本音を暴かないで
雪が重く私に降りそそぐ。私は白いベンチにゆっくりと腰を下ろした。何度目かの、同じ冬だった。
中学一年生の冬、母が交通事故でこの世を去った。あの日はひどく雪が降っていて、一歩先も見えづらい状況だった。危ないから十分に気をつけてね、と私に言った母の声が今でも時々思い出される。今日みたいな大雪の日は特にそれが著しい。あの時、買い物に行く母を止めていれば、少し足止めしていれば死なずに済んだだろう。
十字路でのスリップ事故は、その日のニュースを騒がせた。右折車と直進車どちらも大雪のせいで互いに気づけず、ぶつかりそうになったのだろう、両者急ブレーキを踏み、スリップ。その時歩道にいた母に一台が衝突した。母は壁と車に挟まれ即死だった。
私にとっては即死であったことが救いだった。苦しまず、何が起こったのかもわからないまま、母は死んだのだ。
雪が積もってきた歩道のベンチから重たい腰を上げた。今日は一月二十三日、母の命日だ。このベンチからは、母の死んだ場所がよく見える。墓参りの帰りには、必ずここに来るようにしていた。
膝上に溜まっていた雪を手で払い落とした。もう帰らなくては。
リュックを背負い、来た道を戻り始める。
今年も雪のメッセージを残した。それが溶ける頃には跡形もなく消え去ってしまう小さな言葉を。
春になった。そこそこな春休みを満喫した私は、今年から高校二年生になる。
一年生の時にできた友達とは、春休みに入ってからしばらく会っていない。もともと、遊んだりはしたことがない仲だった。浅い関係、というやつになるのだろう。
横長の玄関先のガラス窓に、クラス表が張り出されている。少し早めに家を出たというのに、もうそこは生徒で賑わっていた。学生恒例のクラス替えイベントだ。何人かが固まって、一つずつ紙を確認している。そして一人が、がっかりしたように肩を落とす。友達と離れたようだ。私はそれを横目で見つつ、左から順に用紙を見ていった。一組、二組、と来て、あった。三組だ。ちらほら一年の時に見たような名前も――といっても二人だけ――あった。
学年が上がると、反比例して教室の位置する階が下がる。今年から三階だ。四階はさすがにきつかったのでそこは嬉しい。
教室に入ると、外とは逆に、人が少なかった。数人が席について話している。とても静かだ。
ホワイトボードに席順のプリントが貼ってあった。出席番号順だ。私は十八番で真ん中左の一番後ろの席だ。教室を見渡して、あそこだ、と目で確かめる。もう一度プリントを見て間違いがないとわかると、そこに鞄を置いた。
初日は午前に大掃除と余った時間で委員会決め、午後は始業式とクラスごとの自己紹介、配布物が配られて、十五時過ぎには帰られる。早く終わらないかな……。
八時十分過ぎには、ほとんどの人が教室内にいた。他クラスの人もいるかもしれないけれど。三十分からショートホームルームだから、この時間にしては珍しい光景だ。クラス替え一週間は見られるが、それ以降はこの時間誰もいないだろう。
唐突に右肩を優しく叩かれた。右は確か……。私はさっきの座席の図を思い浮かべながら、隣の女子を見た。ああ、そう、確か原田恵梨だった。
茶色がかった肩下までの髪が綺麗なカールを内側に描いている。目は少し細めだが、睫毛が長い。結構しっかりとメイクをしている。
「ねえ、名前は? あたしは原田恵梨。よろしくー」
見た目に反して、柔らかい声だ。心地よく聞こえる。
「よろしく。私は長井彩知。恵梨ちゃん……は、一年生の時何組だった?」
愛想良く笑って、会話の幅を広げようと試みる。彼女と親しくなれるだろうか。
恵梨は苦笑して、気恥ずかしげに言った。
「六組だよ。てか、ちゃん、はやめてよ。なんか照れるし」
「はーい。……あ、六組っていうと、日陰組だ。やっぱり夏は涼しく、冬は寒いもの?」
私の通う高校では、四組から八組は日に当たらないところに教室があり、いつも暗いことから日陰組と呼ばれている。決して悪い意味ではないのだが、それを誹謗の道具にする人もいて今ではあまり使われない言葉だ。
