大罪と死神 ~頭 垂Ver~ 「合野 秋穂編」
頭 垂(かぶり すい) 作
福千代 編
第一章
今の時刻は始業時刻の三十分ほど前。俺はもういつも通りと言えるようになった三人でいつもの登校ルートを歩いていた。
普段より多少早いような気もするが、概ねいつも通りの時間と言えるだろう。
実に代わり映えのしない登校風景。
実に代わり映えのしない朝。
だと言うのに、少しだけ俺の気の持ちようは普段とは違う。
端的に今どんな気分かと言うと……普段の二倍ほど頭痛が痛く、ガンガンと警報のような音が鳴り響いている。
足が少しふらついてしまうほどには酷い頭痛だ。
俺の頭が痛いのは、別段普通の事ではあるのだが、ここまで痛いのはなかなかにない。
その頭痛のせいで今は随分と気分がよろしくない。
何故に、清々しい(そんなこと思ったことは一度もないが)朝だと言うのに、こんなにも不愉快な気分で俺はすごさなければいけないのか。
別に俺だって不愉快でいたいと思っていつも不愉快でいるわけでは決してない。寧ろ、日々を楽しく笑って過ごせれば一番だとすら考えている。
こんなことを言うと正義辺りならば、俺らしくないと笑うのだろうなと思う。
まぁ、仮に楽しく日常を――青春を謳歌できていたとしても、それを表情に表して周囲に伝えることが出来ない俺は、どれだけ気分が良くても周囲からは不機嫌なのではないかと警戒されてしまうわけだが。
実に俺の頭の中に住み着いている同居人は厄介なことこの上ない。
だが、今はそんな話はどうでもいい。
同居人の話は今度気が向いたときにでもすることとしよう。そんな気が向くことはほぼ確実にないが。
はっきり言ってしまえば、同居人がいくらうるさいと言っても、ここまで気分が悪くなることは多くない。悪くなることが全くないとは言わないでおく。
ついさっきまで俺は布団の中で寝ていたのだ。その分、朝はそれほど同居人が騒がない時間帯でもある。
ならば、何故今日に限ってここまで同居人が騒がしいのかって?
さっき言ったろ? 寝ていたから、朝は同居人がそれほど騒がない、と。
……要するに、俺は昨晩あまり寝れていないのだ。
その睡眠不足の直接的な原因が俺にあるのならば、気分こそ悪くとも機嫌はそこまで急転直下しないだろう。
俺だって自分のせいで気分が悪いのに周囲に当たるほど理不尽でも、ガキ臭い性格をしていないつもりだ。
……異論は聞かない。
だが、その気分が悪い原因に自分が全く関係ないのなら俺はその原因を作った人間に怒りをぶつけてもいいと思う。
「……どうしたんですか? き、気分がすぐれないんですか?」
そう言って、俺の右隣にいる鵜菜が、弱々しいながらも気づかっていると言うことがよくわかる視線をこちらに向けてくる。
はっきりとお前が原因だと言ってやりたいが、言ったところでこの問題が解決するわけでもないし、鵜菜を恐がらせるのは俺の本意ではない。から、自重することとしよう。
俺がこんなにも気分と機嫌が悪いのは、偏に睡眠不足のせいだ。
が、しかし。その睡眠不足の原因を作ったのは鵜菜だ。
昨日、鵜菜にいろいろと言いたいことを好き勝手に言った。そのせいで、今は喉が割りと痛いのであまりしゃべりたくない。
喉が痛いのは、しゃべりすぎたことの副次効果だ。それに、喉が痛い程度で眠れなくなるとはあまり聞かない。し、俺自身なったこともない。
では、何故眠れていないのか。
簡単だ。昨晩中、鵜菜に意味ありげな意味不明の視線を向けられていたせいで深く寝付けなかったのだ。
俺はどんな状況でも安眠できることが自慢だったのだが、昨日は上手く眠れなかった。
疲れていればいるほどよく眠れるはずなのだが、疲れている時に鵜菜の視線はよく体に刺さった。
その視線のせいで浅い睡眠しかとれず、頭痛が和らぐどころか悪化したのだ、
……ハァ、寝たい。
これからもこんな状況が続くと言うのなら、睡眠不足で俺が発狂することは請け合いだろう。
早急にクソ読子が物置と化している部屋を片付ければ早いのだが、あの物置を片付けるのはそう容易いことではないだろう。
あれを全部捨てていいと言うのなら俺が片付けてやってもいいが、そうもいかんらしい。
ならば、さっさと手前で片付けろと言うのだ。
……話が逸れたな。
兎にも角にも、鵜菜をどうにかしないと俺が倒れてしまいそうだと言うことだ。
それ以外に特に言うこともないし、それ以上に思考を紡げるほど今の俺には余裕があると言うわけでもない。
今俺が本能通りに動いていいと言うのなら、今すぐにUターンして寮に退きかえし、ベッドに潜って寝たい。それができるのなら、何をしてもいい。
正義が隣にいる時点でこれを実行することはまず不可能なのだが、考えるぐらいは別にいいだろ? 思考は誰にも迷惑はかけないからな。
「あれあれ? 今日はいつも以上に機嫌が悪そうだねぇ? 昨日何かしてたの? それとも、眠れないほど何かに勤しんでいたのかな?」
「……………………」
正義がいやらしい笑みを俺に向けてくる。
俺は条件反射的に左手を動かして正義の頭を掴もうとするが、正義はその反応をよんでいたのか、軽く重心を後ろにずらすだけで俺の手を避ける。
「そう毎回毎回やられてはたまらないからね。僕だって学ぶ…………ぺふっ」
正義の口から間抜けな吐息が漏れる。
何故、そんな間抜けな声が正義の口から漏れたのか? それを説明する前に一言だけ言わせてもらおう。
俺は悪くない。
俺の手を正義が軽い仕草で避けた。
手が空を切ったことによって、体が勢い余って半回転する。
そして、たまたま握っていた俺の拳が回転の勢いで正義の腹に突き刺さった。
どこからどう見ても、悪いのは俺ではなく俺の手を避けた正義であろう。
だが、悪いのが俺だと勘違いしてしまう馬鹿がいるかもしれないので、説明する前に弁明したのだ。
腹にいい感じに拳が入ってしまった正義はその場に崩れ落ちる。
それはそれで愉快な光景なのだが、いつもの流れは踏襲しなければいけないよな。別に、正義に追撃をかけたいわけではないのだ。
ただ、普段の流れを踏襲しないと違和感が残ると言うことで、行うだけなのだ。
そう思った俺は、崩れ落ちた正義にアイアンクローを極め、持ち上げる。
「いたいたいたいたいたいたいたいたい! おなかを思いっきり殴った挙句のこれはさすがにひどくない!?」
「……それだけしゃべれるのなら問題ないだろう」
「問題のあるないじゃないでしょ!? 流の突発的な行為は本当に理不尽すぎるよ!」
「……突発的じゃねぇよ。ちゃんと理には適っている」
「なら、説明してくれない!?」
「…………面倒だな」
「やっぱり理不尽じゃん!」
昨日だけで一週間分はしゃべったのだ。
わざわざ、正義のために何かを説明してやる気も義理もない。
それに、たった数語発しただけだと言うのに、もう喉がヤバい。そんな時に説明などしていられるか。
そんな、俺に宙づりにされている正義を見ながら、思わずと言った様子で鵜菜が漏らす。
「……いいなー」
「何が!? そして、何処がぁ!?」
正義は俺にアイアンクローをされて、随分と痛いであろうに律儀にもツッコんでいる。
……忙しない奴だ。
「離してよ流! もういい加減限界だから! 中身出そうだから!」
「……それも悪くないな」
「悪いよ!? 死んじゃうよ!? それでもいいの!? 僕が死んじゃってもいいの!?」
それは……少しだけ、ほんの少しだけ困る。
しょうがないな。
俺は乱雑に正義の頭から手を放す。
今日の正義は珍しく尻餅をつくこともなく、綺麗に着地すると自分の頭をペタペタと触り、頭の形を確認している。
耐久値が上がってきたのかなんなのかは知らないが……気にいらんな。
正義は痛みに悶えているぐらいが面白いのに。
……っ。
そんなことを考えていたからか、頭の中で響いている頭痛が余計に酷くなってきた。
やはり、体調の悪い時に考え事などするものではないな。
こんな時はロックを聴くに限るだろう。
俺は、カバンからいつも愛用しているイヤホンと音楽プレーヤーを取り出す。
とりあえず、左耳にだけイヤホンをはめて大音量で音楽を流す。
片耳だけなので、音楽に入り込むことはできないが、それでもないよりはましだ。
俺は、片耳だけでも音楽に集中するために目を閉じた。
「……ふぅっ。頭は歪んでないみたいだね。本当にひどいよ流……って、もう聞く気が全くなくていらっしゃる!?」
さっきまで流先輩にアイアンクローを受けていたと言うのに、正義先輩は元気に突っ込んでいます。
正義先輩はツッコミをしていないと死んでしまう類の新人類なのでしょうか?
とてもではありませんが、私には理解できない価値観です。
それにしても……
「……ズルいです」
「さっきも言ったけど、何が? 流のアイアンクローは君が想像している以上の痛みだし、想像を絶するほどの苦痛だよ?」
「正義先輩は私よりも流先輩と仲が良いみたいでズルいです」
「えー……。仲良さそうに見えるのぉ?」
嫌そうな声で、正義先輩はそう言います。
ですが、そう言った正義先輩の表情は嬉しそうに緩んでいて、仲が良いと言われたことがまんざらでもないようです。
そんな正義先輩の表情は、ちょっとだけ私の癇に障りました。
流先輩はいつも正義先輩には暴力を振るいますが、私には一度たりとも暴力を振るってきたことがありません。
私が流先輩を殺そうとした時ですら、流先輩は全く反撃してこようとはしませんでした。
それが、女性は殴らないと言う心情があると言うのならわかりますが、流先輩はこの間の広報委員会の先輩には容赦なくアイアンクローをしていたような気がします。
……どういうことなのでしょうか?
「僕としては、鵜菜ちゃんのほうがうらやましいけどね?」
「どうしてですか……意味が分かりません」
流先輩の気を引くにはどうしたらいいのでしょうか?
趣味の話でもすればいいのでしょうか?
ですが、流先輩は本当に音楽を聴くぐらいしか趣味の無い人のようですし、その趣味で合わせようとしても、私は流先輩の聴くような激しいロックは肌に合いません。
考えれば考えるほど、万事手詰まりのような気がしてきます。
本当にどうすればいいのでしょうか?
流先輩に嫌われたら私は生きていけません。きっと、今の私は流先輩に嫌われてしまったら今度こそ自殺することでしょう。
それほどまでに、私の中の流先輩の比重は重くなってきています。
寄りかかることは駄目なのだろうと言う自覚はあるのですが、もう無理です。
昨日あんなことを流先輩に言われてから、流先輩が私の心の中に支柱のように立ってしまいました。
その心の中の流先輩と言う支柱に寄り掛かっているととても楽なのです。とても落ち着くのです。
その楽さを、落ち着く感じを覚えてしまったらもう離れることは出来なそうです。
我ながら、自分がチョロイ女だと言うことは自覚があります。
ですが、それほどまでには昨日の流先輩の言葉は私の心に染み入ったのです。
……それはともかくとして。
どうすれば、流先輩の気を引けるのでしょうか?
流先輩に好かれていたいなどとおこがましいことは言いませんが、流先輩に嫌われないためにはどうしたらいいのでしょう?
「……むぅ」
「どうしたの、鵜菜ちゃん。神妙な顔しちゃって」
「あ、正義先輩は黙っていてください。今真剣に考えているので」
「……鵜菜ちゃんは徐々に流に似てきてるよね。いや、決してほめてるわけじゃないんだけどね」
「……嬉しいです」
「嬉しいのかぁ……。そっかぁ……」
正義先輩は多少げんなりしたような表情をして、斜め上を見ています。
私にはそこに何もないように見えるのですが、正義先輩には何か見えているのでしょうか?
……こういう時は触れないでいてあげるのが優しさだと流先輩が言っていました。
なので、精いっぱい無視することとしましょう。
そんな奇行に走る正義先輩はどうでもいいのです。今重要なのは、流先輩の気をどうやったら引けるかと言うことです。
と言うか。流先輩は興味を引く引かないと言うよりも、興味を持たないことには毛ほどの関心も抱かないでしょう。
なら、まずは先輩に興味を持ってもらうにはどうしたらいいかでも考えましょう。
この一週間流先輩と過ごしてわかったことは、流先輩は音楽ならロックが好きで、基本的にいつもしかめっ面をしていると言うこと。
夜は早く寝るのに起きるのは遅いと言う早寝遅起きを好むようです。
直情径行かとも思いましたが、頭の中ではいつも考えすぎるぐらい考えていると言うことが、昨日の一件でわかりました。
あと、基本的に男女問わずその拳を振るいますが、私は一度も殴られたことがありません。これが今の一番の疑問でもあります。
ポジティブに考えれば、私は流先輩にとって特別。
ネガティブに考えれば、私は拳を振るう価値もないほどどうでもいい。
どちらなのでしょうね? ポジティブな方であることを祈るばかりです。
……こうやって流先輩についてのことを並べ立ててあげてみましたが、流先輩について考えれば考えるほど流先輩がよくわからないお人だと言うのがわかります。
表情はいつもしかめっ面で固定されているので、何を考えているのか読めません。
表面的なことしか考えていないかと思えば、しっかりと裏の裏まで考えて動いていることもあるようです。
これは『月森寮』にいる先輩方全員に当てはまることかもしれませんが、全員が全員考えていることを表に出すことを嫌っているようです。流先輩は割と出しているような気もしますが。
それにしても、全員お腹の底では何を考えているのか全く分からないと言う共通点があります。そこは魅力でもあり、怖いところでもあると思います。
……ドンドン考えが彼方に行ってしまっていますね。思考を戻さなければ。
ですが、考えれば考えるほどに流先輩から興味をもたれることは難しいのではないか? と言う結論が出てきてしまいます。
本当にどうしたものなのでしょうか?
「おーい、鵜菜ちゃーん」
「……え?」
正義先輩が私に声をかけてきてくれるのですが、その声がやけに遠いような気がします。
この少しの間に耳が遠くなってしまったのでしょうか?
考え込むうちに下げてしまっていた顔を上げると、少し先に正義先輩たちの姿が見えます。
私はいつの間にやら立ち尽くしたまま考え込んでいたようでした。
何か考え込んでいると、フリーズしてしまう癖が私にはありました。
割と危ないので、直さなければとは思うのですが、直そうと思っても治らないから癖と言われるのだと思います。
「早くこっちきなよ~」
正義先輩はこっちを向きながら、手をぶんぶんと振っています。
流先輩はと言うと、一応足は止めていますが、こちらには一度チラリと視線を向けただけで、今はこちらに興味がなさそうに目を閉じて音楽に集中しています。
また思考の海に沈んでしまいました。
さっさと流先輩たちに追いつかないと迷惑をかけてしまうでしょう。
私は小走りになって、流先輩たちの下に向かいます。
距離にして目測で二十メートルと少し。たぶん二十五メートルも離れていないでしょうから、すぐに追いつくことは出来そうです。
「……あっ」
あと数歩で流先輩たちに追いつけると言うところで足がもつれてしまいます。
昨晩は流先輩のことを遅くまで見ていたせいでよく眠れていないので、疲れが足に来ているようです。
昔はよく眠れていないのがデフォルトだったので、これでも特に辛くはなかったのです。
でも、夜に睡眠で休息がとれるようになってしまうと、できないときに辛いですね。やはり。
そんなことを考えているのは、とっさのこと過ぎて体が固まっているので、受け身もとれなさそうだからです。
端的に言うと、現実逃避と言うやつです。
ですが、思いっきりぶつかっていたいのはともかく、顔から言ったら眼とかが危なさそうなので、ギュッと目を強くつむります。
「…………あれ?」
いくら待っても、予想したような衝撃も痛みもやってきません。
何故なのでしょうか? こういう時には一秒がとても長く感じるとは言いますが、それなのでしょうか? それにしても、やけに長いような。
あと、気のせいかもしれませんが、何かに優しく包まれているような……。
私は恐る恐る目を開けてみます。
目を開けると、視界いっぱいに広がるのは、白。
近すぎて、眼前にある物が何なのかがよくわからないです。
ならば、わざわざ視覚情報に頼るのを止め、目を閉じて鼻を鳴らして匂いを嗅ぎます。
何でしょうか? すごく落ち着く匂いです。いつまででも嗅いでいたいような……。この匂いに包まれながら寝たら、安眠間違いなしでしょう。
つい、それに抱き着きながら、匂いを嗅ぎ続けてしまいます。
私は匂いを嗅いで喜ぶ変態さんではありませんが、この匂いを嗅げるのなら、変態さんと呼ばれてもいいとさえ思えます。
「……さっさと退けよ」
気のせいでしょうか? 頭の上から流先輩の声が聞こえたような気がしたのですが……。
き、気のせいですよね。
私の上から声が聞こえると言うことは、私が今抱き着いて匂いを嗅いでいるのが流先輩だと言うことになります。
ですから、私の上から流先輩の声が聞こえてくると言うことはありえないのです。
あり得ないったら、あり得ないのです。
な、なーんだ。私ってばドリーマーですねぇ。
「……退けよ」
強制的に強い力で抱き着いていたものから引きはがされます。
引きはがされた私の目は突然の明るさにホワイトアウトします。
視界がやっと明るさに慣れてきたかと思うと、私の予想通りの光景が網膜に映ります。
端的に言うと、眉間にグランドキャニオンクラスの深い深い渓谷を築いている流先輩がきつい視線で私を見下ろしています
そんな流先輩を見て、何となく愛おしいなと思いました。
「……どうした?」
流先輩は怪訝な目をこちらに向けてきています。
その視線でやっと私は自分が流先輩に今の今まで抱き着いていたということを思いだしました。
…………ボッ!
顔に血流が集まって、顔が一気に真っ赤になったことを自覚します。
流先輩の下から慌てて飛び退きます。
「ふぇっ! な、ななななななな……」
「……な?」
「何でぇ!?」
「……何でも何も、貴様が倒れこんでくるからだろうが」
流先輩は特に何事もなかったかのような口調で言います。
そして、面倒臭そうにため息をついた後、また目を閉じます。
い、今のは何だったのでしょうか? と、とりあえず冷静に状況を整理してみることにしましょうか。
私は考え事をしていたせいで、流先輩と距離が離れてしまいました。
その距離を詰めるために、小走りをしていたら、流先輩たちの下に辿り着く直前で足をもつれさせてしまって転びそうになりました。
それで衝撃に備えて目をつむりました。
ですが、いつまで待っても衝撃は来ませんでした。
衝撃が来なかったのは、流先輩が私のことをとっさに抱きとめてくれたからで、私はそのことにも気づかずに流先輩の匂いを堪能してしまいました。
その後、匂いを嗅いでいた私のことがう鬱陶しくなったのであろう流先輩に引きはがされます。←今ココ。
冷静に状況を分析しても、軽く死にたくしかなりませんでした。
……終わった。これで流先輩には嫌われてしまったでしょう。
「……ハァ。俺は先行く」
そう言った流先輩は私の方など一瞥もせずに先に行ってしまいます。
これは完全に嫌われてしまったことでしょう。
……死ぬしかないんでしょうか。死ぬのなら、この熱い思いだけでも流先輩に浴びてもらってから死にましょうか。
私は万が一のために鞄の中の取りやすい位置に入っているカッターを取り出します。
「あはは。あれは流も照れてんのかねぇ。……って鵜菜ちゃん、カッターなんて取り出してどうするつもりなの?」
「それは……流先輩が照れてるってどういうことですか?」
流先輩が照れている?
