新小樽ストーリー

新小樽ストーリー

小樽ストーリーはまだ終わっていなかった。

 例年になく雪の多い年になった。いつもなら正月も松が明けるころから、温度も上がり、ものによっては狂い咲きの花もちらほらするはずだが、今年は違っていた。いの一番に咲き出す我が家のマンサクの蕾はずっと硬いままで、一月を通しての気温は零下十五度を下回ることもしばしば。とにかく冷たい冬だった。久し振りに寒い冬、久し振りに雪の多い冬、その冬の小樽に行くことになった。
 札幌で行われるちょっとした会合への参加を理由にしてみたが、それはどうしても行かなければというほどのものではなかった。けれど、雪の小樽を味わってみたい、そんな誘惑に駆られたのは確かだった。雪祭り前の、人の行き交いの少ない時期ということもあり、廉価の航空チケットが簡単に手に入った。さて次に宿泊はどうするか。いつもなら値段と場所でだいたい同じようなホテルに決めていたが、今回はネットにある大手旅行サイトの口コミ情報をチェックして決めた。掲載されている何枚かの写真からすると、小さな民宿のような宿と思われ、色内にあるという地番からしても、こじんまりした、古い旅籠をイメージできたが、五点満点中四、五点というのはかなりの高評価だった。比較的安い値段とこの高い評価、そしてかつて住んでいた稲穂町に近い立地など、どの情報にも異存はなく、私はすぐに予約を入れた。
 二月初めの小樽。最後にその季節を体験したのはいつのことだろうか。十九歳の春小樽を出て以来、数え切れぬほどの年を経たが、二月の小樽というのはどうも記憶にない。春にはずっと遠い、雪の一番多い季節のような、そんな淡い記憶だけが残っていた。恐れたのは、当然ながらこの季節のことゆえ、悪天候のために飛行機が欠航することだった。それは大いにありえたから、もしそうなったらせっかくのチャンスがふいになる。そうならないことをただ祈りながら、出発の日を心待ちにした。

 いつもは地元の予報にしか関心はなかったが、出発日が近づくにつれ、意識は札幌や小樽の予報のほうにばかり向かった。何とか晴れて欲しいという祈りが通じたのか、悪天候はスケジュールの前後に重なり、当日は飛行機の欠航はなさそうな予報が出ていた。出発の朝、佐久の気温は零下十四度と、この冬の最低を記録した。この寒さは北の地よりさらに厳しく、場所は違えど、自分の人生に寒さはつきものだということを思いながら家を後にした。
朝九時に家を出て、新幹線、 山手線、モノレールを継いだ後、空を飛び、千歳からはJRで一気に小樽まで行った。小樽駅のホームに着いたのは夕方四時。まだ空は十分明るかった。観光客らしい多くの人々に混じって雪に覆われた駅舎に立つと、気分はにわかに若返った。ここにいる自分は、間違いなく二十歳前の若者だった。
 雪に邪魔されて、駅前の交通はひどく緩慢にみえ、雪の坂を行く人々の動きも、心なしかのろのろと遅くみえた。この日のあては特になかったが、暗くなる前に この小樽の町をたくさん撮っておきたかった。黄昏に沈む前の雪の町は、小樽ストーリーを新しく飾る貴重なショットになるはずだった。
 とりあえず駅から離れ、船見坂を登りだした。車道と歩道の区別はないに等しく、堅くしまった雪の坂は、撒き散らされた塩カルのせいで、かろうじて滑らずに歩くことが出来た。坂の途中にある跨線橋から見渡す駅の構内は、はるか昔のように厚い雪にすっぽり覆われていた。遠くに見える毛無山も、天狗山も、雪国の山にふさわしいほど重そうな雪をずっしり被っていた。
 橋から上側の道は、除雪車のかき上げた雪が壁を作って、いつも見渡せる視界はほとんど遮られ、なかなかいい撮影ポイントが見つからなかった。上空にはまだ青空が残っていて、明るいうちに一刻も早く写真を撮らなければと、気持ちだけが逸った。坂の一番上の、富岡町に至る車道付近は、さすがに融雪されていてアスファルトがむき出しになっていた。
 この高台から遠くに続く景色は、坂の町を象徴する絶景だ。ちょうど下校時にあたっていて、三々五々、西陵中の生徒たちが下って行った。学校にいる緊張から解放され、楽しげにしながら語らい行く彼らの姿が昔の面影を呼び起こす。この急勾配の坂を、スキーで滑り降りたっけ。竹スキーなんかもよくやったな。朝は重い鞄をもって、前かがみに一生懸命に登って通ったんだ。夕方は家を目指して転がるように駆け下ったしね。みんな昔は、この坂のことが好きだったんだ。
 山際が陰って夕闇が迫っても、向こう側の広い海には夕日が当たって輝いていた。まさにシャッターチャンス到来とばかりに、私は慌ててデジカメのボタンを押し続けた。
 陰った山の手にいると冷気が身に沁みた。ついさっきまで輝いていた遠くの石狩湾も、暮れ時の翳りが差し込んで、景色は急に寂しげな色彩に変わっていた。坂下の町に灯が煌くころ、撮り貯めた画像を確認する間も惜しんで私は急ぎ足で下界に向かった。この黄昏時の雪の町は十分魅力的で、次に来るチャンスなど当てにできない以上、今撮り損なうと、もう二度と撮ることができないかもしれず、気は急いた。急な坂の滑りを気にしながら、両足に力をこめて私は運河の町に急いだ。
 大通りを避け、雪に埋もれた小路を行くと、そこここの雪山にはキャンドルが据えられ、灯りが点火されていた。それは予想外の光景だった。薄暮に沈む運河の町が、一斉に小さな灯火で照らされ、幻想的な明りに染まっていた。「今日から、ゆきあかりのみち、が始まるんです」店頭でキャンドルに灯す若い女性店員が応えてくれた。「雪明りの路」は、小樽(の塩谷)出身の詩人伊藤整の詩集に由来するイベントであることは以前から知っていたが、まさかこの日がそうだとは驚きだった。見渡すと、あたりの店舗には、小さいのやら大きいのやら、雪の山や雪だるまの中に設けられたキャンドルが確かな光を放っていた。 伊藤整という作家が、今のこの国でどんなふうに読まれているのか[あるいは読まれていないのか]は、想像もできないことだが、郷里の作家ということもあって、学生時代からよく読んでいた。
 「若い詩人たちの肖像」は、古い小樽と彼の青春像が溢れたお気に入りの小説で、一度ならず、何度か読んでいた。それに、私の記念碑的短編小説「裏通りの華たち」の冒頭は、昔の小樽を活写した伊藤の「若い詩人たち」から引用した。今も私にとって伊藤整は、気になる、読む気を起こさせる数少ない作家だった。この黄昏ていく雪の町を行きながら、思いがけず、伊藤に縁のあるイベントに出会えた幸運を噛み締めながら、私は運河界隈に急ぎ足で入っていった。

