大罪と死神 ~頭 垂Ver~ 「片瀬 鵜菜編」
頭 垂(かぶり すい) 作
福千代 編
プロローグ
今日も今日とて、俺の脳内にはアラートが鳴り響いている。
いつの頃からか、四六時中俺の脳を警報のような頭痛がかき乱している。
そんな俺にとって、頭痛を自覚しなくて済む睡眠と言うものは、何者よりも神聖で不可侵のものだ。
だと言うのに……
「あー……うっせぇぇぇ!」
酷い夢を見てしまったせいで目が覚めてしまった。
目が覚めた直後から意識はしっかりと覚醒している。その意識がはっきりとしていると言うことを、自覚した瞬間から大音量の警報が脳内で鳴り響き始めた。
物心ついたころから、俺の脳内に住み着いている存在とはいえ、慣れることはない。それどころか、歳を取るにつれて大きくなっているような気すらする。もういい加減に脳を頭から取り外したい。
「畜生……! 起きちまったじゃねぇか! くたばりやがれ、クソが!」
俺は苛立ちを声高に叫びながら、壁に頭を打ち付ける。端から見たら随分と頭のおかしい行動に見えるだろうが、頭の中に響く警報を一時的にでも消したいときには頭の外部を痛めつけるしかないのだ。実に不便な体である。
額から流れてくる血を乱雑にシーツで拭いながら、部屋を見渡す。
調度品の少ない実に飾りっ気のない俺の部屋だ。壁際にあるカラーボックスには大量の音楽CDが所狭しとねじ込まれている。他にはテレビと机、今寝転がっているベッドぐらいしかない。
常に頭痛に苛まれている俺は落ち着いて本を読むことすらできないので、本の類は昔からそれほど読まない。
ふぅ。部屋の様子を確認したら、最低限の理性は取り戻すことができた。
頭は壁に打ち付けたせいで痛いが、頭痛が多少抑えることができているので十分だろう。
「はぁ……ったく。なんだったんだ? さっきの夢は。俺のことを『怠惰』とか言ってたが……。『怠惰』って、あの『怠惰』か?」
俺を目覚めさせてくれた最低な夢の中では、俺は真っ白な空間に一人で胡坐を掻いていた。
すると、唐突に上の方(真っ白な空間だったので上下感覚などあまりないのだが、頭の上の方)から声が聞こえてきたのだ。お前は選ばれたのだ、だとかなんとか。
ひとしきり何か説明的な御託を聞いていた気がするが、そこは夢の中の話。起きてしまえば覚えているはずもない。
ただ、一つだけ覚えていることがある。
それは、俺がその夢の中で『怠惰』と呼ばれていたことだ。
俺の通う学園には、一つのうわさがある。
曰く、何年かの周期で学園内に七つの大罪に選ばれる生徒がそれぞれ一人ずつおり、その生徒が選ばれた年度の最後まで生きていてしまえば、学園の生徒が酷い目に遭うと言う。
ぶっちゃけ、ただのくだらない学園生活を楽しむための流言飛語の類だと思っていた。さっきあんな夢を見るまでは。
要するに、俺は悪役に選ばれてしまったらしい。何だかよくわからんものから。
「……そういえば、枕の下に武器をいれておくとか言ってたような言ってないような」
そのことを思いだそうと思考を巡らせると、また響き始めた頭痛が思考の邪魔をする。もうさっき頭を叩き付けた分の脳内麻薬は切れてしまったらしい。
……感謝すべきことなのだろうが、この時だけは頑丈に産んでくれたことへの苦情を親に言いたくなる。
痛む頭を忘れようとして、眉間にしわを寄せながら、愛用の枕を上からボフボフ叩く。
うむ。上から叩いてみた感じ、特に何も置いてあるような感じはしない。
所詮は夢だな。あんな夢の何を真に受けてんだよ、俺は。
そう思いつつ、枕をひっくり返して枕の下を見てみる。
「……マジかよ」
枕の下には、影を形にしたような染め抜きの真っ黒な革製らしきハンドグローブが置いてあった。
手に取って見てみる。縫製などもしっかりしていて随分と実用性がありそうだ。
だが、何処まで行ってもただの手袋の域を超えそうにはない。
「これを武器と言うのかよ……畜生が」
もう嫌だ、と言う気持ちをこめて壁に拳を叩き付ける。
腕から全身にジンジンとした痺れが感覚として伝わるが、頭の痛みは消えそうになかった。
第一章
今日も下らない下らない授業日程が全部終わった。
一日机にうつ伏せになって堂々と寝ていたので、時間が過ぎたと言う感覚は薄い。
顔を上げると、耳元でチャリという金属同士がぶつかるような音がする。これは俺が趣味でつけている、ピアスの音だ。耳たぶにピアス、耳の上の方にカフスをつけて、それを短いチェーンでつないでいる。煩わしいが、これをつけておいた方がカッコイイと、ある女から言われてからは、起きているうちは基本的につけるようにしている。
そんなことを思いながら、周囲を確認する。
部活や委員会のある人間は、急いで教室を出ていく。
特に予定のない人間は周囲の人間とだべっていたり、この後どこかに寄り道していくかと言う算段を立てたりしている。
この様子を見る限り、授業が終わったことは確かなようだ。
俺のいる場所は、広大な敷地を持つ私立学園の高等部二年の教室だ。
ここ、私立学園は測るのも馬鹿らしいほどの広大な敷地に、幼初中高等部がある一貫の学園だ。敷地内に寮や娯楽施設まで完備されているこの学園は、学園の敷地内ですべてのことが完結することができるような頭のおかしい学園だ。
一度入学してしまうと、卒業までは基本的に敷地の外に出ることは叶わない。そのせいか、学生たちからは『箱庭』などと呼ばれている。
ま、俺たち学生にとっては特に出る必要もなければでなくていいことなので、特に問題ではなかったりする。
ちゃんと電話線もあるし、ネット環境もテレビも繋がる。だから、校外と隔絶されていると言うこともないし、大会などで外に出ることも不可能ではないのだ。
そんな学園の高等部にいる俺――杉浦 流(すぎうら ながれ)は、ガンガンと鳴っている頭を抑えながら、寮に帰る準備をする。と言っても、カバンには勉強道具など何もいれていないので準備と言うほど準備することもない。
さて、寮に帰って寝なおすか。
「おーい流。今日僕巡回の当番なんだよ。だから付き合ってくれない?」
帰るために腰を上げたら背後から声を掛けられる。この声はきっと俺を不幸にする。確実に面倒事を運んで来ることは想像に難くない。
そんな時に俺が行うべき最適解とは何か?
それは、この頭痛で聞こえなかったふりをしてこの場をさっさと立ち去ることだ。いつも以上に頭痛がひどい今日はあいつに付き合ってやれる暇などない。もっと体調のいい日なら別だったのだがな。
最近毎日のように見る意味わからん夢のせいで気分が最悪なのだ。そんなときまでこの馬鹿に付き合っていられるか。
声の聞こえてきたほうを振り返りすらせずにカバンを持って教室のドアに手を掛ける。
「聞こえてるよね? 露骨に聞こえてないふりしないでよ。悲しくなってきちゃうでしょ?」
「…………正義」
「うん。僕が君の親友の築地 正義(つきじ まさよし)君だよ?」
「お前を親友だと思ったことはない」
「そう言わないでよ。僕と君の付き合いだろ?」
そう言うと正義は俺の肩をパンパンと軽く叩いてくる。
正義は俺よりも多少身長が低いので、近づかれると少し下を見て話さなくてはならない。そうすると、首が痛いから離れてほしい。
それはそれとしても…………ウッゼェ。
こいつとは初等部の時からの腐れ縁だが、正直うざくて仕方がない。
俺の体調が悪かろうと、機嫌が悪かろうと問答無用でこのテンションだ。こいつの声を聴くと、声が脳に反響して頭痛がひどくなる。
その証拠により一層頭痛がひどくなってきた。視界が明滅するが、こんなのはもはや馴れっこ。気にするほどでも、日常生活に支障をきたすほどでもない。
俺は最ッ高に不機嫌な顔を正義に向けてやる。
正義は俺の表情など欠片も気にした様子がなく、話し始める。
「いやー、僕今日の巡回の当番なんだよね? だから、流も一緒に来てくれない? 流が来ると僕が楽できるんだよね」
「……今の風紀委員の方針は病人を酷使することなのか?」
「ま、いーでしょ。他の事でもしてた方が気も紛れるかもだよ?」
冷めきった声で応じてやったと言うのに、正義は特に気にした様子もなく話を続けている。
このチャラチャラした態度で風紀委員会委員長、この学園の『正義』を名乗っていると言うのだから笑けてくる。
頭痛に悩まされている俺には、笑うことなどできないが。
眉間の皺が抜けないことには笑うことも敵わない。実に不便な体である。
「ま、話してても始まらないからさ。とりあえず、移動しながら話そうよ」
「……俺は一言も了承するとは言っていない」
「そーいうの良いから。ね?」
そう言って問答無用で俺の背を押しながら正義は進んで行く。
チッ。面倒なことになったな。だから、こいつは嫌なんだ。
そんなことを思いつつも、本気で抵抗しない俺にも問題があるのだろうか?
(やっぱり、正義パネェ……)
教室から出ていく二人の姿を目で追いながら、クラスメイト達は心の中だけでそうつぶやいていた。
ところ変わって風紀委員に割り当てられている部室。
よく言えば大らか、悪く言えば大雑把な正義の性格が出ているらしく、この部屋は雑多になっていてゴミゴミとしている。
そのゴミ山に頭を突っ込みながら正義は探し物をしている。
俺は、それを眺めるともなく眺めながら、ヘッドホンをつけて音楽を聴いていた。
ヘッドホンから聞こえてくるのは激しいロック。
あぁ、実に良い。この脳をかきまわすようなロックの音は最高だ。何もしていない時に感じる頭痛は苦痛でしかない。だが、今に限って言えば、その頭痛すらも音楽を楽しむためのアクセントになっている。
ま、痛いものは痛いのだがな。
「お、あったあった。これだよこれ。いつも何でこんな奥深くにあるんだろうね」
ゴミ山から頭を出した正義の手にあるのは武骨なデザインの一本の日本刀。もちろん、鞘に入っている。
風紀委員は風紀を取り締まらなくてはいけないと言う職業柄、武器の携行が許されている珍しい委員会だ。
殺傷能力のないものに限られてはいるが、武器をもてると言うのはやはりうれしいことなのか、風紀委員会に入りたいと言う人間は後を絶たない。だが、風紀委員会はいつも慢性的に人手不足である。そうでもなければ俺にヘルプなど頼まない。
ならば、何故入会(こういうと宗教の様ではあるが)希望者が多いのに人手不足なのか。
単純な話である。そんな武器を持ちたいから、などと言う不純な動機で来た人間は全員正義が叩き伸しているからである。
武器を持つものにはそれ相応の責任が伴う。それを自覚しないものには風紀委員会に入る権利などないとは正義の言である。
「それじゃ、行こうか」
正義が腰のベルトに日本刀の鞘をてきとうに差し込んで、肩に風紀委員を示す腕章を安全ピンでとめる。それなりに様になっている。
かったるいな。
俺はヘッドホンをカバンに投げ込み、そのヘッドホンを投げ込んだカバンを比較的片付けられた机の上に抛り捨てる。
あー、音楽を聴いていないと頭痛が気になってきた。
不快である。
「それで? 何で俺が行かなきゃならんのだ?」
「え? 何となく?」
「…………」
俺は無言で、さっき抛り捨てたカバンを手に取る。
カバンの中からイヤホンを取り出し、身につける。こいつに少しでもつきあおうと思った俺が馬鹿だった。
こんな馬鹿に付き合うのは貴重な寿命の無駄遣いだ。いろいろと調べなきゃならんこともあるしな。
「ちょちょちょ、冗談だから! 冗談だから、ね? 帰らないでよ。お願い! このとーり。後生だから!」
必死になった馬鹿がまとわりついてくる。
実に鬱陶しい。夏にまとわりついてくる羽虫も斯くやと言う鬱陶しさだ。
しょうがないのでカバンに改めてヘイヤホンをしまう。
「……真面目に答える気がないのなら帰るからな」
「ちぇっ。ちょっとふざけただけじゃない。流の頭でっかち」
スッと無言でカバンに手を伸ばそうとすると、流れるような動作で正義が土下座をかましてきた。
こいつの土下座は手馴れてる感がある。いつ誰に土下座を行っているのか気になるところであるな。
「ま、本当のところを言うと、苛立ってる流は大きな抑止効果になるからだね」
「…………」
「肯定の無言だととっておくよ。苛立っている流の手の付けられなさは高等部のみならず、学内ネットで騒がれるほどの規模だからね。ふざけたやつが今日の流予報なんてのを創る程度にはね」
今話題になった流予報と言うのは、俺の機嫌のパラメータと出没しそうな場所を予報として取り扱った、過去にローカルネットに上がっていたコンテンツである。
その実に愉快なコンテンツの制作者は俺が叩き潰したので、もうそんなふざけたコンテンツは上がっていない。
今思い出しただけでも腹が立つ。
正義たち風紀委員会がその現場に踏み込んできたせいであのクソ野郎を潰しきれなかったのだ。
後十分もあればあいつを二度としゃべれなくしてやることが出来たのに。
「そうキレないでよ。あれは流のやりすぎだったよ」
「……別にキレてねぇよ」
「それならいいんだけどね。それで、その件もあって流の脳みそにリミッターがついてないことが広く知られたわけだよね。……頭痛のせいだか何だかは知らないけどね。そんな流が、しかも苛立っている流が巡回をするって噂が流れたらどうなると思う?」
「……さぁな。知らねぇよ」
知りたくもない。
自分が巡回の手伝いをすることが、抑止効果になることなど誰が知りたいと思う? 少なくとも俺は知りたくない。
「表面上は平和な学園ってやつができるわけだよ。寧ろ、流の通りそうな先には人っ子一人いなくなる可能性すらあるよね。やったね、流の影響力は半端ないらしいよ」
「……嬉しくねぇ」
俺は決して苛立ちたくて苛立ているわけではないのだ。この学園に不満があるわけでもなければ、生きていることが苦痛なわけでも、社会に不満があるわけでもない。
ただ……頭が痛いのだ。文字通りの意味で。
この頭痛が止むのは本当に二つのことをしている時しかない。寝ている時と……もう一つは言わんでもいいや。
どちらの時もまともに理性があるときではない。寝ている時は、文字通り寝ているし、もう一つの時も理性的であるとは言い難い精神状態だ。
実に悲しくなってくるな。ま、随分と前に諦めはついているのだが。
「表面上は平和な学園生活ってやつになるだろうね。表面上は」
「……要するに、水面下で起きていることを暴きたいってわけか?」
「いえーす。いぐざくとりぃ」
「……発音が実に日本語的だな」
表面上平和になると言うことは、水面下で起こっていることが表面に出てくると言うことでもある。
それに、こういう時に表面に出てくることと言うのは、総じてヤバいことであることが多い。度を超えた苛めとか、ヤバいものの売買とか。
そういうもののような本当にやばいことと言うのは、今から検査が入ると言っても急に片付けられるようなことではない。それを暴くために俺を使おうと言うのか。
「何もなかったらそれが理想なんだけどね。それに、流は鼻も利くでしょ? 流の鼻で気付ないことなら他の風紀委員で嗅ぎまわっても駄目だろうからね」
……俺は犬か。
それに、俺が見つけられなかったらもう見つけられないと言うのは職務怠慢ではないのだろうか?
「今の委員はまじめで優秀なんだけどね。真面目である分、応用が気かないんだよ。だから、頼むよ」
真面目な顔をして頼まれてしまった。
こういう時に、普段がチャラい奴は有利だと本当に思う。普段が普段な分、より真面目に見える。これを映画版ジャイ○ンの法則と言う。
だからと言ってほだされたりはしないがな。
「ちゃんとバイト代も出すからさ」
「……しゃあねぇな」
世の中は金である……とまでは言わないが、ちゃんとした報酬があった方が頷きやすいこともあるのだ。
それに、今月は欲しいアルバムが何枚か出ていたし、ライブDVDも出るので少し財布が不安だったのだ。ここで風紀委員会からのバイト代が出るのなら渡りに船と言うやつだろう。
カバンに手を伸ばすと、正義が土下座をするような姿勢になるので、首を振ってその必要はないと否定する。バイト代が出ると言われてまで逃げるほど俺は天邪鬼ではない。
カバンから取り出すのは、真っ黒な革手袋。
そう、今朝枕の下に置いてあったものだ。特にこれをつけているからと言って何が起こると言うわけでもない。
だが、夢の内容をぼんやりと思いだすと、もうこの学校には『死神』とやらがいるらしい。それに対処するためには、最低限の備えをしておいて損はないだろう。
「それは?」
「あ? ……あぁ、気合入れようと思ってな。深い意味はねぇよ」
「ふぅん……。ここで流が武器かなんか取り出そうとしてたら止めてたよ。協力してもらうとは言っても、君は一般生徒なわけだからね」
「そこまで無作法じゃねぇよ」
革手袋を手にはめる。しっかりと手になじんでくる。
俺のためだけに誂えたかのようなフィット感だ。ま、あの夢で言われたことを思いだす限り、俺のために誂えられたものなのだろうが。
もう一つ、こっちは使わないことを心から祈っているが、錠剤入れをポケットに入れる。
それを見た、正義が表情を変える。
「ただの備えだ。これを使わなくていいならそれ以上のことはねぇよ」
「……使おうとしたら全力で止めるからね」
「勝手にしろ。……ただ、俺は必要とあらば躊躇はしないがな」
二人そろって部屋を出る。
あぁ、面倒だ。そんなことを考えている時に限って、返事を返すように頭痛が増すのだから最低だ。
風紀委員の巡回ルートと言うのは、その委員によって大体パターン化されている。あの委員ならこのルートを通る。あの委員ならこっちに来るだろう。
そんな予想が生徒たちの間で噂になっているし、大体の巡回ルートを公開している委員すらいる。
それはなぜか? 単純な話だ。
自分たちが取り締まらなくていいのなら、この学園が風紀委員の力など必要にならないほど平和であるのならそれでいい。
そう思って活動しているのが風紀委員会だからだ。
だから、風紀委員の通るルートは自然と平和になるし、そんな平和を見て浸っていたいと思うのが人の心と言うものだろう。
まぁ、俺はそんな仮初の平和なぞには欠片も興味がわかないが。
別に平和なのが悪いなんて言わねぇよ? 平和よりも混沌のほうが良い。なんて、そんな病気入ってるようなことは言わんよ。
ただ……そんな偽物を見て笑ってられる程、俺は馬鹿じゃなかったってこったな。俺は笑顔を作ることなんざできねぇけれど。
それは、正義も同じらしい。
「それで、今日は何処に行くんだ? お前が広報委員会に流させたってんなら、表は平和なもんだろうよ。……実に不本意だがな」
「なら、裏にでも行く? それこそ意味はないと思うけどね」
「何故だ?」
表が平和になったと言うのなら、裏を片付けに行くのが王道と言うものではないのか?
「単純だよ。表が静かになったら裏ってのはそれに比するように目立っちゃうものなんだよ。だから、こういう時には裏にいたやつらが表に出てくるんだよね。裏じゃ目立っちゃうからね」
「そういうもんなのかね」
「そういうもんなんだよ」
そういうことらしいので、今日は不自然なほどにいつも通りのルートを回ることにしたらしい。
普段なら俺がいるときは、俺の気分であちらこちらに移動する。寧ろ、普段の巡回ルートなどにはいかないことの方が多い。
だとするのなら、裏で悪さしてる奴をしょっ引きたいのなら、普段通りのルートを言ったほうが効率がいいってことか。
ふむ……正義は馬鹿のくせによく考えているようではないか。
…………馬鹿のくせに。
「……なんか失礼なこと考えてない?」
「さぁな。頭痛いから話しかけんな。頭痛だけでも手一杯なのに、お前の病気までうつそうとすんじゃねぇよ」
「健康体で完璧な僕が流に何をうつすと?」
「馬鹿」
「馬鹿はうつらないよ!? それに僕馬鹿じゃないよ!?」
「うるさい。空間が汚れる。それに、お前の菌を撒き散らすな馬鹿」
「ひっどぃ!」
こういう馬鹿との付き合いは実に新鮮でいい。
クラスメイトとかいうやつらは、俺のことを恐れてか、話しかけようとしてこない。話しかけてきたとしても、俺の逆鱗に触れてしまわないようにと、言葉を選んでいる雰囲気がひしひしと伝わってくる。
要するに、あのクラスメイトとやらと話すのはとてもではないが愉しくないのだ。
人の声が頭に響くと頭痛がひどくなるので、話さなくてもいいのは楽だからいいのだ。
だが……腫れ物にでも触るような態度と言うのは、酷く不快なのだ。頭痛と同じかそれ以上には。
だから、何も気にしなくていい正義との会話は気分がいい。
頭痛がなくなることはないがな。
「にしても、閑散としてますなぁ。いつもはもっと活気に満ちてる気がするんだけれど」
そんなことを馬鹿はニヤニヤしながら言ってくる。
馬鹿の分際で調子に乗っていやがる。少し灸でもすえねばならんな。
そう思って軽く正義の後ろ頭をたたく。
「ん?」
手応えがない。
人間の頭と言うのは、それなりの硬度を誇っているはずである。だと言うのに、全く拳に衝撃も感触も伝わってこない。
どういうことだ?
今度は手袋を外して正義の後頭部に拳を振るう。さっきのこともあったので、少し力を入れて。
ゴンッ。
「いっっっったぃ! 何すんのぉ!?」
「……いや、少し腹が立ってな」
「にしては時間差が過ぎませんかねぇ!?」
手袋を外したら、正義にしっかりとダメージを伝えることが出来たらしい。さっき手袋をつけて殴った時は殴られたことに気付いてすらいなかったと言うのに。
そんなことを思っていると、頭がズキリと痛んだ。その痛みのせいで床に片膝をついてしまう。
この痛みは……いつもの慢性的な頭痛とは少し勝手が違う。何と言うか、脳に外部から直接痛みを与えているような……よくわからない感じだ。
「おーい。何で殴った方が痛がってんの。しかも頭を。頭大丈夫? 侮蔑的な意味ではなくて純粋な心配で」
「……問題はない」
「そう? 問題はないって表情には見えないんだけどね……」
「……大丈夫だ。少しいつもよりも今日は頭痛がひどいだけだ。気にせず巡回を続けるぞ」
「……ま、ヤバいなら言ってな?」
心配そうな表情をしていた正義も、俺がこうなると聞かないことはよくわかっているのか、あっさりと引いた。
スマンな。心配かけてよ。
素直に言うのは恥ずかしいし、気に入らないので心の内だけで伝える
頭痛を少しでも和らげるために深呼吸する。普段の慢性的な頭痛ならこの程度では焼け石に水だ。だが、今の頭痛は少し毛色が違う。ならば、これでも効果がある可能性は十分にあるだろう。
…………ふぅ。一応は引いてくれたようだ。その頭痛が引いたおかげで普段の頭痛が、俺も忘れるなよ、とばかりにひょっこりと顔を出してくる。
安心しろ。お前とは長い付き合いだ。忘れることなどしない。それに……嫌でも忘れることなどできないしな。
そのことを考えると、頭だけでなく、胸の奥もちりちりと痛んだ。
胸の痛みを意識的に無視し、痛む頭を押さえながら、立ち上がる。
実に愉快で、実に厄介な俺の同居人だったらどうにか動くことが出来る。
気分はいつも通りに悪いし、不愉快な気分ではあるのだが、この程度ならば活動に支障はきたさない。
伊達に何年も頭痛に悩まされていないのだ。
今俺たちがいるのは中等部の校舎近くの広場。ここも普段の巡回ルートらしい。……正義がロリコンで無いかどうかが気になる今日この頃である。
ふと、先に行ったはずの正義が物陰に隠れて先を見ている。
何かを見つけてしまったらしい。
実に不幸なことだ。俺がいると、いつも何かしらの面倒事に出会ってしまう。俺を疫病神のように扱うのは遠慮してほしいところだ
「……何かあったのか?」
足音と気配を出来うる限り殺して、正義の背後につく。
そして、聞こえるか聞こえ仲程度の声量で正義に聞く。俺だったら、頭痛に遮られてまず聞き取れない程度の声量だが、正義にはしっかりと聞き取ることが出来たらしい。声に出さずに前だけを見ながら頷いている。
頭痛持ちで無い奴は、他に避けるリソースが多いようでうらやましいね。
「……見てみ」
正義の声音にはさっきのようなふざけたものが欠片も残っていない。
ここからは、ふざける時間ではなく風紀委員長としての時間と言うことだろう。こういう時にしっかりとメリハリをつけられるあたりはやはり、委員長か。
まぁ……真面目な空気を出していると言っても正義の顔には笑みが浮かんでいる。
影から少しだけ頭を出して、正義の視線の先を追ってみる。
「へぇ……」
思わず息をのんでしまう。
正義の視線の先にいたのはこれまたわかりやすいぐらいに『正義』に反するものだった。
蹲っている女生徒と、それを嘲りながら囲んでいる数名の生徒。
ま、端的に表現してしまうとするのならば、いじめの現場と言うやつであろう。
この学園は閉塞的であることに加え、一貫教育をしているせいか、いじめが激化しやすい。究極的な話、この学園に幼等部の頃からいる生徒の大半は外の世界を知らない箱入りのガキなのだ。
「おいおい……さすがにあれは笑えないよねぇ」
「? 何がだ? さっきから笑ってはいないが、特に何もないだろうに」
正義の顔には笑みが浮かんでいて(目はちぃとも笑っていないが)さっき見せた真面目な空気が吹き飛んでいる。それほどまでに何か面白いものでも見つけたのだろうか? にしては、目の内が全く笑っているようには見えないがね。
俺がそう言うと、正義は無言で指を指した。
その指の先にある光景は俺にとっても、それなりにセンセーショナルだった。
端的に言うのなら、明らかに生徒ではない人間がその苛めている集団の中にいたのだ。
その生徒ではない人間と言うのは、スーツを身に付け、煙草をふかしていた優男のような風貌の男。俺の記憶違いで無いのなら、中等部の教師をしている男だったはずだ。
……教師がいじめを黙認どころか、その観戦に来るとか世も末ってレベルじゃねぇぞ。
その教師までいじめに半ば加わっているような状況を見た正義の表情はそれほど変わらない。……こいつも何か思ってたりすんのかね。
そんなことを柄にもなく、考えてしまう。……慣れないことをすると頭の痛みが顕著になるから嫌だな。
「ここまで腐ってるかぁ……って、思っちゃうんだよね。そう思うのは、僕が風紀委員長だからなのか、まだ真っ当な精神で居られているからなのか……どっちなのだろうねぇ」
いや、何も思っていないはずがなかった。
普段はふざけた態度をとっている。そのせいか、とてもこいつがこの学園の『正義』の体現者であるとは思えない。が、そこは風紀委員長か。あんなのを見て、冷静でいられない程度にはこいつも『風紀委員』だったってことか。
正義の声音には、嫌悪感と、侮蔑。そして……これを事前に止めることが出来なかった自分に対する怒りが感じ取れた。
「……まともであると思おうぜ。俺もあれは頭がおかしいと思う」
「……よかった。僕はまだまともらしいね。流もそろって狂っている可能性は否定しきれないのだけれど」
「……そこは否定しろよ」
「むーりー」
……軽口が叩ける程度には、正義の精神も落ち着いたかな。目は一瞬たりとも苛め現場から離されてはいないが、これなら突撃を敢行することもないだろう。
あのままにしてたら、後先なんざ考えずに突っ込んで行っちまいそうだったからな。そんなことになったら、俺が面倒臭いことになるだろうが。
本当に、正義には俺への迷惑とか考えて行動してほしいものだ。
「……! 不味い!」
「あ?」
正義が声を上げたので、正義の口を押さえつつ正義の視界の先で起こっている光景の確認をする。
……あ? 何故、口をふさぐ必要があるのかって? あのいじめっ子どもにこっちの居場所がばれたら面倒になるからに決まってんだろうが。
バイト代分の仕事はするが、正義に示されたバイト代には、危険手当が加味されていなかったのでな。風紀委員会なんてこの学校で一番危険な仕事だってのに。
……風紀委員も財政難なのかね。
「何蹲ってんだよ! さっさと立ち上がれや!」
そんな少年の声が聞こえてくる。
まだまだ成熟していない、乳臭いガキの声だ。聞いてるだけで頭痛が増してくる。あんな奴には早急に静かになってほしいね。それも永遠に。
声につられてそちらに視線を向ける。
実に衝撃的なシーンに出くわしてしまったものだ。
まだまだガキだとは言っても男。女とは体格も力も全然違う。そんな中等部の男子生徒が、女子生徒の腹に蹴りを叩き込んだのだ。
あー、あれは駄目だね。音的にも、前行動からも、全く躊躇や加減ってものが見えなかった。
「…………っ! ケホッケホッ!
