猫ブロガー・桐谷音子

序章

 桐谷音子(きりやねこ)、24歳。
 こよなく猫を愛する、自称『猫の下僕(しもべ)』
 有名猫ブロガーとして日本中に名を馳せており、海外からのファンも大勢いる。

 日々の来訪者数は、国内の一流芸能人並み。コメント数も1,000件に迫る勢いだ。何故、彼女のブログに皆が賛同するのか、これは、観た人でないとわからないだろう。言葉では語り尽くせない、猫達への愛情。そして、閲覧及びコメントへの感謝を常に忘れないところに凝縮されているのだろう、と業界関係者は語る。

 強いて言うならば、そういうことらしい。

 音子は、動物保護団体や行政の動物センターから保護猫を引き取り、果ては街角に現れる人間嫌いの野良猫を捕まえては温かい愛情を傾け育て躾をし、人間に慣れたところで新しい家庭へとバトンタッチする過程を、何年も続けている。
 朝起きると猫たちの部屋を掃除しごはんの準備をする。昼間は猫じゃらしで猫たちと遊ぶ。そして夕方、また猫たちの部屋を掃除しごはんの準備をする。毎日毎日がその繰り返し。自宅に入ってくる猫と幸せな家庭に嫁ぐ猫が交錯しながら、いつも猫は5~10匹ほどいた。人間に慣れず粗相をする猫もいた。人間からの愛情が欲しくてその辺の壁を傷だらけにする猫もいた。
 通常、猫は家に就くなどと言われるが、実際はそうでもない。好きな人間がいればまとわりつき、その人間が別の猫を抱いていると嫉妬する。そうして壁の傷は増えていく。全ての猫に愛情を傾けても、それ以上の愛を求める猫は多い。
 音子は、毎日のように猫たちの写真を撮っていた。愛情を注いだ分、猫たちは自然な表情でポーズを決め、猫じゃらしに本気になり、賑やかな場で写真は撮られていく。ヘン顔選手権に出せるような写真も数知れず。
 それでも音子は、ヘン顔で笑わせてくれる猫たちが大好きだった。

 そうして、猫たちの日常を切り取ったブログが出来上がった。
 桐谷音子のブログ「うぇるかむ・音子ハウス」は、国内用の日本語と諸外国用の英語、2種類に分けて記事がアップされており、英語のコメントにも英語で返事をするという、ある意味バイリンガルなブログだった。

 本などを出す目的で日常を綴るブロガーも多い昨今。
 音子の下にも単行本化の要望コメントが後を絶たぬ中、依然として、単行本など商業ベースでのブログ活動には沈黙を貫き通していた。
 今日も、ゆるゆるとした彼女のブログ記事アップは続く。

 しかし、ブログという媒体を介している以上、その素顔を見たものは、いない。
 

第1章  恋愛できない女

 神谷琴音
 24歳
 職業 作家、エッセイスト
 主な著書「犯罪者のレクイエム」「マジカル・フォレスト」「紅いスニーカー」等々

「神谷先生、略歴はこんな感じで如何でしょう」
「あ、はい。大丈夫です」
 某テレビ局のスタジオである。スタッフさんが略歴などの確認に歩き、ボードに大きく書き込む。スタジオ内のカメラさんに分かるように、なんだろうか。

 神谷先生と呼ばれた女性は、聞かれたことに思わず答えると、あとはぼんやりとスタジオ内を眺めていた。
 テレビ局のスタッフさんは、忙しそうだ。皆スタジオ内を走りまわり、指示を出す側と実行する側に分かれて自分の職務を熟している。

(ふうん、こんな感じで対談って進めるのか)

 台本を貰い、パラパラと中を捲ってみる。分刻みで、司会者の質問と自分の答え、そして対談相手の答えが載っている。ここから大きく外れなければOKらしい。どこぞの国会中継と同じ原理というわけか。
 ああ、馬鹿らしい。この時間があれば、と、溜息がいつしか口を衝いて出る。
 気落ちしながら出番を待つ一人の女性。

 女性は、自称作家の神谷琴音こと桐谷音子。そう、あの有名猫ブロガーである。
 なぜ、自分が神谷琴音だとカミングアウトしないのか。
 なぜ、神谷琴音として猫ブログを書かないのか。
 なぜ、猫本を出さないのか。
 なぜ、作家なのにスタジオでテレビの対談に出ているのか。

 なぜなぜづくしの謎めいた作家、神谷琴音。

 ひとつだけ、「なぜ」の理由を明かそう。
 今、彼女がなぜスタジオにいるのか。
 その訳は、至極簡単なものだ。
 神谷琴音として書いた小説モドキが、このたびめでたく映画化されたからである。通常の作家にしてみれば、アニメ化、ドラマ化、映画化は晴れがましいことなのだと聞く。
 そりゃあ、印税が入れば喜びも一入というものだが。
 そんな理由のために、こうしてライトの下というのがいただけない。もっと対談場所は吟味して欲しかった。

 琴音=音子、名前がいくつもあると面倒くさい。この2つだって、実は偽名、もとい、ペンネームとハンドルネームだ。
 本名は、今は断じて教えられない。
 だから都合上、音子と呼ぶことにする。

 音子の場合、心の奥深く眠る感情が、『ライトの下では生きられない』と叫んでいる。だから、こういう華々しい場所には縁がないし、縁など持ちたくもない。
 本音を吐露するならば、どこか静かな場所を選んで、雑誌での対談形式を組んで欲しかった。
 音子が編集部に何も言わなかったのが悪いのだろうが、何故に編集部ではテレビ対談なんぞを組んだのか。
 スタジオ内の熱気に当てられて、音子は頭がクラクラすると同時に、一種の吐き気のようなものが喉のすぐ先まで出かかっている。
 誰かが音子に、どうしてテレビがいやなの?と聞いたならば、すぐさま『人前に顔を晒すのが大の苦手だから』と、なんとも心許無い答えが返ってくることだろう。

 音子は作家だ。本来なら、如何なるメディアにも顔を晒す主義は無い。
 作家という職業は、活字で勝負する世界だと、常々自分に言い聞かせている。何を着て部屋の中をうろついていようが、朝から晩まで何を食べていようが、書くものさえ書いて、編集者にダメだしを食らいながら締切に間に合えば、それでいいと思っている。
 音子の部屋は、およそ女性が、いや、違う、人間が生活できるような部屋と呼べる代物ではない。
 だから、他人は絶対に中に入れない。
 仕事部屋には、作家として仕事を進めるための資料が散乱し、足の踏み場もないくらいときている。唯一、応接部屋を設けて編集さんとやりとりをするに過ぎない。
 遊びに来るような友人もいない。
 俗にいう、お一人様どころか、誰もが味わうであろう、青春すら味わった記憶が無い。
 数カ月に一度、兄弟姉妹が部屋の掃除等々手伝いに来てくれるだけだ。
 猫部屋の方はと言えば、通常何匹かの猫たちがご主人さまの如く、デカい態度で暮らしている。猫たちは入れ代わり立ち代わり、都内の保護施設から譲渡される。あるいは商業用に売れなくなった猫たちがペットショップから買われて、音子の部屋の居候になる。街角でリターンマッチを繰り広げ、引っ掻かれながらも捕獲する猫もいる。
 音子は人間様の部屋は汚いままだったが、猫部屋をいつも綺麗に掃除し、猫たちはいつもご機嫌の空間で生活していた。中には自然猫に帰りたい者もいたようだが、よほど人間サマとの相性が悪くない限り、猫たちはこれまた入れ代わり立ち代わり人間宅へと卒業していくのであった。
 世間に顔を晒すのが大嫌いな音子は、編集部の大御所の伝手を辿り、都内でも有数のボランティア団体を介して新しい飼い主を見定め猫たちを卒業させていた。

 その意味で、音子が猫の下僕というのは、強ち嘘ではない。真っ正直に、あるがままを記しているに過ぎないのである。

 そういった地味な日々を送っている人間が、果たして煌びやかな生活を体験し、生活様式をそうそう変えられるだろうか。
 音子の答えは「否」である。
 下手にメディアに露出し、煌びやかな世界に万が一染まりでもすれば、作家という垣根を飛び越えて、タレントが本業か、作家が本業かわからなくなる。棲み分けができる器用な作家さんなら、こんな簡単な対談などお手の物に違いない。綺麗に着飾り自分の思いの丈を語りつくし、本の売り上げにも貢献することだろう。
 そういう器用さがないからこその、『ライト下恐怖症』なのである。

 今日は、編集部からの「連載、打ち切られたくないでしょ。」
 ある意味、怖さ100点満点の一言で仕方なくスタジオ入りした次第、というわけだ。
 受けたからには腹を括らなければいけないのだが、隙あらば此処から逃げたい、というのが音子の本音だった。

 音子は普段着る物に頓着しないから、何を着ればいいのかさえ見当がつかない。さて、どうしたものかと悩んでいると、雑誌の新人編集くんからアドバイスされた。
「先生。どうせテレビに出るのなら、テレビ局にお願いして、上から下までスタイリングやメイク、お任せしたらどうです?それに先生、煌びやかな場所での経験も、作家として活かせるときがくるはずですよ!」
「ああ、そうですねえ。テレビ局の方に、伝言お願いできますか?」
「はい、承知しました。任せてください、神谷先生」

 なるほど、そういうことが可能なら、是非ともお任せしよう。
 メディアへの露出経験が生かせるかどうかは別として、メディア関係の裏方さんの仕事や表情なども、垣間見えるというものだ。番組は前もっての収録と聞いた。ライブ形式じゃないから、思わぬ想定外が無いとも限らない。本番はそこをカットすればいいのだから、これまた恰好のエサである。
 というわけで、素顔のまま、ゆるふわロングの髪も束ねずに、適当なロングシャツにライダースジャケットを羽織り、黒いパンツにエンジニアブーツというカジュアルな出で立ちでテレビ局入りした音子だった。

 はて。 
 局内ですれ違う人々が、皆、驚いたような表情で音子を振り返っていく。
 そんなに変な顔だろうか。可笑しな格好なのだろうか。
 これだから人の群れは苦手だ。
 人と違うからといって、何故にここまで視線を感じなければいけないのか。
 そんな中、音子を安心させたのは、控室が準備されていたことだった。
「神谷琴音先生」と紙の貼られた、申し訳程度の広さを確保した控室に入る。

「あらっ!」
 控室にスタンバイしていたスタッフとみられる女性たちは音子を見た瞬間、驚いたように一言だけ発した。皆が凍りついたような表情になっている。このメンバーには、スタイリストさんとメイクさんと思われる女性も含まれているようだ。
 音子は相手の真意を測りかね、一言だけ尋ねた。
「何か?」

(どうした。あたしの素顔が悪いのか。服装が悪いのか。はっきりしろ)

「こんなに背の高い方とは、お聞きしておりませんで・・・。160cm弱で見積もっておりましたものですから」
 向こうは、やんわりと言い訳する。
 この語り口からすると、どうやら、用意していたワンピースやらパンプスが入らない、というお粗末なものだったらしい。早くも出た、想定外。
 音子は、いくつか準備されていた洋服や靴のサイズを、とっかえひっかえじっと見つめる。
「このサイズでは、どうやら無理のようですね」
 そして、スタッフさんたちの前で、ふうっ、と溜息を洩らした。

(こりゃーどういうことだよ)

 音子的には別にスタッフさんたちを責めているわけではない。だが、相手はそう受け取らなかったことだろう。

 音子がターゲットとして憤懣やるせない思いを抱いたのは、編集部と担当新人編集くんに、だった。
 おのれ編集部、おのれ新人編集モドキ。
 どうして神谷琴音が170cmを超える巨大女と言わなかった。
 どうして神谷琴音の足の大きさを、25センチのデカ足と告げなかった。
 清楚で可憐が売りの女優でもあるまいに。
 新人くんよ、お前を信じたあたしが馬鹿だったと、後悔しきりの音子であった。

「先生、ちょっと失礼します」
 引き攣り笑いを浮かべながら、スタイリストさんとメイクさんが部屋の外に出た。何か話し込んでいるようだ。デカ女の機嫌を損ねず、如何にしてこの場を上手く乗り切るか、策を練っているのだろう。そのくらいの想像は小学生でもできる。
 暫くして、スタイリストさんとメイクさんたちが音子がいる控室の中に戻ってきた。
「神谷先生、大変申し訳ありません。私どもの手違いで、お洋服を準備できませんで」
「で、どうすればいいんです?」
 音子は、低い声で尋ねた。地声で話しただけなのだが、余程怒っていると相手は感じたらしい。
「本当に申し訳ございません、申し訳ございません」
「謝罪は結構。私は、何を着てスタジオ入りすればいいんです?」
 音子の声は、もっと低くなる。
 相手の引き攣り笑いが一層、激しさを増す。
「実は、もうお洋服が手配できないことと、先生の今の御姿が丁度良くお似合いですので、このままナチュラルメイクのみでスタジオ入りされては如何かと思いまして」
「ああ、着替えなくて良いということですね」
「ええまあ、そういうことでご了承いただければ・・・」
 とって食われるんじゃないかという顔のスタッフさんたち。

(まさか。あたしは食う物には頓着しないが、不味いものは口にしない主義だ。あんたたちを取って食らったりしないから、安心しろ)

「了解です。息を抜いていいですよ。私はそこらの芸能人じゃないですから」
 音子の言葉に、やっと相手の顔色が土色から人間の肌色に戻る。
「有難うございます、先生」
「現場にも報告してまいりますので」
 スタッフと見受けられる小柄の女性が、部屋を飛び出していく。ディレクターにでも報告しに行くのだろう。

 というわけで、メイクだけはしてもらったものの、服装はそのまま自前と相成った。ナチュラルメイクとはいっても、ライトを浴びる都合上、ある程度、はっきりとしたメイクが必要になるらしい。
 一般の女性が「ナチュラルメイク」と考えがちな軽い感覚のメイクだとスタジオ内のライトに負け、顔が薄っぺらに見えてしまう、というメイクさんの話は興味深いものがある。
 ファンデーションやらドーランみたいなゴテゴテは苦手だが、致し方ない。ギラギラとしたライトに負けないベースを準備して、あとは、いかにナチュラル感を演出するかである。何はなくとも、目を際立たせるアイラインは必須らしい。音子の白い肌に合わせ、オリーブ色のアイラインとオリーブ色や薄茶系のシャドウでナチュラル感を演出するようだ。こういったメイク方法も、小説を書くときの細かな描写には効果満点だ。
 音子の眼は二重で眉と眼の間隔が狭い。そういった顔の輪郭に似合うよう、アイラインの他は、心持ち薄めのメイクが続く。

 そう、こういった時間さえも、何もかもが描写の勉強材料に、そしてネタになり得るのである。

 着替えなくてもいいのは、実にラッキーであり、気楽だった。
 だが、ひとつ問題があった。素のままでいいとの約束でテレビ局に向かったものだから、当然、総てが素のままである。
 ここに至るまでの音子の動きを思い出そう。
 何故皆が振り向いたのか。
 音子が、その理由に心当たりが全然なかったのか、それとも面倒で考えなかったのか、それは音子の心境にならないとわからない。
 しかし、そこには変えることのできない、ひとつの事実があった。
 何故なら、音子の髪は根っから金髪に近い茶髪である。亜麻色を通り越し、ライトに当てると金髪にしか見えない。

 何を隠そう、実は、音子の両親は日本人ではない。外国人である。ということは、音子自身も外国人である。目の色も、心なしか薄い。

 そういった想定外を想定しない自分に非があるのだが、音子は、今、神谷琴音が外国人だとはどうしても知られたくなかった。
 さてはて、どうしたものか。
 必死になって、並べ立てるための嘘八百を考える。
 自分のボキャブラリの中では、上手く言い訳できる言葉が見つからない。
 少し焦りつつあったその時だ。

「先生は本当にお洒落ですね、ハーフか外国人に見えますよ」
 メイクさんの一言で、名案が浮かんだ。
「元々、髪や目の色が薄いので、この際、金髪にと思いまして。今はカラーコンタクトも豊富ですし」
「そうですか、よくお似合いです」

(メイクさん、良く見ればわかると思うんだが。地毛だよ、地毛。カラコンだって使ってないよ)

 まあ、この際そんなことは、どうでもいい。
 早くメイクを終わらせてくれと、音子は心の中で叫ぶ。

◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

 音子自身、日本の国籍はない。
 両親が外国人なのだから当然、国籍は本国にしかない。
 厳密に言えば、日本国籍を取得する機会はあったらしいが、両親が拒んだのだという。

 音子の場合、たまたま、両親が日本に来ているときに日本国内で産まれたので日本国籍を取得したと両親は思っていたがそうではなかった。日本での在留資格しか持たなかった両親は、日本国では二重国籍が認められないと聞き、音子の国籍は本国のみに、と考えたのでる。
 ゆえに、音子本人も在留資格のみを持ったに過ぎない。兄弟姉妹はみな本国で産まれた。日本に来たこともあるが、再入国資格を持たずに本国に帰った。
 在留資格の更新や本国への出国、日本への再入国など、面倒な手続きは多い。パスポートひとつをとっても、面倒この上ない。行き来するたびに感じることだった。
 指紋押印を求められたときは、まるで犯罪者であるかのような扱いを受けた。本気で人権侵害だと叫ぶ寸前であった。でも、日本でやることがあるから在留資格は手放せない。
 かといって、日本に骨を埋める覚悟なぞ、さらさらない。
 日本に帰化するなどと口にしようものなら、両親が許すわけがない。口走った時点で、本国に強制連行されてしまうのは、火を見るより明らかなのである。

 日本人のふりをしているのは、日本で執筆活動する限りは、日本人としてペンネームやらハンドルネームを統一することにしているだけだ。
 海外での活動は、別のペンネームがある、いや、本名で活動してもいい。今は主に日本で活動しているので本国での執筆活動は疎かになっていたが、何れは本国に戻り執筆活動を続ける予定だ。

◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

 苦痛のメイク時間が終わり、スタッフさんに連れられスタジオへと向かう。
 どよめきが一瞬辺りを包んだが、それは直ぐに、静寂へと姿を変えた。聞こえるのは、裏方さんたちが一生懸命にスタジオ内を走り回る喧噪だけである。
 プロデューサーかディレクターか知らないが、年配の男性が音子の近くに寄ってきた。
「いやあ、神谷先生ですか?はじめまして。最初、外国の方が現れたかと思って吃驚したよ」
「はじめまして。よく間違われますから、お気遣いなく」
「日本人ですよね?」
「はい」
「こう、華のある作家さんだというのが印象的なので、それで推していきましょうか」
「はあ」
「本当に、先生の迫力には絵になるものがあるなあ」
 テレビ局のスタッフさん方は、小柄で地味な作家を連想していたのに、金髪のデカい女が出てきたものだから、驚きを隠せなかったようだ。陰でかつらがどうのこうのと聞こえてきたが、金髪自体、それはそれでどうにかなるということで、すったもんだの末に見栄え的な問題は落ち着いたと見える。

「対談相手の西脇博之さん、入りまーす」
 先ほどとは違うスタッフさんが、声を張り上げる。

 天井のライトがギラギラとして、音子は蒸し暑いものを感じ、対談前だというのにもう汗びっしょりでへろへろとしていた。
 そんな音子の状態を知ってか知らずしてか、右側のそでから爽やかに軽やかに歩いてくる男性がいた。そう、今回の映画化での主役俳優のご登場だ。
 黒いシルクのシャツに黒ジャガードのジャケット。少し抜けを印象付けるために、褪せた質感のヴィンテージのブラックデニム。そして、靴はイタリア製か。シャツの合間には、プラチナのペンダント。
 
(豪華じゃないか、俳優さんよ)

 スタイリストさんの腕がいいのか、貴男の体型が良いのか、それとも豪華だから誰にでも似合うのか、3択という線だな。
 背丈は、180cmを超えたくらいか。音子と然程変わらない。
 どれ、顔は。髪型は。
 目は二重、やや目尻が下がっているので優しさも感じられるが、本人的にはクールな目つきを演出したいと見える。口元をきゅっと結ぶことで表情筋が活動しているのがわかる。
 ま、人気の顔立ちと言えば、そうなんだろう。なんというか、派手な青年以上、おじさん未満の顔立ち、という印象を受ける。可もなく、不可もなく。
 音子にとっては、およそ興味のない顔だ。けれど、こういう顔が今の日本では受けがいいのかもしれない。髪型も、およそ派手に決めたものではなく、黒っぽくナチュラルで短めの髪だ。ああ、映画でも短かった。長い髪で犯人との追いかけっこは出来ないからか。でも、たぶん凄く綺麗な髪だと思う。金髪は、そういう綺麗な黒髪に憧れるのは確かなのだ。
 このキャラ設定、次回の小説でモデルにでも使うとするか、と頭の片隅に俳優殿のイメージを植え付ける。

 と、今気が付いた。
 音子が周囲を見回すと、女性スタッフがウキウキとした表情だったり、うっとりと見惚れている。成程、人気があるんだと、今初めて気が付いた。音子は普段テレビや週刊誌は見るものの、興味の無い範疇は頭に入れないので、実際に目の中に入れたのは、今日が初めてというわけである。
 神谷琴音。どれだけ世間に疎い小説家なのかがわかる。

 カメラは、3台ほどあっただろうか。
 右側のカメラが男性俳優を追う。男性俳優が座ったところでカメラは真ん中に切り替わり、二人を挟んで、若い女性司会者がにっこりと笑う。
 有名な女子アナだ。
 確か、「天使の微笑み」こと、氷室冴子、だったような気がする。音子の記憶が正しければ、の話だが。
 さっきまで、裏方さんに向かいヒステリックに叫んでいた。
 本性はこうだったのかと、可笑しくなる。
 
 テレビ対談と聞いて、スタジオに来るまで嫌な予感はしていた。
 多分そうだろうと察しはついていたが、やはり間違いではなかった。裏方に回ると、怒鳴り声やら何かセットを運ぶような一斉に上がったりする声が始終響く。時間が迫るほど、皆の顔つきが豹変する。
 特にアナウンサー。
 実際に収録が始まると、さっきまでヒステリックに怒鳴っていたのが嘘のように、天使の微笑みを満面に湛え、爽やかさと可憐さをプラスして、お茶の間へとラブリーポーズを振り撒く。
 ある意味ではペテン師、ある意味では女優、いや違った、プロのアナウンサーなのであろう。
 音子としては、一刻も早く時間が過ぎ去ることだけを願いつつ、収録が始まった。

「こんばんは、みなさま。本日は、『サイコの童話』映画化記念として、主演の西脇博之さんと、オリジナル小説を執筆された神谷琴音先生にお越しいただきました。こちらの作品は、メトロポリス映画祭や日本アカデミック映画祭など、各方面で注目されています。今日は、わたくし氷室冴子が、お二方に色々なエピソードなどお聞かせいただきたく思います。それでは、西脇さん、神谷先生、どうぞよろしくお願いします」
「よろしく」
 なんとまあ、素っ気ない男だ。
「よろしくお願いします」
 音子は一応、地味に振舞うことにしてある。編集部の方針がお達しと称して音子に伝えられた。別に、こんなところで汗ばみながら自分の思いの丈を話す気もしないのだが、編集部では、まさかの想定外を100%失くしておきたいのだろう。

 氷室アナがこちらを向く。
「さて、今回の作品『サイコの童話』ですが、神谷先生はミステリー中心にご活動を?」

(ちゃうわ)

 とは、口が裂けても言えない。
「いえ、ミステリーに限らず色々な分野に挑戦していきたいと思っているのですが」
「先生にも苦手分野があるんですか」
「はい、総じて恋愛ものは苦手ですね」
「あら、先生の年齢なら恋多きお年頃でしょうに」
 音子の眉がピクリと動く。お前如きエセラブリーに言われたくないわ、という表情になりかけるのを、理性で一生懸命普通の顔に押し戻す。それだけでも、音子の中のエネルギーが枯渇していくのが分る。

「こればかりは、お相手が必要ですから」
「先生のようなインターナショナルな雰囲気をお持ちの方だと、男性も高嶺の花になってしまうのかしら」
 氷室アナと互いに、おほほ、と上品に笑う。
 音子は、見えない場所で氷室アナの足を踏みつけたくなる小悪魔に変化しそうになってくる。

 カメラが俳優殿に切り替わった。
 音子は、漸く姿勢を崩せる時が来て安心した。ふくらはぎが痙攣しそうなそうでないような。やはりライト下でマイクが向けられるのは嫌いだ。

