石の上に一輪の花、揺れて

 石を集めている。
 流行りのパワーストーンなどではなく、道ばたに転がっているただの石ころである。
 それを集めるのには何か意味があるのかと訊かれるが、まったくもって意味などない。
 ただの趣味だ。悪いか。おもしろおかしそうな表情で「変わってるね」という人を、心の中で一蹴する。
 単に石ころを集めているといっても、自分なりのこだわりがある。
 まずは手触り。つるつるした表面なのが好ましい。というのも、石に花の絵を描くときがあるので、ざらざらしていたり、細かな凹凸があると大変描きにくいのだ。まあ、石に花を描いたところで誰かに見せるでもなければ、部屋に飾るでもないのだけど。
 次は、形。
 四角よりも丸がいい。丸といっても玉石では丸すぎて、花は描けない。(花を描くことにこだわっているわけではないが、一度そういうことを始めたら絵が描けるかどうかを基準に選ぶようになってしまった)そうなると飛び石のような楕円が最良であるが、人間に蹴られ、車のタイヤにはじかれ、川の濁流や海の荒波に揉まれ、風に飛ばされ、高いところから落下したり、故意に投げられたりと、様々な苦難を乗り越えてきたであろう、その辺に転がっている石ころから楕円のものは滅多にお目にかかれない。しかし珍しいからこそ、拾い集める側にも熱が入るってものである。
 手触り、形とくれば、あとはフィーリングだ。
 例えば無限にもある河原の石ころを、ひとつひとつ手に持ってその感触を確かめているとき、触った瞬間にこれはと思うものが現れる。肌への吸いつきがよくて、手放すのを躊躇う。石が自分の魅力を、わたしの皮膚と肉とを伝って神経に訴えかけている気がする。
 そうかそうか、キミはわたしに拾われたいのか。
 石がわたしを求めている。そしてわたしも、わたしの手のひらにすっかり馴染んだ石を指で優しく撫でながら、ここで彼を手放したら一生後悔するとまで考える。こうなると表面に多少ざらつきがあり、四角い形をしていて花の絵など描けそうになくても、家に持ち帰ってしまうのである。
 持ち帰った石は水洗いし、用途に合わせて保管箱に収める。保管箱といっても立派なものではなく、贈り物用の平たいクッキーの空き缶だ。これが案外に頑丈で、小学生の時から数えてかれこれ二十年、ところどころ傷や凹みはあるものの、石を保管するだけなので然して問題なく使い続けている。洗って乾いた石は花を描く用、触って楽しむ用、観賞用にそれぞれ保管しておく。
 つるつるした表面に飛び石のような楕円形、さらにフィーリングまで合致する、わたしの選定基準でこの三拍子が揃った石が観賞用に当てはまるのだが、二十年間でまだ十個としか巡り合っていない。希少価値が高い分、ときどき、クッキー缶のふたを開けて眺めていると、平気で二十分、三十分が経過しているのはよくあることだ。そういえば大学生の時、石を眺めていてデートに遅刻したことがあった。石を眺めていたことを正直に告白したら、その場でフラれた。石と俺どっちが大事なんだと彼が叫んだ時点でもう面倒だなと思ったので、ちょうどよかった。
 別に理解してくれないでもいいのだ。
 個人の趣味として自由にさせておいてほしい。ただの石ころを拾い集めているというだけで変人扱いされるのは癪に障るが、興味がないくせに理解を示そうと無理に頑張られるのも腹が立つ。
 その点でいえば、桐山くんとは結婚してもやっていけそうな気がしている。
 桐山くんは会社の同僚で、その仕事ぶりは可もなく不可もなく、出世できそうな感じはしないがクビを切られる心配もないだろう、至って普通の人である。彼との初めてのデートは、釣りであった。
「釣りに興味ある?」
と訊かれ、わたしは首を横に振った。けれども、釣りといえば水辺である。川か、海か、それとも湖かと、わたしは訊き返した。
「海」
 行く。
 わたしは即答した。