その証拠に、女子生徒は苦しそうに咳き込んでいる。
あの女子生徒は体格も小さく、まだまだ成長期の真っただ中だろう。そんな女子生徒が腹に……子宮にあんな重い蹴りぶち込まれたら後遺症が残る可能性も低くはない。
それを理解したうえで、あのガキは蹴ったのだろうか?
男が女を蹴ったと言うだけでも、最低の行いだ。それに、理解したうえで行ったと言うのなら、あいつは最低以下のクソ野郎だ。
現に、俺が口から手を放すタイミングが見極められなくて抑えたままの正義は今にも殺しに向かってしまいそうだ。
え? 俺が落ち着いているって。冗談はよしてくれよ。
俺の頭の中では、いつも以上に同居人が騒いでいてそれを抑えるだけで手いっぱいってだけだ。
この頭痛に感謝することなんて、滅多にないのだが、今日ばっかりは感謝してもいいかな。
悶絶している女子生徒に近寄って教師が煙を吐きかけている。
そんな仕草だけでも、正義の神経を逆なでてしまうらしく、盛りのついた犬も斯くやと言う域で正義が暴れている。
どうどう。冷静じゃないお前じゃ、俺の拘束からはぬけれねぇよ。
「おいおい。痛いですアピールは良いんだよ。……お前の成績が低いせいでうちのクラスの平均点が下がってんの。そのせいで俺の評価も下がってんの。わかる? わからないよなぁ。わかってたらもう死んでくれてるはずだもんなぁ。お前らもそう思わんか?」
「違いねぇ!」
「もっともだ! 先生の言うことはいつも違うぜ!」
教師の発言を聞いた生徒たちは、げらげらと笑いながら教師に賛同している。あの教師は生徒のことを取り巻きだとでも思っているのだろうか?
漫画の世界とかだと、ここで心配そうにいじめられている女子生徒を見ている生徒が一人ぐらいいてもいいと思うのだが……残念ながら、ここは現実である。
いじめに参加している連中は心から楽しんでいじめに参加している。
本当に、中等部は腐りきっているようだな。別に、高等部が真っ当だなんていうつもりはないのだが。
「ん?」
「……落ち着いた。離して。苦しいから」
とても落ち着いているようには見えない目をした正義が腕をタップしてくる。
ま、落ち着いたってんなら口元だけでも話してやるか。今すぐに大声を出しそうな感じではないし。それでも、肩ぐらいは押さえておく。走り出されても面倒だ。
口から手を放してやると、正義は大きく息を吸う。苦しいと言っていたのは本当の事のようだ。
ひとしきり新鮮な空気を肺に取り込んだ正義は肩に付けてある風紀委員の腕章に手を伸ばす。
その手を上から抑える。
「どうするつもりなんだ?」
「……僕のこの腕章投げ捨てればあの教師殴ってもよくなるのかなぁ。僕たち風紀委員は生徒の風紀を守る存在であって、教師には割と手出しできないんだよねぇ」
……もうトチ狂ってやがる。とてもではないが、風紀委員の発言ではないな。
ま、正義らしいと言えばらしいのか? こいつは何処まで行っても『正義』だからな。昔っから。
「……教師を殴るのは風紀委員であるないに関わらず、とてもではないが称賛されるような行いではないと思うぞ。俺が言うことでもないと思うがな」
「……んじゃ、流君はあのふざけた喜劇にもなりえないようなものを見逃せって言ってんの? ねぇ、そう言ってんの?」
そう言葉をこっちに投げかける正義の目に理性の光はない。
ただ、目の前で繰り広げられている光景が許せない。その光景を壊したくて仕方がない。
そんな下らないことを考えているのがよくわかる。まだまだ、青いな。同い年の俺が言えたことでもないが。
「……誰もそうは言ってない。それに……風紀委員長が問題を起こすわけにもいかんだろ。先代の風紀委員長にも顔向けできなくなるぞ。……顔向けできなくなるで済めばいい。最悪、先輩に殺されるぞ?」
前風紀委員長の顔は忘れたくても忘れられないだろう。
あの人は、正義以上に豪放磊落だったが、暴力の嫌いな人だった。……正確に言うと、理由なき暴力の嫌いな人だった。
暴力嫌いとかいう割に、俺のことは散々殴ってたしな。
そんな前風紀委員長は、正義が教師を半殺しにしたなんて聞いたら、最悪正義を殺しかねない。身内に甘くないのもあの人の美点だと思うしな。
「なら、どうしろってんですかねぇ……!」
そんなことを言いつつ、怒りをぶつけるように正義は俺の胸ぐらをつかみあげる。
正義は体の線は細い割に筋力はそれなりにある。正確に言うと、正義の脳のリミッターは酷く緩いのだ。だから、激情するとすごい力を出す。
そんな正義に胸ぐらをつかまれている俺の脚は、少しではあるが地面から浮いていた。
地味に痛いし、脳に酸素が届かなくなって頭痛が増すから、こういうのはやめてほしいと切に思う。
「……別に放置しろなんて言ってないだろ。適材適所ってことだよ」
「流が汚れ役を買って出るっての? そんなことを許すと思う?」
「……許す許さないではないだろ。お前にはお前の役がある。俺には俺の役がある。俺の今回の役柄は、あそこにいるやつらを教師も含めて叩きのめすことだ。お前の役柄は、あそこでいじめられている少女のアフターケアを行うことだ。……俺の助ける姿は、悪役(ヒール)だからな。少なくとも、女の子に好かれるような姿で無いのは確かだ」
「それでも、流ひとりに行かせるわけにはいかないよ」
本ッ当に面倒くせぇ性格だな。
この性格は絶対に損するだろう。もう汚れきってる俺が汚れるのは理にかなってる。わざわざ、風紀委員長様まで汚れる必要はねぇよ。
「理解しろ。お前がするべきなのは、激情に駆られて教師を殴りつけることでも、風紀委員長の職を辞することでもない。俺があの女子生徒を助けた後のアフターケアをすることだ。わかれ」
「…………」
俺の言っていることが理解できないほどに、正義が愚かであるはずがない。そのことを俺は信じている。信じるなんて柄にもねぇことだがな。
だから、俺はこれ以上の言葉を重ねない。信じた人間に無意味に言葉を重ねることはその信頼を汚すことに他ならないからだ。
俺は、正義の返答を待って口をつぐむ。
これ以上に禅問答を続ければあの女子生徒の身が危ない。そのことを踏まえたうえでの無言だ。
「……あー、もうわかった。流に任せる。これで良いの?」
唐突に頭を押さえたかと思うと、そんなことを言う。
「感謝する」
「感謝される謂れはないよ。僕が感謝すべきことだとは思うけどね」
「俺があのクソな教師とガキどもをぶちのめしたくなった。だから、お前には少しばかり我慢してもらう。これのどこに感謝する必要があるのだ?」
「流は昔っから偽悪的だよね」
「……言ってろ」
俺は、正義の笑顔を確認してから、一歩を踏み出す。
その一歩と同時に、ポケットにしまっている錠剤入れを取り出そうとする。が、そのポケットに突っ込んだ手を上から抑えられる。
嫌そうな表情をその手の持ち主である正義に向けてやる。正義はここぞとばかりに満面の笑みをこっちに向けてきていた。
「……この手は何だ?」
「さぁ? なんだろうね」
「離せ」
「いいけど、流がこれ使うんだったら、僕があいつら潰しに行くよ?」
その発言を聞いた瞬間に言いようのない頭痛が俺の頭を苛んだ。これは頭痛と言うよりも、気持ち悪さか。ただただ不愉快にさせられる。
こいつは……本ッ当に……………………クソが。
「……わーったよ。使わねぇ」
「それで良いんだよ。僕だって流運んでくのなんて御免だしね」
「ハッ……言い寄るわ」
俺はポケットから出した錠剤入れを正義に渡す。
その錠剤入れを受け取った正義は満足げに微笑んだ後、その錠剤入れを大事そうにポケットにしまった。
ま、煩雑に扱われても困るのだが。
さて、これで後顧の憂いはなくなったな。行きますか。あ、一応手袋はとっておこう。後で何が起こるかわからんし。素手のほうが何かと勝手が良い。
俺は物陰から身を躍らせる。いじめっ子どもとクソ教師は女子生徒をいじめるので忙しいようで、全く持ってこちらには気づいていない。
目の前のことに集中するにしても、気配りが足らなさすぎる。所詮はガキか。
苛められている女子生徒だけが俺の姿に気付いたらしい。目を見開いている。
そんな女子生徒に対して唇の前で人差し指を立てるジェスチャーを送る。黙っててくれよ? もう少ししたら助けてやるから。
そんな俺を見た女子生徒の表情が少しだけ明るくなった。
「どこ見てやがる!」
自分のことを女子生徒が見ていないことが気に入らなかったらしい、ガキはまた少女の腹に蹴りを叩き込もうとしている。
さっきよりもずいぶんと大きく振りかぶっている。躊躇はないらしい。
そんなガキを見た女子生徒は俺が来ていると言うことも忘れて、身をすくませる。
大丈夫だぜ? これからは、君が主演の『悲劇』ではない。俺が主演を務める『喜劇』の始まりだ。
……ま、R15指定ぐらいは掛けないといかんと思うがね。
「オラッ!」
ガキは足を振りぬこうとしている。やらせねぇよ、バーカ。
ガキと女子生徒の間に割って入り、迫ってくる足を受ける。うむ、大して痛くもないな。所詮はガキか。
ま、不愉快ではあるがな。
「なっ!」
俺の唐突な乱入に蹴りを放ったガキは驚いている。このガキと女子生徒を囲んでいる他のガキどもも驚いている。
教師の目が見開かれているのを見ると多少は愉快な気分になれる。頭痛のせいでうまく笑顔を作ることはできないが。
とりあえず、驚いているガキどもは放置でいいだろう。こいつらに関わっていても、大して楽しくはなさそうだ。
俺は、制服の上着を脱ぐと、まだ立ち上がることもできなさそうな女子生徒にかけてやる。これぐらいのことは当然の事だろう? 俺らしくないとか言った奴は後でぶちのめす。
とりあえず、物陰で驚いた顔をしている正義はぶちのめす。
……さて、正義をぶちのめすのは後でいいのだよ。
俺は驚きからようやく立ち直ってこちらを睨んでいるガキどもに目を向ける。
何ともまぁ。実に愛らしい顔をしているようで。……吐き気がするね。
「……テメェ、誰だよ。俺たちの邪魔してんじゃねぇぞ、カスが!」
「そうだそうだ!」
「さっさとひっこめ!」
おう、集団ヒステリーって奴か?
俺のことを取り囲んでいるガキどもはギャンギャンとわめいている。うるさいったらありはしない。俺の頭痛が増すし、紳士的な会話もできねぇだろうが。
だから、俺はとりあえずガキを黙らせることにした。
目の前にいる、さっきから女子生徒に蹴りを入れていた集団のリーダーらしいガキの頭をつかむ。
「何しやがる! 離しやがれ!」
「感謝しろ。キスの味ってやつを教えてやる」
「ハァ? 何世迷言をほざい……」
頭をつかんでいる腕を勢いよく下に振り下ろす。
ガキの首からグキッという致命的な音が聞こえてきた気がするがどうでもいい。そんなのは副次効果だ。
そんな副次効果である音を聞きつつも、振り下ろす腕の力は一瞬も緩めない。そのまま、勢いよく腕を下に向けて降ろしていくと……あら不思議。ガキの顔面と地面であるアスファルトとの距離がゼロになる。
嫌だね。こんな衆人環視の下、キスするなんてよ。
……ま、相手は地面だけれど。
「くぁっ!」
「奇怪な鳴き声を上げるな、ガキ」
叩き付けてやったと言うのに、意識があるようだったので、先輩の慈悲としてもう一度頭をアスファルトに叩き付けてやった。
今度こそ、しっかりと意識を飛ばすことが出来たらしい。
ガキの頭を掴みあげて左右にプラプラと振ってみてもうんともすんとも言わない。ついでに、周囲で騒いでいたガキどもも全員黙っている。
一人の犠牲によっての平和、か。
うむ。世界と言うのは犠牲の上に成り立つのだな。また、俺は一つ学ぶことが出来た。ありがとう。名も知らぬガキよ。
一応、感謝の言葉を心の中で告げる。……告げたらもういらん。
ゴミでも捨てるかのようにぞんざいにガキを抛り捨てる。
「さて……静かになったところで、自己紹介でもさせてもらおう。お偉い先生サマもいらっしゃることだしな」
固まっている教師に視線を向ける。
相当に冷たい視線を殺気も混ぜつつ送ってやったつもりだったが、そこは教師か。大してビビッてもくれなかった。
「……俺は、高等部二年の杉浦 流だ。よろしくは別にしてくれんでもいい」
数名のガキの表情が凍える。
俺の名前を知っている奴がいたのかな? 後輩にどんな名前で情報が伝わっているのかは素で気になるな。たぶん、痛々しい二つ名とかも伝わっているのかもしれない。
……ん? 俯いたまま、プルプルと震えているガキが一人いることに気付く。
何か怖いことでもあったのか。それとも、義憤に駆られているのか。それとも、リーダーが潰されて何か思うことがあるのか。
どれにしたって、この後の行動は大体予想がつくと言うものだ。
「よくも、大河を!」
このガキは一番愚かしい選択をしたようだった。
このガキの選択は怒声を上げ、怒りを撒き散らしながら俺に殴りかかっていると言うもの。
別に、攻撃するのは構わん。だが、何か強い感情を持っている時と言うのは得てして視界が狭くなるもの。
そんなガキは怖くもなんともない。
「喰らえっ!」
そんなことを言いつつ、こちらに駆け寄ってきたガキは拳を振るう。うん。実に単調な攻撃だ。欠伸が出てくるほどには。
俺はその拳を避けながら、ガキのほうに一歩踏み出し、距離を詰める。
「つまらんガキめ」
そうガキの耳元で小さく囁いてやる。
その言葉がガキの耳に届くか届かないかのうちに、俺はクロスカウンター気味の膝蹴りをガキの腹部に叩き込む。
ガキが若干こちらに突っ込み気味にきていたので、ガキの突進のスピードが俺の蹴りの勢いに加味される。そして、その加味された勢いは蹴りの威力に直結する。
しかも、狙った位置は鳩尾。人体の急所の一つに数えられている部位だ。
どの程度の痛みがガキに伝わったのかは、察するに余りある。
膝に鈍い手ごたえも複数感じたので、折れたのは一本や二本ではないだろう。これでこのガキは病院コース、っと。
病院のベッドの上でいじめってやつの意味でも考えるんだな。
崩れ落ちるガキを足蹴にしながら、周囲を見渡す。もう俺に逆らおうと言う気概があるやつはいないようだ。
それはそれで楽なのだが……こうも弱いとつまらなく思えてくる。
「センセイサマ。それじゃ、静かになったところで俺と楽しくトークでもしようぜ?」
「……『頭痛鯨』」
教師が口を開いたかと思うと、意味の分からない言葉を口にする。
その言葉は、俺を囲んでいるガキの間では有名なのか、ヒソヒソと周囲にいる人間と話している。
「あー……何だそれは。大体予想はつくので説明はせんでもいいが」
大方俺の二つ名だの、異名だの……そう言う恥ずかしいものなのだろう。
わざわざ他人が名づけた恥ずかしい二つ名を率先して使う趣味もなければ、他人からの評価には興味もない。
「それは良いとして、一つ質問だ。……テメェら、よってたかって何してやがんだ?」
痛む頭を押さえ、平静を装いつつ言葉を紡ぐ。
意外と、こういう感情が振れてる時に表情を整えるのって苦手なんだけどね。
「なぁ、センセイサマよ。俺にご教授してくれねぇか?」
「……フン。教師がすることなど一つだ。教育に決まってるだろうが」
「教育ねぇ……」
俺は初等部からこの学園に在籍しているが、よってたかって一人に暴行を振るわせることが教育などと習った覚えはない。
まぁ……そんなふざけたことを言っている奴が仮にいたとしたら、正義がぶちのめしているはずだ。と、言うか平然と体罰を行ってくるような教師を半殺しにしてしまった記憶がある。
若気の至りと言うやつだ。
その時は、随分と正義から小言をもらったものだ。教師に体罰を振るんじゃありません、とかなんとか。
だが、あの時は俺の睡眠を邪魔するだけに飽きたらず、俺を文字通りに叩き起こしやがった。揺すられて起こされるぐらいだったら、あそこまでにはならんかっただろうな。
ま、いいや。過去を振り返るのはまた今度、正義とでもすることにしよう。
「これが教育か? 女の腹に渾身の蹴りを叩き込ませることが? ともすれば死んでたかもしれんのにか?」
「死んでくれたら最高だったんだけどなぁ。しぶといからまだ生きてやがんだよ」
「……………………」
駄目だな。これは駄目だ。
この腐れ教師の言っていることが欠片も理解ができない。
俺は、話をするときは極力相手のことを理解しようと努めるのは最低限のマナーだと思っている。これだけはどれだけ頭が痛くても、それを言い訳にしてはいけないだろ。
理解しようとしたうえで、駄目だったらそれはそれ。そいつとは距離を置きゃいい。
だが、こいつは駄目だ。理解するしないではない。
端的に言ってしまうと、理解したくない。こんなクソみたいな思考を持った人間が自分と同じ人間だと思いたくない。それが故に、脳が理解することを拒否しだしている。
死んでくれたら最高? しぶといからまだ生きてやがる?
俺の頭痛が一段と激しさを増す。いい加減に、思考に靄がかかってくる。
ヤバい。そう思うが、頭痛は激しさを増すばかりで一向に沈静化してくれない。
「何黙りこくってやがんだよ、ゴミ野郎。もう話すことはないのか? なら、さっさとそのゴミの前から退けよ。お前が、うちの生徒を潰しちまったせいで生徒が怯えちまってるじゃねぇか。だから、俺がそのゴミを処理しなきゃいかんだろう」
そんなことを言いつつ、腐れ教師が近づいてくる。
「おい。退けよ」
その腐れ教師が俺の肩に手を乗せようとする。
触れられてしまえば、この教師と同じになってしまうのではないか。そんな錯覚に駆られる。
プツン。
そんな音が脳内で響いたかと思うと、頭痛が俺の許容値を超える。
教師の手が俺の肩に触れる直前。俺はその教師の手首をつかむ。頭痛のせいか、加減ができていないように思える。
「あ、がぁぁぁぁぁぁーー!」
教師が悲鳴を上げているようにも聞こえるが、窓を間に挟んでいるかのようで現実味が薄い。
ただ、うるさいなと漠然と感じてしまう。
うるさい。その声が脳内で反響して、頭の中の同居人が更に騒ぎ立てる。
そのうるささを取り払わなくては、同居人が狂喜することを止めることは叶わないだろう。
ならば、止めなければな。
そう思う俺は、教師の手首から手を放し、手首の代わりに教師の頭を掴む。
そのまま流れるような動作で頭を引き寄せ、それと同時に膝を振り上げ、教師の顔面に膝を叩き込む。
感触的には前歯の一本でも折ったのだろうか? 体の感覚すら麻痺しているようであまりよくわからない。
教師が何かを言おうとしたと言うことだけ脳が認識する。
何かを言おうとするのなら、止めなくては。
もう一撃膝を叩き込む。今度は鼻面に当たったようだ。ズボンの膝の部分に少しだけ紅い何かがついている。
それを見ると、頭痛が少し和らいだような気がする。
何でもいいから、この頭痛を抑えたい。この紅い何かを見ると、心なし頭痛が和らぐような気がする。この紅い何かはこの俺が頭を掴んでいる何かの鼻から出てきている。
この紅い何かを見るにはどうしたらいいのだろうか?
そんなことを考えると、体が自然と動いていた。
俺は手に掴んでいる何かを動かして、それを地面に叩き付ける。その何かの上にまたがると、淡々と拳を鼻の当たりめがけて振り下ろす。
拳に、頭痛を鎮静させてくれる紅い何かが付着している。それを視界に入れると、また頭痛が少し和らいだような気がしてくる。
これはいい。
俺はただただ俺の下にいる何かめがけて拳を振り下ろし続ける。
紅い何かが舞う光景を見るたびに、頭痛が和らいでいく。頭痛が和らいでいくような気がするたびに、何かが頭の中から零れ落ちていくような感覚がある。
はて? 俺は何をしていたのだったか? 俺の下にいるこいつは誰だったか? 何をしたいのだったか?
わからない。思い出せない。思考に靄がかかっているのか、本当に剥落していっているのかすらもわからない。
ただ、何かに突き動かされるように拳を振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。
すると、唐突に腕が止まった。
無論、自分で止めるはずがない。この紅いものを見なければ頭痛が止まないのだ。拳を止める必要性がない。
俺の腕を止めている男が口を動かしている。だが、何も耳に入ってこない。いや、耳には入ってきているのだが、その音の意味を脳が認識しない。
何なんだよ。お前は何なんだよ。俺の邪魔をするなよ。
そう思って、男に向けて拳を振るう。
男は俺の拳をあっさりと受け止めると、俺の口の中に異物を押し込む。
昔からのくせで、口に入ったものは違和感でもない限りは吐き出さない。それに、これは口の中の感触に覚えがあるので、特に危険なものではないと判断する。その異物を嚥下する。
その直後、俺は男によって拘束される。顔を地面に押し付けられた状態。しかも、左腕はしっかりと関節を極められている。抜け出すためにもがくが、抜け出せない。
もがいていると、思考にかかった靄が晴れはじめる。脳内を包んでいたアラートが静かになっていく。
「……い、…ち……た?」
声が少しずつ認識できはじめている。それと共に、思考が整ってくる。
俺を今抑えているのは、風紀委員長こと正義。俺がさっきまで殴っていたのは、腐れ教師。俺はいじめられている女子生徒を助けに来たわけであって、教師を殺しに来たわけじゃない。
そこまで思考をまとめることには成功した。
今思うと、口に入れられた異物はさっき正義に渡した薬だったのだろう。頭痛が完全に治まっている。
意識がはっきりと覚醒している状態で頭痛がないのなど、滅多にないと言うのに。
「……離せ」
「あ、正常になった? 本当に? かみついたりしない?」
「……俺は猛獣じゃないぞ。お前と違ってな」
「そんなことを言えるんだったら大丈夫だね」
正義が俺の拘束を解く。
体についている土を払いながら立ち上がる。周囲を見回してみると、随分と酷いことになっている。
俺がさっきトリップ状態で殴っていた腐れ教師は、もはや誰であるかもわからないほど顔が腫れ上がった状態で、死にかけのカエルのようにピクピクとしている。
さっきまで俺を囲んでいたガキどもは肩を寄せ合って震えていた。中には涙を流しているような者すらいる。さっきまでの威勢は何処へ行ったのやら。
「うむ。頭痛がないと言うのは実に気分が良いな。この後のことを考えると憂鬱だが……」
「しゃーないでしょ。あのままだとこのおっさん確実に死んでたしね」
「それで、俺はどうなってたんだ?」
周囲の惨状を見れば、どれほどのものなのかは予想がつく。
だが、如何せんさっきはトリップしたような状態だったので、記憶があいまいで現実味がない。第三者視点の感想を聞かないことには理解できないだろう。
「端から見た感じだけど、流に教師が近づいた辺りで、流の動きが止まり、教師が流をどかそうと肩に触ろうとしたのか? 遠目だからよくわからんかったが、その手を掴んで容赦せず顔面に膝蹴り。そのあとはマウントポジションからの滅多打ちだね。さすがにモザイクも何もなしだと、中等部のガキにはきついだろうねぇ」
「あー、メンゴ」
「ホントにね。君には、あとで反省文と懲罰房行きが確定してるから」
「そのぐらいなら甘んじて受けよう。……だが、反省文は何とかならんか?」
「ダメ」
チッ。ま、こんなにやらかしたんだ。
女子生徒を助けるためとはいえ、随分なことをしたものだ。まぁ、反省する心などと言うものは毛ほどもない。必要なことだったのだと割り切る。
実際に、これ以外に手はなかったのではないかと思う。……うん。これ以外に手はなかったのだ。そうしておくのが精神衛生上一番いい気がする。
それに……
「どうせ、また暴れることになるしな。拘束でもしてくれるとありがたいものだ」
「……風紀委員の懲罰房はお前のためのホテルではないんだよ?」
「良いだろ。どう活用しようとな」
これ以上俺にできることはない。それに、薬の副作用が始まるまで大して時間が残っているわけでもない。
この場は正義に任せて俺はさっさと懲罰房にでも行きますか。
「て、ことで。後よろしく」
「うん、これが僕の役目らしいしね。特に何も思うことはないよ。流の副作用が収まったころに迎えに行くよ。……精々、懲罰房を壊さないようにしてね」
「善処はする。……が、自信はないな」
俺がそう言うと、正義はがっくりと肩を落としてしまった。
しょうがないだろう。薬を飲ませたのはお前だ。薬がないと止まれない状況だったってことは否定しようもないがね。
さてと、それでは行きますか。時間はこうやってふざけている暇にも着々と進んで行くのだからな。時は金なり。それに、俺は貧乏暇なしだしな。
その場を後にしようと、踵を返すと、さっき制服を貸してやった女子生徒がこちらを見ている。起き上がる気力はまだまだないらしい。
その少女に軽く手を振っておく。
笑顔を見せようとも思ったが、止めにした。笑顔の作り方なんてとうの昔に忘れてしまったわ。
少女の反応を確かめもせずに俺は今度こそ、その場を後にする。
あー……かったりぃ。
真っ暗な部屋の中。
俺は、最低の気分で椅子にくくりつけられている。椅子にくくりつけられていると言って、縄でも想像したか? 残念。正解は強固な鋼鉄製の鎖だ。
ギッチリと椅子にくくりつけられているせいで、少しでも身じろぎすると体に食い込んできて実に痛い。
それに、数時間前に一度完全に治まった頭痛がまた俺の頭の中を蝕んでいる。
日常生活に支障をきたすほどではないのが救いだ。
暗闇と頭痛が合わさって、俺の眠気を助長している。いや、正確に言うのならば、暗闇で拘束されている。更に頭が痛い。そんな何もできない状況では眠る以外の選択肢がないと言うだけなのだが。
眠れば頭痛も感じずに入れるから眠ることに異論はない。
目を閉じると、わずかの時間も経たずに意識がなくなる感じが脳の端からやってくる。
そんな時、瞼の上から伝わった光が網膜に入って意識が急激に覚醒する。手放しかけていた意識が戻ってくるとともに、頭痛まで戻ってきやがった。
……最低な気分だ。
「……起きてる? 流」
「……起こされたよ」
「それは何より」
目を開けると、そこには扉をあけ放った状態でこっちを見ている正義がいる。体内時計などと言う良いものは俺の体にはついていない。
それに、真っ暗な空間にいたから時間間隔もさっぱりと狂ってしまっている。
最低でも二時間以上はこの懲罰房にいる気がする。が、それ以上となると、よくわからない。
「もう夕食の時間だよ。早くいこう」
「……早くいきたいと言うのなら、俺の拘束を解いてくれるとうれしいのだがな」
「これはうっかり。忘れてたよ」
そう言いつつ正義は懲罰房の中に入って俺の体に巻きつけてある鎖をほどいていく。
幾重にも巻きつけられている鎖は取り外すだけでも一苦労のようだ。
それに、鎖をただ巻くだけだとすぐに解けてしまうので、要所要所には錠も掛けられている。その錠に鍵を合わせていくだけでも時間がかかる。
自分から望んだこととはいえ、随分と面倒だ。必要なことだったので妥協はしなかったが。
数分も掛けることで俺の身を拘束していた鎖は解ける。
立ち上がって、関節の調子を確認する。長らく座っていたので腰や肩からはバキバキと鈍い音が聞こえてきたが、十二分に動く。生活にも支障はないだろう。
「それで? 俺はどのぐらい懲罰房にいたんだ? 端的に、今何時だ?」
「今は七時半ぐらい。流が懲罰房の中にいたのはざっと三時間とちょっとぐらいだね」
ふむ。そんなに経っていたか。
時間がずいぶんと経っていたと言うことを自覚すると、急に腹が減ってきた。正確には、さっきからずっと腹は減っていたのだろうが、今自覚したと言った感じだ。
「今日の夕食当番って誰だっけ?」
「読子」
「……帰りにてきとうに夕食買ってかんといかんな」
「察しが良いようで何よりだよ」
正義も俺の発言にしみじみと同意している。
読子は、正義と流のいる寮の寮生なのだが、家事の類が苦手と言うわけでもないのに、全くしたがらないと言う女だ。
そのせいで、読子が食事当番のときは自分で適当に用意すると言うのがうちの寮では鉄則になっていた。……食事当番の意味を考えてしまうな。
正義と共に懲罰房から出ると、暗闇に慣れていた目に光が入ってきて、一瞬だけ視界がフラッシュアウトする。
危険なので、その場で止まる。
数秒で視界が明るさに慣れ、周囲の光景が認識できるようになる。視界にはいtt来るのは見慣れた懲罰房前の廊下。見慣れたと言うあたり、俺が普段どれだけここにぶち込まれているかが察せると言うものだ。
「ん?」
懲罰房の入り口横に誰かが立っていることにやっとのことで気づいた。
そこにいたのは小柄な少女で、身長は百四十センチ前後と言ったところだろう。その小柄な体型に見合わず、それなりに発育は良いらしいとだけ表記しておこう。俺も変態扱いはされたくない。
そんな発育よりも、少女には気になる特徴があった。少女は体のところどころに包帯を巻いているのだ。それも痛々しいほどに。
左目には眼帯もつけている。
……一言で言いあらわすのならば、中二病患者と言ったところだろう。良い言葉だ、中二病。理解できない人種のことはとりあえずこう言っておけばいい気すらしてくる。
ま、そんなふざけたことはないだろう。何の関係もない中二病患者を懲罰房周辺に立ち入らせるなんてことは、さすがに警備がザルな風紀委員でもないだろう。
てぇことは、新しい風紀委員って説が濃厚だな。見回りの最中に怪我でもしたのか? 俺には関係のないことだが。
「あー、もっと中で待っててよかったのに。ここは寒いでしょ?」
「大丈夫です。……あのクラスにいることに比べればこのぐらいどうってことないです」
正義は普通に会話している。新しい風紀委員だったら、俺に一言説明があってもよさそうなものだが……。
……改めてそう考えてみると、俺の立ち位置と言うのは実によくわからんことになっているな。
「ん? 流、この子が誰だかわからないの?」
「皆目見当もつかんな。誰だ」
「ふぅん。ま、流なんてそんなもんだよね」
「……今の発言の真意を問おうか」
「とりあえず、自己紹介してよ。鵜菜ちゃん」
俺の発言など聞こえていないような口調で、正義は少女に語りかける。
少女は俺の前に歩み出ると、深々と頭を下げる。
「さっきは本当にありがとうございました」
「さっき……?」
俺が首をひねっていると、少女は顔を上げる。
「私は中等部二年の片瀬 鵜菜(かたせ うな)です。先輩には先ほど助けてもらいました」
「……あぁ、さっきの」
先ほど助けてもらったと言う発言でこの少女が誰なのかに思い至った。
さっき屑どもにいじめられていた女子生徒か。あんま顔よく見てなかったから気づけなかったよ。
確かに言われてみると、さっきの女子生徒はこんな顔をしていたような気がしないでもない。
薬の副作用のせいで、薬を飲む前後の記憶があいまいになっているみたいだ。実に不愉快な気分である。時間が経てばなおるだろうが。
俺は、一度目の前の少女――鵜菜から視線を外して正義のほうを見る。
「……後遺症とかは?」
「残らないってさ。保険委員長から太鼓判貰った」
「…………そうか」
後遺症が残らなかったのならよかった。
アレで後遺症が残っていたりしたら、この後またあのクズどもを粛正しに行かなければいかん。時間も時間なので、今の管轄は警備委員会だろう。警備委員会につかまったら、面倒なことになる。
なので、そう言う自分のことも含めたうえで、鵜菜に後遺症が残らなかったのはいいことだと思う。
「んで? こいつどうすんの? 今から寮にでも送ってやんの?」
「そうだね。行くのはうちの寮だろうけど」
「……そう言うことか」
うちの学校は基本的に全寮制である。その寮は基本的にランダムに決められているのだが、転寮と言うのもないわけではない。と、言うかうちの寮は正義以外の人間は、俺を含めて全員が転寮してきた人間だ。
そんな寮の説明は置いておいて。
たぶん、鵜菜の寮には鵜菜の学年の人間も少なからずいるだろう。
そんなところに鵜菜を戻したら、いじめが再発する。それどころか、悪化する可能性もある。そうなるぐらいだったら、地理は悪いが俺と正義がいるうちの寮に転寮させたほうが良いだろう。
そんなことに脳のリソースを使っていたら、頭痛が忘れるなとばかりに響きだす。そのせいで表情が硬くなってしまい、そんな俺の表情を見た鵜菜の表情が固まる。
「わ、私何か先輩の逆鱗に触れるようなことしましたか……?」
ビクビクと震えながらそんなことを俺に問うてくる。
「いや……」
「流はいつもこんな感じだから、気にしないでいーよ」
説明しようとしたら、正義にインターセプトされた。
……………………腹が立つので、あとで殴ってやろう。今は鵜菜がいるので遠慮しておいてやろう。
「それじゃ、行こっか?」
「……そうだな」
俺は声が不機嫌になったことを自覚する。
そんな俺の声を聴いた鵜菜はまた体を緊張させている。
…………はぁ。
「ひっ……!」
俺が鵜菜のほうに手を伸ばすと、露骨におびえた表情をされてしまった。
……そんなに今の俺の表情は恐ろしいのだろうか? さすがに少しだけ傷ついてしまう。
俺は鵜菜の怯えた表情を見ながらも、鵜菜の頭に向けて手を伸ばす。鵜菜は相当に怖くなったのか、目をキュウっと力強く閉じる。
そんな鵜菜の行動を見ながら、鵜菜の頭に手を置いて頭を撫でてやる。
「ふぇっ?」
「まぁ、なんだ」
ここで優しい表情で優しい言葉でもかけてやれば、鵜菜は安心するのだろう。だが、頭が痛い今は生憎そんな表情は出来ん。
なので、できるだけ優しくなるように気を付けながら声を出す。
「さっきはあのクソガキどもとクソ教師に俺が勝手に腹立っただけだ。お前は気にせんでいい」
「え?」
その一言だけ言った後に、キョトンとした表情の鵜菜の頭から手を放す。
これ以上は何も思いつかん。照れのせいか、ガンガンと頭が痛む。……囃し立ててんのか?
