MorroM

第一夜 厚恥無顔

 畳の上で無防備に俯せになるのは、果たして何時以来のことでしょうか。頬に当たる藺草の凹凸の感触を少しばかり名残惜しく思いながらも、私は徐に体を起こしました。
 見回せば、そこは、久しく訪れることのなかった父方の実家にある、小ぢんまりとした和室でありました。幼い時分には帰省の度にこのような畳の部屋で無邪気に寝穢い姿を晒していたものですが、ある程度年齢(とし)がゆくと分別と羞恥とがそれを許さなくなり、藺草の香りで胸をいっぱいにする機会も絶えて久しくなっておりました。
 私は、畳の香りや感触こそ好ましく思っておりますが、元来この実家そのものを居心地良いと感じてはおりません。それはこの場所が、幼かった私にとっては、悶着ある大人達の寄合の象徴として強く印象に残されている為でしょう。よく眠っていたのも、子供にとっては気疲れの裏返し。幼心にも肩身の狭さをひしひしと味わわされたこの家は、後々まで私に大きな影響を与え続けたのでした。
 人にとって、ある特定の音楽や香りは、過去の記憶と結びついて別の場所や時間を想起させる触媒となり得ます。そして、私はそうした何かによって意識を実家へと連れ戻されることに、多大な不快感を覚えるのです。
 仏壇などは、その良い例です。詳しい宗派まで語ることはしませんが、祖父母は共に敬虔な仏教徒でした。私が父母に伴われて帰省をした折には真っ先に仏間へと通されて、合掌をするよう言いつけられたものでした。その記憶は、今も私を辟易とさせます。
 念の為、明言しておくことにしましょう。私は決して、仏壇に線香をあげたり手を合わせたりすることそれ自体を嫌っていたわけではありません。ましてや、仏様に対して怨みを抱いたことなど皆無です。そのことは――あまりに妙な言い様ではありますが――神に誓って本当だと言えます。ただ、幼かった私にとって仏壇という存在が、これから始まる窮屈な大人達の時間を予感させていたことを理解していただければと思います。
 そして、今私が目覚めた場所というのが、まさにその仏間なのでした。
 ここには、いたくない。私には、そう感じてしまうのを止めることができません。半ば助けを求めるようにして、周囲を見遣ります。奇麗に掃かれた畳が敷かれ、仏壇が設えられた和室。物は少なく、ほんの幾つかの飾り物だけが部屋の隅を彩っております。それは、記憶のとても古い部分に染みついた光景です。この部屋を出ようと思えば、その方法は三つほど挙げられるでしょう。天井や床に穴を開けるような非常識な手段は、予め除外させていただくとして、ですが。
 まずは、雨戸を開けて外に出てしまうという手がございます。単純にして明快と言えるでしょう。この家屋そのものを離れてしまうのです。しかしながら、今の私には外を歩き回る履物の用意がありません。裸足で辺りの砂利道を彷徨うことが名案だとは、私には到底思えませんでした。
 さらに言えば、この家を出たとて、私は自分がどこか別の場所に行き着けると信じきれなかったことも否めません。実家というのは、幼い頃に両親に連れられて訪れていただけの場所。時に燥ぎ、時に眠り、いつも気づけば辿り着いているだけの場所。私にとっての実家は、ただその場だけで存在している、一つの非日常とでも言うべきもので、私が日常だと感じている家や学校、公園とは隔絶された別の世界なのです。ですから、例え私が延々と道を辿っていったところで、私の暮らす世界に繋がっているようには思えなかったのでした。
 では、少なくともこの部屋からは出て行って、別の部屋へと移動することにいたしましょう。それならば、足を汚す必要もありません。何より、誰か他の人を見つけられるかもしれないのですから。
 仏間を去る二つ目の方法は、廊下に出ることです。廊下は、広い家屋に相応しい長さを誇り、ありとあらゆる部屋へと通じております。そこからならば、どこへ行くも自由です。しかし、勇んで廊下に面した戸を開けた途端、私の足は止まりました。視線の先、廊下は、どこまでも冥く続いておりました。
 実家の廊下というのは、こんなにも黒々として、行き着く先の窺い知れないものだったでしょうか。必死に記憶の糸を手繰りますが、答えは出ません。この漆黒の中へと足を踏み出すことに、私は恐れを抱きました。例えこの先で誰かに会えたとしても、それは暗闇に棲まう異形の存在でしかないような気がしてしまったのです。これ以上は、奥を覗き込むことさえ忌まわしく、私は早々に戸を閉ざしました。
 一つ深呼吸をし、気持ちを落ち着かせます。
 まだ、大丈夫です。廊下を通らずとも、ここを出る手はもう一つ残されております。襖を開けて、隣の和室へ入れば良いのです。むしろ私は、最初からそうしておかなかった自らの愚を恥じる気持ちでおりました。こんなにも易い手段を前にして何を迷うことがあったのか、甚だ不思議でなりません。私は襖の前に立ち、願うような気持ちでそれを開きました。
 果たして、そこには明りもついた、人心地のする部屋が待っておりました。
 そこもまた、仏間と同じ造りの慎ましい和室でございます。ただ、その部屋には、私の息を詰まらせる偶像も、古臭い置物もありません。置かれているものと言えば、この家を訪れていると思しき客人達の荷物くらいのものでしょうか。
