「疫病神のルア」
早朝の市場は人で賑わっている。砂漠のオアシスの街に、東西南北あらゆる場所から行商人が集まって来るのだ。市場といっても皆が好きな場所へ気ままに布を敷き、売り物を並べている。北からの遊牧民は家畜の毛皮や乳製品を売っている。果物や穀物を並べているのは南から来た者だろう。東洋の陶器や絹を売るもの、西から見事な工芸品や織物を待ってきている者もいる。
俺は駱駝を引き、空いている場所がないか探した。できれば日陰がいい、だがそんな上席はとっくに他人が占領している。少し外れになるが建物の影に入れそうな場所を見つけた。ちょうどいいと思って駱駝の綱を引っ張ると、こいつがピクリとも動かない。駱駝は頑固な生き物だ。
「あそこにいい場所があるんだ、もうちょっと歩いてくれ。」俺は駱駝に懇願し、祈りを捧げ、綱を思いっきり引っ張ったり、尻を蹴飛ばしたりしたが、駱駝のやつは頑として動かない。長いヨダレを引きながらクッチャクッチャと何か噛んでいる。畜生…。
「兄さん、そうなったらもう無理だよ。」近くの商人が俺に話しかけてきた。「そいつは日暮れまでここを動かないよ。」周りの連中が笑っている。「ここの隣で良かったら少し開けてやるよ。」俺は商人の男に礼を言って店を出させてもらうことにした。そこは日を遮るものがない、土煙のひどい場所だったが仕方あるまい。駱駝から積荷をおろし土がかぶらないように気をつけながら干からびた草を並べる。気の良さそうな商人はゆっくり水タバコをくゆらせながら「ふうん、お前さんは薬草売りかい?」と聞いてきた。
そう、俺は街道を歩きながら野山で薬草を集め、こういった市場で売る薬草売りだ。「そうだけど、何か欲しいものがあるのかい?」俺はフードを深めにかぶって強くなってきた日差しを遮った。「うーん。お前さんは全身に腫れ物ができる病を知っているか?」「それを治す薬を探している奴がいるんだが…。」ふうん…。「そりゃ腫れ物に塗る薬ならあるが…。どんな病か見てみないと効くかわからねぇな。」
市場は早朝から昼が一番賑わう、俺の薬もよく売れた。そのかわり昼から午後は人通りが途絶えすっかり暇になる、儲けが良かった奴はここらで店をたたんじまう。俺が昼飯を調達しに行こうかと考えていた時だった「さっきの話だが…。」また商人の男が話しかけてきた。「時間があるなら診てくれないか?」
俺は店をたたみ駱駝を連れてその男の後をついて行った。駱駝のやつコロッと機嫌が良くなって、すたすた付いてくる。男は街の奥へと向かう、市場の中でもケモノの匂いが強く、駱駝や馬や羊なんかの声がする。家畜の市場かと思った。「あいにくだが家畜の薬は持ってないぜ。」男はわかっているとばかりに手を振った。そのまま家畜の市場を通り過ぎると薄暗い路地に入る。大勢のざわめきと人の気配、強い異臭。「もしかして奴隷の市場か?」男は頷き、さらに奥に進んだ、俺はむせ返るような人間の臭いに手で鼻と口をおおった。横目で奴隷達を見た。多くは鎖や縄につながれて檻に入っている。子どもから大人まで肌の色も様々な奴隷が死んだような目で自分に値がつくのを待っていた。奴隷と普通の人間を見分けるのは、両手の甲に押された焼印だった。この焼印がある限りそれは奴隷であり、誰かの所有物であり、野良であれば自分のものにしてよく、家畜と同じ売買の対象だった。一度、奴隷になった者は死ぬまで奴隷であり、より良い主人に使えられることが、彼らの唯一の幸せだった。こういうところは妙な病気が流行りやすい。売り物にならない死にかけた奴隷がそこら中に転がっている。俺はそんな物体を踏まないように気をつけて歩いた。