 でも、隣の氷室アナや俳優殿は楽しそうに会話を始めた。本当に楽しいのか、これも芸の内なのかは分らない。
「西脇さんは、この作品で、ストイックな演技で体当たりする役どころでしたが」
 俳優さんっていうのは、こういう時も演技するんだろうな、この氷室アナと同じように。
 音子の推理は見事に当たる。いや、こういうのは推理とは言わない。所謂ところの、公然の秘密というやつだ。
「僕は普段からストイックな面がありますから、こう、自分と重ねて役に溶け込むことができましたね」
「そうですか。恋人にしたい男優ナンバー1というのも、伊達ではないみたいですね」
「いや、そんな。烏滸がましい限りです。それに、ハードルがありますから」
「ハードル?といいますと、女性の好み、という意味で伺っても?」
「ええ、僕の恋人や奥さんになってくれる人には、ハードルを課したいと思います。9つほど、ハードルがあるかな」

(映画の話と、どう繋がる。台本まるっきり無視しとるで、あんた)

 心の中、大声で叫ぶ音子だが、にっこり微笑み続ける。
 突然、真ん中のカメラがこっちを向いたからだ。
 氷室アナを間に挟んだ格好で、俳優西脇は滔々と語り始めた。
「第一に、何よりも僕の仕事を優先させてくれること、第2に、役どころを掴むため色々出かけますが、追ってこないこと。第3に、料理上手で僕の体調管理をしっかりしてくれること。第4に、クリスマスやバースデイといったイベントに拘らないこと、第5に、女の気持ちを推し量れと言わないこと、第6に、西脇パーティーの場では、きちんとした立居振舞でホストを務められること、第7に、音沙汰無い間に他の女性といても文句を言わないこと、第8にプレゼントを求めないこと、最後に、ディナーが豪華ホテルでなくとも、場末のラーメン屋でも、一緒ならどこでも良いと言ってくれること、ですね」
「まあ、凄いですね。これは難問だわ、みなさん、ボードに書いてみたので、あらためて読んでみてください」
 テレビ局のスタッフさんが慌てて書いたと思われる、乱雑な字で書かれたハードルとやらがお披露目される。
 どうやら、台本にもなかった超アクシデントらしい。

1 何よりも仕事を優先させてくれること
2 役どころを掴むため色々出かけるが、追ってこないこと
3 料理上手で体調管理をしっかりしてくれること
4 クリスマスやバースデイなど、イベントに拘らないこと
5 女の気持ちを推し量れと言わないこと
6 西脇パーティーの場では、きちんとした立居振舞でホストを務められること
7 女性と噂になっても騒がないこと
8 プレゼントを求めないこと
9 ディナーが豪華ホテルでなくとも、場末のラーメン屋でも、一緒ならどこでも良いと言ってくれること

(あっはっは~。このド阿呆が)

 音子は、吹き出す寸前だった。
 お前はナルシストか、はたまた俺様か、と。

 日本の女性達は、こういう男に弱いんだろう。みんな今頃「じゃあ、今のあたしでもなれるかも?」なーんて、泣いて、笑って、ほざいているに違いない。
 流石に、口の端から笑みが漏れた。決して嬉しさ満点の笑みではない。馬鹿らしさ満点の笑みである。
 日本に限らないのだろうが、どうして女性は、虚像に対し夢を持てるのか。フェミニストの多い国や女性を持て囃す国なら、まだわかる。優しく接してもらえば、夢が膨らむのは当然なのだから。
 それにしても、このハードルとやらは俺について来い、というわけでもなく、完全に「俺様」優先の事象ばかりではないか。こんなん手を挙げる女性の気が知れない。
 
 ライトの下で額に汗しながら、音子は今更ながらに気が付いた。
 この収録は、生放送ではなかった。生放送だったら、放送事故扱いだったかもしれない。
 ちっ、惜しいことをした。放送事故なら、「さぞやご満悦でしょうね」と腹を抱えて笑ってやりたいところだったのに。音子は心の中で大きく舌を打つ。

 事実、プロデューサーとかディレクターとかいう、別のオジサンが奥から出てきた。
「申し訳ない、西脇さん。今日は対談の時間が押しちゃうから、今のシーン、この次、是非使わせてくださいよ」
「OK。その時はまた、いい顔で撮ってもらわないと」
「任せてくださいよ、好みの子、用意しますから」
 西脇に向かい、男性たちが小声で囁く。氷室アナはじめ、女性アナから見えないように。

 音子だけが、男性たちのやり取りと、口の動きを見ただけだった。
 口の動きや目の動き、そして何より下品な顔つきからして、何を話し込んでいたかは察しがついた。
 女子アナ連中が聞いたら、さぞ怒り出すような内容だろう。
 それとも、日本の放送界というメディア世界も、男性社会なのか。
 男性には絶対服従、出る女性は釘として瞬時に打たれてしまう世界なのかもしれない。
 これだから、未だに日本は女性人材発展途上国と先進国では揶揄されているのだ。技術の発展は目覚ましいのに、残念だ。日本製の商品は確実だし素晴らしい物を作っている。世界に誇れることだ。それなのに、女性の人材登用に力を注がないから、良い女性人材が育たない。
 世界各国に比べ女性の人材登用率は群を抜いて低く、男性社会を物語る一例として、先進国から鼻で笑われる、というわけである。

 女性側にも問題があると音子は思っている。自立し、夫と対等でいようという気構えが今の若い女性には無い。男性の稼ぎで楽をしよう、そのために玉の輿に乗るのだ、と考える若い女性が増えていると聞く。今の若い世代に就職口がないのも大きな要因だが、それにしても、あからさま過ぎる。
 男性の稼ぎで優雅な生活を送ったところで、それはあくまで男性が懸命に働いた報酬だ。だから、俺様俳優殿のように、ハードルも課したくなるのだろう、と音子は思う。

 日本の主婦の皆様方に言ったら、吊るし上げられるような台詞なのは重々承知している。
 色々な環境があって、専業主婦で過ごす人もいるだろう。または、2馬力、いや、違った、ツインカム?何かしっくりこない。まあ、要は夫婦二人で働くとということでお許しいただきたい。
 こういう時だけ、外国人だからボキャブラリが少ない、と言い訳をする音子である。
 そうだ、共働きだ。色々な事情で、子供の有無に関わらず夫婦共働きで生活する家もあるだろう。
 それについては、音子自身が口を挟む筋合もない。
 音子は昔、女性を指して「勝ち組」「負け組」と分けてしまう言葉を聞いた。未だにどちらが「勝ち組」なのかわからない。たぶん、音子のようなお一人様は負け組で、西脇の彼女になったような人が勝ち組なのだと思う。それならそれで、負け組でも構わないと思う音子だった。

 本国では、男性の稼ぎが良いから専業主婦という観念があるのかどうか、音子の知る限り、男性が高給取りでも、自身も働いている女性が周囲には多かった。
 そう、女性自身が自立し、夫と対等でいようという気構えの為せる技である。そうでない家もあるのだろうが、少なくとも「玉の輿」という言葉は、音子にとって縁遠い世界であった。
 少なくとも、本国の実家では自立した女性を目指すことは女性として当たり前だったし、お互いに仕事をしながら助けあう男女こそがあるべき姿と教えられて生きてきた。
 それゆえか、音子自身、男性の稼ぎで媚を売りながら生活していくなど、真っ平だった。
 
 脱線した。

 こういうときの切り替えの早さが尋常でないのが、アナウンサーと俳優の神髄と見た。くるりとカメラに向き直った女子アナと俳優殿は、どちらも、何事もなかったかのような顔に戻っている。
 そして、台本通りに質問と答えが繰り返されていくのだった。
 氷室アナが最後を締める。

「半年後には、メトロポリタン映画祭がヨーロッパで開催されますね。この作品もエントリーされました。西脇さん、ご感想を」
「とても面白い原作ですから、映画化するに当たっても、筋書きの深さに監督が考え込む場面が多かったのを覚えています。ヨーロッパで是非、この作品の名前を呼んでほしいと願っています」
「西脇さんご自身も、主演男優賞にノミネート間違いなしと伺っております。受賞への意気込みをお聞かせください」
「そうですね、僕自身、魂を込めて演じることの出来た作品です。勿論、俳優としての頂点である主演男優賞をいただければ嬉しい限りではありますね」
「日本中が期待していますよ」
「いやあ、プレッシャーですねえ」

 氷室アナが、オマケ程度に音子の方を向く。
「神谷先生、ご感想を」
 来た。これだけは絶対にくるから原稿を用意してくださいと新人編集くんに口酸っぱく言われていた。面倒なので放っておいたら、編集部から原稿が送られてきたくらいである。自分では考えるのも拒否っていたため、音子は素直にその原稿を何回も何回も読み、丸暗記していた。
「自分の中では、活字が動くという不思議さがありましたが、みなさんの一生懸命な演技で、とても素晴らしい作品が出来上がったと思っています。わたくし自身はヨーロッパには行くことができませんが、この作品の名前が呼ばれることを願っています」
「お二方、本日はどうも有難うございました」

 座ったままお辞儀しろというのが、ちょっと難題だった。
 会釈でいいのか、どのくらい頭を下げるのか分からない。氷室アナが、目配せして気を利かせてくれたから、音子は助かったと冷や汗をかく。社会通念上の一般常識で、氷室アナが音子に慎み深く挨拶する。音子最大の難関に、氷室アナから救いの手が差し伸べられたような気がした。

「神谷先生、本日はありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。御呼びいただき、光栄です」

 此処からは、マイクを通さない、オフレコ状態の会話である。
 俳優殿を目の前にした氷室アナは、超絶ご満悦のようだった。
「西脇さんも、ありがとうございました。あの9か条、ウチの局で絶対出しますから!」
「氷室さんも、是非検討してくださいよ」
「あら、いいんですか?」
「勿論。僕はね、女性達が僕のためにどこまで尽くしてくれるのか、知りたいんですよ」
「じゃあ、あたしは一番乗りってことかしら?」
「そうですね、期待していますから、頑張ってください」
「がんばって尽くしますから、よろしくお願いしますね」

 氷室アナはテンション駄々上がり。
 音子自身は、阿呆の会話には、ついていけない。ついて行く気もさらさらない。

(尽くす?なんだ、それ)

 あ、時間が押してしまった。早く家に戻らねば。
 聞こえないふりをして、そっと席を立つ。

「おい、そこのノッポ」
 誰だ。
 声を掛けるなオーラ全開の音子。
 デカい女だろうがノッポだろうが構わないが、時間が押してんだよっ!ブログ更新の時間なんだ!ブログの自動更新は、しない主義だから。
 音子は鬼のような顔つきになる。

 それでも、編集部との約束は破れない。音子は、にっこり笑って後ろを振り向いた。
「はい、何でしょう」
 俳優殿が、少し音子をバカにしたような目つきで、にやりと笑ってこちらを見ていた。
「キミも参加して見るかい?」
「遠慮します」
 即答した音子。
 俺様西脇は、数秒間、言葉を発するのを忘れているようだった。心底驚いたような顔をしている。まるで豆鉄砲をくらった鳩のようだ。
「どうして?西脇の彼女に成れるんだよ?放っておく手はないだろう?」
 アホか。
 俺様ナルシスト男の超馬鹿さ加減に、歯止めを掛ける方法はないものか。
 音子は、またまた、にっこりと微笑む。
「1カ所、決定的に無理ですから」
「どこ」
「あたしは料理とか、家庭一般のことは苦手ですので。では、お先に」
「何をそんなに急いでんの?待ち合わせ?」
 西脇。お前、かなり性格が悪いと見た。
「はい、猫と待ち合わせています」
「猫ぉ?犬だろう、飼うなら。犬の躾ほど楽しい事は無い。猫なんて、どこが良いんだか」

(おいこら、俺様野郎。あたしに喧嘩売るつもりか)

 氷室アナが、慌てて仲裁に入る。
 音子の、鬼が如き目線を感じ取ったに違いない。
「でも、西脇さん、結構有名な猫ブロガーさんって多いんですよ」
「猫ブロガー?写真貼って『可愛いでしょ』で終わりじゃない。みんなそうだろ」
「本とか出しているブロガーさんは、猫に多いみたい。神谷先生、猫ブログは?」

(間違っても、お前達には教えない。ふん)

「ブログは、書いてないです。写真撮るのは好きですが」
「猫の?へえ。じゃあ今度、見せて」
「はい、お時間があったら」

 二人から離れた瞬間、音子はダッシュで局内を走りだした。来た時とは別の意味で、皆が振り返る。もう、どうしてだなどと考えている暇はない。玄関に出ると、ちょうど一台のタクシーが停まっていた。客を降ろしている最中のようだ。そこにへばりつき、ドライバー目掛け乗りたいアピールをする音子。もう、通常の更新時刻は過ぎている。
 手持ちのタブレットを使って、ブログに接続した。

『アクシデント』という題名。
 前に撮った猫たち写真の中から一枚の写真を選ぶ。ぶーぶーふてくされるような顔の猫写真を一枚、アップした。
 写真の下に、一行ポエムを添える。勿論、英語バージョンも添えて。
「ツイてない日だってあるよ。そんな日は、ふて寝しちゃえ~」

 本当に、ふて寝したい気分である。

(畜生が)
(忌々しいったらありゃしない)
(てめえらの好みやバカみたいな世間話聞くのは、あたしの仕事じゃねえよ)
(あたしゃ、文章書いて、猫たちを愛し、猫達の写真を撮りながら、老いてくのが夢だ)

 小説だって、自分のためじゃない。猫のご飯のために書いているようなものだ。
 それこそが、音子が日本にいる理由だ。

 そう。猫を愛する自称『猫の下僕』、桐谷音子。
 自分で言うのも照れくさいが、猫ブロガーとして、あまりにも有名な存在なのは確かだ。
 時に、写真を4つ並べ、起承転結の4コマストーリーで爆笑を買い、あるときは、猫の素の表情を切り取り、たった一行のポエムを添えて、載せる。このギャップが話題となり、今や押しも押されもせぬNo.1猫ブロガーと呼ばれている、桐谷音子である。

 現在、桐谷音子の正体を知る者は、誰一人としていない。

 ブログの登録名は本名だったが、日本で本名の自分を知る人間など、殆どいない。編集社の上層部のみである。
 そして、まさかのその正体は、さきほど伝えてしまったような気もする。
『自称、日本人(実は外国人)作家、神谷琴音』である。

 ほどほどに有名な作家だという自負はある。日本で書いた小説が、マンガやアニメ、映画など別の媒体に姿を変え、世の中に出ていくこともあるからだ。
 中には原作から大きくストーリーが外れ、『別物?』ということもあるが、それはそれ、各編集部や制作者側の意図があってのことだろうから、考え出したらきりがない。

 勿論、作家であることはブログ内でも内緒であり、作家稼業でも決してブログのことは口にしない。
 壁に耳あり障子に目あり。どこでバレるか分かったものではない。
 各社編集担当さんですら、音子が猫ブロガーと知る人間はいない。
 だから、ブログ内でも安易に判断できないよう、些細な文体すらも、総て変えている。文体という物は、得てして個性が出てしまうものだ。それを感じさせない素晴らしい作家さんもいるが、文体を見ただけで、個人が特定できてしまう作家さんが多いのも事実。
 写真の構図も然り。自分では気が付かないが、個人のクセが出ているものなのである。作家として写真を載せる機会はないので、こちらは心配ない。

 本業は・・・どちらなのだろう。ブログが好きなのは、間違いないのだが。

 音子は、恋愛に興味がない。
 男にも興味がない。
 猫が猛烈に好きなだけだ。
 自宅はマンションを2部屋借り上げ、猫ルームと仕事場になっている。
 猫ルームでは現在、7匹の猫を飼っている。今は殺処分寸前の野生児たちが主だ。ペットショップの可愛い猫達も好きだが、買い手の付く猫なら、他人に任せる。その代り、たまにペットショップを覗き、買い手が付かず大きくなった猫達を買ってくることもある。殆どの店では、買い手の付かない猫は厄介者扱いされるか、純血種に近いほど、交配に使用されると聞く。欲しいと名乗りをあげると「貰ってください」と言わんばかりの店もあれば、交配させるからと断られる店もある。

 先日も、ペットショップ周りをしたところだ。
「すみません、こちらで買い手の付かなかった大きな猫ちゃん、譲っていただけませんか。お値段は言い値で結構ですから」
 こういう時はショートの黒髪かつらを被り、黒目コンタクトをする。流石に金髪デカ女ともなれば、神谷琴音と知られかねないからだ。
「ああ、うちは交配に使うから駄目だよ。あとは保護団体に寄付するしね」
「そうですか、ありがとうございます」
 別のショップに足を運ぶ。
「すみません、こちらで買い手の付かなかった大きな猫ちゃん、譲っていただけませんか。お値段は言い値で結構ですから」
「いいの?いるよ、3匹ほど。もう3歳になってどうしようか迷っていたから」
「では、3匹とも譲っていただけますか?」
「3匹で30万、どう?子猫なら2匹で30万だ」
「構いません。では、お願いします」
 ぼったくりだなと思いつつ、猫達を撫でようと手を伸ばす。みんな、怖がって震えていた。たぶん、普段から虐待されているのだろう。
「大丈夫だよ、新しいお家に行こう」
 3歳猫を3匹は重い。歩けない。タクシー移動で家に帰る。こういう時は、本国から姉と妹が来てくれている。
 世話を姉と妹に任せ、数軒、ペットショップを回った。

 野生児以外は、ブログには載せない。
 店や猫種から、神谷琴音、あるいは外国人との絡みで、ブログ内で足が付く恐れがある。
 日々進化しているペット商売の邪魔をするわけではないが、命を売買するのは、どうも性に合わない。だから、悶々と鬼のような顔になり店を後にしては、憤りを感じ得ずにはいられない音子である。

 と、あるショップに、人だかりが出来ていた。中を覗くと、なんと俺様西脇らしき後姿が見える。
 音子は入ろうかどうか、一瞬迷った。
 しかし、今日でないと時間が無い。そうだ、俺様西脇に気付かれなければいいんだ、と自分で自分を納得させて入店する。

 西脇は、猫ではなく、犬たちの方を見学している。これ幸いと、ショップスタッフに声を掛ける。
「すみません、こちらで買い手の付かなかった大きな猫ちゃん、譲っていただけませんか。お値段は言い値で結構ですから」
「今、店長に確認してくるのでお待ちください」
 猫たちのガラス越しに、西脇の動きを観察する。店長が相手をしているようだった。先ほどのスタッフが耳元で何か囁くと、店長がちらりと音子の後姿を見たのがわかった。スタッフが戻ってくる。
「2匹ほど、殺処分に出そうと思っている子がいます。お代は結構ですので、どうぞお持ち帰りください」
 ただとか、そういう問題ではない。殺処分するには費用負担がある。そのお金が惜しいだけだろうが。
 猫たちの取扱い状況は、店の名前とか、全部メモしてある。此処は、「要注意」だ。これからも保健所に持ち込む犬猫がいれば、殺処分前に連絡するようお願いしたメモを店長さんに渡してください、と編集部の名刺を差し出す。
 出版社の名刺を出しておけば、店の奥で動物たちに対する虐待のような真似は、そうそう行われないだろう。ブログには載せないのだから、編集部から突っ込まれても、猫は友人に託すと言えば良い。
 
 今日、助けることが出来たのは、それこそ純血種の大きな子、総勢5匹。
 家では、姉と妹が先ほどの大きな猫たちの世話をしてくれていた。
「カレン、ジェーン、この子たちのお世話、宜しくね」
 5匹の猫たちは、避妊オペされていなかった。交配させていたのだろう。音子たちは、動物病院に飛び込むとすぐに避妊オペを予約した。猫たちは最初に健康診断を受ける。そしてオペ。オペが終わり1ヵ月半から2か月ほど、音子の家でのんびりと過ごす。そのあと、再度健康診断を受け予防接種をし、姉たちと一緒に本国に旅立つことになっている。
 姉たちは、長期滞在出来ないときは一度本国に戻り、また来てくれる。
 向こうではもう、あらかじめ貰い手が決まっている。
 諸外国では動物保護に力を入れているからだが、こういった猫たちを引き取り、終生面倒を見てくれる家庭も多いと聞く。

 父も母も外国育ちで、職業柄、たまたま日本で暮らしている時に音子が生まれた。
 音子は学校もアメリカンスクールに通った。
 ハウスキーパーさんと、小さなころから面倒を見てくれたベビーシッターさんが週に一度くらい通って、メンタル部分のチェックをしてくれていた。ハイスクール時代までは。
 あとは我が道をのんびりと散歩しながら生きているようなものだ。
 他の兄弟たちはみな、本国で産まれ育ったので、日本に短期滞在した時期こそあれ、日本に長期滞在しているのは音子だけだ。

 日本滞在当時から、父母は犬猫の売買には大反対だった。『野良猫や野良犬は守られて当然』が、音子宅の家訓なのである。
 此処だけの話、動物の殺処分の話を聞くたび、父母共に、日本人を野蛮人呼ばわりする事さえあるほどだ。いや、本国でも虐待もあれば殺処分もあるハズなのだが。

 当然、父母は娘を日本人に嫁がせようなどとは、一欠けらの思いもない。
 フェミニズムを熟知し、心から女性を大切にするフェミニストでなければ、娘たちとの交際すらも許さない、と父は常に捲し立てている。姉や妹に伴侶がいたかどうか思い出せない。確かボーイフレンドは、多分いるはずなのだが、結婚するという話は聞いていない。父の御眼鏡に適わないのかもしれない。でなければ、父に恐れを為して逃げてしまった可能性もある。
 姉妹に伴侶がいるかどうかも覚えていない不束者のために、わざわざ本国から駆けつけてくれる涙ぐましい真心に、心から感謝しなくてはならない音子である。

 かくして、小さな頃から小さな島国で暮らす音子。
 恋愛の動機もなく、恋愛を薦める親もなく、恋愛できる環境も無く、恋愛できない女が此処に一人、出来上がったというわけだ。

 父母とは現在別居しているが、耳にタコができるくらい、本国に戻ってきて欲しいというコールやメールの嵐が音子を待っている。
 執筆は向こうでも出来るだろうという、至極尤もな理由だ。
 ただ、向こうにいくと、日本国内で殺処分される野生児たちを助けることが出来なくなる。だから音子はまだ、日本の在留資格をポイ捨て、ではない。手放したくない。
 たまに実家に帰る時は、猫達を連れて行く。実家や海外の知り合いたちに飼ってもらうために。そうすれば、またニャンコ野生児たちを少しでも救うことができる。自分の力など微々たるものだろうが、何もしないでいるより、出来ることを少しでもしたいと思うのだ。


 それから2週間ほど経っただろうか。
 例の音子と西脇の対談が放映された。
 勿論、俺様俳優の言い放った9か条シーンは、カットされていた。

 とはいえ、人間とは恐ろしいものである。
 ソーシャルネットワークナントカとやらを介し、9か条は、瞬く間に女性達の間に浸透していた。どうやら、あの場にいた誰か、若しくは発言したご本人が匿名で事の次第を暴露したのであろう。
 無論、氷室アナの属する放送局は、対談の中でとは言わず、別の日に、さもご本人から聞いたかのごとく、独占的に放送を垂れ流した。
 どうして別の日と判ったかと言えば、服装が違っていたからだ。爽やかなブルー系の衣装に身を包んだ俺様俳優殿。対談時の服装では、流れ的に不味いと思ったのだろう。あたかも、ご本人さまを突撃取材したかのように見せたかったようだ。

 その日から、朝から午後にかけての情報系番組、昔は「ワイドショー」とも称された番組や、各女性向けの週刊誌では、こぞって俺様俳優殿を取り上げた。9つのハードルを掲げながら、俺様俳優の変遷を毎日お茶の間へと垂れ流す。
 この発言に賛否両論あったのは、言うまでもない。
「いやあ、驚きましたね、このタイミングで突然のハードル。もう心に決めた女性がいるということでしょうか」
「いえ、それがですね。関係者や事務所への取材によれば、そういった密なお付き合いをされている方はいないそうです」
「とすると、本格的に『婚活』ということになるのかな」
「西脇さんは現在35歳です。生涯の伴侶を、とお考えになってもいい時期ですよね」
「もう、9か条をクリアしようと、世の女性たちは必死だと聞きましたよ」
「お料理教室が一番賑わっているみたいですね。あとは、色々な資格を取られる女性が増えているということです」
「資格?どんな?」
「食関連が多いようです。アスリートの食事管理ですとか、やはり身体を作ることから始まりますからね」
「なるほど。で、女性から見て、一番の難関はどこ?」
「女性の心を推し量らない、これは結構キツイですね。あとは、ラーメンディナーかもしれませんね」
「どうして?」
「折角2人で出かけるのに、場末のラーメン。他の女性は、どう思っているんでしょう」
「あはは、僕なら大歓迎だけど」
 といった具合だ。

 ジェンダー廃止論を唱える女性団体は「今どき、そんな男性がいるから、日本は欧米に近づけない」と怒りを露にした。
 そりゃそうかもしれない。欧米辺りのソレとは違う、と音子も思う。
 しかし、世界中を見渡せば、女性が虐げられている国は多い。
 日本はまだ、選択の自由という逃げ道が残っているだけマシかもしれないと考える音子だった。

 一方で、俺様俳優が「恋人にしたい男性No1」の名を与えられているのも伊達ではない。素直に、見かけだけは素敵なオヤジ未満の男だ。
 各種週刊誌や写真誌は、特定のお相手がいるのかどうか、俺様俳優の周辺をパパラッチしているようである。その収穫はと言えば、俺様俳優は、お友達の女性がとても多く、居酒屋デートなどを繰り返していたので相手を特定しかねているらしい。

 何故、音子がそこまで知っているのか。
 正直、本当は俺様俳優、西脇博之に興味があるのでは?
 
