僕の話

遠藤武志

40前の僕のそれなりに壮絶な人生

昭和53年1978年4月サンシャインが開館した一週間後の4月27日東京都の産婦人科で生を受けた。
父は建設業の圧接という業種をやっていた。母は専業主婦。父方の祖父は健在で祖母は父が高校生の時に他界していた。
5歳上の姉が一一人、3歳上の姉が一人の3姉弟の三番目の長男として生まれた。
また3年後には妹が生まれ結果的に3姉妹の中の男一人になる。
小さいころは姉や妹と養父君もおもちゃも合わないので色々買ってもらった記憶が微かにある。
また、徒歩30秒くらいのアパートに父の弟夫婦よ子供、父の夫婦と子供が住んでいたのでよく従妹と遊んでいた。
およそ一年後に現在も住んでいる家に家族で引っ越してきた。
当時の日本は建設ラッシュで父の仕事も休みがないくらい忙しかったらしい。
3歳の時に祖父は亡くなった。
脳梗塞だったらしい。
記憶にあるのは、御通夜の時に僕が鼻の穴にパチンコ玉を入れ取れなくなったことだ。
幼稚園は地元のlすみれ幼稚園に通った。
同じ年の従妹も一緒に通った。
時には、従妹の家に泊まりに行き、そのまま幼稚園に行ったりもした。
幼稚園では、保母さんが初恋だった。
同時に金子ちえちゃんも好きだった。
そして年長の時に父に小学校受験をするように言われたが幼稚園を休みたくないとの理由これを断る。
今思えば数多ある人生も選択肢のなかの間違いの一つである。
そして幼稚園からおデブだった僕は小学校に入学した。
小学校でのテストは親も驚くほどテストの点数はよかった、
一年生の時習字の時間担任の先生に書いてもいいと言われる前に書いてしまった。
すると痰飲は激高した態度で僕の書いてた半紙をとれ上げビリビリにに破った。
僕がその後何もせずに座っていると担任は授業を受けたいならゴミ箱から破った半紙を拾って
やりなさいと言ってきた。
僕は何の疑いもなく半紙を拾ったが、両親はそれを許さなかった。
家に帰って一連の流れを話すと父は非常に怒った。
翌日には、学校に乗り込んで行った、
うちの子は乞食ではないといった。
今であれば担任のしたことは大問題だろう。
しかし当時はそんなことは当たり前だった。
一年生二年生と特段普通の子と変わりなく過ごした。
四年生の特に徒歩遠足で秋ヶ瀬に行った際、大きな水たまりをジャンプしようとして
滑って尻餅をついた。
水際だったのでズボンはどろどろになった。
担任が母に連絡をしてくれて昼ごろに母が自宅から自転車に乗ってズボンを届けてくれた。
当時に母は車の免許を持っておらずわざわざ自転車を飛ばして持ってきてくれた。
今後大人になるにつれ母に迷惑をかけるようになるとは夢に思っていなかった。
小学校3年ころまでは健康に成長せていった。
しかし、小4の夏父が入っていたロータリークラブの活動の一環で熊本の菊池にホームステイに行った。
熊本には父も同行したいた。
同じ年の従妹も一緒に行った。
熊本に向かう飛行機の中飛び始めて間もなくするとやけにのどが渇いた。
CAさんに飲み物をお願いすると親切に持ってきてくれた。
しかし、5分もたたないうちにまたのどが渇いた。
飲み物をお願いする。すぐにのどが渇く。
を何度も繰り返した。
するとCAさんから
「少し飲み物を飲みずぎじゃない?」
と言われた。
飲み物を飲めば当然トイレに行きたくなる。
僕は、飲み物を飲む、トイレに行くを搭乗中繰り返した。
一緒に乗っていた父は異常に築いていた。
しかし帰るわけにもいかず熊本に行き、菊池市で一週間程度過ごした。
しかし夜寝ててもトイレに行きたくなるし、日中は喉が渇いて仕方なかった。
今考えると非常に辛かった。
それでも、菊池は楽しかった。
川で泳いだり、お祭りに行ったりおもちゃを買ってもらったりした。
一週間程度のホーミステイも終わり家路についた。
まもなく四年生になり健康診断があった。
僕は尿検査で再検査となった。
糖が出たのだ。
すぐに再検査するように学校から言われた。
連絡を受けた次の日には埼玉中央病院に診察に行った。
なぜか父と一緒に行った。
血液検査と尿検査をした。
検査も終わり帰ろうかと思ったら先生に呼ばれ
緊急入院することになった。
血糖値は600を超えていた。
医書からは意識があるのが不思議だと言われた。
昼飯はもう病院では用意できないので近くで食べてきてくださいとの事だった。
父と二人で病院裏の洋食屋で食事をした。
チキンカツを食べたが、今でもその味が忘れられないくらい美味しかった。
その後何十年後かに同じ店にいたが味もーも全く変わっメニューも全く変わっていた。
緊急入院はとても辛かった。
このころはまだ妹も小さく母は昼間来てくれた。
家には祖母がいてくれたらしい。
父は起床後の朝六時半とかに突然来た。
また、日中も仕事の合間に来てくれた。
妹も母と一緒に来てくれた。
妹は僕に唯一の楽しみであるトライデントガムをほしがった。
3粒のうち一粒を妹に挙げると妹は美味しくないと言って
すぐに吐き出した、
当時はカロリーゼロやシュガーレスの商品はなかった、
唯一当時からあったのがダイエットコカ・コーラ今でいうコカ・コーラZEROだ。
小児科の先生はダイエットコカ・コーラだけは飲んでもいいと言ってくれた。
幼児の病院食はひどいもので子供だからといいって子供用の食事ではなく大人とと変わらないような食事が出てた。
主にほうれんそうのお浸し、鱈のボイルちなみに無味、果物等の糖分のあるものは出ない。
ふりかけのみオーケー。
今思えばそういう食事をしていれば合併症に心配もないのだろう。
しかし、小4の子供が僧侶のような食事で満足できるわけもなく医師の許可のもよところてんを
食べたりしていた。
また、母と妹が面会時間まで居てくれた時は一階のロビーでカップの梅昆布茶やコーヒーを飲んだりした。
たまに飲むそれがたまらなく美味しかった。
退院の日迎えに来てくれたのは親戚の叔父と母だった。
およそ一か月ぶりに帰る家は姉妹もいて楽しかった。
退院の日だけは特別に食事療法から解放された。
それでも暴飲暴食することはなっかた気がする。
母が僕の好きなハンバーグを作ってくれたのイ補よく覚えている。
どんなに食生活に気を付けていてもやはり成長期には食べたいといううのが現実だ。
小6の夏休みに僕はまた入院した。
今思うと本当に定期的に入院してる。
その後も中二。高2と入院した。
高校は地元では有名な甲子園にも常連の私立の高校だった。
高校一年の時に違う高校の女子と付き合うことになった、
友人の紹介だった、

僕の話

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
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