 夕闇が迫る運河界隈は、祭りが始まったせいか、すでに多くの人影が蠢いていた。藍色に薄い墨をかけたような夜空の下、冷気は十分に凍てついていたが、行き交う人々の息遣いで、雪と氷に覆われた運河の町には熱気のようなものさえ感じられた。広場には仮設のテントが設えられ、何台もの音響装置も用意され、この場がステージとなって何かが始まろうとしていた。数え切れぬキャンドルの浮き玉が、広場を囲む雪山の上に置かれ、それだけでも明るい光源になっていた。広場の向こうに繋がる運河にも多くの浮き玉キャンドルが浮び、運河に沿って立ち並ぶ、長い氷柱を垂らした石の倉庫群とが織り成す景観は、予期した以上に見応えがあった。
 運河沿いに点在する街灯の光が、運河面に明るく照り返り、浮遊するキャンドルの灯に重なって黒の運河が激しく光っていた。夜の闇とキャンドルの光を綯い交ぜにした運河は、それ自体が舞台となって無言劇を演じているようだった。幼い頃からこの運河には馴染んでいたから、今目の前に広がる闇に光る静かな風景画を見ていると、故郷の親しい景色とは思えず、どこか異郷にあるただ美しい景観のようで、ひどく近づきがたいものに感じられた。
 ここを走り、ここに遊び、ここに憩い、ここが生活の一部になっていた遠い記憶が蘇るが、そこには生活臭に満ちた激しい活気があった。この港町の経済を牽引するかのように多くの艀がならび、人も車も忙しげに行き交っていた。泥の運河はひどい悪臭を放っていたが、子供心にそれが嫌ということはなかった。ここは眺める景色ではなく、ここに生きる場所だった。あれから半世紀もの長い時が経って、運河の町はひどく変貌してしまった。堅牢な石造りの倉庫に垂れる太い氷柱には照明が反射し、ちらつく小雪にも照りつけて、雪の祭りらしい幻想的な趣が醸し出され、絵のような見事な眺めになっていた。
雪の通路には、この絵を見るために全国各地からやって来た見物客が溢れていて、この一画だけは、斜陽の町とは思えぬほどに賑わっていた。突然、スピーカーから大きな響きが鳴り、女性ボーカリストがゴスペルを歌い出した。白い息を激しく吹き出しながら、この冷気に負けじと身体を振るって歌う異国のサウンドが雪明りの空間に響き渡っていた。人の溢れる祭りはたいそう賑やかだったが、一世紀前に伊藤整が謳い上げた静謐な詩情とはかけ離れた、ただけばけばしい空気があたりに漂っているように感じられた。会場は大音響が鳴り響き、手拍子で一層盛り上がっていたが、私は足早に逃げるようにこの運河の町から遠ざかった。

 日もとっぷり暮れたころ、私はその宿にたどり着いた。懐かしい色内のあたりは、雪に阻まれ、歩道は狭まり、人ひとりがようやく行けるほどになっていた。おまけに、雪かきのしていない道は、山道のように盛り上がり、激しい起伏が続いて、歩きにくいこと甚だしかった。たまに向こうからやって来る通行人に会うと、互いに意識して、どちらが先に歩き出すかを見計らうような素振りをした。途中ですれ違うことなどできないほど、この雪道は狭く、おまけに滑りがちで危険極まりなかった。こんな雰囲気を味わうのは実に四十年ぶりのことだと思うと、それだけでもここにやって来たことがうれしかった。
宿は運河沿いの通りと大通りとの間の道沿いにあったが、事前にネットで確認してあったので簡単に見つかった。高校時代同級生だったFの実家が向かい側にあって、その前の小路を行くと、北の運河に臨む北海製罐の大きな倉庫があった。この大きな工場は、大学を出たての私が、進路を決められずに小樽に逃げ帰り、とりあえず何かをしなければと思い、勤めたところだった。
 当時この企業にとって、時代は今ほど厳しくはなく、むしろまだ活気というものがあって、多くの若者が一時凌ぎの身をここに置いていた。地元小樽に残った何人もの大卒者たちが、いずれは確かな暮らしの口を得るためにもがきながら、その途上、この工場で一時の働き口を何とか得ていた。
 商大卒の武術家のM君は、確かその術を普及するためブラジルに行くと言っていたな。教育大卒で御茶屋の息子のH君は、希望通りに教師になっただろうか。工大卒の遊び好きのK君は、望んだような面白い人生を送れたのだろうか。あのころ、昼食後はいつも決まって工場の屋上にみな集まり、その身の不安定さを託ちながら、目の前にあった泥の運河の淀みをじっと眺めていたんだ。危い未来に慄きながら、この工場で過ごしたあの若者たちは、今やみな、過ぎた人生を振り返るほどの年齢になってしまった。
 屋根越しに見える大きな倉庫は、昔と少しも変わらずに、雪に埋もれた運河と一体になってただ静かに聳え立っていた。
 宿は予想していたよりはるかにこじんまりとしていて、民家そのままの旅籠といった雰囲気だった。周囲が暗い中、夜の明かりが灯っていなければ、そのまま素通りしてしまいそうなくらいで、入口付近はさすがに丁寧に雪かきがされていたが、それでも排雪できずに残った雪の山が通りとの間に厚い壁のように出来ていた。夕方からちらついた小雪も本降りになって、宿に着いたときには、帽子に積もった雪をしっかり払い落とさなければならないほどだった。家の玄関を開け入ったところは、やや広いリビングルームのような趣で、左側の半分は、丸いテーブルセットが二組置いてあるスペース、右半分は、数脚の椅子の置いてあるカウンターと、その奥は厨房になっていた。すぐに厨房にいた主人らしき女性と目があった。
 「今夜予約している若菜ですが、お世話になります」と私は声をかけた。

 私が長く住んだ稲穂町に接するこの色内というところは、幼い頃から馴染みの場所だった。学区としては、小学校が色内小学校、中学校は西稜中学校か石山中学校で、同級生もこの地域にはたくさんいた。小学校で共に学んだ友人で、たとえ中学校で一旦離れた後、高校でまた一緒になるということもあった。 私の場合、上に姉が二人いたせいで、兄妹がらみでのつながりを捜すと、同世代ではかなりの確率で接点が見つかる。
 運河の町色内は、家から自転車ならせいぜい十分の下り道で、生活圏としてはとても親しみのある場所だった。そんなところにこの宿はあった。
宿の女主人と挨拶を交わし、この地の懐かしさにつられて、生まれや育ちなどの身辺情報をいくつか披瀝すると、彼女とのつながりは、すぐにいくつもが判明した。私より四学年上だが、彼女とは小中高が一緒の同窓生だった。おまけにかつての住まいもほぼ同じ地域内にあった。おそらくは半世紀も前、彼女とは学年は異なるにしても、同じ道を通って同じ三つの学校に通ったということを想像しただけでも胸に強く響くものがあった。
 彼女がまだ焼ける前の色内小学校を覚えていたのは驚きだった。私が入学する二年前の昭和三十一年五月に消失し、昭和三十三年四月、私は出来たての新校舎で小学校生活をスタートさせたが、彼女は昔の木造校舎で低学年時代を過したこともあり、愛着のあるという木造時代の小学校の写真を見せてくれた。 北運河に接するこの色内という町で、数年前に縁があった民家を手に入れ、改築しこの宿を始めたのだという。古い小樽、懐かしい小樽の息吹を感じさせるような宿を創って、この小樽の町を訪れる人たちに、その古き良き雰囲気をぜひ伝えたいとのことだった。かつてこの町に住み、今は離れている人が、ここを訪れた時に、昔の小樽に出会えるような特徴のある宿にしたいとも言った。
 私がこの宿を選んだのは、ほとんど偶然に近いことだったが、今、女主人と語らい、その想いを知れば、まさに私のような旅人のために創られた宿のようにも思えた。身内は札幌に移り、わずかに残る高齢の親類とも疎遠になっていたし、上の世代に属する知人たちの多くは亡くなり、同級生たちも大方は小樽を出てしまっていた。
 五十年という長い時の経過は、私自身とこの町の境遇を激しく変えてしまった。今の私にとっては、どうしてもここに来なければならない理由はもはや存在しなかった。父も母も亡くなり、兄妹もここに暮らしてはいない。私には小樽に帰省しなければならない理由はもうないのだ。だから遠い昔に縁があり、今なお当時の思い出に浸ってふらりとこの町を訪れた一介の旅人が泊るには、この「かもめや」という名の宿は、最もふさわしいように感じられた。

 単に同郷というだけでなく、同じ地域に生まれ住んだ者同士として、そして何より運河の町に人並みはずれて愛着を持つ者として、私たちの会話は一気に弾んだ。どこそこの誰それの名前やら、同窓の人々の名前やら、そしてまた共通の学校で教鞭をとった思い出の教師たちの名前が次々に出て、懐かしい思い出の域を容易に飛び越えて時は遡っていった。
 幼い頃や学生時代は、互いに面識はなく名前も知らなかったにせよ、生きて暮らした場所が同じということは、それだけで何かすごく価値のあることのように感じられた。とりわけこの年代まで生き延びてくると、その想いは強くなる。長い時間を経て、なお生まれ故郷に居てここで暮らすことはむしろ稀だろう。昔住んだところに、昔のことを確かに記憶している女性が今も暮らすことの不思議さを感じないわけにはいかなかった。
 女主人との対話は、古いアルバムの扉を開き、昔撮ったあれこれの写真を眺め懐かしんでいるような快感があった。それはノスタルジーという、避けがたい郷愁の感情のなせることではもちろんあったが、共に抱く運河の町への強い執着を感じるにつけ、それはまた、何かで連帯する仲間のような感覚をも抱くのだった。そんな想いのまま会話は続いていたが、話の途中、女主人が窓際にあった書棚から取り出した一冊の写真集は、間違いなく私たちがこの町に対して抱く感情なるものが、それほど特殊なものではないことを明らかにしていた。
 その写真集[岡田明彦写真集2010 知泉書館刊]は、二年前の秋、Kから贈られ、私も所有しているものだった。Kは高校時代同じクラブにいた後輩で、小樽でこの写真集の出版記念展があった折、二冊購入し、一冊を私に贈ってくれた。彼女もまた、この町とあの時代への想いを抱いて、この写真集の世界に引き付けられた一人だ。
 花園高架橋の下にあった、純喫茶「砂貴」で私たちは何度も長い時間を過ごした仲で、互いに強く意識はしていたが、結ばれる運には巡り合わずに、その後遠く離れて別の人生を歩んだ。だがやはりこの人の世は不思議なもので、本当に長い時間の後に、私たちは邂逅し、そしてさらなる縁に導かれてこの写真集に出会うことにもなった。同じ世代の写真家が切り取った我が町の記憶の数々に、こうも敏感に反応する人のいることを思うとき、この町が今なお潜める懐かしい匂いを嗅ぎ取ろうとしている人々が、何かのきっかけを通して、はっきりとした交信状態に入るということなのかもしれなかった。秘められた小樽の匂いが、それを欲する人々を、確かに繋ぎ合わせるということに違いなかった。

 女主人との尽きぬ語らいに、あやうく時間を忘れそうになったが、この宿では夕食を頼んでいなかった。遅くなる前にどこか適当な店に出向き、食事をとらなければならなかった。
 「お薦めの寿司屋はないですか」と、私は女主人に問うて近くの店を紹介してもらった。
 以前は寿司の町小樽と騒がれた評判も、看板倒れの店が多いせいか、最近ではこの町の寿司に対する世評は、必ずしも芳しいものではなかった。期待外れの店に入って失望するよりは、地元の人から確かな情報を得るのが早道に違いなかった。確かにこれだけ流通網が発達した時代になると、いいネタは、小さな港町より大都会のほうに迅速かつ大量に集まるのが自然の理だ。 今や札幌で寿司を食べるほうが、外れのない時代になってしまった。だが、そうは言っても、これだけ多くの店があるのだから、一軒や二軒はないはずはないだろうとも思った。
 女主人に教えられた店は、小樽美術館にほど近い、明かりもまばらな暗い裏通りに面してあった。私の知らない店で、こんなところに、という意外な場所にそれはあった。店の前には数台の車が置ける程度のスペースしかなく、おまけに地味な看板や電光からして、外見には観光客相手の繁盛店には見えなかった。だが一歩店内に入ると、驚くほど大勢の客で賑っていた。空席は見当たらず、しばらくの間は、この店の盛況振りを見学するしかなかった。おそらくは中国か台湾からと思われる客も何組かいて、この店の評判がかなり行き届いていることが窺われた。
 三十分ほど待ってありついたお薦めメニューは、久し振りに食べたこともあって、寿司を味わう喜びを満たしてくれた。手頃な値段も合わせると、この店の繁盛振りには大いに納得がいった。一人前には十分な量をゆっくり味わい、寿司の町小樽にふさわしい名店での夕食に満足し、私は雪の舞う夜道を歩き出した。夜も八時を過ぎると、この町から人の気配は消える。とりわけ裏通りの静寂は見事なほどだ。小樽のことを知らない旅人なら、この余りの静けさに恐怖心すら覚えるかもしれない。そんな裏通りが、駅前を通る国道五号線に並んで港に至るまでに、何本も通っている。 点在する街灯の光が雪山に反射するせいか、闇のような暗さはなく、ほの暗いという程度で、舞う小雪も光って、これはこれでなかなかの情緒を醸していた。この時間になると、もう寄る所も考えられず、かといってそのまま宿に帰るのも惜しい気がして、私は大回りして帰ることにした。雪もちらつき、冷え込む夜分に、わざわざ遠回りして目指すところと言えば、あの場所以外にはなかった。
 八時を少し過ぎたばかりだというのに人気の絶えた通りは、大きく積もった雪に全ての音響が吸収されるかのように、ただ深閑として、ひたすら無気味に沈んでいた。裏伝いに夜の小路を行きながら、駅近くの繁華街であるはずの町に接して、これほどの静寂が潜んでいるのが不思議だったが、経済成長期に遅れをとって落伍したこの町の長い停滞からすれば、至極当然の静けさにも思えた。
 東京オリンピックの開催された昭和三十九[一九六四]年に、二十万を越えていた人口も、今や十三万人ぎりぎりのところまで落ち込み、回復の見込みはまったくないという。まさに斜陽の町と言われるにふさわしく、衰え退いて静まり返った裏通りを、私は早足で進んで行った。途中進路を変え、第一大通りを横切り、短い小路を通ると、都通りアーケード街に入った。さすがにここは裏通りのような暗さはなかったが、人気のないのは変わらずで、冷たい風の吹き通る通路になってひどく冷え込んでいた。天井に並ぶ電光の強い明かりが、このアーケード街の寂しさを照らし出し、ずっと遠くの方にまで続いていく物悲しさも際立たせていた。アーケードが途切れたところで都通りは終わり、駅から続く中央通りの向こう側が梁川通りとなって、私の生まれ育った稲穂町界隈がずっと続いていた。

小樽は港町で、巷ごとに売笑窟があった。…そのほかに小樽中央駅のすぐ下に、ホテル裏という私娼窟の一画があり…[伊藤整「若い詩人の肖像」より]

 ここに書かれたホテルとは北海ホテルのことだ。駅から港に続く中央通りと第一大通りが交わる角にあり、大正七年に建てられた北海道で最初の純洋風ホテルで、繁栄した古い小樽を象徴する建物だった。
 私より六歳年上の姉の高校時代には、「テーブルマナー」なる課外授業があって、このホテルで洋食を食べたという。さすがに私の時代にそれはなかったが、このホテルの名前は、子供心にちょっと別の世界に繋がっているような感覚があった。しかし、そんな豪奢で華やかなホテルの直ぐ近くに、ずっと長い間、私娼たちの生きる夜の世界が点在してあった。ホテルにほど近い梁川通りの駅側隣にあった静屋通りにもまた、昭和四十五年頃までは、その世界に生きる女たちが何人も立っていた。
 はるか昔の秋の日の午後、ふと遭遇したその場面を、私は決して忘れることが出来なかった。
 街の女の一人が母でもあることの驚き。竜宮湯の入口で見かけた、風呂上りの女の艶やかな後姿とその脇をはしゃぎ従う幼児。裏通りの女は、そこでは健気な一人の母親であり、目の前を、さも楽しげに手をつなぎながら行く二人の姿は、どんなに時間が経過しようとも、忘れようもない衝撃だった。
微笑ましい母子像と、母なる女が雪夜に立つ姿が激しく行き交い、無造作に突きつけられたこの現実に、若い私はただ慌てて彼女たちから遠ざかったのだ。小さな電燈の灯る裏通りの舞台で、夜な夜な演じられた無言劇のヒロインは、若い私に屈折した性の感情を溢れさせ、幼児と戯れるありふれた母の表情を浮かべて、また私を翻弄した。静屋通りとそこに生きた裏通りの華が、若者に深く刻んだ跡は、生涯消えることがないのだ。
 中学時代から高校時代にかけて住んだ家は、駅前を通る国道五号線と商店街の続く梁川通りに挟まれた静屋通りにあり、小路に面した立地で、向いはIという個人テーラーの家で、隣はAという染物屋だった。民家はこの三軒だけで、周囲には飲み屋が多く、市場関連の倉庫などもあった。ここは早朝の朝市の時間帯を除くと、極端に往来の少ないところだった。家から数軒下ったところに間口の狭い旅館があって、これはいわゆる連れ込み旅館だった。じめっとした陰気な外観の旅館で、ここで行われる性のやり取りのことを想像しただけでも身体は緊張した。
 女たちは、いつも数名が集って我が家の直ぐ前に立ち、この暗い静かな通りを行く男たちに声をかけた。「お兄さん、ちょっと」という親しげな呼び声は、たとえ小さなものであっても、この狭い通りでは大きくこだまのように響いた。雪の舞う冬の夜も、女たちは厚い派手なオーバーコートに身を包み、目立つ大きな傘をさして立ち続けた。除雪車にかき上げられた大きな雪山の前で、明るい色彩の傘の群れが、僅かに灯る電灯に反射する華やかな景色の中を、若き日の私は、クラブ活動で疲れ切った体をこわばらせてすり抜けたのだ。

 後年何度か訪れて、この通りがすっかり変わってしまったことはすでに知っていたが、それでもこの道に入ると、懐かしみだけではない、何かちょっと緊張するような感覚もあった。聳え立つ巨大なビルの駐車場に見下ろされた小さな建物は、みなひどくみすぼらしく見えた。外観は多少変わったが、昔住んでいた木造の家はまだあった。戦前に建てられた造りは、さすがにくたびれて見えるが、それでもまだ民家として人が住んでいるようだ。
 向かいのIさんの家やその隣にあった飲み屋は取り壊され、更地状態で車が一台置いてあった。当時あったのと同じ建物は見当たらず、みな小ぎれいな様子の民家に変わっていた。出前の寿司をよく頼んだ店もなくなり、ここも駐車スペースになっていた。引っ越した後、例の旅館を改装して営業を始めた居酒屋の大きな電光看板の明かりが、暗い小路をずいぶん明るく照らしていた。隠微な舘だった暗い旅館が、すっかり様変わりして、辺りを煌々と広く照らす光源になっていた。
 時は移り、様は変わって、あの当時を呼び起こすものはまるで残っていない。この界隈に、かつて夜の裏通りを飾った華たちがいたことを知る者も残り少なくなったに違いない。誰か知るものが、何かの形で残しておくべきで、それはここに生きた私の使命だと考えていた。そしてようやく、ここで繰り広げられた小さな人間ドラマを、短編「裏通りの華たち」[同人誌「清水丘二号」2004.6.30刊]として書き留め、それをきっかけに、以来ずっとこの小樽と自身の結びつきをテーマに書き続けたのだ。その小樽と私の物語は、昨年春、七年もかかって十九の章からなる随筆集「小樽ストーリー」としてようやく完結した。この物語を書き残せたことは、この町への、この通りへの、私からのささやかなお返しだと思っている。それでも思い返せば、書けずに挫け、投げ出したいという弱気の虫を何度も振り払い、とにかくこの物語を完成にまで導いてくれたのは、やはりこの町には何か磁力のような強いものが潜んでいるからだろう。摩訶不思議だが、間違いなく何かがこの町には宿っているのだ。

 半世紀も経って、当時のような妖しさはすっかりなくなった静屋通りは、ただ狭い静かなだけの路になって向こうまで続いている。デジカメの画面を見ると、バッテリー量が残り少なくなってきたことを示していた。そろそろここを去る潮時のようだった。昔と変わらずすっぽりと深い雪に覆われた通り一帯は、夜も更け冷気も降りて、夜の厚いしじまにひっそり沈んでいた。

 「かもめや」の朝食は、ホテルで出されるありきたりのメニューとは違い、昔ふうの和食で、お袋の味と言っていいものだった。
 昨夜寝る前に読んだ、備え付けの宿泊者ノートにも、この宿の朝食の美味さを賞賛している声が多かったから、ここの売りの一つが朝食であることは明らかだった。量も品数も朝食にしては充実していて、全部完食した後は、さすがに腹の張りを感じるほどだった。午後からは札幌に行かなければならなかったから、雪の小樽を味わうには、午前中の短い時間が残されているだけだった。
 私は、朝食がとても美味かったことを伝え、特に蘭越産というご飯の味を褒めた。北海道の米の味が昔に比べ格段に向上したことは分かっていたが、ここで食べた蘭越の米はそのことを証明していた。カウンターに置いてあったノートパソコンを借り、自身のブログを新しく更新した。北の旅に出ていることと、この宿に泊った記事を書き、女主人にもそのサイトを紹介した。またもう一つある同人誌サイトも見てもらい、そのうちこの旅のことを書くのでぜひ見て欲しいと言った。
 思いがけず出会ったこの宿と女主人のせいで、昨春終わったはずの小樽ストーリーは、尚も続いていることを予感させた。書くべきことはまだ残っていて、さらに遠くまで繋がっていくような気がした。この宿に出会ったことで、ストーリーの世界はもっと広がっていくように感じていた。九時少し前、色内にある「かもめや」を後にした。短い滞在にもかかわらず、この雪の季節にわざわざ小樽を訪れて得た幸運を噛み締めていた。玄関横に懐かしい橇があるのを見つけ、写真を撮り、また少し話をした。地元の大型店に売っていたのを買ったというその橇は、子供の時分、行商の母を駅まで迎えに行くときに使ったのと同じ橇だった。これこそ「小樽ストーリー」に出てきた懐かしい証拠の一つだった。背もたれの形が当時のものとは少し違っていたが、これに米の入った袋を乗せて、幼い私は、夜の雪道を母と帰ったのだ。最後の最後にまたうれしい発見があり、この宿に泊ったことを感謝した。私は女主人に改めて御礼を言い、狭い雪道を歩き出した。


 残り四時間あまりで回れるところと言えば、それは限られていた。さすがにレンターカーを借りる気にはなれず、徒歩かバスかの選択しかなかったから、この色内からだとせいぜい手宮方面ということになる。
 小路を抜け北運河まで出て、製罐工場と運河の雪景色を撮りながら歩いた。係留してある小型船はどれもみな厚い雪を被っていて、一人の旅人として眺める限り、この光景は素晴らしかった。汚れものが全部すっぽりと雪に覆われ、ただ純白の景観が際立っていて美しかった。運河の端を曲がり埠頭近くまで行き眺め渡すが、商船らしき船舶の姿もなく、この港の勢いのなさをはっきりと物語っていた。苫小牧、室蘭、釧路、函館、石狩、そして小樽というのが、北海道の港における貨物取扱量ランキングらしいが、全国的にみれば、近年の小樽港は、百位前後の下位でずっと低迷しているという。
 大人用の重い自転車でこの界隈を走り回った頃は、どの埠頭にも外国の大型船が数多く停泊し、埠頭を行き来する車や人でずいぶん賑やかだったのに、時は移り、経済の流れから取り残された港は停滞し、今はただ雪に覆われ、ひっそり静かに沈んでいた。
 運河の町で別れの写真を何枚も撮って、思い残すこともなくなったので、ここから離れ、錦町から手宮方面に向かった。曇り空だったが、幸い雪は降りそうもなく、何とか散策はできそうだった。バスターミナル付近にあった、同級生Hの営むコンビニ店が閉まっていた。時間からしてとうに開店の時間にはなっていたが、休業の貼り紙もなく、シャッターが下りたままだった。
 この町もまた長く低迷し、Hも苦渋の決断を下しての結果だったのだろうか。じりじりと迫り来た不景気の波が、代々続いたHの店を飲み込んで閉店させたのだろうか。周囲を見渡しても、何だかずいぶんと活気に乏しい寂しげな様子だった。
 数年前に会ったHの顔を思い出しながら、その前を通って手宮公園に至る坂を登り始めた。雪の坂道はひどく歩きづらく、真ん中の車道との境も曖昧で、ここを行き来する困難がすぐに身に沁みた。坂の町小樽の景観を支える地形も、暮らしの視線でみると、ずいぶん不便でその上危険だった。特に高齢化した町のことを思えば、この坂を、とりわけ雪のこんな坂道を、老人が歩くのは、危険に満ちた大仕事に違いなかった。坂の途中まで上り、手宮小学校に行くのとは反対方向の道を選んで歩き出したが、もうここまで来ると、車道も歩道も分からなくなって、両側から大きな雪の壁に迫られていた。もう少し行けば、いつもの撮影ポイントだったが、少し前から、デジカメの調子がおかしくなり、うまくシャッターが押せなくなっていた。おまけに、防寒靴を履いていても、深い雪にだんだん歩くのも困難になっていた。もうしばらくいて、この懐かしい公園の雪景色に浸りたかった。ここは高校時代、Mと何度か来た思い出の場所なのだ。

 瀬棚から転じて明治末に小樽に定住した祖父が最初に住んだのは、手宮ターミナルの近くで、その後手宮小学校の直ぐ前の高台にある家に移った。祖父はここに昭和三十年代まで住んでいたから、私が稲穂町に住んでいた幼少の頃、訪ねて行ったぼんやりとした記憶がある。それより後のハッキリした記憶は、祖父の葬儀でこの家に行くため、手宮に至る大通りを急ぎ足で行く姿だ。記録に照らしてみると、それは小学校一年の秋のことだ。子供の足では三十分以上もかかる遠い距離だったが、ふだんそこには何度も行っていたから、馴染みの通りだった。祖父亡き後、叔父一家が住んだ手宮小の前にあった家の地番は末広町で、そこから手宮公園は目と鼻の先にあった。桜の季節はここで花見をしたし、冬のスキーはここの林間スロープを親父に教えられて滑ったものだ。小樽の繁華街に近い稲穂町に住んではいたが、手宮の町は私にとって何か原点とも言うべき印象で深く刻まれていた。
高校に入って始めてガールフレンドが出来、彼女とのデートに手宮公園を選んだのは、私の心の歴史からすれば、いわば必然の選択だった。高島に住んでいたMと稲穂町に住んでいた私が、落ち合ってデートするには、この公園は最適の場所に違いなかった。小樽港や小樽の街全体を眺望できる絶好のロケーションにあった手宮公園は、その静かで落ち着いたたたずまいが好きだった。それに何より、栗と桜の大木が無造作に混在する豪快な雰囲気が魅力だった。

 雪の坂道はなんとか真ん中だけは通れるように除雪されていたが、その先にある植物園は冬季閉園中で、おまけに除雪された大きな雪の壁が、遠くの眺めを阻んでいた。カメラの調子は相変わらず不調で、これ以上粘ってもいい写真が撮れるとも思えなかった。曇り空の下、かろうじて向こうの港湾が望める木立の前で、どうにかシャッターを押し、数枚の画像が撮れているのを確認したところで、これ以上の長居を諦め、私はもと来た道を戻ることにした。
 雪の坂道に慣れたせいか、危い下り道も難なく降りられたが、やはりここを高齢の老人が歩くことは恐怖だろう。バスやタクシーの利用とて、そう気楽に乗れるものではないはずだ。道を下りながら、この坂の町が強いる苦難を痛感しないわけにはいかなかった。途中豊川町に抜ける道沿いの二階屋の屋根に、ごそごそ動くものが目に留まった。よく見ると老人で、しかも老婦が雪かき用のスコップで雪降ろしをしていた。
 見上げる高さの屋根には、かなりの厚みの雪が乗っていて、老婆はそれをいかにも鈍い動作で少しづつ落としていた。除雪したところにどっかりと腰をおろし、スコップの柄を握って、直ぐ前にある雪を落としている。余計なこととは知りながら、私は家に近づき、老婆に声をかけた。
 「おばあさん、気をつけないとね」、すると彼女は元気よく「大丈夫さ、雪留めがあるからね」と答えた。いい笑顔だ。とても美しい。
 「大変だね」「いつもやってるから、いいさ」「おばあさん、ところでいくつですか」「なんだい、ああ、七十八だ」「危ないから、気をつけてね」

 札幌に発つ時間が迫っていた。運河の町や手宮の町ともこれでお別れだ。こんな雪の季節にまた来ることがあるだろうか。
二十四時間に満たない短い滞在だったが、具合の悪いカメラでも、何とかいい写真は撮れたようだ。ずっと昔のように今年は雪が多く、私の中で定着している小樽のイメージに適っていたのも幸いだった。
 新たな心境で別の「小樽ストーリー」が書けるかもしれない。この気持ちを旅の土産に持って帰ろう。予想外だが、いい土産になると思った。
手宮バスターミナルに着くと、駅方面に行くバスがすでにエンジン音を響かせていた。私は急いでバスに乗り込んだ。

新小樽ストーリー

新小樽ストーリー

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 成人向け
更新日
登録日
2016-02-02

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