私にはそんな風には見えませんでしたが……。ですが、私よりも正義先輩のほうが流先輩と付き合いが長いので、流先輩のことは正義先輩のほうが知っているのでしょう。少々悔しくはありますが。こればっかりはどうしようもないです。
なら、死ぬのは流先輩が何に照れているのかを聞いたからでも遅くないでしょう。
「ん? いや、あれは照れてたよ。完全無欠に。じゃなきゃ、流が先に行くなんて言うわけがないもん」
「……そうなのですか?」
「そうなのです。……それに、鵜菜ちゃんは目をつぶっていたからわからなかったかもしれないけど、あんなに早く動く流を僕は久しぶりに見たよ? 君を抱きとめた後の流の、なぜ俺はこんなことをしているんだ……? みたいな顔を見せてあげたかったよ」
流先輩はそんなことをしていたのですか……。
と言うか、今の正義先輩の話を聞いて、私も一つのことを思いだします。
私が足をもつれさせた位置から流先輩の立っていた場所は少し距離があったように思います。
冷静に考えてみると、あの場所から流先輩が私のことを抱きとめると言うのは距離的に不可能なはずです。
私が瞬間転移の超能力でも持っていれば別ですが、そんな力を持っていたと言う記憶はありません。あの一瞬に覚醒したと言うこともまずないでしょう。
となれば、私が抱きとめられたのは流先輩が動いてくれたからに他なりません。
何故こんな簡単なことに気付けなかったのでしょうか?
「それにしても、あの流が……ねぇ」
正義先輩が意味深な笑顔を浮かべながら頷いています。
その笑顔の意味は私にはわかりませんでしたが、何となく好意的なものであろうと思いました。
「うん。鵜菜ちゃん良かったねぇ」
「? 何がですか?」
「だって、あの流が君のことを助けたってことは、それだけ……」
ヒュガッ。
何の先触れもなく飛来した物体が正義先輩の顔の横数ミリを掠って飛んでいきます。
その飛来物は壁にぶつかると音を立てながら粉々になりました。たぶんですが、飛んできたのは石だったのでしょう。
そんなものを投げたのは誰か? 犯人など一人しかいるはずもありません。
「…………」
少し前のほうにいる流先輩は手に持った石を宙に投げてはキャッチし、宙に投げてはキャッチしを繰り返しています。
その表情はさっきとは違う意味で厳しく、その顔に浮かんでいる表情から流先輩の心の声を察するに、それ以上口に出したら次こそは当てる。……と言ったところでしょうか?
それを正義先輩も理解できたのか、正義先輩の笑顔に一筋の汗が伝います。
結構流先輩と私たちの距離は離れています。
だと言うのに、どうやって聞き取ったのでしょうか? それほど大きな声で会話していたような気もしないのですか……。
流先輩の身体スペックはよくわかりません。
異常に五感が良いかと思えば、その逆にびっくりするぐらいに低く感じるときもあります。
不思議な人です。
流先輩は面白くなさそうにしたあとに、石をその辺に投げ捨ててまた前を向いて歩いていってしまいました。
「……し、死ぬかと思ったよ」
そう言いながら正義先輩は深く息を吐き出します。
それほどに怖かったのでしょう。その笑顔はいつもよりも強張っている気がします。
「口は禍の下ってことだねぇ」
「……それで、さっきは何を言おうとしていたのですか?」
「今のを見た後にそれを聞ける鵜菜ちゃんは随分と大物みたいだね」
ははは、と乾いた笑いを漏らす正義先輩はそれ以上話してくれるつもりはないようです。
聞きたかったのですが、それで正義先輩が流先輩に殺されてしまっては困ります。
いや、少し語弊がありましたね。正義先輩が殺されるのは別段どうでもいいのですが、流先輩に殺人犯になってもらっては困ります。
そうなったら弁護するつもりではありますが、そうならないのが一番でしょう。
「それにしても、何があったのかな?」
「? 何とは、何のことですか?」
このタイミングで正義先輩が私に聞いてくる話の内容に心当たりはありません。
……よく考えてみても、特に思い当るものがありません。
「そんなキョトンとした顔しないでよ。それに、鵜菜ちゃんの方には心当たりがあると思うんだけどなぁ」
……何かあったのでしょうか?
「ははは。その顔は本当に分かっていない顔だね? 僕が言いたいのは、鵜菜ちゃんの流に対する態度のことだよ」
「私の流先輩に対する態度……ですか?」
「そうそう。何かさ。鵜菜ちゃんの流に対する態度が昨日の朝までと明らかに違うなーって思ってね?」
ていうか。
「表面的には特に変わったところもないように見えるけどね? 普通の人だったら気づかないってレベルだよ。でも、僕は職業柄って言うか……少し鼻につくんだよね」
「何がですか?」
「緊張の匂いってやつが。昨日までの鵜菜ちゃんは流のことを少し警戒していたんじゃないのかな? だから、少しだけ流と接するときに緊張していた。でも、さっきまででは全くそう言う緊張している感じがなかった。だから、何かあったのかなーって」
そう語っている正義先輩はずっと笑顔のままでした。私もそんな正義先輩と同じように分かりやすく表情を変えたりはしません。
ですが、内心では震えていました。
正義先輩が風紀委員長だと言うことは知っていますし、他の人と何か違うんだろうなとは思っていました。
でも、こんな簡単に私の心情の変化を看破されるとは思っていませんでした。
口の中にたまってしまった粘性の高いつばを飲み込みます。
そのつばは少しのどに絡まりましたが、ちゃんと落ちていきました。
今考えるべきことは、一つです。
それは流先輩と私が『大罪』であると言うことが正義先輩にばれていないかと言うこと。
仮に、正義先輩にばれていたとしても正義先輩はそのことをおおっぴらに口外するような人ではないでしょう。そんなことは私でもわかっています。
……それでも、恐怖を感じてしまうのです。
あの一件以来、私が本当に全幅の信頼を置けると考えられたのは流先輩だけです。
正義先輩を信頼できていないと言うことではありませんが、同時に警戒してしまっているのも事実です。
と言うか、緊張の匂いがわかると言うのなら、私のこの緊張が正義先輩に更に情報を与えてしまっているのではないでしょうか?
そう考え付いたのに、心は落ち着いてくれません。
そんなことを考えた後、すぐに心を落ち着けられる人は本当に大物なのでしょう。
「あはは。そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。無理に聞き出そうとか、そんな野暮なまねはしないからさ」
「…………」
「ホントだって。……それに、僕に流の逆鱗を撫でる勇気はないしね」
そう言うと、正義先輩はまた薄く笑いました。
その笑顔は信用できませんが、流先輩の逆鱗を撫でる勇気はないと言う言葉は信用できると思いました。
正義先輩が流先輩のことを尊重していると言うことは私もよく理解できているからです。
「まだ信用できてない? なら、一つだけ色々なことを回すためのヒントをあげよう」
「ヒント?」
「そ、ヒント」
正義先輩が笑顔を変えます。
その笑顔は、出来は悪いけど愛しい教え子に教える教師のようです。
「流の睡眠だけは邪魔しないほうが良いよ」
「? 邪魔はしてないつもりですが?」
「そう? 頭の端にでも留め置いてよ。流の睡眠は邪魔しないってさ」
「はぁ……わかりました」
よくわかりませんが、とりあえず正義先輩の言ったように頭の端に留めておきます。
よくわからないことでも流先輩の事ならどんなことでも知っていたいと思う。その程度には私は流先輩に惚れこんでいるようです。
それに、さっきも言いましたが正義先輩は私よりも流先輩と付き合いが長い分、私よりも流先輩についていろいろと知っているのでしょう。
正義先輩の知っている流先輩についてのことを教えてもらえれば、私はもっと流先輩に好いて……いえ、興味を持ってもらえるのでしょうか?
そんな、期待にも似た考えが私の脳裏に浮かびます。
とりあえず、千里の道も一歩からと言うことで、少しずつでも流先輩に近づいていくこととしましょう。
「…………」
「? 何で私のことをそんなにジッと見ているんですか? 何かおかしいことでもありましたか?」
「いや……別に何もおかしいところはないと思うよ? ただ、うらやましいなと思ってね」
「何がですか?」
私が正義先輩のことをうらやましく思うことはあっても、正義先輩が私のことを羨むようなことはないかと思います。
そんな正義先輩が私のことをうらやましい?
どんな冗談なのでしょうか?
「鵜菜ちゃんと流の関係がだよ」
「私と流先輩の関係?」
その言葉に私は驚いてしまいます。
そのことで正義先輩が私を羨むようなことはあるでしょうか?
寧ろ、私の方が流先輩と正義先輩たちの関係のほうに嫉妬しています。
正義先輩や読子先輩は、私と違って流先輩と気安く付き合っているような感じがします。もっと言うと、距離が近いように思えます。
正義先輩が言っていたように、私の方はもう流先輩と付き合っていて緊張するようなことはなくなりました。
でも、私の方が流先輩からの距離を感じることがあります。
そのことが、少しだけ引っかかっています。
「私の方が正義先輩と流先輩の関係をうらやましいと思っていますよ?」
「そうなの? でも、君が想像しているものよりもすごく僕は君のことを羨んでいるよ。この薄っぺらい笑顔の仮面の下ではね」
「そうなのですか?」
これに関しては、正義先輩にも負けることはないと思っています。少なくとも、一瞬前まではそう思っていましたし、確信していました。
ですが、正義先輩の目を見たらとてもそんなことを思っている気にはなれません。
正義先輩の目の中に浮かんでいるのは、狂おしいほどの……狂ってしまうほどの羨望。いっそ憧憬と呼んでもいいようなものでした。
正義先輩がここまでわかりやすく今考えていることを表に出すのはとても珍しいことだと思いました。いえ、表情には出ていないわけなので、表と言ってもいいのかはわかりませんが。
「鵜菜ちゃんはまだ流と出会ってから一週間やそこらだ。たったそれだけの時間で流の隣にいられるようになった。鵜菜ちゃんが努力したんだろうなってのはわかるよ? でもね、鵜菜ちゃんが何となく座しているそこは……僕たちにとっては相当に高く、一度上った後にも落ちるかどうか気が気じゃないほどに不安定な場所だったんだよ」
「…………?」
正義先輩の言っていることは私には半分も理解できません。
ですが、その正義先輩の口調から、今正義先輩が話した内容がまだ割り切れていないことだと言うことはわかりました。
「わからないって顔だね。それならそれのほうが良いのさ」
頭の上に疑問符を浮かべている私に正義先輩は、それはそれは楽しそうに微笑みます。
その笑顔は、今まで正義先輩が見せてくれた笑顔の中で、一番純粋で、疲弊しきったような笑みに見えました。
「そんな特別な鵜菜ちゃんに僕からお願いがあるんだ」
正義先輩は笑顔のままに、急に声のトーンを落として真面目な雰囲気を醸し出します。
正義先輩が何気なく言い放った“特別”と言う単語が少し引っかかりましたが、私もそんな正義先輩の雰囲気に合わせるように気を引き締めます。
「……お願いと言うのは?」
「そう警戒しなくても大丈夫だよ。ちょっとしたことを手伝って欲しいだけだから」
「ちょっとしたことと言うのは?」
私は率直な疑問を正義先輩に投げかけます。
手伝ってくれと言われれば、正義先輩に手伝うことはとんでもないことでもない限りは吝かではありません。
ですが、どんなことを手伝えばいいのかもわからなければ手伝いようがありません。
そう考えたうえでの問いでした。
その問いに対する答えを待ってから、私は手伝うかどうかを決めようかと考えていたのですが、正義先輩は答えてくれずに、はぐらかすような笑みをこちらに向けてくるだけです。
説明してくれる気がないのか。それとも、今は説明するタイミングではないのか。
それは私には判断が付きません。
ですが、それでは私が答えを出せないであろうことも、正義先輩は当然のことのように理解しているでしょう。
ならば、私は正義先輩が何かを伝えようとするまで黙するだけです。
沈黙は金。雄弁は銀。
こんな時にはしゃべらないことが最適解です。
ジッと見つめあったままどれぐらい経過したでしょうか? その時間は十秒の様にも一分のようにも感じます。
流先輩がゆっくり歩いているのかはわかりませんが、流先輩の背中が見えるのでそれほど長い時間黙っていたわけではないのでしょう。
根負けしたように正義先輩が息を吐き、口を開きます。
「一つだけ。流に関することだよ」
「なら、お受けします」
「…………」
正義先輩がキョトンとした目でこちらを見てきています。それでも笑顔は崩さないのだからすごいと思います。
そんなに驚くようなことを私は言ったでしょうか?
正義先輩に私が恩を感じていることは事実です。だから、正義先輩からの頼みごとならできるだけ応じようとは思っていました。
では、恩がなければ断ったのか?
それもないです。恩を抜きにしても正義先輩は好意をもてる人柄をしていますから。
信用できるかどうかは別として。
それを別としても、流先輩の事であれば一も二もなく協力します。
この論理は私の中では矛盾しないのですが、正義先輩の中では違うのでしょうか?
そんなことを考えていると、正義先輩は脱力したような表情になりました。
「了承してくれてうれしいよ。これは先代にも、読子にも……そして、僕にもどうにもできなかった問題だからね」
「先代……?」
「先代の風紀委員長だよ。先代って言っても二年前の、だけれどね。僕は二年連続で委員長やってるからさ」
二年連続で委員長職に就けるとか……どれだけ正義先輩は優秀なんですか。
うちの学園において委員長と言うのは、本当に一つまみの人間しかなれない役職です。
委員長職にあると言うだけでいろいろな特権を受けることが可能ですし、教員よりも人が少ないので、教職よりも立場は上の場合があるほどです。
その分、義務もそれなりにありますが、それをしても尚、恩恵のほうが多いのが委員長職です。
委員長職に就くだけで、将来が約束されるとも言われているほどです。
「そんな自慢にもならないことはどうでもいいよ。とにかく、さ。鵜菜ちゃんには僕たちにはできなかったことをしてもらいたいんだ」
「正義先輩たちにできなかったこと……」
そんなことが私にはできるのでしょうか?
とてもできるとは思えませんが、やってみるぐらいは悪くないのかもしれません。何よりも流先輩に関係することですし。
ふと、そこで何か正義先輩の言葉に違和感を覚えました。
何と言うか……これ以上説明する気はないと突き放すようなと言うか。私に渡す情報を制限していると言うか。
正義先輩は私に考えさせようとしているような気がします。漠然とですが。
「……具体的に言ってください。私は流先輩と何をすればいいのですか? 流先輩に何をすればいのですか?」
「今までどおりに流のそばにいてくれればいいよ。それ以上のことは、自分で考えて行動してくれるのが一番だと思う」
「意味が分かりません。そんなことではまともに協力できるとも思えません」
「いや。鵜菜ちゃんは何も言っていない段階から十二分に協力してくれていたさ」
……本当に意味が分かりません。
正義先輩から頂いた情報は、流先輩に関することを手伝って欲しい。今までどおりに流先輩のそばにいればいい。今の段階で私はもう正義先輩に協力していた。
この三つだけです。
たった三つの情報からでは、正義先輩の意図すら読めません。
「端的に言います。もっと情報をくれませんか?」
「別にいいけど、ダメだよ」
「……意味が分かりません。協力を仰ごうとするのならば、相手と情報を共有するのは当然のことだと思いますが?」
「確かに、僕もそう思うよ。共有したほうが良いのなら、するに越したことはないよね」
「なら、何故に教えてくれないのですか?」
私は少しイライラしてしまっているようです。自分で放った言葉に少しだけ棘が含まれてしまったことを自覚します。心なしか、口調も荒くなっているような。
ですが、そんな私の心情の変化など気にした様子もなく、正義先輩は言葉を紡ぎます。
絶対に気付いているはずなのに。
「さっき言ったでしょ? “共有したほうが良いのなら”ってさ。ま、それ以外にも理由は二つほどあるんだけどね?」
そう言った正義先輩はわかりやすいようにか、指を二本立てます。
「一つ目は、僕たちの全員がそう言う約定を持ったと言うこと。この約定を持ったことに関しては必要だったから全く後悔はしていないけれど……ま、不便ではあるよね」
そして、
「二つ目は、聞かない方が良いことも世の中には多くあるってことさ。大前提として、僕たちは君に情報を伝えることが出来ないわけだけれど……僕たちは情報を伝えられたとしても、君に情報を伝えることはないだろうね」
「……何でですか?」
「先入観ってものは人の目を曇らせるからさ」
正義先輩が何を言いたいのか、私にはさっぱり理解できていません。
協力して事に当たるのなら、情報の共有は絶対に必要なことです。
だと言うのに、正義先輩は情報を共有しないほうが良いともいます。
これはどういうことなのでしょうか?
そう考えた時、正義先輩の口調などから正義先輩の思考が少しだけ漏れたような気がします。
私の考えが正しければ、と言う前置きが付きますが、正義先輩の考えがわかりました。
その考えはこうです。正義先輩と読子先輩、それに話に出てきた先代と言う方。この三人はもう流先輩に関することから手を引いているのではないでしょうか?
だから、情報を共有しなくてもいいと考えている。
……いえ、これは違いますね。
三人でその流先輩に関することに当たった結果、失敗した。
その失敗から学んだことを私に伝えようとしている。そんなところでしょうか?
チラリと視線を正義先輩に向けると、正義先輩は私が何も言っていないと言うのに、私の考えを肯定するかのようにうなずきます。
「僕たちはもう、この件には関わらない。……いや、関わりたくとも関われない。それに、これに関しては、一欠けらでも先入観を持っていると、必ずどこかで瓦解する。だから、何も知らない状態で事に当たるのが最適解なんだよ」
私の考えを正義先輩は肯定してくれます。その言葉には、本当に微量ではありますが、悔しさのようなものがにじんでいました。
そう言うと、正義先輩は過去を振り返るかのように遠い目をします。
「……それを、僕たちは三度の失敗で学んだ。……三度も失敗しないと気付けなかったことを恥じ入るばかりだよ」
そう言った正義先輩は心の内を隠すように笑みを浮かべます。
それも、いつも以上に完璧に。
…………。
「ん? どうしたの、鵜菜ちゃん。急に眼なんてこすったりして」
「……な、何でもないです」
今の正義先輩の笑顔は誰が見ても、見間違えようがないような完璧な笑顔です。
ですが、気のせいでしょうか?