「どこまで行くつもりなんだ?」俺はいい加減気分が悪くなって男に声をかけた。暗い路地の先、奴隷市場の終わりの方で男は一人の奴隷商人と話していた。「薬草売りを連れてきた、一度診てもらったらどうだ?」俺は遠巻きにそれを見ていた。恰幅のいい奴隷商人は俺を睨むと親指で後ろの檻を指した。檻の中には若い女が倒れていた、なるほど顔や両手足のあちこちが腫れてただれたようになっている。「いつからこんな状態なんです?」俺は女の手を取って脈を調べた。腫れ物は植物にかぶれたように見える「食事は?水は?何か話しますか?」奴隷商人がいうには、ここより東の山岳地帯に住んでいた部族の娘らしい。村が盗賊に襲われてしまい、逃げていた娘をたまたま通りかかって助けたとか。もちろんそんなことは大嘘で、おおかた部族を滅ぼした盗賊から買い付けた戦利品の一人なのだろう。だがここでそんなことを口にするのも野暮だ。
俺は東の方の国の言葉を色々話しかけてみた。どの言葉にも反応しない。女の症状は呼吸が浅く高い熱がある、「もうあまり長くないですね、それにこの腫れ物から出た汁にはあまり触らないほうがいい、同じ病にかかってしまいます。」俺は淡々と告げた。「この檻も次の奴隷を入れる前に、強い酒で拭いたほうがいいでしょう。」俺のその言葉を聞くと奴隷商人は真っ青になった。他の奴隷たちに命じて女を引きずり出し、檻を掃除し始めた。「この娘はどうするんです?」「こんな病気の娘、捨てたら迷惑ですよ。」奴隷商人は忌々しそうに女を見ると「あんた、こいつをどこかに捨てて来てくれないか?」「葬式代は出す」と、金の入った袋を俺に押し付けた。「こいつはとんだ厄病神だ」
俺は街を出て街道を歩いた。駱駝は荷物が増えたせいで不機嫌になっている。俺は上機嫌だった。タダ同然で金が手に入った。一応、治療用の水や酒は買っておいたが、使わなくともいずれ娘は回復する。腫れ物に手を触れないようと言った手前、奴隷商人から頂戴したぼろ布で仰々しく包み、解けないように縄を巻きつけた。娘の足先と髪の毛だけが布からはみ出している。これで土に埋めれば一番簡素な弔い方法でもある。それを駱駝に乗せたあと、さも気味悪そうに両手を酒で消毒してやった。その様子をみた奴隷商人は慌てて同じように酒で腕を洗い始めた。後は逃げるが勝ち、それ以上笑いをこらえきれなかった。女の病気は単なる水不足、熱中症だ。腫れ物は毒草の汁を塗ったのだろう、腫れが収まれば命に別状はない。ようするに仮病だ。この娘は奴隷商人から逃れるためにひと芝居打ったのだ。
次の街までしばらくある。今日は歩けるだけ歩いて適当なところで野宿をしようと思った。この辺は日が暮れると急激に寒くなる。風が防げそうな岩場を見つけそこで休むことにした。草や細かい小枝をかき集めて火を起こした。駱駝は荷物が下ろされて上機嫌だった。俺は女を包んだ布をほどいて様子を見た。それから布に水を含ませて身体を拭いた、肌から毒草の汁を拭き取れば治りも早いだろう。次に強めの酒を布に染み込ませて腫れ物や傷口を消毒した。アルコールがしみたのか女が目を覚ました。俺を見た瞬間に女は飛び起きた。両手首が前で縛られ、両足もしっかり縛られているのに、俺から離れようともがいた。
「上手いことやったな、お前」俺は話しかけた「誰が見ても重病人だったぜ」俺は昼間のことを思い出してまた吹き出した。女は怪訝な顔をしている、言葉が通じないのだったか。俺は水筒を出して「飲むか?」と聞いた。「水」という単語を色々な部族の言葉でいってみた。女は反応しない、商売柄いろいろな部族の言葉を知っているが、どれにも当てはまらないらしい。俺は水筒の水を一口飲むと女に渡した。女は受け取ると匂いを嗅いだ。中身が水であることを理解すると静かに飲み始めた。俺は女の風体を見ながらどの部族か考えた。一番変わっているのは髪型だった。長く伸ばした髪を後ろで一まとめにして、三つ編みにしてある。髪と一緒に染めた糸や、細く織った布を編みこんである。それを尻尾のように長くたらしていた。女は水筒を俺に返した「カウラ」つぶやくようにいった言葉にはやはり聞き覚えがない。礼だろうか?
