濟藤よ、

考えてみれば、いつからか小津の様子がおかしかった。
執筆で忙しいはずなのに、昼食時には必ず私の家にやってきて弁当を広げた。
そのくせ一言も話をせず、ただ時々何かを言いたそうにこちらを見て、口まで開きかけて、何かを飲みこんでいた。
最後の時だってそうだった。これまで小津が誰かを旅行に誘うことなんてなかった。前代未聞の行為だ。
なのに私はその異常さに気づきもせず、顔も見ずにお前の誘いを断った。このことを私は、自ら望んで今後一生悔いていくつもりだ。
お前が私のもとを去って、三日後に汚い手紙は届いた。読み進めるにつれて強くなる筆圧に、私はきっと胸を痛めることすら許されないのだろう。
小津よ、償えないことが一番苦しいことだと知っていて、お前は私に手紙を残したのか。さすがだな。

「濟藤よ、俺はもう二度とお前に会うつもりはない。だから俺はお前にこのような手紙を送りつけるのだ。きっとお前は阿呆だから最後まで読むだろうが、万一この手紙が届く前に阿呆じゃなくなって、読まなかったときのためにここで告げておこう。お前は俺の良き友人であった。最高の友であった。お前との関係を投げ出さねばならなくなった己の弱さを俺は只々呪うばかりである。