私の目には正義先輩の笑顔が泣き顔にしか見えませんでした。
「それじゃ、急いで流に追いつこうか? もうそろそろ見えなくなっちゃいそうだし。それに、流は一人にしておくと何するかわからないって言う恐怖があるからね……」
「……それもそうですね」
私と正義先輩は急いで流先輩に追いつきます。
流先輩に追いついたころには、正義先輩の表情もすっかり元通りになっていました。
やはり、さっきのは見間違いだったのでしょうか?
そんなこんなとくだらない会話をしているうちに、いつも通りのチャイムの音が高らかに鳴り響く。
「ヤッバイ! これで遅刻しちゃうと、もう一週間連続遅刻なんだけど!」
「……何故にそんなにも遅刻するのか」
「いやね。君たちといるのが楽しくてね。抜けるタイミングを計り損ねちゃうんだよね」
「……そんなことを言っている間にさっさと行った方がよくないか?」
「そうだった! んじゃ! また放課後に」
そう言い残すと、正義は土煙を撒き散らしながら通っている校舎の方に走って行ってしまった。
瞬く間に見えなくなる正義の背中。
本当にあいつの基本性能が謎である。
スペックが高いかと思えば、そうでもないし。そうでもないかと思えば、無駄に気持ちの悪い挙動をするときもある。
意味が分からん。
ま、何はともあれチャイムが鳴ったと言うことは、今日も日常と言うものを始めなければいけないと言うことか。
そのためには……
「……とりあえず、行くか」
「そうですね。そうしましょうか」
俺が歩き出すと、俺の一歩後ろを鵜菜が歩く。
こいつは、正義も含めた複数人で歩くときは、俺の隣を平然と歩くのに、二人っきりになると急に頬を染めつつ一歩後ろを歩きだすのだ。
俺と二人でいるところを誰かに見られると何か不都合でもあるのか?
ま、俺にとっては特に興味がわくことでもないのでどうでもいいが。
そんなことを考えていても、俺の頭の中では同居人が騒がしくしている。
睡眠時間をまともにとれていないと、俺の同居人も深夜テンションになるのか、張り切って騒ぎ出すのだ。
……ハァ。
今日は何もする気が起きない。
さっさと風紀委員会庁舎にでも言って寝るか。
「アレ? 奇遇ッスね。こんなところで会うなんて」
「…………くたばれ」
「出会って速攻でこれは無くないッスか!?」
いつの間にやら、俺の隣を歩いていた小百合が楽しそうな声音で俺に話しかけてきたので、条件反射的に頭を掴んでしまう。
うむ。条件反射なら致し方ないな。
熱いものに触ってしまった時には、何も考えずに手を引いてしまうだろう?
何か嫌な予感がすると、身を強張らせてしまうだろう?
それと同じだ。
認識外にいた人間から急に声を掛けられたらその人間の頭をロックしてしまうのは人間の本能に根ざした行為であるから、俺は全く持って一欠けらも悪くはない。
その話しかけてきた人間が小百合ならば、頭を掴む手に力が入っても仕方なきこと。
それ故に、この手を放す必要もない。
「いたいたいたいたいたいたいたいたいたい! 謎の論理を自分の中だけで完結させてないでこの手を放して欲しいッスよ! 壊れちゃうッスぅぅぅぅぅぅ!」
何だこいつは。人の心でも読んでいるのか?
今のは俺の思考を読んだのか? 実に気持ち悪い。
さっさと死なないかな。
「わざとッスか? 聞こえるように口に出していった挙句に、それを理由にウチの頭を掴む手に力をこめるって作戦なんスかぁ!?」
ほう。俺は口に出していたのか。知らなかったよ。
どちらにしても、小百合は気持ちが悪いからこの手に込める力を緩めるつもりはないが。
「ホンットに、勘弁してくださいッス……」
声がもう死にそうになってるな。
…………フン。つまらんがこのぐらいで勘弁してやろう。
俺の知っている限りは、こいつ以上に腕のいい情報屋なんていうのは広報委員長ぐらいのものだ。
だが、広報委員長は滅多なことでもなければ俺たちの依頼なんて受けようとしない。
あいつが情報を集めるのは趣味らしいからな。
俺が手を放してやると、小百合は尻餅をつき、自分の頭の形を確かめている。
んむ? こんなシーンはついこの間も見た気がするが……気のせいか。
「本当に、流先輩は加減知らないッスねぇ」
「……お前を信頼してんだよ」
「うわー……その信頼はいらないッスよ」
俺の言葉に小百合は苦笑している。
それにしても……
「……お前はいつ授業を受けているのだ? お前が普通に日常を送っていると言う話を聞いたことがないのだが」
前にも言ったかと思うが、こいつは通っている校舎がどこなのか知られていないほどにこいつに関する情報は少ないのだ。
俺の予想では、こいつは授業すら受けていないのではないだろうか?
それでどうやって進級しているのか疑問である。
「あはは。流先輩にだけは言われたくないッスよ」
そう言いつつ小百合はケラケラと笑っている。
まぁ、道理だな。
俺だってここ一週間ぐらいは授業に参加していないし、こんな生活をするようになる随分と前から授業に出席こそするが、授業を受けているとは言い難いような生活をしてきたからな。
「……で?」
「? でって何ッスか?」
「……何か用があんだろ? 言えよ」
小百合は驚いたような視線を俺に向けてくる。
「ばれてたんスか?」
「……当然だろ」
こいつが俺に積極的に絡んでくるのは、俺に何か取材したいことがある時か、俺に何か用がある時ぐらいだ。
こいつも俺と同じで、無駄なことをしたくないと言うタイプだしな。
それに、まずもってこんな時間にこいつが接触してくることが稀だしな。
「……流先輩は察しがよすぎて困るッスよ」
そう言ってまた苦笑をする。
こいつは俺と接している時は我と苦笑している時が多い気がする。
小百合は一度深呼吸をする。
その深呼吸が終わって、改めて俺の方に視線を向けてきたときには、さっきまでの鵜酒多様な雰囲気が薄れていて、まじめな話をしようと言う小百合の気持ちが伝わってくる。
そんなに真面目にしたいと言うのなら、それなりに付き合ってやるのも吝かではない。
……ま、肩が凝らない程度には、だが。
「今、流先輩に接触した理由は一つッス。端的に、美味しい情報を手に入れたんで、先輩買わないッスか?」
「……良いぞ」
別に断る理由もない。
強いて問題があるとするのならば、今こいつをうならせられるような面白い情報を持っていたかどうかというところだな。
その問題を除けば断る理由などありはしない。
それに、頭痛が痛いと言うのに、そんなくだらないことを考えていられるか。
俺がそんなことを考えながら、間髪入れずに返答すると、小百合は急に驚いたような表情になった。
「……? 何を驚く」
「いえ……警戒とか疑いとかしないのかなぁって思ったんスよ」
「……警戒? 疑い? お前は俺をだます予定でもあるのか?」
「いや、別にそう言うのはないんスけど……」
「……ならば、何も問題はあるまい」
俺の言に小百合は納得がいっていないようである。
何が納得いかないのかは俺には全く理解できないのだがな。
小百合が美味しいと言って俺に交渉を持ちかけてくると言うことは、それは本当に俺にとって美味しい情報なのだろう。
こいつがここでそんな嘘をつくメリットが、まずもって見当たらない。
ならば、別段信じても問題はないだろう。
「はぁ……。その性質だといつか絶対後悔することになりますよ」
「……未来で後悔しないために今を生きるってのは性に合わんのでな」
未来で後悔しないために、今動く。確かにそれは偉大な選択だろう。
より良き先のために、今を変える。
今苦労した分だけ、未来では楽しく愉快に生きられる。
その思考だって、選択だってありなのだろうとは思う。
だが……如何せん、俺には性に合わん。
俺は先のことを考えて今を生きられるほどに頭がいいわけでも、脳のキャパシティに余裕があるわけでもない。
だから、俺は今を……手の届く範囲だけを見て生きる。
それが俺の生き方だ。
「いつか後悔するッスよ?」
「……そんなことはいつかの俺が考えればいいことだ。今の俺のあずかり知ることではない」
「……流先輩らしいと言えば、らしいッスよね」
「……俺が俺らしくなくて、誰が俺らしくあると言うのだ?」
俺の言葉を聞いて、小百合は大きな声で笑いだす。
そんなに面白いようなことを言ったつもりはなかったのだがな。
「クスクスクス……」
小さな笑い声が聞こえたかと思って、背後に目をやってみると、鵜菜が口元に手を当てておかしそうに笑っていた。
……この二人は、何がそんなにおかしいと言うのだろうか?
俺には皆目見当がつかんし、理解もできん。
「……ふぅ。久方ぶりに随分と笑わせてもらいましたッス。とりあえず、この笑いで今から渡す情報と等価値ってことで良いッスよ」
やっとのことで息を整えた小百合は、目尻の涙を指の腹で拭いながら、そんなことを言ってくる。
俺としては、その提案を蹴る理由もないので、ありがたく受け取っておくこととしよう。
「ウチが手に入れてきた情報ってのはシンプルッス。一言でいうのなら、生徒会が少し流先輩たちのことを嗅ぎまわってるってことッスね」
「……ほぅ」
生徒会。
それは、この学園の自治を一手に担っている組織である。
普通の学校などにも自治会や生徒会があるのだろうが、この学園の生徒会と言うのは、普通の学校などで組織されている生徒会とは一線を画している。
先ず以て、その権力の規模が普通の学校のものとは違う。
普通の学校では、せいぜいが予算を決めたり、生徒から上がってきた陳情を処理したりと、その程度だろう。
だが、この学園では違う。
この学園においての生徒会と言うのは、一種の特権階級なのである。
委員長と言うのも特権階級だが、生徒会は大原則として、その委員会の上に立つものとされているので、生徒会役員は委員長よりも形式上は立場が上と言うことになる。
……と、特に意味があるのかないのかわからないような説明をしたわけだが、ぶっちゃけこれ以上の説明は面倒なのでしたくない。
唯でさえ、俺は生徒会役員共が嫌いなのだ。
そいつらのことを考えるだけで気分がよくなろうはずもない。
だが……生徒会が俺のことを嗅ぎまわっていると言うのはどういうことだ。
俺は、痛々しい二つ名付きで呼ばれているとはいえ、所詮一生徒に過ぎない。
風紀委員長である正義と、図書委員長である読子と交流があるが、その程度のことで生徒会が俺のことを嗅ぎまわる理由にはならんだろう。
……ん? 今、こいつは「たち」と言ったか?
「……たちってのはどういうことだ?」
「単純ッスよ。嗅ぎまわられているのは、流先輩だけでなく、そっちの女の子……鵜菜ちゃんだったッスか? の、こともッスから」
「わ、私ですか?」
俺のことで笑った以外では黙っていた鵜菜が、急に話をふられてあたふたとしている。
そんなことはどうでもいいのだ。
今問題なのは、生徒会が情報を集めているのが、俺だけでなく、鵜菜もだったと言うこと。
正直、俺一人……もしくは正義ととかだったら、特に警戒もせんのだがな。
……良くも悪くも、俺と正義の関係は有名だからな。
不愉快なことではあるが、生徒を管理する立場にあるはずの生徒会が俺たちのことを注意していないのだったら、寧ろそっちの方が警戒心を疑うところだ。
だが、鵜菜もとなると、少しばっかり面倒だ。
何故なら、俺と鵜菜が出会ってから、まだ半月もたっていない。
端から見れば、そこまで深い接点と言うようにも見えないだろう(もう学内ネットではまことしやかにふざけた噂が出回っているらしいが)。
そんな俺と鵜菜の二人を調べなければいけないようなことなんて、俺にはひとつしか思い当たらない。
もし、それが生徒会にばれているのだったとするのならば……考えるのも面倒くさい。
「……もっと情報はないのか?」
「もっと……とは?」
「……そのネタだ。お前のことだ。もっと深いところまで調べは済んでいるのだろう?」
「そうッスけどね~。うちの情報収集能力舐めないほうが良いッスよ?」
「……なら、これについての情報をもっと寄越せ」
そう言うと、垂らしていた釣り糸が勢いよくひかれたかのように、小百合がいやらしい笑みを浮かべた。
そして、親指と人差し指で丸を作りつつ言う。
「ま、ここから先は別途料金が発生するッスよ?」
「……そう言うことかよ」
いやらしい商売の仕方で。
さっき俺に渡してきたネタは、笑わせてもらったお礼に無料と言っていたが、実際のところは端からタダで渡すつもりだったのだろう。
そのネタで俺が釣れると言うことが予想できていたから、貴重な情報を無償提供できたってわけか。
そこで食いついてきた俺に、ふっかけて対価を要求する、と。
実にいやらしいが、よくできた作戦だな。
そこまで思考が及ぶと、改めて頭の痛みを自覚する。
小百合と話しだしてから頭痛が更にひどくなってきたようだった。
鵜菜とあってからと言うもの、無意味に思考を張り巡らせていることが多いせいか、頭痛がひどくなることが多くなっているような気がする。
……こいつは疫病神か何かかっての。
「……で? どんな情報がお好みだ? お前のお気に召すような情報を持っていた記憶はないが?」
「いつも通りで良いッスよ。それ以外の情報ならどうとでもなるッスからね」
「……お前も物好きなことで」
小百合の言ったいつも通りの情報と言うのは、正義の情報のことだ。
正義はどんなものが好きか。どんな趣味があるのか。どんな服を好んで着るのか。
そんな正義の個人情報が小百合は欲しいらしい。
正義の個人情報なんてものは、何処にでも転がっているだろうに……。
こいつの趣味がまるでわからん。別段わかろうとも思っていないから、特に問題でもないのだがな。
「……正義は比較的、優しい味付けが好みだ。薄い……と、言い換えてもいいかもしれんがな」
「それは、食べ物の好みが……って、事ッスか?」
「……それ以外に何があるのだ?」
「いや、唐突に言い出すもんッスから。普通はそれでわからないッスよ……」
そう言いつつも、俺の言ったことを小百合はメモ帳に書き込んでいる。
勤勉なことで。
「それじゃ……対価も貰ったことッスから、こっちも情報を伝えようかと思うッスよ」
「……ああ……鵜菜、よく覚えておけよ」
「ふぇっ!? わ、私ですか?」
「……お前以外に誰がいると言うのだ?」
急に声をかけたせいか、鵜菜が飛び上がる。
俺の脳の領域は大部分が頭痛のせいで使う前から潰されている。
そのせいで、記憶できる情報の寮だって普通の人間と比べるべくもないほどに少ない。
はっきりと言ってしまえば、俺は鳥頭なのだ。
簡易記憶しかできないから、覚えておこうとしたことですら、すぐに忘れてしまう。ついでに言うと、簡易記憶の方の性能もとてもではないが良いとは言えない。
そのことを、俺は誰よりも理解できているから、自分で記憶しておこうなどと端から思わない。
何かに記録していればいいのだろうが、そんな面倒なことをするつもりは毛頭ない。
そんな時の鵜菜だ。
鵜菜はきっと俺よりもずっと記憶力が良いだろうからな。……寧ろ、俺よりも記憶力が低かったら、心配になるところだ。
「……もういいッスか?」
「……あぁ。早く話せ。愚図愚図するな」
「えー……ウチのほうが待っててあげてたほうッスよね?」
「うるせぇ。早くしろ」
「理不尽を噛みしめるっすよ……」
小百合が俯きながら、何か言っているが、頭痛と言う名のノイズが四六時中響いているせいで全く聞こえない。
まぁ……仮に聞こえていたとしても、聞く気はないがな。
すぐに気を取り直した小百合は、顔を上げる。
「それじゃ、言うッスよ? ……先輩たちの情報を集めているのは、生徒会ッスけど、生徒会ではないんスよ」
「……謎かけは俺の好むところではないぞ」
「知ってるっス。だから、端的に言うとッスね。生徒会全体として先輩たちの情報を集めているのではなくて、生徒会の一部が先輩たちのことを嗅ぎまわってるって感じッスね」
「……その俺たちを嗅ぎまわってる奴の役職は?」
「んー、そっからは別料金でもいいんスけど……ま、良いッスよ。書記ッスね」
「……書記か」
確か、俺の残念な記憶が正しければ、生徒会の書記は少しばかり有名人だった気がする。
いや……生徒会全体は有名と言えば有名なのだが、そう言う有名とはまた別のベクトルで有名だった気がする。
……等と言うことを考えてはいるが、ぶっちゃけ何故に有名だったのかは、覚えていないと言う。
俺の脳みその残念さ加減は留まるところを知らないな。本当に嫌になってくる。
ま、こういう時はいくら思い出そうとしても出ないときは出ないし、出るときはあっさりと出てくるものだ。
だから……どっしりと構えておく以上のことは俺にはできんか。
「それにしても馬鹿ッスよね~。ウチならもっと迅速に丁寧な情報を伝えられっるッスのに……。少なくとも、ウチなら集めていると言うことを周囲に知られたりしないっすよ」
そう言いながら小百合は薄く笑っている。
今のこいつの発言は慢心でもなんでもなく、純然たる事実だろう。
小百合ならば、いくらでも情報を集められるだろうし、時間もかかっていないはずだ。
だが……
「……根本的に貴様は交渉のテーブルに着きすらしないだろう?」
「ま、そうなんスけどね?」
「……それで、どうやって依頼しろと?」
「そこは、熱意と努力に期待するッスね」
こいつの情報収集能力はこの学園でも随一だろう。このことだけは間違いのない純然たる事実だ。
だが、情報収集能力が高いと言うことは、イコールで自分に関する情報を周囲に秘得する能力も高いと言うことに他ならない。
そんな小百合は基本的に人前に姿を現さないし、依頼も受けない……らしい。
俺の前には二日にいっぺんは来るから、そんな感じはしないがな。
こいつを超える情報収集能力を持っているのなんて、この学園の中でも広報委員長ぐらいのものだろう。……あいつの情報収集能力は軽く犯罪の域になっているから、あいつクラスの情報収集能力を持つ人間が多くいても困るがな。
「……お前を捉えられる人間など四五ぐらいのものだろう」
四五と言うのは、広報委員長のことだ。
広報委員長、月宮 四五(つきみや しご)。
それが情報屋も含めた、この学園に所属している生徒が知っている広報委員長の情報のすべてだ。
これ以上の情報を持っているのは、この学園の生徒の中では片手の指もいないだろう。
「それもそうなんスけどね? ハァ……。早く広報委員長に会ってみたいもんッスよ」
「……無理だろうな。俺でもたまにしか会えん」
「いやいや……たまに会えるだけで上等ッスよ。ウチを含めたこの学園の人間なんて言うのは、委員長の存在を都市伝説かなんかだと思ってるッスからね。……いや、この場合だと、学園伝説ッスかね?」
「……一気に陳腐になったもんだな」
広報委員も含めたこの学園の情報に関する何かをしている人間にとっては、広報委員長に会うことが一つのステータスになるらしい。
まぁ、それもそうなのだろう。
あいつは捉えたくとも捉えられない。だが、捉えることが出来そうな気になる。
……そんな蜃気楼のようなやつだからな。
「……委員長の話はこれぐらいにして、今のウチの手元にある情報はこんなもんッスかね。それじゃ、毎度ッス~。うちはこれで行くッスよ」
そう言うと、小百合はびしっと敬礼をして、立ち去ろうとする。
だが、物のついでにもう一つぐらい聞いておこうと思う。
「……もう一つ聞かせろ」
「もう……何ッスか? 特ダネがウチを呼んでるんスけど」
「……これで最後だ」
俺がそう言うと、小百合は苦笑しつつ殊更に分かりやすく肩を竦めてみせる
その表情は、しょうがないッスねぇと言っているように見える。……実に気に入らん。
気に入らんことは気に入らんが……良いと言うのなら遠慮も何もなく聞きたいことを聞かせてもらうこととしよう。
「……本当に、もう情報はないのか?」
「…………何のことッスか? これで全部ッスよ?」
「……ならいい。引き留めて悪かったな」
「別に良いッスよ。先輩はうちにとってもお得意様ッスからねぇ。ちょっとぐらいはサービスしたって罰は当たらないッス。……それよりも」
一度、体を緩く抱いて体を震わせる。
「流先輩が、あ・の・な・が・れ・せ・ん・ぱ・い・が・うちに素直に謝罪したことの方が気味悪いッス」
「……おい」
「あはは。こればっかしは本音なんで勘弁していただきたいッスよ。それじゃ、またご入用のときはご贔屓にしてほしいッス」
その言葉を最後に、小百合は手をぶんぶんと振りながら、走って行ってしまった。
実に忙しない女だ。
……にしても、鎌をかけておいて正解だったな。
小百合はさっき話した情報で全部だって言っていたが、あの様子ならまだいくつか情報を抱えていたことだろう。
だが、それはまだ裏付けがなされていないから、こちらにはまわせなかった。
その辺はあいつの情報屋としてのプライドなのだろうな。
「……ハァ」
思わず口からため息が漏れてしまう。
最近思ってしまうのは、面倒事と言うのはドミノのように連続して起こるものだなと言うことだ。
一度、何かの事件に巻き込まれる。
その事件をさっさと解決して、平和な日常を過ごそうかと思っているうちに、また次の事件が起こる。
以下略と言った感じだな。
これを何と言うんだったかな? ドミノエフェクトって言うのだったかな?
