「片目の面」
「片目の面」
流星か。
と、見紛うほど鮮やかに銀の刃が閃いた。
切っ先が俺の眉に当たり、眼窩に落ち、目蓋を切って眼球に刺さったとき、
俺の全身を覆っていた緊張が、一気に溶けていくような心地がした。
これで勝負あったなと、どこかで諦めが囁いた瞬間、信じがたいことが起きた。一本の太刀筋だ、俺の活路が見えた。
相手の左のわき腹から逆袈裟切りに右肩へと駆け抜ける活路。
俺は無我夢中で相手の左わき腹へ刀を叩きつけ、そのまま力任せに切り上げた。
相手の切っ先はとうに俺の右眼を二つに割っていた。
その見事な太刀さばきに対して、俺の剣のなんと野蛮なことか。
俺が叩きつけた剣は、そのまま相手の肋骨をへし折り、内臓をかき回して、右肩へ抜けた。
相手の男はかっと目を見開き俺を見据えた。しかし視線は俺に向いていなかった。男が見ていたのはもっと先、俺の真後ろの何かだった。
男は崩れた、うめき声一つあげず、血の吹き出す音が聞こえた。俺の中で諦めが「勝ったな」と囁いた。そうらしい。勝った、また、勝ってしまったのだ。
俺の背後から誰かの悲鳴が聞こえた。
暗闇の中で俺は一つ一つ計算をしていた。頭が割れるように痛む、右眼を完全にやられた。簡単な手当てはしたものの、出血を止めるのが精一杯だった。
この眼はもう使い物にならないだろう。俺は早く金をもらって、ここを立ち去りたかった。
…周りが騒々しい。痛みをこらえながら、俺は残された左眼で辺りをうかがった。
小屋の中に男が三人いる。皆俺と同じように金で雇われた素浪人…暗殺者だ。
お互い素性も本名も知らぬ烏合の衆。
とある高名な武芸者を倒すために、どこからか集められてきた野良犬どもだった。
俺はこの男たちに不信感を持っていた。
武家屋敷に押し入り、屋敷の手伝いやなんかを蹴散らしたのは良かったにしても、肝心の武芸者には近付くことさえできなかった。
敵の間合いに入ることを恐れるあまり、自分の間合いに入れることを放棄した。
結局、まともに相手をしたのは俺だけだった。
あいつらは終始一貫、安全なところに避難して高みの見物を決め込んでいた。
所詮、俺の命と引き換えに、敵が傷の一つでも負えば儲けものだと思っていたのだろう。
まぁ、そんな奴らがまともに向かって勝てる相手ではなかったし、
それが奴らなりの生き延びる精一杯の知恵だと思えば腹も立たない。
それにしても騒々しい。
左目だけの視界では上手く状況がつかめなかったが、声でだんだんと様子がわかってきた。
男たちの声に混ざって女の声がした。さっき、悲鳴を上げたあの声だった。
「何をしている?」俺は背中に問いかけた。
男らは振り返りもせずに「この娘の味見をしてんのよ」と答えた。
男たちの間から女の着物と足が見えた。
「離してよ!」声からして若い娘と知れた。いかにも気丈そうな声だった。男らは三人がかりでもてこずっているらしい。
いや、むしろわざと、女に暴れさせているのかもしれない。
ネコが捕らえた獲物をいたぶり殺すように、自分たちの手中に収めて、もう逃げられない女を、あざ笑っているのだ。
女はそれを知らないのか、知った上でなお自由を諦められないのか、必死で抵抗していた。
これまで、痛ましい現実を突きつけられたことがなかったのだろうか。
「その女は?」俺は尋ねた。
「あの武芸者の一人娘よ」男の一人が答えた。…やはり。
「押入れに隠れていたのを見つけ出したのさ」ともう一人。
「おまえが切りあっている時にな」…そうか。
あの武芸者が最後に注いだあの視線は、自分の愛娘に向けられていたのだ。
隠していた娘、それが見つけ出されたとき、その先に起きるであろう最悪の事態に、一瞬だけ心がゆらいだ。それが勝負を分けた太刀筋を生んでしまった。
あの剣豪の見せた、最初で最後の隙だった。
女は相変わらず暴れている。暴れるほど着物は乱れ、男の劣情をそそるだけなのに。思えば哀れな娘だ、父親の命を奪う決定的な瞬間を作ったのは、自分自身なのだから。
右眼の痛みがだんだん酷くなってきた。
とにかく早くここを離れたい、女の金切り声も、男たちの嘲笑も、もう充分だった。俺は金の話を切り出した。男の一人が汚い包みを放った。
どさり。と目の前に落ちたその袋を手繰り寄せると、中の金を数えた。
金は綺麗に四等分されていた。四等分?