 さて、お前が、男と交際していた過去を俺に告白した時のことを覚えているか。神に誓って、俺はあのとき、お前が恐れていたように、気色悪いだとか不潔だなどとは一切思わなかった。濟籐よ、広大なる視野をもつ俺は貴様の性癖ごときで、わざわざ驚いたりなどしないのだ。
そのうえ、当時のお前は東財閥のお嬢さんという、なかなかに性格の悪い女性に熱を上げていたではないか。
しかし、考えてみればあの時お前の性癖に関してなんとも思わなかったことこそが、最大の間違いだったのだと俺は今になって思う。
 お前にとっては苦い記憶かもしれないが、お前が東さんに振られたあの日のことを話させてほしい。あの日引き金を引いたのは、俺か、お前か。それとも俺たちは仲良く声を揃えて、二人で引いたのかもしれない。いずれにせよ、俺だけがいつまでもその銃を握りしめていて、お前は引いた瞬間もう二度とその銃に触れることはなかったようであるが。
お前がかの東御令嬢に無様に振られたあの晩に、自暴自棄になったお前と口付けを交わしたことを、俺はあの日から一年と六ヶ月と十二日たった今でも忘れられずにいる。どうだ、笑えるか。
我ながら女のようだと恥ずかしく思う。何故にお前のような小汚い輩の顔の一部分が同じように俺のそれと触れただけであるというのに、俺はここまで頭を抱えなければならなかったというのだろうか。それが俺は悔しくてならない。そしてまたこのように膨満な己の自尊心が、余計に俺を苦しめるのだ。
お前は俺に悪態をつくとき、必ず欠かすことなく「実力に伴わない自信家」と俺のことを罵ったが、正直それには大賛成であった。胸中を占める自尊心が大きすぎるのだ。だからこそ腹がたったのだ。心中察してほしい。
お前はあの晩散々俺の口内に侵入し、いくらか着物の下をまさぐったあとに、一言だけ謝って、そして床に伏せてしまったが、俺も同じようにあの日は思考回路をぶった切ってすぐに眠りについたのだ。悪夢は目覚めて、お前の家を出たあとから始まった。未だに目覚められていない。
濟藤よ、一番の笑いどころだ。精々笑うが良い。俺はお前の家から帰って、もう一眠りした後から、なんとも奇妙なことに、お前に会いたくて仕方がなくなってしまったのだ。
小説を書いていても手につかず、飯を食っても、書物に勤しんでも、何をしてもお前の声や手先や唇が執拗に俺をとらえて離さなかった。どうだ、気色が悪いであろう。散々これまでお前の横で、何食わぬ顔で飄々としていたこの男の眼差しは、あんなにも近くでお前をいやらしく捉えていたのだ。寒気がするような話であろう。実に不気味だ。俺だって寒気がする。
勿論、そんな己に気づいた矢先、俺は狼狽した。考えてもみてほしい。お前にだ、お前に俺が欲情すると云うのだ。実に滑稽ではないか。これ程醜い話というのもなかなか無いに違いない。お前の過去に対して、とりたてて何も思わなかったというのに、そのような渦中に自分自身が陥ったという真実に対して、俺が己からの許しを得ることは不可能であった。
しかし、まだここまでならば良かったのだ。
俺は実際のお前に会っているときのほうが、俺の記憶からのみ構成される、美しく飾り立てられたお前に会うときより落ち着いていられた。
実物の、なんてことのない唯の男であるお前は俺の感情に大した揺すぶりを与えないからだ。
虚像のお前は、俺の望むように俺の頬を撫で、髪を触り、優しく笑う。
過度に逞しい俺の創造力には、さすがに俺も呆れ果てた。そしてそれは厄介なことにお前に会いたいと強く願わせた。
しかし、実際にお前に会うと、お前は、そのように冴えないただの一研究者であるため、俺はお前に会う時間が長ければ長いだけ、お前への想いを掻き消すことが出来たのであった。
だが、困ったことに、いや、とてつもなくめでたく喜ばしいことであるのだが、俺の小説が近頃ようやく評価を得始め、お前もまた研究とやらに精が出て、俺たちは会う時間がみるみるうちに減ってしまった。
本来ならば「減ってしまった」などという表現を使うのも可笑しいはずなのだが、最後ばかりは俺も己に忠実になろう。とにもかくにも、偽りのお前とばかり会う時間が増えてしまい、馬鹿げた話ではあるが俺はお前への恋心を募るだけ募らせてしまったのだ。
しかしそれでもまだ今のように電話や食事もしないようになったわけではなかったはずだ。
俺はよく連絡もなしにお前の家を訪れては、お前の家で飯を食らい、少しだけくだらない話をしては家に帰る日々を繰り返していた。だが今のようにそれすらも崩れ、たまに一言、二言会話を交わせば、すぐさま沈黙に塗れるような関係に陥ってしまったのは、
 ある日たまたま駅前の公衆電話で話すお前を見たせいであった。
あの時、俺は確かに甘やかなお前の声を聞いた。
 「聞こえないよ?」と受話器に囁くお前のその声色が、「よく言えたね」と優しく細らむその目尻が、俺の一番欲しいものであった。真に嘆かわしくも、俺はなんと、それらを今まで我慢していたのだ。この俺が。その上なんとも信じ難いが、俺は自らのその我慢に気づいていなかったのである。目の前にぶら下げられて、自らがそれらを渇望し、そしてお前のために無意識にその欲望を押し込めていたことに気づかされたのだ。
聞かずともお前は翌日、お前の家で飯を食ったとき、その電話の相手を教えてくれた。
男だと知った途端、落胆した。濟藤、俺はお前には是非とも女性とうまくやって欲しいのだ。俺はその「泉君」とやらが、異性でないことが憎らしかった。
