あじさいのうた
打ちつけられた雨粒は、風に流されて窓を滑る。大きなもの、小さなもの、それらは成り行きに任せて合わさり分かれて落ちてゆく。そうしている間に新たな雨粒が打ちつけられて。進んでいるようで進んでいない。変わらない無意味な営みが続けられていた。私はそれを眺めていると不思議と心が落ち着くのだった。
隣の車両から級友たちの品のない声が聞こえた。
「昨日のアレ、見た? あれはないよねー」
「ほんと、あたしもそう思うー」
かっこいい、かわいい、きもちわるい、その程度のことしか言えないのか。人の悪口に同意することしかできないのか。誰に向けてでもなく、溜息が漏れた。
ふいに列車はトンネルへと入り、ドアの先に自分の姿を映した。目の下に隈をつくり、猫背で手摺りに寄りかかって。ただの疲れた女だった。正義に震える若者でも、正しさを追う求道者でもなかった。ただ、疲れた女が日々の鬱憤を一人で呟いているだけだった。
〈一緒に下校する友達も居ない寂しい私〉は、少しだけグレてみることにした。途中の北鎌倉駅で降りる。梅雨時の北鎌倉には、お気に入りの場所があった。むしろ、この大切な時間を連中に付き合うという無益なことに費やしたくなかった。
狭いホームに降り立つ。一昨日から続く雨で、辺りは湿った土の匂いがした。平日の雨。観光客もまばらだ。
定期を掲げて意気揚々と改札を出る。お気に入りの場所は、あじさい寺・明月院の近くにある。観光コースには入らない、小さな祠。そしてそれを取り囲むように咲くあじさい。今日はどんな色をしているだろう。
祠へ続く苔むした階段を昇っていくと、人影が見えた。珍しい。いつもここで一時間くらい過ごすが、誰とも出くわしたことがない。近所の人だろうか。
あじさいのような青色に淡く染まった、着物を着た男のようだ。こちらに背を向けて祠を見つめている。よく見ると傘を差していない。怪しい。折角の安らぎの時間だったが、あの男が背中を向けているうちに帰るとしよう。
歩みを止め、引き返そうとしたそのとき、
「こととわぬ、きすらあじさいもろとらが――」
その男は、思いついたように詠み上げた。
「練りの村戸にあざむかれけり」
反射的に応えてしまった。すると、その男はゆっくりと振り返り、
「これは驚いた。あなたは万葉集をご存知ですか」
明治時代をそのまま切り取ってきたような、独特の風格をもつ男だった。齢は、四十といったところだろうか。その表情は、この世のものとは思えないほど柔和なものだった。
〈言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟らが練りの村戸にあざむかれけり〉
「ええ。八代集の中であじさいが詠まれた二首のうちの一首ですから。――あなたはあじさいがお嫌いなのですか?」
この歌は、あじさいの不実さの象徴として、巧みな言葉に騙されたことを詠んでいる。よっぽどの和歌好きか、或いはあじさい好きか。いずれにしろ教養の高い人物のようだ。
「あじさいは、根を下ろした場所、また時期によって様々に色を変えます。昔の人はその事をよく思わなかったようですね。私はあじさいが好きですよ、特にここのあじさいが」
ゆっくりと、まるで朗読のように優しく言った。変わった人だが、悪い人ではなさそうだ。
「では、なぜその歌を?」
一呼吸置いてから、彼は答えた。
「あなたに気付いてほしかったからです。あなたが級友をよく思わないのも、あなたが級友によく思われていないのも、互いに不実であると思い込んでいるからです。あなた方は、いわばあじさい。まだ深く根を下ろしておらず、花の色をめまぐるしく変える時期です。あなたが不実と思い込んでいるものは、級友たちが自分の今の色を探してもがいている様子なのです。それを騙されたと思うより、色の変化を楽しんだ方がよろしいのではないでしょうか」
「私のことをご存知なのですか?」
「――世の中には不思議なことがありますから」
彼はにっこりと笑っている。どんな素性か尋ねる気も失せた。いささか深読みが過ぎる気がしたが、和歌に仮託して忠告しようとする、そんな人と出会うのは初めてだった。
彼になら、分かるかもしれない。一か八か、言ってみようと思った。