俺は急に、体の芯がひやりと冷たくなったのがわかった。あいつらが何をした?
俺は力任せに、金の包みを男の一人にぶつけた。
金は散ってキラキラ光りながら、音を立てて床に落ちた。
立ち上がった俺と床に落ちた金を、三人の男たちは交互に見みやる。
「その女、俺が貰い受ける」男たちがいっせいに俺を見た。
「この金が代金だ。もしお前たちが、女を無傷で売り飛ばしたとしても、この額にはならない。」
ぽかんと見上げる三つの面をねめつけた。「いい取引だと思うが?」三人の男は目を見合わせた。
右眼の痛みは耐え難いほどになっていた。
とにかく俺は、早くこの場を出たかった。
後のことは何も考えたくなかった。
埃だらけの小屋を離れ、夜道を急いだ。
夜風にあたれば少しは痛みもましになるかと思ったが、相変わらず治まらない。 その上、頭に響く金切り声が付いてきた。「何処に行くのよ!」金切り声はわめく。
「好きなところへ行けばいいものを…」俺はそう小声で呟いたが、金切り声には聞こえなかったらしい。
「私、あんた達を絶対、許さない」…答えるのが面倒だった。
「お父様とお母様の仇は絶対取るんだから!」あいつらはこの娘の母親まで殺したのか…。
俺は静かに考えた、娘を引き取れる身内がいないとなると少々面倒だ、可哀想だが女郎屋にでも売り飛ばした方が…。
そう思案していると、ふと月が雲間に陰った。
風がざわめき、不穏な空気を感じた。…遠くから足音がついてくる。
俺は娘の胸ぐらをつかんで、近くの茂みに引きずり込んだ。
「着物を脱げ!」そう命じると、娘の帯を力任せにほどいた。「何するのよ!!」娘は驚いて抵抗した。娘からしてみれば一難去ってまた一難といったところだろう。「早くしろっ!」そう言って俺は自分の着物を脱いだ。
人馬が往来する街道へ伸びるせまい一本道。
道と言っても近くの百姓が忘れたころに使う程度で、夜ともなれば人の姿は皆無、狐狸や兎鼬の類がちょろちょろりと遊んでいる。あたり一面はうっそうとした松の木林、道端の藪も深い。
視界はさほど良くはなかったが、折しも満月。
絡み合った木の枝の隙間から月明かりが差し込んで、夜道をぽつりぽつりと照らしている。若い男女の二人連れ、こんな夜に見失うはずは無い。
二人の足音の後から、三人の足音が、ひたひたひたとついて来た。
走るわけではないが着実に距離を縮める足音。獲物が街道に出ていずこと知れず消える前に、追いつこうと眼をぎらつかせる様はまるで野獣。
狙われていると知ってか知らずか、悠々と歩く狙いのものの姿が、道の向こうに見えた。
どちらが声をかけるとも無く、双方の歩みは止まった。
先ほど金をばらまいて立ち去った片目の男は、三人を一瞥して顔を伏せた。
男が大金を支払って連れ去った娘は、片目の後ろに身を隠して、こちらもまた顔を伏せる。先ほどまでのあの元気はどこへ行ったのか。別人のようにおとなしい。
追ってきた三人の男のうち、背の高い一人が口火を切った。
「いい夜だな」
ふふ。誰ともなく嗤った。たしかにいい夜だった。
「何の用だ?」片目がくぐもった声で尋ねた。
三人の男が目を交差させた、いつの間にか二人を囲むように立っていた。
「考えたのよ。」さきほど夜を褒めた男が続けた。
「お前を殺せば、女も金も手に入るってな」
ははは。今度は、はっきりした笑い声がした。
ふふふ…。片目も笑っていた。「お前たちが俺を殺す?」
笑いながら片目は、女を後ろに隠し、一歩も動かない。 「気はたしかか?」
後ろは笹薮、その先は川。左右の道はそれぞれ男が立ち、正面の男が喋り続けた。「以前のお前ならな。しかし、今のお前は…」喋りながら男の足がじわりと前に出た。
