終わりの日
氷がコンクリートのように固く張り、池はスケートリンクさながらになっていた。今朝は今冬一番の寒さだ。植物たちも寒波の襲来におびえるように身を寄せあっている。寒さに身を寄せ合わなければいけないはずの人間たち。一人朝の散歩に出かけようとする男がいる。シン。彼は仕事前に必ず散歩をしていた。親に先立たれて、もう15年になる。妻はいない。家族という、灯火が欲しいと思ったこともある。縁があるならば、と思ううちに年月だけが、雪のように降り積もっていった。残ったのは長年の仕事で、使う暇もなく漠然と貯まっていったお金。そして、少し衰えた体だけだった。シンは、良く人生の終わりについて考えていた。友人とも、転勤を繰り返すうちに疎遠になった。今を悔やんでも、現状を変えようという強い決意も湧いてこない。河川を下る水のように老いが、少しずつ迫ってきていた。そして、その先には、死後という大海が開けているに違いない。
スポーツシューズを履くと、身が引き締まる。それは、寒さのせいか、それとも孤独のせいか、よくわからない。シンの頭の中に暗い想像が満ちる。ドアを開けると、隙間から強烈な冬風が、吹きこんでくる。いつもと同じ町が広がっている。ここに来て、もう5年になる。出世コースから外れて左遷された。ここが、最後の土地になるだろう。シンの中に土地への愛着はない。ここには、何もなかった。とても寂れた北国だった。まさに、落ちぶれた最後の後半生を、過ごすにふさわしい土地。そんなイメージだった。
シンは、いつもの散歩コースを、ゆっくりと歩く。風に負けないようにスポーツウェアを着ると、凛々しい戦士のように思えるのだが、表情を見ると、シンの顔は、明らかに敗残兵だったろう。歩数計をちらりと見る。まだ234歩。今日は一万歩はいきたい。寒さと闘いながら少し痛む足を前へ前へとシンは進める。体が岩のように重い。まるで重力が10倍になったようだ。そんなことを考えていると、シンは、いつの間にか散歩コースを外れて、見たこともない公園の一角に来てしまっていた。周りを見渡すと、静かな池と子供用の遊具、そして一人の男。じっと座って手に持った写真を見つめている。男はシンより年下のようだ。まだ白髪はない。健康そうでもある。ただ、その目は、肉体と対照的に、弱々しい光を放っている。男に魅入られるようにシンの足は止まっていた。その棒に似た足が、動き出そうという直前、男が顔を上げる。目が合う二人。「おはようございます」男の口が開いた。シンも声を出そうとするが、寒さで口が思うように動かない。「おはゆうございます」シンのたどたどしい言葉に、男は微笑する。とても悲しげな表情。
うながされ男の隣に座るシン。男は語りだす。
「俺は、もうすぐ死ぬんです。かなりひどい病気です。手術も考えたんですけど、成功する可能性はとても低い。俺は何で、こんな話を、あなたにしているんでしょうね。きっと、誰かに聞いて欲しかったんだと思います。すいません。あなたには、ご迷惑でしょうね。一つ心のこりがあって……。3歳の娘です。きっと大きくなる頃には、俺を覚えていないでしょう。見てください。可愛いでしょう?」シンは、写真を受け取り、見つめる。とても可愛らしい子供が写っている。耳の形にシンの目がとまる。「気づきましたか?」男は誇らしげに、シンに聞く。男の耳は先が尖っている。特徴的。まだ幼い娘とそっくりだ。シンの記憶がよみがえる。昔こんな耳をした女性がいた。「あなたの奥さんは、もしかして……」シンの言葉は宙に浮く。男は不思議そうな顔をしたが、それ以上聞こうとしなかった。「さようなら。ありがとう」男は、少し元気を取り戻したようだった。
とにかく歩く。何かから逃れるように、歩き続ける。
なかなか住宅地は終わらない。シンの下半身は切迫していた。寒さで、既に尿意は限界に達していた。とうとう、慌てて走りだす。どこかにトイレは?シンはパニックになる。もう我慢できない!熱い飛沫とともに、黄白の水を道端の草むらにぶちまける。「キャア!!」女性の声。シンは、恥ずかしさで真っ赤になる。一度走りだした生理。とどまるところを知らない。シンは、かろうじて「見ないでください」と訴えた。女性はシンをじっと見る。「あれ?シンさん?」ニット帽を深くかぶった女性は、シンを知っているようだ。事を終えたシンは、ズボンをきちんと正し、改めて女性を見る。「ルウさん!!」シンは驚いた。昔のシンの恋人だ。「こんなところで何を?」ルウの声は震えていた。「仕事の転勤でね。そういえば、ルウさんの実家は……」「そう。近所なの」力なく答えるルウ。「あなた……。どうして何も言わずに行ってしまったの?」怒りを帯びた声。うなだれるシン。「君に、言えなかった。『僕についてきて』なんて言えなかったんだ」「そう」ルウの顔は、寒さのせいか青白い。二人は、しばらく無言で立っていた。ルウは、何か言いたそうな仕草をする。シンは日課を思い出し、そわそわする。「どうしたの?」ルウが聞く。「散歩を続けなくちゃ」「そう」伏し目がちになったルウは右手をあごにあて考えこむ。シンは、足早にその場から歩き出す。「ねえ」シンは思い出したように、振り返る。ルウは、シンをじっと見ていたようだった。視線が重なる。太陽が雲を突き抜ける。光が辺りを照らす。「A公園は、どっちかな?」ルウはため息をつき、一瞬の間を置いて答える。「その道をずっと行ったら、A公園」指さす。再び雲が太陽を覆う。寒さの増したアスファルトをゆっくりと歩き始めるシン。すぐに上りになり、坂の向こうの風景は見えない。それでも、シンはルウの言葉を信じて歩き続ける。彼は、A公園につくのだろうか。
数年後、未亡人のルウは娘と一緒に現れた。二人を受けいれるべきか。簡単ではない。灯火が、やがてシンを焼きつくす業火にならないか?行方の知れない船出となる。ルウの娘は、ミミという名前だった。シンは手に入れた大切なものを奪われる夢をよく見た。よく泣くルウにも悩んだ。いろいろな感情がたまに爆発するのだ。導火線を燃やす火は、どこから来ているのだろう。わからない日々。シンの気持ちが、試された。ミミは、大きくなり、何も知らずに育った。
終わりの日