緑の太陽
窓から差し込む夕日により、僕は目を覚ました。開いている自室の窓から入る風が、五月の爽やかさと、田舎の夕暮れの切なさををはっきりと感じさせてくれた。
ちょうどあの日みたいだ…。僕の脳裏には十年前の思い出が蘇るーー。
誰かが体を揺さぶっている。一体誰だろうと目を開けて見ると、幼馴染のユカリが制服姿でまだ起きないのかという怒りと、泣いているようなよく分からない顔で横にいた。どうしたんだ、と聞いてみると僕の家で飼っている猫に腕を引っ掻かれただけのことだった。そんなことで叩き起こさないでくれと思いつつも、真にユカリが痛がっているのを気の毒に思った僕は、ユカリの腕に絆創膏を貼り、傍らにある漫画本を手にした。
ふと何か思い浮かんだ顔で、ユカリが尋ねてきた。
「そういやタクミ、今年は入月河でホタル見るの?」
僕らの住んでいる町には初夏に入ると花火大会などの行事ではなく、入月河という川で毎年訪れるホタルたちの光を嘱目するという伝統的な行事がある。
「うーん、今年は一緒に行く友達がいないんだよな。」
これは僕に友達がいないという訳ではなく、友達がみな恋人をもち、僕は一人おいてけぼりになっただけのことだ。
「どうせ皆彼女をつくって一人ぼっちになっただけでしょ。」
お前もじゃないか、と口走ったりしたら「うるさい!現にタクミは一回も彼女できたことないくせに。」なんてのがお決まりだから僕はすぐに閉口した。これからわかる通りユカリもまた、他の友達とおいてけぼりだった。
「まあ早く良い娘見つけなよ!」
そんなこと分かってるよ、と言いたげな顔で僕がユカリを見た頃には、彼女はもう帰る支度をしていた。猫に手を振り「もう帰るね。」と言った。僕には挨拶はないのかと思いつつ茜色に染まる風景に溶け込んだ彼女の背中を見つめていた。
幼馴染のユカリについてここで詳しく話しておこう。
まず僕と彼女は産婦人科でゆりかごの隣人であるときから事実上出会っていることになる。そして彼女とは幼稚園から小中高の今に至るまでずっと一緒だったわけだ。
彼女の両親について、母は専業主婦をやっており、父は医者である。
容姿については僕からは何も言えないが、周りの友達の何人かは可愛いって言っていたから悪くはないのだと思う。(彼氏はいないが)
周囲からすればこんなに一緒にいる時間が長く、それなりの仲であったのにも関わらず、何故一度も恋人同士の関係に至らなかったのかが、さぞ不思議でたまらなかっただろう。別に僕がその気でなかったわけではない。むしろ長きに渡り過ごしてきたので、僕の中では家族同様の存在になっていたんだ。しかし、彼女はそう感じてはいなかったのだと思う。
これから綴るのは、そんな僕と彼女とのひと夏の大切な想い出である。最近ではよくある内容のタイトルだ。
十八年目の七月になった頃、ある日僕は家で久々の猛暑の中、庭の花に水やりをしていた。庭の花達はなんだかすでに潤っている様にも見えたが、こんな暑い日は滅多になかったので水のやりすぎなんかはどうでも良かった。
「あ!もー、私が水やりしてやってたのに。」
背後にある塀の上から小さな顔をひょっこり出したユカリは、ちょっと怒った表情で僕に言った。
「こんなに暑い日はまだやり足らないよ。」
少し冗談交じりでユカリにそう言うと、彼女は自分の背丈以上にある塀を猫のように飛び越えて蛇口の栓を閉めた。その後、彼女が
「暑い!中に入れてー。」
と言うので、さすがに外にずっと立ちっぱなしだった僕も熱中症になるのが怖かったため、手に持っていたホースを蛇口にかけてすぐさま玄関に戻った。
冷房のよく効いた自室にユカリを招き、ソーダアイスを渡した。彼女はすぐにアイスを口の中に運び、ありがとうと言った。しばらくして、少し寒くなってきたのか彼女は冷房を消し扇風機を付け直した。これから何をしようかと聞こうとした瞬間、彼女もまた同じことを聞こうとしたので、僕はそっちの方に耳を傾けた。
「タクミこれから予定か何かある?私、ちょっと行きたいところがあるんだよね…。」
彼女は珍しく少し恥ずかしそうにしていたのでなんだろうかと思った僕は、
「どこだよ。」
「…んー、河!。」
なんでだよとツッコミたくなった思いを胸に抑えて、僕らは河に向かった。もちろん、例の入月河であることは言うまでもない。
河に到着してからまもなく彼女は口を開いた。