 その光景に俄然、安堵に包まれた私の耳に、人の声らしき物音が届きました。音のする方へと目を遣れば、それはさらにもう一つ奥にある、障子の向こうの和室からしているようです。明障子の和紙が、奥の部屋に待つ明りを、目に眩しく伝えております。その暖かな光の中、人々の動く影が朧気に見て取れました。
 私の記憶が正しければ、そこは大きな卓や照碑(テレビ)が置かれ、居間として用いられていたはずです。同時に、それは、大人達が雁首を揃えて談合に勤しむ場であることも意味していました。ですが、今までの心細さが勝ったのでしょう。私は何の躊躇いもなく和室をまた一つ抜け、障子を一思いに開きました。
 はてさて、そこには、血を分けた私の家族と思しき人々がおりました。
 思しき、というのは、そこに座って食卓を囲んでいるのが真実私の家族達であるという確証が得られなかったが故です。人間が人間を特定の個人として認識するうえで重要な役割を果たしてくれるはずの表層が――いえ、迂遠な物言いは止めて、端的に申し上げましょう――彼らからは、「顔」というものが欠落しておりました。
 面相を欠いた人間、「のっぺら坊」と呼べばよろしいのでしょうか。家族の姿に似た彼らは目鼻も口もなく、ただの皮膚の凹凸を蠢かせて家族団欒の体裁をつくっております。
 食卓には、それは豪勢な食事が色も鮮やかに並べられております。しかし、それが彼らの口に収まることはございません。何しろ、口のあるべき場所にも膜が張り、浅く窪んでいるばかりなのですから。お寿司もお煮しめも、形ばかり口元に運ばれては零れ、膝の上へと降り積もってゆきます。
 また、口が口として機能していないが故に、彼らの団欒には、声もまた介在してはおりませんでした。私が障子越しに聞いた人の声は、どうやら照碑からのものだけだったようです。
 私が底知れない気味の悪さに立ち竦んでいると、彼らが揃ってこちらに顔を向けました。髪型や輪郭、体型に服装――そうした諸々から察するに、祖父母と両親、それに叔父母までもが揃っているようです。全て憶測に過ぎませんが。
 私の方へと向き直った彼らは、各々に顔の形を歪めました。もしかすると、それは歓迎の笑顔だったのかもしれません。あるいは、遅れてきたことを叱責する顰め面や、子供の無礼に対する呆れ顔ということもあり得たことでしょう。しかし、その真意は私には推し量れません。皮膚が引き攣り吊り上り、(よじ)れただけの真っ新な面。そこには、一片の人間らしさも窺うことはできませんでした。
 しかし、彼らが私に何かを訴えかけているような感じは、どうしても拭うことができません。彼らは声や表情といった、伝達の為の機能を喪ってしまった、ただそれだけのように思えるのです。伝えたい思いはあれど、それを共有する術を持たない存在。それが彼らの姿なのだとしたら、それはあまりにも痛ましいと言わざるを得ませんでした。
 耐え切れず、私は目を覆いました。耳を塞ぎました。彼らの歪で声なき銘請詩(メッセージ)から、必死で逃れたいと希いました。できることならば、本当は、自分の目も耳も全て潰してしまいたいと、心からそう思いました。
 やがて、私は、その場の息苦しさに喘ぎ始めました。それはあたかも、彼らをのっぺら坊たらしめている面の皮が私の口や鼻をも覆い始めたかのような閉塞感でした。
 このままでは、私も彼らのようになってしまう。
 そう思った途端、最早私は居ても立ってもいられなくなりました。私は足を踏み出すと、お皿もお盆も蹴散らして卓の上へと飛び上がりました。彼らは私を仰ぎ、顔の凹凸をまた違った形へと歪め直しますが、知ったことではありません。通じないのです。通じは、しないのです。どんなに私が騒いでも、どんなに私が暴れても、あなた達は私に何一つ、伝えられはしないのですから。
 また一品、料理を足で踏み躙りました。裸足の指の隙間から、米粒が抜け出てゆく感触があります。次に汁物のお椀を掴んで、辺りに撒き散らしました。彼らは腕で、顔を庇います。それを見て、私は高らかに笑いました。何もついていない顔など、わざわざ守ったりして。そんなにも人外じみているくせに、仕草がいやに人間じみているのが、滑稽でなりません。そんな倣図(ポーズ)を取るくらいならば、悲鳴の一つでも上げてみれば良いのです。
 そうして、私の頭には、陸でもない考えが浮かんだのでした。彼らに悲痛な叫びを上げさせてやろうという、それは、我ながら幼稚で悪辣な思考でした。
 私は躊躇うことを棄て、祖母らしき人形(ひとがた)に掴みかかりました。そのまま、無邪気な子供が贈り物の包み紙を破り開けるようにして、力任せに祖母の面に爪を立てます。そこにある膜を引き裂いてしまいさえすれば、その中から歴とした人間の顔が現れると、そう信じていたのです。
 ですが、私の指が期待していたものを掘り当てることは、叶いませんでした。祖母は結局、あたかも甚振られた粘土細工か泥人形のように、顔面を抉り取られたに過ぎなかったのです。家族と思っていた人の削り屑が、はらはらと私の顔や体に降りかかります。どこまでも、どこまでも。いくら掻けども、祖母の顔がその奥に隠れている兆しはなく、ただ私の爪痕に沿って、宍色が深く抉れてゆくだけなのでした。
 私は、振り翳した手を力無く下ろしました。その場に崩れ落ち、自分が散らかした残飯と爪を立てた屑の中に横たわりました。ふと、誰かの喧ましく笑う声が、耳に入りました。振り向き見れば、それは、照碑が嗤っているのでした。
 塵に芥にまみれて哭する私を、いつまでも嘲っているのでした。

