小樽ストーリー

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序章 小樽ストーリー 

 東京でのサラリーマン時代、辞書の編集などという硬い仕事に携わっていたが、これがけっこう性分に合っていたのか、実に面白い仕事で、ハードな日々ではあったが一向に飽きることがなかった。そのせいもあってか、東京を離れIターンで転身した後もまた再び編集の仕事に従事することになり、気がつくとすでに二十五年もやっていることになる。
 だが今やインターネットの時代、無料で利用できる便利な辞書サイトがあるため紙の辞書はすっかり売れなくなった。おかげで現在は編集の仕事も激減、風前の灯状態だが、かつて一九九〇年代はあれこれ新版の辞書が数多く発行され、大いに仕事があって忙しい時代だった。手ごろなパソコンと通信環境の発展が、田舎に居てもこうした作業を可能にしたわけだ。
 一般的に辞書というと、個性などというイメージとそぐわない印象があるだろうが、実際には辞書は個性の塊で、編集者の意図が相当盛り込まれたりしている。転身後十年目の頃、ある大手出版者の和英辞典の編集に関わっていた。高校生くらいが対象の和英辞典で、全体の用例は約八万ほど。この辞書の作業には二年くらい従事した。その間に編集を担当した「【あ】行」にある見出し項目には、私の個人的な想いを込めて、四例もの「小樽」がらみの用例を載せた。

   [哀愁]彼は哀愁をそそる小樽の夜景が好きだ
   [生まれ故郷]生まれ故郷は北海道の小樽です
   [運河]小樽運河
   [幼馴染み]彼女は小樽にいたころの幼馴染みだ

 おそらくそして間違いなく、こんなローカルな都市名を何例も載せた特異な辞書は他にないだろう。もちろん担当する私好みの用例を入れただけなのだが、それが違和感なく他の編集スタッフによっても受け入れられたということは、小樽という街のイメージがそれなりに普及しているせいかもしれない。  
 大都市神戸も横浜も、この辞書にはその名が一例も載っていないのに比べれば、小さいながらも小樽という街の認知度、許容度の高さがよく窺える。そう、やはりこの街は、他所に居るものにとって、とても心惹かれる何かをもつ、特別なところなのだ。
 私が小樽に生まれ、暮らした年月は二十年に足りず、今やすでに人生の半分以上を小樽以外の異郷で過していることになる。それにもかかわらず、小樽という町は相変わらず私に囁きかけ、時には私を激しく呼び止めるほどの勢いで迫ってくる。老いの感傷の成せる仕業か、とも思っていたのだが、そうあっさりありきたりの結論で小樽への想いを始末したくない気持ちも強くあった。
 小樽への望郷の想いを辿りながら、さらにその内部深くまで行くことはできないのか。そんな気持ちにとりつかれ、その気持ちの捌け口を求めていた。単に断片的で情緒的な思い出に浸るだけでなく、もっと深く、私自身の核ともいえるようなものを見据えてみたい、そんな強い欲求も湧き上がって来た。ここまで生きてしまうと、未来がそう長く続くものとのんびり構えてもいられないのだから、小樽への試みは、早急にそして着実に実現しなければならなかった。
この切迫した想いをもとに、私は小樽という街を主体に、私の辿った小さな物語を積み重ねてみた。小さな自伝史とも言うべきこの『小樽ストーリー』を書き表すことによって、もはや戻ることの出来ない我が小樽時代を、失われゆく記憶に逆らいながら呼び戻そうとした。だが、切れ切れの記憶の断片を修復し、何とかそれらを繋ぎ合わせ小さな作品集に纏めるために、予想以上に長い時間がかかったように思う。 
 この作品集の元になったのは、二〇〇三年三月刊行の同人誌「清水丘」創刊号に掲載した短編小説「引き裂かれた空の頃」(改題し「北運河」)で、翌年初夏刊行の「清水丘」二号掲載のエッセー「石山―鮮血の痛み」と続き、その他は断続的に発表された諸作品だ。そして今年になって書かれた新しい作品も何編か含まれている。
 当初は大まかなイメージはあったものの、全体の構想はまだ希薄なものだったが、小説やエッセーという作品内容の形態にこだわらず、まとまりのある形でようやく納得できるようになったのは今年になってからだ。最初の軽い想いからすれば、確かに長くはかかったが、機が熟してやっとここにたどり着いたのだと思う。幼少期から現在に至るまでの人生を、故郷小樽との結びつきの中で物語風に再構築するという企ては、失われ、失われつつある膨大な記憶の掘り起こしという単純な作業にとどまらず、そこにいた自分を抉り、今に繋がる己を探求するという困難な作業でもあった。そして当然のことながら、その結果は、読むに耐えうる一個の作品として結実させなければならず、いきおい、いつ終るとも知れぬ恐れに追われ、時間は徒に過ぎ、難渋し、停滞し、常に継続断念の危機と直面し続けることになった。それでも、なんとかここまで来ることができたのは、素人のもの書きとしてみれば、意志の力というよりは、ひとえに故郷小樽のもつ強い引力に引っ張られたせいだったのだろう。見えるものではもちろんないが、だが確かにそれは存在し、私は幸運にも今この時を味わっている。遠くにありて懐かしく故郷小樽を想いながら、自らの小樽時代を纏られた幸福を、今静かに噛み締めている。


第一章 幻のファミリー(手宮)

 生まれたのも稲穂町、育ったのも稲穂町。小樽駅に近い一帯が私の慣れ親しんだエリアだ。今でも、ここのどこそこに佇むと、半世紀近い遠い過去にもかかわらず、若き日のあれやこれやの懐かしい思い出が次々に途切れることなく浮かんでくる。稲穂町界隈は、我が人生に深く関わっていて、私の小樽体験の中核を占めている。
 一方、ここから少し離れた手宮の町も、住んでいたわけでもないのに、私にとっては因縁深いところで、なぜかとてつもなく懐かしい町なのだ。というのも、私の祖父も父も、明治から昭和にかけ長い間手宮に居住し、この町がホームタウンだったからだ。六人いた叔父や叔母たちもここで生まれ育ち、たくさんの従兄弟[姉妹]たちも手宮で暮らしていた。
 幼かった頃、高台にあった叔父の家に折々行った記憶があり、手宮のバスターミナルで降り、そこから父や母と手をつないで手宮公園に続く坂道を登って行ったシーンは、いまでも時々思い出す。手宮を象徴するこの坂や公園には多くの思い出があるが、中でも忘れがたいのは、冬になると、父が手宮公園で私たちに施したスキーレッスンのことだ。
 小樽のスキー場といえば、当時もすでに立派なゲレンデのある天狗山だったが、手宮生まれの親父にとっては手宮の丘が格好のゲレンデだった。もちろんそこはゲレンデと言ってもリフト設備があるわけでもなく、飲食できる店舗もない、木々の林立するただの小高い丘だった。だが私たちは、ひたすら汗をかき雪の坂を登り、栗林の間を抜けゆっくり滑り降りた。手宮ゲレンデで、幼い私は、スキーの基礎をみっちり仕込まれ、スキーというのは、ひたすら登るものだということを体得したものだ。
 祖父の住んでいた末広町のひどく大きな黒い家は、ただぼんやりと覚えているだけで、ここに私が入ったことがあるかどうかは定かではない。後年、教えられてそこが我が家の良き時代の住処だったことを知ったのかもしれない。七人兄弟[男五人、女二人]の長男だった父の人生は、この家で形成され、後に変転するまで手宮に住み続けたのだが、この大人数の家族が後々までつながりを持ち続けたせいで、私の意識の中にはいつまでも叔父や叔母や、その子どもである従兄弟[姉妹]たちが存在した。
 正月やお盆はもちろん、縁者の命日など、一年を通じてしょっちゅう互いの家を行き来し、その関係は子供心にも親密であることが理解された。当然、同年代のたくさんの従兄弟[姉妹]たちとのつながりも意識せざるを得なかったし、だれそれと比較される苦痛も感じなければならなかった。
 戦前、祖父の率いる我がファミリーにも、この手宮で豊かな時代があったらしく、父の経歴や言動にそれらしきものが感じられたが、戦後はずっと停滞し、祖父は末広町の高台にある家で、不遇を託ちながら昭和三十三年になくなった。菩提寺は真光寺で、法事のたびにここにはよく行ったから、そこで出会う大勢の縁者たちの姿は、ずっと後々まで脳裏に焼きついている。
 この手宮の地を訪れるといつも感じるのは、祖父や父が、そして叔父や叔母たちの生きた時代の大家族という面影で、これは核家族化した今からは決して想像もできない、なにかひどく重々しいものだ。父が長男だったせいもあるのか、兄弟縁者が大きな塊として強い繋がりの中で存在したことの重みみたいなものを、私は手宮の町に行くたびに感じるのだ。
 小樽を離れてから随分と時間が経ち、叔父や叔母の多くもなくなり、従兄弟[姉妹]たちとも疎遠になってみると、あの手宮の町にあった我がファミリーの絆とは、そもそも何だったのかと不思議な感覚に包まれて思い直すことがある。今ではこんなにも希薄になってしまった、その名残の関係を思い起こせば、手宮の町に繋がる幻のような大家族のことが少しは懐かしく思えたりもする。


第二章 鮮血の痛み(石山)

 遠い記憶には二つの場面があった。
 おそらくは父と思われるその背中に負ぶさって、五才の私は激しく揺れながら走っていた。多量の血を見た恐怖に私は動転し、泣き叫んでいた。もう一つはこの背中の場面につながっていた。幼友達のヨッチャンに抱きかかえられるようにしながら、私は額からだらだらと血を流して坂をよろよろと降りていた。人生で最初で最大の流血の惨事は、鮮血と強い振動の衝撃で幼心に刻印されて以来、いまだに私の脳裏から離れることがない。
 角に拓殖銀行色内支店のあった広い坂道は石山に続いていた。さほど急な勾配ではなかったこの坂道は、普段は近隣の素人野球人たちの格好のグランドになっていて、家々の立て込んだ狭苦しい町の中にあっては稀な開放的な空間でもあった。
 その坂の上に石山はあった。石切り場なのか、資材置き場なのか、野原がいつのまにかがらくた置き場のように変わった場所の正面に、ごつごつした地肌の大きな岩山が切り立っていた。遥か見上げるほどに高く大きく感じてはいたが、一番上まで登ったこともあるから、実際の高さは案外低かったのかもしれない。
 石山地区の手宮側の一角に、先端の尖ったちょっとした岩山があって、当時その上で遊んでいた児童が転落し死亡した事故があった。大人たちは、このあたりの危険性を、その事故を引き合いにして口を酸っぱくして子供に聞かせていたので、子供心にもこの一帯はなんとなく不気味な感じがしていた。石山の周囲は野原のようでもあったが、そこかしこに大きな石が散らばっていて、子供の遊び場としてはかなり危険なところでもあった。バラ線と呼ばれた有刺鉄線で囲われた区域もあった。
 蝶々採りに夢中になった私は、張り巡らされていたバラ線が見えず、気がつくとその先端の一本がちょうど眉間の真ん中に突き刺さっていた。その瞬間の意識がどうだったのかは記憶にないが、顔に流れる血を見てから泣き喚いたに違いない。痛みというより、初めて見る異様な鮮血の恐怖にショックを受けたのだろう。自営業の父が在宅したのは幸いだった。幼馴染みのヨッチャンに抱きかかえられながら帰宅した後、父の背に揺られて、近くの外科病院に急行した。傷は思ったより浅かったが、あとわずか数センチ、どちらかにずれていたら失明したかもしれなかった。『お前は運がよかった』父はその傷を指して、よくそう言った。
 眉間に刻まれた傷跡は、中学生の頃までは見た目にもはっきりとわかるほどで、ちょうどひらがなの「と」の字形に盛り上がっていた。そのせいで、父は私を「との字の男」と呼んでよくからかったりした。小学生の頃は、その傷をクラスメートから珍しいもののように言われることもあったから、目立つ傷跡が随分と気になったりしたが、成長するにつれ、いつのまにか傷は見た目にはほとんどわからなくなっていた。
 切り立った石山には、大きな洞窟がいくつかあって、昭和も三十年代にはまだ人が居住していた。今ならさしずめホームレスと呼ばれる住人が当時の石山には存在した。リヤカーを引きながら、そこの住人が出入りする姿もよく見かけた。見るからに粗末な風体の彼を見る時、大人たちの発する「コジキ」という言葉の怖い響きと相俟って、自分とは別の世界にいる人間を感じたりした。考えてみれば、戦争が終わってからせいぜい十年しか経っていなかったのだから、復興できない人や場所が周囲にあっても一向におかしくはなかった。新しい時代に移ろうとする時に、まだこの地には停滞と混沌の名残が色濃くあった。
 危険や怖さがあるからこそ近づくその心理は今も昔も変わらない。子供の場合はなおさらのことだった。
 ごろつきの少年たちにたかられたことがあった。キヨチャン、ササクンと石山で遊んでいた時、何人かの悪童に付き纏われた。普段見かけない連中だったから、私たちの住む地域の少年ではなかった。ササクンは毅然として悪がきたちの要求を拒否し、一人帰宅したが、私とキヨチャンはいつまでも彼らの食い下がりを拒絶できず、持っていた幾ばくかの金を渡す羽目になった。睨め回し、絡み付いてくるような子供らしからぬ彼らの挙動に、幼い私は抵抗する意気地がなかったのだ。この時の体験は後々まで私の中で尾を引いた。己の性根にある弱い人間を見てしまったショック。子供心にも、その事件で受けたダメージはけっこう大きかった。ササクンの断固とした後姿は今でも思い起こせるほどで、それに比べ、自分が勇気のないだらしない人間だという感覚がずっと残っていた。
 石山は確かに安全な場所ではなかったが、近所の子供たちはよくここで遊んだ。当時は雪が多かったから、ちょっとしたスロープもあり、石山地区は冬には地元の子供たちの手頃なスキー場にもなった。小学校二年の時、私はこのゲレンデでスキーをしていて転倒、動けなくなって兄貴にかつがれて帰ってきたことがあった。軽い捻挫だけですんだが、この足首を痛めた事故以来、私は正座することがひどく苦痛になったし、スキーに対する強い拒否反応も生じた。もんどりうって雪の斜面に叩きつけられた時の恐怖心を長い間払拭できず、学校でもスキー上手のクラスメートたちに圧倒され、冬のスキー授業は本当に憂鬱だった。校舎の背後に三角山という格好のゲレンデがあったせいで、冬のスポーツはスキーと決まっていた中学時代の体育の時間は、ことのほか気が重かった。その反動なのか、スキーに対する屈折した想いの捌け口を、私は当時小樽ではマイナーなスポーツだったスケートに求め、冬場にスケート場に変身する桜ヶ丘球場にはよく通った。高価だったスピードスケート靴を、なけなしの貯金をはたいて買うほど入れ込んでいたから、その上達ぶりも早く、ゲレンデで味わった苦痛をリンクで解放していた。スキーのメッカに生まれ育った小樽っ子が、スキーから逃げ、スケートに救いを求めていたというわけだ。