「かっこいいね。だけど、ちょっとだけ言葉が足りないかな?」
「……うっせぇ!」
ニヤニヤとした表情を俺に向けてきている正義の顔面に拳を叩き込んでやる。少しだけ気が晴れた。本当に少しだけだが。
そんな感じに正義を殴ったせいで、正義は鼻血を流し、それを手当てしているうちに更に寮に戻るのが遅くなった。
……悪いのは俺じゃない。
寮に戻るころには随分と良い時間になっていた。
陽はどっぷりとくれ、そんな暗い街を街灯が柔らかに照らしている。まぁ、俺たちの寮の周囲には街灯などほとんどなく、明かりになりそうなものと言えば、月の光ぐらいのものなのだけれど。
「ようこそ。僕たちの寮、そして今日からの君の寮、『月森寮』へ」
寮の入り口で、正義が大仰な仕草でそんなことを言っている。正義らしい歓迎の仕方だ。玄関を占拠してやられると邪魔で仕方がないが。
それに、そんな正義に付き合って鵜菜が丁寧に頭を下げているせいで、余計に場所を喰って寮の中に入れやしない。
小芝居をやっている二人を退けて寮に入ると、真っ先に感じたのはやっと帰ってこれたかと言う謎の安心感と今日一日活動したことに対する脱力感だ。
何故かこの寮の中にいると頭痛が止むわけではないが、軽くなるのでこの寮にいるのは嫌いではなかった。
靴を脱いでから、改めて深呼吸する。すると、鼻孔に直撃したのは濃い酒の匂いだ。
「なんですか? すごくお酒臭いです……」
「うん。学生寮にはあるまじき匂いだよね」
「もっともだ。あのクズはいつも通り手酌で一人酒でもあおっているのか?」
「そうだろうね。僕はあれ片付けてくるから、鵜菜ちゃんのことよろしくね。バイビー」
そう言い残して、正義は食堂の方に走って行ってしまう。……完全に鵜菜を押し付けられた形になってしまった。
おいおい。勘弁してくれよ。俺は今から寝たいんだがな……。
そう思いつつ、鵜菜のほうにさりげなく視線を送ってみると、ばっちりと目があってしまう。何でこっち見てんだよ。
しかも、目ぇあった瞬間に目ぇ逸らすなよ。悲しくなるだろうが。
面倒だが、寝る場所ぐらいは案内してやらんといかんか。本ッ当にめんどくさい。
「……ついてこい」
「え?」
とりあえず、返事も待たずに先に進む。そんな俺の背後をおっかなびっくりと言った感じでついてくる。
さて……どこにしようか。この寮は、宿直室が一つ。それと二階と一階に五つずつ部屋がある。
宿直室も含めて四つしか使われていない。まぁ、使われていない部屋も定期的に(正義が)掃除しているだろうから、別にどこを使わせても問題はない気がする。
とりあえず、ここでいいか。
一階にある玄関に一番近い部屋の扉を開ける。この部屋は、比較的きれいにしていた気が……。
「…………何だと」
綺麗にしていたと思っていた部屋の中には、大量の本が所狭しと平積みされていた。それこそ足の踏み場もないほどに。
犯人の顔が俺の脳裏にすぐに浮かぶ。まぁ、この寮には鵜菜を除いても四人しか暮らしていない。消去法をするまでもなく、誰がこんなことをするのかは予想がつくと言うものだ。
その部屋の扉を閉めて、隣の部屋の扉を開ける。この部屋にも本が大量に置いてあった。
隣の部屋にも大量の本が置いてあった。
その隣の部屋にも。
その隣の部屋にも。
……………………。
俺は臨界点を突破した怒りを持って、最後の部屋の扉を荒々しく開ける。
「……………………」
その部屋の中にも、一階の他の部屋と同じく大量の本が置いてある。他の部屋と違うところと言えば、その大量の本に埋もれるようにしてうちの学園の制服を着た女子生徒が本を読んでいると言うことか。
その少女は、俺がだいぶうるさく扉を開けたと言うのに聞こえていないのか、それとも聞こえたうえで無視しているのかわからないが、本から顔を一向にあげようとしない。
この行き過ぎた文学少女が、この寮の三人目の寮生の日暮 読子(ひぐれ よみこ)だ。
こいつは本を読みたいからと言って、授業をさぼって図書室と寮を往復するだけの読書中毒者だ。
頭痛持ちの俺からすれば、活字など頭痛の種なので、そんな活字の集合体である本を好んで読むこいつの気が知れない。
「読子」
読子に近づいて、その手にある本を奪う。
すると、ようやく俺の存在に気付いたのか、顔を上げる。
「流先輩。何の用ですか? 早く本を返してください」
「本は話が終わったら返してやる。俺の要件は一つだ。いつもいつも言っているが、空き部屋を書庫代わりに使うな。あそこはお前用の書庫じゃねぇんだよ」
「良いじゃないですか。どうせ、人もいないんですし」
「新しく人が来た時に困るだろうが」
「新しく人なんて来ませんよ……って、あれ?」
そこまで話して、ようやっと俺の後ろに見知らぬ人物が立っていることに気付いたらしい。
読子は、鵜菜の顔や体中を舐めるように見る。そんな読子の視線を受けた鵜菜が居心地悪そうに身じろぎするが、鵜菜の反応など知ったことはない読子はじろじろとぶしつけな視線を向け続ける。
「うん」
そう一言いうと、興味を失ったかのように読子は鵜菜から視線を外す。
「流先輩。先輩は知らないかもだから教えてあげますけど、誘拐は犯罪ですよ?」
「……よっぽど殴られたいらしいなぁ」
今日は薬を使ったせいもあってか疲労感がマックスだ。そこにこんなからかいとも本気とも取れる言葉を言われたら、キレるのもしょうがないだろ?
そのキレた拍子に少し拳が出てしまっても、不可抗力だと思う。うん、論理武装完了。殴るか。
「先輩。暴行も犯罪になるからね。ここで男である先輩が、か弱い女の子である私を殴ったら訴訟沙汰だよ」
「…………ちっ。本片付けとけよ」
「や~だよ~」
これ以上、読子と話していても建設性が欠片もない。俺と読子は、間に正義を挟んだ関係ぐらいがちょうどいい気がする。
てきとうに本を読子に投げ返してから鵜菜を伴って読子の部屋を出る。
「もう二度と来ないでね~」
「言ってろカス」
読子の発言に毒を返してから、部屋の扉を閉める。
あー……クッソ。たぶん一階がこのありさまだってんなら二階も大して変わらんだろうな。
となると……
「あの……」
「あ?」
「私は、寝るのは廊下でも大丈夫ですよ」
状況を大体察したのか、鵜菜はそんなことを言ってくる。
……はぁ。自分よりも年下のガキに気を使われるのはいい気分ではなねぇな。それに、俺が気を使われているという現状に腹が立つ。
「俺が大丈夫じゃねぇんだよ」
そう言ってから、階段を上って俺の自室にいく。
いい加減に眠気と疲労感が限界突破している。これ以上活動すると、逆に眠れなくなっちまいそうだ。
俺は、自室に入ると速攻でベッドにもぐりこむ。もぐりこみつつ、鵜菜に注意点だけでも伝えておく。
「トイレは扉を出て右の突き当り。うるさくても明るくても寝れるが、なるたけ電気は付けず静かにしていろ。わかったな?」
「え? え?」
「それじゃ、お休み」
必要最低限のことは伝えた。これで俺の仕事は終わりだ。
あぁ、今日も面倒事の多い一日だった。せめて、夢の中でくらい楽させてほしいものだ。
私――鵜菜は困惑しています。
今日もいつも通りにいじめに遭っていたら、何の脈絡もなく現れた先輩に助けてもらいました。
それだけで今日はいい日だったと思えるのですが、それだけでなくその先輩の友人らしき先輩(正義先輩と言うらしいですが)は、私の今後とかのことも心配して、私の転寮手続きをしてくれました。
その転寮手続きをしてくれた正義先輩は、なんとこの学園内でも本当に一つまみもいない委員長の役職持ちだったようです。びっくりです。
そんな先輩たちの住んでいる寮に来ることになったのはいいのですが、優しい風紀委員長の正義先輩は、片付けてくると言って私のことを放置して行ってしまいました。
残されたのは私と、私を助けてくれた先輩。
正直、私を助けてくれた先輩は怖いです。
いつも難しそうに眉間にしわを寄せているし、私にもわかるほどの怒気を常に纏っています。
でも……私はこの先輩が怖いですが、嫌いではないです。
だって、この先輩は中等部の人間と違って、私に接するときの態度と他の人に対する態度が全く変わりませんでしたから。
中等部の人間には二種類の人間しか居ませんでした。
それは、私をいじめている人間とそのいじめを遠目から憐みの目で傍観する人間です。
苛めている人間のことはもちろん好きには慣れませんでした。でも、いじめを傍観している人間はもっと好きになれませんでした。
自分もいじめられたくないから助けないと言うのは理解できます。私だって、自分以外の人間がいじめられていたら、きっと傍観者の立場に回っていたでしょう。そこで、自分ならきっと助けていたなんて妄言は私には言えません。
でも、憐みの視線を向けるだけで何もしないのなら、完全に無視してくれていた方が楽でした。
そんな中、このベットで静かに寝ている怖い先輩は正義先輩に対する態度と私に対する態度を微塵も変えませんでした。
それが私には新鮮で、心地よかったのです。
その点では、正義先輩の私に対する態度は隠しているようではありましたが、いじめの被害者に対するものでした。風紀委員長としてはしょうがないのかもしれませんが、少しさびしかったのも事実です。
「……近づくのは駄目とは言われていませんでしたよね?」
私は、その場には寝ている怖い先輩と自分しかいないと言うのに、言い訳をしてしまいます。
そんな言い訳を誰にともなくした後、私は音をたてないように注意しながら先輩の寝ているベッドに近づきます。
先輩は何も警戒していないようで、私が近づいても気が付くことはなく、ぐっすりと寝入っています。口を少し開けて寝ているのが、起きている時とのギャップになっていて、少し可愛らしいと思ってしまいます。
「ふわぁ……」
先輩の寝顔を見ていたら、私も眠くなってしまいました。
前の寮に住んでいる時は、寝ている時でも容赦なくいじめが行われていたので、全く落ち着くことが出来ませんでした。なので、しっかりと、何も警戒せずに寝た記憶なんて遠い昔のものでしかありません。
だけど、この先輩の近くでならゆっくり休めるような気がしています。本当に、今日初めて会ったばかりの人のはずですが。
「おやすみなさい。先輩。今日は本当にありがとうございました」
先輩は寝ていると分かったうえで、もう一度お礼を言います。
今日は、本当に言い夢が見れそうです。
「寝たー?」
そう言いながら、正義は流の部屋に入ってくる。
ノックも何もしないですぐにドアを開けてしまうあたりが、正義と流の関係を物語っているように見えた。
「電気はついてないし寝たのかな……ん?」
正義は部屋の主の許可も取らずにずかずかと部屋の中に立ち入る。部屋の主である流が起きていたら、この部屋中に流の怒気が舞うこととなっただろう。が、その主はもう寝ていたのでそんなことにはならなかった。
部屋のベッドの近くまで来たところで、ベッドでいつものように安眠している流を見つける。そして、その流のベッドに体を預けるようにして寝ている鵜菜の姿も一緒に見つけた。
その姿を見た正義は深い嘆息を漏らす。
「自分よりも年下の女の子がいるんだから、そっちにベッドを渡すぐらいの気は聞かないもんかねぇ……。ま、そんなこと流がしてたららしくないけどね」
そう言いながら、笑みをこぼす。
鵜菜は勘が良いと言うことは、保険委員長に手当てしてもらっている時に二言三言話した段階で気づいた。この鵜菜と言う少女は勘がよすぎる。
そんな鵜菜には、自分のようにいつもいろいろなことを考えながら動いているような人間は相性が悪いだろうと言うことも、正義自身が理解していた。
だから、鵜菜を半ば押し付けるような形ではあったものの流に任せた。
流は究極までの自分本位な人間だが、一度身内だと思った人間は自分のためと言ってしっかりと守る人間だ。
そんな流と鵜菜だったら相性がよさそうだと思ったのだが……どうやら正解だったらしい。
鵜菜は、何も警戒していないような無垢な表情で寝息を立てている。
「うん。さすが僕だね」
そう独語する正義の前で、鵜菜は身を震わせた。
もう初夏とはいえ、まだ夜は冷える。さすがに、制服の上に何も羽織らないようでは寒いのだろう。
正義は流の部屋のクローゼットを開ける。流の性格がよく現れていて、クローゼットの中にはそれほど物が入っていない。入っているのは最低限の洋服ぐらいのものだ。物がない分、片付いているのが救いだろう。
その中から、手ごろなパーカーを引っ張り出す。そのパーカーを鵜菜にかけてやる。
最後に一度、軽く鵜菜の頭を撫でてやってから部屋を後にする。
「お休み鵜菜ちゃん、流。良い夢を」
第二章
何処からか、小鳥の鳴き声が聞こえてきて、朝の到来が耳から伝わります。
それに、顔にも優しい初夏の日差しが当たっていて、それによっても意識が覚醒に向かいます。
「ふぁぁぁ……」
ゆっくりと伸びをして、寝ている間に凝り固まった体を伸ばします。
今日は想像以上にぐっすりと眠れてしまいました。緊張せずに眠れるなんていつ以来の事でしょうか?
何はともあれ、快調です。最高の気分です。今日はいつもよりもすがすがしい気分です。
「あれ……?」
そこでふと私は我に返って気づきました。
私はさっきまでベッドの上で寝ていたらしいのです。
昨日、このベッドは怖い先輩が使っていました。なので、私はこのベッドに寄り掛かるようにして眠ったはずでした。そのような記憶が確かに私の頭の中には残っています。
だと言うのに、私はベッドの中で目を覚ましました。
ここが別の部屋であると言う可能性もないことはなかったのですが、部屋の中の様子を確認する限り、ここは怖い先輩の部屋で間違えないようです。
ならば、何故ベッドの中にいるのか?
たぶんではありますが、あの怖い先輩が私のことをベッドに入れてくれたのでしょう。感謝です。
そう言えば、昨日はお風呂にも入らずに眠ってしまったのでした。
治療を受けた後に、軽くシャワーを浴びたので、そこまで汚くはないでしょう。ですが、私の匂いが先輩のお布団に移ってしまったのではないかと少し気になります。
「しょうがないです。これは確認なのですから。何もやましい気持ちはないのです」
私はそんな言い訳をしながら、先輩の枕の匂いを嗅ぎます。
その枕は、どことなく先輩の匂いが残っているようで、ほっぺたが赤くなっていくのを自覚します。
「だ、大丈夫でしたね。私の匂いは移っていないようでよかったです」
そう言いながら、枕を顔から遠ざけようとします。が、体は私の意思に反して枕を手放そうとはしません。
私は先輩の枕の匂いを嗅ぐ変態さんではないです。だから、枕の匂いなんて嗅がないのですぅ~。
そう自分に言い聞かせることで、枕を元の場所に置くことに成功しました。
ググ~~。
お腹が鳴ってしまいました。
誰も聞いていないことを周囲を見回しながら確かめます。ふぅ、誰にも聞かれていないようです。
自分のおなかの音を聞いたからでしょうか? 空腹感が鎌首をもたげてきました。
掛け布団を自分の上から取り払って、立ち上がります。体がまだ起ききっていなかったのか、少し立ちくらみが起きてしまいます。
ですが、その立ちくらみすら長らく感じていなかったものなので、新鮮で自然と笑みがこぼれてしまいます。
笑みを浮かべたまま部屋を出ると、すぐに良い匂いが漂っていることに気が付きました。
お腹が減っていることによって、若干嗅覚が敏感になっているのかもしれませんが、それを除いても十分に分かる程度には濃厚な匂いが漂っています。その匂いを嗅いでいると、またお腹の虫が鳴りだしてしまいそうだったので、お腹を押さえます。
押さえながらも、匂いの下へと足を進めます。
そうすると、一階のある扉の前で足が止まりました。その扉の上には食堂と書いてありました。
道理で、です。今は朝なので、朝食の準備でも誰かがしているのでしょう。
私は、一瞬躊躇してから扉を開けて食堂に足を踏み入れます。
「うわぁ……」
食堂の中は、廊下とは比べ物にならないほどの濃厚な匂いが対流していました。
コンロの前でフライパンを振るっているのは正義先輩でしょうか? 手馴れた手つきでフライパンを繰っています。その腕の動きを見ただけで、先輩の作る料理は美味しいのであろうことが予想できてしまいます。
コンロのほうに目が行ってしまいましたが、食堂には他にも二つの人影がありました。
一人目は私がさっき寝ていた部屋の主である怖い先輩です。昨日会ったばかりなのですが、ずっと眉間にしわを寄せて難しい顔をしていました。
ですが、今はヘッドホンをつけて音楽を聴いているからか、険しい顔はしていません。ヘッドホンの音量は相当に大きく設定されているのか、距離が離れていても先輩の聞いている曲が何なのかわかるほどです。
もう一人は、昨日見ていない人でした。
男性で、机に身を投げ出すようにしてぐでーっとだらしない恰好をしています。服装もだらしないスウェット姿なので、第一印象であまりいい印象は持つことが出来ません。
「そいつはこの寮の管理人みたいなものだ。一応、高等部の教師でもあるのだが、警戒はしなくてもいい」
「え? 本当ですか?」
怖い先輩が唐突に口を開いて、この男の人の説明をしてくれました。
驚いて私が聞き返しますが、先輩の耳には届いていないようで、全く反応が帰ってきません。
たまたま目を開いたときに私が困っているのが見えたのでしょうか?
この先輩が優しいのか怖いのか。本当のところでは私はつかめていないのかもしれません。
「先生。読子起こしてきてくれ……っと。鵜菜ちゃん起きてたんだ。おはよう」
「お、おはようございます」
コンロの火を止めて振り返った正義先輩が私の姿に気付いて笑顔で挨拶してくれます。
その笑顔の裏にすら何かあるのではないかと勘繰ってしまう私は、本当に嫌な子なのでしょうね。
「よく眠れた?」
「はい。……でも、朝起きていた時にはベッドに入っていて驚きました。昨日私はベッドに入っていなかったはずなのですが」
「ははは、それはよかったね。おい、先生よ。読子起こしてきてよ。じゃないと僕がせっかく作った朝ご飯が冷めちゃうでしょう」
先輩は私に笑いかけた後、机でぐだっとしている教師の頬を叩いています。
教師の方は、聞く気が毛頭ないようで、頬をたたかれても全く反応を返しません。寝ているのでしょうか?
「……はぁ。狸寝入りは身にならないことを教えてあげなきゃね」
そう言いっている正義先輩の顔には、笑顔の裏にありありと悪戯心が見え隠れしていました。
正義先輩は何処からか取り出したスポイトに水を入れます。そして、そのスポイトを寝ている教師の耳元に近づけると、教師の耳の中に水をいれました。
「これぞホントの寝耳に水ってね」
「あはは……」
笑いかけてくれる正義先輩に私は苦笑しか返せません。
私がいた中、等部では、教師にあんなことをしたら速攻で説教コースでした。そんなことを率先してやる人間は中等部にはもう一人もいません。
耳の中に水をいれられた瞬間にその教師は跳ね起きて、耳の中に指を入れて耳の中の水をかきだそうとしています。その姿が、私の中にある教師像とはあまりにもかけ離れていて、いっそ滑稽ですらありました。
上手くかきだすことが出来たのか、ホッと安堵した表情を教師はした後、正義先輩のほうに目を向けます。
「中耳炎になっちゃうだろうが!」
「あぁ、中耳炎って鼓膜の中に水が入った時になるらしいから、鼓膜の外に水が残ってても大丈夫らしいね」
「……マジ?」
「さぁね。それより、読子起こしてきてくんない?」
「はぁぁぁぁぁん? だるいわ」
……何でしょう。この教師と正義先輩の関係と言うものは。とてもではありませんが、教師と生徒と言う関係を超えているような気がします。
一言で言うのなら、ただの気の置けない友人関係でしょうか? そう思ってしまう程度には正義先輩と教師の関係は近しいものでした。
「俺一応教師ぞ? その教師を顎で使うとはどういうこったい?」
「教師と言うのなら、もうちょっと教師らしいことをしたら? そうすりゃ、僕もあなたのことを教師扱いしてあげるよ」
「教師らしいことってなんだよ」
「少なくとも、学生寮で酒びたりってのが、教師らしいことでないことは確かだよね」
「うぐぅっ!」
「昨日のあんたの後始末を誰がしたのか忘れた?」
「ぐほぉっ!」
正義先輩はいろいろな状況をあげつらって教師の精神を削っていきます。
と言うか、昨日正義先輩が処理すると言っていたのはこの教師の事だったのですね。……やけに納得がいきました。
と、そこで教師は大音量で音楽を聴いている怖い先輩に気付きました。
そして、怖い先輩のことを指さしつつ言い訳を始めます。
「流だって何もしてねぇだろうが。流に行かせ……」
「あぁ?」
「俺が言ってきまーす……」
怖い先輩――今、流と呼ばれていたから、流先輩なのでしょうか? が、ヘッドホンを取りつつ教師を一睨みします。
それだけで、教師はそそくさと食堂を出て読子先輩を起こしに行きました。
そんな二人の姿を見ていた正義先輩は苦笑をうかべています。
その正義先輩の苦笑と、食堂から出ていく教師の背中を見つつ、流先輩は首をひねっています。もうヘッドホンを取ってしまったからか、表情は怒っているようなものになっています。ですが、そんな表情で頻りに首をひねっている姿は少しおかしくもありました。
「? あのバカは何で食堂から出て行ったのだ?」
「そりゃあ……ねぇ?」
正義先輩が私に意味深な視線を向けてきていますが、私としては苦笑を返すことしかできません。
「流。君、今苛立ってた?」
「別に。名を呼ばれた気がしたから聞き返しただけだが?」
「そうは聞こえないよ。あいつは君がキレたんじゃないかと思って食堂出て行ったのさ」
「俺がキレたから食堂から出ていく? 前後が繋がっていない気がするがな」
そう流先輩は言っていますが、私にはあの教師の気持ちが少しだけわかる気がします。
昨日のあれを見ているからかはわかりませんが、流先輩を怒らせたらとても酷いことになりそうだと言う予想は安易に立てることが出来ます。
それほどの影響力を持っていると言う自覚が、流先輩には薄いようです。
「読子起こしてきたぜー」
「うぅ。朝ご飯なんて要らないって言ってるのにぃ」
そこで、読子先輩と教師が食堂に入ってきました。
読子先輩は、すごく眠そうに眼をこすっておられます。そして、何故か読子先輩を起こしてきただけのはずの教師は目の周りに青あざを作っています。
この数分の間に何があったのでしょうか?
「さて、人もそろったことだし。朝ご飯にしようか」
そう言った正義先輩が料理を皿に盛りつけて並べていきます。
私も手伝うことがあれば手伝おうかと思いましたが、手伝う必要など全く感じられないほどに正義先輩は手際よく準備していきます。
正義先輩のバイタリティの高さがうらやましく思います。
その後に食べた正義先輩の手作りの朝ごはんは、とてもおいしかったです。
朝飯を食ったらもう登校する時間になってしまっていた。
俺と正義と鵜菜の三人はてきとうに着替えをし、準備してから寮を出た。
あ? 読子は一緒に登校しないのか?