 何のことは無い、テレビをつければその話題。
 編集部の新人くんが届けてくれる新聞や雑誌を見れば、目に飛び込んでくるのが、その話題。
 新聞や雑誌を届けてもらう理由は、現在の国内外情勢を流し読みし、できることならマーケティングの世界も垣間見ておきたいという欲求からである。世の中の人々が、どういったことに関心を持っているのか、世界中で何が起きているのか、知るためである。
 今現在、何が売れていて、今後どういった方向に流れていくのか見通す力が無ければ、作家稼業は務まらないと音子は考えている。世界情勢は当然、本国にいる家族から仕入れる。
 インターネットという手もあるが、インターネットは検索して初めて情報を入手する。そこにあるのは、自分が知りたい情報だけを受け取る受動的立場にある、という事実だ。だから、敢えて様々な雑誌を手にすることで、音子は自分が主体ではないものの、能動的立場に身を置ける状況を作り出している、というわけだ。
 ただし、取材は極力しない。
 取材には、鬼の心が必要である。相手を慮っては取材にならない。ノンフィクション作家ではないから、その辺りは手を抜いている。いや、それでは語弊があるというものだ。取材に時間を割かない主義、ということにして欲しい。
 手を抜かない唯一の情報が、各都道府県別の猫の殺処分数と、都内劣悪ショップの判定表だ。これだけは足繁く通い、状況を見極めるしかない。音子が唯一自ずから足繁く通っているのは、ペットショップだけだった。

 それにしても、もう満腹です、とばかりに、毎日のように出てくる俺様西脇の顔。そして、9か条。
 もう、どうでもいいじゃないか、人の事など。
 俺様西脇の彼女に成りたい女性が精魂込めて手料理に精進し、男性を立てれば済むだけの話だ。何をそんなに大騒ぎしたいのだろう。そんな話よりも、日本と世界を比較した動物殺処分の現状を伝えて欲しいものだと切に願う。
 この異様さが日本人の特性なのか、それとも音子が外国人だから変わっているのか、それはわからない。

 そんなある日のことだった。
 音子のブログ「うぇるかむ・音子ハウス」に、1件のコメントが寄せられた。そのコメントを巡り、アクシデントが発生、それは正しく(まさしく)悪夢と化していった。

 コメントの内容は、次のようなものだった。
「桐谷音子さんへ。初めまして、俳優の西脇博之と言います。つまらないブログですね。僕には笑えない。ていうか、写真に雑種を使う理由は何?ペットショップで猫を買うお金すらないの?血統書付きの猫も買えないなら、飼うの止めれば?雑種なんて、みっともない。せめて他の猫ブログのように、血統書付きの猫にしたら?」

 そして、あろうことか、世界中の人々が瞬時に情報共有できるようなmurmurマーマーという囁き系SNSの類いに、音子ブログの悪口を並べ立てたのである。内容は、推して知るべし。
『野良猫ほど無粋な物は無い。血統書付きだから、意味があるのだ 西脇博之』

 音子ブログの読者は、何故音子が野生児雑種MIX猫を飼っているか知っている。
 殺処分寸前の子を救い出し、貰い手(場合によっては外国人とは決して書かないが)がつくと、また新たな猫を救い出すのを知っているからだ。勿論、ブログ内でそういった記載はないものの、卒業や入学という言葉で、野良猫たちを救い、譲渡活動をしていることを知っている読者が殆どだった。
 西脇のコメントは、彼らの爆弾スイッチを押すのに十分すぎる内容だった。音子ブログファンたちは、揃いも揃って怒り心頭に発し、西脇への攻撃を始めた。

「俳優だか何だか知らないけど、ミックスの何処が悪いのよ。あんた、馬鹿じゃない?」
「つまんない?笑っちゃう。自分のブログで、音子さん以上のネタ書いてから言えば?」
「お前のブログなんて、ただ1行『今日は雨です』だけじゃねーか。みっともない」
「雑種を馬鹿にする俳優なんて、世界に通用するはずないよね。馬鹿男優賞ならOKか」
「そういう貴男は血統書あるの?それとも雑種なの?血統書ないなら、俳優止めれば?」
 
 そこに通称荒らしと呼ばれる祭り屋たちが参入し、はたまた西脇ファンが雑種猫を馬鹿にし、コメント欄はパンク寸前と成り果てた。
 いつもは皆のコメントに一言だけでも返している音子だが、今回ばかりは身動きが取れなくなってしまった。

 仕方ない。
 すぐさま音子は記事を更新した。

 題名【取り急ぎ、今後の方針を明らかにします】

「とある物議を醸すような発言に、善悪入り乱れたコメントが寄せられ、本来のあるべき姿ではない状況です。

 俳優の西脇様とやら、今後、貴方様からの発言は一切受け付けませんので、あしからず。
 血統書猫の好きな方は、私のブログには来ません。みな、理由をわかっているからです。
 その理由さえ貴男は知る必要がないし、教える義理もありません。
 貴男は自分の世界で輝けば、此処には用が無いでしょう。私たちを巻き込むことのないように。
 最後に、これは決してお願いではありません。私の言い方を見れば、すぐにお分かりですね。反論などして、これ以上、ご自分の恥を晒すことなどあってはならないのです。

 そして、従前からの読者のみなさま、解り合えない言霊に踊らされて、どうかこれ以上怒らないでくださいね。
 私はこの子たちが大好きだし、微々たるものだけど、これからも活動を続けます。
 そうだ、春になる前に、この子たちも新しいお家に行くんですよ。春になったら、また子猫が増えるから。
 今日は物凄い状態で、皆さまにお返事できそうにありません。ごめんなさい。
 では、また明日。みなさま、ごきげんよう。

                                                               桐谷音子」


 西脇のコメントは削除するつもりが、記事アップした直後、またまたブログ内で激戦が巻き起こる。
 腐れ頭の西脇とやらが、またもや爆弾コメントを投稿したのだ。
「ああ、野良猫保護ってやつ?馬鹿馬鹿しい。世の中、弱肉強食じゃない。食うか食われるか、でしょ。食われる野良猫が弱いだけ。どうして保護しなくちゃいけないの?」

 また、嵐が吹き荒れる。野生児保護派の言い分だ。

「殺処分の現状知らないの?戦時中の某国収容所に行けば?ガス室が貴方を待ってるよ」
「うわあ、知らないんだ。外国でそんな野蛮な発言したら、完全に干されちゃうわあ」
「今度の映画。折角出来良かったのに。作品賞はまだしも主演男優賞は120%無しだね」
「あんたのように野蛮な男に賞くれるほど、世界は甘くないんだよ。お・ば・か」
「弱肉強食か。芸能界もそうだもんね。ただし、外国には通用しないね、その馬鹿頭じゃ」
「馬鹿につける薬って、ないんだねえ。此処まで馬鹿な俳優って見たことない」

 頭が痛くなってきた。
 この際、コメント欄は嵐の中の小舟だ。
 西脇の奴に、新しいコメントを書かれると厄介だ。また書かれる前に何とかしないと。
 確かこのブログ、出禁【出入り禁止】機能があったはず。音子はサイトを探しまくって、そこをポチッと押した。もう、西脇からのコメントは来なくなった。
 個人的なメッセージメールはご本人さまから何回か届いたようだが、頑として、全て無視しゴミ箱に入れた。

 困ったのが、murmurである。
 世界中に拡散したことを、西脇ご本人様はご存じなのだろうか。
 欧米における、野生児、そう、野良猫保護活動の重要性を、西脇俺様殿は、果たしてご存じなのか。こんな発言したら、拡散してしまい、どこかで映画祭審査員の耳に入るだろう。作品自体はまだしも、動物愛護にケチを付ける発言者に対し、栄誉ある主演男優賞を授与しようとは考えないのが、一般的かつ常識的な判断と言えるだろう。
 日本と国外は違うのだ。
 特に、欧米のそれとは。

 やはり、murmurで増えていく意見の中で、国外から批判が殺到した。勿論文化の違いがあるから賛成意見だってある。俺様俳優にとって致命的だったのは、映画祭が開催されるほとんどの国が、動物愛護に力を入れていたことである。
 賛成意見の多い文化の違う国々では、猫を食する習慣が残っていたくらいだ。比較対象として成立するはずもない。
『こういう動物愛護精神のない人間に、いかなる賞をも授与すべきではないね』
『小さな命を大切に出来ない人間が、素晴らしい演技をできるとは思えないな』
『映画は見てみないと分からないけど、彼には失望したよ。人間として期待薄だ』
Murmurerミュルミュレと呼ばれる彼らは、murmurマーマーという囁きにて、噂を世界中に発信している。

 ブログとは違い、英語で捲し立てた意見に、英語でディベート張りに反論できる日本人は殆ど居なかった。いたとしても、内容的に勝てる勝負ではない。
 結局は、俺様俳優の株を、大いに貶める結果となったのである。

「あーあ、人が折角、消してやろうと思ったのに。くそ西脇。作品そのものが台無しになりかねないじゃないかあ」
 思わず、普段口走らない独り言が、音子の口を衝いて出るのだった。

 そこに、murmurとブログを見ていた父母や兄弟姉妹から、コールやらメールやらが鳴り響く。
 父は、動画サイトで映画化の対談も見ていたらしく、メトロポリタン映画祭主催関係者に、本気で電話しようとしていたらしい。
 兄弟姉妹も揃って、人権無視や愛護精神無視で訴えろと言う。
「みんな、怒らないで。日本はこういう国なんだよ」
「キャシー。そんな国に何故留まるの?」
「だからいつも言ってるじゃない。そちらは愛護精神に溢れているから動物たちも幸せだけど、こちらの可哀想な動物を少しでも助けたいって」
「あ、パパが代わりたいみたい」
「キャシー。もう我慢できない。メトロの関係者に情報を流すよ。こんな失礼な男性、初めて見た。お前のためじゃない。映画に携わる者の一人として、こんな野蛮で恥知らずな発言を許すわけにはいかないからね」
「パパ。そう怒らないで」
「いや、こればかりは審査員を務める側の人間としても、見過ごせない。いくら役を演じるのが上手だったとしても、本当の姿が醜ければ、それは当然、検討材料に入るべきことだよ。諸国の俳優を思い起してみなさい。何がしかの活動を行っている人が多い。そういった社会貢献は当たり前に行われるべきことだ。わかるだろう?」

 反論の余地もない。
 それでも、自分を心配してくれる家族がいるからこそ、今こうして暮らしていられるのだと、あらためて神に祈る音子だった。そのお蔭で、音子自身、少し冷静に戻れたような気がした。
 来月あたり、また姉と妹に渡日の約束を取り付けて、電話を切った。

 とはいえ、日本語の意味さえ分からず、2度もコメントをしてくるなんぞ、やはり超の付く大馬鹿者だ。
 普通なら、音子からの返信は「お願いします」とか「してください」とか、下から目線でお願いするのが一般的だ。
 しかし、一方的な通告とは言わずしても、お願いではない言い方がある。それが、緊急記事の内容である。下から目線の物言いはしない。お願いします、の代わりに「~するように」という言い方を用いる。
 これは、ストーカーなどに内容証明郵便を使って「もう近づくな」という通告などにも使われたりする。近頃は、その言葉遣いの違いにさえ気が付かない馬鹿が増えているのだなと、今日あらためて悟りを開いた気分だ。
 悟りを開いたとはいえ、音子は仏様でもキリストでもない。

 馬鹿は許すまじ。

(なんとかして、報復の手立てを考えてやる)
(見てなさい、馬鹿な俺様ナルシスト俳優、西脇殿)

第2章 流れていく縁

 西脇の俺様9か条。
 テレビや雑誌、SNSでは、相も変わらず西脇の俺様9か条が取沙汰されている。
 このところ、日本国内は余程暇なのだろう。こういう阿呆らしいニュースを流している時は、まあ、日本が安全だという趣旨と同義だからだ。
 とはいえ、父母たちの暮らす本国では「日本人俳優のお粗末な発言」という小さなニュースが、ちらりと流れたらしい。

(ははあ、無様だわ、馬鹿者俺様俳優殿)

 対談の日から、6か月が過ぎようとしていた。
 メトロポリタン映画祭は、もう間近である。日本人監督や主演者たちなど、その多くがヨーロッパに旅立ったようだ。残念ながら、音子はその中に混じっていなかった。レッドカーペットなど、ライト下より始末が悪い。歓声と拍手の中、一言申し上げ候など、考えただけで卒倒しそうになる。

 さて、映画祭の受賞結果から言おう。
 当該映画は、なんと作品賞に選出されるという偉業を成し遂げた。奇跡である。父のコネでもない、原作小説は純然たる音子の力だ。
 音子の代わりに、監督さんが作品に対する想いを語ってくれた。うん、素晴らしいスピーチだった。音子がスピーチなどしようものなら、途中から日本語を忘れて本国の言葉で話してしまうかもしれない。それだけは何としても避けたいものだと興奮しながらTVに顔を近づける音子。
 ここで、映画作品のあらましをお聞かせしよう。

【梗概:概略】
 警察庁に特殊捜査対策チームが創設される。
 近年多発しているサイコパスによる犯罪と思われる捜査手法を、一から見直すことを目的としたチームだ。
 チームリーダーをはじめとして、刑事、精神科医、犯罪心理学者、科警研、児童施設、医療班など、これまで犯罪とはおよそ縁のないような連中を取り纏めながら捜査手法を確立しようとする彼等。チームでは、精神科や脳神経科、児童施設といったおよそこれまでとは違ったアプローチでサイコパスの内容解明に努めようとする。
 警察としての捜査権がないチームは、警視庁への出向という形で捜査権を行使し、殺人に摩り替る前にサイコパスを逮捕してきた。が、最後の敵は、強大だった。相手は、大学の教授。サイコパス特有の身勝手さを持ちながらも、持って生まれた才能だろうか。学生や周囲からの評判も良かった。
 教授は、チームをあざ笑うかのように罪を重ねていく。命の重さも、彼には通じない。チームリーダーは、やむなく教授の射殺命令を上司に嘆願する。最後まで諦めないチームの皆。最後の瞬間、射殺ではなく手足への攻撃で教授を捕えた。医療班に引き渡し、サイコパスと思しき教授を尋問していく中で、最初に行われるのが猫などの虐殺、或いは自分が常識だと疑わない部分があることに気が付く。それでも、殆どのサイコパスが何らかの心の傷を負っていた。
 チームでは、サイコパスは猟奇的なだけでもなく、快楽的なだけでもないと判断。生い立ちや脳の器質異常などが総合されて凶行に及ぶとの捜査結果を出し、報告する。小さい頃から親に受ける虐待やハラスメント、素行異状に注目すべきとの意見を付して。
 一旦、チームは解散するが、チームの皆はまた逢えると信じていた。
「捜査権限のある部署で会うのは御免だが、是非また一緒に仕事をしたいものだな」
 チーム長の一言に、皆が頷きながら。
                                      了


 サイコパスという特異な人間を、ただの猟奇的或いは快楽的犯罪者と同義にせず、生い立ち、脳の器質異常や親からのハラスメントや虐待など、様々な点から犯人の背景を追ったところが他の作品とは違っていた。その結果として、猟奇的になったり快楽を求めたりするという、逆転の発想が功を奏した可能性もある。また、脚本など他の素晴らしさも手伝ってのことだろう。

 しかし、俺様西脇は、主演男優賞にノミネートこそされたものの、名前を呼ばれることはなかった。マイクを介して聞こえてきたのは、外国のビッグな俳優さんや女優さんが多かった。日本人の俳優が目立つような世界ではなかったのだ。
 いや、ビッグとかそれ以前に、父の言うとおり、ノミネートされた俳優さんたちは何れもチャリティ系の運動を主宰していたり、難民救助の運動に協賛していたり、世界の小さな子供たちへの義捐金運動に力を注いでいた。何もしていないのは、男性では西脇だけ。そこにあのSNS騒ぎである。審査員の心証を損ねたのは至極当然だったのだろう。

 俺様西脇がショックを受けていたのは、テレビ中継の画面を通して痛いほど伝わってきた。俺様ナルシストは、自分は絶対に目立っていると心の髄から思っていたに違いない。
 今回の作品は、サイコパスを捕まえるチームのリーダーとして、チームを纏め危機にも臆せず果敢に挑む役、である。俺様野郎が字面で出来る程度の演技なら、外国のビッグネームに勝てるわけもあるまい。頑張りは認めるが、世の中なんてそんなに甘くないのだよ、俺様西脇くん。

(ま。あたしのせいじゃないから。恨まないでね)
(あんたが血統書でもついてれば話は違ったかもだけど。雑種だもんね)

 と、嫌味の一つも言いたくなる。
 でも。音子、そこは大人の24歳。決して俺様西脇に対して本心を口にすることなど、ない。

 そこに、早くも来年のメトロポリタン映画祭に向けた準備会議が開かれるという情報が編集部から入った。
 編集部からすれば、自社で発表した作品が選定されれば、大きく売り上げに貢献するほか、書籍を扱う出版業界でも大きな顔が出来るという、ミラクルな結果をもたらす。この時期の編集社は、どこもかしこも皆、ピリピリしたムードが漂っているものだ。

 昨年のメトロポリタン映画祭の作品賞に気を良くした日本映画界は、次回の候補をいくつか絞っているらしい。
 そこで、ひとつの作品が内定したと編集部から電話が来た。
 担当新人編集くんが興奮気味に内定状況を報告する。
「神谷先生!おめでとうございます!また、神谷作品が映画祭作品として選定されました!」
「あら、ありがとうございます」
「やだなあ、もう少し驚いてくださいよお」
 担当新人編集くんは、有頂天になっている。おい、このまま昇天するなよ、と音子は心配になる。そんな心配を余所に、新人編集くんは、声のボルテージがどんどん上がっていく。そこにブレーキを掛けるような、落ち着き払った音子の声色。
「それで、今度は何が選定されたんですか」
「それがですね、『彩雲の果てに』なんですよ!」

 音子は、己の耳を疑った。
 映画化などに興味のない、ましてやレッドカーペットなど絶対拒否の音子が書く小説である。まさかの二連荘で、どことなく戸惑いを隠せない。
「え?あれって、映画化は難しいような気がするんだけど。本当に映画化するんですか、何かの間違いじゃないのかな」
「今度は前回とは違った構成を組んでいるようです。前回は【動】の作品でしたから。今回は【静】で狙うみたいです」
 戸惑いは心に仕舞いつつ、なおも落着き払っている音子。が、ひとつだけ徹底したいことを電話の最後に思い出した。
「そうですか。脚本でいくらでも構成変えることできますもんね。ではまた何かあったらお知らせください。あ、くれぐれも」
「何でしょう?」
「対談は極力避けてください。あったとしても、雑誌のみでお願いします。テレビには絶対に出ませんから」
「承知しました」

(本当に承知したのか、新人編集くんよ)

 音子の新人編集くんへの疑いは、あのテレビ対談以来、一向に晴れない。
 今回は、編集部が何と言おうが、絶対にテレビには出ないから。当日キャンセル行使してでも、テレビ局には行かないからな!
 もう、連載の1本や2本、無くともええわ。猫と暮らすくらいのお金さえあれば、他には要らない。
 音子は、腹を括っていた。

 っと、作品の紹介が遅れてしまった、申し訳ない。
「彩雲の果てに」は、社会性ストーリーを主にした作品で、決して派手な立ち回りは無い。寧ろ、心の内を表現するのが極めて難しい作品とも言えよう。

作品名「彩雲の果てに」
★梗概★
 高校1年になったばかりの金持ちの少年は幼少時から両親に虐待され、人格障害を発症しかける。家出した少年は、手始めに猫を殺そうとするが、一人の青年に制止された。
 そして「この世に、勝手に奪える命などない」と諭される。
 青年は29歳。
 青年自身、金持ちの長男として生まれたが父親から執拗な虐待を受けた。高校生の時に家出し、29歳になるまでホームレスとして10年以上自堕落な生活を送っていた。
 あるとき、目の前でホームレスの知人を通して知り合った病人の最期を看取ったことから、青年の中で何かが変わった。青年は一から勉強し直し、現在は昼間準看護師として患者と向き合いながら、夜は動物愛護団体に寝泊まりし、動物たちの世話をしていた。
 
 青年は、少年のために児童相談所に相談するが、少年の親は、体裁を取り繕い少年の家出は癖だと決めつけ本性を見せない。児童相談所では、高校生でもあることから少年本人の意思を尊重するとした。少年を取り戻そうと躍起になる親と、親から逃げようとする少年。
 結局、青年が少年を引き取り、面倒をみることになる。金銭的にも決して楽ではない暮らしだったが、驚いたのは、周囲に感謝の言葉さえ無い少年。
 だが、少年は徐々に感謝の気持ちを覚えるようになる。そう、今までそういった相手に感謝するという『感謝のシチュエーション』に遭遇したことがなかったのである。
 しかし、精神的に追い詰められた人間が我を取戻すまでには、途方もない時間がかかった。
 そんなとき、青年の高校での同級生が精神科を開業していることがわかり、訪ねる青年。その医師に相談しながら少年の心理を見極めて行くのだった。人を殺したい、猫を殺したいと訴える少年に、怒るでもなく、放りっぱなしでなく、いつも抱きしめてあげる青年。
 青年自身、自分が欲しかった親からの愛情を少年に注ぐ。
 
 青年には好きな女性がいたが、少年の保護を巡って口論となり、青年は、少年の未来を選んだ。その女性とは疎遠になっていく。
 自分が青年を不幸にしたと思い込んだ少年は、裏返しの心理から青年を偽善者と蔑むが、一緒になって猫の捕獲をしたり、一緒に病気の子を世話したり、一緒に子猫の世話をするうちに、少年の心は少しずつ解け始める。
 青年は、将来、少年には獣医になって欲しかったが、人格障害が影響するのではと心配していた。少年も、血を見ると興奮しかねない自分を恐れ、2人は踏み出せないでいた。
 そんな折、その地域に大きな災害が起こり、動物たちが保護施設に溢れ返る状況となった。青年も少年も一所懸命面倒をみるが、何匹もの命が消えていく。泣きながら、何とかしたいと訴える少年。青年は、思い切って獣医科学の勉強を薦め、少年は高校卒業認定試験を経て獣医を目指す。

 6年の年月が経ち、少年は獣医として戻ってきた。傍らには、一緒に獣医を目指しながらも、獣医を諦め少年のために動物看護を学んだ女性がいた。
 青年は、40歳を前にしてNPO法人を立ち上げ、まず地方自治体との共生を目指しながら、着実に歩みを進めるのだった。青年から一旦は離れた女性も、青年の心情を理解し、NPOの業務に従事してくれることになった。
 すべてがこれからだが、チャレンジすること、諦めないことを皆で誓い合う。
 10年後、少しずつではあるが、地方自治体との共生が進みつつあった。青年達も年をとってはいたが、今出来るそれぞれの役割に全力投球している。
 そこに、突然少年の親が現れる。
 青年は、少年のフラッシュバックを危惧した。案の定、少年の心は動揺し、動物や彼女に虐待を加える直前まで、心理状態は悪くなる。
 両親の戸籍から抜ける覚悟をした少年は、両親から「遺産と動物のどちらが大切だ」と聞かれ、「弱いものの命だ、金など興味はない」と答える。
 青年も、昔同じようなことがあって、実家を勘当された。少年を誇らしく思う青年。
 貧乏暇なしの人生だが、今が一番充実しているという青年と少年。
 二人こそが、本当の親子のようだねと女性達は笑いあう。そう、これからも、野良猫を助けるために生きる。それが自分たちの本分なのだと、これまでしてきたことへの罪滅ぼしなのだと。
                                      了


「ふうん。『彩雲の果てに』の映画化か。世界の反感買うよなあ。分かってて映像化するのかねえ」
 また、独り言だ。近頃独り言が増えた音子。

 音子が望むと望まざるとに拘らず、満場一致で決定してしまった作品の映画化。編集部の情報では、主催者側の見解として、猫好きで父親らしい演技の出来る優しい雰囲気の青年を主役に、と考えているようだった。
 だが、主催者側の意図に文句を付けるわけではないものの、原作者である音子からしてみれば、見た目優しげで平凡すぎる役者は、できれば起用して欲しくなかった。平凡なイメージの人間が演じたら、作品の意図が曖昧になってしまうのは明白であり、その時点で、映像化は『失敗』の二文字を意味していたからだ。

