壊れた愛の匂いがする
もしも、世界が腐っているのなら、きっと腐臭がすることでしょう。
もしも、人生が素敵なのなら、きっと華やかな香りがすることでしょう。
ではもしも、愛が壊れたのなら、一体どんな匂いがするのでしょう。
「よかった、目が覚めたのね」
まどろみの向こうで、そう聞こえた気がした。頭が重い。体も重い。なんだ、何がある。
そう思ったところで、ぐわっと我に返った。瞼を開けると枯葉色の木目が見える。屋根か。
体を起こすと、意外にもふわりと軽かった。
「あなた、どうしてここに来たの?」
私の左横には、女性が座っていた。若々しく、二十代くらいか。肌は白くきめ細やか。黒光りする長髪の髪が艶やかだった。丸く整えられた顔立ちも健気でやさしい。
「待ってて、今水を持ってくる」
彼女はすらり立ち上がると、部屋を出ていった。壁も木材。部屋には小さな机くらいしか調度品はない。窓はただ壁に丸い穴をあけただけだが、雨戸はついていた。 窓の向こうに澄んだ八月の空が見える。美しい雲が遥か彼方でもくもくと立ち上っている。
彼女は木の器らしきものを持ってくると、私の横に膝を崩す。白いワンピースがよく似合う。あまりにも自然で、清らかだ。どうしてか、私がこの人を守らなければと思った。
「あなたがまた来てくれて嬉しいわ」
彼女は愉快そうに笑いかける。
長い長い時間が過ぎた。
あれから陽は一度も沈まず、私たちも眠ることはなかった。太陽は高く高く真上に登り、影は見えなくなった。私は彼女の畑を耕し、ふたりで海岸を散歩もした。彼女は相変わらず美しく、時折見せる物憂げな横顔が何よりも神秘的だった。
陽が完全に登りきったころ、客人が現れた。うんと背の高い男。白いひげを控えめに蓄え、黒色の燕尾服で身なりは整っている。私と彼女、ふたり揃って応対した。 家の玄関で待っていた彼は、私たちを見てこう言った。
「もう、時間ですよ」
私はただ立っていたが、彼女の横顔からは笑みと神秘的な気配が消え失せ、蒼白として鈍い汗を滴らせていた。私は彼女の横顔を、彼女の魅力を奪う者が許せなかった。私は燕尾服に敵意を向けた。
燕尾服は終始にこやかに立っているだけだった。その不動さは無機質で異質で、私は恐ろしさを覚えた。
彼女は不意に走り出し、家の裏へと逃げるように去った。それを見ても燕尾服は微動だにせず微笑み、私はその男に目を瞠っていた。
家の裏手の方で、誰かの声が聞こえる。透き通るような声。耳をやさしく和ませる彼女の声。誰かに叫んでいるように聞こえる。そして。
耳を引き裂くような、悲鳴。青い夏空に響き渡り、やがて弱々しく消えた。私は走った。もう燕尾服に興味はない。彼女が、彼女の安否が気がかりだった。
家の裏には、黒い男がいた。真っ白い入道雲から吐き出されたみたいに対照的な、黒。肌から何まですべてが黒一色だった。その男の傍ら、足元には、彼女がうつ伏せに倒れていた。彼女の白いワンピースが、これでもかというほど赤く紅く、染まっていく。絶望が匂う。
黒い男が、にやり笑った。
「よかった、目が覚めたのね」
まどろみの向こうで、そう聞こえた気がした。頭が重い。体も重い。この状況を、私は知っている。
そう思ったところで、ふっと我に返った。瞼を開けると枯葉色の木目が見える。私のよく知っている家だ。
体を起こすと、ふわりと軽い。
「あなた、どうしてここに来たの?」
私の左横には、彼女が座っていた。白いワンピースは純白のままだ。彼女の自然さも清らかさも神秘性も、初めて会ったときのままである。
「待ってて、今水を持ってくる」
彼女はすらり立ち上がると、部屋を出ていった。壁も木材。部屋には小さな机くらいしか調度品はない。窓はただ壁に丸い穴をあけただけだが、雨戸はついていた。窓の向こうに澄んだ八月の空が見える。美しい入道雲が遥か彼方でもくもくと立ち上っている。
彼女は木の器らしきものを持ってくると、私の横に膝を崩す。やはり白いワンピースがよく似合う。あまりにも自然で、清らかだ。今度こそ、私がこの人を守らなければと思った。
「あなたがまた来てくれて嬉しいわ」
彼女は愉快そうに笑いかける。
長い長い時間が過ぎた。
あれから陽は一度も沈まず、私たちも眠ることはなかった。太陽は高く高く真上に登り、影は見えなくなった。私は彼女の畑を耕し、ふたりで海岸を散歩もした。彼女は相変わらず美しく、時折見せる物憂げな横顔がやはり何よりも神秘的だった。
陽が完全に登った。あの客人が現れた。燕尾服の老年。やはり私と彼女、ふたり揃って応対した。家の玄関で待っていた彼は、私たちを見てやはりこう言った。
「もう、時間ですよ」
またしても彼女の横顔から笑みと神秘的な気配が消え失せ、蒼白として鈍い汗を滴らせていた。私は彼女の横顔を、彼女の魅力を奪う者が許せない。私は燕尾服に敵意を向けた。
燕尾服は終始にこやかに立っているだけだった。その不動さは無機質で異質で、私はまたしても恐ろしさを覚えた。
彼女が不意に走り出し、家の裏へと逃げるように去った。私はそれを必死で追った。燕尾服など恐ろしいものか。家の裏にはやはりあの黒い男がいた。右手には、神々しく光る包丁が握られていた。確か家の台所にあったものだ。
