再会の環
昏い海に放たれたミルクは対流に合わせて形を変え、懐かしい模様をつくる。私は何故かそれを見ていられなくて、銀の匙でかき混ぜてしまった。甘くしたコーヒーは口の中にべたついた。
錆びた安物の指環。久しぶりに薬指につけたそれをシーリングファンに翳してみる。
幸せだったのは、思い出だからなのかしら。
からん、ころん、という音が、今日何人目かの来訪者を告げる。
慌てて右手を隠し、目を伏せた。何と声を掛けられるのかな。何から切り出せばいいのかな。こんなシャツでよかったのかな。
恐る恐る目を開けると、彼はきょろきょろと辺りを見回していて、その様子がひどく可笑しかった。だからこう声を掛けざるを得なかった。
「おーい、こっちだぞー」
感動的な再会は、ずいぶん間抜けなものになってしまった。
気付いた彼は急いで駆けてきた。よかった、彼も普段着だ。
「ごめん、待った?」
「ううん。それより、あなたが私を見つけられないなんて。あなたも落ちぶれたね」
彼は本当に落ち込んでいるように見えた。かわいいやつめ。
「――ああ、もう十年になるからね、あれから」
「あれから、――そうだね」
彼は何を思い出すのだろう。
「背、伸びた?」
「違うよ、ヒール履いてるから」
「あー」目線を外して少し笑う。
「ヒールとか履くようになったんだね」
「まあね」
「僕もコーヒーもらおうかな」
「ブラック?」
「いや、ミルクたっぷり。甘くしないと飲めないんだ。カッコつけたいのにカッコつけられない、なんだか背伸びしているみたいで自分でも笑えるよ」
私はそういうところが好きだったんだけどな。
高校生活、大学生活、就活での出来事。それから二人で、「あれから」について話した。
彼が医師を目指したこと。そしてそれに挫折したこと。それでもなお人助けがしたくて、別の業種で病院に就職したこと。
ごく普通の、ともすれば社交辞令のような話だったけれど、思い出だったものの延長線上に、彼が今いるということを教えてくれた。彼は、私が知っている彼そのままだった。
「でも、どうしてそこまで人を助けたいの?」
そう訊くと、彼は右手を頭の後ろにやって云い淀んだ。云いたくないことがあるときの彼の癖。こんなとき、彼は絶対に本当のことを教えてくれない。壁を感じた。すべてを私に話してくれたあの頃のままではないのは分かっているけれど。
からん、ころん、とお客を見送る音がした。それを合図にしたのか、彼は唐突に切り出した。
「結婚するの?」
「結婚するの? おめでと」
薬指に光る指環を見たとき、僕は正直悲しくなった。もちろん、彼女はずっとあの頃のままではないし、助けてくれる人もいるのだろう。でも、僕が助けられる範疇の外の人になってしまったということ、それが悔しかった。そもそも「助ける」という発想が間違っていたことも分かっていたけれど――。
もし結婚が本当なら、旧くからの友人としてしっかりお祝いしたかったから、こう尋ねるのはごく自然なことだった。
「え、どうして?」
「薬指に指環してるから」
「いや、違うよ、右手だよ、右手。自分で買った指環だよ、いやだなあ」
そう云って彼女は左手を左耳に軽く触れた。嘘をつくときの彼女の癖。
「――そっか」
無理に聞き出す必要もなかった。
「あなたが十年前に贈ってくれた指環だよ」
と、どうして云えなかったのだろう。そう云って、また普通の友達からやり直したかった。こみ上げてくる涙の衝動を内側で抑えつけた。
「いつまでこっちにいるの?」
「土日で帰ってきているだけだからね。明日には戻らないと。あまり長く家を空けられないし」
「なに、同棲でもしてるの?」なんて。
「――うん」
え。さあっと不快な熱が駆ける。
「――そうなんだ。東京、楽しそうだね」
そうだ、笑え、私。
「東京といっても八王子だよ、八王子。こことそんなに変わらないよ。お前も大学生のときはあそこから通っていたんでしょ」
「『お前』って云った」わざとらしく睨みつけてやる。
「――ごめん」
気にしていてくれたみたい。十年前も、彼はよく「お前」と呼んで私に怒られていたっけ。「お前」と呼ばれるのはやっぱり嫌だった。名前で呼んでほしかった。
「猫だよ、猫。一人暮しが寂しくて、最近飼いはじめたんだ。可愛がると懐いてくれるもんだね」
「猫、飼ってるんだ。可愛いよね、猫」
嘘か本当か分からないけど、ほっとした、というのが本当のところ。
気付けば西日が射していて、店主がブラインドを下げているのが見えた。
「高速が通って、この辺りもずいぶん寂れちゃったね」
「この店も来月には畳むらしいよ」
「高校生のときは常連だったのになあ。どんどん変わっていくね」
「並木も、街も、人も。私たちも、変わっていくのかな」
「僕は変わらないよ」
「――そっか」
「コーヒー、なくなっちゃったね。そろそろ出る?」
今どんな生活をしているの? 今何があなたの楽しみなの? 今何があなたを癒しているの? 今あなたはちゃんと幸せなの?
訊きたいことはたくさんあったけれど、
「――うん」
これからの私たちは、きっと甘くない。
「じゃ、また帰ってきたら連絡するよ」
いっそ昏い海に沈めてしまえばよかったのかしら。
伝票を持って立ち去ってゆく。彼の横顔は少し困ったように笑っていた。
「結婚おめでと。次は左手にはめてあげなよ」
期待していいのかな。
また、会えるよね。
「――うん」
きっと、そのときは、左手に。
再会の環に願いを託すように、右の薬指を強く握った。
《了》
再会の環
この短編は、buzzG氏の楽曲『Fairytale,』およびHERO氏の漫画に強く影響を受けて執筆しました。ぜひこちらもご鑑賞ください。
すぐそこにあって、手が届くのに、手を伸ばせない、そんな大切なもの。手を伸ばせばすぐ幸福に到達するかもしれないのに、どうしてそれができないのでしょう。
そういったことに思いを馳せていただければ幸いです。
またお会いしましょう。
桜井 明日香 拝