北運河

北運河

北運河   

 学部の事務局から呼び出しのあったのは、卒論を提出し、最終の年度末試験が終わった数日後だった。
 事務室に入って「独文の‥ですが」と言うやいなや、年配の女性職員が「‥さん、あなたF先生の必修科目の単位が一つ足りないのよ。このままじゃ、卒業できないわよ。F先生のところに行ってもらってらっしゃい」と、早口でまくしたてた。
 最終学年のF教授の受講科目は三つあり、二つは単位を取れていたが、どういうわけか〔ドイツ文学演習〕は落第点となっていた。試験の後、出来具合についての感触は特に悪いものではなく、何故これだけがパスしていないのかが私には納得がいかなかった。
 「とにかく、来週の火曜日に、卒業認定の教授会があるのよ。単位が一つでも足りないと卒業できないでしょ。急いでF先生に会って、何とかしてもらってきてね」
 三学年合わせても、わずか二十名足らずの小さな学科で、Fとはずっと折り合いが悪く、制度上の問題などを巡り、激しく対立していたことがあった。とりわけ試験の評価についての情報公開を求めて、私はFの姿勢を糾弾する活動を執拗に行っていた時期があった。それは激しい学園闘争の終焉直後で、キャンパスは後遺症にかかったように虚脱し白けた平穏の空気に覆われていた。改革を実現するような動きも雰囲気も消滅していたが、解決されるべき古い課題は残されたままだった。
 Fが担当する科目では、以前からその成績判定を巡って、しばしば学生から異議申し立てがあり、学生の間では不平が絶えなかった。Fは主任教授という立場で、キャンパスという世間からは隔離された小さな世界に君臨し、地位のパワーを盾にして言葉を発し続けた古い権威像そのものだった。 講義以外で学生たちと意見を交わすなどということを極力避けようとするFに食い下がり、私は何度も討議集会を開き、閉ざされた状況に風穴を開けようと抵抗を続けた。大学という閉鎖的空間に巣くう権化のような教授と、これに異を唱える学生たちの間で繰り広げられる小さな確執のドラマを、私はルポルタージュふうに追い続け学内で公開していった。
 Fと対峙し、討論しながら問題点を追求し、応答を公けにしていくことで、問われるべき課題が明らかになり、その現状を少しでも変えられるのではないか、そんな思いをバネに、当てのない個人的な戦いを続けていた。
 けれども活動が長引き、先の見えぬ強固な壁を前にすると、ガリ版に慣れぬ手つきで字を刻みながら、この珍妙な世界に安住し、社会の冷たい風におののかずにいられるということでは、私もFとそう変わらないところにいるような気がしてきた。Fに向かいながら、私は自分の身の置き所が、あまりにあやふやなことにくじけそうになっていた。制度に固く守られたFの立場と、無きに等しい自分の曖昧な立場が、実のあるかたちで落ち着くはずもないまま、展望のないまったく不毛なやり取りに私は消耗していき、いつとは知れず活動から撤退していた。