「高校生になったら、このつまらない日常が終わると思っていました。男子は無知で暴力的で嫌いでした。女子は話を合わせなければいけないし、力関係が陰湿で嫌いでした。しかし私は幸いにして物覚えが良かった。勉強ができたのです。本の中ではソクラテスからアインシュタインまで友人とすることができました。でもその結果としてクラスメイトからは距離を置かれ、友人と呼べる友人も居なくなりました。学校では、私だけ異邦人のようでした。仕方のないことでしたし、クラスメイトと無意味な時間を過ごすのも嫌でした。高校に行けば。高校に行けば、それこそ私のように本を友人にもち、学問を、文学を解する人が居るはずだと、そう思っていました。そうしたら、私は異邦人ではなくなる。私を分かってくれる人に出会えるはず」
雨は降り止まず、じとじとと辺りを湿らせる。彼は静かに私の話に耳を傾けていた。
「しかし、そんなことはなかったのです。高校に行っても、男子は暴力的で、女子は陰湿でした。結局私は、どこに行っても異邦人なのです。どんなに勉強しても、クラスメイトからは白い目で見られ、先生からは煙たがれる。褒められることをしてきたつもりです。物覚えが良いことは罪なのでしょうか。なぜ私はこんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか」
雨脚が急に強くなった。それは、これ以上私が惨めなことにならないよう制止するような降り方だった。
少しして雨が弱まると、彼はおもむろに口を開いた。
「誰にも理解してもらえないのは、辛いことですね」
それは、決して突き放した言い方ではなかった。が……
再び沈黙が流れる。
あんなことを初対面の人にぶつけるなんて、気が触れているとしか思えない。ぞわぞわとした羞恥心が全身を駆け巡る。ああ、どうしてあんなことを。なぜ……
「――私、幸せになりたいんです」
それが行き着いた答えだった。私の口からこんな言葉が出てくるなんて、思いもしなかった。思えば、人より多く憶えること、人より多くの功績を残すことばかり考えていた。優秀で役に立つ存在になりたかったけれど、それを実現したところで得られるものは何だろうか。守りたいものさえないのに。考えれば考えるほど、虚しかった。
「あなたは少し考え過ぎです。もっと肩の力を抜いて、自分のしたいことをしてみてはいかがでしょうか」
「そうしたら幸せになれますか?」
「――それは私には分かりません。幸せというものは、自分で答えを出していくものですから」
今の私には、幸せの指針がない。これを続ければ幸せになれると確信をもって言えるものがない。かつての私の指針は勉強だった。今考えてみれば、とても間抜けなものだった。
「あなたが幸せを感じるときはどんなときですか」
「ここに来て、あじさいとお話しすること……でしょうか」
「ええ、よく存じ上げています。私の言葉は、その答えになりましたでしょうか」
だからあなたはこうして私に話しかけてくれたのですね。
厚い雲間から、日光が降り注ぐ。彼の着物は、雨を受けていよいよ光り輝いた。
「目を閉じてください。時間が来たようです」
静かに目を閉じると、木霊のような声が聞こえた。
「またここへいらっしゃい。こうして人の形をしてお話しできるかは分かりませんが、わたくしはここにおります。そして、これは本来恋人に贈るものですが、再会のためにこの歌でお別れしましょう」
あれから、毎日あの祠へ通った。今日見つけた素敵なもの、意外なクラスメイトのいいところなど些細なことでも報告した。梅雨が明ける頃には、学問や文学についても語り合える友人ができていた。
ふとあの不思議な体験を思い出すことがある。来年の梅雨にはまた会えるだろうか。そんな風に思うときは、この歌を詠むことにしている。
〈あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませわが背子見つゝ偲はむ〉
《了》
あじさいのうた
不思議なものができました。
梅雨の北鎌倉を題材にし、恋愛ものにならないように書いてみたら、気付けばファンタジーになっていました。まだまだ努力の余地がありそうです。
それでは、またお会いしましょう。
桜井明日香 拝