「片目だ」
その言葉が合図になったのか、三人の男がいっせいに刀を抜いた。
背の高い男が、太刀を正眼に構えるが早いか、片目に切りかかった。瞬間、後ろの娘が動いた。
驚いたことに、女物の着物の長い袖から、抜き放たれた太刀の刃が見えた。
その刃が切りかかった男の首を一刀の元に打ち落とした。
娘が躍り出ると、残りの二人はたじろいだ。入れ替わった…。
そう気づいた瞬間、もう一人の男は脳天を叩き割られていた。
頭を割られた男の体が地面に着くより早く、娘の衣装をまとった片目の修羅が、身を翻した。それは最後の一人を絶命させる一太刀をはるか以前に知っていたような動きだった。
それでも最後の男は刀を構え直した。修羅の打ち込みに耐えられるように。
一瞬でも攻撃をかわせば退路が見えるかもしれない。
蜘蛛の糸のようなわずかな希望に男はすがった。
だが相手が悪すぎた。片目はその全てを見透かしたかのように、男のつたない希望を絶った。
二人を殺した刀は、とうに血糊で鋭さを失っていた。片目は構わず男の胸板を突いた。
男の背に痛みが走った。突かれた勢いで、背にしていた松にぶつかったのだ。
衝かれた男は、ただの鉄棒となった刀が、己の肋骨を打ち砕く感触を感じながら、思い出した。
男はこの片目の本名を知らない。ただ「面」と呼ばれていることしか知らなかった。
その名の由来は、能面のように端正な顔で、表情一つ変えず人を切るということだった。
男は今際の際に、それは真っ赤な嘘だということを知った。目の前の「面」は醜く嗤っていた。
顔にまいた包帯からは血がにじみ、それが狂気に歪んだ「面」の顔にいっそうの凄みを与えていた。
片目の死に神の後ろに月が見えた。雲間からゆっくりと出てくるところだった。
月光が男の顔を照らしたのと、死に神の刀が男の体を突きぬけ、後ろの松に刺さったのは同時だった。
悪夢は去った。ざわめいていた木々は静まり、何事もなかったかのように煌々と月が輝いた。
こと切れた男を一瞥して、修羅は人間に戻っていた。
その能面のような顔には一欠けらの狂気も残らず湖のように静かだった。
片目は思い出したかのように自分の着物を着て、へたりこんでいる娘を見やった。
能面と視線が合った娘は体を強ばらせた。
娘は上手く立てないらしい。何か声をかけようと思って、必死に言葉を探した。
「仇をとったぞ…。」
片目の言葉に娘が青ざめた。それを見て初めて、自分の顔が笑ったことに気づいた。あたりは恐ろしいほど静かだった。その静寂が今度はうるさい。
「立てるか?」片目はむりやり言葉を引きずり出した。
「触らないで!」娘が言った。ずきりと右眼の痛みがよみがえってきた。
娘はあわてて立とうとするが、上手く行かない。
片目は手を差し伸べようとして、袖の血の飛沫に気づいた。返り血には気をつけていたのに…。借りた娘の着物をわずかに汚してしまった。
「すまない。」早いうちなら取れるかも知れないと思って、乾いた手ぬぐいを血の飛沫に押し当てた。
その動作を見ていた娘は、体を立て直すと勢い込んで言った。
「どうして、暗殺なんかしているの?」
「それだけの腕を持っているなら、どこかに仕官すればいいじゃないの!」
気持ちが高ぶったのか、両の目から涙が出ていた。
そういえばこの娘は、今まで涙を見せていなかった。
両親が殺され、自身も酷い目にあわされそうになったというのに。
涙が一旦堰を切ると、今度はなかなか止められないようだった。
娘はまだ何かいいたそうだった。嗚咽がそれを邪魔していた。
俺は娘の言葉を考えた。俺はなぜ暗殺をしているのだろう?なぜ仕官しないのか?