 職員の剣幕に圧倒されそうになりながら、この期に及んでFと顔を合わせ、しかも頭を下げて不足した単位をもらってくるなど、考えただけでも気分は激しく落ち込んでいった。だがまた次の新たな一年を、足りないわずかな単位を得るためにだけFのクラスに出席し、以前とほとんど変らぬ内容の講義を聴かなければならないことは、さらに憂鬱なことだった。
 日曜日の午前中、約束の時間に、私は町の高台にある大学の官舎にFを訪れた。二月の中頃だったろうか、どんよりと曇った、やけに寒い日で、官舎に向かう私の足取りはひどく重かった。くすんだ色のコンクリートの塊の建物は、冷え冷えとしていて、私の前途に重なった。
 玄関には夫人が現れ、狭苦しい居間に案内された。私をじらすかのように時間を置いてから、見慣れぬ和服姿でFは現れた。
 「卒業させてください」とだけ私はFに言って頭を下げた。Fはそれに直接答えることはせず、「これからどうするんですか」と尋ねた。
 「郷里の方に戻ります」
 「就職はどうしますか」
 「向こうに帰ってから決めます」
 「そうですか。それでいんですか」
 「はい」
 「今の学生の気持ちはわかりませんけど、君がそれで言いというのなら、分かりました」
 私たちの会話はまったく弾まなかった。狭い部屋にFと二人だけでいることの気まずさと重苦しさが無限に続くようにさえ感じられ、私はただひたすら心を閉じ、この時間に耐えていた。教師と学生の違いはあれ、三年間同じ教室にいたにもかかわらず、いかなる尊敬の念も、少しの親近感もわかぬまま相対し続け、この最後の素っ気ない会話を最後に、私はこの後二度とFに会うことはなかった。
 大学の最終学年は、先のことも就職のことも考えず、ただひたすら満足のいく卒論を書こうと私は励んだ。大学生という曖昧で猶予された存在の価値を証明するために、私に出来るのは書くことしかなかったのだ。自らの現在の想いを全て注ぎ込み、現実的な思考を停止し、この論文という抽象的な世界の構築に私は没頭した。そして、自らに課したその難行を完遂し、自己満足という確かな手ごたえとハードワークの後の虚脱感にしばし浸った果てに、私を待ち受けていたのは、Fに平伏し、権威に屈服してまで大卒という世間的価値を獲得するという屈辱の時だった。
 F教授宅からの帰路、私は自分の行為を恥じ、呪い、自分という人間に激しく幻滅していた。だがその恥辱と引き換えに、私は単位を得て無事に卒業することにはなったのだ。未来はまったく見えず、一片の希望もささやかな欲望さえも抱くことなく、私は大学生という猶予の身分を失い、ただ失意に打ち負かされたまま、進路を示す薄明かりすら見いだせない状態で社会への第一歩を踏み出した。 なんとかなるだろうという根拠のない楽観と、社会人として生きていく方策を持たぬ覚つかなさに押しつぶされそうになりながら、とりあえず故郷小樽に帰り、そこから再出発しようと、私は老いた父や母のいる小樽に戻ったのだ。慣れ親しんだ大学のある町に居続けることもできただろうが、私はとにかく最初から人生をやり直さなければならず、この町で過ごした不毛な年月を精算する以外に道はなかった。そのためにも、この町で暮らし続けることを選択するわけにはいかなかったのだ。

 故郷小樽を出て五年、今思い返せば温床のような学生時代、私は一体何をしていたのだろうか。入学直後から絶えることのなかったキャンパスの騒動に翻弄され、己を見失い彷徨し、休学してアルバイト三昧の日々を過ごした。一年後の春復学したが、理系から文系へと学部を変え三年間抽象の世界に遊び呆けて、具体的な社会生活をするための準備もせず、気がつくと私は学生であることの身分を失い途方に暮れていた。 私自身のこの落胆は、久し振りに同じ屋根の下で生活を共にすることになった息子を見る、老いた両親の心象とも重なったはずだ。
 五年前、一人で見知らぬ新しい世界に旅立った息子は、多くを学び、そして大学を出、堅い勤め口を得て、一人前の大人の仲間入りを果たして帰郷するはずではなかったのか。その至極まっとうな彼らの期待に反し、確かな目当てもなく、どう見ても所在なげのまま、私は彼らの許に戻っていた。 一旦巣立ったはずが、また元の巣に戻るという私の選択について、その理由を私ははっきりと両親に説明したわけではなかった。 社会人としてどう自立していけばいいのか、私にはほとんど分からず、明快に行くべき方向を選べるような状態ではなく、父母に説明しようにも、とてもできそうにもなかったからだ。息子は何を考え、何を欲してこの地に舞い戻ったのだろう。苦労して、時間を費やして、金をかけて、せっかく大学を出たというのに、就職もせず、おまけに帰ってきてもろくに口も利かず、話もしない。これでは共に仲良く暮らすことなんかできるわけがない。
 昔の息子はこうじゃなかった。もっと明るく、よく話し、しっかりと手伝いもしたいい子だったのに。親元を離れて遠い町の大学なんかに行かなければよかったのに。 親のこんな心を知ってか知らずか、私は多くを語らないまま、この懐かしい故郷で、人生の再出発をしようとしていた。 身体は大人だが、幼い雛のように私はただ本能的に巣に、父母のいるところに帰り、そして、彼らは半ば呆れながらも、迷える息子を黙って受け入れてくれたのだ。だがたとえそうだとしても、お互いじっくりと語り合う話の糸口など見当たるはずもなく、実際には大きなわだかまりを残したまま、久し振りの親子水入らずの生活が始まっていた。