これ以上面倒事を俺の下に引き寄せないためには、今抱えている面倒事を解決しないで放置するのが一番楽な道なのではないだろうか?
…………うん。
考えるのを止めるのが一番楽か。
「……とりあえず、移動するか」
「そうですね。こんな開けた場所でするような話でもないでしょうし」
そう言えば、この話は鵜菜にも関係のある物だったな。なら、鵜菜とも話し合わなきゃならんのか。
……面倒だな。実に面倒だ。
まぁ、鵜菜と話すのはそれほど苦痛でもないし、我慢することにするか。
鵜菜と出会ってから、割と我慢を強いられているような気がする。俺は我慢なんてするようなキャラクターでもないような気がするのだがな。
……この状況について一言二言物申したい。
きっと、物申したところで何も変わりはしないのだろうが。
俺は、深く深く息を吐く。
その息と共に、面倒なことも全部なくなってくれないかとも思ったのだが、そんなことにはもちろんのようにならなかった。
……面倒臭い。
第二章
あの後、特に何を会話するでもなく二人でいつも通りの登校ルート(向かう場所が『校』ではないので、『登校』と言うのもおかしいかもしれないが)を数分歩いていると、風紀委員会の委員会庁舎についた。
いつ何時見ても全く変わり映えのしない建物を見ると、少しだけ安心する。
他の委員会庁舎の方はどうか知らないが、風紀委員会の委員会庁舎だけは何があってもここにこの姿のままいるであろうと思えるからの安心かもしれない。
いつものようにカードキーで入口のロックを外して、何事もなく委員会庁舎の中に入る。
ちなみに、このカードキーは正義に言って俺用のものをつくらせた。
風紀委員長でないどころか、風紀委員会に所属していない俺がつくれと言った時には、流石に正義も渋い顔をした。
だが、数瞬考えた後ため息をつき、新しいのを俺に手渡してきた。
俺に言われる前から、カードキーのスペアを作っていたらしい。
そんな正義曰く、
「だって、流の考えることはすごくわかりやすいからね。付き合いが長いせいか、君が何を要求するのか大体わかるよ」
らしい。
その時に浮かべていた苦笑の意味は何だったのか、未だにわからん。
どうせ下らん理由だろうから詮索する気にもならなかったが。
そんなことを考えているうちに、普段から使っている部屋の扉の前についていた。
特に何も考えずに中に入る。
この部屋を俺がいつも使っていると言うことは、正義が風紀委員には伝えているだろうし、俺が普段から使っている部屋に近づきたがるような奇特な風紀委員もいないだろう。
……こんなことが平然と出てくる、自己評価にげんなりするが、しょうがない。たぶん、大体間違ってはいない。
カバンを机の上に抛り捨てて、いつも使っている椅子に座る。と言っても、この部屋に椅子は三脚しかないわけだが。
俺の後を影のようについてきていた鵜菜も、椅子に座る。
いつもはここでカバンの中から、勉強のためのテキストを取り出すのだが、今日に限っては取り出していない。
珍しいこともあるものだな。
勤勉で学習の徒であるところの鵜菜が自分から勉強道具を取り出さないとは。
……別に俺に関係のあることでもないので、どうでもいいと言えばどうでもいいのだが。
さて、俺はいつも通りに音楽でも聞きつつ、寝ますか。普段は寝ないのだが、今日ばかりは寝たい。睡眠不足はストレスの……何よりも頭痛の基だしな。
「あ、あの……流先輩。さ、さっきの話をしませんか……?」
カバンからヘッドホンを取り出したところで鵜菜に話をふられる。
? 何か俺は鵜菜と話すことでもあっただろうか? 記憶の表層部分を軽く洗ってみるが、何も出てこない。
何か忘れているような気がしないでもないが、考え事は頭痛の種だ。
思い出せないことは思い出さないに限る。それが頭痛持ちの俺の処世術だ。
「……お休み」
「……あ、あの!」
鵜菜が珍しく大きな声を上げる。
基本的に鵜菜は静かなタイプなので、声を荒げるのは珍しい。
と言っても、そんなことを言えるほど鵜菜との付き合いは長いわけではないが。
まぁ……そんな鵜菜が声を荒げると言うことはそれなりに大事なことなのだろうなと言う意識は出てきた。
そう考えることが出来たとは言っても、一向に思い出せはしないのだが。
「……それで?」
「え?」
「……え? じゃないだろ。離したいことがあんのならさっさと話せ。時間を無駄にする気はない」
「……お、覚えていないのですか?」
「……何をだ?」
俺が率直な感想を返答を返すと、鵜菜は驚いたように目を丸くします。
そんなに驚かれるようなことを俺は言ったのだろうか?
自覚症状は全くないわけだが。驚かれていると言うことは、驚かれるようなことを言ったことになるのだろうな。……いや、本当に自覚症状はないわけだが。
「あ、あの、小百合先輩が持ってきてくれた情報の事ですよ……?」
「……小百合が持ってきた情報……?」
何だっただろうか?
“小百合が持ってきた”と言う情報のお蔭で、のど元まで出かかってきてはいる。
だが、あと一押しが足りない。もう一つでも情報が増えれば思い出せそうな気がしないでもないのだがな。
そんなことを考えている俺に、鵜菜はビクビクとした目を向けてくる。心なしか、その視線には呆れが含まれているような気がする。
「ほ、本当に覚えていないんですか? つい、さっきの事なのに?」
「……出てきそうではあるのだがな。こういう時は出ないと相場が決まっている」
思い出せそうではあるが、俺はもう諦めている。
スッパリと思い出せないことは、総じてそこからどれだけ足掻いても思い出せん。そのことを俺は経験則から理解している。
……諦めが早いとも言うがな。
「……試しにその小百合が持ってきたと言う情報を言ってみろ」
「はい?」
「……だから、その情報を言えと言った。言われれば思い出すかもしれん」
「はぁ……」
鵜菜は理解できていないようで、曖昧な返事を漏らす。
まぁ、無理に理解しろなんて言わんし、理解してほしいなんて露にも思っていない。
俺の思考を理解できる人間なんていないのだ。それさえ理解してしまえば、特に苦痛を覚えることもない。
……やはり、俺は諦めが早いようだな。
…………。
「流先輩……?」
急に押し黙った俺を不審に思ったのか、鵜菜が俺の顔を覗き込んでくる。
そんな姿は小動物のようで、少し愛らしい。
「……なんでもない。少し考え事をしていただけだ。さっさと言うが良い」
「そ、そうなんですか?」
「……そうなのだ。だから、さっさと言え」
「は、はぁ……」
若干鵜菜は納得できていないようだが、口を開く。
「さ、小百合先輩が持ってきてくれたのは、生徒会の人が私たちについて嗅ぎまわっているとかなんとか」
「…………」
生徒会生徒会……っと。そんな話もあったような、無かったような。
……うん。俺の脳は本当にクソすぎるな。同居人のせいもあるのだろうが、それを除いてもスペックが低すぎるような気がする。
だが、やっと思い出すことはできた。
それの追加情報として、生徒会全体で集めているわけではなく、生徒会の書記が俺たちのことを嗅ぎまわっているとかなんとかだったか?
そんな話だった気がする。
言われれば思い出せると言うことは、俺の脳は最低限の記憶力ぐらいは残っているようだな。
良かった。
「お、思い出していただけましたか?」
「……ま、大体はな」
「良かった……」
俺が肯定するとすぐに鵜菜はホッとしたように息を吐く。
俺がおぼえていたので、俺にもう一度教えなくていいことに安堵しているようだ。
同じ話を何度もするのは苦だろうから、その反応も当然と言えば当然か。
「……それで……生徒会の書記が俺たちについて嗅ぎまわっているんだったか?」
確認の意も込めて問うてみると、鵜菜はコクリとうなずいた。
「はい。確かそうだったかと思います。……流先輩は、私たち二人が生徒会に嗅ぎまわられるようなことに物覚えはありますか?」
望み薄ではあるが、記憶をあさってみる。
…………。
「……俺一人だと言うのなら、嫌と言うほど心当たりがあるような気もするが……その心当たりすらもうすぼんやりとした記憶だからな。あまり覚えていない」
「……だ、どんなことをしてきたのですか?」
「……直近では、気に入らない中等部のガキを殴ったり、中等部のクソ教師に焼きいれたり、中等部のガキを自分たちの寮に拉致ってきたりしたな」
こう言い連ねてみると、俺がどれだけ破天荒なことをしているのかがよくわかるな。
やったことに後悔はないが、もっとうまくできなかったのかと思わなくもない。いや、今さらな考えではあると思うのだが。
ん?
鵜菜のほうにふと視線をやってみると、鵜菜が俯いていると言うことに気付く。
……そんな不味い発言を俺はしたのだろうか?
そんなことを疑問に思っていると、鵜菜が顔を上げる。その顔は軽く朱に染まっている。
「それに関しては、流先輩には感謝の言葉もありません。ですが、言わせてください。……本当にありがとうございました」
そう言うと、鵜菜は深々と頭を下げる。
「…………?」
何故に鵜菜は感謝の言葉などと言ううすら寒いものを俺に向けて使っているのだろうか?
唐突に俯いたりかと思ったら、感謝の言葉など言ったりして……何がしたいんだ? 疲れてるのか? それとも、大穴で憑かれてるとかか?
……ハッ。
自分で考えておいて、非科学的も甚だしいな。
実に、下らん思考だ。
「……そんなことはどうでもいい」
「……先輩にとってはどうでもいいことなのかもしれませんが、私が救われたことは確かなのですよ? そのことを、少しでもいいので流先輩には知っていてほしいです」
鵜菜が何か言ったと言うことは認識できた。
だが、その鵜菜が紡いだであろう言葉は、俺の脳に入って言語として認識する前に、頭痛の中に溶けて行ってしまう。
「……なんか言ったか?」
「いえ。何にも言ってないです」
「……ならいい。書記について知っていることを教えてくれ」
聞き取れなかったことをいつまでも言っていてもしょうがないだろう。
そんな事よりも、今は書記についての情報を聞くことの方が重要事項だ。
生徒会の書記が有名だと言うことぐらいは思考の端にあったが、どういった意味で有名なのかは全く記憶にない。
俺の記憶は虫食いのように所々に穴が散見するから余計に鬱陶しい。
「しょ、書記の人のことを知らないんですか?」
「……興味がないことを覚えていられるほど頭がよくないのでな。説明してくれ」
「わ、わかりました」
その言葉の後に、鵜菜は生徒会書記についての知っている情報をつらつらと語り始める。
生徒会書記、合野 秋穂(ごうの あきほ)。
生徒会と言うことも、書記が有名なことの一助となっているのだが、根本的に書記はその性格からして有名らしい。
男性的な思考をしていて、女性のファンが少なからず存在している。そして、その女性たちがファンクラブを結成して、書記に近寄る人間を牽制しているらしい。
暴走しがちなファンを鬱陶しく思っているのかもしれないが、それを表には出さずにちゃんとした対応をしているのがファンを増やす原因の一つになっているとか。
思考の中心に『死神』を置いてしまいがちな生徒会なのに、中立であることを標榜しているのも特徴の一つ。それを弦生徒会長から特にとがめられていないと言うことは、それなりに世渡りもうまいと言うことの証左だろう。
「こ、こんなところですかね?」
鵜菜は一通り持っている情報を吐きだした後、一息をつく。
一気にしゃべったので喉が渇いたのだろうが、その手元には飲み物がないのでのどを潤せないでいる。
俺はてきとうにカバンから取り出した水筒を鵜菜に放ってやる。
それを鵜菜は何回かお手玉した後にキャッチする。
「……中身は何のことはない麦茶だ」
「あ、ありがとうございます」
水筒のふたを開けて、飲み口を見た鵜菜は顔を赤くしてフリーズしている。
何だ? 何か気になることでもあるのか? 毒なんて入ってないぞ。水筒に中身をいれたのが俺と言うわけでもないしな。
あれは何故かたまに正義から渡されるものだ。俺は自販機で飲み物を買うことが多いのだが、正義から水筒を渡された時はそちらを飲むようにしている。
わざわざ自販機に買いに行かなくていいのなら、そちらの方が楽だしな。
「……えいっ!」
意を決したような表情の鵜菜は、水筒に口をつけるとコクコクとその小さな喉を鳴らしながら中に入っている麦茶を嚥下していく。
ある程度飲んだ後、口を離した鵜菜は、飲む前よりも顔を真っ赤にしながら俺の方に水筒を差し出してくる。視線は下を向いていて、こちらの顔は見ようともしていない。
「あ。ありがとうございました……」
消え入るような声とは言え、ちゃんと感謝の言葉を伝えてくる。
別に感謝されようと思ってしたわけではないし、感謝の言葉をもらっても全く嬉しくはないわけだが。
「……礼は良い。別にそんなもののために動いたわけではない」
「はい。で、でも、私が伝えたいと思った感謝の言葉を受け取ってはくれますよね……?」
「……重くないものなら受け取らんでもない」
「それで十分です。ありがとうございます」
しっとりともまた感謝の言葉を言う。
こいつは感謝の言葉を伝えるのが好きなようだな。そういう純真な精神は貴重だと思うぜ?
「それで……流先輩は書記の人と因縁か何かがあるのですか?」
「……無いな。生徒会の奴らとはかかわろうとも思わんからな」
「そうですか……。となると、生徒会の人が私たちのことを嗅ぎまわるに足る理由と言うのは私にはひとつしか思い至りません。……流先輩はどうですか?」
「……同意してやる。だが、口には出すな。どこから漏れたのかわからんこの状況でべらべらと何でもかんでも口に出すのは得策とは言い難いからな」
「わ、わかりました」
俺が注意すると、鵜菜が慌てて手で口元を覆った。
俺の方には生徒会に因縁などありはしない。
根本、生徒会の奴らが好きではないのでかかわろうとすら思わない。
そして、鵜菜のほうもたぶん心当たりはないのだろう。
もうそうなってくると、俺と鵜菜の共通点など一つしか存在しない。
……いや、正確を期すのならば今の言い方は正しくないな。
正確を期するのならば、“俺と鵜菜の共通点で、そこに正義や読子が介在しないもの”と言うのは一つしか存在しない。
それは俺と鵜菜が『大罪』だと言うことだ。
俺は『怠惰』の称号が与えられた『大罪』だし、鵜菜はどの称号なのかこそわからないが、昨日本人が『大罪』だと言うことを肯定している。
正直、出会ってそれほど立っていない俺と鵜菜の共通点など、これ以外にはあってないようなものだった。
そして、この情報は絶対に周囲には洩らせない情報でもある。
もし。もしの話だ。
もし仮に、その生徒会の書記が俺と鵜菜の情報を掴んだと言うのなら、その生徒会の書記を殺し……いや、その情報を書記にリークした奴を聞き出してから殺し、そのリークした奴も殺さなくてはいかん。
……どちらにしても、こんな血生臭い話は鵜菜にしない方が得策か。
罪悪感なんてものを持たれても鬱陶しい。
ここはてきとうに流すのが最適解か。
「……俺は眠いから寝る」
「え……もう話は終わりですか?」
何故にそんなに残念そうな顔をする?
それほど楽しい話題でもなかっただろうに。
「……もうこれ以上起きているのも苦痛だ。だから、お前はいつも通りに勉強でもしてろ」
俺がそう言いつつ、カバンからヘッドホンを取り出し装着する。そのヘッドホンから音楽を流しつつ、目を閉じる。とはいっても、薄目は開けているが
すると、鵜菜は残念そうだと言うように肩を落とした後に、いつものようにカバンから取り出したテキストに向き合い始める。
鵜菜はこういう時に無駄に追究したり踏み込んだりせずに、打ち切れるからいいな。
これが正義だったら絶対に面倒くさいことになっていただろう。あいつはいつもニヤニヤと軽薄に笑っているくせして、なあなあで流すのが嫌いだしな。
その点、俺は流すのは大好きなのだが。
……やっと、さっきからずっと鳴りしきっていた頭痛が小さくなり始める。
色々と思考したり、話したりしていたわけだが、辛いことは辛かったからな。
まぁ、頭痛が小さくなった弊害として眠気はどこかへと行ってしまった。
これに関しては仕方がないと割り切って諦めることしよう。疲れが顔を見せているが、その分思考に集中できると考えればいいだろう。結果オーライだ。
にしても……生徒会は何処から情報を拾ってきたのだ?
