そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(2)
二 スタート地点
空が青い。さっきから空ばかり見ている。周りはランナーばかりだ。ランナーの頭や服装を見ても仕方がない。だけど、よかった。空が青いことに気がついた。普段、散歩をしても、家並みや車、自転車、歩行者、道路を見ることはあっても、空を見上げることはない。この群衆の中に入ったおかげだ。
「走って」誰かが俺の背中を押す。俺は仕方なく、前に走りはじめた。これは何キロの大会だ。制限時間はあるのだろうか。昔、マラソンを走ったことは思い出した。「フルマラソン、大丈夫かな」「「大丈夫だよ。制限時間は六時間もあるんだから。疲れたら歩いてもいいんだよ。十分間に合うよ」
俺の隣で、見知らぬ男女が会話をしている。最近、誰もかれもが見知らぬ人になってきている。もちろん、この俺も見知らぬ人から見れば、見知らぬ人だろう。俺は何を言っているのだろうか。そうか、フルマラソンか。何年ぶりだ。いや、俺は、昔、本当にマラソンを走ったことがあるのだろうか。それさえも、最近、忘れてきた。どんどんとみんなが俺を追い抜いていく。同じく俺の記憶もどんどんどん俺を置いていく。記憶に置いてきぼりにされた俺は何物だ。空っぽの体。その体に、急に、負けたくないという気持ちが湧いてきた。誰に?何に?わからない。まあ、いいか。俺は俺を追い抜いたランナーの後に続いた。
青空だ。快晴だ。太陽がT市のシンボルの山の屋島の上にある。時間は朝八時五十五分。海風が心地よい。目の前は海だ。白い帆のヨットが海原を駆け抜けていく。マラソン大会を応援してくれているのか。島がくっきりと見える。瀬戸内海には多くの島がある。このスタート地点から目の前の島にフェリーが進んでいる。遠目だとマッチ箱大に見える。マッチ箱か。タバコを吸う山本だが、ライターは使ってもマッチを使うことはない。スーパーやコンビニでも、マッチを売っているのはあまり見かけない。マッチは死語だ。その死語じゃないけれど、目の前の島は、以前は千人近くが住んでいたらしいが、今は百四、五十人程度だ。それもほとんどが老人だ。平均年齢は六十歳を超え、七十歳に近い。
保育所、小学校は閉鎖中だ。島にいるわずかの子どもたちはフェリーで通学するしかない。その目の前の島の向こうにも島がある。二つの島は、女木島、男木島と呼ばれており、童話桃太郎に出てくる鬼の住処だったという伝説がある。その鬼の後継者たちも高齢化で、足腰が弱っており、とても鬼にはなれないだろう。
山本は時計で確認した。もうすぐピストルが鳴る。マラソンが始まる。山本は台の上に立った市長の横で、感慨深く、大勢のランナーを見つめていた。T市では初めてのフルマラソン大会だ。街おこしや観光客の誘致のために、全国各地で、都市型マラソンが開催されている。このT市においても、遅ればせながら、フルマラソン大会を開催することになった。十キロ程度のマラソン大会はT市の東端にある合併町で開催されているが、T市の中心部で、しかもフル、四十二。一九五キロのコースで開催される大会は初めてだ。ちょうど、古い陸上競技場を建て直して、新しくなったばかりだ。
このマラソン大会は、陸上競技場の新設を記念しての大会でもある。海を埋め立て、行政機関や市民ホール、飲食店街などを整備した、T市の、K県の交流拠点を出発地点とし、新たな陸上競技場をゴールとするコースだ。しかも、ランナーたちは、スタートして西に進み、市の西の端で折り返し、東に向きを変え、再び、このサンポートを通過し、東にある陸上競技場向かう。ランナーたちは、瀬戸内海を望みながら、海岸線を走る。別名、シーサイドマラソンだ。それがこのマラソンの売りだ。
山本はこのT市のスポーツ振興課長。歴代の課長の後を引き継ぎ、このマラソン大会の開催のために、言葉どおり東奔西走した。警察との協議、マラソンコース沿いの、自治会や店舗、バスや電車の公共交通機関の関係者などとの協議など、課題は至る所にあった。その一つ一つを解決し、ようやくこの日を迎えることができた。
バン。ピストルが秋空に鳴った。ランナーたちの塊がどよめく。参加者は一万人。大げさに言えば、地響きがする。先陣を切って飛び出すランナー。背中を押され、つんのめりながら走り出すランナー。人が多すぎて前に進めず、その場で足踏みをするランナー。様々だ。
そんな中で、山本は一人の男、そう、年の頃なら六十歳を過ぎている男性に気が付いた。出場しているランナーたちのほとんどがランニングシャツやランニングパンツ、タイツ姿なのに、その男だけ、靴はランニングシューズだが、服装は背広姿だ。それに、ゼッケンを付けているように見えない。参加費を払わずに出場しているのか。まさか。だが、考えられる。今回、第一回目のマラソン大会なので、応募者が殺到し、一か月もたたないうちに定員が満員となって出場者を締め切った。