「やっぱりここはいつ来ても良いね。今日はありがとうね、タクミ。」
そう言った彼女の急な優しさにビックリしてしまった。
「やけに素直じゃないか。なんか変な物でも食べた?」
「うーん…タクミがくれたアイスくらいかなー。」
「何だそれ。」
それから数分間沈黙が続いた。僕はその間、水中にいる魚達を目で追っていたが、彼女は終始なにか言いたげにそわそわしていた。僕の中でもやもやしていた気持ちが募り積もり、ついに僕は彼女に喋りかけた。
「なんだよ?何か言いたそうだけど、どうしたんだよ。」
驚いた顔をし、その後顔だけ笑ってこたえた。
「私ね先月から調子が悪いなって思って、一昨日お父さんに診てもらったんだ。ほら私のお父さん、心配性だから。それですぐに検査にはいって、そしたら…あのね、末期の癌を患ってるってお父さんから言われたんだ。あともって2ヶ月くらいだってさ、それで明日から市にある大きい病院で入院生活になるんだ、この事はタクミにだけは言わなきゃって思っちゃって、それでちょっとまだ時期は早いけど最後くらい好きな男の子と入月河に行きたくって。ごめんね?私のわがままで迷惑なことさせちゃって。もうなんか悲しいっていうか可笑しいって感情が芽生えてきて、可笑しいのはとうの私よね。」
意味がわからなかった、なんだよ急に…。え?こんなことって身近にあるものなのか?僕も彼女が言っていた可笑しいっていう感情が込み上げてきて笑い声をあげた。しかしなぜか、僕の頬に水気が伝わる。
「本当の本当に、急すぎないか?冗談だったら僕は女の子でも容赦はしないぞ。」
「私がこんな馬鹿みたいな冗談を本気の顔で言うと思う?やっぱりタクミはどうしても素直じゃないなぁ…。」
「ごめん、、まだ頭の中が整理できなくて。…てことはユカリ、自由に外にいれられるのは今日で最後なんだよな?僕でよければ今したいことだとか、そんなことは遠慮なく言ってくれよ。」
彼女は僕が喋り終えたと同時に口を開く。
「一緒にいて。」
可愛いなって思ったりした反面、少しくらい顔を赤くしてもいいじゃないかって思ったが自重した。
時刻は八時を回り辺りは暗闇に包まれた。
「そろそろ帰ろうか。」
そういた瞬間、…ぽつ…ぽつ、と目の前が緑色に染まってゆく。
「わあ…ホタルだ。毎年こんなに早い時期にでてきたことはないよね…。」
「僕も驚いた…。それにしても、やっぱり綺麗だなぁ。」
ホタルの明かりで彼女の表情を確認できた。とても嬉しそうだ。おそらく僕も彼女と同じ表情をしているだろう。
「タクミあのね、私ずっと…」
彼女が何かを言おうとした時、目の前の辺り一面がライブハウスのライトに照らされた、あるいはRPGのクライマックスシーンを迎えている様な感覚に陥った。すごい光だ、怪奇現象かとも疑った。
しかしそれは一瞬にして消えてしまった。ホタルがいなくなったかとも思えた。
後方から聞き覚えのある声が聞こえた。
「ユカリ!あんたこんな所にいたの。あんた今自分がどんな状況かわかっているんだね?」
やっぱり、おばさんの声だった。たしかに僕が親でも末期の癌を抱えた娘が夜八時まで家に帰っていなかったら死ぬ気で探し出す。
「ごめんね、心配ばっかりかけて。でも大丈夫だよ。タクミも一緒だから。」
存在に気づかれたから一応おばさんに会釈しておいた。
「まぁ、タクミ君もいたのなら心配することなかったわね。ユカリから聞いたと思うけど、明日から入院なのよ。ユカリもこれから寂しい思いすると思うから、お見舞いよろしくね。」
そういっておばさんはユカリを連れて帰って行った。残された僕は彼女の言いかけた言葉の続きをなんだろうかと考えてその日は終わった。
それから僕は一度もお見舞いに行くことはなかった。多分、もう会っちゃいけないんだと思った。あの時、おばさんに手を掴まれて連れていかれてる彼女の顔が僕には見えた。今までに見たことのない、泣きっ面だった。伝えたいことを伝えられない苦しみやもどかしさを死ぬ2ヶ月前に経験したんだろう。
実際病院には寄ったんだが、病室には常におばさんかたまにおじさんがいて、二人きりで話ができなかったから僕は顔を見せなかったんだ。彼女は後悔を抱えて死んでいったのだろうか?あいつのことだから、「呪ってやる!」なんて可愛い事を思ってくれてたらいいんだが。
緑の太陽