日が暮れてしばらく経つ。明日は早めに動きたい「俺はこっちで寝るから、お前はその布を身体に巻きつけて寝ろ」「いっておくけど、逃げても死ぬだけだぞ、この近くに街はないし」俺は自分の手の甲を叩きながらいった「お前にその焼印がある限り、どこに逃げても奴隷にされるだけだ」そうして俺は自分の毛布を身体に巻きつけ横になった。
女はしばらく俺を見ていたが、やがて布を整え身体に巻きつけると同じように横になった。「パ・カミン・テルラ・アタ・キキロ・ク」そう女がつぶやくと遠くで犬の声がした。犬の遠吠えは一晩中聞こえた。女は小声でその呪文のようなことばを唱え続けた。
夜明けが近づくと急激に寒くなる、俺は寒さで目が覚めた。女を探すとどこにも居ない。「あいつ!」俺は腹立ち紛れにその辺を探した、空にはまだ星が輝いていたが女が這いずっていった後はすぐに見つかった。同時に無数の野犬の足跡があった、この辺に野犬が出るなんて聞いたことがない、それも群れなんて。俺は急いで女を追いかけた、岩をよじ登ると眼下の砂地に黒い霧のような塊が見えた。ちょうど砂と岩の陰に隠れてよく見えない。俺は声をかけ近づいた。眼の良さには自信があったのに近づいても黒い霧が何か解らない。無数の黒いブヨがたかっているのだろうか。霧は俺が近づくにつれ薄れていった。音も何もなく消えた。女はそこに倒れていた。周りには犬の足跡が無数にある、女に大きな怪我はないようだった。手や膝にすりむいた傷があったが、これは這いずった時にできたのだろう。頬を叩いて女を起こした。「何があった?」と聞いても意味のわからないことばが返ってくるだけだった。足の縄をほどいて立たせると「今日は街まで行く。さっさと出発するぞ」といって女の手の縄を引っ張った。
夜明け間近の街道を歩きながら、俺は女にことばを教えた。水筒を指し「水」といった。女はしばらく考えて「みず」といった、次に駱駝を差して「駱駝」といった、女も「らくだ」といった。「空」は「そら」、「太陽」は「たいよう」。俺は自分を指して「トルド」と名乗った。「トルド?」女は聞き返すと、しばらく考えて「やくびょうがみ」といった。「なんだって?」俺が聞き返すと、自分を指し「アモ、疫病神、クルア、イ。」俺を指し「アム、トルド」、自分を指し「アモ、疫病神、ルア」といった。さらに「アモ・ク・ルア」「テハ・ヤ・アモ・ウトミチヒ」…さっぱりわからない。どこの少数民族なんだか、秘境の民族なんだか知らないが、ここまで話が通じないのも珍しい。だが疫病神という言葉は気になった。こいつを連れていた奴隷商人もこの女を疫病神といっていた、これまで散々投げつけられたことばなんだろうか。急に今朝の黒い霧や、謎の犬の足跡を思い出すと背筋が寒くなった。
差し当たっての呼び名が欲しい、とはいえ疫病神と呼ぶわけにも行かない。「ルア」さっきからルアって言っているからルア。よし決めた。「俺はトルド、お前はルア。」女はルアと名付けられてまじまじと俺を見た。そしてすごい剣幕で叫びだした「アモ・ク・ルア!、疫病神・ルア!」「アム・クトミチヒ!」「トルド・クトミチヒ・ガガ!」…だからワカランってば。日差しが強くなってきたので休む場所を探すことにした。街道には真新しい駱駝の足跡がある。大きなキャラバンが通ったばかりのようだ。それに合流すれば何かいい情報が聞けるかもしれない。俺はルアに布をかぶせて巻きつけた、直接日差しを浴びると体力の消耗が激しい、自分もフードをかぶり直した。砂漠で一番の疫病神は砂嵐だ、今は天気が良くても、地平線の向こうから大嵐が近づいているかも知れない。