第二夜 恋に染む

 そこに通う者は皆、品位や知性といったものを以て他人(ひと)を測り、またその価値観故に、自身を律することにも余念がございませんでした。その場所では、外見(そと)内面(なか)も等しく清楚たれと、淑女たれと教え込まれるのです。
 世間では、このような旧弊的な思想を是とせず、個としての自由をより重んじる風潮が強まっているものと思います。しかしながら、この閉鎖的な世界には、そうした新風が吹き込むことはまずありません。誰もがこの小さな世界を、自らを取り巻く全てとして受け止め、その古式ゆかしい伝統に頭を垂れるのです。
 深窓の令嬢達が通うその場所を、人は、「学園」と呼んでおります。
 その学園は、今、変化の時を迎えようとしておりました。それは、まさしく新たな風――それも、熱く猛々しく、お嬢様達に吹き荒んだ暴風でありました。その年度の始め、学園は、外部からの編入生を受け容れることとなったのです。
 彼ら編入生は、「彼」らであるが故に、大きな波瀾を生むこととなりました。つまり、ご令嬢方と編入生達との間には、振る舞いや言葉使いの違いに留まらず、性別という圧倒的な壁が聳えていたのです。それでも暫くの間は、両者共に平静を装って、日常を過ごしておりました。そのように無関心な振りをしながらも、お互いの様子を窺っていたのでした。もっとも、振りの上手さという点では、編入生達の方が幾分か劣っておりましたが。
 先程、振る舞いに違いがあると申しましたが、これは、編入生達の言動が――少なくとも、温室育ちのお嬢様方にしてみれば――幾らか粗野なところが目立って見えたという意味です。したがって、お嬢様が編入生に関心を向ける際には、その目に少しばかりの軽侮が含まれていることが、多々ございました。笑い方に品がないと、会話に学がないと、そう眉を顰めていたのです。まさに、学園の教育の賜物と言うべき、洗練された感性でありました。
 しかしながら、そうした価値観は必ずしも、学園の望んだように全ての女学生に徹底されてはおりませんでした。時に、編入生の短絡さ、素朴さがある種の美徳としてお嬢様の目に映ることもございました。
 ある晴れた日の放課後です。如何にも体育会系然とした編入生の三人組が、互いに戯れ合い、燥ぎ合いながら坂を下っていました。彼らは周囲に憚ることなく巫山戯ておりましたので、近くにいたお嬢様方の何人かは、苛立ちを表情には出すまいと四苦八苦している有り様でした。
 ですが、突然、三人組の中心にいた男子学生が狼狽えたように足を止め、萎らしく口を噤みました。その様子を見た両脇の男子達は不思議そうに友人の顔を覗き込むなどしておりますが、そこは逆に、周囲の女子達の方が察し良く、その原因を見抜いておりました。
 黙りこくった男子の視線の先、坂を下り終えようとしている、すらりとした女学生の姿がありました。そのお嬢様が坂を一歩一歩下ってゆくと、色味の薄い長髪が、その歩調に合わせてたおやかに揺れるのでした。下校中だったそのお嬢様は、先程までの男子達の騒ぎには一切構うことなく歩を進めていたのですが、それが急に静まると、かえって気に掛かったのか、踵を返しました。
 そうして、一人の男子と一人の女子の、視線がついに重なりました。
 男女がお互いに――表面上は――干渉するまいとしていたこの学園での、初めての出来事でした。男子は、もはや緊張で言葉を発することもままなりません。恐らく、自分自身を客観的に観察することさえも、できてはいないのでしょう。傍目には、それは、あまりにも格好の悪い姿でした。しかし、その様子を見ていた女子は、柔らかい笑みを浮かべました。そこには、馬鹿にした様子も戸惑った様子もなく、ただただ純粋な好奇心が浮かんでおりました。
 そのことが、その男子にとってどれほど嬉しかったことでしょう。先程までの緊張も忘れたようで、顔中に喜色を湛え、今にもまた騒ぎ出しそうな様子です。ですが、奇声を発して暴れ回る代わりに、その男子は、女子に言葉を掛けました。それは、世に言う「告白」でありました。単に隠していた事実を打ち明けるという、広義の告白ではございません。野暮な真似ではありますが、はっきりと申し上げてしまえば、それは、紛れもない愛の表明なのでした。
 それから、辺りは一気に静まり返ってしまいました。無音というわけではありません。息を呑む音や小さく囁き合う声が、確かに満ちております。例えるならば、それは、雨音が世界の喧騒を湿っぽく塗り潰してしまう様に似ておりました。
 そう、それはまさに、雨だったのです。
 その瞬間、箱庭の平穏を享受していた世間知らずのお嬢様方に、恋が雨霰と降り注いだのでした。未知の感覚が少女達を濡らし、沁み渡ってゆきました。
 それは、本来ならば、傍から見ていてさぞ甘酸っぱい光景だったことでしょう。ですが、実際に少女達を待ち受けていたのは、あまりに異様な光景でした。告白をされた女子の、少しだけ薄い色の髪が、まるで冷たく浮かされたような水色に染まってゆくのです。根元からではありません。それこそ、雨粒が降り注ぐように、そう言えば聞こえは良いのでしょうが、実際には湿疹のようにして、女子の長い髪が至るところから水色に変わってゆくのでした。
 そして、それは、告白をされた女学生のみならず、それを聞いていた周囲のお嬢様方にも感染してゆきました。こちらで一人が苦しげな呻き声を上げたかと思えば、あちらでまた一人、道端に蹲ります。そうして次から次へと女学生達は崩れ落ちてゆき、その全員の髪が、水色に犯されておりました。
 私は、その穏やかならぬ光景を、ただただ遠巻きに眺めておりました。