あいつは駄目だ。まだ本を読み切っていないとか言って部屋に戻っちまった。……まぁ、あいつはどうせ授業なんざ受けないから大して変わらん気もするがな。
俺は頭痛で痛む頭を振って意識を確かにしながら高等部の校舎に向かって歩く。
うちの学園はクッソ敷地が広いので、学園の敷地内を移動するためのバスも運行しているが、生憎とうちの寮はそのバスの周回コースになっていない。どれだけうちの寮は学園の隅にあるのかがわかると言うものである。
まぁ、最低限舗装されている道路なので歩きづらいと言うことがないのが唯一の救いか。
隣を歩いている鵜菜を見ると、もう足が重くなっている。助けの手は差し伸べない。そう言うことをするのは正義の仕事だ。俺の仕事ではない。
そう思っていると、正義がさりげなく鵜菜の手を取ろうとしていたが、スルーされている。
随分と鵜菜のガードは堅いらしい。
「あはは……」
流石にそれには正義も苦笑をうかべていたが、すぐに気を取り直して手をひっこめている。
正義は本当に大人だね。俺にはとてもではないができそうにないわ。
ちなみに、俺は登校中にヘッドホンで音楽を聴くと言うのも危ないので右耳にだけイヤホンをつけてロックを聴いている。普段とは違って、正義の会話も聞き逃さないようにと音量もそれなりに絞っている。
そのせいか、ロックを聞いても頭痛が沈静化しない。
……眉間が自然と寄ってきてしまうのもしょうがないことだろ?
「にしても……本当にうちの寮からは高等部遠いよね。そうは思わない?」
何か正義が言っているが、主語がない。主語がないと言うことは鵜菜に話している可能性も否定しきれるものではない。なので、赤っ恥を避けるためにもこの正義の言葉には応答しないのが正しい行動だ。
決して正義と会話するのが面倒なわけではない。
「おーい。流さんやーい。君に話しかけているんだけどー?」
流なんて奇特な名前の奴が俺以外にもいるのだな。
周囲を見渡してみても俺たち三人以外の影は見えない。……きっと正義には俺には見えない友達の姿が見えているのだろう。
ここは友人として何も触れないでやるのが優しさだろう。
「……マジで無視はやめて。心折れるから」
肩を掴まれて懇願されてしまった。
流石にここまでやられては自分ではないと考えるのは不可能に近いか。
ちっ。面倒な奴め。
「それで? わざわざ俺に何の話があると言うのだ? くだらないことや自明の利だったら埋めるからな」
「……なんでもないでーす」
正義がシュンとして手を引いてしまう。
何だ詰まらん。もっと話を続けてくれても俺としては一向にかまわなかったのだが。冗談のわからん奴だな。
ふと横に目をやると、さっきまでは歩き疲れたのかヒーヒー言っていた鵜菜が口元に手をやってクスクスと笑っていた。何が面白いのか俺には全くわからん。
「クスクスクス……。先輩たちはいつもこんな会話をしながら過ごしているのですか?」
「そうだよー……。いっつも僕が流にいじめられてるんだよ? 流、酷いと思わない?」
「俺のどこが酷いと言うのだ。貴様のような男の会話に付き合ってやっているだけでも、俺は叙勲ものだと思うがな」
「付き合ってくれてないじゃん! 一方的に会話打ち切ってるじゃん! それに叙勲なんて制度はこの国にはないよ!」
本当に正義はうるさい。
こいつのツッコミは無駄に声を張っているから、脳に響くのだ。普段の声でも脳に響いているのだが、ツッコミはそれよりも一段と酷い。
「いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい!」
つい、うるさくてアイアンクローなどと言う原始的な技を極めてしまったではないか。
アイアンクローを極めたせいで正義が悲鳴を上げる。その悲鳴のせいで俺の頭痛がひどくなる。頭痛がひどくなったせいで正義の頭をホールドする手に無駄に力が入ってしまう。
これが世にいう悪循環と言うものだろう。
正義が必死に腕をタップしてくる。そのタップしてくる手にも力がなくなってきたので手を放す。
手を放すと、正義はどさりという音を立てて尻餅をついてしまう。……軟弱な男め。
「君、今軟弱だとか思ってんでしょ! あんなクッソ痛いアイアンクロー食らったら誰でもこうなるよ!」
「…………あ?」
「すいませんでしたマジ調子に乗りました勘弁してください」
睨みを効かせながらドスの利いた声を出すと、正義はプルプルと震えながら電柱に隠れてしまった。
本当に軟弱な男だ。こいつはこんな質でも風紀委員や一部の一般生徒には鬼などと呼ばれているらしい。こんな情けない姿しか拝んだことのない俺としては、こいつが鬼などと呼ばれている姿がまったく想像がつかない。
他の風紀委員に機会があった時に聞いてみたことがあるのだが、こんな温厚なのは俺の前でだけらしい。その時は、こんな単純馬鹿でも猫など被るのだなと思ったものだ。
俺が昔を思い出してウンウンとうなずいていると、また鵜菜が笑っている。
「……何がおかしい?」
「いえ……先輩たちの第一印象と今見ている姿がかけ離れているのが面白くて。流先輩なんて昨日あんなことをした人とは思えないぐらいに気さくな人ですし」
「俺が……気さく?」
俺はそんな鵜菜の俺評に首をかしげてしまうが、鵜菜は本当にそう思っているようだ。
「それに、正義先輩は昨日はあんなに凛々しい人だと思ったのに、流先輩の前では面白いんですから」
「確かに、この正義の無様な様を見ていると俺は気分がよくなるがな」
「えー……ひっどぉい」
正義が電柱の陰でさめざめと涙を流す。嘘泣きか目薬だな。
こんな正義先輩の惨めな様を見れるのはうちの寮の特権ですよねーと読子が昔言っていた。
俺にとっての正義はいつもこうだ。なので、他人の感じる正義のイメージがうまく想像できない。
俺の中の正義は、いつも笑っていて、無意味に熱いキャラクターで、基本的にお節介焼きだ。そんな正義が鬼などと……笑わせてくれるぜ。まぁ、こいつは自分が必要だと思った時には躊躇も遠慮も容赦もなくなると言うのは知っているがな。
「クスクス……。本当に流先輩たちは面白いので好きですよ?」
「愛の告白どーも。……ふざけてねぇでさっさと行くぞ。これ以上時間無駄にしたら本格的に遅刻しちまうぞ」
「流が学園の時間のこと気にするなんて珍しいね」
止めていた足を再び動かすと、いつの間にやら電柱の陰にいたはずの正義が俺の隣にいる。
それを見た鵜菜は少し驚いたような表情をしている。
俺や正義と付き合っていくのならこの程度は日常茶飯事どころではない。諦めるか慣れるか。鵜菜はどっちが早いのだろうな。
そのまま下らないことを話したりしながら進んでいると、分かれ道についた。ここから右に行けば、中等部。左に行けば高等部や各種委員会用の施設などがある。
「それじゃあ……。私はこっちですから」
鵜菜が悲しそうな表情を一瞬したように見えた。
だが、それも見えるか見えないかの本当に一瞬のこと。すぐに明るい……作ったような笑顔になって右に進もうとする。
……………………。
気が付けば頭痛が強くなっている。その頭痛のせいでまともに思考がまとまってくれない。
そんな頭痛で意識が朦朧としている中、俺の脚は勝手に動き、鵜菜の前に立ちふさがっていた。俺の横には正義の姿もある。どうやら考えることは同じだったようだ。
……一応言っておくが、俺は足が勝手に動いただけだがな。
「先輩方? そこに立たれると私が学校に行けませんよ?」
「………………」
「行かなくても、いーんじゃない?」
俺は頭痛のせいでうまく言葉を紡げないので仏頂面だが、正義はにこやかに言葉を作っている。こういう時に頭痛を持っている俺は不利だなとしみじみ思う。
だから、こういう面倒なことは正義に任せて思う存分仏頂面でもしているとしよう。
きっと、口下手(頭痛のせいであって、決して俺のコミュ力が低いわけではない。とだけ言っておこう)な俺よりも正義が前に出たほうが楽なこともある。
「鵜菜ちゃんがあっちでまたいじめられても、今度は僕たちは助けに行ってあげられない。さすがに僕たちも授業をほっぽって中等部まで殴りこみかけるわけにはいかないからね」
「それは……わかってます」
「そう。そして、これは今までの経験から伝えるんだけど……次にいじめが怒ったら高い確率で鵜菜ちゃんは死ぬよ?」
「え……?」
正義の言葉は酷く現実味が薄いものだ。鵜菜もキョトンとしてしまっている。
俺と正義が懸念しているのはいじめが悪化して、鵜菜が死んでしまうことだった。
今時はいじめによって自殺と言うのがずいぶんと増えている。うちの学園も表沙汰にはならないだけで随分と自殺者がいるらしい。そのことで保険委員長も随分とお冠らしいと言うのはちょっとでも事情を知っている人間にとっては常識だ。
……話がそれたな。
まぁ、俺が言いたいのはいじめと言うのはちょっとしたことですぐに悪化すると言うことだ。
先輩に助けてもらったなんて言うのは、いじめが悪化する原因としては十分すぎるぐらいだろう。それに鵜菜を助けた昨日の今日だ。ここ一週間ぐらいが一番危険だろう。
そんな危険があると言うのに、中等部に鵜菜を行かせると言うのは駄目だろうと言うのが俺と正義の共通見解だ。
……それを話すためだけに俺は普段よりもかなり早く起こされた。そのせいの頭痛だ。
必要だと分かっていても割り切れないこともある。後で、正義でも殴ってこのストレスは発散するか。
「冗談ではなくて、だよ。だから、当分鵜菜ちゃんはうちの風紀委員で管理してる場所で自習しててよ。問題を全部解決したら、中等部に戻ってもいいからさ」
「でも……それでは勉強が遅れちゃいますし……」
勉強が遅れてしまう可能性については鵜菜が起きてくる前に話したことだ。
その時、正義は俺に任せといてよと意味ありげな視線を俺に向けてきた。何かしら考えがあるのだろう。
「大丈夫。勉強に関しては流がマンツーマンで教えてくれるから」
「え……?」
「あ……?」
予期せずして鵜菜と同タイミングでアホみたいな吐息を漏らしてしまった。
今、正義なんつった? 俺が? マンツーマンで? 鵜菜に勉強を教える? 馬鹿も休み休み言えと思うが、正義はニコニコとしていて何を考えているのかよく読めない。
正義を見ていると、笑顔も立派なポーカーフェイスの一つなのだと思い知らされる。
こいつが感情の高ぶりで表情を変えるのを見たのが昨日なわけだが……それを見たのだっていつ以来だろうと考えてしまうほどだ。昔の事なんて考えても頭が痛むだけなので滅多にしないが。
「……今、なんつった? よく聞き取れなかったんだが」
「流が、鵜菜ちゃんに、マンツーマンで、勉強を教えればいいさ」
正義は今度は聞き逃しがないようにと思ってか、一語一語区切って発音してくる。馬鹿にしているのか、こっちのことを本当に考えているのかはよくわからんがな。
「……何故」
「だって、流ったら普段授業まともに受けないで寝てばっかいるくせに僕よりも成績良いじゃーん」
「……お前のノート見てるからだ」
「普通はテスト前の一夜漬けで頑張ろうとしたってスコアはそうそう伸びないものなのよ」
……そんなものなのか?
俺は普段授業中に寝ている分、テスト前などは正義のノートを借りて一夜漬けをするのが常だ。
テスト前だけは脳のリソースを大幅にそっちに割くので、本格的に他のことはほぼ手がつかない。その分、テストではそれなりの点数がとれているのだが。平常点が低い分はテストで盛り返さなくては。留年なんて言う無様なことになりかねない。
「流は高等部でも最高クラスの成績だからね。それに君は授業中寝てばっかりだろ? 鵜菜に教えるぐらい問題ないじゃん?」
「問題しかねぇよ……」
俺が寝ているのは別段眠いからではない。純粋に、頭痛を抱えたまま授業を受けても身にならんことを実感として理解しているからだ。
まともに授業を受けたのはいつ頃だったかな……。遠い記憶の事でしかない。
だから、俺は授業中暇と言うわけではないのだ。
「……お前も俺なんかに勉強教わるのはいやだろ?」
「い、いえ。いやというわけではないんですけど……。先輩のご迷惑ではないかなぁ、と」
もう一人の当事者である鵜菜に話を振る。鵜菜は一度ビクッと震えた後、おどおどといった口調で答えた。
その態度からも、俺と二人きりの空間にいさせることに対する不安が残る。
その不安を正義が理解していないと言う可能性は皆無だ。そこまでこの馬鹿が愚者なわけがない。そんな愚者に俺は従わない。まぁ……そこまで従っているわけでもないがな。
「まあまあ。心配はわかるけどさ。これに関しては流以上の適任がいない。そのことは流も理解してるんじゃないの?」
「…………」
理解していないわけではない。
まぁ、正義よりもずいぶんと点数が良いことも確かだ。それに、俺が授業を受けなくてもそれほど困らないと言うのも間違っていない。
だが……素直に正義の言葉通りにすると言うのが癪に障る。
「おい……」
キーンコーンカーンコーン。
もう一度、正義に苦情を陳情しようとしたところで、高らかに鳴り響くのはこの学園全体で共通のチャイムの音。
このチャイムの音が鳴ると、全学部全学科で校門が閉じられてしまう。今からダッシュで高等部の校舎に行っても到底間に合うことはないだろう。
曲がりなりにも風紀委員長をしている正義ならばなんとか言い訳をすれば中に入れるだろうが、俺や鵜菜のような一般生徒は反省文を書かなければいけなくなる可能性が高い。
……正義が、そんな時間的なことまで考えてこの話題を出したのだとすれば、正義の手腕には舌を巻かざるを得ない。
「そんじゃ、カギ渡しとくよ」
正義がカギを投げ渡してくる。この学園では基本的に楽だと言う理由からカードキーが採用されている。
正義が投げてよこしたのは、群青色のカードキー。
俺の記憶が正しければ、これは風紀委員会で管轄しているすべての場所のマスターキーだったはずだ。そんなものを風紀委員ですらない俺に投げてよこすなど、正気の沙汰とは思えない。
「適当にうちの管轄の部屋で空いてるところ使っていいよ。……わかってるとは思うけど、無くさないでね? それに、悪用もしないでね?」
そんな言葉を吐いた後、正義は無責任にも走って高等部に向かってしまう。その速さは、あの馬鹿とそれなりに付き合っている俺でも見たことのないような異様なものだった。
……………………。
今決めた。
あの馬鹿は後で絶対にシバく。これは決定事項だ。ぜっっっっっっってぇにシバく。
……ハァ。
取り残されたのは俺と、俺と二人で取り残されて俺の顔色をうかがいつつビクビクとしている鵜菜の二人だけ。そんなに俺は怖いのかね?
兎にも角にも、ここで立ち尽くしていたって何も始まらない。ただただ無為に時間が流れていくだけだ。
……とりあえず、移動するか。
「……行くぞ」
「ど、何処にですか?」
「……ついてくりゃわかんだろ」
それ以上の説明をする気は俺にはない。それ以上の言葉を重ねられるほどの余裕は俺の脳にはない。
先ず以て、頭痛で痛んでいる分、リソースも薄い。それに、どこが一番片付いているかの記憶を掘り起こすので手いっぱいだ。わざわざ部屋の片づけから入るなんてのはごめんだ。
俺が考えながら風紀委員会の管理している部屋がいくつかある方向に歩を進めていると、鵜菜は俺の背後をしっかりとついてきているようだった。
ちらりと鵜菜の姿を見ると、諦念のようなものが顔に浮かんでいるように見える。諦めが早いのはいいことだぜ?
その後、鵜菜を伴って歩いていると、目的の場所についた。もう授業開始の始鈴はなってしまっている。ここからどれだけ急いだとしても間に合うことはないだろう。もうだいぶ前から学校に行くことなど諦めているがな。
今俺と鵜菜がいるのはいろいろな委員会の庁舎が集中している場所。
通称、委員会特区。
この周辺には各種委員会の関連施設ばかりが並んでいる。委員会に所属していない人間や特に必要のない生徒は学園に在学中に一度も立ち寄らない場合も少なくない。
何故、一つの場所に委員会の施設を集中させたかというと、一つの場所に集めたほうが各種委員会の連携がとりやすいから……と言うのが建前。
生徒会側の本音としては、委員会が結託して生徒会に逆らった時に対処がしやすいからだろう。そのせいか、連携を取りやすくするとかほざいているのに、この委員会特区には生徒会の施設は一つもない。生徒会も広義では委員会の一端とみなされているのに、だ。
そんな理由もあってか、昔から生徒会と仲が悪い委員会も少なくない。
正義が委員長を務めている風紀委員会が反生徒会の筆頭委員会と言えるだろう。先代の風紀委員長も生徒会を毛嫌いしていた。
俺はその委員会特区にある風紀委員会の施設に向かう。委員会特区を歩いていると、工事をしているような音が聞こえてくる。
……この音は建設委員会か?
建設委員会と言うのは、この学園の工事関連を一任している委員会で、日夜工事を行っている。
今のように、急いで建てないといけない建造物等がある場合は、授業時間を返上して工事を行っていることも多い。その分、実入りも多い。足りない授業日数や成績のほうはプリントか何かで補填しているのだそうだ。
そんなやかましい工事の音を聞きながら、風紀委員会の施設の前に到着する。
委員会特区にある施設の中でも特別堅牢な作りになっている風紀委員会庁舎。噂によれば、ロケット弾の攻撃にも耐えたとか。……そのふざけた噂を信じてしまうほどには頑強な作りとなっている。
入口のロックを正義から預かった風紀委員会のマスターキーで解除する。
「……ほら。早く入れ」
ドアを開けておいてやる。
こういう時は自動ロックというやつは面倒だと思う。この面倒さを補って余りあるほどの利点があると言うことは否定しないが、うざいと思うぐらいは別段罪でもないだろう。
「は、はい。失礼します……」
鵜菜がビクビクとした様子で風紀委員会庁舎の中に入ってくる。鵜菜が入ったことをしっかりと確認してから、ドアを閉める。
マスターキーは入口入ってすぐにセットしておく。これでもう勝手にロックは入らないはずだ。
どの部屋が一番片付いていたかな……?
風紀委員会庁舎は廊下や応接室こそ綺麗だが、風紀委員などの身内しか入らない場所はとても汚い。
各委員会の庁舎はそれぞれの委員会の管轄なので、委員会ごとに自分たちで片付けなければいけない。風紀委員会は外回りが基本と言うこともあってか、この庁舎がほぼほぼ倉庫となっているので綺麗な場所を探すのも一苦労だ。
最初に入った部屋も、次に入った部屋も相当な汚さだった。寮の空き部屋を思い出してしまって気分がわりぃ。
……そう言えば、帰ったら鵜菜のためにどこかの部屋を片付けなければいけなかったな。読子本人にやらせたいが……どうせあいつにいくら言っても馬の耳に念仏の如く無駄なのだ。
どうしたもんかな。
そう思いながら開けた三つ目の部屋は比較的片付いていた。と言っても、机が見えていて、足の踏み場が確保されていると言った程度で決して片付いているわけではない。
もうこれ以上部屋を探し求めて歩くのも面倒くさい。ここでいいか。
「ここにするか」
「はい。昨日来たときはここまで汚いように見えなかったんですけど……」
「……それはそうだろう。昨日のお前はお客様だからな。お客様にわざわざ汚い場所を見せる店がどこにあると言うのだ?」
「それもそうですね」
鵜菜も納得したようでフンフンとうなずいている。
納得してくれたのなら何よりだ。俺は鵜菜が席に着いたのを確認してから適当に椅子に座る。
パイプ椅子に腰を落ち着けると、動くのをやめたからなのか、さっきの正義の態度に改めて苛立ちが募ってきた。
俺は態度悪く、机の天板の上に足を乗せる。その時に大きく音を立ててしまい、鵜菜がビクッと背を震わせる。だが、そんな鵜菜に気を使っていられないほどに今の俺は苛立っている。
あの野郎……今頃のんきに授業受けてやがんだろうなぁ。俺は別に後であいつからノートをかっぱらえば満足できるからいいがな。
苛立ちと共に頭痛が強まってくる。
俺の頭痛は感情とリンクしているのかわからないが、苛立ちが強くなると、総じて頭痛も強まる傾向にある。感情と頭痛がリンクするとか……俺の脳は本当にどうなっているのやら。
脳は人体の中で一番のブラックボックスとはよく言うが、俺の脳はそれに輪をかけて意味が分からん。
「ハーーーーー……」
頭にかかる靄となりそうな頭痛と苛立ちを吐き出すかのように大きく息を吐く。
ただ、息を吐いているだけだと言うのに、鵜菜は俺の方をビクビクと小動物のように警戒心丸出しで見ている。
……ハァ。これ以上、後輩である鵜菜を警戒させるのも俺の本意ではない。
それに、鵜菜をこっちで預かると言った正義に俺も同意したのだ。こんなことになるのを予測できなかった俺も悪い。
もう苛立つのも飽きた。……音楽でも聞くか。
俺はカバンから愛用のヘッドホンを取り出す。このヘッドホンが何年戦士だったかはもう記憶に残っていない。
だが、どれだけたっても快適に音を伝えてくれるこのヘッドホンを俺は気に入っていた。今ならこれよりもいい音質だったり、パノラマ音源だったりするものがあるのだろうが、このヘッドホンが壊れるまで買い替える気はない。
ヘッドホンを装着し、音楽プレーヤーをつける。
いつものように心地よいロックが俺の耳朶を打つ。それと同時に、脳を揺さぶっていた頭痛も気にならなくなってくる。
うん。ロックを聴いていたら、ある程度はポジティブに考えられる程度の心の余裕が出てきた。
ポジティブに考えよう。ネガティブに考えたって建設的な意見は出てこないしな。
俺は目を閉じて、これからのことを考え始める。
とりあえず、当分は鵜菜の付き合いで授業には参加せずにここで鵜菜の面倒を見ることになるのだろう。
それはそれでいいだろう。授業をさぼってロックを聴きつつ休めるのだと考えれば、そこまで悪いこととも思えない。
もう授業中に俺が寝ていても起こしてくるような不届きな教師はいなくなったが、夢枕に教師の説法だか何だかわからないような意味の分からない言語の羅列など聞きたくはない。
問題は出席日数についてなのだが……それも正義に何とかさせるか。と言っても、俺は授業を寝ていると言うだけでそこまでサボタージュすることが多いわけではない。サボることがゼロと言うわけではないが。
そう考えると、別段出席日数も問題ないのかもしれない。
…………うむ?
よく考えたら俺はここにいることについてはデメリットよりもずいぶんとメリットの方が多いような……。
まぁ、だとしても正義のことについては苛立つから関係ないと言えばないがな。
問題は、この無駄に余ってしまった時間をどうしたものかということか。
普段俺が学校で寝ているのは、音楽が聞けないからだ。音楽が聞けないと頭が痛くて何事にも身が入らない。それで仕方なくと言うわけではないが授業中に寝ているのだ。
だから、授業にも出ておらず、音楽を聴いている今はそれほど寝る意味が見いだせない。
端的に、眠らなくても困らないのだ。逆に、何もないからということを理由にして寝るのもいいかとは思うがな。
にしたって……どうしたものか。暇ってのは賢者すら愚者にする。俺は俺自身が賢者であるなどといった世迷いごとをほざくつもりはないが、この『怠惰』な時間に浸っていたら際限なく堕落してしまいそうだ。
ま、なるようになるか。この世と言うのはなるようにしかならんもんだしな。
俺は目を閉じたまま、思考を止めて耳から流れ込んでくる情報を処理することに専念することにした。
この部屋に来てからそれなりに時間が経過しただろうか?
時計がこの部屋にはないので、正確な時間はわからないが(ケータイで見ればいいのだろうが、動くのがだるい)随分と経ったことは確かだろう。
音楽プレーヤーかヘッドホンを伝って聞こえてくる曲は、もう七枚目のアルバムのパートに入ってきていた。その音楽の進み具合が何よりも時間が経っていると言うことを顕著に俺に教えてくれていた。
……なんだろうか?