 後年小樽を離れ、信州のゲレンデで気楽に滑ることを覚えてからは、スキーの楽しさを知るようになった。今は子供とスキーを楽しむ余裕もでき、この年齢になってからスキーが随分うまくなったような気がする。斜面を滑り降りるスピード感に快感を覚え、年甲斐もなく難しいコースに挑戦する勇気もいつのまにか身についていた。それでも毎年スキーに行きゲレンデに立つ時は、あの石山で転倒し味わった恐怖と挫折感のことが脳裏をよぎるのである。
稲穂町側から手宮方面に抜ける近道にもなっていたため、私にとって石山は馴染の場所だったが、眉間の傷といい、捻挫といい、その上たかられて自身の情けなさを思い知るなど、この場所には苦い思い出ばかりが詰まっている。


第三章 熱狂する観客(大和館)

 後年になってその場所を見つけようと、いろいろ探し回ったが、どうにも当時の雰囲気を残す場所は見つからなかった。覚えているのは、稲穂町のどこか、狭い小路を下った右側にあったということだけだ。道路は舗装されてなく、いかにも場末の空気が感じられた。戦後十年経った小都市小樽の町はずれの一隅にあった大和館。幼少の頃、私はここで多くの時代劇を観て育った。
 まだテレビ文化が台頭する前の昭和三十年代、映画は全盛期を迎えていた。この時代に生きた私にとって、映画は幼い頃からの馴染の友達のような存在だった。片岡千恵蔵、大友柳太朗、月形龍之介、市川右太衛門、大河内伝次郎、大川橋蔵、中村錦之助、嵐寛寿郎、近衛十四郎、東千代之助、桜町弘子、大川恵子、丘さとみ、花園ひろみ、千原しのぶ、三田佳子などなど。銀幕を飾るスターの名前は、主演級だけでなく脇役の名前ですら、今も容易に思い出すことができる。
 家の近くにあった大和館は、東映系のチャンバラ映画専門のいわゆる三番館で、三本立ての安価な大衆向けの映画館だった。昭和三十~三十六年には、小樽の映画館は二十三館もあった、と記録されているほど映画は娯楽の主流だった。テレビ文化の台頭につれ、急速にその勢いを失い、ついに平成七年、小樽の街から映画館は消滅したというが、幼少期は、とにかく娯楽の中心には映画があり、私の場合、それは東映の時代劇ということにほかならなかった。親父に連れられ、休日にはしょっちゅう大和館に通った。狭い館内はいつも込み合っていて、立ち見ということも珍しくはなく、ムッとするような人いきれに満ちていたが、映画の中に入り込むと、そんな臭いもすぐに忘れ、ただその映像の世界に見入っていた。三本立てともなると、時間に合わせて入場するということはなく、上映の途中から入り、その映画の見始めのあたりまでくると席を立つ、そんな感じだった。
 義理と人情、悪と善、粋と不粋など、時代劇の中核に据えられた倫理が、子ども心にも映像からそれとなく伝わってきて学ばされた。派手な立ち回りに心踊り、時代の価値観を違和感なく知ることになった。
 映画は、もちろん架空の世界の作り物のお話ではあったが、そうした抽象の世界への嗜好があることを体感した。銀幕の中に、主人公のだれそれがさっそうと登場するや、観客席から声がかかったり、大きな拍手が沸いたりする雰囲気は好きだった。ここに集う大衆は、明らかに娯楽の映画を欲していて、その強い欲求が、暗い館内に充満していたのを、幼い私はいわば肌で感じ取っていた。それはたぶん時代の空気にも通じていて、観客が熱狂する大和館の熱い空気は、エネルギッシュなあの時代を端的に物語っていたのだと思う。
 昭和三十年代の時代劇、「旗本退屈男」(市川右太衛門)、「水戸黄門」(月形龍之介)、「若さま侍捕物手帖」「新吾十番勝負」(大川橋蔵)、「一心太助」「宮本武蔵」(中村錦之助)、「丹下左膳」(大友柳太朗)、「柳生武芸帳」(近衛十四郎)などは、小難しい内容のものではなく、勧善懲悪の単純なものが主流で、人物の内面を深く描くというより、賑やかなチャンバラ活劇というものだった。それでも少年にとって、この賑やかな映画群に親しみながら、非日常の時間・空間に遊ぶことの心地よさを十二分に体験した。私はここにいて限りない幸せに浸っていた。その感覚は理屈でどうこう説明できるものではなく、ただ存分に幸福だったのだ。
 年を経て、いろいろ学び、知恵もつき、理屈を捏ね回すようになると、そんな感覚からいつの間にか遠ざかった。成長するということは、ある意味でひどく哀しいことなのだと思う。親父の手に引かれ、連れ立ってこの小さな空間に出向き、そこで活劇の世界に入り込み、時間を忘れる境地に至る。もし親父の懐に余裕があれば、帰りにちょっと蕎麦屋にでも寄って、美味い蕎麦を腹一杯啜ることだってある。大和館と時代劇映画が幼い私にもたらしたものは、後の人生では決して味わえない、ささやかだが無類の幸福の極みというものだった。


第四章 子供の仕事(小樽駅①)
 
 子供にもできる家の仕事。雪かき、雪投げ、薪割り、煙突掃除、買い物、掃除、‥。ちょっと思い出しただけでも、いくらでも挙げられる。幼い小さな力でも、家にとっては大きな戦力にもなる。私は末っ子だったが、男の子ということもあって、それなりのことは手伝わされた。家事のあれこれに関わりながら、家政のことを肌で感じ、そして考え成長した。
 両親は共稼ぎだった。父は洋品、母は和服を商い、店舗は持たず行商していた。小樽市内で商売する父とは違い、母は小樽から離れた農村にまで行き商いをしていた。小樽から札幌方面へ汽車で(当時)二時間半ほど行くと幌向[ほろむい]というところがある。稲作地帯にある典型的な農村だった。ちょっとした縁があって、母はここで長いこと商売をしていた。
 朝早い汽車で小樽を発ち、帰りはいつも暗くなってから帰宅した。幌向駅前の馴染みの店に自家用自転車を預け、これに乗ってさらに奥地の栗沢[くりさわ]周辺まで通った。この地域から一番近い町は岩見沢市で、ここには衣料品を扱う店舗やデパートもあったが、栗沢周辺には適当な店はなかった。母はこの近辺に住んでいた妹のつてで、衣料品や和服の行商を始めたという。今とは生活形態も考えも大きく異なり、農民たちは、普段気軽に遠くの店に買い物に行くことなどできなかったが、時代の変化に伴い、購買意欲は高まっていった。
 そんな潜在的な需要に対して、直接農家にまで種々の品物を運んで行く行商人という商売が成り立っていた。昭和三十年から五十年[一九五五~一九七五]にかけ、時は日本の高度経済成長期、農村部でも貨幣経済が浸透し、購買力も高まっていた。ところが、野良仕事だけでなく、家政全般を担う農家の主婦は極めて忙しく、遠くにある店まで買い物に行くことは簡単ではなかった。母は農村のそんな境遇にあった主婦をターゲットに積極的に商売をした。
 自ら主婦でもある母の感覚は、農家の主婦の欲求、要望を鋭く捉え、母の商売は大いに繁盛した。といってもその労働の過酷さは容易に想像できる。頑強というわけでもない体躯の母にとって、雨の日も風の日も、あるいは雪の日ですら、重い荷物を自転車や雪橇に付け遠距離を回って商うというのは並大抵のことではない。だが、母はこの厳しい商いを長い間やり続け、家の経済をしっかり支え、四人の子供を育てた。
 貨幣経済が浸透した、つまり現金を自由に使えそれで商品を買える状況。今の感覚すれば極めて当たり前のことだが、半世紀前の日本、特に農村部では、それはそう自明のことではなかった。現金の代わりに米や農産物が貨幣の代わりをしていたのだから。  
 母の商売にとっても、必ずしも現金経済が浸透していたわけではなく、しょっちゅう米がその代わりをした。着物一枚分の反物が、何キロかの米に代えられた。セーターの一枚が何キロかの小豆に代えられた。そしてその産物を母は小樽まで運び、駅から自宅までの途中にある米屋に行き現金化した。交換レートはそれなりのものができていて、この店で農産物が金に換えられた。当然我が家の自家用飯米は、農村で物々交換された米だった。町に住む我が家は、半世紀前から産直米を食べていたというわけだ。
 ここで、小学生の私の出番が来る。特に雪の積もる冬の夜に仕事がある。母が米を幌向から運んでくる夜、私は夜の七時頃、小さな雪橇[ゆきぞり]を押して、小樽駅まで母を迎えに行く。橇を外に置いて、天井の高い小樽駅の改札口まで行き、私は荷を背負った母が向こうの通路からやって来るのを待ち受けた。
 この駅舎、昭和の初めに建てられた鉄筋コンクリート造りの近代的駅舎で、まだ小樽の町に勢いがあった名残とも言うべき立派な建物だ。幼い私にしてみれば、大人たちの大勢行き交うこの大きな建物に近づき、その中に入るというのは、何かちょっとした冒険のようで緊張感があったことを覚えている。そんなところに分け入って、私は母の来るのをじっと待っていたのだ。他の行商人も多く往来する構内で、遠くに母の姿を見つけたときはいつもうれしかった。私の方を見る母の笑顔を見たとき、私は大きく安堵したものだった。

 雪の上を滑る橇は子供でもそれなりに扱える便利な乗物だ。背凭れがある木製の小さな橇だが、遊びにも、またちょっとした荷物の運搬にも使えた。母が運んできた米(一袋なら三十㌔くらいか)を駅で橇に乗せ、これを二㌔ほど離れた稲穂町にあった家まで運んだ。一日のきつい労働の終わった後、さらに重い米を背負って家まで雪道を歩くことを思えば、この橇の果たす役割は大きい。私は橇遊びの延長気分でいつもその米を運んだ。姉たちもこの仕事をやったはずだが、私はこの橇仕事がけっこう好きでよくやった。寒空の下を白い息を吐きながら夜道を行き、米を運んだ。途中、米屋で荷物を降ろし荷台が空いた時などは、私がこれに乗り、母に押してもらって家まで帰るなんてこともあった。遊び半分のことではあったろうが、子供ながらに家の仕事をしていたのだ。そしてそのことを通じて家の実状を理解していく。幼いというハンディはあったにせよ、私が子供だった頃は、こんなふうに生活の中にいつも労働があった。


第五章 父のくれたもの(色内市場)

 市場には生活の匂いがある。それは同じような機能を果たす今風のスーパーマーケットからは決して感じられない、地域の人々の暮らしが発する体臭のようなものだ。
 中学のころまで住んでいた家の近くには、いくつか市場があったが、その中でも色内市場は、家から五分という近距離にあり、我が家の生鮮食料品は、専らこの市場で購入していた。
 駅前にある大きな中央市場に比べるとその規模はずいぶんと小さかったが、それでも二十軒ほどの小さな店舗が並んでいて、魚、野菜以外にも天ぷらや煮物などの惣菜を扱う店もあり、色内市場は、我が家の食の営みにとってはなくてはならない存在だった。
 私は買い物の用事を言いつけられて、しょっちゅうこの市場には出入りしていた。またあちこち行くための抜け道にもなっていたから、ここを通ることは多く、幼い頃からこの市場の匂いには馴染んでいた。
 近くにあるということで、この市場には、同じ学校に通う生徒の親が経営する店が何軒もあった。買い物に行くと、魚屋の店頭にいる上級生のSが、いかにも慣れた口調で『らっしゃい、今日は何にします』などとニヤリとしながら言うと、こっちのほうが驚いて、どぎまぎしたりすることもあった。学校を離れ店にいるSの姿は、もう幼い学童ではなく、一人前の商売人に見えて、子供の使いでやってきた私は、大人びたSを前にすると、ひどく頼りなげな気分になったりしたものだ。Sの住居は市場の直ぐ前にあり、玄関の戸を開けると、暗い土間全体に魚の臭いがして、暮らしと仕事がそのままつながっていることが幼心にも感じられた。
 天ぷら屋のTの店もひいきにしていた。分厚く大きなサツマイモの天ぷらの甘みとボリュームは、今でも容易に思い出せるほどで、その美味さも格別だった。
 あの頃は今に比べると、食べることがはるかに切実で重要だったせいか、食卓と近所の市場が密接につながっていることは、幼い子供でも生活感覚として理解していた。そしてそのことは、旬ということを意識させ、市場の店頭に盛られる初夏のイチゴや盛夏のエダマメを目にしながら、町っ子であっても季節の匂いを吸っていたのだと思う。色内市場が身近にあったせいで、暮らしと食材のつながりを、子供の頃から肌で感じていたような気がする。それに私の場合、父が極めて主夫的であり、この市場と深く関わっていたことが、そんな感覚を育てるもう一つの原因だったのだろうと思っている。
 父と言えば、死んでからもう三十年にもなるのだが、今でも台所の前に立ち、料理を作っているその姿をよく思い出す。素晴らしい献立が食卓に並んでいたという記憶はあまりないが、煮魚、焼き魚、刺身、煮物、青物のおひたし、酢の物、豆料理、漬物などからの組み合わせで、海産物の豊富な港町小樽にふさわしい魚中心のシンプルな和食メニューが多かった。
 夫婦共稼ぎで、特に母親が行商で市外に出かけることが多かったせいで、普段の食事を父が準備することは珍しいことではなかった。父は仕事の帰りによく色内市場に寄り、食材を調達してから帰宅し、短い時間で手際よく調理したものだった。市場には、商売を営む父の顧客の店もあったから、単に近くにあるだけでなく、そこはお互い様ということで、ここを利用することが多かったわけだ。
 料理する父親のせいで、私の場合は、「お袋の味」として我が家の味を記憶してはいなくて、「親父の味」としての印象のほうがずっと強く残っている。
 父はどんな人間だったのか、と今改めて問うてみても一向に明確な答えは出せないのだが、台所で動き回る父の姿以上に父を的確に表す言葉はないのかもしれない。最近ではそんなふうに思うようにもなった。親の後ろ姿を見て子は育つ、とは確かな格言で、台所にいる父を見ながら成長したせいか、私は男が料理や家事や育児をすることにまったく抵抗がなく、学生時代から三十年もの間、自ら率先して家の仕事を担ってきた。「男も家事をする」という父から無言で受け継いだ心構えは、現在の生活においても大いに役立っている。だから今でも私の料理メニューには、父と同じものがいくつもある。それは、手のかかる大層な料理ではなく、簡単に作れてしかもとても美味い、というものばかりだ。
 その中の一品に枝豆ご飯というのがある。これは何のことはない、旬の枝豆を茹でて、茹で上がったら、実だけをほぐし、これを軽く塩もみするか、若干の醤油をかけて、炊き立てのご飯のうえにたっぷりと乗せて食べるだけのものである。料理というにはあまりにシンプルすぎるが、この美味さは絶品としか言いようのないものだ。夏の暑さが食欲を減退させる季節には、この枝豆ご飯の威力は絶大である。薄緑色の鮮やかな枝豆が食欲を刺激すること請け合いで、これに旬のキュウリやナスの糠漬でもあれば言うことはない。父の好きだったこの枝豆ご飯は、私に受け継がれ、そして私によって、三人の子供たちにもその美味さが確実に伝えられた。
 人生の不思議な縁で、街の暮らしを離れた私は、三十年近くも信州の田舎で農的な暮らしを営むようになったが、その間も私は野良と台所を直結させながら、父親仕込みのシンプルでありながら十分美味しい食生活を心がけてきた。そのせいか成人病に掛かることもなく、また太りも痩せもせず、野良仕事を楽しみながら、しかも食べることも楽しむという極めて快適な農的人生を過ごしている。