 この「彩雲の果てに」は、高校生になるまで、成金とまではいかなくても、上昇の一途を辿る実家の稼業が元で、ブランドやハイソサエティな暮らしをふんだんに味わった主人公。それとは裏腹に、小さな頃から続いた両親からのハラスメント等の精神的虐待を振り切り、家出するところから始まる。
 高校生まで、立派な屋敷に住み、物質的には何一つ不自由したことの無い役柄を演じるのだ。少年にしてもそうである。この映画の男性陣は、ある意味、セレブリティな生活が似合う顔立ちの人間でなければならない。そういった少年や青年が貧乏な暮らしをしたとしても、生まれながらの高貴さが失われることは無い。言うなれば、金持ち風情の俺様顔が、観る者にとって一番解り易いのだ。
 俳優陣のセレクトを間違えれば、どんな名演技であろうとも、あの作品に込めたメッセージそのものが活きてこない。

 一か八か。
 音子は神谷琴音として、映画化が決まるや否や、西脇を指名し「是非、西脇さんの新しい一面を見てみたい」と思いっきり挑発、主催者側を説得することに成功した。
 そして、神谷琴音として、コメントを発表した。

「彩雲の果てに:映画化に寄せて

 題材的に、欧米諸国相手となれば不利な原作ではございますが、この映画が世界で注目されれば、国内の小さな運動がやがて大きなうねりとなり、我が国の動物保護活動が、徐々に世界から認められることでしょう。そのためにも、常に熱意ある演技を見せてくれる西脇さんに、今一度、トライしていただきたいと思っております。    
   
                                                           神谷琴音」

 西脇サイドからの返事は無かった。西脇自身、乗り気ではないようだった。
 そりゃそうだ。
 本人が知っているのかどうか分からないが、ブログ事件で諸外国の映画関係者の間で晒し者になったのである。その事実を知っているとしたら、どの面下げて演技しろっていうんだ、と今頃サンドバッグでも叩いていることだろう。
 知らなきゃ知らないで、前回ぴったりとハマった役で主演男優賞を獲れなかったのに、こんな地味男で賞が獲れるかとふんぞり返っているかもしれない。
 ましてや、派手なシーンが好きな俳優だと聞く。こんな地味男を演じるなど、本人のプライドが許さないのは目に見えている。

 仕方がない。
 奥の手を一つ残しておくとして、初めに自分の手でなんとかしてみようと音子は策を練った。
 
 ある日の午後、音子は都内でも高層マンションの立ち並ぶ地域にある西脇の自宅を訪ねた。特に変装もせず、白Tシャツの上にJジャンを羽織り、ボトムスは白で黒のスニーカー、最早超絶普段着での訪問。
 インターホンを鳴らしても、応答がない。あらかじめ俺様俳優の所属事務所に連絡して、今日午後はオフと聞いていた。事務所から西脇本人に連絡を取ってもらい、訪問の約束を取り付けていたはずなのだが。
 もう1度、乱暴気味にインターホンを押してみる。
 いるはずなのに、返事は無い。

 段々、面倒になってきた。
 音子は、ドンドン!とドアを蹴る。
 手で叩く、ではない。
 足でドンドン!と蹴り上げたのである。そして何度も叫ぶ。
「どーもー。神谷ですがー。いますかー?」
 ドアの蹴り具合が半端で無かったため、凄い音が辺りに響く。
「いないんすかー。ドア蹴破りますよー」
 同じ階の住人が、ドアを開けてこちらをみているのがわかる。
 金髪女性が、こともあろうにマンションのドアを蹴っているのだ。さぞや吃驚したに違いない。これが男性だったら、別の筋の人間と思われたことだろう。

 3回目のドア蹴りを準備して、体勢を立て直していた時だ。
 やっとドアが少し開いた。すかさず黒のスニーカーを滑らせ片足を入れる、音子。
「なんだよ、何か用?」
 音子の顔を確認すると、直ぐにドアを閉めようとする西脇。
 当然、ドアに挟んだ音子の足が締め付けられるように痛む。
「痛い、痛い、西脇さん、痛い、痛い」
 何処かで見たドラマを真似して、手をメガホン代わりに、音子は大声で叫ぶ。
「お前、性格悪いな。つーか、素行悪いよ」
「そっちこそ。いるんなら出な。ドアの修理代は持たないからね」
「何だよ、対談の時とは正反対じゃねえか」
「あんときは喋るなって言われてたんだよ。編集部から」
「帰れよ。俺は出ねえよ、あんな作品」

(あんな作品、ときたか。そうか、そうか)

 ドアを少し開けたまま、また手でメガホンを作り、大声で叫ぶ。
「そんなに自信ないのかあ。仕方ないねえ、ワンパターンの俳優じゃ使えねえよなあ」
「なんだと、コラ。調子こいてんじゃねえぞ」
「主演男優賞獲ってから言いな。あたしは作品賞獲ってるから、何だって言えらあ」
「いちいち気に障る女だな」
「話があるんだよ、中に入れろ。それとも、此処で大声のまま話そうか?周りに聞こえてもいいなら」

 やっと、ドアが半分まで開いた。
 ほっそりと痩せた身体を滑り込ませる音子。目の前にその姿を現したのは、前髪を垂らして上下グレースウェットの西脇。服装からして、音子に会う気は毛頭なかったと見える。
 音子は少し怒り気味に西脇を見つめた。西脇は音子に椅子を勧めるでもなく、自身もリビングの入り口で立ち尽くしていた。
「まったく。最初からこうしてりゃいいものを。あんたは馬鹿か」
「お前こそ。ドア蹴るなんて、女のする事じゃねえだろう」
「へん。あたしは別に男だろうが女だろうが、どっちだって構わないんだ」
「俺の理想とは、正反対の女だ。腹立つわ、お前」
「そりゃ結構。俳優殿があたしに興味持ったらおしまいだ」
「映画の話で来たんだろう、出ねえよ。帰れ」
「出ないのはあんたの勝手としてさ。あんた、自分の立場、理解できてんの?このままじゃ一生、海外の賞なんて獲れないよ」
「なんだよ、それ。どういうことだよ」

 音子は溜息を吐く。
 やはり西脇は英語やイタリア語、フランス語、スペイン語など一切外国語が解らないらしい。
「あんた、英語殆ど話せないだろう。他にも外国語まるっきり駄目なんじゃないか?」
「それがどうした」
「こないだ、あんた、どっかの猫ブログで問題起こしたそうだな」
「言いたいこと言っただけだ。別に謝る気もない」

 頭がクラクラする音子。
「問題は其処じゃないんだよ。なんでメトロの主演男優賞獲れなかったか、本当にわかんないのか?あのブログにケチ付けて、murmurに投稿しただろう。だからメトロの関係者が、人間として賞を与えるに値しないってコメントしたんだよ」

 自分だけリビングに戻り、ソファにどっかりと腰かけ、腕組み足組みでふんぞり返る俺様俳優。
「何で猫と映画が繋がるか、わかんねえ」
 再び頭がクラクラするのを右手で押さえながら、つかつかと部屋に入り込み勧められてもいないのに向かいの椅子に座った音子は、俺様俳優を下目遣いでじっと見る。
「欧米では野良猫は保護されて当然の扱いを受けてる。日本みたいにガス室で殺処分なんて、先進国じゃ殆ど有り得ないの。ガス室ってわかるか?戦争時代、某国収容所で使われた死の方法だよ。ま、今でもアメリカじゃ死刑の方法としてあるけどさ」
「なら、変わりねえだろ。猫も人間も一緒じゃねえか」
 音子は段々テンションが張り気味となり、声も次第に大きくなってきた。
「そりゃあ、アメリカじゃ電気椅子、薬、ガス室、近頃は銃殺ってのも死刑方法として認められつつあるよ。それだって死刑廃止論者からしたら殺人だろ?この二つの決定的な違いは、死刑になるような罪を犯した、ってことなんだ。あたしは日本で育ったから、死刑に対する賛否については傍観のみだ。でもさ、命を奪った代償って、何かの形で支払わないといけないだろう?片や、猫はどうよ?悪いこともしてないのに、捕まえられてガス室で殺される。生まれてきたことが罪なのか?無罪の生き物をガス室送りにする国なんて、あっていいのか?」
「某国収容所くらいは解るさ、俺だって。各国の死刑制度くらいなら大学で習った。言われてみれば、無罪ではあるな、動物は」
「そうだよ、年間20万匹前後。犬を混ぜたら、もっと殺されてる」
「犬も?」
「野良犬は地方中心に、今もいるんだよ。小さな犬や猫が、ガス室で死ぬんだ。薬を使って安楽死させてる自治体は、ほんの一握りしかない。欧米からしたら、野蛮極まりないことだろう。それをあんたは、やっちまった。murmurで世界を駆け巡ったあんたの発言を、映画関係者が見逃すわけがないだろう?結果、あんた自身が、野蛮な人間、下等な人間と判断されて、映画賞を授与するに値しないって言われたんだよ」

 ここで、西脇の態度が軟化し始めた。足組みを止め、腕組みしたたま音子の方に向け身を乗り出してきた。
「そこまでは理解した。俺がmurmurで発言した内容が、世界中で非難を浴びた、ってことだな」
「そう」
「で、帳消しにするため、今度のあの映画に出ろと?」
「帳消しにはならないまでも、イメージが良くなるのは確実だよ。屈折した男や挫折した男の静たる部分を演じられれば、大きく羽ばたけるのは目に見えてる。あとは、悪役が出来ればパーフェクト」
「いやに発音良いな。それに、murmurの外国人関係者の発言の中身、どうやって知った。お前、外国人なのか?」
「ち、違うよ。友人が外国にいるだけ。翻訳して送ってもらった」
「ふーん。お前には悪いんだけどさ、あれ、地味すぎてさあ。気乗りしねえんだよ」
「主演男優賞は、其処を乗り切らないと獲れないよ。あ、後はね、社会貢献。チャリティでもいいし、それこそNPOへの支援でもいいし。外国では、そういった社会貢献もしてる俳優さんが殆どなんだとさ」

 西脇は、作家の神谷琴音如きに、己の分野に口出しされ、面白くなかったらしい。
「お前さ、作家のくせに、どうして其処まで知ったような口聞くわけ?審査員じゃあるまいし。社会貢献とか、なんで知ってんだよ」
 流暢に話し過ぎた音子も、流石に焦った。
「えー、まー、聞いただけだから。審査員じゃないし、わかんないけど。しないよりは、した方がいいかなというアドバイス、だね」
「けっ、面倒なこった」
「ふうん。じゃあ、これが最後の話だ。一度しか言わないから良く聞きな」
「どうぞ。聞く耳持たずって言っても、耳元で怒鳴るだろうが」
 
 音子は、ふふーんと笑う。
「信じる、信じないは、あんたの自由」
「勿体ぶるなよ」
「今度のメトロで主演男優賞受賞して、なおかつ、あたしの出す9か条の逆ハードルを達成したら、1度だけ、海外への挑戦状をあげる」
「海外?」
「そう、あの有名処にトライできる。オファー来襲までは約束できないけど」

 西脇の顔つきが変わり、ソファから立ち上がった。目元口元に怒りが見え隠れしている。
「お前、一体何様のつもりだ。受賞はわかるさ。なんだよ、逆ハードルって」
「別に。あんたが逆ハードル蹴るなら蹴るで、あたしは構わないよ。ただし、いくら受賞したところで、あんな9か条ハードル諸外国で披露したら、アジアの黄色いサルが、って馬鹿にされるのは目に見えてる。最低でも対等、若しくはフェミニストでないと有名どころでは使ってくれない」
「はっ、俺様のハードルに意見しようなんざ、100年早いんだよ」
「なら、国内で細々やってればいい。逆ハードルも忘れて構わない。その代り、海外への挑戦なんて甘い夢は、絶対に見ないことだね。今のあんたには無理」

 音子の目にも、西脇の心の奥深くに、火が付くのがわかる。
「そりゃあ、海外に挑戦できるチャンスなんて、そうそうないさ。オファーだって、余程年月掛けて磨きかけて、やっと成功するかどうかだ。日本人の俳優なら、みな、夢見る世界だよ」
「みたいだね。アベケンとかキタシュウなんて、最初は英語レッスンから始めたもんね」
「・・・なんで目の前で見たような口聞いてんだ。大御所だぞ」
「あ、ははは。そうだね、失礼。違う世界の方だと思うと、つい・・・あはは」
 
 大御所か。
 なるほど、そうだった。
 実は、音子の父母は映画関係者であり、父は監督業、母は女優だ。兄弟姉妹も同じような道を歩んでいる。俳優然り、映画界然り。音子だけが地味な世界に生きていると言っても過言ではあるまい。
 アベケン、キタシュウと呼ばれる日本の大御所俳優たちの中には、父が日本に居た時代、父の下で指導を受けた者も多い。父は、海外に行きたいなら語学堪能であれ、と彼らに説いた。彼らも必死に英語を勉強しようと心に誓っていたらしい。英語レッスンしている時など、小さい時の音子が相手になって喋ったものだ。

 などと、事実をひと言でも口にしてはいけない。
 あくまで、神谷琴音として日本映画へのオファーを掛けるのが、今日の目的だ。さあ、西脇はどう出るか。

「いいよ、その逆ハードルっての、見せろよ。見てから決めるわ」
「ほい。わかった。手帖に書いて来たんだ」
 バッグから手帳を取り出し、今一度見直す音子。
 よっしゃ、これだ。
 ふて腐れている西脇に、手帳ごと手渡した。

1 男女ともに、相手の仕事を優先すること
2 己の体調管理は己の仕事。女に料理云々求めるな
3 趣味の共有を求めず、互いの趣味の世界に入るな
4 社会貢献に力を入れろ
5 自分を律する心構え(例:禁煙)
6 イベントは家族で祝う
7 話し合いは頻繁に。言わないと伝わらない
8 英語で日常会話を行うこと
9 フェミニズムを理解できること

 西脇の目が三角になり、眉が片方だけ上がる。その表情は、鬼のそれと化す。
「お前、これ、俺へのあてつけか?」
「まあ、それもあるけど」
「ふざけんな」
「それが守れなかったら、外国の映画界では成功するどころか、相手にもされないよ」
「じゃあ、俺の健康管理は誰がするんだ?」
「専門のシェフ雇えばいいさ。トレーナー雇用してトレーニングなんて向こうじゃ当たり前に行われてる」
「イベントは家族でって、何だよ」
「至極当然。独り者なら誰か誘ってパーティー行かないと。変わり者のレッテル貼られるに決まってんでしょうが」
「じゃあ、頻繁に話せってのは?」
「外国人は推し量ることを知らないから。俺を解ってくれ、じゃ駄目なんだよ」

 西脇は、思い出したように煙草を手に取った。
 箱から小指を抜いた4本の指で煙草を取り出すと、人差し指と中指だけに持ち替えて、そこにライターを近づける。ライターに火をつけ左手を添え煙草を近づけると、ライターの火が煙草に灯った。煙を緩やかに立ちのぼらせる吸い方が、とてもサマになっている。
「ああ、ステキなポーズだねえ」
「お褒めに預かり光栄です」
「でも向こうでは基本禁煙だから。スモーカーは自分を律することの出来ない下等な人って評価されるから気を付けて」
「お前さ、いるとすげえウザい」
「うん、あんたの言い分は、なんとなくわかる」

 煙草を燻らせながら、西脇は音子をじろじろ見る。
「マジ、外国人みてえだな」
「良く言われます」
「はっ。ま、いいや。その賭け、乗ってやるよ」
「そう、交渉成立か。了解」
「その代り」
「その代り?」
「ああ、こっちからも条件出すわ」
 は?と訝る音子。
「あんたのために来たつもりだけど、なんであたしが条件受けるわけ?」
「俺の出したハードルに乗る気は、毛頭ないんだろう?」
「ないね。クリアしてもあたしの利益にならない。ゆえに却下」
「もし俺が賞獲ってあんたのハードルをクリアして外国に行けるとして、一つお願いあんだけど。お願いじゃなくて、交換条件だな」
「何?事と次第によりけりってとこかな」
「俺向けに、小説書け」
「あんたをヒーローにした作品ってこと?」
「違う。俺があんたに書いて欲しいジャンルを指定する。賞を獲ったら指定する」

 展開と構成が微妙にスライドしていくのがわかったが、小説は、音子の職業である。それは、その時考えれば済むだろう。
「わかった。以上で交渉は成立。OK?」
「OK。俺のハードルは嫁に対するハードルだ。あんたのは、外国でやって行くためのハードルに近いからな」
「じゃあ、これで」
「おう。今回は体談やるのか」
「今回は受けないことにした。表に出るの好きじゃないし」
「そんだけのタッパあれば、モデル出来るだろうに」
「あたしとは、かけ離れた世界だよ。あたしはライトの下で輝く人間じゃないから」
「ライトの下か・・・言い得て妙ってやつだな」
「じゃあ。あとはよろしく」

 さっさと帰ろうとする音子を、西脇が呼び止めた。
「おい、待て。さっきのドア蹴りで報道陣、来てるぞ。見ろ、窓の外」
 音子は、窓の内側から地上を見下ろした。なるほど、西脇の言葉どおり報道陣らしき人物やカメラが詰めかけている。神谷琴音がドア蹴りしたことが知れたのか、女が西脇の部屋に入ったからか。ああ、芸能人はいつもこうやって人の目に触れる職業なのかと思い知った音子。自分がこういったシチュエーションで生きていないから全然わからなかった。
「さっきドア蹴りしたからじゃないの?別にいいよ、あたしは」
「二人は親密とか書かれたら、どうすんだよ」
「そりゃあ、オファーに来たんですっていうだけだし」
「世間じゃ、通用しないっての」
「じゃあ、ドア蹴りしました、って言えばいい」
「お前なあ。作家がドア蹴りしてオファー掛けましたっていうのか?女がだぞ?」
「別にいいよ。あたしは週刊誌に興味ないから」
「俺が負けました、って言えば済むと?」
「ま、そういうことだね」
「しゃーねーな。少し待ってろ。着替える。2人で出て、オファー受けたって話すしかないだろう」

 言われた通り少し待っていると、ラフなチェックのシャツとジャケットを着崩して、ベージュのパンツと白いスニーカーを履いた西脇が現れた。
「さ、いくぞ。正面突破だ」
 階下へ降りる。
 玄関前には、数社の報道関係者が、カメラやらマイクを持って待ち構えていた。2人が並んで外へ出ると、我先にと山のように押し寄せてくる。
「西脇さん、こちら神谷琴音先生ですよね。作品の映画化について、お話されていたんですか?」
「そうです。先生に熱心に口説かれましてね。今回の『彩雲の果てに』への出演を熱望されているということで。結果として、お引き受けすることにしました」
「神谷先生がこちらに、ということは、事務所を通さず個人的にお付き合いがあるということですか?」
「いえ、事務所に連絡して僕の連絡先を聞いたそうです。事務所からも連絡が入ってまして。お約束していたんですよ」
「なんでも、ドアを足蹴りされていたとか・・・」
「あれは間が悪かったんです。ちょうどシャワーを浴びていたので気が付かなくて」

 カメラが、音子を映す。
 西脇が制止した。
「神谷先生はカメラとか苦手だそうなので、映さないでもらえますか」
「いや、でも。ツーショットくらいなら、いいでしょう?」
「仕方ないな。神谷先生、よろしいですか?」
 さすが役者だ。先ほどまでの俺様態度は、何処へ。
 音子にもマイクが向けられる。
「神谷先生、ドア蹴り効果ですかね?」
「本当にすみません。インターホンが壊れているのかなと思ってしまって。周辺の方々にご迷惑お掛けしてしまいました。心からお詫び申し上げます」
 心にもないことをほざく音子。
 
 男性にしてみればそこそこ背の高い180センチを超える西脇と、これまた女性としては背の高い部類に入る170センチを超えた音子のツーショットは、実に目立つアングルだったらしい。
 その2週間後に発売された諸々のメディアときたら、微妙なニュアンスで記事にしやがった。
『神谷琴音 決死のドア蹴りオファー プリンス西脇のハートを射止める』
 あの時のツーショットが、週刊誌の見出しを飾る。

(いや、ハートは射止めてませんけど)

 なんの勘違いですか?と物申したくなる。
 そうこうしているうちに、来てしまった。
 西脇ファンからの脅迫状、失礼、文句タラタラメールである。仕事パソコンメールは必要部署以外迷惑メールに入れてあるので件数くらいしかわからないが、ざっと見て500件は優に超えている。
 記事を良く読め。おまえら脳みそあるのか。
 男のハートを射止めたい女が、相手の家のドアを蹴るわけがなかろう。

 編集部からは
「ドア蹴りとは何事か!」
 とこれまた文句タラタラのメールと、暫くの謹慎を課された音子であった。
 別に。
 作家が謹慎も何も。
 あたしは黒いショートのかつら被って黒目のカラコンすれば何処でもお出かけOKだし。服装さえ注意して裏口から出れば、何も怖くありませーん。
 単純思考の小説家は、その後の展開を考えてもいなかった。小説家だからこそ、人間の心理という物を考えなくてはいけないというのに。

 やはり、というべきか。
 今回ばかりは音子が甘かった。
 ペットショップ周りをするために外出の準備をしていた音子が窓の外にふと目を遣ると、SNSとやらで神谷琴音の部屋を嗅ぎつけた取材陣やら西脇ファンが、表も裏も固めているではないか。
 いくら黒髪かつらとはいえ、身長だけは誤魔化せない。これでは抜け出そうにも、かつらを引っ張られそうな予感がする。
 事実上の謹慎状態、いや、軟禁状態である。
 ペットショップ周りをしたかった音子としては、些か困った状態になった。買い物は今や宅配という便利なものがあるので困ることもないのだが、猫は耳が良いのでこのざわつきは非常によろしくない。猫たちの環境を考えても、困ったと首をひねり、なんとかこの状況を打破せねばと考えを回らせる。

 そこで音子は、本国の家族にヘルプを求めることにした。
 本国にメールで現在の状況を伝えた。心配いらないと送ったはずが、メールを開くや否や、向こうの家族は大騒ぎになったらしい。
 数日後、本国から勢ぞろいで音子のマンションに来た兄弟たち。音子は姉、兄、妹、弟の5人兄弟である。手回しのよい彼等は、編集部に連絡して別のマンションに引っ越す手筈を整え、引っ越し業者の荷物に紛れ、音子は猫たちとともに姿を晦ました。
 猫たちには引っ越しが負担だろう。心配だったが、思いのほか、居心地の良い部屋が見つかった。
 ブログの景色が変わってしまうのは致し方あるまい。

 週刊誌では
『神谷琴音、突然の失踪』
『西脇とのゴール間近?』
 言いたい放題だ。

 ブログにまで、
「音子さんの引っ越しと神谷琴音の失踪時期、重なってますね」
「音子さん、神谷琴音だったりして」
「でも、西脇とは付き合わないでね」
 などというコメントが寄せられる。
「神谷先生と一緒にされるなんて、光栄ですね」
 そういって煙に巻くしかない。

 引っ越し先は、元いたマンションから数キロ離れた場所で、西脇の家からも遠い。それでいて、外国人も多く住む地域だったので生活には困らなかった。以前からそうなのだが、音子は仕事用とプライベート用に、2LDKと1LDK、2軒分の部屋を借りている。
 編集社から幾分近いこともあり、また、在留期間があと少しで更新時期に差し掛かっていることもあり、編集部からは大目玉を食らわずに済んだ。不幸中の幸い、といったところか。
 編集部側からしてみても、作家に対し癇癪を起して延々と怒鳴り付けようものなら、しっぺ返しを食うのが分かっているから、最後の線は越えない。
「在留は取りやめて、本国に帰ります」
 メトロの作品として映画化が決まったからには、音子からそのフレーズを聞きたくなかったに違いない。それだけは避けたいところなのだろう。

 軟禁状態から一転、兄弟たちが協力してくれて、野生児の救出とペットショップ周りも一段落した。避妊オペも終え、兄弟たちは手分けしてペットショップ猫たちの貰い手を探してくれた。
 ひと月半経ち、猫の体調が安定してから、兄弟たちは猫御一行様として本国へ旅立っていった。

 あとは、「彩雲の果てに」の収録終了を待つばかりだ。
 西脇には、大変申し訳ないことをしたと思う。
 自分がドア蹴りさえしなければ、あんな厄介な記事も書かれずに済んだし、今頃理想の嫁を見つけられたかもしれないのに。
 音子は元々が外国人だから、推し量る、という文化を腹の底から理解できない部分がある。かといって、今、西脇に連絡をとって謝るわけにもいかない。
 心の中で祈るしかない。

(すまない、俺様西脇殿よ。撮影頑張って、引っ掻かれてくれ)