スポーツ課に、締め切りが早いじゃないか、何とか参加させろと電話がかかってきたり、メールが届いたりしたが、全て断った。山本はスポーツ振興課長ということで、その時だけの友人や知人からも何とか申し込みできないかと頼まれたが、全て断った。それでも走りたい人が多いことは知っていた。普通ならば、沿道でランナーと一緒に走ることはあるけれど、こうも大胆に、出場選手の中に紛れ込んで走る人は珍しい。いや、珍しいと言うよりも、そんな人はいないはずだ。間違いだろう。何度も背広姿のランナーを目で追い掛ける。
最近のマラソン大会は、タイムを狙うよりもファンランの人が多い。記録よりも走ることが楽しみなのだ。パンダや犬などの着ぐるみを被ったり、アニメやヒーロー戦隊の主人公のコスチュームで走る人もいる。以前、山本が参加した大会では、背広姿にカバンを持って走っているランナーもいた。その類だろう。だが、得てして、そういう人は若い。その背広姿の参加者は、山本の目には六十歳過ぎに見える。そんな人が、洒落でコスチューム姿で走るのだろうか。山本が疑問に思ううちに、背広の男は大勢のランナーの中に紛れて見えなくなった。
「課長。最後のランナーが走り終わったら、ゴールに向かいましょう」係長の遠藤がランナーたちの動きを見ている。
「そうだな」山本も頷く。変なランナー一人に気を使うよりも、このマラソン大会を成功させることが先決だ。山本はすぐに頭を切り替えた。とにかく、事故なく、無事に終わってくれ。あのランナーも救急車だけには運ばれないことを願う。携帯の電話が鳴る。課長補佐の斎藤からだ。
「わかった。すぐそっちに行く」山本は公用車が止まっている駐車場へと向かう。市長を見送るためだ。駐車場に着くと、山本は随行している秘書課の職員とこの後の市長の日程を確認した。市長にマラソン大会の表彰式に出席してもらうためだ。
「ふう」山本は去っていく黒塗りの車から頭を上げた。やることは無数にある。ため息をついている暇はない。紙ベースのスケジュール表を一つひとつ確認し、黄色いマーカーで消していく。山本は最後の選手がスタート地点の線を越えるのを見届けると、背広姿のランナーのことはもうすっかり忘れて、ゴール地点の新しい競技場へと車で向かった。
マラソンが始まった。だが、父の姿は見当たらない。そりゃそうだ。主催者発表は一万人だ。一万人の中から探し出すのは至難の業だ。それに、父が走っているかどうかもわからない。どこかの沿道で眺めているだけかもしれない。ひょっとしたら、もう家に帰っているのではないか。近藤は携帯を見る。期待していたが、着信はない。それでも母に電話する。
「もしもし、俺だけど」「ああ、健。父さんいた?」「いないよと言うよりもわからないよ。まあ、とにかく、走りながらでも父さんを探してみるよ。母さんは家にいてよ。父さんがふらっと家に帰ってくるかもしれないし、警察か誰かに連れられて、家に戻ってくるかもしれないから。じゃあ。また、連絡するよ」「わかったわ」
近藤は携帯をラニングパンツのポケットにしまうと、走り出した。
大会は秋。今は、春だ。後、大会開催まで六か月だ。時間がありそうで時間はない。今回はフルマラソン。十キロや二十キロじゃない。四十二・一九五キロだ。計画的にかつ長期に渡って練習をしないと完走は難しい。だが、気が乗らない。地元で初めてのフルマラソン大会。念願のフルマラソン大会だ。
これまで、マラソンや長距離の大会に出場するために、市外や県外に出ていた。ようやく、市内で、フルマラソン大会が開催される。これに出場しないことには自分が歩んできた、いや走ってきたランニング人生に傷が付く。と、言いながら、膝が痛む。もう既に、体中は傷だらけだ。若いころに、マラソンや山登りで無理をした古傷が痛むのだ。こんな調子で参加したら完走は難しい。途中リタイアが関の山だ。
だが、折角の地元大会だ。出場するからには、タイムは置いておいて、リタイアだけはしたくない。それなら、練習するしかない。本来なら、月間三百キロを走らないといけないが、それは若いころのこと。
今、六十歳を過ぎて、そんなことをしていたら、体がつぶれてしまう。体との会話をしながらも、せめて、月間百キロは走る必要がある。たかだか週二回、一回当たり十キロの練習だ。俺は日が沈むころを見計らい、Tシャツに短パン姿で、いつもの練習コースの東バイパスに向かった。
そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(2)