぽつねんと思索の旅に出ることができる。これは、幸せなことである。毎日の思索の時間が捻出できるなら、後は何もいらない。YouTubeで心地よい音楽を聴きながら、小説を書く真似ごとをしてみる。豊穣、だ。豊かなこと、この上ない。過去、こんな優雅な時間を一般大衆が持てたことがあるだろうか? まったくいいご身分なのである。

 さて、思索である。
 実は、歳を重ねると、思索なんてものとも、縁が遠のくものだが、まぁ、暇潰し、こうして考えながら過ごしていれば、時間が過ぎるというわけでやっているのである。で、これをインターネット上に垂れ流して・・・。誰の役にも立たないが、いいではないか。

 以下、思索。
「まず、社会的に役立つ年齢というのを考えてみる。エリクソンの発達段階の論文なんかを読むのだが、仕事をばりばりして、家庭を形成し、人生の中で中核的な役割を果たすのが、大体、成人期、四十歳~五十代だそうである。僕は三十三歳だが、何とか、人の役にたつような仕事がしたいと思うわけである。ここでいう仕事というのは必ずしも職業というわけではない。隣人に善意を示し、励まし、勇気づけることも、立派な「仕事」である。僕もシルバーバーチなんかを読みながら、隣人に善意を示すことをやってみてはいる。しかし、他者の強欲やら劣等感やらから出る言動、また傲慢などに手を焼くのである。僕は精神病患者だから、隣人は精神病患者である。この人たちは愛を必要としている。それは、はっきりとわかる。でも、僕には、特に、「今の」僕には、この人たちに愛を与えることは難しい。それは、泳げない人が、溺れている隣人を助けることはできないのと同じ理屈である。僕は、手始めに、向こうも愛を知っていて、双方で愛を交換するような場所で、仕事をするのが適当ではないかと考える。介護、なんか、いいのかもしれない。
 しかし、今、過渡期を抜けたような感じがするのである。エリクソンによる「三十歳移行」を終えて、三十三歳から四十歳は「おちつき」である。どうやら、僕は「おちつき」の状態に足を踏み入れたように思える。ここからは、ちょっと社会に対する関わり方がかわり、愛の発現の仕方もかわるのでないかと期待しているのである。
 僕の社会に対する思索は、まず、これからはコンスタントに与えられている仕事をきちんとこなすことである。働く、っていうことは大事らしいから、(どう大事だか、僕にはうまく説明できないが、ひとつは、社会との接点をしっかり持つために、孤立してしまわないために、働いて、人と繋がり、自分の価値を確認する必要がある、ということ、それが、働くことの大切さらしい)だから、働く。
 それと、もうひとつ、愛を発揮することである。「おちつき」の人間関係の中で、適切に人に助言や愛を与える。
 一歩ずつ成長である。一足飛びに四十歳にはなれない。今は人に振りまわれないようにしながら、その同じ相手と適切に距離をとって、その人のためを考えて、その人のための言動を与えること、それが大事だと思索する。
 つまらない、思索で、すみませんでした。
 失礼します!」

思索 その1

思索 その1

33歳の僕がすべきこと。エリクソンの論文を読み、エリクソンの発達段階を下敷きにして、30代をいかに生きるべきか、手短に考えてみた。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-04

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