 その昔、夜の銭湯帰りに、父はちょっと蕎麦屋に寄って一杯やることがよくあった。小学生の私は、父がうまそうに酒を飲んでいる隣で、蕎麦を啜りながら、風呂上りの至福の時を過ごしたものだった。あれから四十年、田舎暮らしの私は、自分で栽培し、自家製粉し、そして自ら打つ極上の十割蕎麦を腹一杯食べながら、あの頃父と一緒の蕎麦屋で味わったのと同様の幸福な時間に浸っている。遠い昔に亡くなって、今ではその顔を思い出すのも困難なっているというのに、幼心に刻印された父の姿やその好みが、今なお私の中で甦り、私の人生とずいぶんと重なるものがあるのを知るにつけ、それは父が私に残してくれた貴重な贈り物だったのだと思わずにはいられないのだ。


第六章 越境者たちとの遭遇(色内小学校)

 坂の中腹にあった色内小学校は、昭和三十一(一九五六)年大火に遭い、翌年秋新校舎が出来た。私はその翌春の昭和三十二年、まさに新品の学び舎に入学した。ピカピカの鉄筋コンクリートの、当時としては最新型モデルの校舎で、家から歩いて十分くらいの近距離にあった。正確には分からないが、校区の最長距離は、児童の足でせいぜい十五分程度以内だったと思う。要するに、この学校に通う児童たちは、極めて狭い範囲の近接する地区の顔見知りの面々だった。同級生はもちろん、同学年生や上級生下級生は、親しくはなくても、知り合いではなくても、どこそこに住む、見たことのある生徒たちばかりだった。
 そんな訳だから、他校や他校の生徒とのつながりはほとんどなく、私たち小学生はいわば「井の中の蛙」状態で日々暮らしていた。学校から離れた普段の暮らしの中でも、校区の外に気楽に頻繁に出かけることもなく、小学生の生活範囲は今から思えばひどく狭く限られたものだった。その平穏な日常が続いた小学生時代もあと半年ほどで終ろうとする秋のこと、予想外の大事件が起きた。
 昭和三十八年九月、手宮小学校が消失し、新校舎ができるまでの間、児童たちは分散し、離れた他の学校に通うことになり、我が色内小学校には、手宮小の上級生の一部が移ってきた。学校の施設を流用したり手を入れたりして、そこが手宮小の生徒たちのクラスになった。クラスは当然別々だったが、異質な雰囲気をもつ児童が大挙して移ってきたことは、狭いながらもぬるま湯のような安穏な日々を過ごしてきた私たちに、何かしら張り詰めた感覚を与えることになった。この質の異なる雰囲気をどう言い表すのかはなかなか難しいことだが、地域性ということは当然あるはずで、色内小の生徒たちが醸す匂いや色合いとは少し違う何かを彼らはもっていたのだと幼心に感じたのだろう。もちろん、単に相手を知らないということが、余計にそうした印象を強め、一種の緊張感を生み出したのかもしれない。
 秋の終わり頃、そんな二校の友好を図る意味もあってか、選抜対抗野球試合が行われた。当時六年生で野球小僧だった私もそのメンバーに選ばれ、主戦投手として参加した。これまで、校内野球や校区の分団野球など、試合経験はけっこう豊富だったが、他校との試合は初めてのことだった。そのスタイルや力量がまったく分からない相手との戦いは、普段にはない緊迫感があり、負けられないという力みもあってひどく興奮したことを覚えている。
 試合は白熱し、最後は私の打ったショートゴロを相手野手がエラーしサヨナラ勝ちした。劇的な美しい幕切れではなく、あまりにしょぼい結末で、私自身このエラー勝ちには釈然としなかったが、とにかくも勝ったことでチームは盛り上がり、私はチームメイトに胴上げまでされた。
 勝ち負けはあったにせよ、スポーツのもつ普遍的な力を利用したこのイベントによって、二校の生徒たちに多少の友愛の情がもたらされたように思う。私よりずっと体格のいい四番バッターの…君が、私の投げたへなちょこカーブで三振を喫したときの歓声や、彼が私の方を見てニヤリとした光景は、はるか昔のことなのに、今でもありありと甦る。あの秋の一日に起きた、別の世界にいた越境者たちとの出会いの体験は、その後中学、高校と進み、校区を広げ多くの異質な個性たちと巡り合い、その関係の中で鍛えられるための最初の第一歩だったのではなかったか。高台の狭いグランドで追いかけた白球や歓声のイメージは、半世紀も経つというのにくっきりと脳裏に焼きついて離れない。


第七章 目覚めのころ(竜宮湯①)

 最後に父と竜宮湯に行ったのは何時ごろのことだったろう。そんなことを覚えているはずもないのだが、父と行った銭湯で強く記憶に残る場面はあり、それを境に何かが変ったのだと思っている。 洗い場の鏡の前に腰掛け、二人並んで体を洗っている時、突然私は勃起した。定かではないが、小学校の高学年のころだったろうか。うろ覚えの記憶の中では、まだ陰毛の生え揃う前だったような覚えがある。下腹部の異様な緊張と見慣れぬ棒のようなものを父に見られまいと、私はタオルで隠した。それはとっさの判断で、なぜそうしたのかは自分でもよくわからなかった。学校の授業でこの種の性的変移について詳しく教わった覚えもなかったし、おまけに、はなはだ遅れた子供だったせいもあって、それは事前の準備などなしの、まったくの突発事件で、慌ててタオルで隠すのが精一杯のことだった。
 その時、父が息子の異変にどう反応したかは、うろたえていた割には何故かはっきりと記憶している。隣にいた父が私に言ったのは、今思い起こしても滑稽極まりない言葉だったからだ。
 『水をかけて冷やせ』
 私は言われたおりにそれに水をかけ、そのせいかどうか、程無くして昂ぶったものも沈静化したが、そのことがあって以来、父とは一緒に風呂に行かなくなったような気がしている。いや、実際には父とその後も一緒に行ったのかもしれないが、自分の中では、何かが間違いなく変化し、父と風呂に行くという、それまで当たり前だったことが、そうは思えなくなったことは確かだ。その一件があってから私の気持ちは変り、それが性的な生理的な原因のせいだとその後もずっと思っている。
 当時、内風呂というものには馴染がなく、町の暮らしでは銭湯文化が隆盛だった。私の住む家の近くには竜宮湯と柳川湯があり、駅近くの国道沿いに稲穂湯があり、色内町の電気湯や少し遠いが砂留町には砂留湯もあった。私や家族はもっぱら、竜宮神社近くの国道五号線沿いにあった竜宮湯に通っていた。どの銭湯でもそうであったが、竜宮湯の天井が高く、広い脱衣所の壁にも、数多くの映画ポスターが賑やかに貼られていた。
映画文化が盛んな時代の小樽には、封切館、二番館、三番館など、駅周辺の稲穂町だけでも五、六館はあったから、壁に貼られたポスターを見るだけで邦画、洋画の別世界の出来事に想いを馳せることができた。
 そんな中でも、とりわけ『沈黙』(一九六四年公開、監督イングマール・ベルイマン、主演イングリッド・チューリン、グンネル・リンドブロム)のポスターは私には衝撃だった。その頃の銭湯に、成人向き映画のポスターが貼られるということはなかったから、壁のポスターは一般映画のものだったが、薄い下着姿の髪の長い女性が、膝をついて胸を反らせて上をむいた大きな姿が全体を覆っていたそのポスターには目が眩んだ。写真の中の肉体が放つ妖艶さに魅了された。身体の奥深くに生じた感覚は、それまでに感じたことのなかったものだった。
この感覚をどう表現すればいいのだろう。やや説明的になってしまうが、生理現象としての肉体的な変異とはまた別のものに違いない。それは、ある対象を前にして、精神と生理と肉体が同時に強く反応して起る現象とでも言えばいいだろうか。抽象的に言えば、いわゆる性的反応というやつだろう。小さな理性では御することのできない内部の感覚に引きずられるように、私はこの映画の上映期間中は、ポスター見たさにいつもより多く竜宮湯に行ったほどだった。
 ずっと後になって、大学生のころ、実際に私はこの映画を見たのだが、その時はむしろこの映画のもつ神的なニュアンスを知的に分かろうとするといった、いかにも頭でっかちの学生的な反応をしたことは覚えている。その映像体験は、はるか昔、幼い私が身体中で感じたあの初めての興奮とはおよそかけ離れたものだった。悶え苦しむ女性のポスターを仰ぎ見ながら、全身で感じ取った性に目覚めた時の残像は、今なお確かに残っているほどなのに、実際に映画を見て感じたのは、味も素っ気も無い硬い印象だけだった。

第八章 ストーカー少女(色内運河)

 ストーカーか?
 もちろん当時そんな言葉はなかったし、私は少年で、相手は少女。ただ、付き纏われているという妙な感覚は確かにあった。親父の堅固な商売用自転車で、広い運河界隈を力強く走り廻っていた中学三年の頃のこと。
 遊び場でもあったし、野球場でもあった運河界隈は幼い頃から足繁く通った。北海製罐の工場近く、色内運河周辺が家から近く、直線降下で一気に行けた。三、四十メートルほどの幅の運河には繋留された小さな漁船や艀がびっしりと居並び、これに臨んで石やレンガ造りの古びた大きな倉庫群がずーっと並んでいる。北海製罐の下請けの小さな工場や、海産物加工の工場や卸商店もたくさんあって、ここは人や車が活発に行き来する賑やかな一帯だった。
 海でもなく、川でもなく、勿論池なんかではない、この運河という場所は、そもそも陸と海とを結ぶ境界にあって、普段の生活とはちょっと離れた趣のせいで十分魅力ある所だった。潮の匂い、飛び交うカモメやウミネコ、滑るように行き交う船、釣り糸を垂らす人々。日々の暮らしの見慣れた光景にはない要素がいくつもある。そしてなんと言っても、はるか昔、この小樽という街が一番盛んだった頃に建てられた数多くの堅固な土蔵群の迫力が、子供心に強く訴えかけていた。この場所が醸す歴史の匂いが少年の心を掴んでいた。
 少年は、近隣の工場や会社が止まる日曜日、それも夕方が特にお気に入りだった。仲間と集って野球小僧をやることにも倦む年頃、一人の行動が多くなっていた。休日の深閑とした工場道路を思いっきり駆け抜け、息を切らして辿り着く先は、汚泥と悪臭に満ちた運河だ。思い出せば舌打ちしたくなるほど汚れてもいたが、子供心には気にならず、遠い海に繋がるその異質な空間が、少年にはひどく好ましく感じられた。
 夏の暑さが去って、海からの涼風が感じられる季節。小奇麗な婦人用自転車に乗った少女の姿を視界に捉えるようになった。さらに、偶然の行き交いとは思えぬほど、彼女の姿をしばしば見かけるようになると、自ずと少年の意識も高まり、あそこに行くとその子に会える、そんな気分も芽生えていた。とりわけ夕焼けが海を照らし、モノトーンの工場街に色彩を与える時間帯が少年は好きだった。
 色事の雰囲気に敏感になる年頃だったが、女の子と気楽に話せるようなタイプではなかったから、少年の感覚はそう簡単にそのあたりには向わず、身体をいじめ、鍛え、技量を向上させることの中に自分の青春を見つけようとしていた。それでも、運河の少女は気になった。
物寂しい日曜の夕方、運河工場の硬い風景の中で、ちょっと可愛いその子を見つけると、思わず気分は昂まった。やがて、その子が同じ中学の下級生であることも分かった。学年は違ったが、少年のいる階で彼女を見かけることもあり、また全学年が集まる集会などでも、何となく自分の方に視線が向けられているのを感じることがあったからだ。
 身近なところでその子の存在を感じるようになると、意識がいっそう過敏になっていくが、その気持ちを処理する術を知っている訳でもなかった。少年自ら進んでどうこうするなど、考えられなかった。もちろん、女の子に興味がなくはなかったのだが‥‥。
 そうこうするうちに、その子が、見た目のタイプの違う女友達と二人連るんで行動することが多いのが目につくようになった。二人は学校でも、運河界隈でも少年に接近し、そしてまたある時は、少年の家の近くにまで進出してくるようになった。このあくまでも受け身一方の境地から生まれるのは、変な気分というものだ。押し込められるようなプレッシャーは、必ずしもいいものではない。そう、まさしく今風に言えば、ストーカー行為による圧迫だ。悪意を感じることがないだけに救われたとしても、この付き纏いがもたらしたのは、不自由な感覚だった。かつて、颯爽と、思い切り自転車を駆って、あの好きな運河界隈を存分に走り回った自由気ままな気分は失われた。
 ストーカー少女たちの存在が、少年の自由を奪い、精神の均衡に歪みが生じ始めた頃、ついに少女の一人、最初に見かけたちょっと可愛い子のほうが、少年の前に歩み出た。
 「私の親友のIさんが、Wさんのことを好きなんです。付き合ってもらえませんか」
 この余りに意外、驚愕の告白に、少年が大きくたじろいだのは言うまでもない。
 少年の意識に最初にインプットされ、それゆえ動かしようもなく居続けるようになった女の子が、少年にはまったく関心もなかった別の子の想いを仲介するという、少年には想像もできない行為に打って出たのだから。
 予期せぬ唐突な彼女の申し出に、少年が冷静に対応できたという記憶はないが、快くその申し込みを受け入れたのではないことだけはハッキリしている。何故なのかは今もよく分からないが、自分の中に生じた、二人の少女への捻じれた想いに関係があったせいだったかもしれない。
その場面の詳細を思い出すのも困難なほど、はるか昔の出来事だが、後年になっても、運河を訪れるたびに、あの女の子と、その親友の子が、私の視線に現れては消える場面を思い出す。寂れた運河界隈の風景にあって、やはり女の子たちがちょっとした華やかさを与えて、私の運河体験の彩りになっているかな、今ではそんなふうにも思えるのだが‥‥。
 運河の少女には後日談もある。あの申し込みがあってから二年半後のこと。少し大人びた高校三年生の少年は、多くの新入生を前に、やや高い壇上から自分たちのクラブ紹介をすることになった。ラケットとシャトルを持ち、バドミントンという種目の面白さ、難しさを新一年生に向って話しながら、偶然視線の先に、例の親友の女の子が居るのを見つけた。
 高校生になった女の子は、随分と大人っぽく見えた。ただでさえ、大勢に話すなど慣れぬ境遇に浮き足立っていたのに、そこには浅からぬ因縁の子がいるではないか。しかも少年の方を見つめている。懐かしさを思ってか、あるいは悔しさを思い出してか見つめていた。緊張も高まり、少年の脚は震える寸前だったが、かろうじて踏ん張り、演説の最後に少年は、「シャトルコックの飛び方を見せます」そう言って、彼女の方に向い、思いっきり強くそれを打ちつけたのだ。


第九章 映画に描かれた坂の街(船見坂)

