雨が十日続いた翌日の朝、商店街の催しでたった縁日の屋台で一椀の溶けかけた雪を供される話をしてください。
#さみしいなにかをかく
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夜を拒むようにぴたりと閉じられたカーテンは、微かに光を透かしている。瞼を開けると、睫毛はふわりと乾いた空気を泳がせる。

今日は、晴れだ。

ぼやけた景色のあと、終には私の頬を濡らすことをやめたあの透明な粒は、それからしばらく街を黒く染めた。
何日経ったのだろう。私は何日泣き続け、街は何日色を変えなかったのか。
瞼に手をやれば、そこにあった気だるげな重たさは消えていた。
空っぽなこの部屋をたっぷりとした光で満たすのは怖くて、私はカーテンの縁から新しく色の載せられた街をこっそりと覗いた。
ゆっくりとひとつ瞬きをしたあと、私はお気に入りの靴を履いて外に出た。

ひたすらにひとり部屋の中にいた頃には届かなかった声が溢れている。街は、いつもこのようなものだったか。
その違和感は、古ぼけた商店街に近くなるにつれてはっきりと認識することができた。縁日だ。幸せそうに手を繋ぎ、ひとつひとつ見ては子供のわがままに、くん、といつも突然に強引に手を引かれる背の高い大人達。

油の飛んだくすんだ屋台の幕が立ち並ぶ狭間に、ぽつりと座っている初老の女性がいた。背中を丸め、袢纏を着込んだ彼女の前にはたくさんの小さな器。

過ぎ行く人を通して見ていたのに、ぱちりと彼女と視線を重ねてしまったが最後、私は人の川を垂直に泳いで彼女のいる岸まで、辿り着いてしまった。彼女は、近くで見ると手入れのされていない、けれど元来の艶やかさを匂わせる艶やかな髪をざっくりと手ぐしで束ねており、化粧っ気のない顔に浮かぶ皺は、彫刻に走るひびを思わせた。

彼女の前に静かに並んでいたのは、言葉を持たぬ赤い漆の器だった。お猪口よりふた回りほど大きく、口の開いたそれを見ると、中には、雪が積もっていた。白くて、ふわりとしている、雪。

雪。雪…?ここは北国でもなければ、今は冬ではない。まして雨上がりのからりと晴れた春の明けだ。雪など、その姿を保っていられるはずはないのに。

「あの…」

私はその一言をいつの間にかからからに乾いてしまった喉から削り出すことしか出来なかったが、彼女はこちらには視線を投げないまま、軽くて重たいその器をひとつ、コトリと私の前に置いた。

言葉を探しようにもなんと言ったらいいのか、私には見当もつかず、ポケットに収まる小銭入れから500円玉を出して、器の横に置き、私は軽く会釈をして小さな雪を取りその場を後にした。

あんな屋台を、私は今まで見たことがあっただろうか。はたして屋台であったのかどうかすら怪しいが。私が彼女の前に佇んだのはほんの数分間、一分の出来事でさえなかったかもしれないが、他の人の視線を感じたようには思えなかった。道行く人はみな隣の焼きそばやりんご飴、立ち並ぶ見慣れた屋台ばかりを見て見落としているだけなのか。なるほど、少なくとも、今は、今だけは、この雪は私だけが知っているのか。

そう考えればいささか気分が良くなって、私は手の中の朱い器に目を落とす。

「ふふ、溶けてる」

彼女の前では空気をたっぷり吸い込んだふわりと軽い雪であったはずなのに、今手の中にある器は、空気をたっぷりと含んで器の底をぼやかす液体がこちらをきらきらと反射させている。

立ち止まってしばらく底を眺めた後、私はそれを飲み干した。

帰ったら、カーテンを開けよう。

以前診断メーカーで興味深かったものを、加筆しました。なんでもないある午後の、それもたった一時間も過ぎていないようなおはなしです。雪から溶けた、すこしつめたいお酒を口から滑り込ませた彼女が、家に着く頃、くらりとしてもう一度ぐっすり眠れることを願います。ところで、屋台で漆の器なんて売ったら、元が全く取れませんね。

なんでもないある午後のおはなし

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-29

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