さっきから気にしないようにしてはいたが、視線を感じる。ジッと見るようなものではなく、ちらちらと窺うような視線だ。
不快と言うわけではないのだが、目障りだ。……それは不快と言うことなのだろうか? まぁ、良いか。
さっき少しだけ目を開けてこちらに視線を送っている犯人であろう鵜菜の様子を確認してみた。
ここで鵜菜が完全にこっちのことなど気にせずに勉強に勤しんでいたら、誰が見ているのかと恐怖に打ち震えるところだが、そんなことはなく、こちらに視線を送っていたのは鵜菜で安心した。
鵜菜は一度こちらを見たかと思うと、すぐに視線を落として、手元のテキストに目をやる。目をやっただけで、手が動いているわけではなくテキストに視線を這わせて首をひねるだけだ。
その後、またこちらにおどおどと視線を向けたかと思うと、視線を外しテキストを見ながら首をひねりだす。
以下、無限ループだ。正直、鬱陶しくて仕方がない。
この視線と行動から考えるに、テキストでわからない問題にでもぶち当たったのだろう。
普通はわからない問題は飛ばすなりなんなりして、時間を有効に使うものだが、そこまで鵜菜は容量がよくないらしい。と言うか、純粋に不器用なのだろう。
まぁ、そんなことはどうでもいい。鵜菜の性格の事とか今の俺には微塵も関係のないことだ。将来的に見ても、特に必要なことでもないと思うし。まぁ……必要になったら覚えるさ。
それはともかく。
聞きたいことがあるのならはっきりと聞いてもらったほうがこちらとしても楽なんだよな。チラチラと見て気づいてくださいアピールをされてもウザったくて仕方がない。
……ハァ。乗りかかった船だ。諦めるか。
俺はヘッドホンを外して首にかける。ヘッドホンの音量設定は相当に高いので、これでも十分に聞こえてくるのだが、密着しているわけではないので鵜菜の声を聴くことも可能だろう。
俺がヘッドホンを外したのを見て鵜菜がピクッと反応する。
だが、今の俺はそんなことを気にする気はない。ヘッドホンを外してしまったせいで頭痛が気になりだしている。
そんな俺に他人の事を気にしろと言うほうが、無理があるというものだ。
「……質問があるのなら端的に話せ。チラチラとこっちを見られていた方が、集中が削がれて不愉快だ」
言葉に出してみて分かることってあるものだよな。俺は俺が風解に感じていたと言うことを今自覚した。
俺の言葉を聞いて、鵜菜はビクッと震えて俺のことを驚いたような表情で見ている。
その目がありありと鵜菜の心の内を語っているようで少し面白い。笑顔になるわけではないが。
鵜菜の心の内は、端的に一言でこうだろう。
気づいていたんですか!? と。
……実にわかりやすい表情筋をお持ちのようで大助かりだ。
「……驚いている暇があるのなら、さっさと聞きたいことを言え」
頭痛のせいで、声のトーンが幾分下がってしまったように感じる。だがまあ、俺的には許容の範囲内だ。それに、鵜菜のほうも俺のトーンなどについては幾分慣れたのか、それほど反応はしていない。おどおどしていると言えばしているのだがな。
「そ、それじゃあ……ここの解法がわからないんですけど……」
「……あぁ、そこはな」
鵜菜が見せてきたのは数学の問題だった。
そこは幸いにしても俺が教えられるような部分だった。まぁ、中等部の内容なんて教えられて当然か。数学は積み重ねの教科だってのはよく言われる話だしな。
その分、数学はちゃんと一つ一つ理解しながら進んで行けば滅多なことでは息づまることはない。
教えながら、そのページのほかの部分にも目をやる。
所々、独特の解き方をしている部分がある。このままだといずれこの部分で行き詰まるだろう。
……ハァ。また聞かれても面倒だしな。
「……ここの解き方はこれで良いはずだ。他の問題解きなおしてみろ」
「あ、ありがとうございます」
感謝の言葉を述べた後、鵜菜は俺の顔をじっと見つめている。
……何だ? 俺の解き方に何かわかりづらい点でもあったのか? なら直すが……。
「流先輩って……」
「……俺がどうしたって?」
「本当に頭が良いんですね」
「……馬鹿にしているのか?」
声のトーンが一段と低くなる。そのトーンの低さに反応して鵜菜が少し肩を震わせる。
今の発言だと、俺が馬鹿だと思っていたようではないか。
と言うことは、さっき俺に教えてもらえと正義に言われた時に遠慮していたのにも合点がいく。鵜菜は俺が本当に勉強を教えられるとは思っていなかったのだろうな。
ハッ。後輩にまで舐められていたとはな。良い気分ではないな。
「べ、別に馬鹿にしているわけではないんです。ただ……先輩のルックスからでは勉強ができると言うイメージがわかなかったもので……」
「ルックス? ……あぁ、確かにそうだろうな」
左耳に付けているチェーンで繋いでいるピアスとカフス。髪だって右側は少し垂らしているが、基本的には上げている。髪の色だって染めてんのかとか昔は言われた。この赤っぽい茶髪は地毛なんだがな……。
こうやって改めて自分の見た目について講釈してみると、明らかに勉強ができるようなタイプには見えないな。
それどころか、完全にヤンキーの風貌である。
「……確かに、言われてみれば勉強できるようには見えんかもな。実際勉強なんて俺はできるタイプではないからな。その印象も間違っていないと言えばまちがっていないのかもしれん」
「で、ですよね?」
「それでも、だ。さっきの発言は少し失礼だと思わんか?」
「そうですね。すいませんでした……」
鵜菜とはまだそれほど会話をしたことはないが、こいつが一言で言うと、『良い子』であることは理解できた。
人から言われたことで正しいと思ったことはすぐに改める努力をする。
そんな鵜菜がいじめに遭う理由が俺には想像がつかない。
いじめなんてものには理由がないことも多々あるのだろうが、昨日のあれは何となくでするいじめのレベルを大きく超えていた。だからこそ、正義もあそこまで怒りを露わにしたのだろう。さすがに正義でもただの苛めでは穏やかに仲裁をし、再発防止に全力を尽くすぐらいだろう。
……ふむ。
そんな時に、部屋に備え付けられているスピーカーから大音量でチャイムが響く。
ケータイを開いて時間を確認してみると、時間はもう十二時半を過ぎている。いい感じに昼飯時だ。
ケータイで正確な時間を認識したせいか、腹が空いていると言うことを自覚した。
どうしたのもか。まぁ、購買部か学食にでも行けば何かしらあるのだろう。昨日の分のバイト代を朝に請求したので、財布にはそれなりの余裕がある。風紀委員会のバイト代は他の委員会と比べても随分と高く設定されているのだ。
……それでも危険手当の項目はなのが、意味が分からぬ。
財布の中を確認してみる。俺はそれほど多くは食べないので、この財布の中身だけで一月分ぐらいの昼食代になるだろう。
……まぁ、音楽CDを買ったらすぐに吹き飛ぶ程度の額でしかないのだがな。今月は財布も寒いので厳選せねば。
グ~~。
「はぅ……」
大きな音と、恥ずかしそうな鵜菜の声が聞こえた。
この二つの状況証拠から見るに、今の音は鵜菜の腹の音と言うことで間違いがないのだろう。
鵜菜のほうを見ると、顔を真っ赤にしながら腹を押さえている。
……そう言えば、鵜菜は昼食をどうするのだろうか? そんな疑問がふと俺の頭に浮かんだ。
「……お前、昼飯はどうすんだ?」
「どうしましょう……?」
「どうしましょうって……テメェの事だろうが。テメェで決めやがれ」
「と、言われましても……私、学食の場所を知りません」
「あぁ……」
そういやそうだったな。
鵜菜は中等部の生徒だった。高等部の校舎のことを知るはずもないか。寧ろ、中等部の鵜菜が高等部のことを知っていたらそれはそれで怖い。
「それに……私、お金もお弁当も持ってきていません」
「…………」
俺は無言でヒップポケットに入っている財布に手を伸ばし、財布の存在を確認する。
財布には、今朝正義からもらったバイト代がある。そして、鵜菜は昼食も持ってきてはいないし、昼食を買う金もない。ついでに言ってしまうと、学食の場所も購買部の場所も知らない。
……ハァ。しゃあないか。俺は自分がもうあきらめたと言うことを自覚しながら部屋の扉に手を掛ける。
「ついてこい」
「え? ど、どういうことですか?」
ついてこいってんのに、鵜菜は戸惑いながら立ち尽くしている。
実に面倒である。
「今日ぐらいはおごってやるよ。だから、ついてこいってんだよ」
「で、でも……悪いですし」
「後輩の分際で遠慮をするな。不愉快だ。……さっさとついてこい」
もう待ってるのも面倒なので、先に行くことにした。
これでついてこなかったらおごらないだけだ。それはそれで財布が寒くならないのでいいと言えばいいのだが。
入り口付近でカードキーを手に取ってポケットにしまっているところで、急ぎ足の鵜菜がやっとついてきた。……今まで呆けていたのだとすれば、随分とのんびりとした性格のようだな。
俺は鵜菜が先に出たのを確認してから、風紀委員庁舎を後にする。一応、締めたかの確認をする。うん、閉まっているようだ。こういう時には自動ロックは楽でいい。
ここから一番近い食堂は……っと。たぶん、うちの学食だな。
この学園は、無駄に広大であるせいか、高等部などの校舎のほかにも所々に食堂やコンビニまがいのものがある。と言っても、この学校は基本的に生徒によって食堂やコンビニまがいの物の運営はされているので、開いている時間が少し限られているのが欠点と言えば欠点だろう。
ま、究極的に俺には関係のないことだがな。
そんなこんなで、昼休みともなれば自分の通っている校舎以外の学食に行くものも少なくはない。それに合わせて昼休みもそれなりに長く設定されているしな。
委員会特区から俺の通っている校舎はほど近い。逆に、委員会特区から近いと言う理由だけでうちの校舎に通うものも少なからずいるほどだ。
……そんなことはどうでもいいな。要するに、俺が何を言いたいかと言うと、俺が鵜菜と言う中等部の学生を連れて歩いているせいか何だかは知らん。俺と鵜菜がとても目立ってしまっているのだ。
こそこそこそこそこそこそこそこそと、こちらを見ながら話されるのも実に気分が悪い。
それに、人の数も校舎に近づくにつれて多くなってきている。
それもそうか。今は昼休みだしな。さっき俺が言ったような理由で校舎から離れる人間もそれなりにいる。
「……チッ」
視線を向けられて苛立つこととそれは別の話だがな。納得できるから苛立たないと言うわけではない。
俺はいつも以上に眉間にしわを寄せながら俺のことを見ているたぶん同じ校舎に通っているであろうクソどもに視線を送る。視線を送ると言うよりは睨みつけると言ったほうが適切かもしれないが。
少し睨みつけただけで、クソどもは蜘蛛の子を散らすように散っていく。
そんな逃げ出すぐらいなら最初からこっちなんて見るなっての。
そのまま少し歩いていくと、俺の普段通っている校舎が見えてくる。委員会特区からは徒歩十分もかかってはいないだろう。
その間、俺と鵜菜の間には一言の会話も存在していない。会話をしないと言うことは、相手の声を聴かなくていいと言うこと。相手の声を聴かなくていいと言うことは、俺の頭痛が悪化しないと言うことだ。
さっきじろじろと不躾な視線を送られていた時には、苛立ちと共に少し増していた頭痛も今や平常時と同じ程度までには鎮静化している。
意識がある限りは頭痛がなくなると言うことはほぼないが、この程度ならば普通に快適に日常生活を過ごせる。そういう意味では口数の少ない鵜菜は好きだ。
……鵜菜の声は、何故か頭を反響しないから鵜菜と話すのはさほど苦ではないのだがな。
まぁ、そんなことはどうでもいいか。
「……ここが俺と正義と、あと読子が通っている校舎だな」
うちの学校は敷地が広いと言うこともあってか、高等部や中等部と言っても所々に点在している。
学科もいくつか存在しているが、俺も正義も読子も鵜菜も普通科だ。だから、特に他科のことは知らん。普通科以外はそれほど多いと言うわけでもない。普通科を十だとすると、それ以外の科は三にも満たないほどしかいない。
「……結構大きいんですね」
鵜菜は俺の通っている校舎を眺めてそんなことを言っている。
まぁ、それも当然のことだ。中等部と比べれば、やはり高等部のほうが専門教室も多いので大きく広くなってしまうのは必然だろう。
「実際に通ってみると、そう大きくも感じないがな。早くいくぞ。学食は混むからな。……今更急いでも無意味な気がしないでもないが」
俺の通っている校舎には、購買と学食がある。俺が普段使っているのは購買のほうだ。
……わざわざ学食に行って、クソどもの視線にさらされながら飯を食っても何も楽しくはないからな。見られて興奮するような奇特な趣味を、俺は持ち合わせていない。
やはり、校舎内は外とは比べ物にならないほど生徒の往来がある。
人が多いと何が不便か。まぁ……外よりもめっちゃ見られるってことだな。この視線の数は外の比ではない。
四方八方から向けられる視線に腹が立つ。ウザったくて仕方がない。苛立ちと共に頭痛がやってきて、俺の脳を軋ませる。
そんな頭痛と苛立ちが相乗効果を起こして、俺の眉間のしわがドンドン深くなっていく。
そんなすごい目つきで周囲を威嚇すると、廊下に屯っていたクソどもはサッと横に避け、廊下の中央に道ができる。さながら俺はモーゼか。
仕方なく、俺は鵜菜を伴ってその開いた場所を歩いていく。
両側から不躾な視線を送られるが、それに関してはもうあきらめることとしよう。鵜菜を伴っている以上、避けられないことであろう。諦めが肝心だ。……苛立つけどな。
ふざけた視線を浴びながら歩いていると、程なくして学食に着く。
「……気持ちわりぃ」
いつ来てもすごい混み具合である。これだけ人がいて、よく来ようと言う気になるな。そんな学生共の気持ちが俺には解せない。
まぁ、混んでいる分、味は確かだ。それに、外に食いに行くよりも安いし、何よりも近いのでここに集まってくるのもうなずける気がする。
この校舎の学食は券売機で食券を購入し、その食券をカウンターまで持っていき、つくられるのを待つと言う方式だ。
学食の席もほぼほぼ埋まっていて超満員だが、券売機の前にも長蛇の列ができている。正直、これを見ただけで食欲が失せてしまう。これも俺が購買を好んで使う理由だったりする。
どれにしたって、並ばなければ食い物は手に入らないので並ぶか。
俺と鵜菜は仲良く並んで列の最後尾に着く。
「あれあれ~? そこにいるのは、今話題の流先輩じゃないッスかー?」
……列に並んでいると、何処からか耳障りな声が聞こえてきた。
この声は正義とは違う意味で頭痛を誘う声だ。正義の声は純粋にうるさくて頭痛を誘う。こいつはウザったるくて頭痛を誘う。
正義とこの声の人物。どっちが嫌かと言ったら僅差で後者だろう。
関わりたくないので、声の方を向かない。だが、気配から察するに俺のすぐそばまで近づいてきたらしい。……忌々しい。
「流先輩。お加減はいかがッスか?」
「……お前と会ったせいで最低の気分だよ」
「それは何よりッス」
「何よりとは……随分と生意気な口をたたくじゃないか」
「アハハ。良いじゃないッスか」
「……フン」
実に面倒な奴につかまったものだ。
こんなことになるのなら、他の食堂にでも行けばよかったと思うが後の祭り。後悔は先に立たないので、前を向くこととしよう。
そんな時、俺の制服の裾が引かれた。
「あ?」
頭痛がひどいせいで、ついドスの利いた声を出してしまう。
振り向くと、俺の制服の裾をっ引いているのは鵜菜だった。俺がドスの利いた声を出したせいでプルプルと震えてしまっている。
……悪いことをしたと言う気がないでもない。
「……スマン」
「おお! 流先輩が謝るなんて珍しいッスね! あの流先輩が! あ・の・な・が・れ・せ・ん・ぱ・い・が・謝るなんて本当に珍しいッス!」
「……うるせぇ」
「いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい!」
うるさいので、アイアンクローで黙らせることにする。
痛い痛いと余計にうるさくなった気もするが、こいつの神経を逆なでするような言葉を聞かなくていいだけ、こっちの方がましだ。
「……なんか用か?」
「よ、用と言うほどではないのですが……」
「言ってみろ」
「うわ、流先輩優しいッスね……って、いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい!」
アイアンクローをしていてもしゃべれるとは。正義よりも少し根性があるかもしれないな。ならば、女だからと言って容赦する必要はないな。
普段正義にするときと同じ程度の力を掛ける。そうしたら、また痛いと喚きだした。これで良いだろう。
それに、俺が鵜菜に質問させるのは鵜菜が特別だからと言うわけではない。
鵜菜は質問できないでいると、ずっとチラチラとこっちに視線を向けては離し、向けては離しを繰り返すのだ。さっきもやられたが、それはそれはウザかった。
あれをされないためなら、話を聞くぐらいは何でもないことだ。
「……それで?」
「は、はい。その人は誰なのかなー、と。少し、思っただけです……はい」
徐々に言葉が尻すぼみになっていき、鵜菜は俯いてしまった。
俺が怒っているとでも思ったのか? その程度で怒りはしない。寧ろ、聞きもせずにチラチラとみられる方がウザったいわ。
「こいつはな……」
この女の名は通野 小百合(みちの さゆり)。高等部の一年で、広報委員会。一応、俺の後輩にあたる。高等部ではあるのだが、何処の校舎所属と言うのは誰にも知られていない。俺も知らん。
だが、情報収集能力は広報委員長にも認められるほどで、相当な手腕を持っている。そこだけは俺も認めざるを得ないところだ。
広報委員会で一般に公表している様々な情報の他に、個人的な情報取集もしており、それを使って商売も営んでいる。俺や正義もたまに利用している。
だが、情報を金銭で売らず、同価値の情報と交換しかしないのだ。その同価値の情報と言うのも相当に吹っかけることが多いから、こいつは『売らない情報屋』とも言われている。
以上、説明終わり。
「……わかったか?」
「は、はい。ありがとうございます」
「先輩! 痛いんで離してくださいッスよ!」
「……喚かないってんならな」
「静かにするッスから! 絶対に!」
静かにすると誓ったので、頭から手を放してやる。
小百合は崩れ落ちるようにぺたんと床に腰を下ろし、頭をペタペタと触って形を確かめている。
俺の握力はそれほど強くはない。リンゴもつぶせないほどでしかない。そんな俺がすこし頭を掴んだ程度で歪む頭とは、どれほどまでに軟弱なのだろうな。
「いや、先輩の握力はヤバいッスから! 先輩のアイアンクローのお蔭で軽くトリップしかけたッスから!」
「…………」
「あ、いや、静かにするんで、アイアンクローは勘弁してほしいッス……」
少し睨みつけたら小百合は静かになった。
こういう風にある程度は物わかりが良いから、小百合はましな方だ。うざくて頭痛が増すと言うことには変わりはないのだがな。
これが正義なら止めても話し続けるだろうしな。
「……それで、何の用だ?」
「用ってほどでは無いんスけど……ま、いいッス。また今度の機会に聞くッスから」
「そうかよ。用がないならさっさと失せろ」
「了解ッス! それでは失礼するッスよ」
小百合は敬礼をすると、すぐに駆けながら学食を出て行ってしまった。
……あいつは何をするために学食に来たんだ? まさか、俺に話を聞くためだけと言うわけではあるまい。
……どうでもいいか。あいつのことなど考えたくもないわ。
「あの……流先輩」
「……あ?」
「ひっ……!」
「あー……逐一ビビんな。ウザったい。俺のガラが悪いのは否定しようもないが、別にいつも苛立っているわけじゃないんだ」
いつもは苛立っていない。
たまに、苛立っているのだ。
そのたまにの頻度が普通の人間よりもだいぶ多くないか、と? ……うるせぇよ。こんなのは本人の主観でしかないんだからいいんだよ。
しょうがないだろ。頭痛がひどいんだから。
「べ、別にビビッてないです。……ちょっと怖かったってだけです」
「……そうか」
「……はい。そ、それでですね? さっきの人と流先輩の関係って言うのは何なんですか? 流先輩、あの人とは仲良く話していたようですけど……」
「関係……?」
小百合と俺の関係か……。よくよく考えてみたら、はっきりとこんな関係と言えるほど仲が良いわけではないのだよな。
あいつはいつの頃からか、俺に付きまとうようになった。広報委員会としてのインタビューとかの時もそうだし、それ以外の時も何かと突っかかってくるようになった。
あいつが広報委員会としてのインタビューをする理由の一つには、あいつ以外の広報委員が俺のことを恐れて俺に近づいてこなくなっちまったってのがあんだけどな。……いろいろあったんだよ。
そんなこんながあってから、あいつが俺に付きまとうようになったんだったな。
結論。俺とあいつの関係は哀れな被害者と理不尽な加害者だな。
「……うん」
「勝手に納得しないでくださいよ。どういうご関係なんですか?」
「哀れな被害者と理不尽な加害者だな」
「…………加害者と言うのは」
「あいつに決まっておろう」
「……………………はい」
鵜菜はすごく腑に落ちないと言った顔でうなずいている。
何故だ? 俺が被害者で小百合が加害者。この状況はどう見たってそれ以外には落ち着かないだろうに。
……鵜菜の考えはよくわからん。
そんなこんなをしているうちに、俺と鵜菜の番が来た。
「……俺は、これで良いか。お前は何食うんだ?」
俺はてきとうにうどんを選びながら、鵜菜に促す。
別に俺は食えれば何でもいいので、それほどこれが良いとかいう好みはないのだ。強いて言うのなら、まずいものは食いたくないという程度だ。後は……なるたけ安ければ文句はないな。食い物に金を掛けることがあまり好きではないし。
俺の声を聴いた鵜菜は、熱い視線を券売機に向けている。
そんなにジッと見つめなければいけないほど、鵜菜は視力が悪いのか? それとも決めかねているのか? どちらでもいいが、早く決めないと後ろの列がまた酷いことになりそうだ。
「……決まらんのか?」
「ひぅっ!」
俺が声をかけると、鵜菜はビクッと背中を震わせたかと思うと、飛び跳ねた。……この距離で動いてすらいない俺の存在を忘れるとは相当に集中していたのだろう。
「え、えぇっと……決まっていないわけではないんですけど……」
鵜菜の口調は妙に歯切れが悪い。
多すぎて決めかねているのか? ……いや、決めかねているなんてことはないだろう。決まっていないわけではないと本人が言っているわけだし。
ならば、遠慮でもしているのか? それは今さらだろう。おごられるのを遠慮するぐらいならついてこなければよかったのだ。
だとすると……何だ? 鵜菜の考えていることはよくわからん。
ふと、気づく。
俺と話していると言うのに、鵜菜の視線は券売機に向けられていることに。
鵜菜の視線が一点で止まっていると言うのなら、それを買ってやれば済むことなのだろうが、鵜菜の目は動いていて、一つを注視していると言うわけではないようだ。
ならば、決めかねているのか? さっきの俺の思考が間違っているのか?
「……ふむ」
俺の思考が一つの形にまとまった。
と、言うよりかはこれ以上待たされるのが嫌になって無理矢理に思考をまとめたと言ったほうが正しいか。空腹でも意外と脳は動くようで感動している。
食いたいものは決まっている。だが、視線は動いている。この二つの事実から導かれる結論はそう多くはない。
ひとつは、決めかねていると言う可能性。
複数に候補を絞ることまでは出来たが、そこからは決めかねていると言う可能性。
ふたつは、気になったものが全て食べたいのだと言う可能性。
複数に候補を絞り、腹の具合などをかんがみた結果、その候補が全て食べたくなってしまった。だが、さすがに複数をおごってもらうのは心苦しいのだと言う可能性。
…………後者かな。
「……金はそれなりにある。食いたいものを好きなだけ買えばいいさ」
「えっ……?」
鵜菜は券売機からやっとこっちに視線を持ってくる。その目にはありありと期待に満ちた色が浮かんでいる。
幸いにして、この食堂の全メニューを買ってもおつりがくる程度には財布にも余裕がある。
……まぁ、帰りにいろいろと買うものがあったのだが、ここで使い切ってしまっても問題はないだろう。
たまには、こんな金の使い方をしても罰は当たらん。
「……財布にはそれなりの余裕がある。それに……お前におごることよりもお前とここで無為な時間を過ごす方が俺にとっては苦痛で仕方がない」
「す、すいません。……で、でもいいんですか?」
「……何度も聞くな。鬱陶しい」
「は、はい!」
鵜菜は目を輝かせて、嬉しそうな笑顔を見せながら頷く。……なんだ。こんなガキらしい表情もできるじゃないか。
鵜菜の喰いたいものの種類は相当のもののようで、俺が逐一金を投入しているのでは相当なロスになる。それに何より、面倒で仕方がない。
俺は、鵜菜に財布を預けると、さっき自分の分として買った食券を持って先にカウンターに行く。
財布を渡された鵜菜は一瞬だけ、え? と言う顔をしていたが、すぐに券売機に金を投入して食券を購入する作業に戻った。疑問も食欲には勝てなかったらしい。実に動物的である。
カウンターに行って食券を厨房から出てきた学生に渡す。この学食は調理委員会が主催しているので、この学生は十中八九調理委員会だろう。
調理委員会はこの学園全体の食事に関することを一任している委員会だ。公共(この場合の公共と言うのは学園の側が運営している施設のこと。各校舎や、職員用の施設などのこと。寮や委員会の建物は含まれない)の食堂などは、大抵調理委員会管轄と言っていいだろう。
それ以外でも、食品を扱っている店を出店したいときは調理委員会の許可を取らなければいけないのだ。
ちなみに、委員会特区にある調理委員会の施設では日夜うまい料理の開発などがされているらしい。たまに爆発などもあるから、調理委員会もそれなりに危険な委員会と言うことなのだろう。
程なくして、トレーに乗ったうどんが運ばれてくる。湯気もたっているし、漂ってくる出汁の香りが食欲を誘う。
どこか席に空きがないかと見回してみるが、そこは昼時の食堂。超満員で、座れそうな場所はほとんどない。全く空きがないと言うわけではないのだが、ぽつぽつとしかないので、鵜菜と二人で座ることが出来そうな場所はなさそうだ。
「す、すいません! 今、ここ退くんで!」
予期せずして、俺の前で飯を食っていた集団が立ち上がって去っていく。空いている席がないかと探していただけなのだが、ずっと同じ場所に立っていたので、自分たちが威圧されているとでも思ったらしい。
ただ立っていただけなのだが……な。
変な噂が立つ。その噂を聞いた人間が勝手に俺のことを恐怖する。その人間たちが俺に会うと、噂を鵜呑みにして俺に会うと逃げ出す。
気が付いたらこんな悪循環が俺の周りでは起こっている。
何も思うことがないと言うわけではないのだが……そんなことにリソースを割いていられるほど、俺の脳は優秀ではない。
それに、今日こんな過剰に反応してくるのは昨日の一件がもう出回っているからだろう。
普段はここまで過剰ではないのだ。ま、そのうち沈静化すると思って受け流すこととしよう。今までのように。
とりあえず、このままテーブルを空けておくわけにもいかないので席に着く。
早く食べてしまいたいが、鵜菜が来るまで待つのがマナーと言うものだろう。目を閉じて腕を組みつつ鵜菜が来るのを待つ。
ところで、話は変わるがこんな話を知っているだろうか?
人間の脳のリソースを多大に圧迫しているのは視覚情報を処理することだと言うことを。
だから、その視覚情報をシャットアウトすれば多少は他の五感が冴えるのだ。よくマンガとかで耳を澄ますときに目を閉じていたりするだろう? それには視覚情報をシャットアウトして他の五感に集中すると言う効果があるからだ。
まぁ……何が言いたいかと言うと、目を閉じると、感覚が鋭敏になってしまって普段は聞こえないことが聞こえてきてしまうと言うことだ。
「見た? また流があんなことしてるよ」
「見た見た。本当にあいつは最低だよね。普段は学食に来ないはずなのに今日に限って何でこっちに来たんだろうね?」
「ご飯が不味くなるから来ないでほしいよね」
「聞いたか? 流の奴、今日は中等部の女子連れてるんだってよ!」
「え!? マジ!? ロリコンじゃん!」
「マジマジ。中等部の後輩から聞いた話だと、昨日中等部の教師含めた数人ボコボコにして、その中等部の女子を拉致ったって話だぜ。しかも、そのボコボコにされた教師は原型とどめないくらいに殴られたって話だぜ!」
「相変わらず、ひっでぇ事するもんだぜ『頭痛鯨』様は」
不快で不愉快な声が耳に入っては消えていく。
あいつらは聞こえていないと思っているのだろうが、ばっちり聞こえている。
これでも基本的な五感の性能はいい方なのだ。ただ、それが普段は頭痛と、そのほかにリソースを取られてうまく活用できていないだけで。
目を閉じてしまうと、こちらに聞かせるつもりでしゃべっているんだと言うほど鮮明に聞こえる。目を開けている時は、頭痛のせいでノイズが走っているように聞こえるので、上手く聞き取れないが、目を閉じて聴覚に集中すればこんなものだ。
不愉快で仕方がない。
普段はこれを聞くのが嫌で、正義や読子といるときや寮にいるとき以外は基本的にイヤホンをつけて外から入ってくる聴覚情報を意図的にシャットアウトしているのだ。
残念なことに、今日は鵜菜と色々とやっていたせいであの部屋に鞄と共にイヤホンも音楽プレーヤーも忘れてきてしまった。
不快な気持ちのせいで頭痛がまた騒ぎ立て、脳を内側から圧迫する。
俺は一度、大きくため息をつく。
「はぁ……聞こえているぞ、クソども」
俺の出した声などさして大きなものではない。いつも通りにうるさければ聞き逃してしまうほどの声量でしかない。
だが、タイミングと言うものをうまく使えば、この場にいる全員に聞かせることなど容易い。
どれだけうるさい空間でも、人間である限り呼吸をせねばならん。
それに、会話している時には稀に一瞬話題がなくなる、会話の間と言うものがある。これは小休止だったりするが……たまに起こらないか? それぞれグループで話していて、全く隣とは話題が違うと言うのに、その空間全体で空気が冷えると言うことは。
その冷えた空気の中ではやけに次の言葉が発しずらく、少しの間を開けてその空間全体が笑いに包まれたりするだろう?
その間をうまく利用しただけだ。
誰もが息を止めて周囲をうかがう中、あと少しでその静寂が割れると言うタイミングを見計らって声を発しただけだ。
目を開けて周囲の状況を軽く観察してみると、面白いことになっている。
弛緩しかけた空気が一気に緊張し、この空間にいるほぼ全員が空気を察して凍りつく。
凍りつきながらも、誰が俺の逆鱗を撫でたのか視線で牽制し合っている。そして、すぐに全員の視線が何か所かで縫い留められる。
その数か所と言うのは、等しくさっき俺のことを話題に上げて笑っていた連中だ。
実に愉快だ。
これで少しはあのクソどもも、普段の俺の気持ちが少しは理解できたかな? 動物園のパンダだってもうちょっとましだと思うぐらいの視線にさらされて気分のいい人間などそれほどいないはずだがな。
学食全体から冷たい目で見られてしまったクソどもはそそくさと逃げてしまった。
……フン。クソが。
「な、流先輩? な、何でそんなに怒っているんですか?」
複数のトレーを器用に運んできた鵜菜は状況を全く理解できていないようだった。……どれだけの集中力なんだよ。
「……特筆すべきことなんざなにもねぇよ。この学食にも俺にとってのいつも通りの日常が転がっていた。その日常ってやつから俺は逃げられないってことを今日改めて理解した。たったそれだけのことだ」
「そ、そうなんですか……」
「そうだ。……さっさと座って食ってくれ」
「は、はい。あ、あとこれありがとうございました」
俺がこれ以上説明する気がないことを察したのか、これ以上話を聞くと俺の機嫌が更に悪くなると踏んだのか、鵜菜はそれ以上追及してこない。鵜菜の頭が良いようで俺は嬉しいよ。
ちなみに鵜菜から手渡された財布は随分と軽くなっていた。……後でどれだけ中身があるのか確認せねば。
……にしても、いかんな。鵜菜と相対していると、気づかぬうちに口数が増えてしまう。
俺は普段から口数を意図的に減らしている。
理由は簡単。しゃべるのがそれほど好きでもないし、人の声を聴いていると頭痛が増長されるからだ。わざわざ軋む頭を押さえながら話したいと思える相手もいないのでな。
頭痛が増さないせいか、鵜菜との会話は口数が増えてしまうのだ。……案外、素の俺はしゃべるのが好きなのかもね。
俺はうどんをすすりながら、目の前でうまそうに飯を食っている鵜菜を眺めるともなく眺める。
鵜菜は実にうまそうに飯を食っている。それに、その小さな体のどこにそんな量が入るのやら……全く見当がつかない。
俺はうどんを喰い終わるのと、運が俺の数倍の量の食い物を喰い終わるのはほぼ同タイミングだった。
しかも、鵜菜はよく噛んでいないとか、味わっていないとかそう言うわけではなく、しっかりと味わって食べたうえでこれだけ早いようだ。……これも特技に含めてもいいのかね。
俺と鵜菜は返却カウンターにトレーと皿を返却してから食堂をでる。もう食堂の中にはそれほど人が残っていない。
もうそろそろ昼食時もピークが過ぎたころだ。ここからは、さっき一般学生のために食事を提供していた調理委員会たちの食事の時間だろう。
廊下に出ると、来た時ほど人も多くない。その分、衆目に晒されなくていいのでどことなく気分が良い。
「ふはー……。いっぱい食べましたぁ……」
俺の隣には満足したような満ち足りた表情をした鵜菜がいる。
さっきまでの俺への警戒は何処へ行ったのやら。油断しきった、弛緩しきった表情で俺の横を歩いている。凝り固まったような表情しかしていなかったので、新鮮と言えば新鮮だな。
そんな鵜菜の表情を見ていると、俺の周囲はどうしようもなく平和なのだと錯覚してしまうから不思議だ。
……ま、今ぐらいはそんな平和を満喫しても文句は言われまい。誰にとは言わんがな。
キーンコーンカーンコーン。
スピーカーから電子的な鐘の音が流れて、今日の全授業日程終了を告げます。
今日は、一日テキストをしていただけでしたが、中等部で授業を受けるよりもずっとずっと有意義な時間になった気がしています。
基本的には自分でテキストを解くだけなのですが、わからないところがあった時は、流先輩に聞けば面倒臭そうにしながらもわかりやすく教えてくれます。
最初のほうはイライラとした様子だった流先輩も、途中からはちょっとした雑学も教えてくれるようになったのでそこからはもっとこの時間が有意義になった気がします。
あ、あと今日のお昼は流先輩に高等部の学食に連れて行ってもらいました。
中等部は給食なので、学食と言う制度自体が新鮮でした。それに、種類も豊富だし、何よりも美味しかったのでよかったです。さすがに毎日流先輩におごってもらうのは気が引けるので、明日からはお金を持ってくることにしましょう。
「あー……やっと終わったか」
流先輩はヘッドホンを取って大きく伸びをしたり、体を捻ったりして長時間座っていたことによるコリをほぐしています。流先輩が首をひねった時には、ゴキリゴキリと致命的な音が聞こえてきましたが、流先輩は気にした様子がありません。……大丈夫なのでしょうか?