 船見坂は西稜中学への通学路となっていて、三年間、雨の日も、風の日も、雪の日も、吹雪の日も通い続けた馴染の道だ。
 小樽駅に近い国道五号線を渡るとすぐに急な坂が始まる。下を函館本線が通る跨線橋の思い出は、何と言っても、汽車が通過する際に吹き上げる朦々たる煙(白煙や時には黒煙)だ。この煙に巻き込まれると突如視界が失われる。立ち止まるものや、身をかがめて急いで通り過ぎるもの、大きな喚声を上げながらはしゃぎ回るもの、登下校時にお決まりのこの煙幕の光景も、今思い出すと何かひどく幻想的な雰囲気すら感じさせる。煙の前のありふれた現実世界から、一歩この中に踏み込むと、そこではすべての意識が閉ざされ、失われ、別世界に入り込むのだ。その間わずか数十秒だが、そこで感じる一瞬の無。その非日常の感覚を、少年の私は秘かに楽しんでいたはずだ。その楽しみは、登校時なら、これから行かなければならないつまらぬ学校のあれこれを無と化するものであり、下校時なら、その日あった不愉快な出来事や退屈な時間のすべてを消去してくれる。
 三年間、回数にすれば何千回も、私はこの幻想体験を繰り返しながら、この坂を上り下りした。そして、ちょっとだけ現実の自分をどこか別な場所に置く訓練をしながら、その抽象の面白みを無意識のうちに体得していったのだろう。その後知らず知らずに開花していった自らの気質を思い起こせば、この坂と煙が少年の私に刻印したものは、おそらく計り知れないほど大きなものだったに違いない。

 さて、少年の私が日々幻想体験したこの船見坂は、映像表現する者たちにとっても格別魅力的に映る坂であることは間違いない。映画やテレビで、ここが使われることの多さは、おそらく群を抜いている。小樽と言えば船見坂(と運河)と言われるほどだ。中でも記憶に残るのは、岩井俊二監督の『Love Letter』(一九九五年 中山美穂主演)。この作品では、雪の船見坂を郵便配達夫がバイクで駆け上がるシーンからドラマが始まる。もう一本は大林宣彦監督の『はるか、ノスタルジィ』(一九九二年 勝野洋主演)。こちらは、主人公の作家がこの坂を下っていて尻餅をつくところから話が進展していく。
 坂の街小樽にあって、数多くの坂の中でもこの坂の注目度はなんといってもダントツである。街の中心部にあり、鉄道線路をまたいで狭い急坂が一気に港の中央に向かって駆け下りるそのローケーションの素晴らしさが、この坂に立つ者すべての心をとらえしまうことは確かだ。地元の小樽っ子なら、いつ足を取られて転倒するかもしれない冬の雪道でのスリリングな緊張感のほうを思い起こすが、映画人たちには(あるいはここを訪れるすべての旅人にとっても)、狭くて急な下り坂の向こうに見える、広々とした小樽港につづく開放的な視界がたまらないのだろう。
 『Love Letter』でやりとりされる一連の手紙は、配達夫によってこの急な坂道を登り主人公の元へという具合に、過去というはるか彼方の方から主人公のいる現在に届けられる意味合いを含んでいる。また、『ノスタルジィ』の作家が、己の過去に向き合い、トラウマから開放される(この映画のテーマ)ためにも、この坂で転んで小樽での滞在を強いられる必要があったのだ。
 かくして小樽を背景にしたこの二本の映画にとって、船見坂の果たす役割は極めて重要であり、またこの坂が、そうした映画的象徴性に存分にこたえるだけの魅力ある坂であることは言うまでもないだろう。急な坂の特徴である、空間的な移動を強いるところは、現在から過去、過去から現在へというように、登場人物の意識の移動に重なり、またこの坂が、前方に広がる海に吸い込まれるように、己という存在が否応なしに過去に吸い込まれていくのにも重なっていく。この坂の頂に立つと、きつい傾斜のせいもあって、狭い道を勢いよく転がり、その速度をさらに増して一気に海中に飛び込んでしまうような錯覚に陥る。長い距離が一瞬にして消滅するように、この坂にいると、はるかな時間の壁も一瞬にして無となり、現在も過去もほとんど同じ場面の中で体験するような感覚を覚える。
 映画人たちが「過去の自分」を描くうえで、時間も空間も消滅させるこの坂の魔力を利用したのはまさにもっともな話なのだ。青緑の海原に浮かぶ船舶の一つ一つの中に、いつかの自分が留まっているような気にさえなってくる。これらの映画のテーマの中に、少年の私がここで体験した幻想に通じるものを感じてしまうのは、ともにこの坂(と小樽の街)に取り込まれた人間に共通の意識があるからかもしれない。
 今、坂を上りつめたあたりは、小奇麗な家々が雑然と連なる新興住宅地となっているが、その現代的な瀟洒な様相は、映画人たちが描きたかったこの坂のもつ魅力に十分見合い、またそれをさらに高めるものになっているかどうかははなはだ心もとないのだが…。


第十章 キャプテンは辛いよ(三角山)

 小樽駅の裏手、船見坂をずんずん登った最高点。西稜中の背後にある山が通称三角山。今は旭展望台という名称でマップに載っていて、小林多喜二の記念碑もある。
 その昔、まだ雪の多い時代には、ここは格好のゲレンデになり、リフト設備などないにもかかわらず、シーズン中は西稜中の生徒だけでなく、近隣の多くのスキーヤーでにぎわっていた。今では木々に覆われ、笹なども繁茂し、山全体が鬱蒼とし、とてもスキーなどできる状態ではなく、むしろ自然観察の場所として、あるいは小樽全体を展望する絶景ポイントとして親しまれている。ここは二百㍍にも満たない小高い丘で、山道を走ってトレーニングするにもよく、中学校時代は秋のマラソン大会にも使われていたし、クラブ活動の際のランニングでもここの道をよく走ったものだ。だから、西稜中の生徒たちにとってこの山は、自分たちの山のように日頃から感じていて、通学路も一番山に近い道を選んで通う生徒もいたほどだ。
 この山を毎日見ながら過ごした中学時代を思い起こすと、何と言ってもバレーボールに明け暮れた頃の思い出が蘇る。当時、バレーボールは九人制で、しかも屋外競技。夏休みの炎天下、三角山方面からけたたましく聞こえてくる蝉の声を聞きながら汗を流したシーンは今も鮮明だ。
 小学校時代の野球小僧が一転して、中学ではバレーボールにはまった。もちろん中学ではクラブ活動であるから、気ままな個人の行動としては成り立たず、先輩後輩という縦社会の厳しい規制が前提となり、おまけに体育会系の古い体質と相俟って、これは半端な気持ちでやれるものではなかった。たとえ優れた能力があったとしても、先輩を押しのけレギュラーの座に座るのは難しく、長い球拾いの下積み期間に耐えなければならなかった。そして、その苦難の時期を何とか耐え忍び、上級生になった途端、今度は同学年の選手との間に生じる様々な軋轢に向き合わねばならなかった。どういうわけか三年の先輩連中が引退した後、私はキャプテンという重職に就くことになった。人間関係の機微に思いを馳せる器量などはなかったが、たまさか熱意と技量があったせいか、そのポジションを任せられた。プレイヤーとしては前衛のセンターでもあり、全体の流れをコントロールする位置でもあって、ここの選手がキャプテンを務めるケースは多かった。
 中学生といえば、小学生とは大きく異なり、個性のより強く伸びる時期のせいか、大勢の生徒から成る集団の中で、チームに従属し己を律し、しかも技術を磨いていくというのは並大抵のことではない。ましてや管理する監督が、素人に近い教員の場合、チームの和を維持することはなおさら難しくなる。キャプテンとは、こうした危い状態の中で、当然苦労を引き受けなければならない存在だ。
 個性の強いメンバーをまとめ、チームを強くしていくその先頭に立たねばならないキャプテンだったが、反りの合わないメンバーの間に挟まれ、途方に暮れることもしばしばだった。もっと気楽にこのスポーツを楽しみたくてやっているはずなのに、ぎすぎすしたチームの雰囲気の中で、何だかひどく割に合わないという思いを抱くようにもなった。
 三年の夏に開催される地区の中体連での優勝と、全道大会出場を目指し、我がチームは日々励んだわけだが、自信過剰の期待の大きさにもかかわらず、現実には、予選の三回戦敗退というあっけない幕切れとなった。それなりにいい線いくのではないかと思っていたことが、実際戦ってみると、鍛えたはずの日頃の力量を十二分に発揮するという粘りも根性もなく、ただズルズルと負けてしまった。あの夏の猛暑の中で、汗まみれになってボールを追った姿がむなしく思えた。結局、チームとしての強い連帯感を作り上げることができなかったことが大きな敗因だったと感じ、キャプテンを務めた私はひどいショックを受けたのだ。
 三角山の山道をヒーヒーいいながら、駆け上がり下りした特訓ランニング。山の彼方で鳴くカッコーを聞きながら転び回った回転レシーブ。山に続く坂道で、歯を食いしばって登り降りしたうさぎ跳び。あの時代、あんなに無茶をしながら励んだのに、その情けない結末が私を完全に打ちのめした。あの当時のきつい体験を潜り抜けたことで、私の中に初めて人間観察能力というものが育ち、人間関係の難しさを学べたのだと、今なら冷静に思うこともできるが、当時の私にはそんな余裕はなく、ただただ、私はこのチーム競技を呪い、共に戦ったその仲間たちをひどく恨んだりしたのだ。
 あれから何十年も経ち、今ではその景色もすっかり変わってしまったが、小樽駅の向うに見える三角山を眺めるとき、乾ききった硬いグランドで、バレーボールを懸命に追い続けた中学生の私がすぐそこに現れるような気がする。


第十一章 裏通りの華たち(静屋通り)

 その時の光景は、その後いつまでも忘れられずに残り、これはどうしても一編の小説として書かなければならない、私が書く以外にはない題材である、とさえ思っていた。しかし、いつまで経ってもそのシーンは小説に書かれることはなく、私の中でも、いつしかぼやけた輪郭になり、書くことを決意していた頃の確かなイメージは無くなっていた。
 ある秋の日の昼下がり、竜宮湯の前で遭遇した楽しげに笑う母子。また、しんしんと降り積もる雪の夜、家の前に立つ電柱から細く伸びた光の下で、女が回すカラフルな傘の輪舞。私の中で二つのシーンが激しく交錯し、母と女の顔が重なって驚愕する。その時の強烈、鮮明な記憶が、長い時の流れで、その色や形を徐々に失い、そして一層曖昧になってかすれていた。
 それは遠い昔の思い出となり、時折懐かしむために取り出すいくつもの記憶の一つに過ぎなくなっていた。決して忘れることはなかったが、だからといって、それをどうにかできるというものにも思えなかった。やはりそれは、私の消滅と共に忘れ去られる、単に古い昔の光景に過ぎないとさえ感じられるようになっていた。けれど、ある年の夏、久し振りに帰省し、数十年ぶりに旧友たちと再会して以来、私は猛烈に書くことを欲するようになった。
 昼の激しい作業を終えた後、夜中遅くなるまでパソコンの前に座り続け、キーを激しく叩きながら書きなぐった。自分の内部に深く分け入ってイメージを取り出し、継ぎ足し、そこに見えるものを書き表すために言葉を捜し、見つけ、確かめ、そしてまとまったストーリーを構成するという作業に没頭した。私はその夏から人が変わったように書き始めたのだ。

小樽は港町で、巷ごとに売笑窟があった。たとえば、‥そのほかに小樽中央駅のすぐ下に、ホテル裏という私娼窟の一画があり、そこから駅前通りすなわち第二火防線を越えた広い一画は電気館下と言われて、いくつもの路地が全部私娼窟であった 
               (伊藤整 若き詩人たちの肖像)

 昔読んで、同郷のイメージを共有していたこの小説は、まさに私の書く小さな作品の道しるべのようでもあり、故郷小樽の景色を思い浮かべながら、私は伊藤整の描く詩人たちに呼応したいとの強い欲求をもって、私自身の作品を書き綴った。
二〇〇四年六月、私は、三十年以上もの本当に長い間抱き続け、まさに消えかけんとしてた静屋通りのあの光景をようやくつなぎとめ、連作エッセー『小樽ストーリー』の一編「静屋通り 裏通りの華たち」として、主宰する同人誌に掲載した。

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 父が死んだ後、独り残った母は札幌の兄のもとへ移り、その際私たち家族が長い間住んだ、静谷通りに面した二階建ての古い木造家屋は他人の手に渡った。それは十五坪程度の小さな家で、もとは小料理家だったのを住宅用に改築し、引っ越したの は私が中学三年の秋のことだった。
 家のあった静屋通りは、繁華街である都通りと、札幌に至る交通の要衝国道五号線に挟まれた狭い通りだ。昼夜は人通りや車の往来は少ないが、夜明け前から八時ころまでは 中央市場に隣接する場外市場の趣があって、露店形式の店が連なり人通りも多く、かなり賑やかな一画になっていた。
港町小樽は海産物が豊富で市場も数多くあったが、中でも駅に近い中央市場は規模も大きく商店の数も多かったから、当時は海産品を中心とした食品の流通基地としては市でも有数の繁華街となっていた。
夜明けの遅い冬期などは、夜の暗闇が残る中で人の動く気配や賑やかな売り声がして、引っ越し当初はこの早朝の喧騒がひどく気になったりもした。だがこの通りが賑わうのは一日のうち早朝の間だけで、朝も九時を過ぎると一気に静寂が訪れ、あとの大半は静かだった。特に夜間の静寂は気味の悪いほどで、たまに通る人の靴音が、異様な響きで通りに面した二階の私の部屋に聞えるほどだった。
町内には、染め物屋、仕立て屋、寿司屋、八百屋、飲み屋、古い倉庫などが軒を連ね、裏通りの地味な暮らしが窺われる環境だったが、その中に旅館が一軒あった。
染め物屋と寿司屋に挟まれた間口の狭い、ちょっと見には商売屋なのか一般家屋なのかわからない造りの小さな旅館だった。背の低い小太りの醜い老婆が、朝方よく玄関先の掃き掃除をしていたが、通学時にその老婆の崩れた姿を見かけた時などは、幼い私は、何かひどく汚いものを見たような嫌な感じを受けたまま、早足でそこを通り過ぎたものだった。そこがいわゆる《連れ込み旅館》だと知ったのは高校に入学後のことだった。通りを挟んで向い側に大きな倉庫があり、日が暮れるとその角にある電信柱に付けられた電灯が燈った。暗い通りの中で、電灯の下には小さな明るい空間が出来ていた。
女はこのわずかに明るい地点に立っていた。女は一人のときもあれば、何人か一緒のときもあった。時には和服姿の恰幅のいい年配の女性が立っていることもあった。雨の夜も雪の中でも女たちはここに立って、通りすがる男たちに声をかけた。
 夜のその時間帯にここを通る男たちの目当ては決まっていたから、女たちも男の姿を見かけると、「お兄さん、ちょっと」そんな言い方で声をかけていた。遠くからリズムよく響いていた靴音がこの辺りに来ると急に動きが鈍り、時には止まり、そしてひそひそとした話し声に変わる。微かな電光に照らされた小舞台で、女は男に媚を売り、男は女の品定めをし、そして商談がまとまれば、例の旅館の中に消えた。星の夜も、雨の晩も 、そして雪の舞い散る厳寒の中でもその光景は繰り返された。
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 原稿用紙にしてわずか十枚ほどのこの小編は、その後推敲、加筆され、独立した短編小説『裏通りの華たち』として、改めて同人誌に掲載された(後にさらに加筆され『雪華』の題で掲載)。長い時の中で、消えかけた淡いイメージは、こうして確かな言葉に置き換えられ、リアルな場面が再現された。この作品によって私は、ほとんど諦めかけていた、書くことの始まりからやっと歩き出すことが出来たのだと思う。
 静屋通りに暮らした年月はせいぜい五年ほどだ。私の長い人生にあってはわずかな期間だったにもかかわらず、何事にも感じやすい青春の日々にあっては、その時の体験は、忘れられず一生付き纏う。十五~十九歳の私は、あの女たちと同じ時代、同じ空間に共に存在し、そこで形作られた私の内部は、私の骨身となって私を決定付けている。私はそこから逃げ出すことは出来ず、その感覚を自己の一部として携えなければならない。私にとって静屋通りは、単なる懐かしい記憶には留まらずに今も確かに存在し続けている。