 私が生まれ故郷の古い港町に戻ったのは、北の町ではまだ日陰のあちこちに黒ずんだ雪塊の残る三月下旬で、その後しばらく経った四月の半ば頃だったろうか、私は灰色の工員服を身に着け、朝七時半の定刻に家を出て、徒歩で二十分ほどある運河沿いの古い製缶工場に通う生活を始めていた。
 惑いながらもただ親元でぶらぶらしているわけにもいかず、かといって、正式採用を狙って職を捜す明確な意志のない状態では、私にできることといえば、適当なアルバイト職を見つけるのが精一杯のことだった。
 比較的賃金が良かったことと、夕方五時には終わるという勤務条件から、私はこの工場の求人広告に応募し、そして採用された。採用された数十名のアルバイトの配置先はいくつかあったが、その中で研究室と呼ばれる部署に配置されたのは、私ともう一人、いずれも国立大学の出身者だった。配属先については、採用時に特に適正検査や何かがあったわけではなかったから、その選定の基準はただ一つ、どの学校、どこの大学を出たかということだけだった。
 研究室で私が従事した仕事は、いくつかのパターンで組み合わされた試薬を、何通りかの基準で混ぜ合わせ、それをサンプル用の缶に詰められた寒天に投薬し、一定時間後に現れる缶の表面変化を読み取りデータ化するという、単純極まりない作業だった。
 その部屋には、所長のS、研究員のEとA、そして女性部員のKとIがいた。その中でEは、H大出身の所長候補のエリート的存在で、Aは学歴は高くはなかったが、抜擢組のひとりだった。Kはかなり年配の熟練工であり、Iはまだ夜間の高校に通う下働き的な工員だった。 学生時代にはいくつものアルバイトを経験していたが、それは大学生という、ある種特権的な身分のままの片手間な就業であり、この時の状態とは比べものにならなかった。
 その時私は、当然のごとく社会人として見なされる年齢であり、かつ学歴も有していたが、身分としてはいつ解雇されるやもしれぬ臨時工に過ぎなかった。今手元に当時の貴重な写真一枚だけが残っているが、それは、今はなき稲穂町の実家の居間で、灰色の工員服と帽子を被ってソファーに凭れている写真だ。照れくさそうに笑いながらこちらを見つめている、その曖昧な微笑の背後に隠された心根がどんなものだったのか。あの工場に通う日々、私を支えていたものとは、一体何だったのだろうか。ずっと彼方に霞んでしまい、すでに記憶のどこを捜しても見つからないような遠くの私がその写真の中にはいた。
日給三千円で八時間働いた。私は月給にして八万円に満たない額を賃金として受け取っていた。その年の秋、東京で就職した時の初任給が、手取りで十五万円くらいだったと思うが、私にとっては、額の問題より、当時感じ続けていた所在なさに、いつもめげそうになっていた。私よりはるかに年下のIですら、おそらく、その会社に帰属する明確な意識をもち、労働することで社会に参加していることの自覚は、私よりずっと強かっただろう。この工場で働く私には、社会人としても、労働者としても身に付くであろう性根がまるでなく、そのためにますますあやふやな気持ちで勤め続けるしかなかった。