 映画の撮影という作業は時間がかかると聞く。本国で作製されているSF系映画などは原作を書き終えてから2年から3年くらいかかるものが多い。
 ただ、今回の『彩雲の果てに』は、心情が中心となる。
 ロケ場所などは、国内に多々ある動物保護団体の施設になるだろうから、そんなに大がかりなセットは要らないはずだ。

 西脇以外の少年役のキャスティングにも、同じような華を感じる少年を希望し、主催者側も了解してくれたので心配はしていないのだが。
 別に西脇がメトロで賞を獲ろうが獲るまいが、どちらでも構わないけれど、どうせなら、あの青年役をきっちりと演じて欲しいと思う。
 音子自身の作品賞のためではなく、彼の海外での汚名返上のチャンスを与えてあげたいと。
 猫たち野生児への考え方は人それぞれだから、心の中まで変えろとは言えない。諸外国で口にしないで貰えれば、それで済むことだ。

 なぜ、そう思ったのか分からない。
 なぜ、損得にもならないような逆ハードルを課してまで彼にオファーを掛けたのか、分からない。
 なぜ、彼の交換条件を受け入れたのか、自分でも分からない。
 
 また、なぜなぜづくしの時間が始まった。
 考えても仕方がない。
 編集部からエッセイ締切の電話が来るころだ。早く仕上げねば。

 ああ、そうだ。
 思い出した。
 ブログを滅茶苦茶にされた時、どす黒い感情のあまり、西脇に出来そうにないことを要求しようと思い立ったのだ。
 音子にとって、大事なブログを滅茶苦茶にされた恨みは、メトロで作品賞を獲ることよりも大きかったと推察される。ある意味、その二つを天秤に掛ける作家は何処にもいないと思われるのだが、どうやら此処に天翔る真っ黒い小悪魔が誕生したらしい。
 で、ブログ騒動を鎮圧しながら、チャンスがあったら、西脇の俺様ぶりを俺様キャラとして利用し、小説を書こうと思ったのだ。そのために逆ハードルを作ったんだ。本人に渡したものより、もっとどす黒い9か条を。これこそ、一石二鳥になるではないか、と。
 音子よ、諺の使い方が、ちょっと気になる。
 本当にキミは小説家なのか。
 アメリカンスクールでは、日本の諺までは教えてくれなかったようだ。

 その頃、西脇は猫たちに引っ掻かれながら撮影に没頭していた。大手の動物保護団体に交渉しロケ地に選んだことで、日本の殺処分行政の現状も教わった。弱肉強食と殺処分とは、全く違った意味を持っていた。
 神谷琴音が某国の収容所と表現した意味が、ようやく解った。外国から非難されるのも当然だ。
 クジラの捕獲も非難されている。良いか悪いかは、国によって判断や見解が分かれるだろう。
 しかし、それは日本古来の文化と言えば文化である。犬や猫を食べる文化も世界の中にはあると聞く。文化ならまだしも、捕まえてガス室送りは、あまりに酷い仕打ちだ。それなら、野放しにして弱肉強食の方が余程自由ではないか。
 まして、現在、都会では鼠が大繁殖していると聞く。要は、天敵の猫が居ないからだ。それでも猫を捕まえて殺すのが当然なのだろうか。

 今まで見向きもしなかった地味なストーリー、演じたことのない地味な役柄。

(これで世界を狙うのか。無理だな。俺の負けか)

 そう思いつつも、引っ掻き傷だらけになりながら、西脇と少年役の本城正人は、ほぼ毎日、猫たちの世話をした。この猫たちが、1匹でも幸せを掴めるようにと願いながら。撮影途中に幸せを掴んだ猫もいる。その様子も映画用にカメラが回されていた。
 西脇と本城は、本当に親子ほど年齢が離れていた。西脇は、父親の愛情とは何だろうと日々考え、本城を実の子のように可愛がった。周囲でも、西脇への評価が変わったほどである。
 女優陣も含め、地味ながらも皆が一つにまとまって、現場はとてもいい雰囲気だった。
 撮影そのものは、動物が相手なので、2ケ月から3か月ほどだっただろうか。
 西脇自身、クランクアップの時は、終わったという充実感と猫たちの面倒をもう見ないんだなという寂しさが残った。本城も同じだという。
 動物たちの世話をしていると、映画祭とか主演男優賞とか、そういった生臭い話は一切頭から消えた。不思議と、クランクアップしてもそれは同じだった。

 神谷琴音のいう「社会貢献」ハードルが頭にあったわけではない。
 それでも西脇は、クランクアップ後も、動物保護団体への寄付を続けた。時間があると、手伝いに行くこともあった。
 猫たちが卒業し、貰われて行くのが嬉しかった。一方で、虐待目的の譲渡がある実態も知った。動物たちのために何か出来ることがないか、初めて考えた。
 神谷琴音と噂が立ったのは知っていたが、クランクインしていたので、取材は受けつけていない。
 五月蝿い女だったが、俺達のように観られて当然の仕事ではないのに、今頃追い掛け回され家の前で張られていることだろう。気の毒に、と思う反面、腹立たしくもある。

(あれは、あいつがドア蹴りしたから悪いんだ)
(天の報いだ。甘んじて受けろ)

 しかし、神谷琴音失踪の記事を知り、流石に吃驚した。

(あいつ。一体何処へ消えたのやら)

 神谷琴音の連載エッセイがあると聞き、事務所を通して失踪の事実を確認してもらった。取材陣に家を知られ、引っ越しただけと聞き、安心した。

(どうして俺が安心するんだ?あいつの自業自得じゃないか)
(俺だって未だに、神谷琴音失踪の理由を取材陣にしつこく聞かれる)

 そう、あのツーショットから流れは変わった。
 西脇の周囲でも、事ある毎に神谷琴音の話が出るようになっていた。特にメディアはしつこかった。
「神谷先生の居場所、ご存じないですか」
「知りませんね。撮影中は外部の情報を耳に入れませんから」
「ゴールイン間近だったのでは?」
「みなさんが勘違いしたんですよ。さて、このまま居なくなったら、皆さん方が一番大変でしょう。もう、探さないでおいたらどうです?」
「どこにいるか、気にならないんですか」
「対談と、あのオファーでしか会った事ないですからねえ」
「西脇ハードルは?神谷先生、お受けにならないのかな」
「却下されましたよ」
「却下?」
「ええ、僕とは異世界に住んでいるから、だそうです」
「異世界、ですか」
「さ、神谷先生は別として、撮影の話でも聞いてくださいよ」
 取材陣を誘導しつつ、西脇は音子の話を煙に巻いた。

第3章 新しいストーリー

 今年もメトロポリタン映画祭=レッドカーペットの季節が巡ってきた。
 日本からエントリーされた映画、『彩雲の果てに』
 一体、海外ではどのような評価を受けたのだろうか。

 ズバリ。
 作品賞は逃したが、西脇や本城の熱意、渾身の演技を通り越した魂が伝わったのかもしれない。西脇と本城は、主演男優賞と助演男優賞のダブル受賞という、日本映画界における初の快挙を成し遂げたのだ。
 国内がこの壮挙に湧いたことは、言うまでもない。
 テレビでは、授賞式の様子や現地インタビューなど、様々な番組を特集していた。

「やったじゃないか。やればできんじゃん」
 また独り言がその口から飛び出す音子。
 音子自身、作品賞に届かない原作なのは百も承知だった。動物保護先進国において、あの原作はあるまじき行為であり、作品賞に選定すれば、図らずも、それを認めてしまうことになるからである。

 インタビューで、西脇が口にした言葉が印象的だった。
「動物たちは、自然の摂理に従って生きる権利がある。人間側の理由で、それを断ち切ることは許されない。少なくとも、僕はそう思っています。それを痛感しながら、ずっとお世話していましたから、演技とかそういう顔ではなかったかもしれませんね」

 成程、自然の摂理か。善いこというなあ、俺様俳優殿。
 驚くべき言葉も飛び出した。
「これを機会に、動物保護への理解をもっと深めて、僕に出来る応援の仕方を模索していければと考えています」

 上出来だ。
 これで、海外での酷い評価も払拭できたことだろう。
 音子は、逆ハードルなど半分忘れかけていた。西脇が汚名を雪いだことで満足してしまったのかもしれない。ブログ騒動の腹いせは、もう頭から消え去っていた。
 そのつもりだった。

 しかし、世の中、そう上手く循環しないものである。
 映画祭の結果が発表されてからひと月余りの、ある日のことだった。
 編集部から電話が来た。
「神谷先生。お客さまが来るので、〇〇駅裏のホテルウェルスの1601号室に直接向かってください。時間は午後1時です。30分前に迎えのハイヤーをやりますから。遅れないでくださいよ」
「お客?誰ですか」
「会えばわかりますよ。絶対に行ってくださいね」
 勢いよく電話は切れた。

 はて、客・・・。誰だろう。

 面倒だなあ。相手によって服変えないといけないだろうに。
 でもまあ、何着ろとかの指示も無かったから、メディアの人間ではないだろうし、畏まるような大それた方々でもないだろう。そんな知り合いは、いない。
 それでも、ホテルでの会合とあっては、ジーンズにライダースジャケットでは失礼か。
 シルクのシャツにグレーのノーカラージャケットを羽織り、髪を束ねて黒いアンクル丈のパンツを穿く。モノトーンなら失礼にあたるまい。
 パンプスは苦手この上ないが、礼儀を考えれば、こればかりは仕方がない。
 30分前、予定通りハイヤーに乗り込む。指定のホテルまでは20分くらいだから、遅れることは無いだろう。
 あ、パンプスきつい・・・。

 靴を履いたり脱いだりしているうちに、ホテル前に着いた。
 中に入って、編集部から言われた通り、直接部屋に向かう。さて、誰が呼んでいるのだろう。今までこんな経験は無い。
 不思議に思いつつ、脳みそを活性化させることもなく、部屋の前に着いた音子。
 ドアのインターホンを・・・ない。
 ドアをノックして、待つ。
 パンプスがきつくて、足をぐにゃりと曲げていると、ドアが開いた。

 ドアの向こうに居たのは、俺様俳優、西脇博之殿だった。
 
「おう、久しぶり、入れ」
 手で向かい入れる仕草をする西脇。音子はそれに従って中に入った。中には応接室があり、ベッドルームは別部屋に有るようだった。音子が通された応接室には、テーブルと椅子が斜向かいに二つ、並んでいた。
 久しぶりの西脇の顔に、音子はなんだか懐かしいものを感じたような気がした。
「あ。おめでと」
「阿呆。何が『あ、おめでと』だ。お前、姿消してどっか行ったって専らの噂じゃねえか。探すの大変だったんだぞ」
「あー、ごめーん。ちょっとやんごとなき事情があってねえ」
「まあ、あのドア蹴りで騒ぎになったから仕方ないとして、居場所くらい教えていけ」
「なんで?」

 西脇の顔が、俳優の顔から、またもや鬼の顔に変わる。それまで座っていた椅子から立ち上がり、音子を睨む。
「お前、約束忘れたのか?アホか?たった3カ月しか経ってないだろうが」
「あんたとあたし。何か約束した?」
「ああもう、ホントにふざけた女だよ。俺が賞獲ったら、俺の指定したジャンルで小説書くって約束したろう」
「あ、逆ハードル」
「そうだよ、そっちは英語がまだ上達してないから無理だけど」
「英語なら得意だよ。先生になってあげる」
「お前、馬鹿にしてんのか。最初に、俺向けに小説書きやがれっ!」
「並行すれば問題ないさ。書きながら、英語で話をするんだよ。そうすりゃ日常会話くらいできるようになる」
 にっこり笑う音子。
 それに対し、鬼の西脇は、未だ笑顔を見せない。
「場所はどうすんだ。またドア蹴りするのか。そしてまた姿晦ますのか」
「そうだねえ。それがネックか」
「つか、何で書きながら英語で喋れる」
「右脳と左脳の使い分け」
「どうやって使い分ける。普通、日本語で考えて英語に変換するだろ?」
「違うよ、英語で考えて日本語に変換してるの」
「お前、学校何処よ?アメリカンスクールか?」
「ご名答」
「なんで日本人がアメリカンスクール行くんだよ。マジ日本人じゃねえだろ」
「居たよ、日本の子。何人か」
「って、今はスクールの話じゃない。交換条件だ」
「はいはい。英語はあとね。で、何書くのさ」

 西脇が、徐にメモを取り出した。
 音子の前にドーンとばかりにメモを置く。
【ストーリー:恋愛ネタの展開。俺たち2人が重要なキャストに入る】

 目を疑う、音子。
「ナンデスカ、コレ。ワタシ、ガイコクジン。ニホンゴ、ワカラナイネー」
「ふざけんなっ!」
「なんでわざわざ恋愛もの選ぶわけ?あ、もしかして対談で会った時の・・・」
「そう、お前、恋愛経験ないみたいだし」
「くそ意地の悪いオヤジだな」
 音子の暴言にも耳を貸さず、目の前で爛々と目を光らせる西脇。
「俺はまだ35だ」
「一昔も違えばオヤジだ。他のジャンルにしてよ、嫌だよ、恋愛ものだけは」
「それじゃ一皮剥けないだろう。お前が俺に言った言葉だ。俺はクリアしたぞ」
「うう。そうだね。そんな過去もあったね。でもさあ」
「デモもクソもない。展開書いただろうが。俺達がキャストに入ればいいって」
「恋愛ものにならないじゃないか。壮絶バトルものになる」

 椅子に戻り、先日のように煙草を吸いながら、西脇が笑う。
「確かにな。そこを恋愛ものに変換させるのが、お前の役目よ」
「こんなリアルな設定じゃ、余計に書きづらいよ」
「そこを何とかするのが作家の仕事だろ。フィクションとノンフィクションって分野もあるくらいだし」
「うへえ・・・。締切と枚数は?」
「締切?さすがプロだな。そうだな、英語習得に半年はかかるだろうから、半年。枚数か。長編だと何枚くらいなんだ?」
「ものによりけりだよ。1000枚超すなんて、ざらにあるし。新人の登竜門で400~500枚程度かな」
「じゃあ、恋愛新人ってことで、400枚程度。10枚でお仕舞ってのは無しだぞ」

 ふらつく音子。パンプスを履いている窮屈さが、ふらつきに輪を掛ける。
「何かあったら、このホテルのこの部屋で。恋愛相談くらいならのれるからな」
「はいはい、今をときめく俳優殿は、さぞや浮名も流してきたことだろうしね」
「それも演技を磨くためさ。って、俺をジゴロ扱いするなっ」
「ホントのことでしょうが」
「五月蝿い、お子様が。兎に角、約束だからな」
「うへーい」
「しっかりしろよ。そんなにヘビーな注文か?」
「超ヘビー級だよ。あたしはウルトラライト級なの」
「まったく。大事にされて育ったお姫様みてえだな」
「そうだよ、皇女だもん」
「嘘だろ」
「うん、嘘」
「あ、あと、俺のアドレス教えるから。お前のスマホ貸せ。俺の番号とアドレス、入れてやる」
「消す」
「どこまでもふざけた女だな。ほら、貸せ。俺のスマホにお前の番号を入れれば、消えないだろ、いや、お前には絶対に消せない」

 運悪く、その日はプライベート用の携帯電話しか持っていなかった音子。これが仕事用だったとしても、メールアドレスを変えたり電話番号を変更すれば、編集部からの怒りメールがパソコンに届くだけだった。
 いや、プライベート用だったからまだ良かったのかもしれない、仕事用だったら、西脇との会話内容が編集部にバレる。大目玉は必至の究極展開だ。

 音子の思考回路が、さらさらと砂を流すように静かな音を立てて止まっていく。
 砂時計同様に、流れ落ちた砂は記憶として蓄積されていくはずが、その砂時計そのものがパリーンという音とともに割れ、砂が四方に飛び散る。飛び散った砂は、記憶の素を成し得ない。
 音子は、気が付くと自宅マンションの猫部屋にいた。
 どうやって部屋に辿り着いたか覚えていない。ホテルで西脇の顔を見たことだけは記憶にある。
 あれ、どうしてあのホテルに行ったんだろう。西脇に、何を言われたんだっけ。いつ、どこで別れたんだっけ。
 完全に、今日の出来事を記憶から抹殺しようとしている音子。

 そんなとき、プライベート用電話のコールが鳴り響いた。
 家の中を這い蹲って電話に近づく。見ると、「西條哲也」とある。誰だろう、登録した覚えがない。
 一応、出てみることにした。
「はい、キャ・・・」
「早く電話に出ろ!死んでるかと冷や冷やしたぞ!」
 相手は、西脇だった。ああ、良かった。プライベート用だから、危うく本名を名乗るところだった。
「なんすか」
「お前がちゃんと家に帰れたか確認したんだよ。スマホにGPS付けたからな。逃げようとしたら、わかってんだろうな・・・」
「やの字のオジサンみたーい」
「可愛い子ぶってんじゃねえ。お前の素顔なんぞ解りきってんだ」
「で、何で西條哲也になってんすか」
「俺の本名。西脇じゃ書きにくいだろ。本名貸してやるよ」
「本名借りて、何するんだっけ」
「お前、ホテルでの会話、頭から消去しようとしてるだろう」
「何かあった?」
「お前が思い出すか、俺がそっちに行くか。さあ、どっちがいい?」
「此処に来られるのは困る。用件を簡潔にどうぞ」
「俺達を題材に、恋愛ストーリーの小説を書く約束をした。締切は半年、枚数は400枚。どうだ、思い出したか」

 シーン。
 沈黙が続く。

「やっぱり、俺、そっち行くわ。編集部に住所聞いたし」
 音子は必死に、思い留まるよう西脇への説得を試みる。
「いや、その、あの・・はい、思い出しました、たぶん、きっと」
「じゃあ、進行状況管理するぞ」
「は?」
「何処まで書けたか、ファイル添付して俺にメールすること」
「何だ、それ」
「お前のことだ、半年後に『ごめんね、やっぱり書けなかったの、てへぺろ』なんてやりかねないからな」
「いやいや、女に二言はないよ。あるのは二枚舌だけだから」
「その二枚舌だよ。ああ、そうだ。もう一つ。お前、あの猫ブログのライターだろ。確か、桐谷、桐谷音子だ。お前、桐谷音子だよな?約束破ったら、バラすぞ」

 音子は、心臓が飛び出るくらいの衝撃を受けた。頭の中で、整理が付かない。返答しようにも、言葉が浮かばない。
 それくらい、音子の脳内衝撃は大きく、ノックアウトされ脳内がこの世から消え去りそうな自分を感じていた。

「ナンデスカー?ワタシ、ニホンゴ、シラナイヨ」
「やっぱりな。ドア蹴りされた時に気付いたんだ。猫のことすげえ大事に思ってるなって。ブログ事件のあとだもんな、お前の態度が横柄になって挑発的になったの」
「気のせいだと思うよ。うちに男いるからさあ、来られると困るんだよ」
「猫の男だろ。恋愛経験ねえやつの家に男がいるわけねえよ」
「ううう」
「お?認めたな。俺も、あのときのコメントは謝る。済まなかった」
「まだ認めてないけど、謝ったのは許してやる」
「お前、ショック状態みたいだな。もしかして、誰も知らない秘密なのか」
「いや、その前に、気のせいだから」
「わかったよ、そういうことにしといてやる。素直じゃないね、お前さんは」
「いえいえ、とっても素直ないい子ですのよ。私は」
「じゃあ、とっとと恋愛小説書きやがれっての。いいか、てへぺろしたらバラすからな」
「わかった。半年だろ?なんとかする」
「わかればよろしい。楽しみにしてるからな」

 音子は、電話を置くと猫たちと遊びだした。考えが纏まらないとき、決まってこういう行動パターンになる。そう、日常から逃げるタイプだ。

 ☆☆  ☆☆
 恋愛小説ねえ、どんなプロットで、世界観はどんなものなんだろう。展開に、あたしとあいつが出てくるといった。あいつのハードル蹴り飛ばして逃げる女じゃ話がすぐ終わる。多分3枚もかからない。400枚には程遠い。
 かといって、思い直してあのハードルに挑むヒロインじゃ、全然つまらない。外国人たるあたしの血が、それを許せるわけがない。
 登場人物も複数必要だし、キャラ設定もあるし。ま、主人公の男性は、まんま俺様キャラで済むけど。
 一番に、自分が何を伝えたいか。
 小説って、キモは其処だと思うわけよ。
 あたしの小説は、緻密で繊細な描写など無いに等しい。まあ。元が外国人だから、ボキャブラリなんて限られたもんだし。一部の作家さん方からは、毎度キツーイお言葉もいただきますしね。仕方ないじゃないか、優美な日本語なんぞ、そんなに知らんわ。
 それでも読みたいと思ってもらえるのは、あたしが伝えたい一言に同調してくれるファンの人たちがいるから。

 恋愛ものは、伝えたいことが無いから余計に書けない。
 プロット以前の問題なんだよねえ。みんな、恋愛に何を求めるんだろう。家族に求めたいことならあるけど、恋人に一体どんなことを求めるんだろう。恋愛をしたがる人は、何を求めるんだろう。心、身体、癒し、金。ああ、寝盗ることへの歪な心理もあるな。
 って、普通の恋愛小説ならそんなシチュエーションもあろうが、主演が西脇とあたしだぞ。やっぱり、壮絶バトルしか思いつかない。
 はてさて、どうしたものか・・・。
 ☆☆ ☆☆

 西脇は今、国内でドラマ撮影を行っているらしい。テレビで撮影風景を映し出していた。彼の持ち味である、肉体派のカリスマ刑事だとか。

(カリスマねえ。俺様の間違いだろうに)

 一方、神谷琴音は大きな連載が舞い込むこともなく、エッセイなどの日常感溢れる世界にいた。『彩雲の果てに』が映画化されたこともあり、動物愛護への意見などを求めるメディアもあったが、編集部では慎重に仕事をチョイスしていたようだ。
 そんな事情も相俟って、音子は比較的自由な時間が多かった。

 さて。そろそろ、重い腰を上げなければ・・・。約束の日は、3か月後に迫っていたのである。
 プロットを考える方策は、皆無といっていい。こうなれば、先日放映した恋愛ドラマのパクリでも書こうかとさえ思っていた。カミナリが落ちるのは分かりきったことなのだが。

 【プロット】
 カリスマとヒロインとの突然の出会い。一触即発の第一印象。バトルを繰り広げながらも、互いの足りない点をカバーし合っていく二人。そこに現れるカリスマ好みの女性。ヒロインは、カリスマに好意を抱きつつも言えない。カリスマもそれは同じだった。女性の秘策により、カリスマは女性に引き寄せられるが、勇気を振り絞ったヒロインの一言で、カリスマは自分の本当の気持ちに気付く。そして、ハッピーエンド。
 こんなところだ。
 これ以上は、マジ無理だ。でも、カリスマとヒロインをあたしたちにするのは無理があるというか・・・したくない。さて、二人を何処でどうやって出現させたものか。
 
 書き上げたところに、突然編集部から電話が来た。
「神谷先生。先日のホテルウェルス1601号にお客様です。今迎えのハイヤーを手配します。ラフな格好で、とのことでした。よろしくお願いします」
 きた。
 進行具合のチェックに違いない。

 あははは・・・一枚も書いてないなんて言ったら、ドヤされるだろうなと思いつつ、プロットのワンペーパーだけを手に、ジーンズにシャツとジャケットを羽織りホテルへ向かう音子。
「こんにちはー。神谷でーす」
「久しぶり」
「今回も視聴率良かったみたいだね」
「俺の演技は後回し。原稿は?」
「今はパソコンで書く時代だよ。今は手元に、これしかないんだ」
 プロットを見せる。
「お前、マジ恋愛小説の才能ないわ」
「なめてんのか、こら」
「だってよ、これ、編集部に出せるか?」
「間違っても出せない」
「だろ?このプロットは俺達の本来の姿、そして本来の二人の恋愛そのものに見えるよな。だけど恋愛仄々日記書くわけじゃなくてさ、れっきとした小説だろう。俺たちは重要なキャストに徹するのみ、なんだよ」
「というと?」
「俺とお前を、恋愛に発展させるのが目的じゃないなら、別の角度から見るしかないだろ?」
「はい、仰るとおりで」
「カリスマと人気作家が同時にいたら、どっちにより重きを置くか、だよ。お前、男心書きたいの?女心書きたいの?」
「どっちも書いちゃ駄目なのか?」
「どっちかにズーム当てた方が、書きやすいように思うけどね」