そこまで、生徒会に関する情報を俺は持っていない(覚えていられないので集めてすらいない)が、生徒会がそれほど情報収集能力にたけていると言うこともないだろう。
生徒会は究極的なところ、権力と力はあるだろうがそれ以外の能力に関しては各委員会に劣っている。生徒会に求められるのは専門的な能力ではなく、総合的な能力だからな。
その足りない部分を補うために、各委員会に通達したりするのが生徒会の基本方針だ。
だから、生徒会自身の能力は決してそこまで高いとは言えない。
まだるっこしく言うのは面倒だな。
端的に言ってしまえば、情報収集や情報統制に関していえば生徒会よりも、風紀委員会や広報委員会に伝手がある俺の方が得意なのだ。
だというのに、今回は情報が洩れた。
昨日は、あんな話になるであろうことが早い段階から予想できていた。戦闘するであろうことも含めて、だ。
だから、あの話をする前に、前もって正義にあの周辺の人払いは済ませている。
必要なことだったから、正義に依頼した。その正義本人にも俺が、それを頼んだ時点では確定していなかった鵜菜が『大罪』だと言うことは言っていない。
正義の事だから、薄々感づいてはいるのだろうがそのことを表に出すほどあいつは間抜けではないし、そのレベルの機密情報を生徒会に渡すと言ったこともしていないだろう。
正義は、生徒会に近づくこと以前に、生徒会関係者に近づかれることすら厭うからな。
そんな理由もあって、正義が生徒会にリークする可能性は万に一つもない。
だとしたら、誰がそのことを調べたのか?
広報委員会か? ……無いだろうな。俺がそう言うことを嫌うと言うことは広報委員が……何よりも広報委員長である四五が一番知っているだろう。俺の機嫌を損ねる危険を冒してまで、正義が人払いしている部屋に近づくようなことはしないはずだ。
なら、フリーの情報屋か? そっちの方がないだろう。あいつらは広報委員会よりも腕も手際も悪い。そんなカスどもの気配に気づけないほどに耄碌した気はない。
だとすると、消去法で行くに風紀委員会の誰かか。
風紀委員長である正義が生徒会を嫌っていると言うのは割と有名な話だ。
だから、生徒会を嫌っている人間が風紀委員には多い。
それを除いても、生徒会の匂いが少しでもついている人間を正義は風紀委員に採用しようとはしない。だから、生徒会は風紀委員の内情をそれほど知らないし、風紀委員にスパイを入れるのは生徒会でなくとも難しい。
だが、難しいと言うことは、決して不可能と言うこととイコールではない。
ならば、どうやって風紀委員に生徒会がスパイを入れるのか?
単純な話だ。
元は真っ当な風紀委員として生徒会を嫌っていた委員を(生徒会を嫌うことが真っ当な風紀委員の理由かどうかはさておき)抱き込めばいい。
その手の洗脳やらなんやらは比較的生徒会の得意とするところだろう。
そうでもしなければ、あの異常な量の生徒会の妄信者どもは作れん。あいつらは自分の死をいとわずに突っかかってくるから面倒臭いし、反吐が出る。
そんなこんなで情報を生徒会にリークしたのは風紀委員……もっと言ってしまえば正義の身内と言うことになるな。
こういう場合は、正義とどう接せばいいのかね?
お前の人払いがちゃんとしてなかったと当たり散らすか?
あいつのことを信用しなければいいのか?
どちらも俺らしくないな。全く以て。それに、正義を責めたところで何も変わりはしない。あいつを責めても、リークされたと言う事実は消えないしな。
こういう時の俺のする行動としての最適解は、いつも通りに適当にふるまうことか。
と言うか、いい加減にやばい。
ロックを聞いているおかげで、眠気は来ないのだがいい加減に意識が明滅してきた。
これはいい加減に意識が落ちる直前ってことか。
まぁ、そういう時は逆らわないで流れに従って眠りにつくのが良い。実に俺らしいと言うものだ。
「……すぅ」
そんな思考を最後に、俺の意識は沈んだ。
夕食を取って、俺はすぐに一人で自室に引っ込んだ。
俺は特に何かすることがなければ、いつもそうしている。
それに、今日に限ってはそれがなくとも考えねばいけないことがあったので、一人になりたかったのだ。
そんなこともあってか、今部屋には俺一人しかいない。鵜菜には食堂でテレビでも見ていろと言ってある。あいつもこの話に関係のある人間だから、いさせてもよかったのだが、あいつには無駄なく気苦労は背負わせたくない。
現実にはいくらでも辛いことがある。
ならば、この寮にいる時ぐらい鵜菜にはリラックスさせてやりたい。
……これも優しさと言うものなのかね?
「……あー、頭いてぇ」
椅子に座って机に向かいながら、ずきずきと痛む頭を押さえる。
そう。この痛みがあることからもわかるが、今の俺はヘッドホンをしていない。
理由は特にはない。強いて言うとするのなら何となくだ。
この頭痛はいつも俺の日常と共にあるわけだが、何となく……そう、何となく。何となくではあるのだが、この頭痛が懐かしく思えてきたのだ。
その懐かしさの原因を俺は知っている。懐かしさがこみあげてくる代わりに、胸に鈍い痛みが広がる。
ついそこを押さえてしまうが、そこには傷も何もない。傷跡すらもない。
あるのは少々の寂寥感と不愉快さ……そして、不甲斐なさだけだ。
その痛みと共に頭の中を記憶がフラッシュバックする。冷や汗が生まれ、頬を伝っていく。
「……クソが。まだ俺を縛るってのかよ」
本当にクソだな。
俺も。そして、俺にこのクソみたいな痛みを与えてくれたあいつも。
痛みのせいで体がふらついて、椅子から転げ落ちてしまう。
あー……ダッセェ。
そんなとき、廊下を誰かが歩いてくる音がする。
その音は俺の前で止まるが、それ以降特に何のアクションを示そうともしない。
この感じ……鵜菜か?
正義だったら一瞬の躊躇も最低限必要なノックすらもせずにこの部屋に侵入してくる。
読子は俺の部屋に近づかどうかと言うよりは、まずもって二階に上がってこない。
あのクソ教師は今頃酒に飲まれて寝ていることだろう。
俺は、ちょうどよく目の前にフローリングがあったので、そこに向かって思いっきり頭をぶつける。
「な、流先輩!? すごい音がしましたけど……大丈夫ですか!?」
俺がフローリングに頭突きをした音に反応して鵜菜が部屋に飛び込んでくる。別にそっちを意図してやったわけではないのだけれどな。
単純に胸の痛みはどうしようもないとしても、頭痛だけでもなんとかしようとしただけだ。
頭が物理的には痛いが、その分頭痛は多少引いていった。
それに、こちらに関しては何故か全くわからないのだが、鵜菜が部屋に入ってきた辺りで胸の痛みも薄れていき、今では全く感じない。
何故だ? この痛みは一度起こると、一晩は引かないはずなのだがな。
まぁ、引いたのならば良しとしようか。
「……それで? 何か用があったのではないのか?」
のっそりと体を起こしながら、鵜菜に問う。
鵜菜はすぐに思い出したのか、心配そうな表情をしながらも口を開いた。
「は、はい。流先輩と私にお客が来てます」
「……客? こんな時間にか?」
「はい。なので、正義先輩が私に流先輩を呼んでくるように、と」
「……ふむ」
この寮を直接訪ねてくるような知り合いに心当たりはない。
それ以前に、俺に用があって声をかけてくるのなんてこの学園内でも正義と小百合ぐらいのものだ。
今はそこに、鵜菜も加わったわけなのだが、小百合がこの寮に来ることはありえない。
あいつが俺に接触しようとするときは、人気のない状況ばかりだ。
今となっては鵜菜がいるときにも接触してくるが、それは俺が寮にいるとき以外は基本的に鵜菜と一緒にいるからだろう。
それ以外では……特に情報の受け渡しがあるときは姿を見せない。
俺の行動パターンを把握しているかのようなタイミングで現れることも多々あるので、マスゴミや情報屋の類は敵に回したくないものだ。
……思考がとんだな。
そんなこんなで、この寮に俺の関係者が来ることはまずないと言っていい。
ならば、誰が俺を訪ねてきたのか?
「……訪ねてきた奴ってのは?」
「わ、わからないです。私はその訪ねてきた人の顔を見る前に正義先輩に流先輩を呼びに行くように言われたので……」
自分の失敗を恥じ入るように鵜菜は項垂れる。
別に、お前のせいではないのだから謝らなくてもいいのだけれどな。
どれにしたって、誰が来たのかわからないと言うのなら行きたくないものだが……俺を呼び出したのが正義と言うことはそれなりの考えがあっての事だろう。
……と、思いたい。ま、特に何の考えもなかった場合は正義を殴ればそれなりにうっぷんも晴れるのでどうでもいいがな。
「……行くか」
「そ、そうですね……って、きゃっ」
俺は立ち上がって、ちょうどそこにあった鵜菜の頭に手を置いて、鵜菜の頭を強引に撫でまわす。
撫でると言うよりも、振り回すと言った方がしっくりきそうな行為ではあったのだが、俺の気持ち的に撫でると表現しておくこととしよう。
鵜菜の頭から手を放し、俺は廊下を歩く。
階段を下りて、一階に来ても食堂からは話し声ひとつ聞こえてこない。
? 来客があった場合はもう少しにぎやかにと言うか……うるさくなるものではないのか?
やけに静かで空気が沈んでいる一階に若干の違和感を覚えながらも、食堂のドアを開ける。
「……ふむ」
「ひっ!」
一緒に食堂に入ってきた鵜菜が悲鳴を上げる。
正直、鵜菜が軽く悲鳴を漏らしてしまうのもしょうがないのかなと漠然と思った。
食堂内の空気は冷え切っていた。凍り付いていた。
食堂には冷え切った重苦しい空気が漂っている。……いや、漂ってすらいない。重苦しい空気が停滞して、淀んでいる。
そんな感じだ。
その意味の分からない冷たい気配の原因は、見慣れない相手の前のソファーに座っている正義だろう。正義がここまで感情を表に出すなんて珍しいな。
正義の表情はいつも通りの笑顔ではあるのだが、今にも崩れそうだ。その目の中には溢れんばかりの、今にも表情に出てしまいそうなほどの強く暗い激情が宿っている。
「…………あ、流。君にお客さんだよ? 鵜菜ちゃんにも用があるそうだから、これからは三人で話すといいよ。僕はお邪魔みたいだから、戻るね」
俺の存在に気付いた正義が俺の方に向けてそう言ってくる。
これも普段の正義からは考えられないことだ。
あいつは良くも悪くも周囲を常に警戒しているので、食堂のドアの開閉音に気付かないと言うのも珍しい。
「……鵜菜、先に座ってろ」
「は、はい」
鵜菜を先にソファーに行かせる。
その鵜菜とすれ違うように正義がこちらにやってくる。
俺とすれ違う直前までは笑顔を湛えていたのだったが、俺とすれ違う時のほんの一瞬だけ、正義の表情に不愉快さがにじみ出ていた。
そんな偶の正義の人間らしさを見たところで、俺もソファーのほうに移動する。
近づいてみて分かったが、鵜菜の座っているソファーの机を挟んだ向かいに座っている人間は随分と端正な顔立ちをしていた。
後光のありそうな……とでも表現すればいいのだろうか? すごく女性受けのしそうな顔だちで、男子用の制服を着ている。
普通は自分よりも顔立ちが整った人間がいたら、多少は嫉妬と言うものが起こるのだろうが(俺にはよくわからない。一般論で、だ)、この人間はその嫉妬する気すら起こらないほどに完璧な目鼻立ちをしている。
こんな男がいたら世の女どもは決して放っておかないことだろう。
惜しむらくは、この生徒には胸があると言うことだろうか。
男子制服の胸の部分のふくらみはわざわざ毬か何かを入れているのでもなければ、この生徒の性別が女であると言うことを示しているのだろう。
女が何故の理由があって男子の制服を着ているのかについては考えないことにする。
……頭痛がひどくなってきそうだ。
俺が鵜菜の隣に腰を下ろすと、目の前の女は優雅に頭を下げる。
すぐに頭を上げると女子生徒は口を開き、言葉を紡ぐ。
「夜分遅くに済まないね。明日にしてもよかったんだが、こういう話題は早いほうが良いと思ってね」
……やけに芝居がかった口調の野郎だな。
癇に障る。
「……前置きはいい。名乗れ」
「へ?」
「はぇ?」
俺が不機嫌なことを隠す気もなく名乗れと言うと、女は間の抜けた声を漏らす。更には、隣いる鵜菜までもが間抜けな声を漏らした。
……そんなに的外れなことを言ってしまったのだろうか?
俺としては至極真っ当なことを言ったつもりだったんだがな。
こういう場合は、聞く側から名乗るのがベターなのだろうが、相手は俺たちを訪ねてきた。
と言うことは、俺たちのことを知っていると判断しても別に問題はないのだろう。
そう判断してだったが……何か間違っていたのだろうか?
思考を紡いでいると、目の前に座っている女が喉から薄く笑いを漏らす。
口元を隠しているのはマナーのためだろうか? そんな笑いをこらえようとしている姿すらもそれなりに絵になる。
「せ、先輩。この人のことを知らないんですか?」
「……知っているのなら名乗れなどと無駄なことは言わん」
そこまで物のわからない人間でも、性根のねじ曲がった人間でもないつもりだ。
……あくまでつもり、だがな。
「流先輩。この人は……」
「あぁ。言わなくていいよ。こういうのは自分で名乗るべきだろうからね」
鵜菜が口を開いたのに被せて女がそう主張する。
その主張はもっともなものなのだが、笑っている間にできなかったものかと思う。
「それでは改めて……ボクは合野 秋穂。ただのしがないこの学校の生徒だよ。強いて特徴を上げるとしたら、ボクは生徒会に所属していることぐらいかな? 以後お見知りおきを」
「……そうかよ。聞いて何だが、俺は貴様に興味がない」
「聞いといてそれは酷いんじゃないの?」
「……知るか。さっさと要件を言え。そして、早急に失せろ」
俺がシンプルに言いたいことを告げると、またも女――書記はポカンとした表情になる。
そして、その驚いた顔を数瞬後にはゆがめると、今度は隠そうともせずに大きな声で笑いだす。
何故にこいつは笑っているのか。俺には全く理解できない。
だが、その笑い声がやけに神経を逆なでする。
正義の声と同じかそれ以上には不愉快な気分にさせられ、頭痛を誘発する。
隣に座っている鵜菜は体を固くしている。
苛立ちとかが体の外にでも洩れちまったか?
鵜菜のことを慮るのならば、この苛立ちを押さえるのが理想だ。だが、苛立ちを押さえることは土台不可能なことだろう。
こいつが、今すぐ死体にでもなってくれると言うのなら話は別だがな。
そんなのは不可能なのだから、鵜菜には少しの間我慢してもらうしかない。
しょうがないことだ。
「いやー、そこまでストレートに言われちゃうとね。いろいろと腹芸を考えていた私が馬鹿みたいに思えてきちゃってね。さっきの風紀委員長のほうが私のことを警戒していたよ?」
「……御託を並べるな。不愉快だ。さっさと用件を述べるか。この場から今すぐ立ち去るか。……俺に叩き出されるか。選べ」
「叩き出されるのはちょっとごめん願いたいかな? だから、用件をさっさと言わせてもらうことにするよ」
書記は俺の苛立ちに頓着することもなく、御託を並べる。
実に不愉快で仕方がないな。
さっさと話が終わると言うのなら、それに越したことがないのだが、不愉快なことに変わりはないのだ。
感情と言うものは本当に御しがたいものだな。
「それじゃ、端的に。君たちは『大罪』って知っているよね」
知っているも何も、俺は『大罪』に選ばれている。
なんて言わないがな。
こいつは曲がりなりにも、生徒会の犬だ。生徒会に『大罪』の話をするのは軽くリスキーだ。
ここは、適当にお茶を濁すのが理想解だ。
「……この学園にいるんだ。話ぐらいはな」
「そう。そうだよね。この学園にいる人間は多かれ少なかれ、知っていることだよね。そのことを踏まえたうえで、今から渡す紙を見て、ボクの質問に答えてくれる?」
そう言うと、書記は懐を探り一枚の紙を取り出す。
その紙を見た瞬間に、鵜菜は凍りついた。
『君たちは『大罪』何だよね? 『大罪』には、どの程度『大罪』の情報が与えられているのかな?』
シンプルに読みやすい字でそれだけが書かれていた。
「……ってことなんだけど、どうかな。教えてくれない?」
そう言う書記の態度も詰問するようないついものではなく、道であった友人と世間話をするような軽い態度を崩そうともしない。
その態度にそこはかとなく、苛立つ。
だが、その苛立ちの裏に違和感を覚えているのも確かだ。
とてもではないが、書記の出してきた話題はそんなに簡単に話していいようなものでもない気がする。
『大罪』を毛嫌いしている生徒会の印象にその態度は当てはまらない。
この学校の情報統制や意識統制の結果から行くと、普通の生徒だとしてもそれなりに『大罪』のことを嫌うし、その話をネタでもしようとするときには、その周囲に生徒会がいないか、生徒会の監視の目がないかを確かめるものだ。
だというのに、こいつはてきとうになんでもないことのように話す。
流石に『大罪』かどうかについては周囲を気にしてか、紙を使ったが、まずもってこんな場所でする話でもないだろう。
「…………」
「ん? そんなに見つめないでよ。照れるよ?」
「……言ってろ、クソが」
「ひっどいなぁ」
真意を計るために目を見ていたら、ふざけた戯言をぬかされた。
冗談だと分かっていても、そんなことを言われては不愉快だ。
だが、この書記の真意を表面ぐらいは撫でることが出来た。その分、軽くストレスをためることになったが、対価としては十分か。
正義などもそうだが、人の真意や心の内は割と目に出やすい。
目が泳ぐとか、そう言う直接的なものもあるが、それでなくても人の目を……その奥を眺めていれば自然と意図は読めるだろう。
それで読んだ限り、こいつのこの癇に障るふざけた態度はブラフ、もしくはポーズか。
こいつの目の奥は真剣みを宿していた。
と言うことは、俺の予想でしかないが、こいつは真剣に『大罪』について話をしに来ているのだろう。
こいつも曲がりなりにも生徒会だ。
全てを監視することが出来る立場である生徒会は、逆にすべてを不特定多数の目による公然の監視の目に晒されていると言ってもいい。
そんな生徒会だからこそ、こんなふざけた態度で本心を隠さんといけんのか。
生徒会様も大変ですこと。
まぁ、別に同情したからと言って、こいつに何か情報をくれてやる気は毛頭無いがな。
「……貴様に話してやることなど俺には何もない。それだけが要件だと言うのなら、さっさと帰れ。それに……部屋の外から殺気を送ってきている馬鹿もいるのでな。そいつが我慢の限界を迎えてこの食堂に入ってくる前にお帰り願おう」
「殺気は伝わってきているし、もうそれほど持たないであることも理解できているよ。言わなくてもね。でも……ここまで来たからには、ボクもはい、そうですかって言って帰るわけにもいかないんでね」
ふざけた態度は話しているうちになりを潜め、途中からはふざけた軽薄な笑みも隠し、まじめな態度で話す。
そう言う締めるべきところではちゃんと締めるところは正義と似ているな。
それを正義に言ったら、きっとあいつは不快さをあらわすだろうが。
まぁ、そんな態度を取られたところで俺の言うことは変わらない。
「……ラストコールだ。さっさと帰れ。帰らんと言うのなら、少し手荒になるが……それでもいいか?」
「っ……!」
それなりに本気だと言うことを声音に表すと、そのことを理解できたのか書記は息を飲む。
と言うか、『大罪』だ何だと言う話については、究極的なところ俺はそこまで興味がないし、どうでもいい。聞かれたところで答える気は毛ほどもないが、どのことについては特に何も思ってはいない。
ならば、何が俺の神経を触るのかって?