「どうして……? どうしてあなたが私を殺すの!」
彼女が叫んだ。振り絞るような声だった。
彼女に向かってゆらりと走り出す黒い男。私はとっさに彼女の前に立ちふさがり、黒い男の構える神の刃から彼女を守った。生暖かい衝撃が脇腹を伝う。体の中からたいせつなものが流れ出す。徐々に暗転していく視界。無力感が匂う。
黒い男が、にやり笑った。
「よかった、目が覚めたのね」
まどろみの向こうで、そう聞こえた気がした。頭が重い。体も重い。なんだ、またここか。
そう思ったところで、はっと我に返った。瞼を開けると枯葉色の木目が見える。やはり私のよく知っている家だ。
体を起こすと、当然のようにふわりと軽かった。
「あなた、どうしてここに来たの?」
私の左横には、彼女が座っていた。やはり彼女は初めて会った時と変わらぬ魅力を保っていた。
「待ってて、今水を持ってくる」
彼女はすらり立ち上がると、部屋を出ていった。壁も木材。部屋には変わり映えはない。窓の向こうに澄んだ八月の空が見える。美しい入道雲が遥か彼方でもくもくと立ち上っている。
彼女は木の器らしきものを持ってくると、私の横に膝を崩す。やはり白いワンピースがよく似合う。あまりにも自然で、清らかだ。また、私がこの人を守らなければと思った。
「あなたがまた来てくれて嬉しいわ」
彼女は愉快そうに笑いかける。
私は彼女の畑を耕しながら、あの黒い男のことを考えていた。鍬を持つ手が止まる。暑い日差しに噴き出た汗を袖でぬぐう。
彼は何者か。燕尾服は仲間なのか。二度目の、いや本当に二度目だったのかはわからないが、とにかく二番目に来訪した黒い男に私は刺殺されたはずだ。だが、傷痕ひとつなく、私は生きている。今回も彼が来るとすれば、私はどうすればいいのだろうか。あの黒い男を殺せばいいのか?
ふと、天を仰いだ。太陽は登りきっていない。まだ、あのときまで時間はある。もう一度汗を拭き、足元の土を見下ろした。私の影は縮んで短くなっている。いずれまた見えなくなるだろう。
影。夏の強い日差しに映し出された影は、まるで何かを思い出させるかのように黒い。そうか。影の黒さは、太陽の白さと対象なのか。そのとき、私の背筋を何かが走った。
あの黒い男は、どうしてまだやってこないのか。今どこにいるのか。
今、どこに?
どこに?
私はもう一度土を見た。いや、土の上に伸びる私の影を見た。あまりにも黒い。
私は鍬を放り投げ、急ぎ家に戻った。彼女は家で芋を切っているところだ。
驚く彼女を尻目に、私はその華奢な右手から包丁を奪い取った。やはりこの刃には神が宿る。鈍い銀色の光に私は確信した。
太陽の下でひざまずくと、右手に握ったナイフを逆手に持ち替え、息を呑んで私の影に突き刺した。影は、いや黒い男は私の足元でうねうねともがき、やがて薄くなって元来の影の色に戻った。やった。達成感で体がいっぱいになる。
彼女はいつの間にか私の傍らにいた。今何をしたのかには気づいていないようだった。
ふと、玄関の方を見ると、人影が見えた。黒く、背の高い男。燕尾服。なんだ? 黒い男は殺したじゃないか。
彼女は私の左横で固まったように動かなくなった。私も、燕尾服がいつもの台詞を言うのを待った。
「まだ、その愛から抜け出せないのですね」
燕尾服が、くすり笑った。
私は再び、炎天下の中で畑仕事をしている。彼女は家で芋を刻んでいることだろう。私はというと、再び思索に暮れていた。
影はまたしても黒いままだ。影を殺しても燕尾服が言う台詞が変わっただけであった。あの台詞の後の記憶は無い。黒い男を殺すのではないのか……?
私はもはや一刻も早く、いつ彼女が奪われるやもしれぬこの無間地獄から、二人で脱出したかった。「その愛から抜け出せない」だと? 私のこの激しく深い愛を捨てろというのか。そんなことしてたまるものか。
仕事が手につかない。そうだ、今度はあの神の刃で、あの燕尾服も殺してやる。私は家に戻った。太陽はまだ登りきらない。
今度は些か落ち着いていたので、その包丁を貸してくれと彼女に頼むと、すんなり渡してくれた。銀色の光が私の顔を照らす。
美しい光に包まれた刃を見つめているうちに、妙な考えが頭をよぎった。切り揃えた芋を並べる彼女の横顔。やはりこれ以上なく神秘的で美しい。
これを永遠に私のものに、ふたりのものにしたい。
妙な考えは、私の体を突き動かした。
彼女の名を呼ぶ。振り返る彼女のか細い腹を、神刀でぐさり一突きにした。
自分のしでかした行為に自分でも驚いていたが、彼女の方はとても安らいだ表情で私を見つめた。
「やっと……一緒に、なれるのね」
いつの間にか、私の腹にも彼女の握るもう一本の包丁が刺さっていた。ふたりの中から、たいせつなものが溢れて混ざり合う。ふたりを赤い紅い愛の色へと染めていく。壊れてしまった愛が匂う。
そうか、やっと一緒になれるのか。
玄関で燕尾服が白いハンカチーフを振っている。ありがとう、お前には世話になった。
意識が遠のく。彼女の体を強く、もうどこへ行っても離すことの無いように強く抱きしめた。もう、大丈夫。
彼女が、にこり笑った。
壊れた愛の匂いがする