 反省しきりのプロ作家。
 俳優殿に指南されるとは思っても見なかった。
「ねえ、あんたさ。一体にして、恋愛とはなんぞや?」
「恋愛ねえ。若い時は、胸のときめきだったり、見つめられただけで舞い上がったり」
「ほうほう」
「年とるとな、二つに大別される。お前は俺に何をしてくれるのかと、俺はお前に何をしてあげられるのか」
「へええ」
「へええじゃない。お前の年から言って、胸キュンの時代は終わりだ」
「じゃあ、すこしダークになるねえ」
「さっきの大別は極端な例さ。でも、好きな人に何かをしてあげたい、役に立ちたいって気持ちは、いつでも同じだと思うけどな。これは世界共通だろう」
「ますます、プロットが崩壊していく・・・」
「俺、しばらくオフになるんだ。外国にでも行って、指南してやろうか?」
「どこ」
「渡米くらいなら。観光できる島があるだろ、日本人多いけどな」
「だ・・・だめだ。渡米だけはダメだ。あんたがハチの巣になる」
「何言ってんだ、この腐れ頭」
「兎に角、渡米だけは勘弁して。プロット練り直して、また送るから」
「まったく、石頭だな。年長者の意見は素直に聞いとけ」
「欧州なら。阿弗利加でもいいけど」
「其処までは無理だ。日程取れないんだよ」
「じゃあ、今日はこの辺で。プロット、何処に送ればいい?」
「俺の自宅に」
「住所知らない」
「スマホに入れてる、確認しとけ」

 編集さん以外からの駄目だしをもらうなど、作家以下の音子である。作家の価値無し、とでもいうところか。
 致し方ない。必死になって考える。
 音子の場合、他の作品を読むと引きずられる傾向があるので、読まないことにしていた。読めばもっと簡単にヒントが得られるかもしれないのに。音子は相当、意固地な性格と見える。

【プロット】
 カリスマが脇役で出演しているときから、応援していたヒロイン。
 ヒロインは駆け出しの編集者だが、カリスマが名を馳せるにつれ、自分との距離の開きを感じていた。
 そんな折、カリスマとヒロインは、物損事故というアクシデントで初めて顔を合わせる。
 必死にあやまるヒロインだったが、カリスマはケガをし、それが元で映画のオファーを断る羽目に。看病しようとするヒロインを、カリスマは怒鳴り病室から追い出してしまう。泣きながら家に戻るヒロイン。悪いことをしたと反省するカリスマ。
 半年後、再び二人は出逢うことになる。編集部が企画したカリスマと女性作家の対談だった。
 カリスマも女性作家も個性的な性格で、一触即発の二人の間で悩みながらも、カリスマの元気な姿を見て喜ぶヒロイン。
 女性作家は、ヒロインをみて、恋愛小説のプロットを練る。一方で、カリスマに近づきバトルを繰り広げながらも、女性としてカリスマの眼中に入ることに成功した女性作家。
 女性作家の目的はただ一つ、人間観察。作品のためなら、際どい行為も厭わない。
 編集者のヒロインは、そんな女性作家の意図を知り、カリスマを助けてあげたいと願う。カリスマは、編集者のヒロインを見て何処かで会っていると感じたが、カリスマを狙う女性達が周囲をうろつくため、思い出せないでいた。
 そんな中、編集者を伴った女性作家が、カリスマに二度目の対談を申し込む。その際に、女性作家に翻弄される編集者をみて事故の娘だと気付くカリスマ。作家の我儘にも明るく応対するヒロインを見て、好意を抱くカリスマ。
 女性作家は、それを遠くから見つつ、狡猾な笑みを浮かべる。
 何度か女性作家に押しかけられ、食事を共にするカリスマと編集。
 ところがある日、写真週刊誌に、明け方カリスマの家から出る女性作家の姿が。実はこの時、自宅に編集も居たのだが、女性作家は自ら写真を撮られる目的で外に出たことがわかる。
「愛しているから」という女性作家。
 実は作品のためなのだが、引きずられそうになるカリスマ。
 一方「カリスマには女性作家がお似合いかもしれない」引き下がろうとする編集。
 カリスマは、一つの問いを女性達に投げかける。
「本当の愛とは何か」という、カリスマの問い。
 女性作家は、即座に答えられない。
 編集は、女性作家との関係上、仕事を辞めると公言したうえで、「癒すこと」と答える。
 半年後、カリスマの傍らには旧編集が居た。

 そこに女性作家が訪ね、お祝いをいう。
「あたしが結んだ縁だから。何回か会っていれば、人の気持ちなんて見抜けるのよ」
「仕事より彼への愛をチョイスしたからには、徹底的に彼を支えなさい。それがあなたの役目だから」
 カリスマは訝るが、「あたしは人間観察が好きなだけ」と、女性作家は姿を消す。
 世に出る前の、女性作家の新作原稿を見て、二人は驚く。まるで今回のことが書かれているかのようなストーリー。本当に人間観察をしていたのか、悔し紛れの腹いせか。

(ああ、最後のシーンが、最後のシーンが決められない。書き方知らんわ)

 プロットも何もかも放り出し、カリスマへの癒しを主題にした作品。もう、これ以上は、書けない・・・。

 約束の半年が迫ろうとしていた。原稿も、最後のシーンを書くのみである。
 そんなある日、西脇から電話が来た。
「おう、俺んちでホームパーティーやるんだ。芸能界じゃなく、大学の同級生とかの集まりだから、顔出さないか」
「ちょうどいい機会だから、原稿紙ベースに落として持っていくよ」
「できたのか」
「出来は最低だけど、書くことは書いた」
「そっか。じゃあ、今週の金曜日。夜8時から。ドアは開けとくから、蹴るなよ」

 どうして自分が西脇邸のホームパーティーに呼ばれたか、音子はわからなかった。
 初対面の人は苦手だ。
 俗にいう、人見知りという性格である。
 ましてや、最初から職業が知れているなら、それ用の顔を用意できるが、職業も知らない人では、どうも乗り気になれない。
 面倒だ。早めに顔を出し原稿だけ渡して、戻って来よう。
 他人には見せない約束を取り付ければいいだろう。
 金曜日までに、最後のシーンを書いた。
 
 【ラスト】
 作家の本は、果たして世に出たのか。
 悔し紛れの作家が書いた原稿が世に出ることはなかった。カリスマの言い放った「お前の生きる世界は別にあるだろう。自分を貶めるな」その一言が女性作家を押し留めたのだった。
 そして、カリスマと旧編集の結婚パーティーが始まる。

(もう、これしか書けないよー)
                                       
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

 金曜日、早めの時間に行って原稿だけ置いてこようと、音子は部屋を出た。
 一応、黒髪かつらとカラーコンタクトでペタンコの靴を履き、ジーンズとブラックの薄手ニットに、デニム地の白いシャツを羽織り、薄いゴールドの靴を履く。
 マンションから大通りに出て、タクシーを拾う。いつもなら3分と掛からずに掴まるのだが、今日は5分待っても一台も来なかった。仕方なく反対車線に渡り、そこでも5分待って、やっと掴まえることができた。
 タクシーで30分。西脇の部屋に着いた。
 インターホンを押す。
 すると中から出てきたのは、淡いピンク色のブラウスに花模様のエプロンをつけた女性だった。茶系のゆるふわカールが綺麗に整えられている。
 そして、部屋の中からは、何とも良い匂いがする。これは・・・イタリア系のパエリアか何か。西脇の部屋から食欲をそそる香りがするとは。部屋を間違えたかと思ったくらいだ。
「あ、西脇さんのお宅?です、よね」
「ええ、彼、今、手が離せないの。ご用件があるなら、私がお聞きするわ」
「すみません、ご本人に会って手渡したいものがあるんですが」
「何、貴女もハードル狙いなの?無駄よ、彼、私のこと認めてるし。本命になるのは私」
「はい~?」
 ハードルの女が、どうしてあたしの真ん前に立っている?
 ああ、ハードルにあったな、ホームパーティーのホスト。この匂いは、紛れもなく、丹精込めた料理に違いない。

 音子は猛烈に腹が立ってきた。どうしてこんな本命女のいるパーティーに、自分が呼ばれなくてはならないのか。
 ただでさえ、人前は苦手だというのに。
 そして、女の下品な態度。
 ライバルに見せつけるかのような仕草。
 腹の底から怒りが込み上げてくるのが分かる。
 
 それでも、腹が立ったのは別の理由があったのかもしれない。

 音子自身、料理や気遣いが出来ないという客観的な事実。
 そう、勝負にならない。
 音子は、そういう世界で生きていける人間ではない。

(猫たちだから、こんなあたしを受け入れてくれるんだ。汚い部屋でご飯を食べながら、猫と遊んで細々生きるのがお似合いのあたし)

 濃い色のデニムのシャツに白いパンツを穿いた西脇が、奥から姿を現す。
「おう、来たか。早かったな。紹介するわ、こちら絵画のギャラリーで働いてる、高野美咲さんだ。先日紹介されてな、今日も手伝ってくれてる」
 音子は、俯いたまま、低い声で話す。
「原稿をお届けに伺ったんですが、書き直すことにしましたので、出直します」
「なんだよ、今から友達も来るからさ。今日は無礼講だから大丈夫だよ」
「いえ、あたしには似つかわしくない場ですし」
「それより、出来た分だけでも見せろ」

 暫く、音子は無言で突っ立ったままだった。
 何も耳に入っていないかのように。

 そして、徐に封筒から原稿を取り出し、ビリビリと破き出した。
「お前、何やってんだ!」
「ゴミの袋ちょうだい。原稿は期限まであと1週間あるから書いて送る。約束だからね。でも、海外は帳消しだ。諦めて、日本で幸せに暮らせ」
「なんだよ、何で怒ってんだよ。俺、何もしてねえぞ」
「あんたは、自分のハードルが大切なんだろう?」
「ハードル?」
「もういいよ。あたしの逆ハードル気にしたら、幸せ遠のくからな」
「よくねえ。俺は、お前の言いたいことがわかんねえ。ちゃんと説明しろ」
「雰囲気悪くなるから、いい」

 そのまま、小走りで外に出た。タクシーを拾うため、音子は、大通りに向かって大股で歩き出した。
 あとから走って追ってきた西脇が音子の肩を掴む。
「なんだよ、何を言いたいかわかんねえって言っただろう?何が不満なんだ」
「あんた、自分のハードルは着々と進めてるじゃないか。それとも、あたしを、神谷琴音の名を出して、あの女と競わせるつもりだったのか」
「お前を競いの中に入れるわけねえだろ。お前は特別だから」
「特別か。昔からそうだった。キャシーは特別、貴女は特別・・・」
「おい、何言ってんだ。高野さんは、たまたま友人に紹介されただけだ」
「相手は果たしてどうなのかね。あんたの本命になるんだとさ。いいじゃないか。あそこまで立居振舞もきちんとしてて、料理も上手で、人のあしらいも長けててさあ」
「だからって、お前が口挟むことじゃねえだろ」
「ああ、そうだよ、あたしは関係ない。だからあたしをお前の世界に、二度と巻き込むな。面倒は御免被る」
「そもそも、海外と俺自身のハードルは関係ないはずだろうが」
「関係無いかもしれない。そうだね、無いって断言もした。でも、紹介する気が失せた。あの女みたら、がっかりしたよ。こんなんで満足してんのかよって」
「そりゃ失礼だろう。相手に」
「あたしは何言っても許されるんだよ。皇女さまだから」
「マジ、意味わかんねえ」
「キャサリンでーす」
「ああ、どっかの皇女さまだな。同じ名前出して、許しを請うな。ふざけんな」
「許し?何であたしが謝んなくちゃいけないのさ」
「大人になれ。お前25になるだろう」
「もう、あたしの世界に踏み込むな」
「呆れた奴だな。踏み込むなっていうなら仕方ねえけど、理由は説明しろ」
「嫌だ。もう何もかも嫌だ」

 タクシーが来たので手を挙げ、停まったタクシーの中に音子は乗り込んだ。外で西脇が何か言っていたが、音子の耳にはその声は届かなかった。音子は自宅を告げ、そのまま、タクシーはスピードを上げて西脇のマンションを離れた。

 自分のマンションに戻った音子。
 猫部屋に入り、猫たちのご飯やトイレ掃除などをひととおり済ませてからパソコン部屋に戻ると、ブログを更新した。近頃楽しげだったブログ内容だったが、今日は、写真一枚のみを載せる。
 まるで、猫が泣いているかのようにみえるポーズだった。
 いつものように、一行ポエムを添えた。
「泣きたい日もあるさ。我慢しないで、思い切り泣けばいいんだよ」

 更新ボタンを押した音子の目から、大粒の涙が零れた。ぼろぼろと、涙は頬を伝い、机に、そして床に落ちた。

 音子は、携帯電話2台だけを持ち、再び猫部屋に移動した。廊下では必死に堪えていたが、猫部屋に入ると、また涙が溢れた。
 猫たちが、音子を見て寄ってきた。
 しゃがんだ音子の膝に乗る子もいれば、頭を撫でてくれという猫もいた。膝に乗った子は、音子の頬を舐めて涙を拭くかのような仕草を見せた。他の子も同様に、順番に膝に乗っては涙を拭いてくれた。
 音子が大粒の涙など、流したことが無いからかもしれない。猫たちにとっても、一大事だったと見える。
 普段は声に出して泣くことのない音子が、嗚咽を洩らしながら、泣いた。

 悔しさ、哀しみ、怒り、挫折。
 今の感情を、何と言えば的を射る表現になるのか、分からなかった。
 単純でありつつ複雑な要素が総て入り混じった、極めて記しにくい感情だったのかもしれない。どの感情が一番強いかと聞かれても、今の音子に答えを求めるのは無理に近い。音子自身、頭が混乱していたのは確かだったのだ。

 そう。
 西脇に本命の女性がいたからショックだったのか。
 何も出来ない自分が呼ばれ、ハードルクリアした女性がこれみよがしの態度を取ったのがショックだったのか。
 外の世界を垣間見て、自分の粗末な生活が惨めに感じられたのがショックだったのか。
 よもや、西脇が自分をハードルに引きずり込み、誰かと競わせることでアドバンテージを相手に与えていると感じたのがショックだったのか。 

 なぜ、音子自身から言い出したことを覆してまで小説を破き、海外の話も立ち消えにすると啖呵を切ったのかも、わからない。
 音子自身、自分の心情が解らないのだから、西脇に理解できるわけも無かろう。
 もう、西脇に連絡は取るまい。
 音子は、自分の生活を乱されたくなかった。
 その代り、西脇と約束していた小説は、あと1週間で書き上げる、何としてでも。
 勿論、海外の話も、西脇にトライできそうなものがあれば人を介してでも紹介するつもりだ。
 そう、西脇との約束はビジネスなのだ。一方的な契約破棄など、ビジネスパートナーとして、あるまじき行為になる。
 ビジネスパートナーとの連携は不可欠な物でもあるのだから。
 でも、西脇とのビジネスは、今回だけ。
 一度きりにする。次の機会は、もうない。

 音子は、今まで半分逃げてきた道、かねてより父母たちから嘱望されていた道に、舵を切る決心をした。
 そして、兄弟たちに電話をするのだった。
「ごめん、猫たちの面倒を見にきてくれないかな。それから、部屋を片付けて欲しいの」

 作業部屋に戻ると、音子は恋愛小説プロットを総て消し、西脇と自分に起こった実話をパソコンに入力しだした。

【梗概】
 あたしたち二人が初めて会ったのは、映画俳優と作家という、異次元の空間がいつしか交わった場所。それは、テレビのスタジオという異次元空間だった。
 俳優との出会いは、決して夢現の中で進んだものではない。
 あたし自身は着るものから全てサイズを間違われ、私服で出る羽目になった。最初から知っていれば黒髪で変装して行ったのに。金髪がばれちゃったよ。
 俳優殿は、上から下まで計算され尽くした、そう、抜けまでをも計算され尽くした服装で入ってくる。
 あたしは男性の身長や顔に興味が無い。あたしが何を思ったのかといえば。あたしと同じ程度の身長だなということと、顔には興味がない、ということ。
 そのあと、収録の番組とはいえ、台本を大幅無視した「ハードル9か条」を見て、あたしは、腹の底から大笑いした。

 どうしてかと言えば、あたしは米国人で、自分の家族は総て映画関連の仕事をしているけれど、あたしの父は、娘の結婚に『フェミニスト』を最大のハードルとしているくらいだから。
 だからあたしは賛成しないし、ハードルにも参加しない。
 日本人なんて、こんな小さなことで波を立てているから、大波を乗り切れないんだな、そう思った。
 ま、こんなスケールの小さいハードルだって、国内の女性にして見れば、目の色が変わる。
 ひとつのゲームになる。
 それを脇で見ているのは楽しい。
 高みの見物は面白いんだが、あまりに報道され過ぎて、ちょっとウザかった部分もある。

 そんな中で、たまたまなのかわざとなのか、その映画俳優から、誰にも話してないブログのほうに、悪口コメントが2度も書き込まれた。
 たぶん、やったのは本人。
 コメントは荒れ放題になるわ、murmurには書き込まれるわ。
 考え方に驚いたのは確かだけど、後始末に紛れてそれどころじゃなかった。
 ブログよりmurmurの後始末の方がどんなに大変だったか。
 みなが「人として尊敬できない」なんていうもんだから、相手の失言とはいえ、さすがに気の毒になった。

 でも、あたしは家のパパですら説得できなかった。
「人の前に立って演技する者が、そういった考えではいけない」
 そりゃそうだよね。
 実は、それとは別に復讐作戦もあったんだ。
 そう、ブログを馬鹿にされ、コメント欄を荒らしに荒らされ、あげくmurmurまで波及した。
 murmurは向こうの思いどおりには行かなかったけど、猫たちを馬鹿にされた瞬間、あたし、復讐を誓ったの。

 でもね、なんでかなあ。
 murmurでバッシングされたのを見てたら、あたしが英語をスラスラ読めちゃうのも手伝って、バッシングの嵐が気の毒になってさ。
 もう、その時点で映画祭の主演男優賞無理だったし。

 だから。
 彩雲の果てにの話が舞い込んだとき、キャラじゃないのは知ってたけど、此処で再起して欲しいって、心の底から思った。
 それでメディアでのオファーもしたんだ。
 返事が無いから、直接押しかけて行って、ドア蹴りしてオファー掛けたりもした。
 結局は、あのドア蹴りと目の前にぶら下げた海外へのトライのチャンスっていう人参が、火を付けたのかな。
 すごい渾身の演技してくれて、彩雲の果てに、主演・助演男優賞という形で盛り立ててくれて。
 本当にありがとう。

 あれが作品賞に入るような作品じゃないのは、あたし自身が一番知ってたから。
 ただ、ドア蹴りオファーに、マスコミがくること気付かなかったのがあたしのミスだったね。
 記事になって、ブログがまた荒れて。
 謹慎言い渡されてさ、変装するから大丈夫だと思ったら、表も裏も張ってるっていうじゃない。
 兄弟たちにヘルプしてマンションを引っ越したよ。
 そうだよね、話もしないで逃げたのは不味かったよね。悪い。

 俳優殿が海外で主演男優賞を獲って、あたしも本当に嬉しかった。
 役者として、前に進めたなって。
 でもさあ、ホテルに呼び出されて、恋愛ものを執筆しろと言われた時は、正直悩んだ。ホントはね、あんたの意見が参考になって、レベルは低いけど恋愛小説が書けたんだ。
 今まで書いたことが無いから、子供だましのストーリーだったけど。
 悩んだのは、ラストシーン。

 ハッピーエンドか。
 バッドエンドでいくか。

 でも、あたしには、バッドエンドこそがあたしの恋愛小説なんだ、としか思えなかった。

 あんたの家で開かれるホームパーティーに呼ばれて出かけたら、敵意丸出しの女性がでてきてさ。『自分は本命になってみせる』って、自信たっぷりに。
 これでなくちゃ、並み居る女性たちの中から抜きんでるのは無理なんだね。彼女は、西脇の9か条のハードルを完全にクリアしているんだよなあって。
 それに引き替え、あたしに出来ることは9か条には無かった。ただの一つも。
 ああ、ラーメン屋でのディナーだけなら、できるな。
 あとは、無理なんだよ。外国人だから。パパがフェミニストしか許すはずがない。
 家事も一切できないし。パーティーするなら、100%キーパーさん頼みだし。
 あたしは人見知りでライトの下も苦手で、汚い部屋がお似合い。

 流石に、自分が惨めで情けなくて、逆切れしてさ。
 あんたに暴言吐いて帰ったこと、詫びるよ。ごめんなさい。
 その時、あらためて感じたんだ。やっぱりな、って。
 あたしに恋愛小説なんて書けるわけがないし、恋愛は自分とは異世界の出来事なんだって。
 違うな、恋愛を、結婚を再認識した、っていうところかな。
 あたしにとっての恋愛や結婚は、常にバッドエンドしかない。

 そうなんだよ。
 人魚姫だって、昔のおとぎ話だっておんなじ。
 ヒロインはね、泡になったりするのが、お約束なの。

 だからあたしも・・・姿を消します。さようなら。
                   
 了
                                    
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

 驚異的なスピードで300枚近くの原稿を1週間で書き上げた音子。
 校正を入れて、すぐ西脇あてに宅配便で郵送した。
 読むか読まないかは向こうの勝手だし、もう、半分以上どうでもいいという気持ちが強いのが本音でもある。
 駄目だしされようが何だろうが、書いたことには変わりないのだ。一つのビジネスを終えたという、単なる義務感しかない。

 音子が原稿を書いている間、兄弟たちは日本に入れ替わり立ち代わり入国し、猫の世話や部屋の片付けなどを行ってくれた。音子の苦手分野でもある片付けを兄弟や姉妹に気兼ねなくお願いできるのは心強い。
 勿論、西脇からのメールやコールは何度もあった。全て無視した。

 西脇への原稿を送り終えた音子は、その日のうちにマンションを引き払い、編集社の上層部に出向いた。
 出国する旨を伝えるためである。
 上層部からは慰留されたが、今後は神谷琴音として、日本での大きな活動を休止すると告げた。出版社では非常に残念そうだったが、音子の意思が変わらないこと、エッセイなどの連載は続けてくれることなどから、出国に関して異を唱えなかったのだ。
 編集部には、今後誰から連絡があっても、一切出国の事実を伝えないよう要請した。

 編集社へ向かったその足で、音子たち兄弟は一緒に出国の手続きを取った。今回は、再入国なしの片道切符だった。
「キャシー、いいの?本当に」
「うん。今まで猫たちのためにと思ってやってきたけど、転機なんだと思う」
「日本の猫たちはどうするの」
「何か方法を考えるよ」
 男兄弟にはわからない複雑な感情を、姉と妹は感じ取ったようだった。
「あなたが良いならいいけど」
「活動が活動だし、猫はボランティアだから、戻ってきてもすぐに在留許可は下りると思うわ。でもキャシー、心残りがあるんじゃないの」
「ないよ。もう、日本のような国は懲り懲りだから。やれ、大和撫子だの、女は三歩下がってだの、女のくせに、母親にくせに。もう、嫌になった」
「何かあったの?」
「ううん。ビジネス先で、そういう話があっただけ。あたしには関係ないけどさ」
 姉が思い出したように音子の正面に立った。
「あ、そういえば、日本の言葉だっけ、凄いのがあるって」
「何?」
「釣った魚に餌はやらない、だって!魚が死んじゃうよね!」
 音子が呟く。
「男が釣竿で釣られた魚が女だよ。馬鹿馬鹿しい。死なせるなら釣らなきゃいいんだ」

 日本で諺を勉強していれば、そこまでの意味でないことは一目瞭然だ。
 さりとて、外国人には通用しない。
 本当の意味など解るはずもなく、よしんば解ったとしても、『結婚後に態度を変えるとは何事か。フェミニストにあるまじき行動だ』となる。
 実際には、日本でも米国でも、DVなどの事例は多い。米国が紳士的な国、というのはある意味間違った解釈であるかもしれない。それでも、セレブと呼ばれる米国人たちは、フェミニズムを大切にしているのである。
 少なくとも、リーディンス家では。

◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

 本国に戻り、家族と暮らし始めた音子。
 取り敢えずニューヨークの家で、暫く何もしないで、ただ、部屋で猫と戯れながら過ごした。まるで、魂の抜け殻であるかのように見えたと兄弟たちは口を揃え、皆が心配した。
 猫と戯れながら、相変わらずブログだけは更新していた。
 ブログの背景に、いち早く異変を察知したファンがいた。
「音子さん!また背景変わってます!お引越しされました?」
「ほんとだ。都内でないのは確かかも」
「沖縄方面とか」
「憧れの沖縄生活開始??」
「沖縄じゃなくて、欧米っぽいかも。フランスではないわね」
 週刊誌のレポーターに近いファンもいる。音子は真偽に触れることなく、煙に巻きながらポエムやネタでブログを続ける。

 いつまでこんな雲隠れが通用するだろうか。
 日本からのエッセイのような細やかな仕事をするだけで、このまま猫たちを助けられないのなら、自分が小説家である意味すら感じられない。執筆を再開しなければと焦る気持ちもあったが、いざパソコンの前に座ると、文字たちはシャボン玉がふわふわと空中を彷徨いながら消えていくように、何処かへ消えていく。プロットすら決められずに。
 こんなに頭が空っぽになったのは、初めてだった。