 わたしの住んでいる県には大きな川があるが、海はない。手間と電車賃を考えると、そう気軽に足を運べない海へ、桐山くんとならば車で行くことができる。好意を寄せてくれている桐山くんには失礼かなと思いながらも、わたしとデートできるからおあいこ、なんて幽かな罪悪感を都合よく振り払いながら、休日に桐山くんと海に出かけた。ズボンにスニーカーにとちがう意味ではりきるわたしに、桐山くんは到底お世辞とは思えないはにかみ顔で「かわいい」と言った。中学生の男の子みたいで可愛かった。振り払ったはずの罪悪感が今度ははっきりと、石ころよりも大きな岩の塊となってわたしに圧し掛かり、その日はひとつも石ころを拾う気になれなかった。釣りをしているときの桐山くんは饒舌で、わたしを退屈させないように気遣ってくれていることがひしひしと伝わってきて、桐山くんとならおつき合いしてもいいかなと思った。次の約束はわたしからと、帰りの車で「また釣りに行きたい」と告げたとき、桐山くんが会社での桐山くんからは想像もできない大きな声を上げて喜んだので、せっかくの海で石ころひとつも拾えなかったけれど、わたしの心は晴れ晴れとしていた。
 そんな桐山くんだからか、わたしがその辺に転がっている石ころを収集するのが趣味だと明かした時も、彼は「すごいね」と微笑んでくれた。花の絵を描いた石を見せたら、「素敵だね」と愛おしそうに石を撫でてくれた。赤い薔薇が、水色のカーネーションが、黄色の向日葵が、まるで本物のように瑞々しく輝き、花弁が嬉しそうに揺れたようにも見えた。
「ナルちゃん、これなんてどう?」
 今では魚がかかるのを待つ傍ら、わたし好みの石を見つけては拾ってくれる桐山くんである。
 彼とおつき合いを始めて一年と半年が経ったが、わたしは未だに石ころ集めを趣味としているし、花の絵を描くことも続けている。最近、すこし絵が上達した気がする。陰影がつけられるようになって、前より本物っぽくなったと桐山くんは褒めてくれる。
 桐山くんから受け取った石の感触をじっくり手のひらで味わい、石を回しながら表面を観察して、わたしは頷いた。うん、いい感じ。拾い集めた石をビニール袋に入れると、桐山くんは自分のことみたいに「よかった」と嬉しがった。
 そういえば先日、桐山くんに石を集めるようになったきっかけを訊ねられた。
 きっかけは祖父だった。
 わたしの祖父が、石の研究をしていたのだ。しかし、当時小学生だったわたしには、道ばたや河原から拾ってきた石ころを火で炙ったり、トンカチで砕いたり、やすりで削ったり、アスファルトの道路に叩きつけてみたり、石の破片を変な液体に浸してみたりする祖父が、石で遊んでいるようにしか見えなかった。石を扱っているときの祖父は、とても楽しそうだった。わたしたち子どもがブランコを目いっぱい漕いでいる時のような感じだった。わたしが単なる石ころに惹かれ、拾い集めるようになったのは“さだめ”だったのだ。
 “さだめ”という言葉を使ったら桐山くんは笑ったけれど、からかうようなそれではなかったので、わたしも笑って返した。
 拾い集めた石を眺めていると、祖父の姿が目に浮かんでくる。
 七年前に亡くなった祖父は、わたしによく石をくれた。
 道ばたに転がっている灰色や鼠色の石ころではなく、緑や黒の玉石だった。
 それらは宝石のようにきれいだったけれど、祖父が遊んでいる石ころとはちがって、なんだか小さな子ども扱いされているようでおもしろくなかった。でも、祖父はわたしを可愛がってくれた。わたしは祖父の、ごつごつして硬い石のような手に頭を撫でられるのが大好きだった。
「ナルちゃん、今度、ナルちゃんのおじいさんに逢いに行ってもいいかな」
 釣竿のリールをまわしながら桐山くんは、空を仰いで眩しそうに目を細めた。
 わたしは「いいよ」と、はきはき答えた。
 左手にぶらさげたビニール袋の中で、石と石がぶつかって、かち、かち、と軽快な音を奏でている。

石の上に一輪の花、揺れて

石の上に一輪の花、揺れて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-24

CC BY-NC-ND
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