「睡蓮」
彼とはじめて遠出をしたのは、あたしが高校二年生の夏だった。三年生になれば受験で忙しくなるからとあたしからお願いした。彼は涼しい高原に行こうといって家から車を借りた。あたし達の最初のドライブは順調で、街から高原に森を抜けてだんだん山を上がると、クーラーも要らないくらい涼しかった。「湖があるよ、ダム湖だけど」と彼がナビを見て言った。
湖はロマンチックだ、車を止めて湖に近寄った。夏休みなのに人気のない静かな湖畔を眺めた。振り返って彼を見るとケータイで何か操作をしている。あたしはもう少し水面に近づいてみることにした。上からは見えなかったけれど、水の上に花が咲いている、どこかで見たことがある。そう睡蓮だ。
あたしは落ちないように注意しながら、小枝で睡蓮の花を手繰り寄せようとした、睡蓮は意外と頑丈で可憐な花はなかなかこっちに来ない。ムキになったあたしはうんと手を伸ばした。「あっ!」
……気をつけていたのに水に落ちた。ああ、なんてドジだ、せっかくの白いワンピが汚れちゃう。髪だってトリートメントたっぷりつけて丁寧にブラッシングしてきたのに……。そんなことを考えながら水中から睡蓮を見上げると、あんがい根っこはグロテスクだった。あたしはもがきながら、何故か頭は冷静に別のことを考えていた。綺麗な睡蓮の絵を描く画家、モネだっけ、マネだっけ?あの絵の本物を美術館で見たときに、思っていた以上のエネルギーを感じたんだ。ただ単に綺麗な絵じゃない何かがあった。きっとあの画家は綺麗な睡蓮の花の裏側まで知ってたんだ。
ガバっと水面から顔を上げると見知らぬ場所にいた。
あれだけ晴れていた空は暗い、いや夜だった。あたしが出てきたのは大きくて澄んだ水をたたえた壺だった。あれ?と思った、しばらく壺の中でたたずんでいたが何も変化しないので恐る恐る這い出た。うっすらと見える壺の模様は睡蓮だった。
手探りで壁を伝うと引き戸があった。そっと開けてみると外に人の気配がある。何か唄うような唸り声がする。あたしが力を込めてガタガタ音のする引き戸を開くと、うおおおっというような大きな歓声が上がった。あたしの目の前にはシワクチャの鬼のような形相のおばあちゃん。その後ろには昔話に出てきそうな古い着物を着たおじさん、おばさんたち。あたしはその場にヘナヘナと座り込んで「何?コレ……」と思っていた。
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村人たち……というしかないくらい古い格好をした人々にあたしは囲まれていた。みんな口々に喜びの声を上げている、鬼の形相だったおばあさんはよく見ると巫女のような格好をしていて、今は穏やかな顔をしている。あたしは「ここ、どこですか?」と何度も聞いた。だけど、方言が強くて誰がなんと言ってるのか全然わからなかった。村の人たちの言葉は何一つわからなかった。
あたしは石を積んで出来た部屋に入れられた。角に壺が置いてあるだけで何もない部屋だ、とてもお客をもてなす雰囲気ではなかった。後ろで戸が締められると真っ暗になった。驚いてあたしは叫んだ。外で何かブツブツ言っているが意味がわからない。
あたしは戸を叩き、声が枯れるまで叫んだ、これは誘拐じゃないか、犯罪じゃないかと思った。湖で溺れて気を失って夢を見ているのだろうかとも思った。閉じ込められたパニックが収まると今度は暗闇が怖くなった。部屋の奥に何かいる気がする。さっきの壺はなんなのだろう?これまで面白半分に見ていた怖い映画のシーンが頭をよぎる。忘れようと思っても次から次へと思い出した。普段なら笑っちゃうようなお化けの話が、異様なまでに怖くなった。
あたしは何なの?どうしてこんなことになったの?もし、あたしが神隠しという言葉を知っていたなら、まさにその状態だったんだと今では思う。
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ギィという音がして猫が通れるくらいの小さな窓が開く。あたしの食事がそこから差し入れられる。あれから何日たったんだろう…。あたしは木彫りの椀におもむろに口をつけた。何かの果物を潰したような酸っぱい汁と果肉のようなもの。最初は不味くて飲めなかったが、他に食べるものも飲むものも無いので慣れるしかなかった。真っ暗闇の中であたしは朦朧として過ごした。気が狂いそうになるほど闇が怖い時もあれば、疲れ果て夢と現をさまよう時もあった。あたしはだんだん彼とか学校とか進路とかそんなことがウソだったんじゃないかと思った。どういうわけかたまらなく愉快になって一人で笑い転げた。
部屋の角にある壺は何も入っていなかった。排泄はそこで済ませた、ずいぶん異臭が漂っていたと思うが、あたしは気にならなくなっていた。ただ、ひどく喉が渇いた。水が飲みたかった。
*****
ある日、戸が開いた。久しぶりに光を見たらずいぶん眩しかった、助かったという安心感は無かった。これから何かが始まるという予感だけがあった。あたしが動かないので村人が二人がかりで引き起こした。目の前に巫女のおばあさんが居る、あたしは水が飲みたいといった。巫女のおばあさんは黙ってうなずくと、あたしを外に連れて行った。外は昼間みたいに眩しかった、目がチカチカして立っていられない、しゃがみこんで周りを見る。
そこは小さな山村だった。茅葺き屋根の家が狭い谷間にひしめいてる。あたしはふと水の匂いを感じた。這うようにその匂いを追った、あたしは気づかなかったがその日は新月だった。普通の状態では見えない暗さの中をあたしは昼間のように感じて動いた。
水の匂いは山の中から漂ってくる。あたしは村を離れ藪の中をあるいた。手足が葉っぱで切れたが気にならなかった。あたしはどんどん山を登っていく、ふと腕を見ると黒い見た事もないような文様が浮かび上がっていた、病気になって血管が透けたのだろうか?変てこな果物の汁のせいだろうか?とく見ると文様は全身にあった。あたしは気持ち悪くてこすったが消えない。刺青のようだけどよく解らない。とにかく水が飲みたかった。
月が山に沈む頃、あたしは水の臭いのする場所にたどり着いた。
それは岩の隙間からポタポタと水が滴っている場所だった。あたしはそこで力つきて、湿った土の上に倒れ込んだ。あたしの後ろから村人たちが付いてきていた。手に鍬やナタを持っている。あたしが見つけた水源に鍬を入れると、そこから清水が湧き出した。皆とても嬉しそうだった、あたしは頬に水を感じながら、目の前が暗くなるのを感じた。
あたしはそこで神として祀られた。
ケータイの情報検索は本当に便利だった。こんなダム湖にも物語がある。このダム湖の下には集落が沈んでいる、ずいぶん長い歴史があった村のようで不思議な物語が伝わっている。特に川の水源の昔話が面白い……と彼は思った。
なんでも、ある年に雨が全く降らず川が干上がってしまったことがあったらしい。村人たちは困って、その村の巫女が三日三晩、雨を降らせてくれるよう神に祈った。すると不思議なことに空の壺の中から水が湧き、神の使いである美しい娘が中から現われた。
娘は村人を山中に案内すると、ある場所を指して掘るような仕草をして消えてしまった。村人がその場所を掘ると、水が湧き出してやがて大きな支流となり、枯れた川を潤したそうだ。
その村は今、川の水底に沈んでいる。
<了>
2012/07/26発表
2016年1月29日加筆修正。
「睡蓮」
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