桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君18
ようやく最後です。長かった。
桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君18
珍しく鹿王があんぐりと口を開けた間抜け面を晒した。
「おぬし、何を言うておるのだ」
「だってさ、どうしようもないんだろ。このまま放っておいたら鈴も山神姫も一緒にだめになるって話なんでしょ。じゃあ、一か八かやってみる価値はあると思うんだけど」
「随分乱暴な話じゃな。勝算はあるのか」
「さあ、そんなことわかるわけないよ。というより、鹿王がわからなくて、俺がわかってたことってある?でも、俺は簡単に神頼みはしないから」
鹿王は無言で光顕を眺めた。心の奥底、真の随まで素手で暴くような冷徹な眼差しだった。光顕はそれを正面から受け止め、にやりと笑った。
鹿王はしばし無言を通すと、その後扇に隠れてあからさまにため息を吐く。
「まったく、私はとんでもない人間を引き込んでしまったようだ」
そう言う鹿王はすでに覚悟を決めた顔つきをしていた。
「どうなるかわからぬぞ」
「やってみるしかないだろ。責任はとれないけど」
「構わん。おぬしに賭けると決めたのは私だ。責任は私がとる」
「わあお、男前」
軽口をたたき合いながらも、二人の顔は真剣だった。額には油汗が滲む。
「あそこに下ろしてくれよ。大学の、あの」
桃の木の下に
言い終わるやいなや、鹿王が大きく扇を振りかぶり、上から下へと振り下ろす。巻き起こった風が暴風となり、小さな箱庭の世界を飲み込んだ。空が割れ、夜の結晶がパラパラと剥がれ落ちる。竜巻が光顕の身体を包み大きくはね飛んだ。
光顕が知覚できたのは、そこまでだった。
43
夜だった。雨が降っていた。暗い闇の中に、その桃の木はひっそりと佇んでいた。くらりと目眩を覚えるような甘い芳香がが辺りに立ちこめている。見慣れた大学の構内。そこに立つ一本の桃の木の前に、光顕は立っていた。傍らには、当たり前のように鹿王がいる。そして桃の木の根元に蠢く影があった。
山神姫だ
山神姫は無惨に縮れた髪を振り乱し、浅い息を繰り返している。ヒトの皮膚はほとんどが剥がれ落ち、凶暴な化生の本性そのままに赤い目がぎらぎらと光っていた。
南禅寺の山門でみたのはこの目だ。
木の根元にうずくまった山神姫は一心不乱に土を掘っていた。遮二無二に土を掻き出すその様は、まるっきり穴を掘る獣の動作だった。
「あの、山神姫?いや、鈴?」
思わず声をかけて、手を伸ばすと、、鹿王が扇でぴしゃりとその手を打つ。
「痛てえな、なにするんだよ」
突然の打擲に驚き、怨みがましくい視線を寄越す光顕に、鹿王は馬鹿者めと、咎めるように呟いた。
「相手は、仮にもやんごとなき山神姫。しかも、神堕ちしかかっておるのだぞ。只人が容易に触れると死ぬ」
「じゃあ、どうしろっての」
高貴な姫君が、みるも無惨な姿で泥と血塗れになっている。鋭い爪は剥がれ落ち、手を覆う毛はごわごわと塊をつくり、ところどころ獣の毛並みすら剥がれ落ちて赤い肉が見えていた。
そんな姿を見ていられなかった。
もう一度手を伸ばす光顕の鼻先を扇で制し、鹿王は軽い足取りでうずくまる山神姫の傍らまで歩を進めた。
「山神姫」
鹿王は呼びかけながら、ひょいと山神姫の肩越しに、掘った穴をのぞき込む。そこは、山神姫の流した血と雨で濡れた土が渦巻き、黒い穿孔がぽっかりと口を空けていた。
「何を探しているのじゃ」
「……」
「手伝おうか?」
「……」
この世ならざる高貴な姫神が一心に掘り続けるその穴は只の泥の穴だった。
それでも、山神姫は両の手を血まみれにしながら、気付く気配もない。
常軌を逸したその光景に光顕は血の気が引く思いだった。
「これ、うんとかすんとか……」
そのやんごとない生まれから、人に無視をされたことのない鹿王が、盛大にその美しい眉を顰め文句を言おうとしたその時だった。
「ああ、鷹雄、鷹雄。やっと会えた」
不意に、山神姫が無邪気に歓声をあげる。