「日陰組って久々に聞いたわー。一年の時の二学期からあんまし聞かなくなったんだよね。あそこは確かに涼しいけど、冬は最悪だよ。寒すぎ。電気つけないと暗すぎ」
笑い混じりで返す彼女に、ほっとした。彼女は冗談が通じる人間だ。
私たちはその後も互いのことを教え合い、なんとか友人らしくなった。二年生の第一歩が踏み出せたことを実感した。
担任が入ってくると、教室はざわめいた。知らない人だ。新任だろう。肌が白く、病的な空気を纏っている。猫背気味で身長が低めに見えるが、百七十くらいはありそうだ。担任の顔を見るや、女子たちの嬉しそうな声があがった。
「えーっと、僕は二年三組の担任になった里山佑といいます。この学校に来たばかりで、勝手がよくわかりませんので、いろいろ教えてくださると助かります」
顔に似合わず、声は低めだ。ちらっと隣を見ると、恵梨は少し瞳を輝かせていた。なるほど、ああいう弱々しいタイプが好きなんだな。
「とりあえず、九時から掃除があるので、まずは班分けします。最初は僕が適当に考えたグループで掃除場所四つをローテーションする形式にしました。一班は出席番号一から九、二班は十から十八、三班は十九から二十七、それ以降は四班とします。掃除のローテはここのボード、えっと、隅っこに書いておきます」
恵梨とは違う班だ。私は左隣の人が同じ班にあたる。朝からずっと、窓際後ろから二番目、その彼女から見ると左斜め前の男子に、しきりに話しかけていた子だ。名前は……。私は薄れた座席表を頭の中で復元しようと試みるが、無理だった。短期記憶は、そう長くもたないのだ。
少し躊躇してから、勇気を出して話しかける。
「同じ班だね。私、長井彩知。しばらくの間よろしく」
私の声に驚いたのか、彼女は肩をびくつかせる。怯えた風に私を見た。
(びびりなのかな)
返事がないのを不安に感じて、とりあえず笑って見せた。敵意とかないよ、私大丈夫だよ、というアピールである。親しくない人に親しげに微笑むには体力を有する。
「あ、っと。わ、私は、佐々木信乃です」
よかった。第一関門自己紹介は達成できた。こういうタイプは親しくなるまでに時間が掛かるが、その過程は簡単なのでつき合うのが楽だ。現に私は、一年生の時こういった人としか交友関係を持っていなかった。
「信乃ちゃんね。もしかして部活とか入ってる?」
教室内は、私のように自己紹介する声で溢れた。学年での生徒数が三百を越えるので、クラス替えをするとみんなほぼ初対面なのだ。ただ、同じ部活に所属する人を最低でも二人は同じクラスにいるようにする、という暗黙のルールがあるようで、知り合いが一人もいないという状況になり得るのは無所属の生徒だけである。
信乃はもごもごと口を動かして、何か言った。私には何を言っているのか聞こえなかったが、彼女の所属する部活の見当はついていたので、適当だろうと思われる言葉を返す。
「そっかあ、テニス部か。練習大変じゃない?」
そう私が言ったところで、チャイムが鳴った。信乃は私に何か返そうとしたが、結局黙ってしまった。
いつの間にか教室から、里山はいなくなっていた。
恵梨も他に友達をつくったみたいで、数人と教室を出ていく。
私の担当場所は隣の選択教室で、掃除形式は、ほうきオンリーの簡単なところだ。掃除道具入れをあけて、ほうきを出そうとしたとき、おい、と怒った声で、中井が私を呼んだ。中井というのは一年生の時のクラスメイトだ。ムードメーカー的存在だった。
「ほうき、貸せよ。俺もここだから」
(そっか、こいつ私の前の席だった)
「はい、どうぞ」
掃除が終わると、一旦教室に集合だ。教室に入るとき、ふと誰かと目が合った。視線を戻してそれが誰かを確認する。
(あ、信乃ちゃんが絡んでた男子だ。背、高いなあ)
