やけくそを起こした男の話

 その日、男はひどくバカげた考えを起こした

 不規則な揺れとおなじみの環境音があるだけの静かな車内では、乗客の各々が一座席分の空間で化粧、読書、音楽を聴く等、好きなことをしながら座っている。男は席に座り、ここ数十年一日だって欠かさない習慣――輝かしい過去、現在の自分と予想される未来、そして違う選択をしていたならそうなっていたであろう別の未来についてしばらく思いを巡らし、やがて虚しさを覚えるとそれを切り上げ、そのまま虚脱感に浸っていた。どんなに逃げようとも、現実に引き戻され虚しさを叩きつけられる。それでもそれを繰り返す。そんな自分を今日も再確認し、自嘲する。

 今の自分だけに、眼前のやるべきことだけに、あらゆる関心を保てたなら、全ての力を注げたなら、今のこの俺が‥‥‥ああ、まただ。また『~~なら』か。ああ、このパターンを何度繰り‥‥‥  だいたい『これ』は? だいたい『この反省自体』何度目だってんだ? ‥‥‥まあいいさ。ここまでが日課だ。もう。

 そして心と体からあらゆる力が抜けきる頃、途方もなくバカバカしい空想をするに至り、空っぽになった男はその空想を原理とし、それのみによって男の体は動きはじめた。男は正面に目をやり、太った女性とサラリーマン風の男性の間に一人分の空席があるのをぼんやりした頭で確認すると、立ち上がってそこへ歩み寄る。三歩目を踏み出しかけて何かが頭の中をよぎる。
 そうか、まずは必要になるものを用意しないとな。ところで手に入るのか?服が使えるんじゃないか?まあどうでもいいか。最初から全部どうでもいいんだ。

 車内の乗客を見渡すと何人かが読書に没頭している。おそらくあれらを手に入れるのは難しいだろうし、サイズ的にこれからのバカバカしい予定にぴったりとは言い難い。
 じゃあやめるか?いいや、やる。いや、わからないがきっとやるだろう。それも少し違う‥‥‥そう、想像している行いの結果を受け入れる準備が出来ているから、それにあわせて実行するのもやぶさかではない。そんな気分なんだ。
 
 そんなことを考えながら車内をうろつき、何両目かの車両でスポーツ紙を脇に抱えた中年の男性を見つける。急に緊張が高まってくる。心臓の音が応援団の太鼓のように体に響き、触れずとも額や背中に汗が浮かぶのを感じる。ここが決定的な分岐点だろう。尻ポケットから財布を抜き、中身を取り出し、声が震えないように一瞬待って、男性に話しかける。「あの、すみませんが‥‥‥」

 ほんの数秒で道具は手に入ったが緊張がまだ尾を引いている。緊張が予定に支障をきたすか? そりゃそうだ。緊張感が予定へのモチベーションをかき乱すのを感じる。分岐点は過ぎた?いいや分岐点は実行するまであり続けるだろう。恐れも、ためらいも心の片隅から様子を覗い続けるだろう。なぜこんなことに拘っているのか、そもそも俺はこれに拘っているのか。男の中に予定への疑問の念がむくむくと膨れてくる。狂気の沙汰、キチガイの所業、あるいは全くもってバカバカしい醜態。人として云々、社会にとって云々。 いささか早足でもとの座席に戻りながら車内を見る。男のわけのわからない心情に反してそこは冷厳な秩序を保っている。

 車内――ここにいる皆、通勤通学の寸暇にしていることと言えばひどく似たり寄ったりに見える。行きも帰りも狭くて臭い箱に詰められて、不気味で嫌悪を催すほど静まり返って、世の中に出荷されていく。幾度も見てきた光景に既視感などとっくに麻痺している。こいつらに人間的なゆらぎはないのだろうか。突然わけもなく立ち上がって一回転してワンと叫ぶような、立ち上がって挙手するだけでもいい、そんな無意味で唐突な衝動に身を任せてみたくなることはないんだろうか。ないはずはない。だがこいつらはこれからずっと素直な衝動をなだめすかして生きていくのだろう。おそらく今日限り、二度と会うこともないであろう他人の前でも、わずかな衝動すら晒せないとしたら、俺はその点で、こいつらとは‥‥‥

 もとの座席に戻り、太った女性とサラリーマン風の男性とその間の空席を確認し、男は体の力を抜く。はじめはほんの些細な空想だった。空想は衝動になり、今は柔らかい意志として心にあるようにも思える。感動を覚えなくなって久しい心、ここ十数年苔むしたように静的だった心が、温まっていくのを感じる。
 俺は今からひどくバカげたことをする。本当にやりたいか? 別に。ただやってもいいんじゃないかと思うだけさ。誰にも危害を与えない――そりゃ多少は不快な思いをさせるかもしれない――だがちょっとしたワクワク感でも与えられるかも知れない。いずれにせよ、俺にとってもこいつらにとっても、これからのことはただただ笑えるハプニングなのさ。

 男は立ち上がり、予定した座席のすぐ前にまで歩み寄る。きっちり一人分の座席にスポーツ紙を座布団のように敷き、荷物乗せの金網に手を掛け、まず右足を座席に乗せ、次に左足を乗せる。新聞紙がシワにならないようにゆっくりかがむと同時に金網から手を放す。両隣からは何事かと困惑し刺すような非難の視線、他の乗客からは好奇の視線が男に向けられるのを感じるが、無視する。男はポーカーフェイスで嵐の前の静けさを演出する。