私も、軽く体を伸ばして固まっていた体を伸ばします。関節からはパキパキといった音が聞こえてきます。その音が私が頑張った証であるような気がして少し誇らしいです。
こんなに全身が凝り固まるほどに集中して勉強したのなんていつ以来でしょうか? 少なくともパッと思い出せる程度の表層的な部分には存在しません。
「さてと。もうそろそろか……」
「? 何がもうそろそろなんですか?」
流先輩の突拍子もない呟きに私は聞き返しますが、もう流先輩はイヤホンをつけていて、私の声は聞こえていないようです。聞いている音楽にリズムを合わせての事なのか、首をカクカクと揺らしています。
流先輩は自由な気質のようです。自分の気の赴くままに過ごしています。その結果、周囲に迷惑がかかっても気にしない。
昨日の様子を見た感じ、その流先輩のもろもろの行動の後始末を行っているのは正義先輩のようです。そのせいか、流先輩は正義先輩の言うことには、憎まれ口をたたき、嫌そうにしながらも従っているようです。
そこまで思考を整理し終えたところで部屋の扉が開きます。
「お疲れ~。どうだった? いい子にしてた? いい子にしてたんならおじちゃんがお菓子をあげよう」
そんなことを言いながら部屋に入ってきたのは正義先輩です。
正義先輩も私たちと同じく一日授業を受けていたはずなのですが、私たちなんかよりも圧倒的に元気にしています。
普通に授業を受けていたはずの正義先輩のほうがともすれば私たちよりも疲れているはずなのですが……。正義先輩の底抜けの元気はいったいどこから来るのか。不思議で仕方がありません。
「流もお疲れ様。どう? 一日授業サボって女の子といた気分は」
「……フン」
正義先輩が流先輩の肩に手を置き、軽口をたたきます。
それに対して、流先輩は面白くなさそうに肩におかれた手を振り払います。と言うか、コメントに対する反応がないのは正義先輩の声が聞こえていないからではないでしょうか?
そのぐらいの予想は簡単につくようになってしまいました。意外と流先輩の行動は読みやすいようです。
「……おい」
「ん? 何だい?」
流先輩は正義先輩の耳に口を近づけ、何事かを囁いたかと思うと、こちらには一瞥もせずにすぐに部屋から出て行ってしまいました。
何か用事でもあったのでしょうか?
「あはは……。流も勝手だねぇ。ま、いいか。それじゃ、帰ろっか? 鵜菜ちゃん」
「え……先輩とですか?」
「嫌そうな顔をしてくれるねぇ……」
「嫌ってわけではないんですけど……」
別に正義先輩と帰るのが嫌と言うわけではないのです。嫌と言うわけではありませんが、釈然としないと言うか……言葉では説明できないような感覚があるのは確かです。
私としては、当然のように流先輩と帰ると思っていました。この釈然としない感覚はそれのせいかもしません。
「しょうがないじゃん? 流の奴はCD買ってくるって言っていっちゃったんだもん。あいつの行動ばっかりは僕でも縛れないからねぇ」
「そうですか……」
「まあまあ。流ほど僕のことを信用できていないのかもしれないし、僕のことを嫌いかもわからないけどさ。僕だってこれでも委員長なんだよ? 鵜菜ちゃん一人ぐらい守りきって見せるさ」
そう言って正義先輩は腕に力を入れて力こぶをつくろうとします。ですが、その腕には力瘤のようなものは出来なくて、私の目にはちょっと面白く映りました。
正義先輩の実力が信用できていないわけではありません。正義先輩だってこの学園内でたった十二人しかいない委員長なのです。それも、実力がないと務まらない風紀委員長です。
その風紀委員長様の実力を信用しなければ、この学園内で信用に足る実力を持っている人などいないはずです。
でも……私は正義先輩よりも流先輩と帰りたかったです。
この気持ちは何なのでしょうか? 流先輩のことを考えていると胸がざわつきます。病気か何かでしょうか?
「ん? どうしたの、鵜菜ちゃん。少し顔赤いよ?」
「へ? そうですか?」
「うん。ほんのり赤って感じかな。なんか良いことでもあった?」
正義先輩はそう言って茶化してきます。
言われてみれば、少しだけ顔が熱いような……。本格的に病気なのかもしれません。今度、保健委員会の人に見てもらうとしましょう。
「それじゃ、行こっか? ここでこうしててもしょうがないでしょ?」
「……わかりました」
「うん。わかってくれたのは嬉しいんだけどね? その明らかに不本意だって表情を隠してくれると、僕としては嬉しいんだけどね」
? 私はそんな表情をしているのでしょうか? 全く気づいていませんでした。今日は朝から調子が悪いようです。注意しませんと。
私は先に行く正義先輩の二歩ほど後ろをついていくようなスタンスでついていきます。
え? なぜ正義先輩の隣を歩かないかですか? 正義先輩の隣を歩いていて変な噂にでもなったら困るじゃないですか。私にとっても。正義先輩にとっても。
もう放課後になったからか、風紀委員庁舎の中にも人がいます。
それはそうですね。実際には、日中にここにいた私と流先輩が例外なのです。
いくら委員会に所属しているとは言っても学生は学生。日中は授業を受けなければいけませんから。
前から歩いてきた体格のいい生徒に正義先輩が話しかけます。
「お疲れ様。これからどうするの?」
「巡回です。委員長はどうするんです……ハァ」
「おいおい。その意味深な溜息は何なんだい?」
「委員長。あなたは委員長なんですから、委員長としての自覚を持ってください」
「……ドゆこと?」
風紀委員であろう先輩(腕に腕章を巻いているので、風紀委員で確定でしょう。後、吐いている靴が高等部のものです)に自覚をもてと言われた正義先輩はキョトンとした目で聞き返します。
それに風紀委員会の人はもう一度大きなため息をついた後、私のことを指さしつつ言いました。
「誘拐は犯罪ですよ?」
「誘拐なんてしてないよ!?」
「それに……噂によると、この子は日中からずっとここにいたそうじゃないですか。拉致監禁なんて……独房にぶち込みましょうか?」
そう言った風紀委員の先輩はベルトに取り付けていた手錠を取ります。
これは、風紀委員の標準装備なのでしょうか? それともこの先輩の武器なのでしょうか? 大穴で、この先輩の趣味と言う可能性も捨てきれません。
パッと見だけでは判断が付きませんが、最後でないと言うことだけはわかりました。
「……君は僕のことをいつもそんな目で見てたの?」
「まぁ……あんな躾も何もできないようなペットを飼ってたらそう思われても仕方ないと思いません?」
ペット? 正義先輩はペットなんて飼っていましたっけ?
少なくとも、寮には人間以外はいなかったような気がします。と、言うことはこの風紀委員庁舎で飼っているのでしょうか? それにしては、日中に何も聞こえてこなかったのは不思議です。
私が思考の海に沈んでいると、背筋に悪寒が走ります。悪寒と言うか、寒気と言うか……空気が急に重くなって私の肩にのしかかってきたような感じです。
例えるなら、寝ているライオンの尻尾を踏んづけてしまった時のような。そんな感じですか? 寝ているライオンの尻尾なんて踏んづけたことはありませんので、想像でしかありませんが。
「……ねぇ、僕は小動物が昔からあまり好きじゃないんだよ。ハムスターに指を思いっきり噛まれたことがあってね。それ以来怖くてさ。……だから、ペットにできるような小動物を飼ったことなんて一度もないんだ」
そんな正義先輩の声が聞こえてきました。
声は普段の正義先輩と何も変わっていません。……ですが、その声には底知れないものを感じました。
恐る恐る正義先輩の顔を見てみると、正義先輩は笑顔でした。でも、その笑顔は、会ってから今まで私が見てきたものとは全く違うものに見えました。
「だから、さ。僕がどんなペットを飼ってるって? 教えてくれないかい?」
正義先輩は付き合いの浅い私でも容易に分かるほどに怒っていました。
今の正義先輩は、昨日流先輩が私を助けてくれた時に、無感情に教師を乱打していた時と同じかそれ以上に怖いです。
ですが、風紀委員の先輩は正義先輩が怒っていると言うことにも気づかずに、正義先輩の質問に答えます。
「あの『頭痛鯨』……杉浦 流ですよ。あんな害獣を好き好んで近くにおいておこうなんて正気の沙汰とは思えませ……」
その風紀委員の先輩は最後まで言葉を紡ぐことが叶いませんでした。正義先輩が、その風紀委員の先輩の首を掴み、その体を持ち上げたからです。
正義先輩はそれほど体格に恵まれているようには見えません。先ほどの部屋で力こぶを出そうとしたときもそうでしたが、着やせしているだけで筋肉質と言うわけでもなさそうです。
でも、今正義先輩は片手一本で正義先輩よりも体格のいい先輩を持ち上げています。
どうなっているのでしょうか?
「流を……僕の親友を、僕の前で堂々と馬鹿にするとはいい度胸だね? 死んでも文句は言わないよね? 大丈夫、安心してくれよ。君が今日死ぬのは僕の不興を買ったからじゃない。ちょっと事件に巻き込まれてしまったからだ。良かったね? 不名誉な死に様ではないと思うよ?」
「っ……かっ…………!」
持ち上げられて気道をふさがれている先輩は苦しそうにもがいています。
先輩を持ち上げている正義先輩の声からは、一切の感情が聞き取れません。ただただ、淡々と言葉を紡いでいます。
それでも、正義先輩の顔には笑顔が張り付けられています。
ここでやっと私は理解しました。正義先輩は優しいから、穏やかだから笑顔でいるんじゃありません。
この笑顔は一種の仮面なのです。正義先輩の心の内を他人に隠すための仮面なのです。
そう言えば、私は正義先輩の笑顔以外の表情を見た覚えがありません。正義先輩はどんな時でも笑顔でいました。
……今さらになって、私は正義先輩の底知れ無さを垣間見た気がします。
「……一回だけチャンスを上げよう。さっきの害悪と言う言葉を取り消してくれない? そうしたら殺さないでおいてあげるよ」
「と……とりけし……ます……か、ら……かんべ……んして、くだ……さ、い」
「うんうん。物わかりのいい子は嫌いじゃないよ?」
そう言うと正義先輩はあっさりと先輩の首から手を放します。
急に地面に落とされた先輩は、それなりに衝撃があったのでしょうが、そんなことは思考の端にも浮かばないのか、何度も咳き込んでいます。
「それじゃ、巡回がんばってね~」
咳き込んでいる先輩に視線すらやらずに、そう言って先輩の横を正義先輩は通り過ぎます。
そんな正義先輩の表情は、全く変化することはありません。
正義先輩がある程度、先に行ってしまってから、ついていかなきゃと私は思いました。私は先に行ってしまった正義先輩に置いつくために、小走りで正義先輩を追走します。
その時、蹲っていた先輩の口から漏れ出た声が少し耳に入ります。
「さすが……『笑鬼』……化け物かよ」
『笑鬼』? 何のことなのでしょうか?
よくその言葉の意味が理解できなかった私はその言葉を思考の隅に追いやります。
追いついて、正義先輩の顔色をうかがってみますが、普段と変わらない笑顔です。ですが、さっきのあれを見た後だとこの笑顔の裏で何を考えているのか全く分からなくて怖いです。
「フンフンフ~ン。フンフフフフッフフ~ン」
上機嫌に鼻歌を歌っている今は、機嫌がよさそうです。どうやら正義先輩はあまりグチグチと苛立ちとかを持ちこさないタイプのようです。
「そうだ。鵜菜ちゃん」
「は、はひっ!」
急に話しかけられて思わず飛び上がってしまいます。
わ、私は何か正義先輩の逆鱗に触れるようなことをしてしまったでしょうか!?
思わずわたわたとしてしまう私を見た正義先輩は軽く声を出して笑います。
「ハハッ。別に怖がらなくていいよ。鵜菜ちゃんに手を出すつもりは毛頭ないから」
「ほ、ホントですか?」
「ホントホント。それでさ、鵜菜ちゃんはこれから用事か何かあるかな?」
「用事ですか?」
今日は何か用事などあったでしょうか? 私は自分の記憶を精査して予定らしいものがないかを探します。
……はい。考えるまでもありませんでした。
中等部に通っていたころから、予定らしい予定などありませんでした。放課後に呼び出されることと言えば、昨日のようなことばかりでしたから。
それがなくても、中等部に友達と呼べるような人は一人もいなかったので、予定が立つはずもありません。
私は予定がないと言うことを正義先輩に伝えるために、ゆるく首を横に振ります。
そんな私の仕草を見た正義先輩は、嬉しそうに笑みを深めます(今は本当の笑みだと言うことがわかりました)。
「そかそか。それなら、ちょっと買い物に付き合ってくれない?」
「買い物……ですか?」
「そ。鵜菜ちゃんの嫌いなものとか好きなものとかもこれを機に知っておきたいしねぇ。それと、今日は鵜菜ちゃんの歓迎会をやろうと思ってるからさ。鵜菜ちゃんの食べたいものをつくらないとね?」
そう言った正義先輩は粋にウィンクをしてきます。
まぁ……そのウィンクには欠片も心を動かされませんでしたが、歓迎会をしてくれると言う正義先輩の心意気は素直にうれしいと思います。
「それじゃあ、いざ往かん! スーパーへ!」
そんなことを言いつつ楽しそうに歩いている正義先輩の少し後ろをついていく形で私も歩きます。
まだ、正義先輩のキャラクター性がつかめていませんし、いい人なのかどうかは一考の余地がありそうなのですが、正義先輩が悪い人でないことは確かなようです。
スーパーでの買い物が終わって寮につくころにはもうずいぶんと暗くなってしまっていました。
もう夏に入る時期と言うこともあって、日も随分と長くなってきたかと思うのですが、それでもまだまだ暗くなってしまうのは早いように感じます。
早く夏にならないかと、夏が待ち遠しく感じます。
「ただいまーっと。いやー、重い重い。それに、やっぱりうちの寮は遠くていやだねぇ」
そんなことを言いつつ、私の後ろから正義先輩も大量の荷物を持ちながら入ってきます。
私の食べたいものを作ってくれると言っていましたが、最初は私も遠慮していました。本当に私が食べたいものを自由に言っていたら、いくらあっても足りませんから。
それでも、正義先輩が遠慮するなと何度も言ってくれたので、遠慮せずに食べたい料理を片っ端から言いました。
今までの経験から言うと、引かれてしまうかなと思っていたのですが、正義先輩はニコニコとした笑顔で、
「そんなに食べられるのかな?」
などと少し私を茶化しながらも注文を請け負ってくれました。
正義先輩は私に殊更にやさしいように感じます。
……これは私がいじめの被害者だからなのでしょうか? それとも純粋に正義先輩が優しいからなのでしょうか?
さっきのあの笑みを見た後では、よくわかりません。
「それじゃ、僕は料理作りますか。その間、鵜菜ちゃんはどうしてる?」
どうしてる? と言われても。私にはしたいこともありませんし、それ以前にできることもさほどありません。
ここには私の私物はまだ一つもありません。
それはそうです。昨日急に転寮することが決まったので、荷造りも何もしていません。それに荷物を取るためにあの寮に一時的とはいえ、戻れと言われたら拒否します。
それ以前にあそこにおいてある私の荷物は無事なのでしょうか? 燃やされていたり、傷つけられている可能性がとても高い気がします。わざわざ壊れているかもしれないものを取りに行って、また傷つけられたいと思うほどの被虐趣味は私にはありません。
そんなことで、この寮は居心地は良いですが私の荷物はありません。
どうしたものでしょうか?
私が首をひねっているうちに、正義先輩は一度食堂のキッチンに荷物を入れて戻ってきています。
そして、今は私の考えがまとまるのを笑顔で待っていてくれています。
早く料理を作りたいのでしょうが、そんな不満を表情には欠片も出さずに待っていてくれています。ちなみに、何故早く料理をしたいのだろうと思ったのかと言うと、正義先輩が可愛い熊のアップリケのついたエプロンを身に付けていたからです。
そんな時、閉めていたはずの寮のドアが開きました。
「あー……クッソ重い。ほら、さっさと運びやがれ」
「えー、何で俺がこんなことさせられてんの……? 車出すだけって俺言ったよね?」
「文句言ってると蹴散らすぞ」
「斬新な罵倒ですこと……」
そんな会話をしながら入ってきたのは、流先輩とこの寮の管理人をしていると言う教師でした。
二人とも大きな段ボールを抱えていてます。そのダンボールは先輩たちの後ろにもいくつか並べられています。
いったい、流先輩は何枚のCDを購入したのでしょうか?
「あ? お前らも帰ってきていたのか」
「ついさっきね。それで? その大量の荷物の正体を聞いても?」
「あぁ……これな」
流先輩は担いでいた段ボールを床に下ろすと、疲れたように息を吐き出します。
その仕草だけでこの段ボールの重量が相当なものであると言うことが用意に理解出来ました。
そんな流先輩の後ろでは教師がぐでっとした様子で倒れこんでいます。
流先輩は私の頭に手のひらを乗せながら口を開きます。
「……こいつの荷物だよ。こっちの寮で暮らすのなら最低限、服がないと困るだろう。いつまでも制服だけで過ごすわけにもいくまい」
「え……と言うことは、流先輩は私の荷物を持ってきてくれたってことですか?」
「……そう言っているだろうが。何度も説明させるな」
私が驚いて流先輩に聞くと、流先輩は面倒臭そうな声で応じます。
流先輩が私のためにそんなことをしてくれたなんて……正直びっくりです。流先輩は、自分本位な人と正義先輩が言っていたのに、こんなことをしてくれるとは。
でも、流先輩が持ってきてくれたのが私の荷物と言うのは理解出来ましたが、一つ疑問が生じました。
私の荷物にしては量が多すぎるのです。
寮においてある私の荷物なんて、私の記憶が正しければ精々段ボール二個分だったはずです。パッと見で流先輩の背後にある段ボールは七、八個あるように見えます。
それが不思議でなりません。
「流先輩」
「あ? 今疲れてんだから、くだらない事だったら潰すぞ」
「わ、私のために疲れていただいたことについては感謝の言葉もありません。ですが、私の荷物と言うには量が多すぎませんか?」
「あぁ……それな」
流先輩は疲れたような、苛立ったような表情を浮かべます。
わ、私が何か流先輩の勘に触るようなことを言ってしまったのでしょうか?
そんなことを考えて、震えてしまう私を見て、正義先輩がケラケラと笑い声を漏らします。
「わかった。それ読子に頼まれたんでしょ」
「……正解だよ」
「ハハハ。お疲れ様」
「……フン。おいクソ教師。読子の部屋に運んでおけよ」
「教師を顎で使うって……ホント流くん何様って話」
「……………………」
「はーい……黙っていきまーす」
流先輩に文句を垂れようとした教師は、流先輩の苛立ちが込められた視線を向けられると重い腰を上げて、のたのたと段ボールを運んでいきました。
これで、残りの段ボールは四つです。それでも、私の予想している荷物の量の二倍もあります。後二つは誰の荷物なのでしょうか?
「誰の荷物なんですか?」
「……主語がない」
「す、すいません。私の予想では、私の荷物なんて段ボール箱二つ分もなかったはずです。なら、残りの二つは誰の荷物なのかと気になったものですから」
「…………ハァ」
流先輩はため息をつくと私の頭から手を放し、靴を脱いで寮の中に入って行ってしまいました。
奥に行く前に、ボソッと正義先輩に何事かを呟いていました。
「な、なんて言ってましたか? わ、私何か不味いことをしてしまったのでしょうか?」
「そんなことはないんじゃない? 純粋に、流の事だから面倒になっただけだと思うよ? あいつあんまり会話自体が好きじゃないから」
「そ、そうなんですか?」
「そうなんです。ま、あいつから伝えられたことを伝えるよ。『開けてみればわかる』ってさ。それぐらいなら自分で言っても変わらないだろうにねぇ」
「開ければわかる……ですか?」
私はその正義先輩の言葉(正確には流先輩の言葉なのでしょうが)に従って、段ボールを開けます。
一つ目の段ボールの中には、私の衣類が入っていました。正直、あの寮にあって引き裂かれていなかったのが不思議でなりませんが、記憶にある分の衣類は全部入っているようです。
二つ目を開けると、中にはこまごまとした雑貨が入っていました。あまりしっかりとは確認しませんが、ちゃんと全部あるようです。
三つ目の中には、書籍が入っています。これは私の荷物でしょうか? それにしては真新しい本が多く入っています。私はこれほど本を持っていたでしょうか?
四つ目の段ボールを開けた私は驚愕しました。
「これ……」
驚いて固まっている私の横から正義先輩が段ボールの中を覗き込みます。
「あぁ……そういうこと。流も本当に憎い事するね」
中を見た正義先輩は笑みを深め、声音にも笑いを含みます。
四つ目の段ボールに入っていたものは真新しい教科書やテキスト類でした。
私は今教科書を持っていません。辛うじて、授業で使うような教材で持っているのは今日一日していたような数冊のテキストだけです。
中等部まではうちの学園は無料支給されます。なのに、何故私は教科書を持っていないのか?
単純な話です。いじめの一端として私の教科書類は全部使えないような状態にされてしまったからです。
ある教科書は燃やされました。
ある教科書は水浸しになりました。
ある教科書は全部のページが糊付けされました。
ある教科書はページと言うページに罵詈雑言が書かれました。
そんな感じでいじめられているうちに私の教科書はなくなってしまいました。
テキスト類はその苛めの対象にならなかったかと言うと、そんなことはありません。
もちろん、テキスト類も全部紛失したのですが、中等部の用務員さんに一人だけ優しい人がいて、その人がテキストだけは全部もう一度揃えてくれたのです。
それでも、教科書がなければ授業にはついていけません。そのせいで、私は成績が落ち込んでいました。
流先輩の前で教科書がないと言うことなど話した記憶がないのですが、流先輩には気づかれてしまっていたようです。
「気づかれていたんですね……」
「正直珍しなって僕としては思うけどね」
「何が珍しいんですか?」
私が問いかけると、正義先輩は頬を緩めます。
「流の場合だとさ。気づいてても動かないことが大半なんだよ。面倒だとか言ってね。そんな流が、誰に指示されたわけでもないのに、自発的に、教科書類をそろえるなんて本当に珍しいことだよ」
「そうなんですか……」
そんなことを感心した風に言う正義先輩の言葉を聞いた私の心の中に、少しほの暗い感情が浮かびます。
それは、流先輩もやっぱり私のことを特別扱いしているのではないかと言う疑問です。
正義先輩は流先輩の私に対する態度を見て意外そうにすることが多いような気がします。
それ即ち、流先輩も正義先輩と同じように、私のことをいじめの被害者として扱っていると言うことではないでしょうか?
今思うと、今日のお昼の小百合先輩に対する態度と私に対する態度も全然違っていたような気がします。
ひとつでも疑う心が芽生えてしまうと、他のすべての行動も疑ってしまうようになります。
今の私は、昨日の夜のように流先輩のことを信用できていない気がします。
本当に……こんな自分が嫌になります。
「それで? 鵜菜ちゃんはこれからどうするの?」
「へっ!?」
「そんなに驚いてくれるなら、気配を消して君のそばにいた甲斐があると言うものだよ」
「そ、そんな悪趣味なことしないでくださいよ!」
正義先輩は気配を消した状態でずっと私の横にいたようです。
私がこの教科書を見てから色々と考えすぎてしまって、周囲が見えていなかったと言うのも多分にはあるでしょうが、正義先輩の行動はとてもではないですが、良い趣味とは言えないと思いました。
「わ、私はこれからこの荷物の荷解きをします! だから、どっかに行ってください!」
「はいは~い。りょーかいりょーかい」
そう言った正義先輩はニコニコとしたまま、食堂に消えていきました。
私は今度こそ正義先輩が消えたのを確認してから、改めて手元にある教科書類に目を落とします。
その教科書類を見ていると、気分が不安定になってきます。流先輩のことが信用できないと言う事実に心が揺らされています。
どれだけ私は流先輩に期待していたのでしょうか?
私のことを受け入れてくれる人間などいるはずもないのに。
今日一日、流先輩にいろいろなことを教えてもらったり、優しくしてもらって喜んでいた自分の姿を思い出して、自分が道化のように思えてきました。
「……ハァ、考えてもしょうがないことですよね。とりあえず、片付けますか」
そこで、私はふと気づきました。この寮の中には私の自室と言えるような場所がないことに。
「そう言えばさ~、鵜菜ちゃんの部屋まだできてないけど、鵜菜ちゃんはその荷物をどこに片付けるつもりなのかな?」
タイミングよく食堂から顔を出した正義先輩がニヤニヤといやらしい笑みを顔に浮かべながらそんなことを言ってきます。
私は、自分の顔が真っ赤になるのを自覚しました。
飯を食った後の穏やかな時間。
今日の夕食は、鵜菜の歓迎会だとか言って正義が張り切った結果すごい量の料理がテーブルに並んでいた。
その料理の量もさることながら、味や見栄えにも一切手を抜かない正義にはいつもいつも驚かされる。
美味かったせいか、今日はいつもよりも食べ過ぎてしまった。
相当な量があったはずだが、全部片付いてしまっている。全員がいつもよりも食べただろうが、鵜菜の貢献が一番大きいだろう。鵜菜はその体格に見合わず相当な量を体に入れる。昼には俺も驚いたものだが、読子やクソ教師も驚いていた。
そして、洗い物を正義が全部片付け終わった後、鵜菜の部屋をどうするかと言う話になった。
「読子が本を片せばいいだろうが」
「はぁ? 流先輩は馬鹿ですか? あれでも随分と厳選してもってきているんですよ? そんなこともわからないなんて……これだから本も読まない馬鹿は嫌なんですよ」
「…………」
こいつ、もう殺してもいいよな。
俺が語っているのは圧倒的に正論なはずだ。
だと言うのに、何故にこの馬鹿に俺が罵倒されなければいけないのだ?
怒りと共に脳の神経をかきむしるような頭痛が襲ってくる。
この寮にいるときは、リラックスできているからか何なのか知らないが頭痛がそこまで酷くない。もちろん、一人でいるときの場合だ。
だが、読子と話している時だけは別だ。
こいつとは、昔っから気が合わん。そのせいか、こいつと話しているとストレスがたまって頭痛がひどくなるのだ。
「……死ぬか?」
「流先輩に私が殺せるんですか?」
今のはわかりやすい挑発だな。
……うん。その挑発のってやろう。その喧嘩買ってやろう。
「まあまあ。流は落ち着きなさいな。ここで読子殺したって根本的な解決にはならないよ?」
殺気を燻らせる俺を正義がなだめてくる。
……チッ。
「バーカ。正義先輩に怒られてやんの」
「……………………」
「読子も、だよ。流を挑発しないでよ。それに、読子が本をこの寮に持ち込みすぎているってのも事実だしね」
「で、でも……それは、しょうがないじゃないですか」
正義に注意された読子はわかりやすくきょどってどもってしまう。
この寮のヒエラルキーだと正義が頂点に君臨している。何故か、いつからかはいまいち記憶にないが、誰も正義に逆らわなくなった。
ちなみにヒエラルキーの最底辺にいるのは、クソ教師である。こいつには基本的に発言権すらない。
……ザマァねぇな。クソが。
俺が全力で読子に馬鹿にするような視線を向けてやると、読子がそんな俺に気付いて全力で右手の中指を立ててくる。……おぉ、怖い怖い。
「……ハァ、しょうがないなぁ。とりあえず、読子は早急に二部屋分、本を整理すること。わかったね?」
「……え? 何で二部屋分なんですか?」
「万が一に備えて、だよ」
「はぁい。わかりましたー」
正義の裁定に読子は不本意そうにしながらも、うなずく。この素直さを俺にほんの少しでも向けてくれば楽なのだがな。
そんなことを思いながら読子のことを見ていると、俺の視線に気づいた読子が舌を出しつつ、左手の中指もたてる。
舌を出すと言うと、少し可愛らしいような印象を受ける人間もいるだろうが、可愛らしいなんてとんでもない。あの全力で俺に喧嘩を売るような表情が可愛らしいと思える人間は相当に奇特な感性の持ち主だろう。
「とりあえず、鵜菜ちゃんには悪いんだけれど、鵜菜ちゃんには引き続き流の部屋で生活してもらうことになるけど……良いかな?」
「……は?」
ちょっと待て。今、正義聞き捨てならない発言しなかったか?