 私の記念碑的な小品『裏通りの華たち』は、その後ある小さな出版社の短編コンテストで優秀賞を受賞し(二〇〇五年十月)、さらに幸運なことに、翌年同社刊行の短編作品集の一編に選ばれ掲載された。受賞の通知には、

 私娼窟に移り住んだ高校生の性の自覚を、裏通りに出没する女たちへの眼差しの中に描いた。思春期の少年の心に、鮮やか過ぎる娼婦のシルエット。興味と嫌悪を同居させ、矛盾に苛まれる少年の心理が、しっかりとした時代背景のもと繊細に表現されている。重厚感溢れる古典的な作品

との選者からの評も同封されていた。この作品は、私にとてどうしても書かなければならない個人的な想いの結晶ではあったが、作品一般としても、読むに耐えうる表現にまでなっていたことが分かり、書き手として第一歩を踏み出せたとの感慨があった。

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 短い夏が終わって午後の日差しにも衰えが感じられるある一日、例のごとく、一番風呂に長くゆったりと浸かった。風呂から上がり、虚脱した感覚で朦朧としながら銭湯の暖簾を後にした時、私のすぐ前を、手をしっかりと繋いだ母子がさも楽しげに歩いていた。母は小脇に風呂道具の入った桶を抱え、小さな男の子と歌を歌いながら弾むように進んでいた。風呂上がりの湯気の立つ後姿はあだっぽく、きゃっきゃと笑う男の子の声は軽やかだった。
 母親は、濡れた長い黒髪を無造作にアップに束ね、白い下着の透けて見えるピンク色の薄手のセータ、肉付きのいい腰にぴったりとはりついた短めの赤いミニスカートにサンダル履きだった。風呂桶を揺らし、男の子を相手に愉快そうにはしゃぐ彼女のしぐさは、まぶしいほど艶やかだった。銭湯を出て国道を渡る横断歩道までの短い道行、私は彼女たちの歌声を耳にしながら、狭い歩道で二人を抜き去るのをためらい、ゆっくり進む母子の直後に従っていた。
 私はいつもの歩調を緩め、二人から数歩下がって歩きながら、幸せそうな母子を眺めていた。国道の横断箇所が近づくと母子は歌を止め、左右の交通が途切れるのを待ちながら、今度はじゃんけんを始めた。ひとしきり車の流れは激しく、渡れそうもない間二人は立ち止まったまま、大きな声でじゃんけんぽんを繰り返していた。
 二人の後に続いていた私は、斜め横から二人の様子と車の流れを交互に見つめていた。母親が立ち騒ぐ男の子を守るように車道を背にこちらを向いた時、私は彼女がだれであるか一瞬で理解した。化粧気はまったくなく、強い昼の光の下であったにもかかわらず、瞬時に私はその母親があの通りの女であることを悟った。そして反射的に顔を背け、車の流れが途切れるのを確認する間もなく慌てて横断歩道を直進した。心臓の鼓動が耳の奥深くまで達し、風呂上がりの体のほてりは一挙に冷めていた。
 「わあー、今度はママの勝ちよ」私の背後で大きな声が響いていた。

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 ラストシーンを書き終え、キーボード上のエンターキーを押した時、私はようやく長い間私を苦しめていた、書かなければならないという呪縛から、ほんの少しだけ解き放たれたように感じた。そして同時に、私はこの作品をきっかけにして、私自身と小樽を主人公にした、『小樽ストーリー』の世界に続く、長い遠い道程を行くことになったのだ。


第十二章 友情を育む社交場(竜宮湯②)

 高校に入った頃は、友情とか親友とかそんな言葉が気になる年頃でもあったが、意識して友を求めることもなく、入学と同時に体育会系のクラブに入り、自分の肉体を試し、鍛えながら励み、それなりに青春を楽しんでいた。特に誰彼と連んで行動することもなく、平凡といえば平凡な高校生活を送った。
 高校には市内の広域から生徒が通い、小学校や中学校のクラスメイトが狭い地域に住む幼馴染や顔馴染だったのとは大きく違っていた。そのせいで、学校を離れると普段の付き合いも少なく、人間関係という点からはやや寂しい思いも無くはなかった。私の場合、確かにふだんの付き合いは豊かとはいえなかったが、それでも友といえる何人かのクラスメイトと学校以外で会うことはあった。場所は風呂屋で、特に竜宮湯が多かった。定期的というほどではなかったが、月に一度くらいはそこで会っていた。夜の七時か八時だったと思うが、AやS、そしてMと私の四人は、同じクラス内で気が合う面々だったこともあり、その上比較的家も近かったせいで、この銭湯が選ばれた。厳密に言えば、それぞれが日頃通う銭湯は、竜宮湯だけではなく、砂留湯だったり、電気湯だったり、柳川湯だったりしたわけだが、その中から一番適当な場所として竜宮湯が選ばれたわけだ。
 いい若い者が、と常連の年寄り連中からは煙たがられたのだろうが、夜のその時間、私たち四人は、湯船の縁に腰掛け、緩んだ雰囲気で時間を潰した。体や髪を洗うための風呂通いではなく、だらりと弛んで息を抜きながら、他愛無いおしゃべりでひと時を過ごした。
 十六歳の男の子たちが町の銭湯に集まり、文字通り裸の付き合いをしながら、互いの本音を吐き合い友情を育んだ。学業のこと、クラスのこと、クラブ活動のこと、そして当然女子生徒のだれそれのことなど、話題はその年齢の男の子にふさわしい内容だった。時には場所を電気湯に変え、当時色内町に下宿していた担任の若い独身教師までも誘って風呂談義に花を咲かせたこともあった。教師と生徒が学校を離れ、銭湯などという意外な場所で付き合うなんてのは、テレビの青春ドラマもどきのことだが、私たちはドラマのような現実を、何気なく、だがマジで生きていたわけだ。
 AやS、そしてMとはクラスは一緒といっても、それぞれは違うクラブに属していたから、互いに親密になる上で、この銭湯で過ごす時間は貴重だった。
大人でもなく、かといって子供でもないちょうど境の年代で、その微妙な年頃を生き抜くための一つの手段として、我々四人が自然に選ぶことになったこの銭湯での交遊会は、案外悪くない方法だったかもしれない。外面の格好を脱ぎ捨て、互いの裸を見ながら付き合うことで、四人の友情が深まったことは明らかだった。進級して皆クラスが別々になると、学校でも四人全員が交わることはめったになくなり、この銭湯での集まりも自然消滅したが、ここで過ごしたのんびりした体験は後々までずっといい思い出として残っている。

 その後Sは若くして亡くなり、Aは消息不明となって、この予想外の出来事から、私は人生の悲哀を痛切に感じることになったが、それでも生身の関係を通じて他人を知り、そして自分を省み、具体的なつながりの中から学び、成長するという、後の人生にも大きく関わる人間力の基礎となったある部分は、間違いなく竜宮湯に集い、この無為に過ごした時間の中で築かれたのだと今も信じている。


第十三章 坂の上の女神(清水丘①)

 
 年相応に異性への感情は育まれ、中学生にもなると、他の男子生徒同様、クラスの女生徒への意識も随分と高まった。陸上部の…さんの俊敏な美しさをいいと思ったし、…さんのちょっとませた感じにもあこがれた。…さんの悪ぶった雰囲気にはけっこういかれた。もちろんシャイな少年には、女生徒と付き合うなどという大胆なことはとても出来なかったが、自身の成長に伴い、女の子たちへの眼差しは、少しづつ変わっていき、知らず知らずのうちに美意識のようなものが形成されていったように思う。
 高校入学後のクラスは、男子、女子半々くらいの五十名近い大所帯で、中学までとは違い、小樽のより広範な地域から、多彩な生徒たちが集まっていた。このクラスの雰囲気はよかった。担任のT先生はまだ若く、初めて学級を受け持ったせいもあり、その勢いにつられ、クラスには溌剌としていて、しかも和やかな空気が生み出されていた。二学年、三学年は進路別になって、男ばかりのまったく面白みのないクラス構成となったのに比べ、一年の教室はすごく賑やかだった。そこに通うことが楽しくなるような空気があった。
 時間と共に、生き物のようにクラスも変化・成長する。とりわけ若い元気のいい担任のリードのためか、文化祭のような学校行事でのクラス活動だけでなく、自発的なクラスハイキングや他のクラスとの交流など、種々のイベントに関わりながら、級友たちとの付き合いも深まった。そんな日頃の繋がりが、当然クラス全体を変えていった。十六歳という、まさに感じやすい年頃にあって、この心地いい雰囲気に馴染むのに時間はかからなかった。二十人もいた思春期の女生徒たちの生み出す匂いにもいつしか馴れていった。
 若い教師のもとに集まり、ただワイワイはしゃぐだけでも愉快だった。ブラスバンド部に所属するS、空手部のA,バレー部のM,そしてバドミントン部の少年の四人は、銭湯通いの仲間でもあり、そのつながりのまま、このクラスの温かな空気に溶け込んでいった。T先生を誘い、色内町にあった彼の下宿近くの電気湯で風呂談義を交わすなど、まるで青春ドラマまがいの付き合いもしていた。わずか十歳という年齢の隔たりはもちろん、彼の親しみのある個性は、教師と生徒たちを、より強い絆で結び付けていった。

 当時、まだ高校には宿直制度なるしきたりがあった。緊急時に備え、教職員一名が学校に一晩泊るというものだった。大方は何もないまま、当番教師にとっては居心地の悪い退屈な夜を過ごさねばならないものだが、T先生は暇つぶしと生徒との友好を兼ね、学生たちを招くことがよくあった。
 若者たちは夜の静寂に包まれた校舎に赴き、スポーツをしたり、ゲームやおしゃべりをして、普段の教室での堅苦しい時間とは明らかに違う、特別愉しい一時を体験した。家庭での夕食を終えた生徒たちが、わざわざまた遠くの清水丘までやって来て、数時間を過ごすなど、余程乗り気にならなければできないことだったが、T先生の愛すべき人柄と、いつもとは違うちょっと変わった時間を過ごせるという好奇な気分が、少年や少女たちを突き動かしていた。多いときなどは、十人以上もの生徒が参加し、夜の学校で大いに戯れたのだ。
 子供でもなく、さりとて大人でもない微妙な年頃の生徒たちが、夜の校舎で屈託なくはしゃぎ回る姿は、これからやってくるだろう人生の荒波を知る前の、最後の平和な時間の象徴のようでもあった。
 この集まりにも参加していたKには惹かれた。彼女は、西の漁師町から通学する健康的ではつらつとした女生徒だった。新聞部の活動的なメンバーであったが、茶道部にも所属するというしとやかさも持ち合わせていた。少年と違い、Kは体育会系のタイプではなかったが、その活発な振る舞いや、快活に微笑むふくよかな表情は他の女生徒に抜きん出ていた。いつのころからか、少年はそのことをはっきりと感じとるようになっていた。
 Kが近くにいることは、少年にとって快く、その笑顔を盗み見ることも快感だった。遠い夜の集まりに出かける理由の一つに、彼女の存在があったことは疑いなかった。Kの醸し出す、温かく柔らかな雰囲気に引きつけられた。冬に入るころには、Kを意識しながら学校に通うようになっていた。だがいずれ春になると、それぞれが進路別のクラスに分かれることになり、Kとは別々のクラスになる可能性は高かった。そうなれば、Kのにこやかな笑みに触れる機会は失われるだろう。違うクラスの女生徒の姿を見に行くことなど、とても少年にはできそうにもなかった。
 Kのことが頭から離れられないまま、年が明けた。残された時間は減り、喜びに溢れたクラスで皆と過ごす時間もわずかになったある冬の夜、最後の夜の集まりは、いつものように賑やかななまま進み、はじける笑い声に包まれていた。やがて哀しいかな、冬の暗闇が幸福な時の終わりを告げる頃には、いつしか冷たい細かな雪が降りしきっていた。名残を惜しみながら、楽しかった夜の遊びの余韻を抱いて皆裏玄関に向かうと、外はしんしんと降り募る大雪の世界になっていた。
 狭い急な石段は雪に覆われ、ゲレンデのような坂道に変わっていた。少し先に出た少年が上を振り返ると、軽やかな笑い声を弾ませたKがいた。玄関先に取り付けられた、小さな丸い白熱電燈から射す光がスポットライトになってKを照らしていた。白い手編みの長いマフラーで頭部をすっぽり覆っても、Kの弾む声は響いていた。T先生と別れの挨拶を交わした女生徒の一群が坂を下り始め、その中にいたKがこちらに向かってきた。
 雪に隔てられて見るKの姿が、スローモーション映像のようにゆっくりと動いていた。薄い電燈の光に照らされ、足元を気にして俯くKを、少年はただじっと見つめていた。激しく高鳴る胸の鼓動が聞こえるほどだった。降り続く雪の中、坂道の上からやって来るKは美しく輝いていた。
 それは時が止まってみえるほどの緩やかなシーンだった。射すくめられ、息も詰まって身じろぎもせず、女生徒たちの明るい喚声が闇と雪の中に消えていくまで、少年はただKだけに見とれ立ち尽くしていた。

 雪の坂道で女神に魅入られた少年が、意を決してKに声をかけたのは、それから程なくしてのことだった。


第十四章 旅立ちの時(小樽駅②)

 札幌にいるらしいという以外、Aについての消息ははっきりしない。消息不明というレッテルは、Aという存在にはまるで似つかわしくなく、いまだにその事実が信じられない。
 最後にAに会ったのは、癌で市民病院に入院中の親父を見舞った昭和五十五年の初夏のことだ。それはまったくの偶然で、帰りがけに、人の行き交うロビーで赤子を抱いたAにばったり会った。初めての子を授かった喜びに、Aは嬉々として私に挨拶した。母子ともに元気に退院するちょうどその時のことだったが、数年ぶりの邂逅にもかかわらず、何となく慌しい雰囲気の中で、挨拶もそこそこに私たちは分かれてしまった。かつて親しい関係にあったAと、約束を交わすこともなく、なぜあんなにも淡白な別れ方をしてしまったのだろう。はるか遠い日、遠くへ旅立つ私をただ一人駅のホームで見送ってくれたほどAとは親しかったはずなのになぜだろうか…。そしてそれ以来、Aに会うこともないまま、彼の消息は完全に私の前から消えてしまった。