《モラトリアム》という用語がその後流行り言葉となって広がったが、この工場にもその頃、大学を卒業した後、猶予の期間を過すかのような人物が何人もいた。私と同じように、臨時工として採用されたいく人かの大学出身者の中で、同じ部屋に働くことになったTは、小樽の高台にある国立大学の出身者だった。
彼は、聞き慣れない名前の柔術を世界に広めるため、渡航費用や当面の金銭を稼ぐ目的でその工場に働きに来ていた。夏になればまずブラジルに渡る予定だというTの個性は、それまでに付き合いのあったどの友人にもない強いものだった。寡黙に仕事をこなし、天気のいい日の昼休みは、屋上で日光浴と腕立て伏せを日課にしていた。
 私がその工場を止めるより先に彼は去って行ったが、小さな工員帽からはみ出るぼさぼさの髪の毛と、私の倍もありそうな二の腕は、曖昧だらけの当時の記憶の中で、奇妙なほどにはっきりと思い出される。
 猶予の時期ではあったが、私と違ってTには明確な目標があり、それを目指して、彼はこの工場を早々と通過していった。 単調で刺激のない工場労働ではあったが、そんな生活を過すうちに、一種の安定感のような感情を覚えることもあった。こういうのでもいいのかな、とふと思うことがないではなかった。そこそこ真面目に働いていれば、正社員としての採用という道も開けるだろうし、生まれ故郷の慣れ親しんだ界隈で、ずっと働き続けるのは悪くないはずだと。
 この大きな工場とこれに付属する倉庫群は、私の生まれるずっと前からこの運河とともにあり、小樽という港町にはなくてはならない象徴的存在だった。私は幼いころからこの周辺には馴染んでいた。家から歩いても十五分ほどの近くにあり、学校の級友たちの何人もがこの辺りに住んでいた。
 倉庫前の運河ではよく釣りをしたし、広々とした工場前のコンクリート道路は、ここが休みのときは、行き交う車もほとんどなく、子供たちにとっては格好の遊び場や野球場になった。坂の町小樽にあっては、こんな平らで広い場所は学校の校庭ぐらいしかなかったが、坂の上にある学校に行くより、この運河の広場に来るほうがはるかに楽だった。淀んだ運河の匂い、カモメやウミネコがびっしりと並んで留まる古い艀、打ち捨てられ沈むように留まる廃船。
幼心に刻印されたこの景色は、忘れようにも忘れられない私の原風景で、この古い工場は、その風景の中心にどっかりと重々しく存在していた。これほど馴染みのある場所で、一生涯ずっと働き続けることに異存などあるだろうか。確かに、ある時所長のSから、「‥君、ここに残るつもりはないか」と聞かれたこともあったような気がする。私はなぜその道を選ばなかったのだろうか。仮定の話などしてもどうなるわけでもないが、もしあの時、あのまま工場に居続けたとしたら‥。

 勤め始めてから三か月経って、もうすぐ七月に入ろうとする頃、私は選択を迫られていた。臨時工としての雇用期間が六月一杯で終わり、もしここに留まるなら、雇用継続を申し出なければならなかった。変化に乏しい日常ではあったが、作業に慣れ、部屋にいる人々とも少しは気心が知れてくると、この工場への親しみとでもいうような、今までにはなかった新しい面も出てくる。
 ある時、この会社の道内にあるのいくつかの支所のうち、遠軽にある工場で欠陥製品が出たことがあった。急遽本社から人員を派遣して対処することになった時、チェック人員が足りないということで、私は技術員のAと、もう一人別の部署の工員について行くことになった。そこは北海道の東の外れで、夜行列車に飛び乗り、次の日の朝到着して、そのまま工場で製品を検査した。昼飯もそこそこに急いで行った点検作業は、三時前には終わった。私たちはせっかくここまで来たのだからと、車でサロマ湖に行き、夕日に染まる湖とは思えないほど広い湖面を堪能して小樽に戻った。 Aやもう一人の工員と長い時間を共にして、私はこの時初めて、職場の人間関係に少し馴染んだような気がした。年配の女性工員のKは、この工場の生き字引のような存在で、母とまではいかないが、年の違う姉のような気安さがあった。「長い人生いろいろあるんだからね」と言って、好奇の目で見る周囲の工員たちを牽制してくれたこともあった。年下のIは、私の母校の夜間部に通っていることもあって、いつも親しげに話しかけてくれた。
 これだと言える明確な目標など、そう簡単につかめるものではないのだし、永久に出会えないことだってあるかもしれないのだ。難しく考えずに、平穏で安定した暮らしができるのなら、それでいいのではないか。工場での生活に慣れてくると、そんなふうに考えないでもなかった。高校を卒業してからもう六年も経っていた。浪人を経て大学に入り、休学を挟んで大学に五年いた。どちらにしろ、そろそろ自分の行く道を決めなければならない時期に来ていた。