 状況の収拾がつくまで、あの水色の病を逃れることのできた女学生達は、談話室で待機することになりました。幸いと言うべきでしょうか、私も今その一行に加わり、どこか覚束ない足取りで階段を下っております。そんな私の傍らで、何人もの少女達が、私を追い越し、階段を駆け下りてゆきました。それはあたかも、あの坂での光景を振り払おうとしているかのように見えました。そこに、普段の優雅な振る舞いの面影はなく、ただの怯えきった小娘達が群れをなしているばかりでありました。
 気が付くと、私のすぐ隣には、ある少女の姿がありました。それは、同じ教室で学ぶ可憐な盟徒(メイト)でした。どちらからともなく歩調を合わせ、彼女と談話室を目指します。その途中、互いの手と手が触れそうになり、私は慌ててそれを引っ込めました。思わず謝罪の言葉を口にしそうになるのも、ぐっと堪えます。きっと、私達はどちらも、同じ気持ちだったことでしょう。今だけは、声を聞きたくはない、と。こんなにも心細い思いでいるというのに、それでも、名前を呼んで欲しくはない、と。
 談話室には、既に大人数が屯しておりました。暖炉の周りを囲み、揺らめく炎に手を翳しております。その様子を尻目に、私達は並んで部屋の隅に向かい、ひんやりとした長椅子に腰かけました。
 隣り合って座っていると、例え触れ合っていなくとも、人肌を感じられるような気がします。そして、それはどうしようもなく心地良いものなのでした。ですが、今の私は、そんな時間にこそ息苦しさを感じてしまうのです。ただひたすらに、彼女を見るのが、心から怖いと思いました。それは、あるいは、彼女の目に映る私自身を見ることを恐れていたのかもしれません。まだ誰にも気付かれていないだけで、もしかすると既に私達のどちらかが、あるいは二人共々、あの水色に犯され始めているのではないか、と。
 暖炉の温もりも届かない部屋の暗がりで、私達は付かず離れず、白い息を零します。内心では、このまま二人揃って、凍死してしまっても構わないと思っておりました。
 どうせ水の色に染まるのならば、二人して氷に鎖されてしまいたい。そんな永遠を望んで、凍えているのでした。