 駅のホームでAと交わした会話がどんなものだったか、すでに四十年も経った今では記憶のかけらにも残ってないが、あの時のシーンは、眼前のスクリーンで見る映像のように鮮明に蘇ってくる。
 空いたボックスシートに腰をおろした私に、Aは売店で買った缶ジュースとミカンを窓越しに手渡した。程なく発車のベルが鳴ると、Aは右手を差し出し私に握手を求め、短く「がんばれ」と言った。力のこもったAの握りに比べ、私の応答は弱々しかったはずだ。「ああ」と答えた私から数歩下がってAは微笑し、軽く右手を上げた。まだ寒さも残る三月の下旬、H大の受験に失敗した私には、二期校のS大に合格する以外、実社会に出ないでモラトリアムを過ごすチャンスは残ってなかった。
 現役受験に失敗し、一年の浪人生活を経て臨んだ二度しかない機会のうち、一度目のほうはしくじって、これが最後のものだった。Aはすでに私大に合格し、近々上京することになっていたから、この場での彼と私との精神的な隔たりが大きかったのは言うまでもない。そして、そのことは互いに十分理解していたから、多くは語らず、陽気にもなれない心境だった。ただ一人、遠くに向う私を見送るためにAは小樽駅にまで来てくれたが、切羽詰った心持ちにあった私には、ここからはるかに遠い松本までの道のりのことを考えるだけで憂鬱この上なく、平常心をもってAと対峙することなどとうていできなかった。すでに余裕の境地にあるAに少なからぬ嫉妬の想いを抱いていたかも知れず、小学校以来続いた彼との友情もここではひどく気詰まりなものだった。
 正規の学生でもなく、社会人でもない浪人生としての一年は、人をとことん屈折させるには十分な境遇だ。ひたすら自分を追い込んで受験テクニックを習得する毎日は、十八歳の血気盛んな若者にとっては好ましいものであるはずはなく、これを無事に潜り抜け志望校に受かる確立もそんなに高いものではない。私もこの一年の間、猶予の時を得るために大きなプレッシャーを引き受け、十分消耗しながら過ごした。同じ浪人生でありながら、Aは志望大学のある京都にまで行き、そこで浪人生活を送った。札幌の予備校に通うだけでも大変だった私にとっては、そんなAの境遇は別世界のもののように感じられた。
 余裕のある家の長男坊のAは、昔から私の想像も及ばぬ豊かな環境にいるように見えた。塾に行くことさえ憚られた中学、高校時代、地元の商大生を家庭教師に付け学んでいたAの暮らしは、ずい分遠いものに映った。贅沢だなAは。いつも私はそんなふうにAを見ていた。羨望からくる遠慮とでもいうのだろうか、私とAは親しく付き合ってはいたが、その間にはいつも破れぬ壁のようなものが出来ていた。少なくても私にはいつもAはその壁の向うにいたように思う。近くにいても遠い、親しいけれど疎遠な、私にはAはずっとそんな友人だったが、十八歳にして故郷小樽からの旅立ちを見送ってくれたただ一人の存在だった。
 社交とは縁のなかった学生時代、数少ない友の一人として付き合ったAとの別離は、この小さな港町に生まれ、生き、ここがすべてだった私が初めて体験する人生の大転換をまた意味していた。列車の進行とともにホームの向うにAの姿が消えていくのをじっと見つめながら、十八年という短い人生で、初めて自分の意志で、別の世界に向っていかなければならないことの不安を激しく感じていた。自分は一体どうなっていくのだろう。経験も知恵もない、あやふやな者が、これから見ず知らずの環境でやっていけるのだろうか。それより何より、目先の受験というハードルをまず越えることができるのだろうか。遠い異郷で落第の憂き目に会ってしまったら、私は一体どうなってしまうのだろう。
 スピードを増し、大きく揺れながら故郷を離れる列車の響きを聞きながら、私はずっと長い間、窓の向うを走り去る鈍色に広がる海面を凝視していた。私はAの発した「がんばれ」という掛け声に、ただひたすらしがみつきながら、故郷からずんずん離れていった。


第十五章  黄昏の灯(純喫茶「砂貴」)

 そういう意味では、私はまだ大人ではなく、そんな自分を扱いかねて、ひどい焦燥感に駆られてもいた。いったいいつになったら、私にもチャンスが訪れ、私は晴れて大人になれるのだろうか。私はすでに二十歳であり、その数字がずいぶん重くのしかかるようになっていた。確かに私は晩生であったが、女性と付き合えないというほど内気ではなく、自分を主張できないほど引っ込み思案でもなかった。だから、ただ機会に恵まれないだけだと、自分に言い聞かせながら、いつ訪れるともしれぬその時の来るのをじっと待っていた。

 大学には入ったものの、女友達と呼べるような親しい存在もなく、殺伐としたキャンパスの風景の中で、鬱々とした日々を過ごしながら、自分はいったいどうなっていくのだろうと、言い知れぬ不安に直面していた。時代の荒れた風は、初心な若者にはただ厳しく、私は出口の見えぬトンネルに入り込んで、行くべき方向を見失っていた。
 それでも半年ぶりに帰省した冬の小樽は、静かに黙って私を受け入れてくれた。怯えも不安も忘れて、昔のような無邪気な自分に帰れることが心地よかった。折しも各地に散っていた旧友たちとの再会は、互いの成長を見極めようとするちょっとした緊張感もあったが、それ以上に心は弛んで、故郷にいる平穏に浸った。離れても、小樽はまだホームグラウンドのような親しみがあり、そこで会う馴染みの誰それとの会話に和んだ。学年が一つ下のEとは同じクラブ活動を共にした仲だったが、私の気持ちの中ではいつの頃からか、先輩後輩では括れない何かを彼女には感じていた。
 友情というものではない、さりとて愛情というのでもないその感情は、だがいずれ変化してのっぴきならない重いものに変わり得るものだったかもしれない。でなければ、捻挫で入院中の年下の女子高生に、さほどメジャーではない、しかもいかめしい無頼派などと呼ばれた作家の書いた、特異な作品の本をプレゼントするだろうか。二人共体育会系のクラブに所属し、熱心に活動しながら、私とEは他の部員たちとは別のものを目指す同士のような匂いを感じていたからかもしれなかった。
 浪人時代もEとは切れることなく、たまに会い、おしゃべりをする関係は続き、どこそこの喫茶店で会い、何だかひどく抽象的な会話に時間を費やしていた。稲穂町と花園町の境、高架橋近くにあった純喫茶「砂貴」は、ちょうど互いの住む家の真ん中辺りにあったことでもあるし、また街中の知れた店とは違う隠れ処のような雰囲気もあって、私たちは何度かそこで会い長い話をした。大学一年のその冬にも私は彼女と「砂貴」で会った。
 当時Eは高校を卒業し夜学に通いながらも、すでに社会に出て働く人だった。私はといえば、相変わらず所在無げの大学生であり、そのせいもあって、Eに対する気持ちは、以前のような先輩後輩の気楽さにはどうにも収まらず、始末に困るような居心地の悪さを感じながらも、取りとめもない話に終始していた。何者でもなく、何物をももたず、まったくの混沌だけに捕われていた自分の発するおびただしい言葉には少しの力も感じず、長い徒労の時間の後、さすがにその空々しさに飽いて外に出ると、すぐさま雪がちらつき始めた。
 厚手の黒い長いコートを纏ったEは、その黒髪と相俟ってずいぶん大人びた女性に見えた。まだ暗くなる前の時間ではあったが、公園方面に向かいながら歩くにつれ、雪はいっそう激しくなり、寒さも増して、別れるには頃合いだったが、ここでこのまま別れると、もうEには会えなくなるような惑いに迫られ、踏ん切りのつかないまま、ただ徒に歩き回っていた。
 無分別の勢いに任せて、Eを掴まえればよかった、とはそのずっと後に思い直したことだったが、その時の私にはそんな気概もなく、彼女の黒髪に積もった濡れ雪を払うことで、漠然と募るEへの心情を処理するのが精一杯のことだった。

 その冬の出来事の後、Eとの間にどんなつながりがあったのか、遠い記憶をいくら探っても思い出せない。Eとはそれ以来音信不通だったのか、どうにも分からないのだ。だが次の記憶は突然やってきた。それは私が一年近くに及んだ迷路を少し抜け、別の目標を見つけようと進路を変えた大学二年の初夏のことだったろうか。
 季節はなお曖昧だが、私の住む松本に遊びに行きたいというくだりの、思いがけない便りが届いた。何をしに、という当然沸く疑問に前もって答えるかのようにEは、街をぶらぶらし、雰囲気のいい喫茶店で美味しいコーヒーを飲みたいとさらりと書いていたのだった。
 その時、遠くにいるEへの想いはすでに消えかけていたのだが、なお大人になれずにいた私は、Eの便りに触れた途端、そのことの不甲斐なさを痛切に呼び覚まされた。だから私は決めたのだ。こんなに遠いところまで一人でやって来るEは、きっと何かを覚悟しているに違いなく、そうであるならば、私も覚悟を決めて大人になろうと。長い間のEとの曖昧な関係が、急転し、彼女への想いも事ここに至って一気に具体的な色合を帯びた。Eによって私は大人になれるのだと…。
 だが、私に訪れた皮肉な運命は、どうしても私をじらしたかったのだろう。長く待ち望んで、ようやく私のところまでやって来るはずだったそれは、私の直前でUターンし、そしてあっけなく去り、戻っては来なかった。Eの父が突然亡くなって、彼女は旅行を中止したのだ。そして、その後時が経っても彼女が来ることはもうなかった。ふいの便りによって高められ、待ち焦がれるまでに変化した私の希望と欲望は、ただあっけなくついえてしまった。その絶好の機会が奪われ、昂ぶった想いが勢いを失うにつれ、Eとの関係も急速に萎んでしまった。

 決意の時を突如失った私が、改めて時を得て、ようやく大人になるのは、それからずっと後のことだったが、Eのことをふと思い出すたびに、花園高架橋の見える四つ角にあった喫茶店「砂貴」をいつも思い出す。それも決まって黄昏時のぼんやりとした空気の漂う頃の店だ。店頭に置かれた照明スタンドの淡い灯を向うに見ると、雪中を二人で歩いた公園に続く道が、先細るように続いているのだった。


第十六章 モラトリアムの憂鬱(北海製罐)

 なぜあんなにも憂鬱だったのか。あの頃のことを思い出すたびに私は不思議でしょうがない。大学を卒業した直後、私はまったく自分の人生に自信がなく、どう生きていけばいいか、どんな暮らしをしていけばいいのか皆目見当もつかなかった。
 教養部を終え、訳あって休学した後、ドイツ文学科などという実用とは縁の薄い学科で二年もの間ぼんやりと過ごした反動なのか、最終の四年次は、就職のことなど全く無視して、独自の表現世界を構築するんだとばかり卒論制作に激しく入れ込み、一年近くを費やしてそれを完成させた。
無事卒論を提出したのはよかったが、その後私は半ば虚脱状態に陥り、とても将来のことを考えるような心境にはならなかった。理性も知恵も働かないままでは、卒業後どこか適当な会社に入って、社会人としてまっとうな暮らしを営んでいこうなどとは到底考えることは出来なかった。ただ、大学のあった街にはもう居続ける気にはならず、結局、五年ぶりに故郷小樽に戻るという選択をするしかなかった。
 長く続いた高度経済成長期にも翳りが見え始めてはいたが、大卒者が就職に困るということもなく、普通の学生なら、そこそこのところにすんなり職を得て、社会人として出立することができる時代だった。だが帰郷時の精神状態といえば、それはもう惨憺たるもので、一種の敗残者のようなものだった。大学は出たけれど、まるで負け組に入ってしまったかのように、どうすることもできない、実に情けない体たらくの有様だった。そんな息子に対して、当然親たちも成す術もなく、半ば諦めムードで対応するしかなかった。親子水入らずの温かい家庭的な雰囲気などは少しもなく、何とも気まずい空気が漂う毎日だった。
 三月下旬に小樽に戻り、とにもかくにも、ただ家にじっとしているわけにもいかず、新聞の募集案内に応募して、臨時雇いの職を得たのは四月の半ばだった。汚れた雪塊がいたるところに残り、まだ冷たい風も吹き付ける灰色の街で、運河沿いの工場に通う暮らしが始まった。
 当時、北海製罐と言えば、製罐業としては全国的にも有数の企業で、当然小樽にあっては一流の職場と見なされていた。色内運河沿いに並ぶ大きな工場を有し、多くの労働者を抱える大企業だった。増産体制のための臨時工募集広告には、日給三千円、残業手当付きとあった。朝八時から夕方五時まで、週六日勤務、就労条件は悪くなかった。
 稲穂町の実家から徒歩で十数分、朝のラッシュ時は、工場の入り口に蟻の隊列ように大勢の工員が吸い込まれていった。それはイタリアリアリズム映画のワンシーンのようで、自分がその中の一人でありながら、どこか上の方から、群集を眺めている奇妙な感覚もあった。労働者、という教科書や新聞で見かける用語を自分に振り向けながら、どうにも落ち着かぬまま、私は蟻の隊列に並んでいた。
 採用された後、私は直ぐに研究室なる部署に配属になったが、やることはといえば難しいものではなく、製造された缶の品質検査という作業だった。寒天のようなものに調合した薬品を混ぜ入れ、これを缶に詰め、機械で蓋をし、一定時間後に缶内部の表面に現れる変化をチェックし、データ化した。調べる缶の数は大量にあったが、作業内容はいたって単純なものだった。
 臨時雇いの二人を含め、部員は七人。のんびりとしたムードの職場で、騒音にまみれる製造部門とは隔てられた比較的静かな環境だった。
商大卒のC君と私は、共に国大卒にもかかわらず、臨時雇いという半端な境遇にあることで、周囲から一種好奇の目で見られながらも、この刺激のない労働現場で淡々と作業をし、判で押したような毎日を過ごした。
 仕事への愛着も、会社への忠誠も、いずれもこの境地では沸き起こるはずもなく、いかにも腰掛け仕事をやっている、そんな感覚に捉われていた。製造部門には、中卒のいわゆる叩き上げの若い従業員もたくさんいて、私よりも若いにもかかわらず、その風貌はすでに十分大人の社会人だった。
 研究室で庶務係として働く一番若いIさんは、私の母校の夜間部に通う現役の女子高校生だったが、高校の後輩でありながら、この職場では先輩である彼女から、若菜君‥、などと呼ばれると、何だか妙に落ち着かない気持ちになったりした。
 学生時代にもあれこれアルバイトに従事してはいたが、ここでの勤労は、それらとは明らかに異なる印象があった。本来なら、正規従業員として、どこそこの企業にでも勤めているはずの境遇にもかかわらず、この職場では、どっちつかずの臨時雇用者であることがもたらすプレッシャーとでもいうのか、自らの確たる意志で選んでいるわけでもないことへの後ろめたさもあるだろうが、やはり、日々感じるのは居心地の悪さだった。
 心理学的な範疇から言えば、私のような存在は、『モラトリアム人間』ということで、いつまでも猶予を求める状態にいる若者のことだ。親からも、社会からも一種問題児として見なされる、やっかいな存在だった。職がないわけではなく、(おそらく)能力がないわけでもなく、ただきっかけが見つからないか、あるいはそれに気がつかないか、いずれにせよ、今風の病的な「引き篭もり」とは明らかに違うのだが、その症状には似たところも大いにあるものだった。
 昼になると、天気のいい日は決まって工場の屋上に居た。掻っ込むように急いで社員食堂の定食を食べ終えると、私はC君やその他数名いた学生くずれたちと屋上に行き、別に何をするでもなく、ただ淀んだ運河を見ながら時間をつぶした。
 当時の運河はひどく汚かった。現在のように観光名所として美しく整備される前の運河は、とにかくひどく汚かった。まだ現役で運航される多くの艀が居並び、小さな漁船もびっしりと並んでいて、それなりの活気はあったが、泥の河のように汚れていた。不快な臭いもきつく、この場に居ると、決して爽快な気分になるわけではなかったが、なぜか皆、息抜きの時間になると運河の見える屋上に上った。
 一口に学生くずれと言っても、そのタイプはいろいろだったが、私のように、何をすべきか分からずにここに居るというより、次のステップのための待機場所としてここに居る者が多かったように思う。C君は明確な目的を持ち、そのための資金稼ぎでここに勤めていたし、T君は教職の欠員募集の知らせが来ることを待っていた。H君はあれこれ試験を受けたが、たまたま縁がなくしかたなくここに居た。それぞれ状況は違ったが、共通するのは、皆小樽の人間であることだった。
 それまでまったく接点のなかった同世代の若者が、この製罐工場でその青春期の一時を共にした。その不安定な身分に、皆一様に落ち着かぬ心地を感じながら、望むべき次の段階に行くためにここに居た。少なくても私を除き、皆前向きな姿勢をもっているように感じられた。運河から見る眺めはその時の私の心境を映してか、いつもくすんでいるよう見えた。かつての勢いをすっかり失い、小樽という街にはすでに暗い衰退の影が色濃く付き纏っていた。幼少時には二十万都市として、隣接する札幌と並ぶほど活気があった街は、まったく生気をとられ、多くの若者は小樽を出て行き始めた。人気のない冷え冷えとした夜の都通りを歩くと、そのあまりの静けさと寂しさに身も縮むような想いを抱いた。私はいつまでもこの幽鬼の街に居続けるわけにはいかないと感じていた。何かきっかけを見つけて、この憂鬱なモラトリアムから脱しなければと思い始めていた。秋になれば、私はもう二十五歳になるのだった。
 ある日、いつものように運河を臨む屋上で日を浴びながら私達は徒な時を過ごしていた。六月に入り、この工場での暮らしにはすっかり慣れたが、当初の雇用契約期間は残りひと月を切っていた。そんな時期の話題でもあったのだが、H君と話しながら、この後の身の振り方をどうするかに話は及んでいた。工学部出身のH君は札幌や室蘭にある企業の試験をすでに受け、結果待ちだと言う。相変わらず私はどうするものかとまだ迷っていた。雇用継続という選択肢もあることを所長から言われていて、そういう人生もあるかなと、ふと思ったりもしていた。この愛着のある運河に臨む大きな工場で、小樽人として人生を全うする。祖父や親父のように、この斜陽の街ととことん付き合うこともありかなという気持ちが芽生えたことは確かだった。
 「それで、若菜君はどうするの」
 H君のあからさまな問いの勢いにやや気圧されながら、私は一瞬確かに言い淀んだ。私には自信がなく、確信もなく、当てもなかった。明確に、明瞭に、自分の行く末を語ることができる状態でないのは明白だった。私は躊躇って運河を見た。子供の頃から慣れ親しみ、走り回り、遊び、野球をしてどれだけ多くの時間をここで過ごしたことだろう。どんなに汚れていても、ここが嫌いになることはないだろう。ここを見ながら人生を過ごすことに異存はないはずだとも思っていた。だが、私の吐いた言葉はその心情を否定していた。
 「小樽を出なきゃと思ってる。確かなのはそれだけで、後は何とも言えないな」
 「で、どこかに就職するの」
 「どうかな、それははっきりしないけど、ものを書きたいんだ、書くことでこの自分を解放したいと思ってるんだ」
 「自信はあるの」
 「自信云々というより、書かなきゃ、どうしても書くしかないと思ってる」
 はるか遠い昔のこのシーンは、いつまで経っても忘れられない。だが長い間、私はこの時自分の吐いた言葉を思い出すまいとしていたように思う。長い人生、これを生き続けるための諸々を言い訳にしながら、忘れた振りをしていたのかもしれない。
 H君は今も元気でやっているのだろうか。自分のやりたい仕事をやっているのだろうか。こんな場面があったということを覚えているだろうか。
 今この運河はすっかりきれいになり、昔日の面影は全く影をひそめ、日々観光客が絶えることのない人気スポットになっている。あれからすでに三十五年もの月日が経っているのだ。
 運河の淀みに自らの停滞した姿を重ね、ひたすら憂鬱に固まっていた私のモラトリアムを、私はちょっと懐かしく思い出したりしている。