簡単だ。
俺は、この書記が……ひいてはこの寮生以外の人間がこの寮の中にいると言うのが実に気に入らないのだ。
俺がさっきの言葉を実行する気があることをもっとわかりやすくするために腰を軽くソファーから浮かせる。
それを見た書記は、真剣な表情のまま息を吐き出す。
「……本当に残念だよ」
そう言いながら、立ち上がる。
やっと失せる気になったようで俺としても一安心といったところだ。
わざわざ手を出さなくていいと言うのなら、それに越したことはない。
「……鵜菜、お客様がお帰りだ。お見送りしてやれ」
「え? は、はい。わかりました」
今の今まで放心状態だった鵜菜は、声をかけてやるとやっと魂が入ったかのように返事をする。
その鵜菜に連れられて食堂から出ていく書記は、出る直前に振り返る。
「それでは。また、いずれ」
「……貴様の面など、見ないに越したことはない」
「これは残念。フラれてしまったようだ」
そんな軽口をたたきながら、書記は食堂を後にする。
書記と鵜菜が完全に食道から出て行ったのを視認してから、改めて深くソファーに腰を落ち着ける。そして、深く息を吐く。
……ふぅ。こんな時間に腹芸などするものではないな。疲れる。
しかし……結局のところ、あいつの真の目的は測れずじまいだったな。
だが、あいつがしに来ていた話題が本当に誰にも聞かれたくないような、ヤバい内容の話だったと言うことぐらいは予想がつく。
この寮は一言でいうと、治外法権に近いものとなっている。
それはなぜかと言うと、この学校でも相当に影響力の強い人間がこの寮には複数人在住しているからだ。
風紀委員長である、正義。図書委員長である、読子。よくわからんが教師どもには一目おかれているらしいクソ教師。……そして、誠に遺憾ながら『頭痛鯨』などと言う意味が分かってしまう痛々しい二つ名を拝命してしまっている俺。
そんな俺たち四人が集まったのがこの『月森寮』だ。
先ず以て、普通は同じ寮に複数人役職持ち……端的に委員長や生徒会の役員がそろうことはほとんどない。
役員や委員長職に就くものと言うのは多かれ少なかれキャラが濃い。
そんなキャラが濃い人間を複数人同じところに叩き込んだら、予想もできないような化学反応が起こって面倒臭いことになるのは目に見えている。
だから、そんな奴らを一所に集めると言うことはしない。
だが、この寮だけはそんな意味の分からないことが平然と起きている。
しかも、この寮の中では目立った諍いも起きてはいない。それどころか、この寮の人間はそれぞれの中がそれなりに良好なのだ。
別に、そのことが悪いとは言わないし言えないだろう。
その姿がこの寮以外の奴らからは気味が悪く見えているのだろうがな。
ま、そんなこともあってこの寮に関しては、軽く治外法権となっているのだ。
極端な例を挙げて行ってしまえば、仮にこの『月森寮』で殺人事件が起きたとしても、一般生徒はもとより、生徒会も、他の委員長共も、教師ですら簡単には介入することはできないのだ。
それ以前に、その情報が外に出回らない可能性だって低くはない。この寮の周辺はいろいろと正義がやっているから並みの広報委員会では入り込めないしな。
そのせいか、小百合の奴は正義の情報を欲しがるのだが……それはまた別の話。
そんな治外法権のこの寮に来て話をしたと言うことから、あの書記がどんな意図を持ったのかは予想することが出来る。
殺される可能性も視野に入れたうえで、誰にも聞かれたくなかった。
……と言ったところだろう。
まぁ、殺される可能性と言うのは冗談でも低い可能性でもない。
その程度には正義は生徒会のことを嫌っているしな。俺が食堂に入るのがあと少し遅れていたら、ここに死体が一体転がっていたと言う可能性も否定しきれるものではない。
更には、生徒会と敵対している風紀委員長の住む寮に入ったと言うことが周囲に知れたらタダではすむまい。
そんな圧倒的なまでのリスクを背負ってまでここに来る必要性があったのか?
そして、そのリスクと天秤にかけたうえで書記がしたかった話と言うのは何なのだ?
少なくとも俺たちが『大罪』だと知っているから、そのことで脅迫をしに来たと言うことはあるまい。
それで俺たちの弱みを握ったと伝えに来ることと、その他もろもろの損得を計算しても圧倒的に損のほうが多い。ならば、この可能性は脇に置く。
この他にありえそうなのは……一つだけあるな。
だが、これは可能性としてあり得ると言うだけで、パーセンテージで言えば低すぎる。
と言うか、あってほしくない。
…………。
ま、思考の端において、これについても少し調べてみるかといったところだな。
幸いにして、腕のいい情報屋もいることだし。
それに、ちょうどさっきメールが来ていたしな。
これだけの思考を高速でまとめたせいで、頭痛がさっきよりも加速している。
ただでさえ朝から調子が悪かったって言うのに、さっきの部屋でのあれと今の思考だけでさらに調子が悪くなってきた。
「流。ちょっと話良い?」
そこに更なる頭痛を運んでくるであろう人間が来たよ。
しかも、俺の思考がまとまったところで入ってくるとか、こいつは俺の思考を読んでんのか?それとも、純粋にタイミングが良いだけか?
……こいつに関しては考えるだけ無駄だな。
正義に関していえば、そう言う奴だと諦めるしかないし、実際に諦めている。
そんな正義の表情には、珍しく笑顔が強張っているし、余裕もないように見える。
こいつがこんな表情するのなんて珍しいなと思った。
正義は基本的にどんなときであろうと笑顔を絶やさない……と言うことをこの寮にいないやつは思っている。鵜菜もそっち側だろう。
だが、実際のところを言うと、俺や読子の前ではこいつは意外に表情豊かだ。
付き合いが長いから、笑顔の裏の表情が読めると言うのもあるが、こいつは俺たちの前では意図的に普通の表情を見せているような節がある。
だが、こんな余裕のない笑顔と言うのは珍しい。
俺の前ではこんな時は笑顔をつくるのを止めると言うのに。
「……話と言うのは何だ」
「うーん……ここでするような内容でもないかな。僕の部屋で話さない?」
別段拒否する理由もないか。
強いて言うなら、調子は悪いし、さっさと寝たいのだがこんな余裕のないこいつを放置するのもどうかと言ったところだ。
「……別にいいぞ」
「そう? よかった。それなら、さっそく行こうか?」
先導するように先を歩く正義の背を追うような形で歩く。
食堂を出ると、書記を送ってきたであろう鵜菜とちょうど出くわした。
「? 流先輩たちは二人でどこへ行くのですか?」
チラリと正義のほうに視線を送ると、正義は神妙な笑顔(愉快な表現だ)で首を横に振っている。
……どうやら、今から正義が話そうとしている内容は鵜菜には聞かせたくないような内容のもの。それかもしくは、他人をその会話に同席させたくないのだろう。
正義らしいと言えば正義らしいな。
「……正義が俺と何事かを話したいらしくてな」
「なら、私も一緒に話に参加させてください!」
「…………」
……こいつにしては、珍しく反抗的だな。
まぁ、珍しいと言えるほどに関係が深いわけでもこいつのことを知っているわけでもないのだがな。
兎に角、こいつに俺と正義の話に参加する権利はない。
こいつが何を言おうと、どう喚こうとその事実は覆らない。
「っ……! わ、私も参加させてください! お願いです」
俺の目をじっとのぞきこんできた鵜菜は一瞬言葉を詰まらせる。
俺の目に何がうつっていたのだろうか?
この場には鏡がないのでそれを知ることはできないが、息を詰まらせるような何かがうつっていたのは確かなのだろう。
どうしたものか。
こいつを強制的に排除してもいいのだが、そうすると後が面倒臭そうだ。
それに、できうる限り、そう言うことをこいつにはしたくない。
そんなことを考えていると、いつも通りの面白味の欠片もない笑みを顔に張り付けた正義が俺と鵜菜の間に割って入る。
「ごめんね、鵜菜ちゃん。僕が流に無理言って話そうって言ったんだよ。だから、少しの間で良いから君の流を僕たちに貸してくれないかな?」
「…………」
「……おい。こいつの俺ってどういうことだ」
「言葉の綾だよ。どうかな、鵜菜ちゃん。そんなに時間はかからないからさ」
「…………」
正義に問いかけられている鵜菜は考え込むように俯いたままでうんともすんとも言わない。
いや、急にうんだのすんだのと言われても困るのだが。
そんな突飛なことを行うぐらいなら、このままずっと黙っていてくれた方が幾分気は楽だ。
等と愚にもつかないことを頭痛で軋みを上げる頭で考えていると、唐突に鵜菜がアクションを起こす。
何を思ったのか、急に鵜菜が俺に抱き着いてきたのだ。それも結構な勢いで。
別段、勢いがあると言っても鵜菜程度の体重なら倒れる心配はないが、唐突のことなので少しよろけてしまう。
俺の胸だか腹だかわからないようなところに顔を埋めていたが、少しすると顔を上げる。
「……後で、可能な限りで良いので、正義先輩とお話したことを教えてください」
そう小さくか細く鵜菜は俺に言ってくる。
俺の顔を見つめる鵜菜の瞳は揺れている。その瞳の奥にある感情は……恐怖、か?
よくわからないが、鵜菜は俺と正義がこれから何かを話すと言うことで恐怖を感じているらしい。
何に恐怖しているのかは、頭痛に悩まされている俺の脳ではいまいち理解してやることはできないが、その恐怖が本心からくるものだと言うことは理解できた。
「……まぁ、覚えてられたらな」
そう言ってやると、鵜菜は一応は安心したような表情になり、俺から離れる。
そして、こちらの方を気にしながら階段を上がっていった。
部屋の扉が閉じる音をしっかりと確認したうえで、少し時間を空けて俺たちも階段を上がる。
正義の部屋は俺の部屋と同じく、二階にある。
まぁ、一階はあのクソ読子が意味がわからんぐらいの量の本を平積みしているので、住みたくても住めないのだがな。
本当にあいつはいつになったら本を片付けるのだろうな。
いつか片付けるとは言っているが……そのいつかはきっと永遠に来ないいつかなのだろう。
……と、話が逸れたな。
俺たちは二階に上がってすぐの部屋の扉を開けて中に入る。
一階は一番奥の部屋が読子の部屋で、それ以外が書庫のようになってしまっているのだが、二階は、上がってすぐの部屋が正義の部屋。
正義の部屋から数えて三つ行ったところにあるのが俺の部屋だ。階段から数えると俺の部屋は四番目と言うことになるな。
当然のごとく、空き部屋は全て書庫と化している。
十部屋もある寮の部屋の内、住めるのが三部屋だけというのは実に解せない。
……ん? あのクソ教師はどの部屋に住んでいるのか? 知らん。興味もわかん。
正義の部屋に入るのはいつぶりの事だろうか?
すぐに思い出せないと言うことは、それほど久しぶりの事なのだろう。
木で作られた机と椅子。その机に上がっているのは、正義が普段から使っているであろうノートPC。ベッドの上の布団は丁寧に畳まれている。本棚には読子ほどではないが、一般的な学生らしい量の本が入っている。後は座卓とそのわきにクッションが二つ。
こんなところだろうか?
だが、昔に入ったこの部屋がどんな内装だったのかと言うことは思い出せる。
その記憶と照らし合わせてみても、そこまで変わったような気がしない。
色々なものが大きくなっていたり、本棚にある教科書が高等部用のものになっていたり、本が少し増えたぐらいに思える。
正義の性格をあらわしているかのように小奇麗に片付いているが、部屋を片付けることが出来るのなら、魔窟がいくつも広がっていると揶揄されるほどに汚いあの風紀委員会庁舎も何とかしてほしいものだ。
ん?
スンスンと鼻を鳴らして部屋の匂いを嗅いでみる。
この部屋に主に漂っているのは正義の匂い。
それも当然。ここは正義の部屋。正義の匂いが染みついていないと言うことはないだろう。
だが……なんだろうか。
その正義の匂いに嗅ぎ慣れない匂いが混じっているような気がする。
人工的な香料のものとは違う。かと言って天然の香料とも違うだろう。
何と言うか……言葉では言い表しにくい類の匂いだ。
独特と言うか、何と言うか。
よくわからない匂いだ。
「? 流、どうしたの?」
「……いや、何でもない」
別にいうほどの事でもないだろうし、口をつぐんでおく。
この匂いについて聞き出そうとしても、まともな答えが返ってくるとも思えない。
そんな事なら、聞いても聞かなくても同じだ。
「そう? なら、そこに座ってよ」
正義は座卓の横のクッションに腰を落ち着け、座卓を挟んで反対側にあるクッションに座るように促してくる。
これに反発するようなことでもないので、それに腰を下ろす。
俺が腰を下ろして、少し間をおいてから息を吐き出す。
その息を吐き終えた時には、正義は真剣な表情を作り終えていた。
さっき息を吐いたのは、気分を変えるために必要な行為だったのだろう。
「それで……僕が流に聞きたいことはさっきのことも含めていろいろとあるんだけれどね? とりあえず、全部一気に言っちゃおうか。そっちの方が後々楽になるだろうし」
それじゃ。
「生徒会の書記とはどこで知り合ったのかな? さっき僕がいなくなった後、どんな話を書記としていたのかな? 何があの書記との接点なのかな? ……昨日、僕に人払いを頼んだことと何か関わりのあることなのかな?」
正義は一気に質問したいこととやらを言ってきた。
その口調は詰問するようなキツイ言い方ではなく、普段の口調と何ら変わりはない。
だが、正義の雰囲気から察するに、俺や鵜菜が何か自分に隠し事をしていると言うことには気が付いているようだ。
それどころか、俺と鵜菜が『大罪』だと言うことまで半ば以上気づいているのかもしれない。
俺は正義のことをこの学園にいる人間の中ではトップクラスに知っているし、理解もしているつもりだ。
正義が俺の味方だと言うこともしっかりと認識している。
普段、影ながらいろいろと助けてくれていることも知っているし、感謝もしている。
だから、俺は正義が俺と鵜菜が『大罪』だからと言って、態度を変えたり何か差別のようなことをするような人間でないと言うことも知っている。
それどころか、俺や鵜菜の話を聞けば、こいつは『死神』を殺すための協力をしてくれるかもしれない。『死神』を殺すと言うことは、直接的に正義の嫌いな生徒会に一泡吹かせることにつながるだろうからな。
だが、俺はこいつのことを信用していると言っても、鵜菜はそうはいかないだろう。
俺は正義と長い間この寮で生活を共にしている。その長い時間で正義のことを理解できた。
けれど、鵜菜は違う。
鵜菜は俺や正義と会ってからまだ二週間もたっていない。
それしか付き合っていない人間のことを理解するなんて言うのは土台から不可能だろうし、そんな短い期間で理解できたと言っても、それは欺瞞だろう。
そんな鵜菜に俺が勝手に正義に自分たちが『大罪』だということを告げたと言えば、鵜菜はきっと落胆し、恐怖することだろう。
……それに二度と俺のことを信じてはくれなくなるだろう。
鵜菜が俺に対して警戒丸出しの視線を向けてくることを軽く想像しただけで、胸が痛んだ。
さっき部屋に一人でいた時に感じた痛みと酷似したものだ。まぁ、さっきほど痛みは酷くないから日常生活に支障をきたすほどではない。
鵜菜が俺のことを多少なりとも信用することが出来ているのは、俺が鵜菜と全く同じ秘密を抱えているからに過ぎない。
俺と鵜菜は、現在相互監視の状態になっている。わかりやすく言うのなら、両方が相手の首に繋がった紐に手を掛けているような状態だ。
相手が不用意なことをしたら、自分の首が飛ぶ。だが、その首が飛ぶまでの一瞬の間に相手の首を跳ね飛ばすことが出来る。
そんな状態だからこそ、鵜菜は俺のことを信用できているのだ。
しかし、正義にはその紐が首に掛けられていない
端的に言ってしまうと、鵜菜のことを周囲に喧伝したところで、正義は少しの痛切も感じないのだ。
そんな相手を誰が信用できようか。
相手の人柄を知っているのなら、信用できることもできよう。
だが、知りもしない相手のことを信用できるほど人間は綺麗には造られていない。
いや、信用できると言う人間もいるだろう。そんな奴は天性の馬鹿か、世間知らずの大ばか者だ。どちらにしても、この人の世で生きていくことはできないだろう。
それどころか、鵜菜は過去に人柄を知って、信用できると判断した人間に手酷い裏切りを受けている。
そんな鵜菜に正義を信用しろと言うのも酷な話だろう。
……さて、どうしたものだろうか。
今の俺の前に提示されている選択肢はそれほど多くもない。
正義に偽りを話し、鵜菜の信用を買う。
正義に真実を話し、鵜菜の信用を失う。
究極的なところ、俺の前に提示されている選択肢はこの二つに絞ることが可能だろう。
どちらを選択したとしても、どちらかからの信用を失ってしまうことだろう。
このまま黙秘を続けるのも案としてはナシではないが、そんな生易しい回答を許してくれるほど、今の正義は優しくないだろう。
俗に言うところの進退窮まるって奴か。
……………………。
いくら考えても、これに答えは出んな。
この状況における最適解が何かという答えは、いくら考えても答えが出てくれない。
俺の心情はいつだってシンプルだ。シンプルに考えて行動しようと思っていた。
だが、俺の現状は何だ。
シンプルとは程遠いではないか。
どちらか片方を取ると決断してしまえば、今後の思考も容易くなる。何よりも、今のこの面倒な状況を打破することが出来る。
選ぶことが出来れば、これ以上何も考えなくていいのだ。
……だと言うのに。俺はどちらも選びたくないなどとガキのようなことを考えている。その思考に押されてまともな思考ができなくなっている。
これだから、嫌なのだ。
人間なんて言うのは、どんな状況においてもその手に掴めるものと言うのはたかが知れている。どれだけ頑張っても、努力しても、その手の大きさ以上のものはつかめないし、その手の長さ以上のところには手が届かない。
そのことを知らないと、気づかないふりをしている人間も多くいるのだろうが、俺はとうの昔に理解できている。
なのに。理解できていない。理解したくないと言うように、俺の思考は空転を続ける。
「……クソが」
「ん? 何か言った? いい加減話してくれる気になったのかな?」
俺が思考を続けている間も黙って俺のことを見ていた正義もいい加減に我慢の限界が近いのだろうか?