その彼は、薄いフレームの黒眼鏡をかけていて、いかにも秀才な雰囲気だ。彼には一目でわかるオーラ、というのがあった。存在感とも言うかもしれない。周囲を魅了する人間というのは、空気でわかるのだ。彼にはそれを強く感じた。そういう人間は、近づいてくる人には慕われるが、そうでない人からすると妬みか憧れの対象になる。
目が合ったのは気のせいかもしれない。彼は私に背を向けて、中井と親しげに話している。
学校がようやく終わると、私はすぐに帰るのが基本だ。しかし、今日は用がある。恵梨との接触だ。彼女はどうやらリーダータイプで、友達もできやすく、今後クラスでは中心的な人物になるだろうと予想されるのだ。そんな彼女との接点は持っておいた方が得だし、私も彼女は嫌いじゃない。挨拶程度は交わしておかないと、このままフェードアウトということも有り得る。
隣でクラスの女子と話している恵梨に、軽く声をかけた。
「恵梨、また明日ね」
もちろん、笑顔も忘れずに。
「あ、彩知帰るつもり? 今日はちょっとカフェとかに寄って行かない?」
(カフェ……)
一瞬意識が、一年生の時にフラッシュバックする。そういえば、一年の時もこうしてよく誘われた。私がそのどれも断ったせいで、春休みに連絡が途絶えた。それも良いと思っていたけれど、今日はつき合うべきだろう。
「いいねえ。どこ行く?」
嬉しそうに言えただろうか。恵梨の表情を確認して、安心する。大丈夫だった。
カフェには、生徒が多くいた。窓際に席を取って、メニューを開く。カフェに来たのは、母が死んでから初めてだった。
「コーヒーとワッフルにしようかな」
「彩知、コーヒー飲むんだ。あたしは苦手ー。頭痛くなる」
恵梨が大げさに、うえーっと舌を出して頭を抱えるので、おかしくて笑ってしまった。彼女の空気は凄く落ち着く。友達になれたら最高だと思う。
「あ、もうこんな時間! 恵梨、私帰らないと」
カフェでの時間は早く過ぎ、そしてとても楽しかった。もう少しここにいたいと思う。そんな風に感じるのは久々だった。
「ほんとだ。彩知といるとなんか、落ち着くんだよなあ。時間早く過ぎちゃった」
残念そうな恵梨を見て、急に明日の学校が楽しみになった。恵梨とまた会える。
会計を済ませて、カフェの店内から出る。それじゃあ、と私が言おうとしたとき、恵梨が立ち止まった。
「あ、突然だけど、さ、彩知ってさ、なんか疲れてる? あ、違うならいいんだよ。ただ、最初教室であたしが話しかけたのは、彩知の空気? っていうのかな。それが重たかったからなんだよね。大丈夫かなーって思って声かけたら、意外と元気でびっくりしたんだけど」
私は驚いて声を失った。彼女はこの事を言いたかったのだろう。だからカフェに誘った。直感でそう思った。
「あ、ごめん。今日知り合ったばかりの奴がなんだって感じだよね」
私が黙っていると、恵梨が困るのはわかっている。何か言わないと、何か。
「大丈夫だって。私、昔から幸薄そうって言われてるからさ、ね? 元からこんな感じなの」
恵梨と別れて、その足でスーパーに行った。今日は疲れたから、簡単に野菜と肉を炒めて、味噌汁とご飯、家にあった漬け物で済ませよう。
恵梨が言ったことを何度も思い起こして、彼女の洞察力の鋭さに感心する。疲れているわけではないが、最近寝不足だったのは事実なのだ。理由はなく、単に不調なのだろう。それを、見てすぐに見抜けるなんて人間業じゃないわ、と思った。
それから学校にも慣れ、気がつくと夏休み間近になっていた。月一の席替えを何度か繰り返し、今私の右隣は恵梨ではなく、あの黒眼鏡の男子、高坂だ。彼は思った通り社交的で、一度関わると、最後まで面倒を見ようとする強者だった。これまで私は彼の恩恵に預かる機会が無く、接点は隣の席、ということだけにとどまっている。
そんな七月半ば、私の心配事はこのごろ寝不足が悪化していることだった。
本音を暴かないで
続きます。長期戦になる予定ですので、長い目でお付き合いしてくださると嬉しいです。
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