答えは簡単だった。俺のように得体の知れない人間には、こんな仕事しかない。
何処の流派に習ったわけでもない自己流の剣術で、どれだけの強敵を倒せたとしても、素性のはっきりしない人間には、所詮こういう仕事しか回っては来ないのだ。
俺がこの道を選んでいるんじゃない。この世がそうなっているのだ。
だが、それを今この娘に伝えるのは、たやすく無いように思えた。
俺の住んでいる世界は、娘が今まで住んでいた世界から遠すぎる。そして娘は俺の住む世界に突然けり落とされたのだ。そしてまだ、そのことをよく解っていないらしい。
いつかそれを骨身に染みて理解するまで、一体これからどれだけの涙を流すことだろう。
俺の右の眼が痛んだ。酷く。ずっと酷く痛んだ。
俺は娘の着物を脱ぐと、娘にほり投げた。「さっさと着替えて来い」
娘の父親に切られた右目が痛い。もう俺は早く落ち着ける場所に行って休みたかった。それ以外、何も考えたくなかった。 さっさとこの血なまぐさい場所を離れたかった。
……だから、
金切り声の一つや二つ、付いてきたところで、たいした問題ではなかった。
(了)
2012年1月10日 書き直し版
「一真眼」
麗らかな春の日差し、満開の桜の木のそばを二人の男女が歩いていた。「綺麗…」女が桜を見上げてつぶやく、「見事なものだな」男も釣られるように 花を見上げた。男は片目だった。
川辺に植えられた桜並木の端まで来ると女は名残惜しそうに振り返った。
川の土手では花見客が酒を呑み賑やかに桜を楽しんでいる。
庶民の花見客に混ざって武家と思われる一行も花見をしていた。女はそれを眺めている。本来ならこの娘も武家の一員としてあのような一行に加わっていたかもしれない。それを壊したのはこの男だった。
仕事だった。片目の男はこの数ヶ月いくどとなく考えた。仕方がなかった、あの時殺していなければ自分の命が無かった。暗殺をしなければ自分は生きていく金を稼げない。だから仕方なかった。そうやって娘の父親を殺した理由を男は何度も考えていた。
だけど、恐らく自分は間違いなく娘の幸せを奪った。たいして惜しくもない自分の命と引き換えに娘の家庭を壊した。こうやって共に旅をして面倒を見ているのも娘への罪滅ぼしなのだと男は考えていた。
「もう少し見ていくか?」男が言うと娘は振り返った。「そこに茶店がある、あそこなら花も見えるだろう?」そう聞いて娘の瞳の瞳孔が少し広がった、だが娘は努めて冷静に「そうね。ちょっと疲れたし……休んでもいいわ」といった。
茶店の裏にも見事な桜が咲いていた。
女はその桜の木の下にたたずんでいる。絵になるなと男は思った。
女をしばらく茶店に残して、男は仕事が無いか探しに行った。そろそろ稼がないと、金が尽きてしまう。娘に嫌がられるがこの際、汚い仕事でもいい、誰かの幸せを壊すような仕事でもいい。金が要る。
男が女の側を離れている間に、二人の男が女の姿を見つけた。「もしや桐乃様でございますか?」「ご無事でしたか!」男達は娘に駆け寄った。「まあ!」桐乃と呼ばれた娘は驚いて二人の男を見た。「佐平次!小太郎!こんなところで会えるなんて!」
片目の男が戻ってきた時、そこに娘の姿はなかった。せっかくいい仕事を見つけてきたのに、久しぶりに娘に胸を張って言える仕事だったのに。
片目の男は娘の行方を茶店の主に聞いた。なんでも二人の男と親しげに話してそのまま何処かへ行ってしまったらしい。片目の男は娘が消えた方へ走っていった。
満開の桜の木の後ろで人影が動いた。娘と二人の男である。茶店の主に金を渡し、片目の男に嘘を教えた。「あれが師匠を殺した男ですか」一人の男が尋ねると「そうよ、父を殺した相手」「でも悪い人じゃないわ」と娘が答えた。
「生かしておくわけには参りません」「伝統ある我ら一真眼流が、素浪人に敗れたままで良い訳がありません」娘は驚いたように言った「だけどあの男はとても強いわ」「お父様を破ったのよ、貴方達の命を大切にして」
娘は片目の男を思うと胸が傷んだ。あの男も好き好んであんなことをしたわけではない。あの男に父を殺され行き場を失い、二人で旅をしたこの数ヶ月、片目の男が娘を思って様々に心を砕いてくれたことはよくわかった。
娘はすでに男の罪を許している自分に驚いた。それを男に告げられないのは、自分の自尊心が邪魔するからなのか、つい意地を張って素直になれない。そんなことは一真眼流の二人にはいえないことだった。
娘の心を知りもしない二人の男は、どうやって片目の男を始末しようか相談していた。やがて娘を使っておびき出し、仇討と称して男を討ち果たすという風に話がまとまった。