珍しく催促のようなことを言ってくる。
催促されても、俺の中で答えは出ていない。
こういう時には、どうするのが最適解なのだろうか?
そんな他力本願的な発想まで出てきてしまった。もういい加減に思考はヤバそうだ。
こんな時には、自分の思うままに、したいようにするのが一番な気がする。
昔、そんなことを誰かに言われた気がする。
いつ言われたのか。誰に言われたのか。どんなタイミングで言われたのか。
どれ一つとして思い出せないが、その発言がこの状況をうまく切り抜けられる唯一無二の最適解のような気がしてならなかった。
「……結論が出た」
「そう? なら教えてくれるとうれしいかな?」
正義がこちらに期待するような視線を向けてくる。
……気のせいだろうか? その期待するような視線に紛れて若干ではあるが、俺のことを値踏みするような視線が紛れている気がするのは。
だが、正義が今何を考えていようと、俺の行動は変わらない。
ただ、今思ったことを。今考えたことを。今すべきだと俺の脳が、心が、血が判断したことを行動に移すだけだ。
「……スマン」
「…………え?」
「……スマン」
俺の行為と発言を見聞きした正義がバカみたいな声を漏らしている。
俺がした行為と言うのは――俺の脳と心と血が導き出したこの状況における最適解と言うのは、ただ馬鹿みたいに頭を下げながら謝罪の言葉を紡ぐことだった。
どちらかを選んで、どちらかを捨てると言う判断は、簡単だ。
それに、俺の手は大きくもないし長くもない。俺の手がつかめるものも、俺の手の届くものも普通の人間と比べても多くはないだろう。
それでも……馬鹿だと言われても、愚かだと言われても、俺は何かを得るために何かを捨てると言うような発想は嫌いだった。
他人がどうなろうが、他人にどう思われようが俺はどうもしない。
だが、俺が身内だと、仲間だと、家族だと。そう思っている人間を裏切るような、見捨てるような行為は絶対にしたくない。
シンプルでなくとも、最適解でなくとも、それが俺のルールだ。
何時の間にやら、鵜菜まで、俺の身内になっていたらしいと言うのには今の今まで気づけなかったがな。
俺が頭を下げていると言う状況自体が、正義にとっては驚きなのだろう。
正義が呆然としているような気配が伝わってくる。
この行動は、さぞかし正義にとっては意外なのだろうな。
俺らしくないものに映るのだろうな。
それでも、俺は俺を曲げることが出来ないのだ。
「……その行動の理由を聞いても?」
やっと立ち直ったらしい正義が問うてくる。
俺は、頭をあげずにその問いに答える。
「…………今からする話は、お前にとっては納得のいかないものだろう。それを俺はわかったうえで、俺を通させてもらうために頭を下げた」
口内にあるドロリとした唾液を嚥下する。
その唾液は喉に絡んでくる。俺も随分と緊張してしまっているらしいな。
実に……俺らしくない。
「…………そして、最初の質問に対してだが、今はそれをお前に話すことはできない。俺にはあいつを……あの危うさを抱える馬鹿を投げ出せない。一度救っちまったからには最後まで面倒を見るのがマナーだろうからな。だから、あいつを裏切ることになるであろうその話をお前にすることはできない」
「……その、あいつって言うのは鵜菜ちゃんのこと?」
「……そうだ」
「ふぅん……続けて」
何かを考えるような吐息を正義が漏らす。
だが、その吐息の意味を考えている余裕など今の俺にはない。
極度の緊張のせいか、他に何かの理由があるのかはわからないが、今はいつもの慢性的な頭痛の痛みを感じない。
そのことに驚愕している余裕もなく、俺は心の赴くままに言葉を紡ぐ。
「……あいつを裏切れないから、お前を裏切ると言うのも、違う気がする。お前に話せないと言うことは、お前の信頼やら何やらを裏切ることになるのだろうと言うことは俺も気づいた。だが、俺は正義なら俺の考えを理解してくれるなんてことは考えていない。……事実、お前を裏切るようなことになっていながら、お前に勝手に期待すると言うのは、理不尽で、傲慢な最低の行いだ」
「…………」
もう正義は、相づちどころか、吐息すらも漏らさない。
だが、正義はきっと真剣に俺の言葉に耳を傾けてくれているのだろう。
そう考えたうえで言葉を繋ぎ続ける。
正義に俺の考えを少しでも多く伝えるために。
「……だから、勝手ながら俺にはこうやって頭を下げることしかできない。俺が…………俺たちがお前に話せるようになるまで、お前に協力してほしいと言えるようになるまで待っていてほしい。頼む」
自分で言っておきながら、支離滅裂で論理だった言葉ではない気がする。
これが今の俺に言える精一杯。今の俺に紡げる最高の言の葉。
これで正義が納得できないと言うのなら、もう万事休すだ。
そんなことを考えていると、部屋の空気が弛緩したような、気がする。端的に、この部屋の中の空気が軽くなった。
「流。顔、上げてよ」
「…………」
正義に促されるままに顔を上げる。
俺が顔を上げることで見えた正義の顔には苦笑が浮かんでいた。
「流に頭、下げられちゃしょうがないね。これ以上、この件について僕の方から深く追求しないと誓うよ。だから……いつか流の口から話してね?」
「……必ず」
「そ。なら、早く愛しの鵜菜ちゃんのところに戻ってあげなよ」
「……あ? 誰が誰の“愛し”だと?」
「鵜菜ちゃんが、流の、じゃないの? 今の発言からだとそう言うことにしか聞こえなかったけど」
そうだったのだろうか?
改めてさっきの自分の言動を振り返ろうとすると、いつの間にやら復活していた頭痛に記憶の海に入るのを邪魔される。
……諦めるか。
「ほら、さっさと行ってあげなって」
「……わかった。恩に着る」
「何の事かな?」
最低限の礼儀として、正義に対して謝意を伝える。
それに対して帰ってきたのは、とぼけたような言動といつもの笑みだった。
「うーん……もう流は行ったかな?」
正義は流が出て行ったあと少し間をおいてから、入口に耳を当てる。
廊下の方から音は聞こえてこないし、この周辺にいる気配もない。きっと部屋に戻ったのだろう。
そのことを確認した正義は、一度ため息をついてから、机に備え付けられている椅子に座る。
「うん。大丈夫そうだね。もう出てきていいよ」
正義はそんなことをクローゼットに向かって言う。
その言葉を受けたクローゼットはあら不思議。正義が触ってもいないのに独りでにドアが開く。
そして、クローゼットの中からは(ここからは桃さんからキャラ原案が来てから)な少女が顔を出す。
その少女はキョロキョロト部屋の中を見てから出てくる。
そのままベッドの横まで来ると、ベッドに腰掛けて正義に向き合う。
「本当によかったのですか?」
そう少女が問う。その言葉の真意は読み取れない。
だが、その言葉の真意が読み取れたらしい正義は満面の笑みを少女に向ける。
それは普段流の前で見せるような自然な笑みだ。
その笑みのまま、少女に向かって語りだす。
「良かったも何も……最高だよ」
そのしゃべり方からは興奮が隠しきれていない。
「僕はあの二人がどういうことを隠しているのか、大体予想できてる。……うん。はっきりと言ってしまえば知っていると言ってもいいかもね。だから、何かしようと思うのならそれに関してはどんなことでもできる」
一度そこで言葉を区切り、うかべていた表情を笑顔から苦笑に帰る。
「ま、そんな気はさらさらないけどね? あの二人は僕の大事な人だからね」
「……妬けてしまいますね」
正義の言を黙って聞いていた少女が口を開く。
妬けてしまうとは言っているが、それほど本気で妬いているような感じではなく、ただ何となく口に出しただけといった感じだ。
それを聞いた正義は本当に嫉妬していないと言うことを気づいているので、笑みを深める。
「君と比べることもできないけれどね? でも……流も僕が気づいているってことに気付いているのだろうけどね。それでも流が僕に偽りを話すのかどうかが気になったから、少し意地悪してみたんだけど……さっきのは本当に予想外だったよ!」
流といつも一緒にいる反動か、それほど感情を強く発露させることが少ない正義が、興奮したような、楽しそうな口調になる。
「あの流が頭を下げたんだよ? それに、あそこで言えないって頭を下げるとか、隠し事があるって自分でバラしちゃうって言うね。本当に流は真っ直ぐだよね。本当に憧れちゃうよ」
それに、
「あそこで偽りを吐かれちゃったら、僕は流のことを少しだけ嫌いになっちゃったかもしれない。……あり得ないとは思うけれどね? でも、あそこまで愚直なことをされちゃったらさ。嫌うことなんてできないでしょ? 実際にはそんなことは起こらなかったわけだけどね」
熱を持ってしまった思考をクールダウンさせるためか、正義は一度言葉を区切る。
数度深呼吸をして、息と思考がしっかりと冷えたのを自分で確認してから、また話し始める。
「……本当に流は最高だよ。きっと、読子も僕と同意見だろうね。あんなに愚直で、自分を曲げられない人間も珍しいからね。……あ、君としては僕が流のことを嫌いになった方がよかったのかな?」
「……意地悪を言わないでください」
楽しそうな声の正義に冷やかされた少女は、少し頬を膨らませることで自分が拗ねていると言うことを正義に伝えるような仕草をする。
それを見た正義は、本当に楽しそうな素の笑みをより深める。
正義の笑みに笑みを返し、少女は言葉を続ける。
「それに……私は正義さんと流さんの関係をよく思っています。少しさびしくはありますが、正義さんたち二人の仲が良好のほうが私は嬉しいです」
「そう? 少しぐらいは妬いてくれても、僕は嬉しいけれどね?」
「それでは、少しだけ妬いて差し上げましょう」
「ありがとう。嬉しいよ」
「ふふっ。やきもちを焼かれて喜ぶなんて、変な人ですね」
「そうかもね。変だからこそ、流のそばにいるんだろうし、君とも付き合えているんだろうね」
「あら。私が変だと言いたげですね?」
「間違ってないでしょ?」
「お答えしかねます」
二人は同時に吹き出す。
正義は楽しそうにそれなりの秩序を持ちつつ、少女はお淑やかに口元を隠しながら。
そんな二人は、二人ともが本心を口や仕草には出していないように見えたが、どことなくお似合いに見える。
その後も、二人はいっこうに飽きることなく楽しそうに談笑を続けていた。
俺が部屋の扉を開け、中に入ると、扉を閉める間もなく何かが飛びついて来た。
とっさのこと過ぎて反応が出来なかったが、それはさっき俺が室内で待っていろと言っていた鵜菜だった。
鵜菜は俺の背中に腕を回し、ギュッとまわした腕に力を入れている。
正直、邪魔で仕方がない。
「……おい、鬱陶しいぞ」
「少しだけ……本当に少しの間だけで良いんです。このままで、いさせてください。お願いします」
俺の腹に顔をうずめたままの鵜菜は、今にも泣きそうな声でそんなことを言ってくる。
……そんな声で懇願されたら、流石に俺でも無体に突き放すことなどできようはずもない。
俺も大概こいつに甘いな。
この抱き着いてきたのが、読子や小百合。あろうことか正義だった時には、たぶん頭を掴んで投げ飛ばしていることであろう。
性別の違いで差別する行為は忌むべき行いだからな。
それが男であれ女であれ、気に入らなければ投げ飛ばす。
そんな実に何の役にも立たないくだらないことを考えていると意識が朦朧としてきた。
やっぱり、昨日あんまり寝れてねぇのが響いてんのか……?
それに追い打ちをかけるかの如く、今日はいろいろと予定にない面倒事が舞い込んできたからな。そりゃ、意識も朦朧とするわ。
あー……もう今日は何も考えたくない。
ぐらぐらと揺れ出した頭で必死に立っていると、やっと鵜菜が離れた。
「し、失礼しました……」
「…………」
やっと鵜菜が離れたことだし、座るか。
とりあえず、入口の扉をしっかりと締めてからベッドに腰を下ろす。
俺がベッドに座ったと言うのに、鵜菜は立ったままである。
……座らねぇのか? いや、別に俺が口を出すことでもねぇとは思うがな。
「……で、正義と話した内容をお前にある程度教えてやるって話だったな」
「……覚えていてくださったんですね」
何故に、こいつはここまで意外そうな表情をしているのだろうか。
いっそ不愉快を通り越して愉快だな。
そんなことはどうでもいい。さっさと話すことを話してしまうことにしよう。それがすまなければおちおち寝てもいられない。……物理的に。
「……端的に、お前が知りたがっているであろうことだけ伝える。俺は正義に『大罪』関連のことは何一つ話していない。以上だ。……他に何か気になることは?」
「ほ、本当ですか?」
「……こんなところで嘘を吐くことに対するメリットは?」
「…………」
鵜菜は絶句しているようである。
そんなに驚くようなことだろうか。
正義に話せと言われたとはいっても、先に契約を成したのは鵜菜だ。そちらの契約を優先すると言うのは一種のルールだろう。
……上手く誤魔化せた等と言う妄言を吐くつもりはない。
正義は俺の隠したことには半ば以上予想がついていることだろう。
それでも、あいつは俺の言を……俺のことを信じて、もうそのことについてはあちらからは聞かないと約束した。
これなら、問題はない……はずだ。
これ以上の思考はもう無理臭いな。もう思考がついてきていない。
「よ、良かったぁ……」
そう言うと、鵜菜はぺたんと床に腰を下ろし、俗にいう女の子座りと言うものになる。
腰を下ろした鵜菜の表情は心から安心したと言うもの。どれだけ緊張していたのだ馬鹿か。
そんな鵜菜の姿を本格的にどうしようもないほどにフリーズし始めた脳と目で眺めていると、鵜菜が薄い苦笑をこちらに向けてきた。
「……どうした」
「あ、あはは。安心したせいか、腰が抜けちゃいました……。これではお風呂にも入れませんね。どうしましょう」
…………。
「……なら、俺が入れてやろうか?」
……………………。
ボンッ。
何故かは知らないが、急に鵜菜は顔を真っ赤にする。その頭からは煙でも上がるのではないかと言うほどに真っ赤になっている。
「な、ななななな、何を言っているのですか!? 流先輩、正気ですか!?」
あ? そこまで俺は何かヤバい発言でもしたか?
完全に無意識で受け答えしていたんだが。
とりあえず、最後の力を振り絞って、さっきの話の流れを振り返ってみることとしよう。
鵜菜→お風呂に入れませんね。
俺→入れてやろうか?
………………。
完全無欠に一つの疑いもなく、俺のセクハラだな。
これを訴えられたら万に一つも俺に勝ち目はねぇぞ。
とりあえず、訴えられないためにも、適当に弁明だけでもしておくか。これで、何か面倒事に発展されてもかったるい。
「……冗談だ。馬鹿め。……本気にするな」
それだけ言うと、本格的に俺の体力と緊張の糸は切れたらしく、体が緩やかに後ろに傾いていくと言うのにそれを止めることもできない。
ボスッと言う音と共にベッドに倒れこむ。
すぐに眠気が俺の背中に張り付いて、俺の思考を沈めようとしてくる。
一瞬抗おうかとも思ったが、これ以上鵜菜に話したいようなこともないし、それ以前に体力が限界だ。
このまま、眠ってしまおうか。
その考えをまとめる前に、俺の思考は暗闇の底に沈んでいった。
我ながら、さっきの行動はどうかしていたかと思います。
まだ腰もはまらず、動くことが出来ないので床に尻餅をついたままに考えます。
不安になっていたからと言って、流先輩に抱き着いてしまっていただなんて……。
流先輩に変な子だと思われてないでしょうか? 流先輩に嫌われてないでしょうか?
それだけが心配です。
流先輩に、正義と話すから先に部屋に戻っていろと言われた時はすごくショックでした。
だって、そうでしょう?
正義先輩は『大罪』でもなんでもない一般生徒です。……風紀委員長と言う役職を持っていることは普通ではありませんが、『大罪』のように武器を与えられていない、この学園の命運を握っていないと言う意味では一般生徒です。
正義先輩の人柄は、接しているうちに随分とわかってきましたが、流先輩ほどに信用できているかと言われれば、私はノーと答えます。
何故なら、正義先輩は『大罪』ではないからです。
ならば、『大罪』であれば無条件に信用することが出来るのかと問われれば、そうでもありませんが。
見ず知らずの『大罪』と正義先輩だったら、僅差で正義先輩のほうが信用できます。
話は変わりますが……前提として、この学園にいる生徒は皆、『大罪』と『死神』の話を多かれ少なかれ知っています。
そして、一般生徒は『大罪』を敵、『死神』を救い主ととらえています。
そんな一般生徒が、自分と同じ寮にいる人間が『大罪』だと知ったらどう思うでしょうか?
私は同じクラスと言うだけであれだけいじめられました。
そんな存在が、同じ寮にいると知ったら、普通の人間はどう思うでしょうか?