第十七章 書くことの始まりに向かって(清水丘②)

小樽を離れても、書くことを誘うこの町の風景の力はずっと感じていた。故郷を離れ、時が過ぎ、ふと振り返ると現れる運河や坂や小路の数々。これに若き日々のあれこれの体験が重なり合って激しい望郷の念が生じ、その内部を言葉を駆使して覗いてみたくはなる。けれど、生活することの忙しさを理由に、長い間書くことをしようともせず、もう書くこともないような諦めさえ感じていた。だが、熾きのごときかすかな想いは消えることなく確かにまだ残っていたのだ。
 強い郷愁の想いを言葉で繋ぎ、ひとつの固有の世界にして表したいという欲求。内に籠もった想いがちょっとした出来事に触発されて一気に表に噴出する。書くことの始まりは、三十数年ぶりに開かれた、清水丘に繋がる小さな集まりがきっかけとなった。それは二〇〇二年七月に開かれた、同級会を兼ねたT先生の還暦祝いの小パーティーだった。
 T先生は、大卒二年目で新一年生である我々の担任となった。年齢差はわずか十歳。この関係は、担任教師とその受け持ちの生徒というより、ちょっと年の差のある兄弟[妹]のような感じだ。まさに新鮮な関係で、今思い出しても弾むような雰囲気の教室の光景が甦る。T先生と出会えたことは、私の人生においてはまさに幸運そのものだったと思う。
 そもそも一人の人間が、小学校から大学までの就学期において、担任のような緊密な関係を結ぶ教師はせいぜい十人くらいだろうが、この限られた数の中から、自分の人生にとって何か大きな影響(それもプラスの)をもたらす出会いを得るというのは、ある意味で奇跡的なことかもしれない。その後の成長にとってマイナスの影響を受けることなく、生きることの価値を感じさせるような師との関係が築けるとしたら、それは本当に幸運なことで、私の場合は、その少ない数の中で、二人もの師を得ることが出来たが、そのうちの一人がT先生だ。彼に出会えたことが、私の中に潜んでいた、書くことの欲求を目覚めさせ、刺激し続けたのだと思う。
 確かに長い間、その気持ちは日々のせわしない暮らしに埋没してはいたが、消滅することなく残り、そしてT先生を囲んだ、あの小さな集まりをきっかけに再び沸き起こったのだ。T先生のクラスで過ごした、忘れようもない青春の日々が蘇ったのだ。
 書くことの始まり、その変化が一旦動き出すと、これだけは書きたい、残しておきたいという潜在していたいくつものイメージが次々と浮かび上がってきた。裏通りの女と、銭湯の前で出会った母子、雪の坂道で目にしたKの笑顔、石山での血の体験、橇を押しながら母と歩いた雪の夜道、駅のホームでのAとの別れ、性の目覚めと竜宮湯のポスター…、それやこれやは、みなどれもが我が小樽の青春を彩る、忘れ得ぬ記憶だ。だが中には加齢と共に、消滅の危機にあるような危い記憶もあった。霞んだ像がぼんやり見えるだけの微かな記憶。今書き留めなければそれらはただ消え去るだけだ。ならばと、さらに多くの思い出を掘り起こし、連ねてストーリー風のものに積み上げてみる。こうして、幼児、小学校、中学校、高校、浪人、大学、そして現在までもの一連の小樽物語の全体像が、曲折を経ながらも、何とか繋がり、明らかになってきた。
 五十路を越え、人生も終盤に入るころ、己の人生を振り返る時期にも重なっていて、我が青春の聖地「清水丘」を中心的イメージに物語を構築しようとの想いは、極めて自然に湧き上がっていた。そしてこれこそが、書くための強いモチベーションとなって私を突き動かしたと言えるだろう。この地に通ったのはわずか三年だが、ここには己のすべてが凝縮されているはずだ。果たそうとして果たせなかった若い想いに再び迫ってみよう。そのための方法に迷いはなかった。同人誌だ。「清水丘」の青春を描く同人たちの熱い気持ちを結集するにはこれに勝る形態はない。
 かくして同人誌「清水丘」は、ローカルな地で繰り広げられた、ローカルな青春群像劇を活写する作品となって、二〇〇三年春まだ浅きころ、創刊の運びに至った。あの小さな集まりに激しく刺激されてから、それは八か月後のことだった。四十年も前の、小樽と清水丘で繰り広げられた青春の物語は、「清水丘」という固有の世界の創出を目指して、ついに書き始められたのだ。

 清水丘は創刊号発刊後、二号(二〇〇四年六月)、三号(二〇〇六年二月)と続き、これをもって目出度く終刊した。清水丘と小樽の青春を存分に描いたいくつもの作品がここから生まれ、さらになお可能性を残しながら、同人誌「以後」に引き継がれ現在に至っている。
だが終ったとは言え、表現したいその内容に応じて、臨時号や特別号を自在に編むことが可能であることからすれば、清水丘の世界は今もなお継続進行中であるとも言える。パソコンによる自家版制作というこの時代にふさわしい方法によって、食ならぬ、書の自給自足を現在果敢に追及中だ。
清水丘は、ある時期の、ある世代のローカルな青春像を描くという当初の意図を達成し、その目的を十分成し遂げたと思っている。この間、書くことの苦しみと喜びを行き来しながら、創作活動のもたらす充実を体験し続けてきた。そして今、連作短編集『遠くの私へ』(二百五十枚)に続き、連作エッセイ集『小樽ストーリー』(第一巻、百二十枚)を書き終え、我が創作史としても一つの区切りを迎えてみると、年をとるという現実、ものを書くという意味、清水丘の果たした大きな役割、さらに人生の面白さ、といったことが、それぞれに激しく呼び合っているのを感じる。
あの眺めのいい小さな丘に発した青春が、はるか遠くまでやってきた老境で、その真の意味を初めて明らかにする。これぞ人生の皮肉だが、それもまたよし、ということで、清水丘よ永遠なれだ。 


第十八章 時を超えた同人との出会い(塩谷)

 死ぬまでにしたい…のこと、以前そんな映画があったが、ある頃からか、私も似たような感覚をもつようになっていた。もっとも私の場合、…したい、ではなく、死ぬまでに会いたい…名の人、だった。今の状況からすれば、それはほぼゼロの可能性に近いが、それでも、もし何か稀な巡り合わせに恵まれるならば、ぜひ会ってみたい、そういうリストを、いつの頃からか戯れに作っていた。
 いつも一緒に遊んだ幼馴染のNちゃん、中学のクラスメイトで、その特異な人柄を秘かに賛美していたFさん,消息不明になってしまった旧友のA君、高校二年の夏、他所へ転校していった美貌のSさん,サラリーマン時代憧れていた先輩のOさん…。残り少ない人生を考えれば、出会いのチャンスはまずないだろう懐かしい人々との再会を夢想することは、彼(女)らと過ごした青春の時を呼び戻す楽しみにもなっていた。
部活の後輩だったEもその中の一人で、彼女にはぜひ会いたかった。記憶に残るEとの最後のシーンは、東京に暮していた頃、小金井の狭いアパートの玄関脇にあった黒い電話器の向うで聞いた、彼女のくぐもった声だった。それはひどく後味の悪い、自分でも納得のできない半端な結末だったが、それでもリストの上位にEを載せることに躊躇いはなかった。
 確かにそのリストは、半ば冗談のつもりでこしらえたものだから、時折、ふと脳裏をよぎることはあっても、その実現のためにどうこうするなど、真面目に考えたわけでは決してなかった。小樽を離れて田舎町に住むEとの現実的な接点はすでにないに等しく、その再会はやはりリストの上だけの架空のものに思えていた。だがやはりリストを作っていたことの意識は、奇縁を引き寄せようという、何らかの行為に繋がっていたことは間違いないのだ。その意識があればこそ、私はUにあえてあんなことを尋ねたのだから。
 それは三十数年振りに開かれた、高校一年時の同級会でのことだったが、会場で隣の席に座ったのは,母校の教員となっていたUだった。その会の参加者は女性が圧倒的に多く、男性は僅かだった。でなければ、当時それほど親しいわけでもなかったUと隣り合わせになることなどなかったろう。久し振りに会った彼との世間話の中で、私はUの口から何気なく出た、母校出身の同僚教師のTという名前にすぐに反応していた。Eの夫が数学の教員であることを、私はどこかで聞いていたような覚えがあったからだ。T先生の奥さん、…部にいた子じゃないかな、そんなふうにUに聞いたのは、遊び心で作ったリストとは言え、私がそこに挙げたEとの再会を、かすかにではあるが、やはり本気で望んでいたからだったろう。そして私のその行為は、期せずして伏線となり、ずっと後に大きな実を結ぶことになったのだ。
 予想外の突然のメールが私のパソコン画面に現れたのは、同級会でUと会話してから、すでに七年もの歳月が過ぎたある夏の朝のことだった。「Y高のC先生にアドレスを教えて頂きました。何と信州で…」。この予期せぬ驚きのメールが、長い間音信もなかったEとの再会の始まりだった。
 Cは、私の高校二、三年時の同級生で、例の数十年振りの同級会で帰省した折、急遽連絡のついたHを含め三人で会っていて、メールアドレスも交換していた。そのCが偶然にも、Eの住む海辺の町の高校で教鞭を執っていて、同じ教師仲間のEの夫とも親交があったらしい。それやこれやの運命のつながりを思えば、Cと会ったその時点で、後に実現したEとの再会の舞台は、すでに幕を上げ始めていたということかもしれない。

 塩谷駅近くにあるバス亭で待ち合わせ、約束の時間に私は、レンターカーで国道沿いにあるそこに向かった。厚い雲の垂れ込める寒い日だったが、それはいかにも北の海辺の浜には似つかわしい冬の陽気だった。助手席に滑り込むように乗り込んだEと、短く再会の挨拶を交わすや、長い不通の壁はすぐに消えた。私たちは高校時代のように容易に打ち解け、車で海岸通りをドライブしながら、会話の調子を加速させ、空白の時を埋めようとした。わずかな時間で、その厚い隔たりを解消するなどどだい無理な話だったが、それを強いるものがあったのは確かだ。
 病気療養中の母を見舞う急ぎの旅のもう一つの目的でもあった伊藤整の記念碑を訪れ、その高台から濃い鈍色に広がる塩谷の海を眺めた。師走の雪の季節に、この年齢でまさかこの地を踏むなどとは想像もできないことだったが、Eから届いた不意のメールは、彼女に会うことと、敬愛する作家の碑を訪ねるという、二つもの念願を叶えてくれるきっかけになった。深くはなかったが、すっかり雪に埋もれてただ寂しいだけの景色は、それでも静かで美しかった。若き知的な小樽の青春像を活写した整の碑は、おそらくは半世紀前とさほど変わらぬ、この寂れた美しい海浜を見つめながらしっかり建っていた。夏であれば、それなりの賑わいもあるだろう塩谷の浜も、この冷たい季節にあっては、多くの海鳥だけが羽根を休める、寒々しく荒寥とした眺望が広がっているだけだったが、若き詩人の整も眺めたはずの、この景観を見つめながら、私はしばし時空を超えた想像域の中で遊び楽しんでいた。
 その後私とEは、港を見下ろす丘の喫茶店に行き、この年齢の大人の男女とは思えない、長い対話に終始した。その昔、Eとはよく花園町の角にあった純喫茶で苦しい会話をしたように記憶するが、今この時にしたKとのおしゃべりは心地よかった。多くの時を過ごし、互いに築いた確かな支えがあることで、多少の余裕が出来たせいかもしれなかった。