第三夜 関係さん

 私は、その時、薄暗い部屋で他の多くの人達と一緒に、輪になって座っておりました。床からはひんやりとした冷気が伝わってきて、じっとお尻をつけているのが、だんだんと苦痛になり始めていたところでした。
 集まった人々は、全部で二十人といったところでしょうか。集まってすぐ、お互いに自己紹介をしたはずなのですが、誰が誰なのかさっぱり記憶に残っておりません。それは、きっと、私に限った話ではないでしょう。
 ここにいる皆の関心は、もっと別のことに向いておりました。
 怪談に、です。
 斯く言う私も、その道には一家言持っている人間です。だからこそ、今日のこの場に馳せ参じたのであり、私の取って置きの話で誰かの肝を冷やしきるまでは、帰るつもりもありませんでした。
 輪になった好事家達は、引っ提げてきた怪談を順に消化してゆきます。しかし、どれもこれも、どこかで聞き知ったようなものばかり。逆に、誰にとっても初耳であるほど忍知(ニッチ)な物語となると、人を震え上がらせるには今一つ物足りません。座談は、山場を迎えきれないままに過ぎてゆきました。
 そして、語りは、痩せぎすな男の順番になりました。
 男は、何を話したものかと、暫く悩んでいるようでした。それぞれに怪談の数匿(ストック)は用意してきていたはずですが、誰かにそれを先に語られてしまったのか、はたまた皆に与えうる恐怖が不十分だと感じたのか。男は、皆が焦れるほどに長く、黙しておりました。
 やがて、男はぽつりと「関係さん」と零しました。
 その言葉がもたらした衝撃は、私の想像を遥かに上回っていました。怪奇なるものに触れる刺激を何よりの悦びと感じる人間達が、誰も彼も、あからさまに狼狽したのですから。
 恥ずかしながら、私には、皆がそれほどに震え上がる理由が解りませんでした。関係さんなるものが一体何なのか、知らなかったからです。ですから私は、周囲の人々が戦慄く様を、ただ泰然と眺めておりました。誰かに尋ねるという選択肢は、ございません。要は、つまらない意地が、私に知ったかぶりをさせたのです。
 他人の顔を窺いながら、私は関係さんについて想像を巡らせました。あれこれと思案するうちに、関係さんは怪談と言うよりも、都市伝説のようなものではないかと思い至りました。「花子さん」や「鹿島さん」といった類の、近代ならではの恐怖の体系なのではないかと。それならば、私が関係さんの名前を知らなかったことにも、言い訳が立つと思ったのは否めません。
 ざわついた空気は、いつまで経っても、落ち着く気配がありません。いい加減にそれを鬱陶しく感じ始めていた私は、何気なく皆の輪の中心辺りに白い目を向け、そこに、存在するはずのない人影を見出しました。
 そこに立っていたのは、疑いようもなく、関係さんでありました。
 不思議なことです。私は、関係さんの容姿など、知る由もありません。その名前さえ、つい先程、あの痩せぎすな男の口から初めて聞いたくらいです。それでも私には――そして、恐らくは、その場にいた人達の全てにも――それが間違いなく関係さんであることが、自然と知れたのでした。
 関係さんは、ほっそりとした小柄な女性でした。少女と呼んでも通るような稚い顔立ちに、尼削ぎの黒髪が、はらりとかかっています。しかしながら、関係さんはその幼気な面相に反して、あまりにも世に草臥れた風情でありました。その逆符(ギャップ)が、関係さんに何がしか、現実離れした印象を与えておりました。
