サドが丘

パイロットインク

事の始まりは机上のインク瓶をこぼされたことだった。そもそも同じ部屋に「あいつ」を置いておいたのが間違いだった。僕は締め切りに追われ、急いで執筆に勤しんでいた。僕は昔かたぎの人間だからワープロは使わない。インクに付けペンを浸して書く昔ながらのスタイルに固執していた。
あいつはヒコーキの玩具を片手で持ってブーンとエンジンの音を口まねながら虚空の空に玩具をヒラヒラとさせてヒコーキの飛ぶ真似を嬌声をあげながら再現して遊んでいた。そんな時だった、あいつがガツーンと僕に当たった。その拍子にインク瓶をペンでひっかけて倒した。インクはドボドボとヘドロのように机上を流れ、みるみるうちに草稿を侵食していった。
僕は即座に振り向き、「コラッ!」と一喝し鋭い眼光であいつを見た。
あいつはポカンとした面で僕を見ていた。僕はそれを何故か馬鹿にされているように感じた。ここから僕の鬼の奇行が始まる。
「なんだその目は!俺のことを馬鹿にしているのか!」
それからあいつの頬をつまんで、「この垂れた頬が気に入らない」とも付け加え、あいつの前に立つと、インクの着いたままの手で右の頬から思い切り平手打ちを加えた。あいつはワッと泣き出した。それにも怯まず今度は左頬を平手打ちした。頬にはインクによって僕の手形がついた。
「いたーい!」
舌っ足らずの口で時折むせながら泣き叫ぶあいつの口を僕はとっさにふさいだ。先の大作の印税と原稿料によって得た中の中ランクの仕事部屋のアパートだ。壁は薄いから隣り近所に虐待と思われては堪らない。児童相談所に通告されたらたちまちあいつを取り上げられる。僕の「趣味」の邪魔をされてたまるか。

プレイ・ルーム

泣き疲れて泣き止むのを待ってから、口から手を離した。
ぼろ雑巾で頬のインクを雑に顔がしわくちゃになるように拭き取ろうとしたが、落ちずに却って顔中はパンダの様相になった。 
僕はあいつを指差して高らかに笑いながら
 「お前、パンダみたいだな。今日からお前の名前はパンダだ。」
こうしてあいつのあだ名はパンダになった。

「いいか、おじさんの話をよく聞け。おじさんはお前に決して優しくしたりなんかしない。雨露しのげる屋根の下で寝かせてもらえて飯もらえるだけありがたいと思え。」

相変わらずポカンと口を開けて手に持った玩具を弄りながらもじもじして見上げて話を聞くパンダに、「聞いてるのか。」と怒って万年筆のペン先でパンダの額を突いた。すると、また目に涙を溜めて泣き出したので、やつの鼻をつまんだ。すると泣き声が鼻声になった。鼻をつまんだり離したりするたびに泣き声も鼻声になったり地声になったりした。僕はそれで笑いころげながらディスクジョッキーの如く何度も繰り返し遊んだ。悪魔の所業だ。やがてゲホゲホとむせ出した。
 「お前さ、泣くか咳するかどちらかにしろ。」
冷たく呆れ果てて突き放した。
泣き止んだところで、さんざん平手打ちを食らわせて腫れさせたうえにインクまみれにして汚したあいつの顔を机の引きだしから取り出した一眼レフカメラで二枚写真に収めた。幼児が苦しんだ泣き顔を撮って僕は悦に入っていた。

「俺はお前が悪いことをしたり約束を破ったら容赦なく罰を与える。さっき殴ったのはお前が悪いことをしたからだ。いいな? 返事は?」

「うん。」

「うんじゃない、゛はい゛だ!」

「はイ!」 

絶叫するぐらいにパンダは声を張り上げ調子外れに大きく返事した。

ハウス


目に涙を溜めたものの、今度は泣かなかった。
それから僕は町にある「ぶつ」を買いに出かけることにした。そこでパンダを一人で留守番させようとしたが、無理だと早々に見限って共に連れていくことにした。「遊び」の痕跡がばれないようにマスクをかけさせ、帽子を目深にかぶせた。
急いで戸締まりをして部屋を出て、パンダを抱っこして駆け足で階段を駆け降りた。自動車の後部座席に仰向けに寝かせた。チャイルドシートなんて洒落た代物は持ってないし持つつもりもない。
警察に見つからないための特別措置だ。
荒々しくキーを回してエンジンをかけると、車を急発進させた。
 「どこに行くの?」
目を擦りながらパンダが起きた。
 「黙れ。馬鹿!起きるな寝てろ。」

信号待ちやパトカーとすれ違う時は肝を冷やした。まるでヒッチコックのサスペンス映画だ。
こうして着いたところはホームセンターだった。
「10分で戻ってくる。」
声をかけたがパンダは眠っていた。
ダッシュボードの上で平仮名だらけの書き置きを書き、寝ているパンダの腹の上に乗せた。
   "すぐもどってくるよ。あとでおかしあげる。おにいさんより"

ホームセンターのペット用品売り場で大型犬用のゲージと、水飲み器、リード、首輪を買い込むと急いで車の中に戻った。トランクに荷物を入れる衝動でパンダは目を覚ました。メモを見てパンダが運転席のところまで乗り出してきて。
 「おかしは?」と言った。
「ほれ。」と不躾に言って差し出したのはドッグフードだった。
パンダはドッグフードと知らずにむさぼり食っていた。とても滑稽に見えた。
 「家に着くまで寝てろよ。起きたら承知しない。」
また車を急発進させてアパートに急いでもどった。ドアを開けると、我先にと家に靴を脱ぎ散らかして入っていこうとした。
僕はパンダの髪の毛を掴んで頭をぐるりと90度回し、
 「靴、手洗い。」とだけ言った。
するときちんと靴を揃えて上がり、手洗いをした。こいつは僕のことを最近何でも聞くようになった。僕の「恐怖政治」が功を奏したようだ。こいつは僕のペットなのだから。
 狭い廊下をパンダはぴょんぴょん跳ねながら通り抜けていく。
僕はその後ろを両手に大荷物を提げながらついてゆく。
僕は早速梱包を開いた。そして大型犬用のゲージを見せながらパンダに言った。
  「ほら、ここがお前の新しい部屋だ。ここで寝るんだぞ」と。

サドが丘

サドが丘

小説「背徳の肖像」で新朝新人賞をとってからというものの、文壇界で駆けだしのそこそこの物書きとして世に認知されるようになった若き青年主人公A。 だがネタに行き詰まり、後が続かなくなっていた。 そんなときに弟夫婦を事故で亡くし、甥の三歳の男の子をひきとることにした。一緒に暮らして行くうちに主人公Aの心の奥深くの地底に長らく眠っていたサディズムという名の怪物が目を覚ます。こうして主人公と幼児の猟奇的で戦慄の日々が始まる。

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-01-30

Copyrighted
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  1. パイロットインク
  2. プレイ・ルーム
  3. ハウス