 喫茶店で渡されたEの作品を読んだのは、どうにも寝付かれず過ごしたその夜のことだった。少女時代に、港の外国船で味わったちょっとした体験を、性に目覚める少女期の敏感で危い感情に重ねながらリアルに描いた小品に、私は激しく感動し、不覚にも涙さえ流した。懐かしい港小樽の潮の匂いをたっぷりと漂わせたそのエッセイは、当時同人誌清水丘で、私的な小樽の青春を描こうと苦闘していた私に、時と空間を一気に跳び超えて、強く呼びかけてきた。
 私の書いた既刊のいくつかの作品群に、このエッセイはまるでエールを送っているようにも感じられた。それぞれが、まったく異なる時と環境で書かれた作品にもかかわらず、見事に応じ合っていた。何ということだろう。清水丘が長く求め続けながら、しかし得られなかった待望の作品に、まさに出会ったのだ。ベッドの中で、私は眠ることを忘れ、この出会いの衝撃にひどく興奮したまま出立の朝を迎えた。
 昼になって私は、朝の興奮をずっと引きずった状態で帰りの空を飛んでいた。機内の狭い座席に閉じ込められながらも、その昂ぶる気持ちを忘れまいと、この稀有な出会いを具体的な形にして残すことだけを考え続けた。
 Eの作品を清水丘に迎え入れるために、私のどの作品を用意すればいいのか。あるいはそのために、全く新しい作品を執筆する必要があるのか。いずれにせよそれは、同人誌清水丘の出発点に据えた、あの地の青春を共有するものとしての同人誌の創造という、基本的なアイデアを実現することに他ならなかった。Eの作品に触れたことで、その当初の念願を成就することが出来るかもしれないという熱い想いが、激しい波のように押し寄せていた。決定的な何かを欠いたまま終刊した清水丘に、魂を込めることが出来るかもしれない。私ははやる気持ちを落ち着かせようと、下方に広がる厚い雲海をただじっと凝視していた。


終章 物語の終わり・母の死と家族の終焉(小樽)

 その日の午後、畦草刈りをしているとポケットの携帯が鳴った。札幌の姉からで、朝方容態の急変した母が死んだという。この後のことについては追って連絡するが、葬儀の日程は多分…になるだろうと言って慌しく電話は切れた。空を見上げると高い太陽が激しく照りつけていた。三十年前、父が死んだのもちょうどこの季節で、小樽にしてはやけに熱かったのを思い出した。父のときは臨終に間に合ったが、今回は予想外のことで、入棺にも間に合いそうもなかった。これで親なし子になってしまったという思いが急に迫ってきた。年齢からすれば当然かもしれないが、いよいよ次は自分の番だと思うと、なぜか突然老け込んだ気がした。これまでは親が生きていたから、その分まだ先のこととして死はあったのだが、母の突然の訃報は、己の人生の先行きがそれほど長く続いているのではないことを明らかにした。
 次にくる姉からの電話を意識しながら、刈り残した畦がまだ少しあったので、これだけは片付けてから家を離れなければと思い、いつもより気ぜわしく作業を続けた。米作りとしては、ちょうど折り返し点で、少しの間なら田の管理を休んでも問題はない時期だった。かつて農民だった母が、まるでそのことを考えてくれ、作業に支障のない時期を選んでこの世から旅立ったようにも思えた。
 姉から続いてきた電話では、予想通りの葬儀日程だったので、それに合わせ急いでチケットを手配した。まだ人の行き来の混雑する前ということもあり、廉価の航空券を入手するのは難しくなかった。これがもう少し遅ければ、夏季の移動シーズンと重なり、チケット入手に余計な時間と費用がかかり、札幌までの旅路がずっと遠くなったはずだ。その意味でも、母は後のことまでも考えて逝ってくれたような気がしてありがたかった。

 羽田の出発ロービーで搭乗開始時間の来るのを待っていると、横のほうで人の動く気配がし、そちらを見やると、女の子二人を連れた女性がいた。小さな子は、二人で母親に纏わり付くように、せわしなく動き回っていた。一瞬その母親と目が会うなり私は「祐里子か」と声を発していた。彼女もやや遅れて気がついたようで、「おじさん」と小さな声で言って軽く会釈をしてこちらに向かってきた。
 さっきまではしゃいでいた女の子たちは、警戒し、訝るような眼差しで私を見つめて押し黙っていた。
 「結婚式以来だな。何年経った。」「七年です」「姉さんから聞いてはいたけど、女の子二人なんだね、大変だね」
 突然の姪との出会いに驚きながら、姉の娘という近しい関係にもかかわらず、何だかひどくよそよそしい感覚が付きまとっていた。
 「子供は、何歳になるの」そんなありきたりの言葉しか発しようのない白々しさにとらわれ、会話を繋いでいくことがひどく億劫だった。たしかに姪に会うのは久し振りだし、それを除いても、親戚とは言え昔のような家族間の濃い付き合いがない中で、疎遠な姪に対してどう対応していいのか戸惑いながら搭乗のアナウンスがあるのを待っていた。
 長野に住む息子と、千葉に住む孫とひ孫とを、羽田のとある場所で落ち合わせる。広いこの国で遠く離れて住む近親者を、ピンポイントで接近させたこの邂逅の縁は、死んだ母が最期にお膳立てしたとしか思えないほど偶然の出来事に思えた。死に臨んでは何かが起こる、としばしば聞かされてきたことが、母を送る旅路で、私の身にも起こったのだろう。そういうことがあるんだな、と自然に思えるほどこの出会いは稀なことには違いなかった。二年ぶりの北への旅は、最初から母に見守られているような妙な気分で始まっていた。

 二年前の初冬、最後に母に会ったとき、すでに母は寝たきりの人になっていて、私との意識的な会話はもはやできなかった。ただ私のことは分かるらしく、じっと見つめる眼差しはまだ虚ろではなかった。流動食のようではあったが、自分の口から飲食する力はかろうじて残っていて、私の持参した自家産の蜂蜜を口にすることはできた。身体はひどく小さくなっていたが、閉じた口元には意志の力は感じられた。 
 その後胃瘻手術を受け、体力は維持されていたが、意識のほうは曖昧になり、数日置きに見舞う姉たちとのやりとりも漠然としたものだったようだ。寝たきりで二年ほど病と闘い、最後の半年ほどは朦朧としていたらしい。連絡のあった前夜あたりから病状が急変し、臨終は鬱血性の心不全であっけなく逝ってしまった。
 
 夕方指定された札幌の斎場に着き、我が家の控室に入ると、そこには懐かしい面々がすでに大勢そろっていた。顔を合わせるや、口々に挨拶を交わしあい、悼む言葉に続けて久し振りの再会を懐かしがった。
 悲しみの場ではあったが、享年も九十の長寿ともなると、むしろよくぞ生き延びたという賛辞も混じっていて、その再会はほどなく思い出話で盛り上がっていた。その人柄から求心力のあった母が健在のころは、それぞれ離れてはいても折々集まることも多く、母方の叔父や叔母そして同年代の従兄弟たちとは気心の知れた仲だったから、長の不通とはいえ、打ち解けるのに時間は要らなかった。
 母が弱ってからは、みな行き来することもなくなり、深川の叔父夫妻と会うのも十数年振りだった。八十五になるという叔父は、今なお現役の百姓で、腰はひどく曲がってはいるものの、その言動は昔と変わらず明快だった。札幌に独り住む叔母は、八十を過ぎてもはつらつとしていて、昔と変わらぬ陽気さは健在だった。札幌在住の従兄弟たちとは三十年振りだったが、直ぐに…ちゃん付けの親しい会話に入っていった。サラリーマンの彼らは、それぞれ定年近い年齢だったが、この場では幼い日々に戻って和やかだった。これを最後に彼らと再び会うことはないかもしれず、その意味でも、母は、その死をもって、昭和の長い時代を生き延びた我がファミリーの最後の宴を準備したのかも知れなかった。

 七人兄妹の長男であった父と、五人兄妹の長女であった母は戦前結婚したが、ともに互いの伴侶を病気で失い、戦後縁あって子連れで再婚した。父の連れ子であった兄とは八つ違い、母の連れ子であった姉とは六つ違いで、下の二つ違いの姉と私が再婚後に生まれた。通常二つの家系が繋がる婚姻が、父と母の場合、四つの血統が結ばれて戦後の昭和を生き続けることになった。
 幼い頃はそんな経緯を深く考えることもなしに、年の違いのせいで、兄や上の姉との距離だけを感じていた。兄も姉も高校を出ると早々に就職し、社会人として自立していったこともあって、一層私との隔たりは大きかった。兄妹としての親密な付き合いもさほどないまま、気がつくとそれぞれが所帯を持ち、離れて暮らしていて、いっそう付き合いは疎遠になっていた。
 父の死後、母が札幌に移っていくと、小樽という固有の土地と長く繋がって維持されてきた我がファミリーの絆は一挙に薄れていった。古い時代の家の名残は、長兄が保持していたが、その父が亡くなり、母も小樽を去ってしまうと、柱となる存在が消滅し、後はそれぞれ老いた叔父や叔母たちも、自家のことで汲々とし、大きなファミリーの結束は失われた。
 もし時が時であれば、父の後を兄が継いで、このファミリーのまとまりを先導していく立場であったろうが、もはやそうしたまとまりを必要としない時代になっていた。その上兄は最初の結婚に失敗し、その頃生じた不始末の処理を母に依存しようやく更生した。だが、再婚相手となった女性と母はその関係をこじらせ、同じ屋根の下に暮すことが出来ず、母が手稲のマンションに移って一人暮らしを始めてからは、兄との関係は完全に希薄になった。母と兄、そして兄弟[妹]間にも埋めがたい大きな溝が出来、その後ずっと尾を引くようになった。物心がついてからというもの、幼い心に私が感じていた大きな家族というまとまりは、この家族が小樽という町と繋がってから百年ももたずに自然に消えようとしていた。
 結局近くにいる姉二人が、独り暮らしの母の部屋に行き来し、なにくれと世話をし、その後母が弱って介護専用病棟に入院してからも、姉たちが代わる代わるに見舞いを続けた。家族の絆というより、母と娘という固いつながりが母の闘病を支えることになった。遠くの私は、姉からのメールで母の様子を聞くだけだった。曖昧な意識で病床に伏せる母へ、季節の便りを書く度に、私はいつもただ空しかった。

 自立した女性の先駆けであった母は、子供たちに経済的な負担をかけることなく、長い商売活動で得た蓄えや年金で日々の暮らしの費用や入院中の経費をまかない、その意味でも晩年を見事に自立して生きた。手仕事に長け、花や自然を愛し、リュウマチに苦しみながらも、その積極思考は変わらず、老いてもいつも前向きの姿勢で生きていた。
 自営の商売人として働く母の姿を見て育った私は、女性が自覚的に働くことをごく自然なこととして受け止めてきた。夫婦共稼ぎという家政のあり方は、家計を維持し発展させるには悪くない戦略として感じていた。それによって父がそうだったように、男性が育児や家事をすることも当然のことだと思い、それによって男性も女性も人間力が培われるというのが私の考えの根本に培われた。母の商う姿、自立的に生きる姿が、幼い私に与えた影響はとても大きかった。そしてそのことは、私の人格を作り上げるうえでも大きな役割を果たし続けた。

 葬儀会社の取り仕切る滞りのない儀式は時間通りに淡々と進んだ。途中、ひどく若い僧侶の悟り済ました語りが耳障りに聞こえたが、すでに母が遠くに逝ってしまった以上、この儀式はまさに生者のための後の祭りに過ぎなかった。
 夕方遅くすべてが終わり、集まって来た親類の人々は三々五々散っていった。「また会いましょう」と言いつつ別れたものの、その年齢や境遇からして、おそらく彼らとはこの後もう会うこともないだろうと思うと、何だか本当に人生のあっけなさを感じた。彼らが亡くなれば、それぞれに関わる家族の誰それとはもはや知り合うこともなく、ただ系図上に記される名義だけの縁者になることだろう。私が幼い頃から長い時間をかけ体験してきた大きな家族像は一気に縮小し、遠からず誰もその詳細を記憶に留める者はいなくなるだろう。
 参列者が去り、片付けの始まった斎場を見回すと、家族が終焉する、そんな切羽詰った感覚がいきなり迫ってきた。母の死が最後に私に残したものは、父の最期に感じたものとはひどく違っていた。これで終わりだという諦めに似た感情は、今までに感じたことのないほど重いものだった。たとえ成人したとして、老人になったとして、母が生きている間は、彼女の前ではずっと子供としていられる安らかな気分があった。その気楽な気持ちがある限り、故郷に想いはつながり、遠くにいても私は居心地よく生きていられた。郷愁を自分の中で抱き続けられる幸福は、母がいればこそだったろう。父亡き後、家族の要として長く生き続けた母が死んだ今、私の望郷の想いはその居場所を失って、縮んでいくしかなかった。後ろを振り返り最後まで残った姉夫婦と斎場を出るときには、北の夏とはいえ、予想以上の熱気が肌にまとわりついてきた。
 「終ってしまって、何だかぐったりだわね」姉の発した微かな言葉を聞くと、にわかに私も疲れを覚えた。

 その夜一晩姉の家に世話になり、翌日の昼前、私は小樽に向かった。「もう一日くらい泊っていけばいいのに」、私の行動を恨むように姉はそう言ったが、最後になるかもしれないこの帰省の残り時間を、私は小樽で過ごしたかった。小樽の町の匂いを記憶に残しておきたかった。

 二十年に満たない小樽での暮らしではあったが、それは私の人生で最も大切な時であったことは、その後幾つかの場所で暮してみて初めて分かったことだった。故郷とはそういうものなのだと、今なら素直に言うことが出来る。だがその故郷が故郷であるための肝心の繋がりを失ってしまった以上、もはや私の小樽への想いも変わらざるをえないだろう。そこへ帰りたい、という弾んだ気持ちが抱けないなら、帰省する幸せは大きく損なわれるだろう。私と私の家族が繋がって築いた小樽の町との小さな物語は、明治期に遡り、昭和という時代に大きく展開したが、今後これ以上進展することは有得ないだろう。家族が消滅し、物語が終っていく。私はそのことをただ確かめるために、二番線のホームから、小樽行きの快速電車に乗り込んだ。




 

                                                                                                                                                                  

小樽ストーリー

小樽に特化した作品を集めた同人誌「清水丘」は三号で終刊したが、それを引き継ぎ新たに編んだ同人誌「以後」十二号(随筆集)と続編の十三号(短編集)で、一応自身の小樽への強い想いを、ほぼ十分に作品化できたように思う。およそ十年にも及ぶ小樽病ともいえるような執着を、自ら構想・執筆することで、何とか冷静に見つめられるようになったかなとも感じている。この間、本当にいろいろなことがあって、いろんな人とも再会でき、一人の人間としてだけでなく、物書きとしても成長させてもらった。潜在的にある何かを、書くことで顕在化し、その世界と向き合い緊張関係をもつということに、文学(芸術)の存在価値があるわけで、その意味ではようやくこの年齢になって文学に触れている実感がある。気力の衰えぬ間は、これからもこの刺激的な活動を続けたいと思っている。

小樽ストーリー

北の港町小樽に生まれ育った著者の幼少期からの思い出を綴った19章から成るライフストーリー(約130枚)。幼少期から現在までに至る長い人生と小樽との関わりを、象徴的な体験をもとに描き出した、壮大な小樽物語。

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 成人向け
更新日
登録日
2016-02-02

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