 そんなある日。
 兄弟が、ある知らせを持ってきた。
 世界的映画製作で通用するような、大規模な作品の原作小説を募集するというものだった。
 題材は、SF的世界観に基づいた作品である。
 音子は目覚めたかのように、原作小説の執筆を始めた。元々SF的世界観には興味があるし、得意分野でもあった。少しばかりだが、日本での実績もある。
 まるで何かに憑りつかれたかのように、食べることも拒否して昼夜も厭わず書き続ける音子だった。まるで、何かを振り切るかのように。
 父母や兄弟姉妹は心配するが、止めるわけにも行かず、周囲は見守るしか方法が無かった。
 そして、音子はひとつの作品を書き上げた。

【梗概】
 宇宙に浮かぶ、無数の銀河。
 2060年、地球人は未だ、太陽系銀河からの脱出を図れずにいた。

 一方、10億光年先に、生命体の存在する惑星があった。その名はリード。恒星ジュンスを周回し、リードの他にも生命体の存在する惑星がひしめく。地球から見つけることが出来なかったのは、電磁波を遮断する強力な遮断壁。オーラと呼ばれるその壁の中、恒星ジュンスを中心としたジュンス銀河が形成されていた。
 リード人たちジュンス銀河の科学力は地球のそれを遥かに凌駕していた。
 といっても、物体が光速で飛行するような技ではない。意識体のみを光速で瞬間移動させるのである。当然、意識体だけでは他の星人が認識するわけもない。
 ジュンス銀河の生命体は、意識体でしかなく、交配も無い。生命の源、聖凛と呼ばれる泉から湧き出す命が生命体として成長する。
 見えない意識体を補うために何度となく太陽系銀河や地球を訪れ、物体投影システムを構築していた。建物、人類、動物、自然の姿など、あらゆるものがシステムに編入されていたのである。
 と同時に、調査を行っていた。いうなれば、地球人の素行調査である。地球という素晴らしい星を、荒らし、食いつくし、環境破壊を続ける地球人。リード星府では、地球の没落やむなしという見解で一致していた。

 そんな時、1年後、太陽系にブラックホールが出現するという情報を掴むリード星府。同じ情報はジュンス銀河内全体にリークされていた。
 惑星エベルでは、ブラックホールに飲み込まれる瞬間、地球という星のみを瞬間移動させエネルギー強奪を企てる計画が立てられた。
 片やリード星府では、ブラックホールでの地球消滅は避けられない事実と考え、一度は見捨てた。地球ごと瞬間移動させても、人類や動植物は生き残れないからである。

 しかし、リード星府の中で「命」こそが尊いものだと訴え、方策を練る者たちがいた。彼らは、地球人を意識体としてジュンス銀河内の生命体のいない惑星に瞬間移動させることを提案する。実際の緑を手にすることは叶わないが、エネルギー枯渇の心配も無く、人口調節が可能になるため幼い子が犠牲になることもない。武器を与えたところで、自分達のようなIQを持たない限り、無用の長物である。オーラを厳重にすれば問題ない。星内での争いは絶えぬだろうが、それは地球人としての性なのだろうと。

 リード星府は、地球のあらゆる国に入り込み、書簡を届ける。
 最初は、ブラックホールの出現を信じない国々。
 実際に兆候が表れると、戦争どころではなくなった。身体を捨て命を取るか、そのままブラックホールに飲み込まれるかの、二者択一である。
 地球全体が纏まることは、難しかった。食糧難に喘ぐ地域は、最初に同意した。
 次々と同意する国が出る中、宗教上の違いから最後の聖戦を語る団体が現れる。次々と命を刈り取る彼等に、リード人の鉄槌が下される。
『生まれることに価値が必要なのか。生まれてきたことが罪なのか。何をするかで、人間の価値は決まるはずだ』

 最後には、殆どの国が意識体となることを選択するが、エネルギーや宝飾品を持ち逃げしようとした国や人々がいた。全世界で一斉に瞬間移動が決行されたが、結局、物体移動できずに、持ち逃げしようとした人間たちは消滅する。
 一方のエベル。地球人がいようがいまいが、関係なく地球の瞬間移動システムを作動させる予定だったが、リード星府との関係上、それは好ましくない。そこに、地球環境汚染とエネルギー枯渇情報が齎され、エベルの計画は頓挫した。
 瞬間移動した先は、ジュンス銀河の惑星。地球と名付けられた。今までの太陽とは違っていたが、物体投影システムにより見た目の遜色はない。実体でないことを嘆き悲しむ人間もいたが、食糧難に喘ぎ子供に申し訳ないと悲しんでいた母親たちが、リード人に頭を下げる。『この子を生かしてくれて、ありがとうございます』
                                                             了

 世界の巨匠、映画界の名誉監督とも謳われる父の名を伏せ、公募に応募した原作小説の選考は、3次選考まであった。ネット上で、1次、2次、と通過作品を見ながら、家族全員で大騒ぎする。
「キャシー!あった、キミの作品だよ!」
 3次を通過し、見事採用された時には、一大イベントが巻き起こったリーディンス一家であった。
「神様、キャシーの思いが報われたことに感謝します」

 勿論、欧米の有名映画会社を意識した作品であることが重要事項であり、会社の名だたる連中を説き伏せるだけのストーリーや世界観を持つことが、最も重要なラインだった。
 映像化できるような世界観の小説が世界的に少なかったこと、また、世界観の根底が、それまでの宇宙を一から覆す新たな展開であったことなどが、評価に結び付いたのではないか、という父の選評だった。

 父が音子の偉業を褒め称える。
「キャシー、よく前に進んだね。パパは本当に誇らしく思うよ。お前を一人日本に置いてきたときは、正直後悔したけれど、お前が羽ばたける土台をつくってくれたのかも知れない。おめでとう、愛するキャシー」
 母も同じだった。
「アメリカンスクールに行きたいって泣かれたときは本当に困ったのよ」
「あれ、そうだっけ」
「そうよ。『日本には可哀想な動物がいるから帰れないの』あの時からずっと同じ。おめでとう、愛するキャシー」
 兄と弟は、主に荷物係として日本入りしてくれた。
「キャシーから電話が鳴ると、『また引越か』それが第一印象だったけれど、色々な思いをしながら引っ越しをしたんだね。お蔭で、今があるじゃないか。おめでとう、キャシー」
 姉と妹は、常に猫たちのお世話をしてくれた。
「キャシーの猫の命への拘りが、今回の作品に生きたような気がするの。ほら、地球人が『生まれることに価値が必要なのか。生まれてきたことが罪なのか。何をするかで、人間の価値は決まるはずだ』って言うセリフ。キャシーならではじゃない?本当におめでとう」
「そうよ、色々な経験があなたの周囲で起きて、貴女はそれを乗り越えたわ。おめでとう、キャシー」

 父が思い出したように付け足した。
「こちらはイベントが多いから適当なドレスとか一式、見繕っておきなさい。今度の授賞式もあるだろう」
 音子は、耳を疑う。
「あたしも出るの?」
 家族全員がハモる。
「当たり前じゃない」
 家族中が喜んだ。音子だけが、項垂れる。また、ライトの下が待っている。
 とはいえ、音子が、たった一人でもぎ取った、またとないチャンスである。
 父も家族も、協力は惜しまないと申し出てくれた。
 それは神谷琴音、いや、キャサリン=リーディンスとして、世界的に華々しいデビューを飾ることを意味していた。

 ただし、映画の話や、日本からオーディションを受ける俳優陣の話題は世間を賑わせたようだが、中心となる原作の話は、日本では殆ど話題に上らなかったらしい。
 日本で付き合いのあった編集社からも祝電等、届いてはいない。
 キャサリン=リーディンスとして紹介されたのかもしれないが、格上の公募にも関わらず自分の名前すらでない。
 もはや、日本では過去の人なのかもしれない。当然か。何も言わず、姿を消したのだ。もう、日本での活動は猫たちの保護だけに限定しよう。

 神谷琴音を封印しようと、本気で考え始めた音子だった。
 そういえば、日本では神谷琴音の海外移住が今頃になって放送されているらしかった。ブログでも巷に出回る、桐谷音子=神谷琴音説。
 音子自身、自分が身動きできない分、誰か手助けしてくれるボランティアさんに居て欲しかったのは確かだ。野生児を施設から救い出し預かり主さんをお願いすることだ。
 ペットショップの方は、時間的に余裕がないため、購入し動物病院にて検査を受けた後、すぐに飛行機で本国に連れ帰る。避妊オペなども本国で行えばいい。
 しかし、野生児はどんな環境にいたかわからないから、おいそれと飛行機に乗せてもらえない。そろそろ、日本での動物保護活動を考える時期に差し掛かっている。音子は、ある決断を実行に移す時がきたと、猫たちに水をあげながら考えていた。

 1ケ月間、悩みに悩みながら音子は、決めた。
 カミングアウトである。ブログ内で、全てを明かすことにしたのである。
 パソコンの前に座り、慣れた手つきでキーボードをカタカタと打ち始めた。

「ブログをご覧のみなさまへ

 色々とお騒がせしております。桐谷音子です。別の名を、神谷琴音と申します。
 私は余り人前に立つことなどが好きではなく、ペンネームと同一のハンドルネームを使って猫たちの妨げになることがあってはならないと思い、神谷として活動しながらも、桐谷の名を通してまいりました。

 ただ、今回、諸事情があり、皆様お察しのとおり海外に移住いたしました。再入国し、日本にて執筆活動することは今のところ予定しておりません。ブログだけは続けますので、お越しいただければ幸いに存じます。
 なお、日本に居住当時から、愛護センターにて猫を引き取り育ててきました。また、ペットショップで大きくなった子を引き取り一時預かりなども行ってきました。
 もし、お手伝いいただけるなら、動物センターから殺処分前の猫たちを引き取り、一時預かりをお願いできないでしょうか。健康診断と予防接種が終われば、猫たちは世界に旅立つことが可能になります。それまでの預かり費用などはわたくしが負担いたしますので、ぜひ、ご協力いただければ幸いです。

 また、ペットショップにて大きくなって売れ残ってしまった猫ちゃんの救出活動も行っておりますが、こちらは無償で譲ってくれるショップが殆どないため、情報だけでもいただければ、大変助かります。

 在留資格をとっての活動は予定しておりませんが、短期滞在にて日本を訪れることは可能です。日本全国どこまでも、猫たちを引き取りに伺いたいと思っています。
 ご協力いただける方は、ブログのアドレスからご一報くださいませ。
 それではみなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
                                 
                                                桐谷音子こと、神谷琴音こと、キャサリン=リーディンス」

 ブログへの反響は様々だった。
「なんだ、やっぱり神谷琴音か、がっかりした。拍子抜け」
「今までどうして黙っていたのかな」
「ブログ本だって、出してほしかったのに」
「でも、これからも活動続けるんですよね、海外が主なのかな?」
「キャサリン=リーディンスって、まさか、今度西脇が出る映画の原作者さん?」
「え!推薦状とか出さないとオーディション受けられないって聞いたけど」
「音子さんは推薦状出してないよね。西脇だもん」
「西脇が猫の保護活動始めたのは、神谷映画に出たからって、専らの噂だよ」
「神谷作品が見られないのは残念です。日本に戻る予定、ないんですか?」
「音子だろうが琴音だろうが、ブログの猫たちに変わりはないんです。海外でも頑張ってくださいね」
「友達に預かりさん、頼んでみます。その時は連絡しますね」
「音子さん、外国の人だったの?」
「金髪だったもんね、かつらとか染めてるんじゃなかったんだね」
「今からでも、ブログ本出してください」
「そうだよ!日本編、外国編とか」

 いやいや、ここはSNSじゃないぞ。噂話は止めたまえ。
 ましてや、俺様西脇たちのオーディション、まだだから。
 出演、決まってないから。
 音子は、一瞬、西脇からのコメントを期待したが、確か出禁にしたはずだ。こちらに届くわけもない。メールもコールも、西脇から来ることは一切無かった。

第4章 未来へ・・・

 音子の本国アメリカでは、音子の執筆したSF的世界観の小説が一斉発売されると同時に、映画用に書き直すため脚本家に持ち込まれたところだった。映画製作が本格的に始動しようとしている。アメリカの威信をかけた作品として全世界で上映されることも決まり、キャスティングが始まろうとしていた。

 オーディションである。

 とはいえ、何処の馬の骨とも知れない、日本で多く見かけるアイドル如きの演技経験のないような人物では、書類審査の狭き門を潜り抜けることは難しかった。何がしかの受賞歴や、この世界や、少なくとも芸術面での世界で名の知れた監督からの推薦状などあれば、門だけは、かろうじて潜り抜けることが出来るという。その代り、人種に区別を設けることはせず、全世界的に俳優を探すという異色のオーディション。
 日本のように、所属事務所の力や人気だけで務まる脚本ではないということだ。
 今までにない、オーディション形式と言えばオーディション形式。今回はそういった部分から人選が始まったと、兄たちが音子に話す。
「演技力だけじゃないんだ、今回は。原作を読み解く力、というものに重きをおいているような気がしてね」

 そんな折、音子は、父に西脇のプロフィールを渡し、推薦状を書いてくれるように頼んだ。
「この青年は・・・昔、猫を助けるお前を馬鹿にしたことがあったね」
「あのあとは、別の映画に出て動物保護の活動をしていると聞いたの。もし今も活動を続けているなら、彼を推薦してあげて。海外での成功事例も教えたんだよ。語学堪能であれ、って」
「受けるかどうか、返事は聞いているのかい」
「もう連絡を取っていないからわかんない。でも、いつか海外にトライしたい、って言ってたから」
「そうか。お前の名は、伏せた方がいいんだろう?彼の所属事務所に連絡を取ってみるよ」
「ありがとう、パパ」

 実際、ハードルのことで怒った音子が海外話をチャラにしたせいで、西脇は保護活動を止めたかもしれない、語学勉強を止めたかもしれない。西脇が海外への挑戦を諦めたのなら、それならそれで、彼の夢はその程度の物だったということだろう。
 いつか必ず、という夢があれば、おいそれと諦めるような真似をする男ではないはずだ。
 
 そんなある日のことだった。
 編集部からメールが入った。編集部とも久々のやりとりだった。スタジオ入りの時の新人くんも、今や先輩となったらしい。
 頼もしさが表れているような気がした。

「神谷先生、いえ、リーディンス先生。
 世界的なご成功、おめでとうございます。我が編集部としても最初にお祝い申し上げるべきでしたが、社長が体調を崩し他界したため、お祝いを申し上げることが遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。
 さて、かねてより先生がブログ連載されていらっしゃる『うぇるかむ・音子ハウス』ですが、弊社にて書籍化させていただきたく、お願い申し上げます。社長もお気に入りの猫ブログでした。是非とも弊社にお任せいただければ、亡くなった社長も喜ぶと思います。
 日本にお越しになった折、あるいはメールでも構いませんので、ご意向お聞かせいただければ幸いに存じます。よろしくご検討くださいませ。

                                編集部 元新人くん」

 音子は、驚いた。日本で、一番世話になった人だった。こちらに来るときは元気だったのに・・・。日本時間では少し遅かったが、編集部は時として不夜城になる。思い切って電話した。
「神谷です。遅い時間に申し訳ありません」
「とんでもないことです。先生もお元気でしたか?」
「おかげさまで。社長のこと、分からなくてすみませんでした」
「急だったものですから。社長も、神谷先生の受賞をとても喜んでいました」
「ありがとうございます。『うぇるかむ・音子ハウス』の書籍化については、編集さんの方に一任します。元々単行本化の要請も多かったですし、社長のお気に入りとあっては、私の方からお願いに行くべきところです。近々日本に行くときに顔を出しますから」
「神谷先生。ありがとうございます。今どき、日本人以上に律儀ですよ、先生は」
「ほえ?」
「社長に認めてもらいながら、他の編集社に流れた先生も多くて。ま、大御所はまだしも」
「そうでしたか。私の場合、本名を知っているのが社長だけでしたからね」
「ははは。僕たちも、日本人と教わっていましたから」
「みなさん、いろいろ大変だと思いますが、お手伝いできることがあれば参加しますので、声を掛けてください。あとは、メールやらでやりとりしましょう。お元気で」
「先生も、どうぞお元気で」

 同じ時期、日本でペットショップから猫たちを救出してくれるという人物から、メールが届いた。
 兄たちが、メールを見ながら賛辞を送っていた。

「金持ちだねえ。一度に100万以上かかるときだってあるのに」
「日本もセレブリティな人々が、そういう精神になってきつつあるのかな、嬉しいね。今までのジャパニーズ金持ちのイメージって、上から下までキンキラと輝いて、まるで・・・そう、いつもエジプトの若き王を思い起させるんだよ、日本人ときたら」
「ブランド品しか興味ないしね」
「いいものとブランド品の見分けがつかない。致命傷だよ、これは」
「判る人が少ないのは確かだ。良し悪しが見分けられるとしたら、フランスで言えばトレビアン、なんだろう?」
「キャシー、返事、しておくかい?」
「英語で着てるの?」
「ああ、それなりのレベルだね」
 音子は驚いた。英語に堪能な人も結構多いのだ。まあ、金持ちなら留学くらいするか。
「うん、じゃあ、返事お願いしていい?1回につき100万前後、5~6匹程度ってところかな」
「了解」
「いつ行く?」
「購入次第だね、向こうも大変だろうし」

 家に戻った父が、西脇を推薦した旨、音子に教えてくれた。
「ありがとう、パパ」
「何、才能を発掘するのが僕の仕事だ。音子の映画に出た彼だろう。どちらも演技は素晴らしかった」
「うん」
「なんだ、あのあとボーイフレンドとして、付き合っているんだとばかり思っていたよ」
「いや、向こうは花嫁探しをしているみたいだから連絡してない」
「そうか、残念だな。お前のボーイフレンドなら、演技指導付きだったのに」
「あはは。そりゃ、惜しいことしたね」

 家族との他愛ない会話。
 音子が、今まで殆ど味わってこなかった風景である。音子の希望とはいえ、家に帰ると、待っていたのはハウスキーパーさんやシッターさん。それも、大学生の頃からは来てもらっていない。まるまる一人の生活を謳歌していた。
 こうして、家族がすぐそばにいるのは、なんとなく面倒な部分も感じるし、心強さも感じる。何より、寂しさを感じ得ずに済む。
 音子は、未だに西脇邸でのことを気にしていた。
 父に推薦状を書いて貰ったから、これでオーディションを受けられることになっただろう。
 それで、西脇との最後の約束を果たしたことになる。今まで、すっぽかして申し訳ない気持ちもあったが、あとは、西脇自身が選んでいくだけだ。

 音子は、庭に出て、大きく背伸びをした。

 此処は、ニューヨークのマンション。最上階ではないが、庭のあるマンションだ。
 リーディンス家では、ニューヨークに1軒マンションを所有している。主として仕事用である。ハリウッドのダウン・タウンにもマンションを所有している。こちらも仕事用になる。地下鉄で仕事場に行ける他、都市機能もある程度集約されているので便利だ。仕事用のマンションは、自己所有ではなく賃貸物件なのかもしれない。
 
 音子は、猫さえ置いて貰えれば、自己所有でも賃貸物件でもどちらでも良かったので、全然気にしていない。が、音子が帰省するにあたり、壁の補修工事を行ったと聞く。猫たちの部屋は何をしてもいいように工夫してくれていたらしい。家族に感謝した。
 あとは、マイアミに別荘を1軒、ビバリーヒルズに本邸を1軒。別荘と本邸は自前らしい。ビバリーヒルズには猫たちを連れていくから風景も見慣れたものだが、マイアミの別荘は行った記憶がないほどだ。
 記憶にない、というと、家族は決まって涙を見せる。
 兄弟たちは、音子だけ苦労したのだろうと。
 父母に至っては、兄弟姉妹の内、一人だけ不憫で可哀想な思いをさせた、という後悔の念があるらしい。
 いや、音子が望んだのだから、別に兄弟姉妹や父母が悲しむことは無い。島流しにあったわけでもない。
 それでも、家族たちの音子への愛情は、ひと言でいえば、凄まじい。
 音子を傷つけるなど、あり得ない、といった言葉の応酬が続く。一人取り残したという自責の念であり、後悔の念があるのだという。そんなことを気にするな、といつも言うのだが、誰一人として、聞いちゃいない。

 ある日の事。結構広い家の中、兄が音子を探し回っていた。
「キャシー。猫を引き取りに日本に行くよ。一緒にいってくれるだろう?」
「通訳いるものね、いいよ、東京?」
「うん」
「いつ出発する?」
「明後日」
「相手との約束は取り付けてあるの?」
「ああ。猫たちも予防接種まで終わったそうだ」
「なら良かった。なんてひと?」
「西條さんだって」
「わかった」

 ニューヨークJFK空港から約13時間。
 羽田への便は無く、仕方なく成田便を使い、そこから電車に乗る。帰りは電車ではなく、タクシーを使う予定だ。猫たちがいるから電車など乗っていられない。

 電車は都内に入った。他の路線に乗り換える。湾岸道路と呼ばれ、海が見えるマンションが立ち並ぶ都会が見え隠れする。そこを通り過ぎ、駅に降り立った。すぐタクシーに乗り、30分ほどで閑静な住宅街に入った。
 タクシーの運転手さんに聞いてみた。
「すみません、この住所だとこの辺ですよね?」
「はい、ちょうどこの辺りですね」
「ありがとうございます」
 兄弟たちとタクシーを降りた音子は、西條と書かれた表札を探した。すぐに見つかった。
 インターホンを押す。
 出てきたのは、50代ほどの婦人だった。
「奥様でいらっしゃいますか。お電話差し上げておりましたリーディンスと申します。旦那様はご在宅ですか?」
 音子の流暢な日本語に、婦人は驚いていた。
「今、だんな様を御呼びいたしますので、中に入ってお待ちください」
 家の中に通された。ちょっとした違和感が頭をよぎる。なんだろう、この違和感。
 兎にも角にも、兄弟たちと3人、居間に通された。

 どうやらこの家の主人がきたらしい。足音が聞こえる。歩く音からして、年配の方ではないようだ。
「どうも。西條です」
 そういって顔を出したのは、なんと西脇だった。
「ひっ」
 今迄、比較的のんびりとした表情だった音子の顔色が、みるみるうちに赤みを帯びる。
「キャシー、どうしたんだい」
 兄弟たちは、顔から手指の先まで赤らんだ音子に気が付いたようだ。
 兄弟の感とやらであろう。目の前のこの男性が、音子が本国に戻る決心をした原因だと即座に気が付いたらしい。
 音子を介さず、自分たちで英語を使い交渉を始めた兄弟たち。何匹譲って貰えるのか。値段と諸費用合計の支払い、等々。
 西脇は、兄弟たちが意地悪く、わざと早口で話したにも拘らず、意味を理解し交渉に応じていた。西脇自身、今も保護活動に手を貸しているという。

 交渉が一段落した時。西脇は音子の兄弟たちに是非お願いしたいことがあると申し出た。音子と2人で話すことである。
 ぷるぷると首を横に振る音子だったが、兄弟たちはにこやかな笑顔で音子の肩を叩いて応援する。
「逃げちゃ駄目だ」
「そう、真っ向勝負がキャシーの良い所じゃないか」

 兄弟たちは、庭を見せてもらうと言って、二人揃って外に出ていった。
 部屋の中で、二人だけになる。
 辺りに、気まずい雰囲気が流れる。仕方なく、音子から話しかけた。
「何、結婚して屋敷構えたのか?」
「違うよ、猫を保護するのに前の部屋じゃ狭かったんだ。今はキーパーさん頼んでる」
「あの時の女の人か」
「女の人?さっきお前らを出迎えたのがキーパーさんだ。彼女が俺と猫の健康管理してくれてる」