 関係さんは、彼女の名を最初に口にした、あの痩せぎすな男の元へと歩み寄ると、その正面に立って真っ直ぐに見下ろしました。暫し、二人の目線が絡み合います。それから関係さんは、徐に手を伸ばし、血の気のないその指先を男の両頬に添えました。
「……なし」
 男の口から、掠れた言葉が、紡がれました。
「せんかた、なし」
 詮方なし。そう、言ったのでしょう。何が詮方ないのかも、何故詮方ないのかも、皆目見当がつきませんが。
 関係さんは、男から手を離し、何事もなかったかのように踵を返しました。男は、あたかも関係さんに見えない首輪で牽かれるかのように、つられて前へと倒れ込みました。べたりと冷たい床に頬をつけて無様な姿を晒したかと思うと、男は、のっそりと地面を這って進み始めました。
 誰しもが、息を呑んで、その様子に見入っております。関係さんに付き従う男の「せんかたなし」と呟き続けるくぐもった声だけが、部屋に立ち込めておりました。
 関係さんは、輪の中を巡っては、一人また一人と、連れ立たせてゆきました。その度に、「せんかたなし」「せんかたなし」と唱和する声が大きくなってゆきます。
 そして、とうとう、関係さんは私の前にも立ちました。ゆったりと私の方へと歩を進める関係さんから逃げ出すことが、果たして可能だったでしょうか。或いは、無機質に冷たい指で私の肌を撫ぜる彼女から、目を逸らし続けることが。
 ああ、これは詮方ない。
 どこまでも冥い瞳に奥底まで見透かされながら、そのような諦念が、私に注ぎ込まれてゆきます。こうして、関係さんが背を向けた時には、私にも既に、抗いようのない枷がはめられておりました。
 関係さんに牽かれたのは、どうやら私が最後であったようです。
 関係さんの後に付き従い、不自由な様子で床を這い進んでゆくのは、元から部屋にいた人間のちょうど半数ほどでしょうか。残された人達は、私達を、ただ青ざめた顔で見送ります。それが私には、可笑しくてなりません。彼らには、きっと、理解し得ないことなのでしょう。
 関係さんが、何を求めているのかも。
 何故に「関係さん」で在らねばならないのかも。
 関係さんを取り巻く全てが、詮方ないことであったのも。
 彼らとて、それに気付いてしまった暁には、こうして関係さんに伴われるのを希うことでしょう。ですが、彼らには、その機会は与えられませんでした。
 可哀そうに。ですが、それすら、詮方ないのでしょう。彼らを尻目に、私達は、そこを――私達にとって唯一の現実であったはずの世界を――去ってゆきました。それは、あまりに容易なことでした。そして、不思議と、晴れ晴れとした心持ちであったのです。あたかも、演目を終えた役者達が、列んで観客に挨拶をし、意気揚々と舞台を下りるようでありました。
 私達は、先程までの不自由が嘘であったかのように、歓声を上げて駆けてゆきます。もはや、元より居た場所のことなど、気にも留まりません。ひたすらに、先へ先へと、冥い方へと、私達は呑まれてゆきます。
 しかしながら、そう悪いものでもないと、感じていたのでした。

MorroM

MorroM

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-01-26

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  1. 第一夜 厚恥無顔
  2. 第二夜 恋に染む
  3. 第三夜 関係さん