俺の部屋で引き続き鵜菜が生活する?
そんな風に聞こえた気がするが……ま、まぁ、きっと俺の聞き間違いだろう。聞き間違いのはずだ。聞き間違いであってくれ。
「おーい。流ー。現実逃避しないでねー」
「現実逃避するなんて、無様ですね」
正義が優しく俺の意識を現実に引き戻す。
と、言うことは鵜菜が俺の部屋に住むと言うのは冗談ではないのだろうな。
とりあえず、最後にもう一度くらい確認しておこう。
「……マジでか」
「マジです☆ 鵜菜ちゃんもそれでいいよね? 部屋を用意できないのはこっちの不備なんだけれど。ちょっとの間だけ、我慢してもらっても」
正義はさらりと俺の奈落の底に叩き落とした後、鵜菜に向き直って問いかける。
俺の了承は取らないし、俺に謝罪の一つもないと言うのに、鵜菜には謝罪すると言うのはどういう了見なのだろうか?
実に気に入らない。
問いかけられた鵜菜は返事もせずに、俺の方をじっと見つめている。
「……何だ?」
「へっ!? な、何か言ってましたか!?」
俺が声をかけると、鵜菜は飛び上がる。
……そんなに俺のことが怖いのか。それとも何かに集中していたのか。
どちらなのだろうな。
鵜菜が話を聞いていなかったのに、正義の顔には穏やかな笑みが浮かんだままである。
……正直、この笑みは不愉快だ。
「だからさ。鵜菜ちゃんには少しの間、流と一緒の部屋にいてもらうけど……良いかな?」
「わ、私が流先輩と相部屋ですか?」
鵜菜の態度は少し硬いように感じられる。日中はそれなりに俺におびえてはいたが、ここまで硬い態度ではなかった気がする。
何か心境の変化でもあったのだろうか?
特に興味はわかないがな。
「こっちの都合でそんなことになって、悪いとは思ってるんだけどね? それに流はあんまり部屋も汚くないし。だから、それが一番いいかなって思ったんだけど……どうかな?」
「だ、大丈夫です」
鵜菜は視線を、俺から少し外しながらそう答えた。
その態度に、俺は釈然としないものを感じながらも、俺と鵜菜がルームシェアすることに決定した。
……よくよく考えてみたら、中等部と高等部で学年が違うとはいえ、男と女が同じ部屋にいるのは大丈夫なのだろうか? そして、それに率先して反対するべきなのは、あのクソ教師なのではないだろうか?
そう思って、クソ教師のほうに視線をやる。
「グゴ~……」
大きな寝息を立てながらクソ教師は寝ていた。
……このクソ教師は本当に教師の自覚がないクソだな。まぁ、うちの寮にあっていると言えばあっていると思うのだがな
第三章
楽しい時間と言うのは苦しい時間や辛い時間よりも早く過ぎるのだと言うことを、最近私は知りました。
そう思ってしまうほどには新しい量に引っ越してからの時間は楽しいです。
気づけば、あの正義先輩主催の歓迎会から早くも一週間が経過していました。
あの歓迎会から今日までの時間は穏やかで、楽しく過ぎていきました。
今は、いつも通りに風紀委員庁舎のいつもの部屋で自習をしています。正義先輩はいろいろと動いてくれているらしいのですが、中等部に戻る見込みは立たないようです。
そう言えばですが、この部屋の中の様相も随分と変わりました。
変わったと言っても、華やかになったとか改装したとかではなく、単純に最初に来た時よりも片付いたのです。
最初に来たときは、最低限の足の踏み場と活動できるスペースがあっただけなのですが、今となっては溢れていたものもなくなり随分と綺麗になりました。
床に散乱していたものはなくなり、積み上げられていたものもなくなり、部屋の中には机がいくつかと椅子、あとは壁にかかっている時計ぐらいのものです。
誰がこの部屋を片付けたかと言うと、私としては驚きだったのですが流先輩です。
流先輩が、
「……不愉快だ」
と言いつつ、この部屋の掃除をしました。
掃除と言っても、邪魔なものを隣の部屋に運び、軽く箒で掃いたりしたぐらいのものです。
それでも、流先輩が自発的に掃除をするとは思っていなかった私としては驚きでした。
それについて流先輩は聞いても何も教えてくれませんでしたが、正義先輩が言うには、流先輩は自分の生活空間と言うか、いる場所に荷物が多いと苛立って頭痛がひどくなるのだそうです。
流先輩も意外と繊細なのだなと思いました。
と、部屋が片付いたことについての説明が終わったところで、時計を見ます。
時計の針は今が五時間目の中ごろだと言うことを示しています。
部屋の中は、午後だと言うこともあって穏やかな陽気が満ちています。
とても気持ち良くて、こんな時にはゆっくり居眠りでもすると気持ちがいいのでしょうが、眠気は襲ってきません。
居眠りができないのにも理由があります。
それは……
「ん? 僕の顔に何かついているかな?」
そうニコニコとしながら正義先輩が答えます。
私が居眠りできない理由と言うのは、この部屋にいるのが正義先輩だからです。
別に、正義先輩のことが特別に嫌いと言うことはありませんし、正義先輩のことを警戒しているせいで眠れないと言うわけでもありません。
ならば何故居眠りができないか?
簡単です。
流先輩がこの部屋にいなくて落ち着かないからです。
いつもいるはずの人がそこにいないと、急に部屋の中が寒く感じたり、違和感があったりすることがありませんか?
そんな感じで、流先輩がいないと少し不安になるのです。
その不安のせいか、眠気が一向に体の奥からやってこないのです。
一昨日もとてもいい天気で、部屋中に陽気が蔓延していました。ですが、一昨日は今日とは違い眠気がすぐに襲ってきて、お昼ご飯を食べた後は放課後まで眠ってしまいました。
……私は随分と流先輩のことが好きなようです。
そんなことを考えながら、テキストをやっていたのですが……ふと視線を感じて私の手が止まります。
手が止まった理由は単純です。視線を感じたからです。
さっき流先輩がこの部屋にはいなくて、正義先輩がいると言うのは言ったかと思います。
それだけでなく、今日は朝から一度も私は流先輩の姿を見ていません。
流先輩と同じ部屋で毎日寝起きするようになってから知ったことですが、流先輩は寝るのが早くて起きるのが遅い、早寝遅起きを信条としているようなのです。
そのことについて聞いたら、それが一番睡眠時間を取れるだろうかと言われてしまいました。
それがあるせいかおかげか、私は流先輩よりも早く起きます。
ですが、今日に限って言えば流先輩は私が目を覚ましたころにはもうベッドにいませんでした。
私があの部屋に来てから初めての事なので正直朝は驚きました。
ちなみに、あの部屋では流先輩がベッドを使っていて私は布団を床に敷いています。布団は読子先輩に借りたものです。読子先輩は本に埋もれて寝るので布団などの寝具を特には必要としないようです。
と、いけません。こんな無為な思考にふけっている暇があるのなら、テキストに集中しないとです。
私はただでさえこの部屋に来ているせいでクラスの授業がどこまで進んでいるのかがわかりません。なので、意識して先に進めるようにしないとテストのときにヤバそうです。
私は静かに集中してテキストに取り組みます。ですが、すぐに手が止まってしまいます。
やっぱり気になります。
ちらりと正義先輩のほうに目を向けてみると、正義先輩はニコニコとしながら私のことを眺めています。
その表情は笑顔で固定されているので何を考えているのかはいまいちわかりません。
流先輩に言わせれば、正義先輩は表情豊かな人間らしいのですが、私には正義先輩の表情の変化なんていまいちわかりません。それに、基本的に仏頂面しかしていない流先輩に比べれば誰でも表情豊かな気すらします。
それを差し置いても、私には正義先輩の表情から感情が読み取ることはできないのですが。
そして、今日一日正義先輩はずっと私のほうをこんな風に観察しています。
何かわからないところを聞いたときは、その視線も一度止んでちゃんと教えてくれるのですが、私が理解して問題に戻るとすぐにこんな視線を私に向けてきます。
今日実感しましたが、人からの視線と言うのは注意力を散らすのに実に有用なアイテムのようです。
「……正義先輩」
「ん? また何かわからない問題でもあった?」
「あんまり見られてると集中できないんですけど……」
「おお、それはごめんね」
ごめんと謝りつつも視線を逸らそうとはしません。
そんなに私の顔は面白いのでしょうか? それとも、私の顔を見るぐらいしかすることがないのでしょうか?
どちらにしても迷惑な話でしかないのですが。
こういうところはやはり流先輩のほうが良いと思えてしまいます。
流先輩は同じ部屋にいるとしても、こちらから何かアクションを起こさない限りは不干渉を貫いてくれますから。
「謝りつつも視線を外してはくれないんですね」
「うん。ごめんね?」
「ハァ……いいです。諦めます」
もうこれではテキストに集中することなどできないでしょう。私は手に持っていたシャープペンシルを置きます。
今思うと、午前中はよく集中できていたものです。
お昼ご飯を食べたせいで集中が途切れてしまったのかもしれません。とりあえず、午前よりも気が緩んでいるのは確かです。
ちょうどいいので、正義先輩にいろいろと聞くこととしましょう。
「正義先輩。いくつかお聞きしたいことがあります」
「ん? 何かな? 僕に答えられることなら堪えられる範囲で答えようと思うよ。ま、流石に風紀委員会の内情とか、そう言うデリケートな話は遠慮したいところではあるけれどね」
そう言いながらおどけて見せます。
本当に、正義先輩はよくわかりません。
「そんな風紀委員会の事なんて聞きませんよ。興味ありませんし」
「だろうね。鵜菜ちゃんならそう言うと思っていたよ。なら、何のことかな? 大体察しはついているけど鵜菜ちゃんの口から聞きたいかな」
あ、正義先輩の表情が……いえ、笑みが少し変わりました。
これはいやらしい笑みです。
「察しがついているのなら、聞かないでくださいよ……」
「ははは。僕は意地が悪いからね」
「本当にそうですね……。私の聞きたいことは流先輩の事です」
「うん。知ってる。でも、流のどんなことが知りたいのかまでは僕には予測できない。だから、言ってくれるかな?」
正義先輩は私が一言発すると、それに対して二言三言返してきます。こういうところは流先輩と全く正反対なのだなと思います。
流先輩は、正義先輩とは逆で十聞いて三帰ってくればいい方です。
そんな感じで、正義先輩と流先輩は悉くキャラクターが違うのですが、お二人は仲が良いように見えます。
「今日、流先輩は何処で何しているんですか? 朝から流先輩のことを見ていないんですけど……」
「あぁ……そのことねぇ」
正義先輩はわかりやすく顎に手を置いて思案するようなしぐさをします。
そんな仕草をするときまで笑顔なので、何処となくふざけているのではないかと言う印象を受けますが、きっと正義先輩は大真面目なのでしょう。
笑顔のまま顎に手を当てて思案すると言う大概に愉快な姿勢のまま、正義先輩はウンウンと首をひねります。
それは、流先輩が何をしているのかを考えていると言うより、知っているが言うかどうかを思案していると言った感じに見えます。
「うーん……ごめんね? わからないや」
「……そうですか」
私の予想では、確実に正義先輩は流先輩が何をしているかを知っています。ですが、私には言う気がないようです。
それは何故なのでしょうか?
「何か、流先輩に口止めでもされているんですか?」
「そう言うわけじゃないんだけどね。言えないな、ってさ」
「理由を言ってください。理由を言われないと、納得出来るものもできないです」
「理由、ね」
そう言った正義先輩はまた考えるような仕草をします。
「知らないから、って言うのは理由にはならないかな?」
「……はぐらかそうとしていませんか?」
「はぐらかすなんてとんでもない。僕も今日流がどこで何をしているのかは知らないんだよ。寧ろ、あの流の行動は僕にも読めないからね。僕のほうが知りたいぐらいさ」
「……そうですか。もういいです。……あんまりこっち見ないでください。集中できないので」
「わかったよ。鵜菜ちゃんに気付かれない程度に見るね」
どうあっても正義先輩は私に流先輩のことを教えてくれる気がないようです。
もういいです。
私は正義先輩から聞きだすのをあきらめて、テキストに戻ります。さっきよりも幾分正義先輩の視線が和らいだので、快適です。
ピローン!
集中しようとした矢先に気を削がれる音が聞こえてきました。
「あ、ごめん。僕のだ。マナーモードにしてなかったみたいだね」
そう言って正義先輩がポケットから取り出した、スマホの画面を確認します。
気にしていられません。
とりあえず、今日中にこの単元だけでも終わらせてしまうこととしましょう。
この時、集中していた鵜菜は見ていなかったが、スマホの画面を見た正義は、珍しく笑ってはいなかった。
その正義の表情がどんなものだったか?
それは、良いおもちゃを見つけた大人のような表情だった。
キーンコーンカーンコーン。
高らかに部屋に備え付けられているスピーカーからチャイムが鳴ります。
どうやら、今日も授業日程が終わったようです。
この部屋に来てからは、時間ごとに別の教科をやると言うこともないのであまり時間を気にしなくなりました。
私は体をグンッと伸ばします。
中等部の校舎に通っていたころはこんな癖はなかったのですが、この部屋で勉強するようになってからしみついてしまった癖でした。
あっちに通っていたころは、各時間の間の休憩時間ごとにずっといろいろな場所をふらつきながら時間を潰していたので、体が凝ると言うこともありませんでした。
ですが、最近はほとんどの時間これと言ったアクションもせずに座ってばかりなので、どうしても体が固まってしまうのでした。
それを解すために体を伸ばすと言う行為は、どことなく年老いているようで嫌なのでした。いやだと思っても止められないのが癖だと思います。
体をひとしきり伸ばした後は、立ち上がって机に広げられている荷物をカバンにいれます。
とは言っても、毎日何か二教科ぐらいを集中してやることにしたので、それほど荷物の量は多くありませんが。
「それじゃ、僕は先に行くよ。鵜菜ちゃんはここを動かないでね。すぐに流も来ると思うから」
そう言う正義先輩はいつの間にやらカバンを背負って入り口の扉から半身を乗り出した態勢でいました。
いつの間に荷物を片付けたのでしょうか?
と疑問に思いましたが、根本的に正義先輩は荷物をカバンから取り出していないと言うことを思いだしたので、片付けが早いのも納得です。何故なら、片付けるものがこれと言ってないわけですから。
「そう言うことで! また後でね。あと……頑張ってね?」
「? 何をですか?」
正義先輩は意味深な言葉を残すと、私の問いにも答えずにすごい勢いで出て行ってしまいました。
流石は風紀委員長です。身体能力も計り知れないようです。
何はともあれ、私は一人になってしまいました。
ここは大きな風紀委員庁舎の一室と言うこともあって(それに、綺麗に片付けられた跡と言うこともあって)、とても大きい部屋です。一人でいると、少しさびしい気持ちになってしまうほどに。
とりあえず、座ることにしましょうか。
「ハァ……」
思わずため息が漏れてしまいます。
私はぽっかりと空いた時間を潰すために最近のことを思いだします。
最近は私としてはすごく充実しています。
あの寮に引っ越してからはいじめられることもありませんし、あの寮にいる人は教師を含めていい人ばかりです。
……まぁ、学生寮で酒浸りになっている教師を良い教師と言うかは別ですが、中等部の教師たちよりは全然いい教師であるのではないかと思います。
正義先輩の作ってくれるご飯は毎食美味しいですし、読子先輩はあまり本などを持っていない私に本を貸してくれます。
流先輩は特に何もしてくれないですが、それが逆に私としては嬉しかったりします。
ですが……私は流先輩のことがよくわからないせいか、私の中には流先輩に対する不信感が少しあるようです。
流先輩は誰に対しても同じように傍若無人な態度をとります。
そんな態度が私にとっては心地よいものでした。
ですが、流先輩は私にだけ気を使ったようなことをしてくれます。そのことで昔のことを思いだしてしまうので、流先輩が信用できていないのかもしれません。
流先輩がいないと不安に感じてしまうほどの流先輩への信頼。
流先輩のことを、心の底では恐れていると言う不信感。
その二つが、私の中ではせめぎ合って、私の心境はよくわからない状態になっていました。
それでも、その思考に一区切りをつけたところでタイミングよく、部屋のドアが開きました。
「……待たせたな」
そう言いつつ部屋に入ってきたのは流先輩でした。
流先輩の顔を見ただけで安心できるのは、それほど私が流先輩を信頼している証でしょうか?
流先輩の顔を見ただけで一瞬鼓動が跳ね上がるのは私が流先輩に不信感を抱いている証なのでしょうか?
もう私には自分が流先輩に対している感情が何なのかすら分からなくなっていました。
流先輩の手元を見てみると、流先輩は黒い手袋を手にはめています。
その手袋をはめた流先輩は、普段以上に怖く感じるのは何故なのでしょうか?
自分に問いかけてみますが答えは出ません。
「……今日流先輩は何をしていたんですか?」
自分の口調が少し硬くなってしまっていると言うことを自覚します。
今日一日流先輩がいなかったせいで、私は少し心労を感じていました。これぐらいのことをしても、きっと流先輩は気にしないでしょう。
私の予想は当たっていたようで、私が少し機嫌が悪いことなど流先輩は気づいた様子がありません。
気づかずに言葉を続けます。
「そのことについても、今から説明してやる。……言葉を紡ぐのは苦手なんだがな」
「知っています。流先輩が、会話をあまり好まないことは。でも、説明してくれるぐらいは良いじゃないですか」
「……だから、説明すると言っているだろ」
流先輩の眉間に刻まれている皺が少し深くなったように思います。
本当に……なんというか……先輩はコミュ障だと思います。
それも、コミュニケーションが苦手と言うわけではなく、コミュニケーションをとるのが嫌いと言うのだから、ぜいたくな話です。
「……迂遠に語るのは好きじゃない。端的に言う」
流先輩が面倒臭そうに息を吐きます。
「……お前、『大罪』だろ?」
「っ……!」
俺が鵜菜に『大罪』だろ。と告げると、鵜菜は言葉を詰まらせた。
実にわかりやすい。
その行動だけで、俺の発言に対して何か思うことがあると言うことが丸わかりだ。
いつもと違って表情にはそれほど出していないが、そんなに体を緊張させてしまっては表情など関係なくわかってしまう。
あぁ……面倒臭い。
これから俺がしなければいけないことと、そのしなければいけないことをした結果どうなるかが簡単に予想できてしまう。
そのせいで、少し頭痛が強まってしまう。
その頭痛の原因は予想できてしまったことだけではなく、その予想できてしまったことが俺にとっては過分に嫌なことであることも原因の一つなのかもしれない。
何で、こんな面倒なことになってしまったのか?
それは偏に、厄介で制御の利かない好奇心と言うもののせいであろうな。
「私は……」
「……あぁ、別に何も言わなくていい」
鵜菜が口を開いて何か言おうとしたのでそれを先んじて止める。
別に、鵜菜の言い訳なんて聞きたくないし、聞く義理もない。俺は鵜菜と問答をしに来たわけではないのだから。
俺はただ、俺が調べたことをこいつに伝えるために来たのだから。それ以上のことなどする気もないし、したくもない。
まぁ……例え嫌でもすることになると思うがな。俺の予想では。
「……お前は、俺が言いと言うまで口を開くな。……相づちなんて打たれてもテンポが崩れるだけだしな」
それに、
「……今回のこれは、お前を出題者と見立てての答え合わせじゃない。俺の勝手な推論の独白だ。他人が……俺の話の当事者のお前であっても口を出す権利はねぇよ」
……何から話せばいいのやら。
それでは、お前が『大罪』だと言う思考に至った、考えの始点と言うやつから話すこととしようか。
俺も最初お前がいじめられている時は、ヤバそうだと思って正義と一緒に見てたんだよ。
これこのまま放置してたらヤバいな、ってな。まぁ、それ以外にも教師がいじめられているところを笑顔で鑑賞する教師がいるっていのが不愉快で仕方がなかった手理由もあることにはあるのだがね。
そんな考えもあったから、面倒だったが俺が動いた。
あの時は正義も正気じゃなくてな。風紀委員の腕章を掴みながら、「この腕章が無ければ、助けられるのか」なんてふざけたこと抜かしてたからな。
たぶん、あの正義に行かせてたら俺が行った時よりも、劇の終点はきっと酷いものになっていたことだろうぜ? 俺は正義と違って正義感なんてものはないから、止めないからな。
まぁ、そんなこんなもあって、俺が鵜菜を助けたわけだ。
その代償はすぐに支払うことになったし、過分に辛いものでもあったわけなのだが。
あ? どんな代償か?
口挟むなってんだよ。それに……これに関しては今回の説明で話してやる気も義理もない。だから、黙ってろ。
……お前が口挟むからどこまで話したか飛んじまったじゃねぇか、クソが。
あー……っと、お前を助けたあたりだな? そうだろ。
……まぁ、いいや。そこから話すことにするか。
それで、お前は俺と正義の二人に被害者の保護と言う形でうちの寮に連れて行かれることになったわけだ。
それに関しては正義の独断なわけだが、間違っているとは思やしねぇよ。
お前の寮でもお前に対するいじめがあるかないかと言うことはその段階では俺には判断がつかなかったわけだが……どちらにしてもお前を保護すると言うことについては俺からは異論もなかったわけだからな。
それで、お前はうちの寮……それも俺の部屋で暮らすことになったわけだ。
俺の居住空間に他人を入れるのは多分に不愉快だったわけだが、あの寮の空き部屋……空いてねぇから空き部屋ですらないか。
あの倉庫の現状をかんがみるにしょうがないことだ。
お前がうちに来ることに反対しなかったのは俺だ。お前にどうこう言うつもりはねぇよ。
……正義にはいくらか言うことがあったがな。
そんなこんなで、一晩経って次の日。
その日から、お前はあっちの中等部の校舎には通わずにこの部屋で自習することになったわけだ。
それに……やっぱりおれも巻き込まれて、俺もここにいることになったのは誤算だったがな。
……話が逸れすぎってか? そんな顔するな。今からが本番だ。
それで、俺がお前に
最初に疑念を抱いたのはいつだったかって話だな。
そのお前とここで自習することになった初日。言ってしまえば、お前とあって二日目か。
まぁ、いつも通りに音楽を聴きつつ最近の状況を整理していたわけだ。……これは今回の説明には不要な情報だが、俺は音楽を聴いている時に記憶の処理をしているんだ。できる範囲で、だがな。
記憶の整理をしていると、疑問が出てきたわけだよ。
何故、お前に対するいじめはあそこまで悪化したのか、ってな。
そこから俺はお前に対しての思考を始めた。
別にいじめがあったことに対しては然したる疑問はねぇよ。
いじめなんてのは、同じ場所に人間が複数存在している時点で避け得ないことで、簡単に予想ができるわけだ。
だから問題はそこじゃない。
問題はいじめが何故にあそこまで過激になってしまったのか、だ。
俺も一応正義の手伝いってことで定期的にではあるが、風紀委員の仕事にも首を突っ込んでる。面倒ではあるが、バイトだと割り切れば我慢できなくはない。
そうやって、多少首を突っ込んでいるからわかることだが、この学校にも少なくないいじめと言うのが存在しているんだ。
……まぁ、二万人もこんな閉塞空間に叩き込まれていれば当然の帰結だとは思うがね。
そんな論理的帰結は今どうでもいいか。
とりあえず、あそこまで過激になるのには何か理由があるはずだって俺は思考したわけだ。
何事にも理由があるなんてくだらない世迷言をほざくつもりは毛頭ないが、人を殺す……まぁ、言うなれば同族殺しだな。そんな同族殺しなんて禁忌を犯すためには、何かしらの心の拠り所……言ってしまえば免罪符が必要だろう。
それを抜きにしたって理由は必要だよ。
それも、当人たち以外でも納得するような理由がね。
何故か?
単純だ。中等部にも風紀委員はいるだろう? 俺にとってはそれで十分な理由となる。
……わからんか、そうか。なら説明してやるよ。
風紀委員会に籍を置いている人間なんてのは多かれ少なかれ、その心に『正義』と言う下らないものを持っているんだよ。
でないと、正義は風紀委員に入れない。
あいつのそう言う人を見る目だけは信用してやってもいい。
それで、何故風紀委員がいるってのが理由になるのか、だったな。
いじめなんて言うのは放っておいても発生してしまう案件だ。だが、その責任追及は風紀委員会に来る。
何故か? 一般人から見たらいじめが起こるのなんて言うのは風紀が乱れているからと言うことになるからだろうな。
……俺としては、二万人も違う価値観違う考え方の人間をこんな檻みたいな学園に叩き込んでおいていじめの一つも起こらない方がよっぽど風紀が乱れていると思うのだがね。
そんな俺の持論は今はどうでもいいか。
とにかく、いじめが起きた場合の責任追及は風紀委員会に来る。それだけ思考の端にでも置いておけばいいさ。
だからというわけではないが、いじめは風紀委員会管轄の案件だ。
発生したら、委員長である正義のところに情報が届くのが道理だろう。
お前へのいじめを、お前の校舎所属の風紀委員が知らなかったなんて言い訳は通用しない。あの規模の苛めだったら、あの校舎だけでなく、他の校舎まで噂が飛び交ってもおかしくないレベルだったしな。
ならば、その風紀委員はいじめが起こっていると言うことを理解したうえで放置したと言うことになるな。
そんなことをすれば、そいつ自身の『正義』が曇るだけでなく、そいつ自身が懲罰房なりなんなりに叩き込まれる可能性だって否定できない。
運が良くても風紀委員会に籍を残しては置けないだろうな。
それだけのデメリットを覚悟したうえで、その中等部の風紀委員が正義への報告を怠ったのはなぜか?
簡単だ。
その中等部の風紀委員も、あのお前の苛めに直接関与していたクソ教師と同じで、お前が死ぬべきだと考えていたからだ。
『正義』を胸に抱いているはずの風紀委員がなぜそんなことをしようと思ったのか。
甚だ疑問だな。
普通の場合は。
だが、この学園にはたった一つ。人を殺しても許されるような圧倒的な免罪符があるだろう。
そう。その殺す相手が『大罪』だった場合だ。
『大罪』を生かしておけば、最悪この学園にいる全生徒が死ぬことになる。
そんなことになるぐらいだったら、お前に対するいじめを見逃して、いじめによる哀れな被害者として死んでもらったほうが、三方に利があるだろう。
この学園にいる生徒たちは虐殺を受ける可能性が目減りする。
お前は、理不尽な『大罪』として死ぬのではなく、憐れないじめの被害者として死ねる。
いじめていた奴らは、お前が『大罪』だと知らないやつらからは非難轟轟だろうが、お前が『大罪』だと言う事実を知っている者からすれば、英雄と言っても過言じゃない。
たった一つ問題があるとすれば、そのいじめを見逃した風紀委員か。
その風紀委員の名は地に落ちるだろうし、風紀委員会からの除名もありうる。
だが、その風紀委員の中にある『正義』だけは汚されずに済む。
どこをとってもメリットしかないように見えるな。
そんな思惑があったからこそ、俺と正義が直接現場に居合わせるまで俺たちは知ることが出来なかったんだろうな。
こうやって、俺たちに見つかっちまったことがその風紀委員の最大の誤算だったろうな。
…………と、ここまで論述したわけだが、この案には明確な穴が一つある。
それはお前ならわかるだろう。
お前はこの間、ポツリと漏らしていたよな。
いじめられるのはもちろん嫌だったが、そのいじめを傍観しつつ《憐み》の視線を向けられるのが嫌だった、と。
これもまたおかしな話だ。
仮に、お前が『大罪』だと言うのが周知の事実であったのなら、お前に向けられる視線は《憐み》の視線などと言う生易しいものではなく、自分たちを殺そうとしているものへの《恐れ》、ないしは《侮蔑》であって然るべきだろう。
ならば何故、お前の周囲の人間はお前に対して《憐み》の視線なんてものを向けたんだ?
そいつらはお前が『大罪』だと理解したうえでも、何も聞かずに殺すのはさすがにかわいそうだとでも思ったのか?
それとも、仏心でも抱いてしまったとでも言うのか?
ありえねぇな。
人間はそこまでの優しさを持てる生き物じゃねぇよ。
人間なんて種族は、自分の立場や生命を危ぶませるものに対しては何処までだって非情に、冷徹になれる種族だ。
そんな人間がお前に対して優しさなんて抱くと思うか?
答えはNoだ。
それなら、お前が感じた《憐み》の視線ってやつは何だったんだろうな?