姫神は泥の合間に見えたそれを急いで掘り出し、愛おしそうに胸に抱きしめた。
今度こそ光顕は堪えきれずに、ひ、と短い悲鳴をもらし、鹿王は不覚にも漏れ出た呻き声を咄嗟に扇で口元を覆って殺した。
雨はいつの間にか止んでいた。代わりに雨に濡れ、風に煽られた桃の花が重みを増し、
はらはら はらはら
闇夜にぽっかり浮か上がった桃の木からは、千とも万ともつかない薄紅色の花弁が、滝のごとく地面へ流れおちていく。光顕は感動とも恐怖ともつかない幻想的なその光景に魂を抜かれ、一瞬魅入られてしまっていた。禍々しくも夢と現の挾間で、山神姫は掘り起こしたばかりの鷹雄の髑髏をかき抱く。仙酒の奇跡の力なのか、千数百年前に息絶えたはずの鷹雄の骸は僅かにその原型を留めていた。しかし、それがなお一層、この状況を異様にさせている。腐敗した肉がこびり付き、眼球がたれ落ちた無惨なその髑髏を胸に抱き、山神姫は愛おしそうに唇を寄せた。
山神姫は嬉しげに微笑んだ瞬間、そのまま淡い光に姿を変え、御山の方角へと飛び去った。
光顕と鹿王だけがその場に残された。
「のう、光顕」
鹿王が珍しく心許ない声を出す。
「なんだよ」
「なぜお前には、山神姫が山に戻らぬ理由がわかったのじゃ」
「なぜって、そりゃ、お前あれだよ」
光顕は赤面しながら、もごもごと口の中で呟く。
「好きな男を見つけるまでは帰れないだろ」
「ほう、ほう」
「しからば、あんなになってまでも、山神姫は鷹雄を好いておったということか。憎んではおらんのか」
「好きと憎むはコインの裏表みたいなもんだろ。顔見てたら、好きのほうが上回ったんじゃねえの。なんで鹿王にはそんな簡単なことがわからないの。何でもお見通しじゃないのかよ」
それでも、鹿王は得心いきかねるという顔をした。
「解せぬな」
「それが心の機微ってもんじゃねえ?」
心の機微か、と鹿王は繰り返した。
「まこと、ヒトの世はおもしろい。愚かで哀れで、だからおもしろい」
そう言って、鹿王がにっこりと笑った実に子供らしい無邪気な笑みだった。
4
目を覚ました。部屋のベッドの上だ。サイドテーブルでは目覚まし時計がけたたましく鳴っている。午前七時十五分だった。光顕はがばりと起き上がり、せわしく辺りを見渡す。部屋には、なんの変化もなかった。慌ててベットから飛び降り、居間に向かう。居間はあの汚泥にやられ、壁が抜けて応接間と繋がってしまっていたはずだ。しかし、光顕を迎えたのは、いつも通りの日常の風景だった。居間も応接間もすっかり元通りで、居間では桃井准教授が優雅に朝刊に目を落としながらモーニングコーヒーを飲んでいた。
「おはようさん、はよ朝ご飯食べんと大学に遅れるで」
声をかけてきた叔父を、光顕はまじまじと見つめた。
「なんやねん、気持ち悪いな」
訝る桃井に光顕は焦って説明を求める。
「ねえ、あの壁いつの間に直したんだよ。それに、この居間、家具が全部ダメになってしまっただろう。また同じやつ買ったのか。てゆーか、俺はそんなに寝てたのかな」
矢継ぎ早に尋ねる光顕に、新聞から目を上げた叔父が悠長に応える。
「お前が何時に寝たかは知らんけどな。四、五時間は寝てたんとちゃうか」
「は、だって居間の壁とか、家具とか。いつ直したんだよ」
「ここを最後に改装したんはお前が生まれる前やけど。なんで?」
「おい、冗談ばっかり言うな」
「冗談?何言うてんねん。寝ぼけてんのか。その年になって」
「はあ?」
桃井の本気で迷惑そうな顔に、光顕は目を見張る。
「だって、じゃあ、あの徳利と榊さんは」
「徳利?何のこっちゃ。徳利は知らんけど、榊は今日は朝から研究室やろ。酒は二十歳になってからやで。わかってるやろな。他に何か質問はあるか。なかったらさっさと大学に行きや」
なかば叱責するようなその声音に、光顕は首を竦めてカバンを取りに部屋へ向かう。途中応接間を何度も確認したが、やはり何事もなかったかのように、前のままだった。
大学についた光顕は、真っ先に研究室に向かった。やはりそこもいつも通りで、何ら変わったことはない。死んだはずの研究生も全員顔をそろえていた。榊も小和田も何事もなかったかのように振る舞っている。
狐にでも化かされた?