 スマートにいこうじゃないか。これが済んだらみんなハッピーエンドなんだぜ? まあ見てな。

 妙な男が、わざわざ両隣に人が座っている座席の下に新聞紙を敷き、窓を向いてスクワットの格好をしている――この時点でなら状況をそう解釈出来たかもしれない。だが男がその体勢からベルトのバックルをカチャカチャいじる音が車内に響いた瞬間、この不審者が起こすかもしれない何かへのおぼろげな警鐘を本能が察知すると、水面にさざなみが立つように乗客たちがざわめきだす。男の両隣の太った女性とサラリーマン風の男性は、男がかがんだ時から身をよじってこの不審者に対し拒絶を示していたが(男にとってはかがんでから足を広げやすくなって非常に協力的に思えた)、この不審者がひょっとすると障害者であり、ならばそれ故の奇行には寛容を持って接しなければと思ったためか、あるいは至近距離の異常事態に潜在意識で好奇の念を持っていたためか、とにかく、判断がほんの少し遅れた。男は流れるような動作でジッパーを下ろし、滞りなくズボンと下着を同時に下ろし、生尻を露出して――ここまで1秒もかかっていない――声を大にして叫ぶ。


 
                                    「失礼っ!!」 
                                  ぶぱっ!ぶぱぱぱぱっ!



 男の叫びと破裂、そして飛沫の音は同時だった。太った女性の悲鳴も。車内の秩序は完全に崩壊し、男を除く乗客の全てが驚愕し、ある者は恐怖に口を閉ざし、ある者は好奇に沸いた。この異常な状況をもたらした、この素晴らしくバカバカしい状況の主体である男は、破滅的な快楽に酔いしれ、ひどく愉快でしょうがなかった。

 やってやった!やってやった!  もっとざわめけ!もっと沸け! この俺は今、おまえらのクソのような人生に彩りをくれてやってるんだぜ! 茶色のな! ははははは!!

 ひどく愉快だった。ほんの少し飛沫を浴びてしまった太った女性の金切り声が、見た目に反して可愛らしいのがたまらなくおかしかった。眼前での公開排便で床にゲロをぶちまけるサラリーマン風の男性が心底笑えた。ポーカーフェイスはとうに維持できなくなり、笑うたびに腹筋がモノを押し出し、そのモノの出る様を見てまた笑った。

 クソと笑いが連動してやがる。クソが笑いを呼んで、笑いがクソを呼びやがる! あーーっはっはっはっはっ! クソおもしれえ!こいつはクッソおもしれえ!!

 こうして男はいつまでも笑い続けた。乗客の怒号や笑い声、叫び声、ケータイのシャッター音、窓に映る人々の表情、あたりに充満する臭気。何もかもが男にとって素晴らしかった。音も光も臭いも、もちろん腹からモノが押し出て行く感覚も、感じ得るもの全てが男を賛美し祝福した。人生のこの時において、男は紛れもなく真性の快楽主義者だった。



 腹の中のモノのストックが切れ、男の笑い声もだんだん勢いを失っていくと、心地よい疲労感と達成感がこみ上げてくる。スッキリしたというだけでは表現しきれない開放感。これ以上の喜びの後味はないだろう。幸いにして電車が止まることも、駅員に取り押さえられることもなかった。この電車はもうすぐ駅に着くだろう。冷静さを取り戻し、自分の行為の後片付けに着手する。もちろん男が原因でぶちまけられたゲロについても同様である。この間に男は誰かに殴られることも覚悟していたが、どうやらその心配はもうないようだ。皆黙々と掃除する(しかも新聞で足りない分を着ていた服を雑巾替わりにして補った)男に少しも近寄ろうとしないし、あの狂騒もピタリと止んで、車内は再び沈黙に包まれていた。匂いは窓を開けるしかないが、あらかた汚れを処理し、乗客に、特に太った女性には丁重に謝罪し、クリーニング代を渡す。彼女に迷惑をかけるのはこちらとしても本意ではなかったのだ。あれは事故だったのだ。まあしかし、いいじゃないか。こんなにも清々しい気分なんだから。

 電車が駅に停まる。さあ、鮮やかに去るとしよう。ここまできて警察や駅員の世話になるようでは画竜点睛を欠くというものだ。男は汚物と吐瀉物をたっぷり吸い込んだ新聞紙と服を駅のゴミ箱に押し込み、トイレに寄って素早く入念に手を洗い、鏡に映った自分を見る。あれだけ笑ったからだろうか、以前よりだいぶマシな顔に見える。自分の中に何か新しいものの息吹が感じられるような、そんな気持ちになる。

 俺は今日、新しいスタートを切ったのかも知れないな。それが変態行為のそれなのかどうかは分かりかねるが‥‥‥

 男は大股で、背筋を伸ばし、勢い良く歩く。改札に定期を認識させ、フラップドアが開くのを見て、やはり思う。この外に出る改札口が、俺のスタートゲートなんだ、と。後ろから聞こえてくる微かなざわめき、今日のバカげた行為の噂が広がっていくのを感じながら、男は颯爽と駅を後にした。(おわれ)

やけくそを起こした男の話

多分実際は失敗する

やけくそを起こした男の話

倦怠感、無力感、虚脱感。それまでの人生の歩みで心がすっかり擦り切れてしまったそのとき、男は電車に乗っていた。そして男はあるバカバカしい考えを思いつく。

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-05-03

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