 「可愛い奴なんだ」
白飯をかっ込みながら、嬉しそうにお前は彼の話をした。
俺はお前とその彼の関係性は結局知らないままであるが、結局のところやはりお前はもう彼と交際を始めているのだろうか、それとも春に、お前が彼の居る青森に住み始めてから、お前達の交際も始まるのだろうか。
ひとつ、聞きたい。俺と出会った時から続けているお前のその研究が高い評価を得られた今、お前は次に行く研究所を選べるらしいが、何故にお前はそこに青森を選んだのか。雪国に憧れを抱いていると云ってはいたものの、確か出会ったばかりのお前は、奈良を希望してはいなかったか。何故、青森になったのか。彼以外の理由があるならば、是非とも知りたい。
濟藤よ、俺はお前が卓上に放っていた手紙を読んだぞ。もし、お前がその「泉君」とやらをからかっているだけなのだとしても、彼はきっとそれを赦さないであろう。お前はもう彼から逃げられない。それにしてもその「泉君」とやらも、なかなかに賤しいな。なんだ、あの稚拙な小説は。いや、あれは小説と呼べる代物ではない。単なる君への白々しい恋文だ。彼が小説を、手段に、そして君が彼の望むような反応を示さなかったときの、君に振られたときの逃げ道として使ったことを、俺は一人の小説家として赦さない。
それにしても、お前が憎い。何故、同じ男で、同じ物書きであるのに、お前はその甘美な声や緩やかな口元の弛みをこの俺に寄越しはしなかったのか。候補に名乗りでなかったことが問題か、それとも、お前はもしかしたら素直と評価しているかもしれない、青森の青年のような、沢山の計算によって生み出される初々しい反応を俺がお前の行為に示さなかったことが問題か。俺も、お前と目が合った瞬間、頬でも赤らめればよかったか?
馬鹿馬鹿しい。気色悪い。
お前は、ここまでの俺の独白を聞いて、どう思っているのだろうか。衝撃を受けているか?それともやはりと頷いているだろうか。
 きっと後者でないかと思う。何故なら「泉君」を貶した俺自身も、十分な逃げ道を作ってからお前に俺の胸の内を仄めかしたことがあるからだ。忘れられん、どうしていいのか解らん。と酒の勢いに任せて呟いた俺を、お前は見逃さなかっただけでなく、焼酎を飲んで、熱くなった掌で俺の手の甲を覆い
「どうなりたい?」
と尋ねた。俺はお前ほどの自己愛者を知らない。
お前は結局、お前が恍惚できるほど自分を好いてくれる奴ならば誰でも良いのではないのか? そう思うと俺も泉君も実に哀れだな。俺がお前への気持ちを吐露できなかった理由はこれもある。悔しいではないか。自己愛者の自己愛の道具に俺の愛が使われるなんて、反吐が出る。きっと泉君はお前のそういう一面を知らないであろう。だから、あんな文章が書けたのだ。
だが、濟藤よ、俺は知っている。そしてそれでも俺はお前が好きだ。だが、同時にそれと同じくらい俺はお前が憎い。
お前を誰にも傷つけさせまいと強く思っているのに、お前が俺に傷つけられるのは嬉しくて堪らない。ここ暫く、お前への罵倒が激しかったのはそのせいだ。俺の言葉でお前の表情が変わるのが嬉しかった。すると今度は俺はそんな俺を憎むようになり、罪悪感に蝕まれ、お前に会うのが苦痛でしかなくなった。
こんなのはもう愛とは呼べないであろう?
お前がそんなに熱心に取り組んでいる研究も、出来るならば大した評価を得なければ良かったのにとまで思っている。己のためにお前の不幸を望んだ時点で、俺はもうお前を一方的にでも愛する資格はない。
断言しよう。泉君は、お前が彼に心地よい緊張感や背徳感から来る快感を与えるから、お前に好意を抱いているのだ。そしてまたそんな自分を愛してもいる。そうに違いない。あの手紙で全て分かった。 お前たちはなかなかお似合いであるとは思う。
だが、お前たちが決して幸せになることはないであろう。お前のことを本気で慕うならば、お前が女と結ばれることを願うはずだ。それを一瞬たりとも願わずにお前に求めてばかり居る彼は、絶対にお前の負担になるに決まっている。
それでもお前が彼を選ぶならば、お前が途方に暮れたとき、そんなお前を、俺は指を指して笑っていると思ってくれて構わない。
 「ざまあみろ」
と嘲笑ってやる。
濟藤よ、俺はお前が好きだ。愛している。だからこそ俺と結ばれることを望んだりなんぞ俺はしなかった。だからこそお前が男と結ばれるのが非常に不愉快である。勝手であろう。
濟藤よ、どうか忘れないでくれ。この身勝手な臆病者を。お前と出会って3年とすこしがたつ。お前を厭らしい眼でみている時期が、お前を友人として見ていた時期を越してしまう前に、俺はお前の前から姿を消したい。
血迷って、最後の記念にと、研究に励むお前を旅に誘ったりしたが、断られて踏ん切りがついた。馬鹿な真似をしてすまなかった。濟藤よ、どうか忘れないでくれ。お前を憎み、愛し、幸せを願っている男が居ることを。一度で良いからその名を呼んでもみたかった。 
 さらばだ、濟藤。」

濟藤よ、

濟藤よ、

こんなのはもう愛とは呼べないであろう?

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-28

Copyrighted
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