しばらく行くとキャラバンの一行が休息していた。俺たちもそこで休ませてもらうことにした。いくつかのタバコと薬草を売り、彼らの旅の話を聞いた。「ここら辺に犬が増えたって話は聞かないよ、こんな所は犬どころか狼だって暮らせない。獲物が少なすぎる。」陽気な男が楽しげに話してくれる。「だが、黒い犬が走るって言い回しを聞いたことがあるな。」タバコを吸いながら男がいった。「それってどんな意味なんですか?」「大砂嵐のことだよ。どこかの部族がそういうんだ、ク・ガガラミとかいったかな。」ルアがピクリと反応した。「ク・ルア、アモ・ク・ルア!」男に喰ってかからん勢いで飛び出したルアを間一髪引き止めた。「何だお前?」俺はルアを押さえ込みながら「なんでも無いんです。スミマセン」ルアを引きずって男から離れた「大人しくしてろ、話しにくくなっただろうが」俺が怒るとルアは悲しげにうつむいた。「アモ・ク・ルア…」そしてぱっと俺を見ると「トルド…みず。」といった。俺は水筒を渡してやった、飲みすぎるなといったのに、ルアは喉を鳴らして飲んだ。
夜には次の町に着くことができた。今日の間にルアは色々な言葉を覚えた、俺は宿を取ると部屋で売り上げを数えた。ルアはそばで見ている。俺は「ク・ガガラミってなんだ?」と聞いた。「だめ」退屈して薬草を触っていたルアがいった。「そのことば、いう良くない」「ク、ことばわかる」「トルド知らない、ク、良くない」「大きな砂嵐のことじゃないのか?」「あらし?わからない。ク、恐ろしい。」ルアは薬草の埃を取っている。「これ、カリア?」乾燥した赤い実をつまんでルアは聞いた。「それはルサの実とかラグっていうよ。君のところではカリアの実なのかい?」ルアはうなずいた、「これ、大切なもの、少ない、病気の時、食べた。」それは俺が遊牧民族から交換でもらったものだったが、非常に貴重な物だといっていた。人が行けないような断崖に生える草の実で、彼らもめったに採れないといっていた。「ルアはその実が採れるところで暮らしていたのか。」
俺は金を入れた袋を枕の下に隠して寝ることにした。寝床に寝転がると「ルアも一緒に寝るかい?」といって布団を叩いた。ルアはしばらく考えて首を横に振った。自分の手の甲に押された焼印を見つめ「わたし、トルドの召し使い、でもルア違う。」「わたし、ルア、クのルア、トルド違う。」構わず俺はルアの手を引いた。「私に触る、良くない、ク、トルド、大切なもの、食べる。」ルアは俺の手から逃れようとした。肌の腫れ物が引いたルアはなかなかの美人だった。奴隷商人はそれを知っていて、薬草を与えてでも回復させたかったのだろう。「俺はルアを食べたいね。」「トルド、だめ。」暴れるルアを押さえつけて、俺は彼女をめいっぱい可愛がった。事が終わるとルアは寝床から逃げ出して泣き出した。「トルド、良くない。」「ク、来る。」それからのルアは何をいっているかわからなくなった。何か呪文のようなことばをつぶやき続けた。俺は旅の疲れと久しぶりの行為で、倒れるように眠ってしまった。
次の日、朝から風が強く吹いていた、宿の主人は「今日、出発するのは良くないです、これから荒れますよ。」といった。多くの商人やキャラバンが強風で足止めされていた。夕方には止むだろうというのがおおかたの予測だった。ルアは部屋でずっと泣いていた。俺もいい加減バツが悪くなって「昨日は悪かったよ、謝るから泣かないでくれよ。」と慰めた。「トルド、知らない、何も知らない、大きなク、来る。」「トルド覚える、私のことば、今日、ずっと話す。わかる?」「わたし、ク、たのむ、トルド食べない、ここの人食べない、ここの家食べない。わかる?」わからん。わからんが困ったことになりそうなのは解った。
俺はルアの指図で動いた。「強い家いる。」宿の主人に聞くと、この街で一番頑丈な建物はモスクらしい。「そこに人、行く。」町の人をそこに避難させろということだろうか?俺が言うまでもなく人々は頑丈な建物に避難を始めていた、その頃には空が禍々しく曇り、遠くから大きな唸り声のような音が聞こえていた。「こんな風の音は初めてだよ。」宿屋の主人も不安げだった。
「トルド、覚える。」ルアが不思議なことばを話しだした。「イダ・オ・ク、アモ・トルド・ク・ルア、アラクル・マイ・カカ・ララシム。ヨキ・ギョラミ・ガガ・イ。イダ・オ・ク・ナギヤ。」俺は慌てて書き取った。何度か読み上げ確認を取った。「そのことば、ク、去るまで、話す。わかる?」俺は頷うなずいた。ルアは奴隷商人からもらった布を部屋に広げた。それは汚れていたが無地の木綿で真四角に近かった。「ク、去る、私の髪、切る、トルド守る。道、迷わない。」どこから借りてきたのかルアは手に皿とナイフを持っていた、そしてあろうことか自分の舌先をナイフで切り落とした。「ルア!」しばらくしてルアは皿の中に血を吐き出した。そして自分の髪の毛を持つと毛先を皿の中の血に浸して、布に模様を書き始めた。
中央に大きく丸い円。その周りを囲うように三角形と逆三角形。三角は重ねられて六つの角のある星型になった。円の中に狼のような獣の絵、周囲に様々な模様。そして文字らしきもの。全て書き終わるまでかなりの出血をしたらしく、ルアはふらついていた。残った血で俺の顔に模様を描いた。自分の顔にも模様を描く。外を吹く風は物凄い強さになっていた。宿屋の窓や扉から砂混じりの風が吹き込み、建物全体が不気味な音を立てていた。ルアの指示で俺は宿屋の玄関に向かった。ルアはさっきの布を持ち、玄関の広間に広げた。風で飛ばないよう布の四隅に石を置いた。宿屋の玄関では不安になった宿の客が集まっている。「何をやっているんです?」という誰かの問いかけに俺は「風を押さえるまじないだと思います。」と答えるしかなかった。「トルド、ここに座る。」ルアは布の中央を示して「トルド、あのことば、ずっと話す。ク、トルド、ここの人、食べない。」そう言い終わるとルアは玄関の前に座り、彼女のことばを喋り始めた。「パ・カミン・テルラ・アタ・キキロ・ク。」扉の向こうで風が唸る。それに答えるように彼女は喋り続けた。
それから先を俺は思い出したくない。風はどんどん強くなり宿の扉に何かがぶつかる音が聞こえる。人々は異様な雰囲気に恐れ、皆が神に祈りだした。そんな中で俺はルアの教えてくれたことばを唱え続けた。それがどんな意味かも知らずに、自分が助かりたい一心で唱え続けた。外で人の叫び声が聞こえた、風にさらわれて飛んだのだろうか。ひときわ大きな音がして宿の扉が大きく歪むと砕け散った。強風と共に、黒い砂が宿の中に入ってきた。ルアは一瞬で黒い砂に包まれて見えなくなり、風に吸い込まれるように消えてしまった。黒い砂は彼女だけを狙ってさらったようだった。外からはルアの声が聞こえていた。やがて声は風の音にかき消され、外は夜のように暗かった。
あまりの恐ろしさに誰も玄関の外を確かめようとしなかった。俺は俺だけはルアの姿が見えた。彼女の体は風にあおられ、建物の壁に叩きつけられた。そこから落ちざまに風に飛ばされ、別の建物にぶつかった、猫が捕らえた獲物をおもちゃにするように、黒い風は彼女の身体で遊んでいるようだった。やがて地面に落ちたルアの身体に黒い砂が集まってきた。形が定まらない砂は、黒い犬が群がるようにも見えた。俺は必死で呪文を唱え続けた。黒い砂が消え、風が収まり、空が明るくなるまで唱えた。口がカラカラに乾いて、砂でじゃりじゃりしている。黒い悪夢が全て収まった時、俺は疲れ果て倒れ込んだ。ルアはどうなったのだろうか、俺は身体に鞭打って外に出た、さっき黒い犬が群がるように黒い砂に包まれていたルア。外の景色は一変していた。いくつかの建物が壊れ、木は折れ、全てが砂に包まれていた。俺は砂をかき分けルアの姿を探した、恐らく生きてはいない、見るに耐えない姿だと思う。俺が必死で探し出したルアは、身体の水分が全て奪われ、干からびていた。この短時間に何が起こればこうなるのか見当もつかなかった。髪だけが綺麗に結われたまま彼女の面影を残していた。この髪を切れとルアはいっていた。
俺はルアの血で模様が描かれた布で彼女の遺体を包み、砂の後始末で忙しい街をひっそりと去った。この街で死んだ人間はルアだけだった。風に巻き込まれたものも奇跡的に命が助かったらしい。街を出ると遠くに黒い嵐の影が見えた。地平線に消えそうなそれは、巨大な黒い犬が笑っている形のようにも見えた。
俺は街道をあてもなく歩いた。彼女の一族の話が聞けたのは全くの偶然だった。野宿をしていると黒い服を着た男が火に当たらせてくれと近づいてきた。饒舌な男で酒を飲み、珍しいお守りがあるといって、編んだ女の長い髪を取り出した。「ある一族の風習でな、ずっと髪を切らないんだ。その髪で作るんだ。女はそれを編み込んで飾る。そうやっておくと死んでも黄泉の道を迷わないんだと。」「そこから道に迷わ無いお守りとして重宝されているのさ。」俺は不愉快な気持ちになった。「髪を切られた方はどうなるんだ?」「天国に行けず、延々と砂漠をさまようらしい。」「ここから東に行ってみな、そいつらの一族がまだ住んでいるはずさ。」その後も男は何かしゃべっていたが、俺は眠ってしまった。朝日で目を覚ました時にはもう男の姿はなかった。
東の町に向かうと、乞食のような身なりの年老いた男がその一族の末裔だといった。男は俺に煙草を無心した。俺が煙草を与えると旨そうに一服吸い、とつとつと話し始めた。「ク」というのは犬の姿をした神、「ルア」は嫁という意味だが、「ク・ルア」で神の嫁つまり巫女という意味になる。「ク」は激しい嵐の神で嫉妬深く、巫女に選ばれた娘は一生を「ク」に捧げ、男は彼女の姿を見ることもできない。その一族の村はもうない。「儂が今こんな暮らしをしているのも、神の怒りをかったためでな…。」そういうと老人は俺に酒を無心した。酒を飲みながら老人は遠くを見つめるように話した。「儂らは遠くの山で静かに暮らしておった、貧しい村だがク神と巫女のおかげで災害からは守られていた。」「ある日、外から来た人間が村の秩序を乱した。」「そいつらは巫女を汚し、村を破壊した。ク神は怒って…。」「黒い風で村ごと人間を吹き飛ばしてしまった。」
俺はルアの教えてくれた呪文を唱えて、老人に意味を問いかけた。老人は目を丸くして驚いた。「それは呪いの文句だ。」どんな意味だ?と俺は聞いた。老人はしばらく黙っていたが、やがて怯えた声で話しだした。「偉大な、黒き、クの神よ、私はトルドという者です、あなたの力をお貸しください、彼の者へ復讐を、骨も肉も血も砕き、残らず屠って下さい。偉大なるクの神の怒りをお示しください。」俺は寒気がした。「あんた、この文句を誰に聞いた?」ク・ルアと名乗る娘だというと、老人は頭をかかえた「その娘はどうなった?」「死んだ。」俺はルアが死ぬまでの話を老人にした。「そのルアはお前の身代わりになった、彼女の本名は聞いたのか?」いいやと俺は首を振った。「そのルアもトルドという名前だ。」「お前と同じ名前だったから、入れ替わりの呪をかけることができたのだ。」
俺は老人を町外れの人気のないところまで連れて行き、まじないを描いた布で包んだルアの遺体を見せた。遺体は乾燥しほとんど原型を留めていなかったが、老人には解ったようだった。「…ク・ルア。」「この娘を弔いたい、どうすればいい?」老人は首を振った「クの神の怒りに触れたものは死んでも安らぎはない。」「せめて悪霊にならないよう封じるしかない。」だが、うなだれていた老人は突然笑い出した。「クの神は非常に賢く残忍な神だ。儂らは怯え、神の怒りに触れないよう、身を縮めて生きてきた。」「だが、このルアはクの神を欺いた!」「欺いた!人が神を!神を欺いた!」そういって夕闇迫る空に高笑いする老人の姿は異様だった。俺は思い切って聞いた。「娘は死ぬ間際に、自分の髪を切って持っていけといった。だが、その髪は黄泉の国へ行く時の道しるべになるとも聞いた。どうすればいいのかわからない。」老人は目をむき出し笑いながらいった「このク・ルアはもう黄泉の国に行けない。髪をお前に捧げたのなら、それはお前のものだ。」そういうと老人はルアの長い髪をむしり取った。「持っていくがいい、最高にて最悪のク・ルア・・巫女の髪だ。最上級の守りだ。」
「この遺体は儂が葬ろう、酒と煙草に溺れ、一族の誇りを失い、この町で死ぬものと思っていた。だが違った、儂はあんたを待っていたのだ。」「このルアの遺体を葬り、封じるのが儂の仕事だったのだ!」そういうと老人は布ごとルアの遺体を引っつかむと、抱えて走り出した。「待て!勝手なことをするな!」俺は慌てて追いかけた。だが老人は風のような速さで草原をかけていく。老人の行く先に黒い霧が漂い、それが巨大な犬の姿に変わったかと思うと、あっという間に消えた。老人の姿もどこかに消えてしまった。
それから俺は商人として大成功をして多くの富を得た。ルアの髪はいつもそばに置いて大切にした。俺の財産や名声を聞いて多くの人間が集まってきた。多くの女にも出会ったが、妻にしたいと思う者は居なかった。俺の一番古い友達である駱駝は、年老いてますます頑固になり、一流の駱駝使いも頭を抱えている、毎日一流の餌を噛みながら、俺の家の広い庭園でのんびり過ごしている。駱駝がいても俺の屋敷は広すぎて、なんだか寒々しい。そうだな、もう一匹くらい動物を飼うのが良いかも知れない。猫は嫌だな…気まぐれすぎる。そう、犬がいい。賢くて人間になつく犬が欲しい。色はやはり…黒だ。
( 終 ) 二〇一二年一月十一日
2016年1月27日加筆修正。
「疫病神のルア」