冷静に考えて、その人間を恐怖するでしょう。排斥しようとするでしょう。
私だって、自分の住んでいる場所に殺人鬼がいると知ったら、恐怖してその場所から逃げようと思うことでしょう。
普通の生徒にとっての私たち『大罪』と言うのはそう言う存在なのです。
だから、私は流先輩が正義先輩と話しているであろう時間の間、流先輩が正義先輩に話した場合の身の振り方を考えて、膝を抱えながら震えていました。
正義先輩にばれてしまった場合は、イコール『大罪』である私と流先輩の居場所が露呈することです。
なので、そうなった場合はこの寮を出て行かなくてはならないかと思っていました。
ですが、私の心配が杞憂に済んで何よりもうれしかったです。
そして……流先輩が正義先輩に『大罪』のことを言わないでくれたということは、私の心に暖かなものを運んできてくれました。
流先輩は私との約束とすらも言えないような儚いものを真面目に守ってくれていたことが嬉しかったのです。
実際のところは、私と流先輩は何も約束をしていません。
流先輩は私の味方でいてくれると言ってくれましたが、それは正義先輩に話さないと言うこととイコールではありません。
流先輩のなかで正義先輩に伝えることが、私の利となると思ったのなら、伝えるのが正しい行いです。
と言うか、私は客観的な認識として、流先輩は正義先輩に話すと思っていました。
流先輩と正義先輩はそうすることがおかしくないぐらいには、信頼し合っていると思います。
そんな流先輩が、正義先輩に『大罪』のことを話さないでいてくれた。
そのことがとても私にとっては嬉しかったのです。
流先輩には流先輩の思惑があって、正義先輩に話さなかったのかもしれません。
ですが、その思惑の中に理由として私のことが入っていたのなら、これ以上にうれしいことはありません。
……ないとは思いますがね。
私なんかを取るよりも、正義先輩を取った方がずっと流先輩にはメリットがあります。
私なんて流先輩にとって何の役にも立たない不良債権以外の何物でもないでしょう。
そんな私のために流先輩が何か行動を起こす姿と言うのが、私には全く想像がつきませんでした。
流先輩にとっての私と言うのは、たまたま抱え込んでしまった邪魔な不良債権。
この認識で大体あっていることでしょう。
「はぁ…………」
流先輩に何か利をもたらせるような人間になりたいです。
そうすれば、私はこんなに卑屈にならずに済むでしょうし、流先輩に捨てられる恐怖に身を焦がされることも減るでしょうから。
…………。
ボッ。
さっきの流先輩の発言を思い出していたら、また顔が熱を持ち始めました。
あの流先輩が、私をお風呂に入れてくれる。
そんな姿を軽く想像しようとしただけで顔中が熱を放ちます。
相当疲れていた様子でしたから、何も考えずに出てしまった言葉だったのでしょう。
流先輩はすぐに冗談だと言いましたが、そう言われた時に冗談でなければいいなんて思ってしまった私は痴女なのでしょうか?
どれにしても、少しぐらい流先輩への脈はあるのでしょうか?
冗談なんて言うのは、相手が冗談だと言うことを理解してくれるほどに近しい間柄の人との間にしか起こりえないものでしょうから。
「もう……大丈夫そうですね」
やっと腰が入ったようなので、立ち上がって寝息を立てる流先輩のそばに歩いていきます。
流先輩の吐息が顔に届いてしまうほどの至近距離で流先輩の顔を眺めます。
あと少し顔を近づければ、寝首をかくことだってできてしまう距離。
そんな距離まで近づいたと言うのに、流先輩はいっこうに起きる気配がありません。
起きている時の流先輩はいつも眉間に皺を寄せて難しい顔をしていますが、寝ている時の流先輩の眉間には皺が寄っていません。
「……可愛い寝顔ですね」
寝ている流先輩は何にも警戒していないかのように安らかな顔をしています。
この顔を見ていたら、最初に流先輩に抱いた印象のことを思いだしてしまいました。
流先輩は何が気に入らないのかはわかりませんが、常に苛立っていて周囲に威圧感を与えているような人です。
始めて会った時は……助けてもらった後に改めて流先輩に会った時は、それはそれは流先輩のことが怖かったです。あの時の流先輩は私を助けてくれた時よりも明らかに苛立っていた様子でしたから。
でも、一週間も流先輩と一緒に過ごしていくうちに、流先輩はそこまで怖くない人だと言うことがわかりました。
そして、昨日。流先輩がとても優しい人で、私にとってかけがえのない人になりました。
何と言うか、起きている時の流先輩は猫のような人だと思います。
理不尽で、自分勝手で、良くも悪くも人に注目されるような人柄です。
流先輩は常に周囲を警戒しているような気がします。いつでもどこでも。流先輩を害しうる存在などこの学園には数えるほどもいないでしょうに。
そんな流先輩が、私がこんな直近にいるのに、起きることもなく安らかに寝ています。
……私は流先輩にとって、警戒しなくてもいいほどに流先輩と近い存在になることが出来たのでしょうか?
…………。
ま、今ここで私がいくら考えても答えなんて出ませんよね。
この答えはいつか、流先輩の口から直接聞きたいものです。
そんなことを考えながら、私は支度をして部屋を出ます。汚いままで寝るわけにはいきませんから。
「……あ、流先輩はお風呂をどうするのでしょうか?」
流先輩はこのままにしておけば、きっと朝まで寝たままでいることでしょう。
「わ、私が流先輩のことをお風呂に入れましょうか……?」
…………カァッ。
考えただけで顔がまた熱を持ち始めました。
「……な、なんてね。あはは」
私は、特に何をするわけでもなく部屋を出て、お風呂に向かいました。
……流先輩の裸を想像しただけで鼻血が出そうです。それに、あんな直近で流先輩の匂いを嗅いでいたら変な気持ちになってしまったようです。
こんな気持ちは熱いお湯で汗と一緒に流すのが一番ですかね。
第三章
キーンコーンカーンコーン。
高らかにスピーカーからチャイムの音が流れる。
今日もこれで一日が終わる。長いようで短いような、退屈な一日だったな。
あの不愉快で調子の悪い日から三日ほどが経過した。
この三日間は特に何か面倒事が発生するでもなく、普通の日常を送っている。
これで良いのだ。
先週は何だかんだとずっと鵜菜の件で動いていたせいでいつも疲れていたし、それが終わった三日前は睡眠不足で疲れていた。
だから、この三日間は実に平和で平凡な日常だった。
正義も俺への接し方を特に変えたわけでもない。
そう言う気遣いができるところが、気に入らないがありがたい。
何はともあれこの三日間、表面上は特にこれと言って変わったことも起こってはいないわけだ。
裏で正義が何やらやっているようだが、俺に実害が来ない限り放置で良いだろう。
面倒臭いし。
「な、流先輩。この後はどうしますか?」
「……ん」
思考していると、鵜菜が今後の予定を聞いてくる。
鵜菜も随分と俺に慣れてきたと言うか、普通に話せるようになったものだ。
少し前までは、俺の一挙一動にビクビクしていたと言うのに。
まだ少し、言いよどみがあるが、前に比べれば幾分……いや、ずっとましだ。
あのビクビクと話す鵜菜になれていたので、違和感がある。ま、こっちの方が楽なので、俺から何か言うつもりは毛頭ないがな。
「……どうもしねぇよ」
「?」
「……いつも通りに帰るってだけだ。……お前は何かあるのか?」
「い、いえ。私の方は特に用と言えるようなものはありません」
「……なら、帰るか」
「そうしましょう」
机の上に広げていた資料とヘッドホンをカバンにしまう。
必要なこととは言え、文字を読むと言うのは過分に面倒くさいな。
立ち上がって、体を伸ばすと、パキパキと言う音が体の節々から聞こえてくる。
……今日はゆっくりと風呂につかるか。最近は面倒でシャワーしか浴びてないしな。たまには湯船につかるのも悪くはないだろう。
カバンを持って、扉の方に向かうと、鵜菜の方も準備ができたのか、俺の一歩後ろをついてくる。
……何と言うか、この姿だけ見るとガキみたいだな。
どうでもいいが。
ドアを開けようとドアノブに手を掛けると、俺が力を掛ける前にこちら側に勢いよくドアが開く。
そして、ドアが俺の頭に直撃する。
「……あ」
鵜菜が間抜けな声を上げている。
その鵜菜の声をかき消すようなうるさい声がそのドアから聞こえてくる。
「流ー。急に仕事がなくなっちゃって暇だから、一緒に帰ろうよ……って、流? 何してんの?」
ドアが頭に直撃したせいでのけぞっている俺を見た正義はそんなことをぬかしている。
ぶつかったことによる痛みは正直そこまで酷くない。
だが、苛立ちのほうは酷いことになっているし、その苛立ちも正義からぶつけられたと言うことで当社比二倍だ。
……二倍でなくても、報復はするがな。
正義の頭を両手で挟み込むように掴む。
「え? 流? どうして、僕の頭を挟み込んでんの? ……ていうか、流の力が万力みたいで尋常じゃないほどにいたいんだけど」
「……知るか」
思いっきり頭を逸らせる。
この段階で、正義は俺が何をするつもりなのか察しがついたのだろう。
面白いように慌てはじめる。
「ちょっ! 流!? 何で、僕にヘッドバット決めようとしてんの!? 何か、ボク流れを怒らせるようなことしたぁ!? 全く記憶にないのだけど!」
「……口閉じろ。舌噛むぞ」
「はいぃぃぃ!」
正義が口を閉じたかを確認することもなく、頭を振り下ろす。
ガゴッッッッッッッ!!!!
そんな音が周囲一帯に伝播する。
さっきドアに頭を打ち付けた時よりも鈍い痛みが頭の中に響いてはいるが、さっきの痛みも含めて耐えられないほどのことはない。
そんな事よりも、苛立ちが多少は晴れた。
それに副次効果として頭痛も少しだが薄れてくれたので、結果オーライだろう。
「ッ…………!! あぁぁ……!」
俺の頭突きを食らった正義は俺の足もとで悶絶しているが、元はと言えば頭突きされる原因を作ったのは正義だ。
こいつに同情する気はないし、慈悲もない。
「な、流先輩。頭大丈夫ですか?」
鵜菜が失礼なことを言いながら、心配そうな目で俺の方を見上げてきている。
こいつも正義を心配する気は全く無いようで、正義には視線すら向けていない。
正義は人望があるようで何よりだ。
「少し、血が出てますよ?」
「……あ?」
そう言う鵜菜はハンカチをこちらに差し出してくる。
額に触ってみると、確かに少しぬるっと湿っている。
その手を見てみると、少し粘り気のある赤い液体がついている。状況証拠からかんがみて、これが血であろうことには疑いようもない。
たぶんではあるが、ドアの角にぶつけたことでついた傷が、正義に頭突きしたときに広がったのだろう。
意識し始めたら、地味に額が湿っているのが気になりだしてきた。
「これ、使ってください」
「……悪いな」
「いえいえ。気にしないでください」
鵜菜が差し出してきている女ものであろうファンシーな見た目のハンカチで額についている血を乱雑に拭う。
拭い終えた後に、そのハンカチを見てみると、真っ赤に濡れてしまっていた。
ファンシーなハンカチが一気に凄惨な見た目になってしまっている。
……これは落ちそうにないな。
「……今度代わりのやつを買ってやる」
「い、いえ。別にいいですよ! き、気にしないでください。私が勝手に渡したわけですから」
「……黙れ。これは決定事項だ。……文句は聞かん」
何故かは知らんが、俺が強い語調で言うと、鵜菜は頬を軽く朱に染めている。
……赤くなるようなことが何かあったのか?
「そ、それでは……お願いします」
尻すぼみな声で、了承の意を伝えてくる。
最初から変な遠慮などせずにそうしていればいいのだ。それが一番楽なのだから。
「あー……死ぬほど痛かった。てか、頭割れてない? 本気で心配なんだけど」
「……どうでもいい」
「割れたか否かを聞いたら、どうでもいいと帰ってきましたよ……。鵜菜ちゃん、どう思う?」
「私もどうでもいいです」
「この二人は……ホントに……」
やっと悶絶から立ち直った正義が相も変わらず意味の分からん下らないことを言っている。
貴様の頭が割れているか否かなど俺の知ったことではないわ。
「……ていうか、何故に僕はヘッドバットをされたの? 僕、何か悪いことした?」
「……全面的にお前が悪い」
「そうです。今のは完全に正義先輩が悪いです」
「この夫婦の息の合い具合が怖い……」
また何やらぼそぼそと呟いて達観したような表情で虚空を眺めている。
その正義の声を俺は聞きとることが出来なかったが、聞き取れたらしい鵜菜は顔をまた真っ赤にしている。
正義がセクハラでもしたのか?
……俺にとってはどうでもいいことのはずなのに、癇に障る。
…………。
「何をしたかは存じ上げませんが、まっこと申し訳ございませんでした」
おっと、気づいたら正義が土下座をしている。
それほど俺は殺気を漏らしてしまっていたのだろうか? 注意せねば。
……はて、今俺は何をしようとしていたのだろうか?
正義に思いっきりドアをぶつけられたことにより、体の底からあふれ出した殺意のせいで何をしようとしていたのかがすっかり飛んでしまっている。
こういう時に、俺はホントにボケが始まってんなと思うね。
今度改めて保険委員長にでも見てもらうかね。
「……それで? 貴様は俺たちに何用だ?」
「えー……さっき僕言わなかったっけ?」
「……忘れたな」
「早いね。……ま、いいけどね。僕、今日珍しく予定がぽっかり空いちゃったんだよね。だから、ちょうどいいから流たちと一緒に帰ろうかなーって」
本当に珍しいな。
正義は仕事をしていないように見えて、仕事を大量に抱え込んでいる。
俺や読子が何か頼んだ時は、そちらを優先的に処理しているようだが、それでも委員長としての仕事が滞っていると言う話は聞かない。
……まぁ、そんなうわさ話をするほどに仲のいいやつなどいないわけだが。
どれにしたって、正義が仕事をしっかりとしていると言うのは事実だ。
そんな正義が急に予定が空くなんて考えづらい。
何か裏があるのではないかと勘繰りたくなるが、頭も痛いので止める。
どんなことを腹の底に抱えていようと、腹の底で考えていようと、正義が俺のことを率先して害そうとすることはないはずだ。
そう言うところは、俺は正義のことを信用している。
「……別にいいぜ」
「え!?」
「……何か異論でもあるのか?」
俺が正義と共に帰ることを肯定すると、鵜菜のほうから意外そうな声が上がった。
何か正義と共に帰ると問題でもあるのか?
鵜菜の考えることは全く読めんな。
だから、その鵜菜の読めない考えを知るために問いかけたわけだが、鵜菜はどことなく不満そうな表情をするだけで理由を言おうとはしない。
……本当に鵜菜はよくわからない。
俺は鵜菜の行動が不可解で首をひねっているのだが、正義には鵜菜が何を考えてそんなことをしているのがわかったらしい。
悪辣な笑みを浮かべている。
「…………」
そんな正義は鵜菜の耳に口を寄せて何事かを呟く。
正義が何を言ったかはわからないが、言われた方の鵜菜は顔を赤くして正義のことをぽこぽこと威力のなさそうな拳で殴っている(この場合は叩いていると言ったほうが適切か?)。
…………。
「な、何故に流はそんな殺意に満ち満ちた視線を僕に送っているの!?」
「……別に。何でもねぇよ」
「何でもないって表情ではなかった気がするけどねぇ」
「……もう一発頭突き食らいたいのか?」
「それはごめんだから、黙ることにするよ」
睨みつけると、正義は俺が本気だと言うことを理解したのか、へらへらと笑ってその話題を打ち切った。
…………本当に、この感情は何なのだろうな。実に解せない。
「それじゃ、いい加減に帰ろっか。いつまでもここにいたら、せっかく早く帰れるのに時間が無駄になっちゃうしね。時間があるから、少し手の込んだ料理も作りたいしね」
「ハァ……わかりました」
さっきは少し渋っていた鵜菜も、正義に何事かを囁かれて納得したのか諦めたのかはわからないが、正義が一緒に帰ることを了承したようだ。
正義が先を歩き、その後ろを俺と鵜菜が追従するような形で歩いている。
普段、三人で歩く時とは少し違う並びだ。
毎朝この三人で登校するときには、三人で並んで歩いているのだが、今日に限っては正義が一人で先を歩いている。
何かを警戒するかのように。
そして、今の今まで気づかなかったのだが、正義は風紀委員会として見回りするときなどに身に付けている日本刀を腰に佩いている。
さっきまで気づかなかったのだが、気づいてしまったら相当に違和感がある。
別に口に出して確認を取らなければいけないほどのことはないかとも思うのだが……視線はずっと日本刀のほうに向いてしまう。
「……ん? 何、流」
「……いや、何でもない」
「あはは。そんなにジッと見ておいてなんでもないってことはないでしょ? はっきり言ってくれた方が楽だよ」
テメェのことを見ていたわけでは決してないから、さっさと黙れ。
もしくは、俺が視線を向けていると言うことに中途半端に気付くのではなく、日本刀のことを見ていることまで気づいてくれ。
その二つのことが頭をよぎったが、口には出さない。
正義の中途半端な役の立たなさは今に始まったことではない。
痒いところに手が届きそうで届かない。かと言って、毎回届かないと言うわけではなく、届くべき時にはきちんと届く。
俺から見た正義の認識はそんなところだ。
役に立つのか立たないのかがいまいち判断がつかない。
友人を役に立つ立たないで選別しているわけではないが、やはり役に立つに越したことはないだろう。
「……珍しく刀持ってるなって思ってよ」
「刀? 僕は割と放課後とかは持ち歩いてると思うけど?」
わかんねぇ奴だな。
こういう時のこいつはわざとなのか何なのかはわからんが、びっくりするほど物わかりが悪い。
無意味にイラつく。
「……いつもテメェは、庁舎にてきとうに放ってるだろうが。帰り道まで持ってんのは珍しいなって思っただけだ」
「あぁ……言われてみれば確かにそうかもね。ちょっと調子が悪いと言うか……まぁ、そんな感じでね。とりあえず、寮に持ち帰って手入れでもしてあげようかと思ってね。たまには手入れしてあげないとこの娘も拗ねちゃいそうだからね」
そう言いながら、正義は愛しそうに刀の鞘を軽くなでている。
……久しぶりにこいつのことを本気で気持ち悪いと思った。
別に武器を大事にするのはいい。
だが、その武器を『この娘』とか呼ぶのはいただけない。さすがに気持ちが悪い。
まぁ、こいつの価値観なんてどうでもいいのだがな。
今日も昨日や一昨日と同じように特に何事もなくこのまま寮に帰って、特に何も考えることもなく、寝るのだろうな。
あぁ、その無為な時間の過ごし方の何と心地よいことか。何と楽なことか。
このまま一生が過ぎ去ればいいのに。
そんなことを考えながら、いつも通りの道を歩いていると、道の先に見慣れぬ集団がいるのを発見してしまう。
「……さっきの今でこれか、そうか」
「何言ってるの? 変な流。……でも、流が変なのはいつもの事だから、これは正常なのかもしれないね」
「……言ってろ」
俺たちが普段登下校に使っているルートには基本的に人通りがほぼない。
はっきりと言ってしまうと、全くないと言っても過言ではないレベルだ。
何故に、誰もいないのか。
理由は二つ。
一つ目は、俺たちの住んでいる『月森寮』はこの学園の中でも端のほうにあるので、ようでもなければあそこまで人が来ることがないから。
二つ目としては、俺がそこまで人が好きではないから、そんな人通りの少ない道の中でも明らかに人の少ない道を選んでいるから。
そんな理由から、普段は全くと言っていいほどに人と会わないこの道に人がいる。
その一事だけでさっきの嫌な予感が当たったと言っても過言ではない状況と言えるだろう。
だと言うのに、その見慣れぬ集団が軽くとは言え武装しているのを見ると、どれだけ神は俺のことが嫌いなのかと、神を呪いたくなってくる。
まぁ……俺は根っからの無神論者なので神など端から信じてはいないが。
大罪と死神 ~頭 垂Ver~ 「合野 秋穂編」