 柔術家のTが去った後、私は教員職の採用待ちの間ここに来ているYや、ギャンブル好きのDとよく昼休みの時間を一緒に過した。私同様彼らも定まらぬ日々をこの工場で過す危うい状態の身分だった。
 当時運河はヘドロに埋まり、悪臭が漂い、廃船があちこちに打ち捨てられていて、現在のように小奇麗に整備されて、多くの観光客を引き寄せるようにはなっていなかった。確かに朽ち果てて、美しい眺めとは言いがたかったが、私は昔から馴染んだこの風景が好きだった。運河に臨む屋上で、他愛無い話をしながらも、お互い中途半端な境遇に居心地の悪さを感じていた。
 卒業後二年目のYは、梁川通りにある老舗の御茶屋の息子で、教育学部を出た後、採用待ちの状態で、どんな辺地でもいいから、とにかく教員として採用されることを願っていた。遊び人風に見えるDも、しばしば就職試験や面接を受けているようだった。大学を出たけれど、私たちはまったく宙ぶらりんの状態でこの工場にいて、鬱々とした想いを共有していた。
 ある時Dが、「‥君はどうするつもり」と、珍しく真面目腐って聞いたことがあった。その時私がどう答えたのか、長い間、ずっと長い間、私は思い出すまいとしていたように思う。もちろん、その言葉は記憶の中にずっとあったし、そこで言われた自身の言葉は、忘れるはずのないものだったけれど、すべてを遠くへ押しやってくれる、年月の力を借りながら、忘れたふりをしていたように思う。そうしたとして、私は誰からも責められるわけではなく、誰に恥じる必要もなかった。ただ、いつになってもあの場面、あの言葉が自身の脳裏から消え去ることはなかった。
 「ものを書きたい。書いていくことで己を解放していきたい」Dの問いに答えて私はハッキリとそう言った。

 諦めと平穏という、工場での生活を体験するまでは味わったことのないような感覚を知り、これを受け入れて暮らす道が確かにあることも知った。その想いは私の中に深く入り込み、私に問い、私を試すように巡り回った。私は己自身に向き合い、激しく葛藤し、この感覚と対峙し続けた。容易に結論など出るはずもなかったが、雇用期間が切れるという外部の要因がなければ、私はまた相変わらずぐずぐずと、明確な選択を先延ばしにしながら過ごしたかもしれない。だが、この時にはそうする暇はなかった。私は早急に行くべき道を決めなければならなかった。将来への手がかりという確かなものなどはなかった。だが、この馴染みの町にどっぷり浸かって父母と共に生きる平安に抗うかすかな内部の声を、私はあの時聞いたように思う。
KやIと別れることは、少し寂しい気がした。この部屋に馴染んだ分だけ、彼女たちの暖かさが身に沁みた。
 私は六月の末に、所長のSに工場を辞めることを申し出た。
 「残念だね。いて欲しかったけどね」本心かどうかはわからなかったが、Sはそう言った。

 私のこの選択を、その時父や母にはどういうふうに説明したのか、その記憶はまるでない。三か月前、彼らの予期に反してひょいと戻った後、何の相談もないまま工場勤めという意外な道を選び、そしてまた、これといった目当てのないまま工場を辞めた私の姿は、彼らにとっては、まったく謎のように映っただろう。ここを出てまた別のことをするから、その時の私には、せいぜいそんな曖昧なことしか言えなかったろうし、父や母がそれに納得したとも、とても思えなかった。それでも私には、そうするしかなかったし、父や母も、私のすることを黙って見ているしかすべはなかったろう。わずか三か月だったが、私は小樽に戻り、両親と暮らし、懐かしい北運河にある工場で働いて過した。
 この惑いの日々、私にとって故郷の町は、優しくも懐かしくもなく、はるか向こう側に離れてあった。私の中で、いかなることも決められていない状態の時、私はこの町に何かを求めることもせず、この町から何かを感じることもなかった。この時小樽の町は、私にはただひどくよそよそしかっただけだ。
 当ては全くなかった。進むべき道も見えず、気分は晴れなかった。けれどもうこの町にはいられないような気がした。これをやりたい、そう思える強い感情があるわけではなかった。それでもこのままこの町にいてはならないような気がした。
 月が替わると私はすぐに小樽を発った。それは二十四歳も終わろうとする夏のことだった。

北運河

北運河

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 成人向け
更新日
登録日
2016-02-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted