屋上の僕

 もうダメだ。こんな世の中、生きていても何もいいことは無い。
 僕はビルの屋上ですべてを嘆きながら煙草をふかしていた。たっぷりと煙を吸い込んで、ため息として吐き出す。白くたゆたう煙は、僕の肺の中で悲観や嘆きを少し含んで、それらを少しだけ空気の中に逃がしてくれるような気がした。
 それでも僕のおへその上あたりから、くつくつと滲み出てくる嫌な感情は、次の一口を吸う前に僕の中にたっぷりと溜まる。このままずっも煙草をふかして、このどろりとした嘆きが枯れるまで煙を吐き続けたいと思った。
 そうしてまた一本、灰皿に吸い殻が増えた。

 先週、僕の所属していた会社の経営難により、僕はお暇を頂く事になってしまった。
 もとよりそんなに大きくない会社で、赤字が続いていたという話は聞きていたが、僕にも生計というものがある。いざクビともなると、想像以上に辛い。それだけならここまで思いつめることは無かったかもしれない。
 問題はその先にあった。
 そのことで、将来を約束していた恋人にも、一緒になるのは少し考えさせてほしいと言われてしまったのだ。30歳まであと数年という働き手が職を失えば、恋人としてはまあ考えられうる言動なのかもしれない。
 しかし心にダメージを受け、余裕が無かった僕は激昂し、激しい口喧嘩の末同棲しているアパートを飛び出してきてしまったのだ。
 自分でも今思い返せば、流石に悪かったかもしれないという思いがしないでもない。
 それでも心の隅には、まだ彼女を責める情けない自分がいる。

 着の身着のまま飛び出してきたから、手持ちのお金だって大してない。家を出て数日は宛もなくふらふらと生き延びてきたが、これからもそうしていけるはずはない。
 僕は何もかもなくしてしまったのだ。残ったのは悲しみやら虚無感やらが混じった気持ちだけ。今からどうして普通の人生に戻れようか?
 僕はまた煙草に火をつけた。箱の中にはもう煙草は残されていない。
 めいっぱい煙を吸い込んで、ため息を吐く。
 この箱の煙草を吸い切ったら、そこの柵をヒョイと越えて身を投げてしまおうと思っていた。
 どうせこれから死ぬんだ。自分の肺になんか気を遣わなくていい。
 煙草がじわりじわりと惜しむように短くなり、ついにその時が来た。僕は吸殻を灰皿に押し付け、最後の煙を吐いた。
 失うものなど最早ない。あとは、まだ滲み出てくるこの感情のままに柵を越えてしまえば良い。
 僕は視線を灰皿から柵へと移し、一歩踏み出した。
 すると突然、屋内へと続くドアが壊れそうなくらい勢いよく開いた。
「よすんだ! お前はこんなことするような奴じゃない!」


……


 あれから十数年が経った。僕は立派なブランド物のスーツを身にまとい、各企業の御偉い様が集う立食パーティーに参加していた。
 豪勢な料理がテーブルに所狭しと並べられ、上品で豊潤な香りが漂う。参加者たちは皆、それらの料理を優雅に楽しみながら、会話に花を咲かせている。
 あそこにいるのはIT企業の最大手の社長さんだし、そっちにいるのは超有名な食品会社のトップ。かつてならお目にかかることなど考えもしないような面子が揃いに揃っている。
 僕はある会社の社長として、このパーティーに出席している。自ら立ち上げた企業であったが、時の運に味方され、短い間に目ざましい成長を見せ、中規模ながらも名の通った企業になった。人生、何が起こるか分かったものではない。禍福は糾える縄の如しだ。
 タバコとともに悲嘆を吐いて身を投げようとしていたあの時のことを考えると、この十数年での成功はまさに夢のようであった。
 僕はふと窓から外を見下ろした。新しく出来たばかりのこのホテルの最上階からは、この街が一望出来た。
 確かあの時のビルはあの辺だったか。あの時、息も切れ切れに屋上に現れ、僕を止めてくれたあのスーツの男が居なければ、僕はこんな成功が待ち望んでいることも知らずに命を落としていたに違いない。そういえば彼は、どうしてあんな人気のないビルの屋上にいた僕を見つけられたのだろう。
 何の気なしにあの時のビルを探すと、今も同じような佇まいで、変わらぬ場所に見つかった。屋上には、ぼーっとタバコをふかす男が1人いた。まるであの時の僕のように……。
 僕は腕にはめた時計を見た。もちろん年は違うが……あの日の、あの時間の15分前だった。

 ハッとした。
 僕は同伴の秘書に適当に言い訳をして、パーティー会場を飛び出した。驚いて道をあける従業員に詫びを入れる暇もなく、ただ走る。目指すはもちろん、あの屋上だ。
 思い過ごしならそれでいい。だけど、何故か僕はこうしないといけないという使命感に突き動かされていた。
 相変わらずボロっちいビルに突風のように入り込み、エレベーターも待てずに階段をかけ登る。久しぶりにこんなに走るから、すっ転びそうになりながらも、1段飛ばしで彼の元へ向かう。
 いよいよ最後の1段を登りきり、なだれ込むようにドアを開けて声を振り絞って叫ぶ。
「よすんだ! お前はこんなことするような奴じゃない!」

屋上の僕

屋上の僕

予め決まったフレーズを使う遊びで作りました 2000文字強

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-02

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