生々しい記憶が、現実に起こったことだと光顕に肯定させるものの、現実がそれを否定するのだから自信もなくなる。
夢、未だかつて経験したことのないリアルな夢を見ていたのだろうか。
光顕は、構内にある例の桃の木に向かった。
桃の木は花も葉も枯れ落ち、冬らしい姿で立っていた。
桃が狂い咲きしたのも俺の夢だったのか
そう思って項垂れていると、背後に何かの気配を感じ、咄嗟に振り向いた。
そして、光顕は言葉を失った。
「なんじゃ、その阿呆面は」
鹿王だった。いつもの古めかしい装束に身を包んだ鹿王が当たり前にように、そこにいる。
「え、え、お前、は?何だ。なんでここに」
「お前、一晩のうちに言葉が不自由になったの」
「なるかバカ!」
呆れたように溜息をつく鹿王の言いぐさが癇に障り、光顕は勢いよく言い返した。
「お前、お前なあ」
何か文句を言ってやろう口を開くも、考えが上手くまとまらない。鹿王はきょとんとした顔で光顕の言葉が出てくるのを行儀よく待っていた。その様に毒気を抜かれ、光顕は結局大きなため息をついて、その場にしゃがみこんだ。しばしの沈黙が流れた。
「そういえばさ、鈴は?あいつ無事なのか」
山神姫は御山に戻った時、鈴はまだ山神姫のなかにいたはずだ。
「ああ、大事ない。ただ、酷く消耗しておっての。今朝は、沓部の家でよう寝ておったわ。暫くは起き上がれまいが、なに、すぐに回復するだろう」
それを聞いて、光顕は胸を撫で下ろす。またしばらく沈黙が続いた。
どうしよう。なにを話して言いかわからない。
事件も懸案事項もない状態でこの、鹿王に相対するのはこれが初めてではないか。共通の話題などあるはずもなく、光顕は無闇に焦った。
「あーと、あのさ」
静けさに耐えきれず、やがて光顕が口を開く。
「なんで、お前がここにいるんだ」
それを聞いた鹿王が、座り込む光顕に額を容赦なく、トレードマークの蝙蝠扇で打ち付ける。
「痛ってえ!何すんだよ」
「光顕、お前約束を違えるつもりか」
「約束?」
何かこの神世の少年と約束を交わしただろうか。上手く思い出せない。
「汚れた衣の代わりに、なんぞ買うてくれると言うたではないか」
「ああ!」
思い出し、光顕はぽんと膝を打った。自宅の応接間で鹿王が汚泥に呑まれる前、確かそんなことを口走ったような気がする。
「光顕、お前まさか忘れておったのか」
「そそそ、そんなわけあるか。買ってやるよ。何がいい。あんまり高いのは無理だぞ」
そういえば、と約束の記憶と共にその時の様々な出来事を連鎖的に思い出し、光顕は疑問を投げかける。
「鹿王、お前、天津ヶ原に帰らなくていいのかよ。いつまでもこっちをうろちょろしてたら怒られるんじゃねえの」
あの感じの悪い光の球達はそもそも鹿王が人間の世界に来ることを快く思っていなかったはずだ。八つ当たりで雷を落とし、局地的に直下型地震までおこしてみせたのだから、神々の鹿王への執心はそうとうなものだろう。
しかし、鹿王は興味がない風情で、ああと答えた。
「実はな、帰られぬのだ。光顕、お前のせいだぞ」
「はあ!?」
覚えのない責を負わされ、光顕は声を荒げた。
「なんだそれ。どういうことだよ。俺が何かしたか」
したのじゃ、と鹿王は大きく頷き、自分の足もとに目をやる。鹿王は着込んだ装束に不釣り合いな、大きすぎる靴を履いていた。真新しいコンバーズのニューモデル。光顕が裸足の鹿王にやったものだ。
「これがどうかしたか」
訝る光顕に、おおありじゃ、と鹿王が答える。
「お前が私に靴を履かせた。そのせいで縁が結ばれてしまい、奇しくも私はお前に括られてしまった」
「括られる?どういうことだ」
「狛犬達は御山に括られておるはゆえ、御山を守り、本体は山から下りられぬ。私はお前に括られてしもうた。つまりだ」
事の次第を察した光顕は鹿王に皆まで言わせず、青くなって結論を口にする。
「お前、俺に憑りついたのかっ」
「守護霊さまと呼ばんか、馬鹿者」
「もう無理、マジ無理。神様も物の怪も、怪談ももう腹いっぱい。勘弁しろよ」
「神々の愛し子が、守護するのだぞ。もっと喜ばんか」
「いいから、お前帰れ。帰れよ」
「ええい我儘がすぎるぞ、光顕」
「お願いします、帰ってください!!」
冬の澄んだ空気のなか、光顕の絶叫が天高く響いた。
桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君18
何とか完走できました。読んでくださった方、ありがとうございました。