俺が立てた推論では、三つ可能性があった。
一つ目は、本当に憐れまれていて、お前の周囲の人間どもはお前に対して憐憫の感情を抱いていたと言う可能性。
二つ目は、お前自身がお前のことを憐れんでいたから、周囲から向けられる視線を《憐み》と勘違いした可能性。
三つ目は、そんな《憐み》の視線なんていうものは端から存在しておらず、その視線自体がお前のタダの被害妄想だったって言う可能性。
この三つだ。この三つが非才の身である俺の残念な脳みそで出せた推論。
その三つとも、俺では否定しきることが出来なかった。
否定しきるには情報が足りな過ぎたからな。
だから、とりあえず後ろ二つの可能性については思考するのをやめた。
面倒臭いし、お前の心の内なんて俺の知ったことじゃねぇよ。
その一つ目の可能性は、お前が本当に憐れまれていたと言う可能性だが……これだっておかしい。
さっきも言ったと思うが、人間は自分に対して害をなす人間に対してまで優しくできるようには設計されていない。
そう言う感性がぶっ飛んでいて、優しくできる人間もいるにはいるのだろうが、そんなのはごく少数の中の更に一握り。パーセンテージで表現するのが馬鹿らしくなる程度しかいない。
ましてや、そんな人間が大多数を占めている校舎のほうが、あり得ないを通り越して狂気の沙汰だと、俺は思うがね。
だとしたら、何故にそいつらはお前に対して《憐み》の視線を向けてきたんだ?
この疑問に対する答えはシンプルで良いだろう。
そいつらから見たお前は単純にいじめの被害者だったのだ。
要するにそいつらはお前が『大罪』だってことを知らなかったんだろうな。
ならば、何故そいつらがお前のことを『大罪』なのかって知らなかったのかと言う疑問が出てくるわけだ。
ん? 普通は気にしない?
黙ってろっつっただろうに。……癖だよ。昔からのな。
……そんな俺の癖のことはどうでもいいんだよ。
何故、そいつらはお前が『大罪』なのか知らなかったかって疑問だったな。
これについての可能性は二つ。
一つ目は、そいつらもお前が『大罪』だって知らなかったから。
二つ目は、お前が『大罪』だと言うことを周囲に漏らさない方がメリットがあったから。
これは冷静に考えて後者だな。
でなければ、風紀委員を黙らせることが出来ない。
……今の風紀委員はそこまでやる気があるやつも少ないからな。こっちがそうだって言っちまえば馬鹿みたいに信じる。その代わりに、証拠の提示ぐらいは必要だろうがな。
そのためには、そのいじめっ子共がお前のことを『大罪』だと知っているのは前提条件だ。
だから、前者の可能性は消える。
後者の可能性だと、何も事前情報がない俺たちからすると、お前が『大罪』だと周囲に知らせないことにはデメリットしか感じない。
……そりゃそうだろ。そんな驚いた表情すんな。
お前が『大罪』だって周囲に喧伝すれば、お前を殺す大義名分ができる。
その逆に、お前が『大罪』だって周囲に伝えないと、さっきの《憐み》の視線もそうだが、そのいじめっ子共は周囲から見ればただのいじめっ子としか映らない。
お前のことを喧伝すれば、周囲の人間を救おうとしたヒーローになることだって不可能じゃない。
だってのに、お前のことを周囲に秘したことで発生するメリットってのは何だ?
……ここまでは、俺が集めた情報と、俺が実際に見聞きしてきたことで導き出せた。
だが、ここから先は俺の集めた情報では開かなかった。これ以上の情報はこんな短期間じゃ集められんと言われちまった。
……それはたぶん、あいつのガセだと思うがな。
故に、ここから先は完全に俺の推論だ。
さっきまでのも推論と言えば推論だが、ここから先と今までとでは信憑性が全く違う。
それでも、ここまで話したんだ。最後まで話させてもらおう。
たぶん、と先に付けさせてもらうが、あいつらはお前を他の奴らに横取りされることを恐れたのではないかと俺は考えた。
お前を最初にいじめのターゲットにしていたのは自分たちだと言う自負もあったのかもしれん。
だが、その程度では動機としては薄い。
だから、俺はそれの理由づけとして生徒会を使わせてもらう。
生徒会が代々、反『大罪』で『死神』側なのはこの学園に通うものにとっては周知の事実だ。お前だって知ってるだろう。
なら、生徒会が『大罪』を殺したものや、『大罪』を発見したものに対する褒賞を約束していたとしても不思議じゃない。
……仮にそうだとしたら、相当に胸糞の悪い話だがな。
だが、そう考えれば、大体はつじつまが合うってのも確かな話なんだよな。
あー……疲れた。久々にこんなにしゃべったな。
久々に酷使された喉は水分の補給を望んでいる。だが、生憎と手元には飲み物がなかった。
まぁ、あとで買うさ。
一気にしゃべったせいで少し痛んでいる喉をさすりながら鵜菜のほうに視線を向ける。
さて……鵜菜の反応はいかに。
ここで鵜菜がきょとんとして、俺の話が全く理解できないようならそれでいい。
俺の考えすぎ、杞憂だったってことだからな。この一週間で使った労力は決して帰っては来ないが、徒労に済むのならそれに越したことはないと言う話ではあった。
まぁ、最初の鵜菜のあの反応からしてそれはあり得ないのだろうけど。
鵜菜は顔を歪めていた。
その表情がどんな感情を意味するのかは俺にはわからない。わからないが、これから起こることが俺にとっては全く愉快でないことは予想がつく。いや……ついてしまったの方が正しいか。
「……残念です」
そう言う鵜菜の手にはいつの間にやら、何か握られている。
部屋に入ってきている、夕焼けの光を反射して鈍く光るそれが、俺にとって嫌なものであることは想像に難くない。
「それに……悲しいです」
そう言った鵜菜の姿が俺の視界から消える。
……いや、違うな。
俺は冷静に視野を広げる。視野を広げると言うことは普段よりも脳の領域を使うと言うことなので、頭痛が局所的なものから脳全体に広がっていくような感覚がする。
だが、仕方ないと割り切ろう。
ちょっと頭痛が我慢できないからと言って死んでしまっては笑えないからな。
俺は、右足を後ろに引くことによって半身になる。
すると、一瞬前まで俺の右半身があった空間に、鵜菜と鵜菜の持っている何かが突き刺さる。
至近距離で観察してみると鵜菜が持っているものが何なのかよくわかる。
鵜菜が持っていたのはそれほど刀身が長くも厚くもないナイフ。小さいのは、鵜菜の体格に合わせてのものなのか?
まぁ、今そんなことを考える暇はないと理解したうえでも、現実逃避気味にそんな思考が出てくるあたり、まだまだ俺は余裕があるのだろうな。
鵜菜は自分の攻撃が外れたとみるや、すぐに飛び退って距離を取る。
鵜菜が本気で俺を殺しに来たであろうことは、今の鵜菜の動きで理解できた。
俺の懐まで一瞬で入り込み、俺の腹部めがけて腰だめに構えたナイフをつきこんだ。それも、寸止めでもなんでもなく本気で。
あれを見せられて、鵜菜に殺意がないなんて思うやつは相当な楽天家か馬鹿だ。
俺はそのどちらでもないので、鵜菜が俺を殺すつもりなんだろうなと言うことを理解している。
「………………」
鵜菜の表情は俺に残念だと言った時から全く変化しておらず、悲しそうな表情のままだ。
あんな表情で斬りかかってこられては、俺が何か鵜菜に対して悪いことでもしたみたいではないか。
そんなことをした記憶はない。
そんなくだらないことを考えていると、鵜菜がまた馬鹿の一つ覚えのように突貫してきた。
さっきと違うところは、二つ。
一つ目は、鵜菜がナイフを右手で逆手に構えていると言うこと。
二つ目は、その鵜菜の動きが完璧に俺には見えていると言うことか。
俺の眼前で一度膝を曲げ、跳ね上がるようにしてナイフを振るってくる。
そんな単純な軌跡の攻撃を俺が受けてやる義理もない。俺は首を横に振るだけで回避する。
鵜菜の体は宙に浮いていて、俺の目の前に腹を晒している。
こんなことを実際のコロシアイのときにやったら、一発で終わりだな。無防備にさらしている腹に、掌底か肘。足の速い奴だったらミドルキックも可能かな。
まぁ、面倒なので俺はそんなことはしない。
鵜菜は足癖が悪いのか、空中にいる無防備な体制ながらもこちらに対して左脚で回し蹴りを放ってくる。
実に好戦的だ。こうでなくては面白くないよな。
その回し蹴りとして使われた左脚を俺は手袋に包まれた左手でギッチリとホールドする。だが、それでおとなしくなってくれるほど、鵜菜は甘くないらしい。
捕まれた左足を起点にして右脚でも蹴りを放つ。
そのコースは顔面直撃。
ゴガン!
小さな鵜菜の体が放ったとは思えないような重い一撃。その結果として鈍い音が部屋に響く。
だが、俺はこれでも男だぜ? 力で女に負けるわけにはいかん。
鵜菜の顔面狙いの蹴りを開いている右手でガードする。
最初は別に一発や二発食らっても特に問題ないかと思ったのだが、如何せんさっきの蹴りが重すぎた。
ガードしないと一撃で意識を刈り取られるだろうことは安易に予想がついた。
更に鵜菜は、上体の捻りとさっきの蹴りの勢いを利用して右手のナイフを振り下ろしてくる。
残念なことに俺の両手は塞がってしまっている。そのナイフまで相手してはいられない。
俺は鵜菜の両脚から手を放し、半歩分後ろに下がる。
俺の頭のあった位置を高速の白刃が通り抜けていく。後少しでも判断が遅ければ、俺の頭は二つに分かれていたことであろう。
「ふむ……」
噂では聞いていたが、ここまでとは驚きだな。
俺の聞いた噂と言うのは、『大罪』は『大罪』となった時に武器を与えられ、その武器に合わせた身体能力と『技』を与えられると言うもの。
見た限り、鵜菜はそれほど戦闘向きではないように思える。体格的にもな。
だと言うのにここまで動けているのはその『技』とやらのお蔭なのであろう。
そう思考している間に着地した鵜菜は、流れるように鮮やかな連撃を俺の体につきこもうとしてくる。
それをてきとうにいなしながら、鵜菜の受け取ったであろう『技』がどういうタイプなのかに思考を巡らせる。
鵜菜が手に入れた『技』は、一言で言うなら連撃だろう。
鮮やかに動きを繋げていくことで、前の行動の分の重みも攻撃に乗せていく。
それだけでも十二分に厄介だが、鵜菜はたぶん身体強化か脳のリミッターを外されている。
そのせいで一発一発の攻撃の重みも尋常ではない。
正直、ただの俺では押し負けるのも時間の問題であろう。
ポケットに手を入れ、ポケットの中に入っているものの存在を確認する。
うむ。この急な戦闘でも壊れてはいないようだな。これ一粒作るのに結構な時間がかかるらしいので、壊したらあいつに処刑されちまう。
「……何でですか」
「あ?」
戦闘に入ってからは無言を貫いていた鵜菜が口を開く。
相も変わらず、悲しそうな表情でナイフを振るってきている。
そんなに悲しいのならナイフなんぞ振るわなければいいだろうに。全く持って女心ってやつは複雑怪奇だね。
「何で先輩は攻撃してこないんですか!」
そう体を回転させることによって威力を乗せた回転切りを放ちつつ、叫ぶ。
話し合いしようって時ぐらい攻撃してくんのを止めてくれると楽なのだが……無理か。
「……攻撃する意味がないからだ」
「それは! 私がそれほどに取るに足らない存在だってことですか!?」
……こいつは何が言いたいのだ? ……全く持って意味が分からん。
先ず以て、戦闘中にこんな意味のない会話をする意味が分からんし、こんな慟哭して叫ぶほどの会話をしているわけでもない。そこまで大声を出さなくても十分に俺の耳には伝わる。
全く……女ってのは意味わからんな。
「……質問の意図が理解できない」
「だから……! 先輩にとっては私がとるに足らない存在だから……私を攻撃してこないんですか!?」
「ハァ……」
取るに足らないから攻撃しない。
それは言葉の前後で話が繋がっていないような気がするが……鵜菜は気づいていないのだろうな。
だから、話の前部分にだけ答えてやろう。
「……お前に興味なんてない」
「なら……何で攻撃してこないんですか! 興味ないなら、さっさと私なんて殺せばいいのに!」
「ほぅ……知らなかった」
俺は鵜菜に対して殺気を放つ。
「お前は殺してほしかったのか?」
「…………っ!」
俺の殺気を直に受けた鵜菜は飛び退って俺から距離を取る。
それにしても、意外なことだ。
中等部に通っているから鵜菜は俺よりも年下だろう(正確な鵜菜の年齢は未だに俺は知らん。正義は知っているのだろうが、あいつが焦らしたから聞くのが面倒になった)に、そんな若い時分で死のうとするなんて……勿体ない。
生きていればまだまだ楽しいことがあるだろうに。
……まぁ、口には出さないが、心の中だけで独白する。
俺はお前なんかとは比べ物にならないぐらい世界には絶望してるよ。
そして、自殺未遂も何度も経験してる。
でも、未遂だしな。死ねなかったから……死なせてもらえなかったから、今此処に立っているわけで。
人生ってやつは本当にどう転ぶかわからんな。
それに、鵜菜が殺してほしかったと思っているのなら、いじめに関するピースがそろう。
鵜菜は死にたがっていた。それも、他人の手によって。
だから、鵜菜はいじめられても誰かに相談することはなかったし、あんなになるまで誰も止められなかった。
そう言うことか。
実に……実に実に下らん話だ。
鵜菜の行動は何処となく矛盾をはらんでいるように思える。
死にたいと言うのに、自分から死ぬような真似はしなかった。
だから、俺が殺気をぶつけてやったと言うのに、殺気をぶつけられると生存本能に従ったのかなんなのかわからんが、飛び退いて俺から距離を取った。
……全く持って意味が分からん。
だが、面白いことに、俺は今自分が何をしたいと思っているのかはわかっていた。
他人の気持ちと言うのはここまでわかりにくいものだと言うのに、自分の気持ちと言うのはこんなに単純だったのかと思う。
今ようやく分かった気がする。
昔、あの人が言っていた言葉の意味が。
なら行動あるのみだろ。
俺はゆったりとした足取りで、鵜菜のほうに歩を進める。
鵜菜は、そんな俺を見て全身から殺気を燻らせて俺のことを威嚇する。
その様は、外敵の危険を察知して背中の毛を逆立てている猫のようで少し愛らしいようなそうでないような、よくわからない気持ちになる。
根本的に、俺は小動物が嫌いなのだがな。
殺気を受けたせいで、反射的に体から殺気が漏れ出てしまいそうになる。それを必死に押し殺しながら鵜菜の下に歩を進める。
あと、歩数にして五歩分ほどの距離。
そこまで来たところで、鵜菜が動いた。
俺の殺気に反応してしまったのかなんなのかは知らないが、こちらに突撃してくる。
そんな鵜菜の動きには先ほどまでのような、背筋が冷えるような冷静さは欠いているような気がする。
そんな勢い任せの特攻なんて怖くもなんともない。
まぁ……さっきまでの攻撃も怖かったかと問われれば答えはNoなのだけれど。
勢い任せの技も何もないナイフを掴む鵜菜の手を上から掴む。
「っ……!」
抑えられたことで、鵜菜が反射的に空いていた左手で俺の顔面を殴ろうとしてくるが、それもしっかりとつかむ。
両腕を押さえられてしまったら、あと使えそうなのは頭と足だ。
どちらも使わせてやるかよ。
俺は、鵜菜の追撃を防ぐための手段として、ある行動を行った。
「……え?」
それをすると、鵜菜はポカーンと放心したように呆けてしまっている。俺の腕の中で。
そう。俺は鵜菜の追撃を防ぐために鵜菜を抱きしめたのだ。
抱きしめるためには鵜菜の両手から手を放さなければいけない。なので、鵜菜の両手は俺から抱きしめられた瞬間から完全にフリーになっている。
だと言うのに、鵜菜は俺に攻撃してこようとはしない。
まぁ、零レンジと言うのは意外と次の行動を起こしづらくなるものではあるのだけれどな。
「……っ! は、放してください!」
「……りょーかい」
「え……?」
放せと言われたから放したのに、実際に放してやると鵜菜は驚いたような残念そうな表情を浮かべている。
うむ。やっと悲しそうな表情じゃなくなったな。なら、あと俺がしたいことは一つか。
俺は一歩鵜菜との距離を詰める。そして、手袋に包まれた手を動かす。
それに反応したように鵜菜は目を強くつぶる。もう戦闘の意思はないようだ。
だが、俺は腕を動かして、ある行為をする。
鵜菜の頭の上に手を置いて、優しく頭を撫でてやる。
「あ……え……?」
「まぁ……何だ、涙拭えや」
俺はそんなことを言っている自分が急に恥ずかしく思えて頬を掻く。
俺に涙を拭えと言われた鵜菜は自分の目の下に手を持ってくる。
それで手に涙が触れたことでようやっと自分が泣いていると言うことに気付いたらしい。
実に面倒な後輩だ。自分が泣いていることにすら気づかんとは。
それほど今の戦闘に集中していたのか? そう考えたが、俺はその考えを即座に却下し破棄する。
こいつは、戦闘に集中して、戦闘に快感や高揚感を覚えるようなタイプではない。
なら、何故こいつは自分が泣いていることに気付けなかったんだ?
……まぁ、そんなことは今はどうでもいいか。とりあえず、俺が先輩としてしてやらなきゃいけないのは、泣いてるばっかで涙を拭うこともできていないこの馬鹿すぎる後輩の涙を拭ってやることぐらいか。
俺はちょうど手袋をしているので、その手袋で鵜菜の涙を拭ってやる。
「何で……私……泣い、て」
「さぁな。悲しいことでもあったんじゃねぇの?」
鵜菜は戦闘の途中から気づいたら涙を流していた。
何で、鵜菜が泣いたのかなんてのは俺にはわからん。
俺には情報を基にして、様々なことを推測することはできるが、人の心って言うブラックボックスだけはわからん。わかろうと思ったこともないしな。
だが、今日だけは、人の感情や心の機微を理解できない自分が少しだけ嫌になった。
「鵜菜よ」
「あ……初めて名前呼んでくれましたね」
「あぁ……そうなのか?」
「はい……。流先輩はいつも私のことを名前で呼んでくれなかったので、それが少しだけ辛かったんです」
「そうかよ」
名前で呼ばれないことが辛いとは。
人ってのは……女ってのはよくわからんね。
「お前にこれだけは伝えといてやる」
「はい」
鵜菜は神妙な顔でうなずく。
本当に俺のことを攻撃する気はなくなったようだ。
どれが原因で俺に対する敵意を喪失したのか俺には全くわからないがな。
「俺は何があってもお前の味方でいてやる。だから……俺の前でぐらいは怯えなくてもいい。例え、全人類がお前のことを嗤ったとしても、全人類がお前のことを否定しても、全人類がお前のことを殺すために動いたとしても、俺だけはお前の側についてやる。お前のことを擁護してやる。お前の前で盾になってやる。だから、泣くな。お前の泣いてる顔を見るのは……俺は好きじゃないらしいからな」
「ながれせんぱい……」
そう言いながら、鵜菜はまた目を潤ませる。
ここでまた泣かれたら、面倒だ。それに……さっきも言ったが、俺は鵜菜の泣き顔があんまり好きじゃないらしいからな。
「お前が『大罪』だからって、別に俺はお前のことを忌避しない」
「……あり得ません。この学園にいる人たちは等しく私たち『大罪』の敵にまわります」
感情のこもらない声でそう断言する鵜菜。
そりゃそうか。『大罪』だって知られたからあんな理不尽な暴力にあったんだもんな。俺のことが信用できなくても当然と言えば当然か。
「たとえそれが流先輩でも、正義先輩でも、読子先輩でも同じことです。だから……私は流先輩の言葉が信用できません」
鵜菜の口調は固く、頑なだ。
この鵜菜を口説き落とすのは面倒臭そうだと言うのが、俺の率直な感想である。
正直、鵜菜が『大罪』であろうとなかろうと、あの寮に入った時点で読子も正義も気にせんだろう。
あいつらにとってはあの寮の中以外のことは些末事だ。
周囲の言葉に流されることなんてありえないだろうし、あの寮に入っていない人間が鵜菜のことをディスったりしていたら、その人間を黙らせるぐらいのことは二人ともするだろう。
そう言う奴らだ。
だが、それを鵜菜に説明したって意味がないだろうな。
もう少し長い期間をあの寮で過ごして、正義や読子の人柄に触れていれば理解できるんだろうが……俺が事を急ぎすぎたのがいけなかったか。
これ以上面倒事を長引かせたくなかっただけだったんだがな。
……俺も腹割るか。その方が長引かなそうだし。それに……相手の秘密も握っていた方が相互監視もできて楽だろ。
「……んじゃ、お前に俺が信用出来る根拠をやろう」
「何を見せられても、私が『大罪』だと知られた時点で、私は私のことを『大罪』だと知った人間のことを信用しません」
「……頑なだな」
「…………もう、私は裏切られたくないんです」
そう言った鵜菜の声は震えていた。
あのクズどもにどれだけ心を踏みにじられたのやら。
ま、いいか。過去なんてどうでもいい。俺にはどうすることもできないしな。
俺にできるのは、鵜菜の過去を理解したうえで、鵜菜の先に道を示してやることだけだ。
それ以上の事は出来んし、する気もない。自分の専門以外のことをしようとすると、手痛いしっぺ返しを食らうのが現代らしいしな。
「俺は裏切らねぇ。その証拠を見せれば、黙るんだな?」
「はい。それでいいですよ。……あり得ないと思いますがね」
鵜菜の肯定の発言も聞いたところで見せるか。
俺は、俺が鵜菜を裏切らないと言う証拠を見せるために俺は制服の上着を脱ぎだす。
「ちょっ! 先輩! 何唐突に脱ぎだしてるんですか!」
「あ? 証拠見せろっつったのお前だろうが」
「上着脱ぎだしてどんな証拠を見せると!?」
鵜菜がワンワンギャーギャーと喚きたてるが、とりあえず無視する。
制服とその下に着ていたワイシャツも脱ぎ捨てる。
「……何目ぇ逸らしてんだ。こっち見ろや」
「い、嫌ですよ! セクハラですか!?」
「? 意味が分からん」
こいつは何を言っているんだ?
自分で証拠を見せろと言ったくせに、見たくないとは……訳が分からないやつだな。
俺が見せたいのは別に俺の裸体ではない。
流石に、後輩に裸体を見せて興奮するような奇特な性癖は持ち合わせていない。
それに、仮にそんな奇特な性癖を持ち合わせていたとしても、今がそんなことをする空気ではないと言うことぐらい理解できる。
「俺が見せたいのは、俺の裸体ではない。その証拠に、最後までは脱いでいないだろうが」
俺がそう言うと、鵜菜は自分の顔を覆っている手の指の間から、こちらを見る。
そして、俺がちゃんとインナーの黒のタンクトップを着ていることを認識すると、ホッと息をついて顔の前から手を取った。
「そ、それは……」
運が俺の右肩を見て、息をのむ。
これを見せれば、鵜菜が俺を信用するに足りるだろう。
俺の右肩には、熊のような刺青が彫られており、その刺青には『怠惰』と書かれていた。
だって……俺も『大罪』だからな。
自分が『大罪』だってのに、鵜菜が『大罪』だって周囲に言いふらしてもメリットがないどころか、デメリットが多すぎる。
……よくよく考えてみると、これは鵜菜が『大罪』だと周囲に喧伝した人間はどんな場合でも疑いの目を向けられることになるな。
これも、あのクソどもが鵜菜が『大罪』だと周囲に喧伝しなかった理由の一つかもしれないな。
「これでわかったか? 俺は、お前のことを周囲に喧伝したりしねぇよ。それに……俺のをバラしちまったから、これで相互監視が成り立ったからな」
「そーごかんし? ってなんですか?」
「……ハァ、互いを互いが監視し合っているからふざけた行為には及べないって意味だ」
「そうなんですか……」
俺の説明で納得できたのか、鵜菜はフンフンとうなずいている。
ひとしきりうなずいた後、顔をあげる。
「私は……先輩を信用してもいいんでしょうか?」
「……俺に聞くな。それを決めるのはお前だ」
「そっか……信じて……良いんだ」
そう言った鵜菜はまた両手で顔を覆う。
その手の間から、鵜菜の嗚咽の声と、涙があふれ出ている。だが、その涙を見ても、別に俺は嫌な気持ちにはならなかった。
その涙が、悲しみから出ているものではないからと俺自身が理解することが出来たからだ。
「まぁ……なんだ」
俺は何か言おうと思ったが、止める。
こういう場合に何を言えばいいのかいまいちわからんし、今口をひらくのは野暮でしかないと言うことを俺が理解できたからだ。
これが、人の気持ちを考えて行動するってことなのかね。……面倒だから、もうやりたくないもんだ。
そう思いつつ、俺は静かに鵜菜の頭を撫でてやる。
「せん……ぱいぃ」
涙声でそう漏らした鵜菜は俺に抱き着いてくる。
制服を脱いでしまっている俺は今タンクトップしか着ていない。
だから、鵜菜の涙で濡れたタンクトップが直接肌に張り付いてきて気持ち悪いが……今日ぐらいは我慢することとしよう。
特別サービスだ。
さて、鵜菜のことも終わったところだし、鵜菜が泣き止むまで、少し面白いことを話すこととしようか。
鵜菜が、ここまで他人を信用できなくなってしまった理由についてだ。
まぁ、俺の調べた話だから、細部は違うかもしれないが、そこはしょうがないと諦めてもらおうか。
鵜菜が『大罪』に選ばれる少し前……と言っても二ヶ月ほど前から鵜菜に対するいじめは始まったらしい。
そのいじめが始まる発端となった出来事は何か?
これは、いじめが始まる理由としては実にテンプレートと言っても過言ではないだろう。
痴情のもつれと言うやつだ。
それも三角関係になったとかでもなんでもなく、鵜菜を好きな奴がいて鵜菜がそいつをふった。
で、その鵜菜がふった奴のことを好きな女がいて、その女から恨まれたらしい。
告白を受けたら受けたで陰湿にいじめをするであろうに……女と言うやつは本当に面倒くさい。
だが、鵜菜にはいじめにあっていてもその鵜菜の心の支えになってくれる男がいたらしい。
そいつはこの学園に来る前からの幼馴染で、すごく仲が良かったんだそうな。
鵜菜がいじめにあっていると言うことを知ったそいつは義憤に駆られて、鵜菜をしっかりと守っていたそうだ。
そいつのことを信用した鵜菜は自分が『大罪』だと言うことを話した。
その次の日から、鵜菜の横にその鵜菜が信用した男の姿はなくなった。
教室を見回してみると、そいつはいじめの主犯格の女と一緒に鵜菜のことを見て嘲笑していた。
そして、そいつもいじめに加わり……いや、少し語弊があったな。
そいつもいじめの主犯格に加わり、鵜菜に対するいじめが激化した。
と、鵜菜について俺が調べたのはこんなところまでだな。これ以上は時間が足らな過ぎた。
こんなことがあれば、人を信用できなくなるのも当然と言えば当然か。
ま、俺としてはそこで鵜菜が大昔の『大罪』と同じことをしなかったことだけを評価してやりたいところだがね。
「ご、ご迷惑をおかけしました……」
「いや、別に気にしていない」
俺と鵜菜は連れ立って寮への道を歩いていた。
もう周囲は随分と暗くなっていて、街灯が俺たちのことを照らしている。
俺の隣にいる鵜菜は、暗い夜道でもわかるぐらいに頬を赤く染めていて、リンゴのようになりながら俯いて歩いている。
……そんなに俺の胸で泣いたことが恥ずかしいんだろうか?
俺たちがこんな時間に帰っているのも鵜菜が赤くなっている原因の一つかもしれない。
鵜菜はあの後、随分と長い時間泣きじゃくっていた。それはもう、盛大に。
俺が途中で鵜菜の頭を撫でるのにも飽きてしまって音楽を聴き始めても、それをわからない程度には本気で。
そのせいで、俺のインナーにしているタンクトップは目も当てられないほどにグショグショになってしまった。俺はインナーを脱いでその上に直でワイシャツを着て、その上から制服の上着を羽織っているような形だ。
実にどうでもいい話ではあるが、裸ワイシャツと言うのは随分不快だと言うことを今日知った。
……まぁ、もうどうでもいいか。
俺は俯いている鵜菜の頭をガッシュガッシュと豪快に撫でる。
いや、これはむしろ撫でると言うよりも頭を掴んで振っていると言ったほうが正しいかもしれないな。
「な、何するんですか!」
鵜菜が真っ赤な顔のまま俺に、非難に満ち満ちた視線を向けてくる。
それを見たら、多少愉快な気分になってしまった。
「何でもねぇよ」
俺は鵜菜の頭から手を放して先に行く。
「ま、待ってください、置いていかないでくださいよ! 私、まだ寮への道覚えてないんですから~!」
「なら、さっさと覚えることだな」
俺はそんな自分の態度がおかしくて嘆息を漏らしてしまう。
俺は随分と優しくなっちまったようだ。ま、それも悪くないと思うがな。
大罪と死神 ~頭 垂Ver~ 「片瀬 鵜菜編」