娘は内心穏やかでなかった、片目の男への恨みは娘の中で消えつつある。だがこの二人の男達の中ではまだ生々しく燃え上がっているのだ。娘は勇気を出していった「仇討なんて止めましょう、私は貴方達が危険な目にあうのが嫌だわ」男たちは振り返っていった「大丈夫です我々の仲間を呼びます」
街道から少し離れたところにぽつんと地蔵がある。それを目印に一人の若い男が草むらを歩いていた。その先に古ぼけたあばら家がある、若い男はその家をのぞき込んだ。
「桐乃?」あの娘から連絡があった。ここへ来いと手紙には書かれていた。しかし人影はない。一体どこへ行ってしまったのか
男からは微かな血の匂いがする。編笠を被り素浪人の出で立ち。名前は知られていないがとある世界では「面」と呼ばれる恐ろしい腕を持った剣士だった。
「面」と呼ばれる男は、あばら家に一歩入り込む。中の空気が乱れている、つい今しがたまで人がいた気配がする。男は鋭い目であたりを見回した。あばら家の隙間から差し込んだ光が男の顔を照らす。男の右目には垂直に切られた跡があった。片目の男は「桐乃…居るなら返事をしろ」と言って刀に手をかけた。ふと部屋の中央に文があるのを見つけた。
開くと女ものの櫛が落ちてきた。桐乃と呼ぶ少女の物だ。片目の男は文を読むと険しい顔になった。櫛と文を懐に入れると身をひるがえしてあばら家を後にした。
満開の桜の下だった。
片目の男は娘の姿を遠目に見た。周りに多くの人間の気配がする、「仇討か……」片目の男は、仇討の書状を握りしめて静かに呟いた。娘は居場所を見つけたらしい。
この場に不要なのは俺だ。片目の男はそう思った。そこに聞き覚えのある声がした「一真眼流一番弟子佐平次!」「恩師の仇!いざ尋常に勝負!」聞き覚えがある声。なぜだどこで聞いた?
片目の男は体中の血が逆巻くような感覚を覚えた。
相手は刀を抜き放っている、片目の男も慌てて刀を抜いた、相手の打ち込みに耐える、不利だ。普段は何も考えずに刀を使う、今は切るべきか否かで迷っている。迷いのある剣は危険だ。
何度かの打ち込みをかわした後、不意に閃いた。あの声は俺に命じた声だ。あの武芸者を殺せと。金はいくらでもあると。
野良犬のような素浪人を集め、あの娘の父親にけしかけたのはあの声ではなかったか?今度は体中の血液が沸騰するような気がした。何故だ?どういうことだ?微かに感じる勘をたよりに男は刀を振るった。
一番弟子佐平次と名乗った男はすんでの所で後ろに下がった。周りから無数の剣士が群がった。片目の男は叫んだ「どけ!その男に用がある!」
片目の男は刀を反対に持ち、峰で剣士達を打っていった。佐平次は娘のそばに寄る「逃げろ!!」片目の男は叫んだ。娘は何のことかわからず、棒立ちだった。
佐平次は娘の襟首を掴むと首筋に刀を当てた。「たしかにこの男は強いですね」「この娘の命を助けたければ、この場で自害なされ」片目の男の動きが止まった。
「どういうこと?」娘は暴れた「桐乃のお嬢さん、貴女の父上は立派な剣士だった。だけど少し頭が固かったのです」「我々は新しい風を一真眼流に入れたかった、だから消えてもらったのです」「貴女も大人しく我々に着いてきなさい、そうすれば悪いようにはしません」
片目の男の刀が翻った。切っ先がまっすぐに佐平次の方を向く。「女を離せ」男のたった一つの瞳は怒りに燃え上がっていた。
死闘が終わったのは日が暮れて夕闇があたりをすっかりつつんだ頃だった。桐乃は乱暴に投げ飛ばされて気を失っていた。冷たい夜風が吹き桜の花びらを舞い上がらせた。
彼女の周りには佐平次の“仲間”の死骸が累々と積まれている。桐乃は片目の男を探した。一段と大きな桜の木の下に人影があった。桐乃はそれに駆け寄った。月明かりが眩しいほどあたりを照らしていた。
片目の男は上を向いて座っていた。「しっかりして!」男の足元には佐平次が居た。すでに体は冷たくなっていた。娘の目には大粒の涙が溢れ出た。「ごめんなさい!」男の手が動いた、静かに持ち上がると桐乃の方に伸びた。桐乃はその腕を取った。
「いい仕事が見つかったんだ……」片目の男は、そう言うと笑った。
一真眼流の後継者は最も強い剣士とする。桐乃の父は生前そう宣言した。自分すらも凌駕するそのようなものが一真眼流の後継者には相応しい。だが残念なことに弟子たちにそれほどのものが居ない。
もし、それほどの強者が現れたら一真眼流の看板だけでなく、愛娘もくれてやってもよい。そう桐乃の父は常々話していたそうだ。
<了>2015/9/26
2016年1月29日加筆修正。
「片目の面」