 西脇は、突然音子の額に向かって、デコピンしてきた。
「まったく、メールもコールも全部無視しやがって」
 音子は不思議そうな顔をする。
「あんたからのは、こなかったよ」
「嘘だ。見せて見ろ」
 音子の携帯電話を弄る西脇。
「見やがれ。西脇の番号と西條の番号、両方とも消してあるし。知らない番号じゃ、普通でねえからな。この調子で何もかもみんな消したんだろうよ」
「記憶にないんだけどなあ」
「相当ブチ切れてたからな。仕方ねえさ。ただよお、前だったら編集部に連絡すれば教えてもらえたんだけど、今回ばかりは『お相手がどなたであれ、決して口外することの無いようにとの、最後のお約束ですので』と来たもんだ。流石の西脇も、お手上げ状態ってわけよ」
「なんであたし、そんなに怒ったんだっけ?」
「お前と最後に会ったときの、あの女性のこと気にしたんだろ。あの後は会ってねえし」
「なんで?ぴったりだったじゃないか」
「ホスト役できなかっただろうに。大事な俺の客人を、怒って帰らせるようじゃ駄目だろ」
「あれは、あたしが勝手に帰っただけだ。約束も果たさなくて悪かった。約束を果たせる日がきたよ。オーディションの話、聞いたか?」
 西脇が一瞬、驚いたような顔を見せた。
「あ?あの・・・まだ正式ではないけど。お前の紹介だったのか。つか、あんな難しいオーディション、どうやって潜り込んだ」
「原作者の名前、あとで見ろ」
「お前、やっぱり外国人だったのか」
「まあね。日本生まれ、日本育ちの外国人さ」
「親兄弟のことは詳しく聞かなかったからだけど、頼んだ恋愛小説、どうしてバッドエンドにしたんだよ」
「あの通りだったから。どうみたってハッピーエンドになるわけないじゃないか」
「そうか?俺は結構ハッピーだったぞ」

 当時のことを思い出し、泣きたくなる音子。
 でも、無理に作り笑いをした。女優までいかなくても、心の内を見せてはいけない、時と場合によってはそういうこともあるのだ。
「兎に角、ありがとう。野生児の救出は結構協力もらえるんだけど、ペットショップ周りは、ね。お金持ってないと売ってくれないからさ。助かったよ」
「任せとけ。そして、ありがとう。海外へのチャレンジ、折角もらったチャンスだ。精一杯頑張るよ」
「うん、応援してる。本当にありがとう。あ、お願いあるんだけど」
「なんだ?」
「お世話になった編集社の社長さんが亡くなったんだって。葬儀も終わっちゃって。どうしたらいい?」
「今日は猫いるから無理として、猫関係ない時に日本に来るといい。一緒に行って、お焼香してこよう」
「お焼香?」
「亡くなった方にお線香手向ける仏教の風習だよ。やり方は教えてやるから」
「うん、ありがとう」

 西脇の家に、2時間ほど滞在しただろうか。音子は、兄弟たちとともに、猫をカゴに乗せ大型のハイヤーを呼び、成田の駅まで急いだ。
 そのあとを西脇が別のハイヤーで追っていることも知らずに。

 帰りの飛行機チケットは、行き当たりばったりだった。交渉相手によって時間が替わる可能性があったからだ。計画性もないまま来たので、ニューヨーク行きの最終便しか取ることが出来なかった。兄弟たちも音子も、猫のことで頭が一杯で、周囲に気を遣っていなかった。知る人も少ない日本である。
 西脇は、それと直ぐに分からないように、深く帽子を被りサングラスをかけ、黒いパンツに黒いシャツ、黒のジャケットと一見地味な服装でチケットを取っていた。勿論、最終便のニューヨーク行きである。
 3人の外国人が指をさして電光掲示板を見ていれば、行き先も判るというものだ。まして、今日中に帰るとなれば、ニューヨークのような市街、或いはサンフランシスコやロサンゼルスのような地域。映画が絡んでいるとなればロスに帰るのが普通だが、ロスやサンフランシスコ行きの飛行機は、今日はもう出ていない。となれば、ニューヨークだろうと踏んだ。

 西脇は、感が良い。行動や言葉を理解するのが早く、表情を読み取るのも早い。英語を覚えるに至っても、まず単語よりも表情から入ったくらいだ。今は、訛り言葉以外なら早口で話されても、ついて行ける。音子のいう逆ハードルを、一所懸命勉強した結果だ。

 帰りも15時間以上、揺られただろうか。猫たちのことが心配だったが、みな無事に付いたことを確かめた音子。
 其処に、突然音子の父が現れた。兄弟たちが帰りのフライトを父に教えたらしい。
 父が音子を抱きしめ何度も何度も頬にキスする。
「キャシー。また日本に行ったまま、戻らないんじゃないかと心配したよ」
「パパ。大丈夫。あたしはもう、この国を去ったりしないよ」

 遠くから、目を点にして、呆然とその光景を見つめる人間がいた。
「マジかよ。こりゃ、皇女さまなわけだ」
 誰あろう、俺様西脇本人である。
 西脇だって、往年の名監督トミー=リーディンスの名は知っている。現役とまではいかなくとも、今も各監督が教えを乞いにトミーの下を訪れる、というのは有名な話だ。

 と、西脇のスマホでコールが鳴った。
 所属事務所からだった。
「はい、西脇」
「おい、今回のオーディション招待状、誰の名前で来たと思う?」
「原作者ですか、キャサリン=リーディンス」
「違うよ。その父親らしいんだがな。トミー=リーディンスなんだよ」
「え?」
「トミーが日本でのお前の演技を見て、お前を推してきたらしい」
「そうでしたか」
「おまえ、英語は話せるか」
「人並みには。スラングは無理ですよ」
「生活するうちに慣れるさ。やってこいよ、チャンスだ、挑戦しろ」
「はい!ありがとうございます!」

 最後の大声が、周囲に響き渡ったらしい。西脇は、辺りに注意するのを忘れていた。

 音子が西脇を見て、そろそろと近づいていた。
 着いて来たことがばれて、些か不自然な態度に陥った西脇だったが、まず、音子にウィンクした。その後、音子父の前に歩み寄り、英語で挨拶した。
「初めまして、西脇と申します。今回、オーディションへのチャンスをいただいたこと、幸せに思っています。本当にありがとうございます。このチャンスをものにできるよう、精一杯取り組みます」
 次に、兄弟たちの前に立ち、これも英語で謝った。
「追いかけてくるような真似をしてすみませんでした。こうでもしないと、キャサリンさんが居所はおろか、メールのアドレスさえ教えてくれないので」
 兄弟たちが笑う。
「我が家のキャシーは、皇女なんだ。某国の皇女と同じ名前だろう」
「キミも、皇女と呼んでくれ」
「大切に扱ってくれよ、我が家の宝物だからね」

 父が周囲に笑顔を振りまきながら、音子に声を掛ける。
「キャシー、こちら、西脇さんだろう。さきほど自己紹介を受けたよ」
「パパ、紹介が遅くなってごめん。西脇さん、こちら父のトミー=リーディンスです」
「改めまして。こんな巨匠とこうしてお会いでき、光栄に存じます」
「西脇君とやら、キャシーが国に戻ってくれたのは、どうやら君が発端らしい」
「ち、違うよ、パパ。変な事言っちゃ駄目だよ。これからオーディション始まるんだし」
 父の顔が一層綻んだ。
「そうだね。オーディションもそうだが、もう少しだけ間があるかな。オーディション用の台本も出来てないようだし。どうだい、マイアミに行ってみたら。実はキャシーも行ったことが無いんだ」
「迷ったらどうするの」
「みんなで行くさ。英語を覚えるいい機会でもあるから、是非、オーディションまでの間は我々家族と過ごすことを提案するが、如何かね?」
「願っても無いことです。何も持たず着の身着のまま、身体ひとつで来ましたから」

 リーディンス一家は休暇と称して、マイアミに拠点を移した。オーディションまでの時間、音子の父を中心に、兄弟たちから演技指導を受ける西脇だった。英語指導は母を含め、姉妹たちの役割である。
 西脇には、原作本が渡された。勿論、英語版である。
「原作は読んだかい。原作を読み解く力が、今回のオーディション突破のカギと見てるんだ」
「いやあ、会話にはついて行けるんですが、原作まではちょっと」
「キャシー、おいで」
「何?」
「原作を日本語に翻訳して、彼に渡して欲しいんだ。原作を読み解く力を今回のオーディションは重視しているみたいだから」
「お安い御用だ。任せて」

 3日後、音子が原作を日本語に翻訳して西脇に渡した。これなら読みやすいだろうと、苦心の作だ。
 毎日の演技指導が終わり、ディナーを済ませると、音子と西脇は猫たちのいる部屋に行く。
 音子はのんびりブログを更新している。
 その間、西脇は原作を読んで、登場人物の気持ちや世界観などを音子に聞いた。
「お前、これで何を一番書きたかった?」
「環境破壊の進んだ星の崩壊と、命に尊さを求めるリード星府の若者たち」
「地球視点じゃないんだな」
「地球からワープしました、なんて御伽話だよ。科学的な根拠がないと」
「それで意識体、なのか」
「でも、演ずるジュンス銀河の人たちも地球を真似た格好、って設定だから演じやすいとは思うけど」
「リトルスター、だっけ?宇宙人っていうと、皆それだ」
「あたしが宇宙人に拘るのは、地球人と同じ2足歩行だけじゃない、ってこと」
「確かに。お前、恋愛小説以外は完璧だよ」
「余計なお世話だ」

 オーディション近くになると、一家は西脇にも声を掛け、全員でロスのダウン・タウンに拠点を移した。
 勿論、演技のため最終チェックを行うのだ。父をはじめとして、兄たちの指導で、細やかな動きをチェックする。西脇の身体は、絞るだけ絞ってあった。俊敏な動きも問題ない。
「だいぶ自制して今まで生活してきたようだね。身体にもキレがある。あとは、自分を信じることだ。自分のやりたい役柄をイメージして、そこに焦点を合わせてごらん。きっとうまくいくよ」
「原作は読んだだろう。原作を読み解く力がオーディション突破のカギだからね」
「はい、原作者と対談しながらのチェックだったので参考になりました」
「キャシーは凄い才能だろう?」
「ええ、一部苦手分野もあるようですが」
「そうなのかい?西脇の方がキャシーを知っているんだね」

 父たちの指導が良かったのか、招待状へのトミー効果があったのかは、分からない。
 一番には、西脇の熱意と原作への畏怖の念だったのだろう。一所懸命の甲斐あって、西脇は見事オーディションを突破した。
 今回は、日本国内での保護活動などを年間通じて行っていること、流暢な英語を話すことなどもプラスの材料に働いたようだ。
 この映画は、SF的世界観の中で繰り広げられる動きを伴う。そのため、大がかりなセッティングが必要な映画であり、CGや3D処理は後回しにしても、人物たちの撮影が終了するのは1年半後のことだった。
 CG処理などの後処理が入ると、公開は早くて3年後くらいになる。
 ただ単に書いたSF作品だが、こうして演じるとなると3年もの月日がかかるのか、とちょっぴり感傷的になる、音子。

 邪魔だと感じ、撮影所にはなるべく顔を出さなかった音子だが、クランクアップの日、そうとは知らずスタッフから撮影現場に呼ばれていた。
 ちょうど、音子が撮影所に姿を現すと、クラッカーとともに、ライトが入り乱れ、クランクアップのお祝いが始まったところだった。

 みな、原作に感謝してくれた。
「この原作が無かったら、こんな面白い設定の作品に会えることはありませんでしたよ」
「今までの宇宙とは一線を画した設定でしたからね」
「難しいシーンも多かったけれど、だからこそ皆で考えて、前に進めました」
「ほら、ニシワキ。こっちこいよ。彼のアイディアが一番光っていたんです」
「そう。まるで原作者のあなたをすべて分かっているかのようにね」
「昔、日本で活動した時期もあるそうですね。やっぱり、いろんな経験が大切ですね」

 ライトクラクラ病になりそうだったが、西脇はメインキャストの一人として今回頑張ったので、席を外せない。代わりに、兄弟たちがクラクラしている音子を壁際に寄せた。
 西脇は、映画全般を通して、メインキャストとして活躍する重要な役どころだった。
 それは即ち、海外での成功を意味していた。
 日本の芸能誌やメディアも、こぞって大騒ぎである。
 西脇は海外でもしばらく引っ張りだこになった。日本に戻れば尚更のことである。
 その中でも、一番、米国内のメディアを大事にして彼は受け答えを行っていた。英会話が流暢になり、ある程度の訛りやスラングといった言葉も難無く理解できることから、米国内での活動に問題は無くなった。
 周囲とも上手く付き合っていければいいと心配ながらも、ちょっぴり安心した音子だった。

 一方、西脇自身は、音子に出された逆ハードルの意味を全て理解できるようになっていた。
 あの時は、自分が女性向けに出したハードルへの腹いせかと、スッキリしない部分があったものだが、純粋に、映画人として海外で生きるにはどうすべきかという簡単な問いである。
 何でも、自分の力で切り拓けるものは切り拓き、お金で何とかなるものは何とかする。信頼は大事だが愛情だけは違う。相手を頼って裏切られた場合、時として映画人に戻れないほど乱れた私生活に変わる。それは、演技にも支障をきたしかねない。
 それでも、自分たちは俳優として、いつも演じ続けることを求められるのだから。

 リーディンスの家にも、すっかり世話になった。この映画が世に出るにはまだ間があるが、自分が日本でやるべき役割は多い。
 ビバリーヒルズの本邸に戻っていた西脇や音子。兄弟たちは映画製作の2段階目が本業らしい、暫く居ない。

「俺さ、一旦、日本に戻ろうと思って。色々整理しないといけないことあるから」
「整理?女か?そうか、ハエみたいに群がってるもんな」
「阿呆。家とかだよ。暫くこちらで厄介になるから、向こう、整理しないと。だからちょっと時間かかるわ」
「うん」
「お前さあ、『寂しい』とか『一緒に行きたい』とか『すぐ戻ってね』とか。そういうボキャブラリィは、頭にねえのか」
「ない。それって、恋愛ものに使う言葉だろ?あたしには『無用の長物』だ」
「恋愛小説か。終ぞ、お前に書かせられないままになりそうだな」
「無理だって。あたしのような人間には」
「まったく。でも、おれとしては心配事が減ったわけだ」
「何の」
「お前の居所。同じ屋根の下に住んでみて、初めてお前のキャラがわかった気がする」
「あはは。ここから居なくなったら、世界中に包囲網敷かれるからね」
「猫の保護も、たまにきて手伝ってくれないか。日本でも同じ屋根の下に住めればなあ」
「キーパーさんいないときは手伝うよ。声かけて」

 屈託なく話す音子を見て、西脇が苦笑いする。
 『同じ屋根の下に住む』と言う西脇の深意を、米粒ほども理解できていない。
 音子は本当に日本で活動した作家なのか。

終章

 SF映画大成功の後、音子も西脇も流石に忙しくなり、各種映画祭やパーティーなど、華々しい場面が増えた。映画祭に行くときは、必ず西脇が音子をエスコートしてくれる。パーティーなどでも、なるべく音子に気を遣ってくれた。有難い。それこそがフェミニストたる者である、と家族たちは言うのだが。
 ライトの下が未だ苦手な音子にとっては、天から降ってきた救世主である。
 西脇は、俳優としての原点でもある、挑戦的な眼差し、それでいて人間味のある純然たるヒーロー。そういった絶大な評価を受け、活動拠点が主としてアメリカに移った。とはいえ、相変わらずリーディンス家の居候生活だ。
 海外で認められたからには、日本に行けば『超の付くスター扱い』を意味する。
 だから、敢えて西脇は、日本に行く時間を事務所にも教えない。
「日本に行ってくる」
「いってらっしゃーい。今回は猫?仕事?」
「仕事だ。猫のことだったら、必ずお前を連れて行くから」
「そか。お気をつけてー」
「相変わらず素っ気ない女だな。腹立つ」

 音子と西脇の二人は、頻繁に日本と本国や知人のいる海外を行き来し、猫たちの里親を探しては、日本の預かりさんから猫たちを譲り受けていた。
 ペットショップには、音子自らが西脇と一緒に姿を見せて猫を貰い受けてくる。
 店長を呼び、話を進めるのは西脇の仕事だ。
「すみません、こちらで買い手の付かなかった大きな猫、譲っていただけませんか。お値段は言い値で結構ですから」
「あ、西脇さんですよね?サイン貰えます?」
「その前に、猫います?」
「ええ、3匹ほど。お値段は子猫で20万でしたから、50万・・・」
「ふうん。ま、言い値ですからね」
「あ、いえ、10万で結構です」
「予防接種は?」
「勿論済んでます」
「こちらは良心的なお店ですね。いつか保護活動の中で紹介させてもらいますよ」
 西脇は、サインする。そして、隣の音子にもサインを強要する。
「へ?あたしも?」
「俺が此処まで来ることできたのが、お前のお蔭だから。だから、サインしろ」
「どうしてそうなるかな」
 昔、音子がペットショップ周りをしていたときにはかなりボッタクリの店も多かった。が、このところ、西脇が横で大きく咳払いすると、値段がグン!と安くなるから不思議だ。ペットショップ巡りの過程が、以前と様変わりしたのは確かである。

 最低でも、1か月に1度、日本での猫関係の保護活動は続いている。何度となく日本を訪れる月もあった。
「おい、来週日本行くぞ」
「いってらっしゃーい」
「お前も行くんだよ。用意しろ」
「なんでさ。猫関係ないやん」
「出版社の社長さんとこ行くんだよ。お焼香するっていっただろ」
「うげっ。正座なんて、あたしできないよ」
「そん時は失礼します、って謝ればいい」
「あわわ」
「お前が行きたいって言ったんだろうが。猫ブログ出版するんだろ、報告しないと」
 
 二人はお忍びで成田行きの飛行機に乗った。飛行機に乗る際は、エコノミークラスでは西脇本人と気付かれやすいので、いつもビジネスクラスを使う。厳戒態勢を取る二人。
 成田からタクシーを飛ばして出版社に出向き、元新人編集くんに挨拶を済ませたあと、元新人くんが運転する車で亡社長の家まで送ってもらった。元新人くんは、車中で他愛もない世間話を西脇としていた。その心の内は、何故西脇と音子が一緒に行動しているのか、知りたくて知りたくて仕方の無かったことだろう。
 それでも、元新人くんは大人になったと見える。こいつが西脇と音子の関係を週刊誌にリークしないとは限らないのだが、信用に値する人間に成長したような頼もしさである。
 社長のご遺族の前でお焼香を済ませた西脇と音子。正座のできない音子は、正座しようとして膝を折った瞬間、前に倒れそうになった。無論、後ろから西脇がフォローしたのは言うまでもない。

 重ねて言うが、今、日本では、西脇といえば『超の付くスター扱い』されている人物だ。
 芸能人のお付き合いでなくても、日本に行く機会もある。
 仕事以外では、西脇はいつも音子を連れだって日本を訪れていた。
 日本に戻ればフラッシュの嵐に取り囲まれる。カメラ嫌いの音子を気遣い、西脇はなるべく報道陣に見つからないよう、こっそりと日本へ戻ってくる。
 しかし、そうは問屋が卸さないのがメディアのメディアたる所以であろう。
「西脇さん!」
 どこで聞きつけるのか、必ず報道陣は空港に姿を見せる。事務所にも内緒で訪れているのに。
「今日はプライベートですから勘弁してください」
「後ろの金髪の女性、神谷琴音先生でしょう?」
 プライベートでは、無言を貫く西脇。勿論、音子へのフラッシュも許さない。
「俺はまだしも、彼女にカメラ向けないでくださいよ」
 それだけ言い残し、目的地へ向かう。

 何度も音子を伴って日本に現れるとなれば、日本のメディアは熱を帯びる。西脇博之と神谷琴音の交際説、あるいは結婚説が囁かれる。当然の成り行きと言えば成り行きであろう。
 猫を譲り受けに行ったときのことだ。極秘で空港に降り立ったはずが、またもやメディアの餌食と化した。
「まったく。極秘で入ってんのに、どうして群がる」
「凄いね、マスコミ」
「おい、今日は一緒に歩くぞ」
「カメラの洗礼は、お許しを~」
 瞬く間に、二人目掛けてリポーターらしきマイクを持った人間とカメラを担いだ人間が近づいてくる。一社ならまだしも、それが何社かバッティングし、空港は物々しい雰囲気と化す。
「西脇さん!今日もご一緒に?」
「何のことです?」
「やだなあ、神谷琴音先生ですよ」
「ああ、こちらキャサリン=リーディンスさんですよ」
「神谷先生が?あの映画の原作者?じゃあ、オーディションの推薦も彼女が?」
「推薦とか、そういったことは守秘事項ですから」
「近頃いつも一緒の飛行機ですよね?お付き合いされてると見ていいのかな」
「僕も彼女も、動物保護活動の一環で日本に来ています」
「神谷先生!」
 カメラは当然、音子にも近づいてくる。
 すると咄嗟に西脇は音子の前に立ちふさがり、顔を撮らせないように歩く。いつもこういうシチュエーションで日本でのカメラ洗礼は続く。
「カメラは勘弁してください」
 別のリポーターが声を張り上げる。
「いつもお二人一緒に来日されますよね」
 それに対し、西脇は常から平然と言ってのける。
「そうですね。目的が一緒ですから」
「お付き合いされてるということでいいんですか?」
「さあ、どうでしょう」
「じゃあ、神谷先生はハードルクリアされたということ?」
「ハードル却下された話、前にしたでしょう。あれから変わっていませんよ」
「でも、いつも、いつもご一緒じゃ、ねえ」
「ハードルをクリアした人は、いませんよ。これでいいのかな?」

 やっとメディアのカメラを振り切り、追いかけてくるパパラッチどもをまき、西脇の知人宅に急いだ。
 知人宅に着いた西脇、開口一番。
「おう、いるか?悪いな、厄介ごと頼んで」
「お前、日本の家引き払ったもんな。猫連れじゃホテルも難しいだろ」
「まあな。ああ、紹介するよ。キャサリンだ。神谷琴音の方が解り易いか」
「どっちも。映画祭の頃から、二人ともテレビに映りっぱなしだったからな」
「え?あたしも?」
「挨拶しろ。大学の同級生だ」
「あ、はい、俺様俳優の映画原作を書きましたキャサリン=リーディンスです」
 相手が腹を抱えて大笑いする。
「大友と言います。西條を俺様俳優扱いした女性って、初めてじゃねえ?」
「この、くそガキ。あとでプロレス技かけてやる」
「へーん。リーディンスの居候が生意気な口たたいてんじゃねえよ」
「悪い、大友。見た目こんなんで可愛げありそうなのに、腹ん中、悪魔みてえな奴でよ」
「でも、西條が女性に素顔晒した姿も久々に見たよ。女っていうと身構えてたもんな」

 音子が聞く。
「身構える?」
「そう、こいつ大学時代から女を寄せ付けなくてさ。女は面倒だから嫌だって」
「へええ。10年も経つと人間は性格悪くなるものなんだ。そしてジゴロになるんだねえ」
「五月蝿い、お子様が分かった口聞いてんじゃねえ。大友も、それ以上言うな。こいつを付けあがらせる恰好の材料になっちまう」
「そうだな、お前の威厳も保たないといけないし。泊まってもらう部屋に案内するよ」

 西脇が音子のことを心配する。音子は、今日泊まる場所を決めていない。
「おい、お前、今日どうすんの。ホテル行くか?俺はここに泊まるけど」
「それこそ万が一カメラ来たら、同じ家から朝に出てきたって書かれちゃうよ、俺様俳優にとってスキャンダルは命取りだろ」
「別に。向こうじゃいつも同じ屋根の下じゃねえか」
「積もる話もあるだろうから、あたしは駅前のホテルに行くよ。大友さん、明日また伺います。猫たちと、そのおっきな目つきの悪いパンダをどうぞよろしくお願いします」
 大友と呼ばれた相手が、再び笑い転げたのはいうまでもない。

 西脇は、今は日本の家を引き払っていた。
 猫の預かりさんから引き受けるのは簡単なのだが、その日のうちに帰れるとは限らない。そのため、西脇の知り合いなどを通じ、臨時で部屋を確保してもらっている。
 面倒といえば面倒この上ない。どうにか、いい案はないものか。
 日本に来るたび、何か方策を、と考える音子だった。

 翌日、西脇の友人宅を再度訪れ、お礼を言って空港まで急ぐ。
 空港までのタクシーの中。
 音子は、西脇を突いた。
「いつもいろんな人に迷惑かけて、なんだか申し訳ないね」
「まあな。昨日わかったんだけど、大友、猫アレルギーだった」
「うひゃっ。申し訳ないことしたね」
「毎回、今度は誰に頼もうかって、それが面倒なんだよな」
「ねえ、この面倒さ、どうにか克服できないかな」
「そうだなあ。ひとつだけ、手があるな」
「なに?」

 西脇が、にっこりと笑う。
「お前が日本国籍を取得すれば解決すんじゃね?俺が撮影で居なくても長期滞在可能だし。1軒か2軒マンション借りれば済むだろ」
 西脇なりの、素直でないプロポーズ。
 暫く考えて、頷く音子。
「ああ、そりゃ名案だ。ラーメンディナーならハードルクリアできるよ」

 素直でない二人の、率直すぎる意思表示だった。

猫ブロガー・桐谷音子

猫ブロガー・桐谷音子

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  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-30

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  1. 序章
  2. 第1章  恋愛できない女
  3. 第2章 流れていく縁
  4. 第3章 新しいストーリー
  5. 第4章 未来へ・・・
  6. 終章