そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(1)

一 スタート前

 潮の香りがする。白い帆が遠くに見える。あれはヨットか。それじゃあ、その向こうに見えるのはフェリーか。島もいくつか浮いている。いや、島は浮かないか。ひょっこりひょうたん島じゃないんだからな。
 ひょっこりひょうたん島?何年もの間、意識から遠のいていた名詞だ。今まで、どこに行っていたんだ。頭の隅から、急に、ひょっこり出てきた。ひょうたんから、島だ。子どもの頃、テレビに齧りつくようにして観た。あらすじは覚えていない。観たということだけは覚えている。本当に観たのか。それは確かだ。テレビは白黒だったはずだ。だけど、記憶の島は、緑色の木が生え、茶色の土がむき出しになっている。その島が青い海をチャプチャプと、白い波を立たせながらスイースイーと移動している。昔のことは覚えているのに、今の自分の居場所がわからない。変な話だ。自分もひょっこりひょうたん島のように漂っているのか。いや、島は漂わない。さっきから同じことを繰り返しているな。
 ここはどこだ。高い建物がいくつか建っている。バスもタクシーもいる。JRの駅もある。ホテルもある。じゃあ、ここはサンポートTだ。昔、ここで勤務していたことがあった。わずか二年間余りだ。やはり、昔のことは覚えている。不思議な話だ。でも、何の仕事だったか。それは覚えていない。不思議な話だ。
 それにしても、どうしてこんなに人がいるんだ。今日は、盆か。正月か。それとも盆と正月が一緒に来たのか。そんなはずはない。それほど、俺はボケていない。はずだ。よく見ると、ここにいる人は、みんな、マラソンのかっこうだ。走るのか。いいなあ。俺も昔、マラソン大会によく出たものだ。最近では、いつ、出場したのかなあ。確か、瀬戸内海の島を一周したことがあるぞ。四国の水がめと呼ばれる大きなダムの周りも走ったことがあるぞ。季節外れの冬に、海水浴場の砂浜も走ったっけ。あの時は、砂に足が取られて、前に進まなかったなあ。このまま砂浜から出られず、砂の男になるんじゃないかと思ったものだ。そんなことはないか。
 こうしてランナーたちの中にいると気持ちがいい。活気がある。走りたい気持ちになる。じゃあ、走ろうか。ひょっとしたら、俺はマラソン大会に出場に来たのか。それはわからない。覚えていない。俺なのに、俺が何をしたいのかわからない。スタートなのか、ゴールなのかわからない。まあ、いいか。どうにかなるさ。

 さあ、体を温めるか。近藤はジョギングに向かおうとした。その時、バッグの中の携帯電話が鳴る。誰だろう。近藤は携帯電話を取り出す。母親だ。休みの日の早い時間になんだろう。
「健。お父さんがいないのよ」母親が早口でまくしたてる。
「いないって、散歩にでも行ってるんじゃないの」
 近藤はこれから体を慣らそうとジョギングに行こうとしたのを妨げられたので、少し怒ったように言う。
「散歩はあたしと一緒に行っているの。お父さんが認知症だと知っているでしょう」
 ああ。そうだ。父は認知症だ。年齢はまだ六十歳を少し過ぎたぐらいだ。昔で言えばおじいさんだけど、平均寿命が八十歳近くにもなった今では、六十歳なんて若い。人生はこれからだ。それなのに、父は認知症になった。定年退職前から、趣味の旅行や登山に、母親と一緒に行っていた。まだ、まだ、ボケるわけにはいかないからな。足腰を鍛えないと。それが父の口癖だった。体を鍛えるために、毎朝、毎夕、近所を散歩していた。ある日のことだ。
「父さんが帰って来ないの」母親からの電話だった。近藤はベッドで眠っていた。その電話で目が覚めた。近藤は結婚し、別の世帯で生活していた。それでも実家からは車で五分もかからない。すぐ近くに住んでいた。
「散歩だろ。もうすぐ帰ってくるよ」と、言いながら時計を居る。夜中の十二時だ。散歩にしてはあまりにも遅い。
「わかったよ。すぐにそっちに行く」近藤は電話を切った
「どうしたの」ふとんの中から妻が尋ねてきた。
「親父が帰ってこないそうだ」近藤はベッドから起き上がると、パジャマの上からウインドブレーカーをはおった。
「お父さんが?」妻はまだふとんの中だ。
「ああ。散歩に行ったまま帰って来ないそうだ」
「散歩の途中で、誰かと知り合い、飲みにでも行ったんじゃない。ふぁああ」妻はあくびをしながら寝がえりを打つ。
「そうだと思うけど。まあ、行って来るよ」
 近藤は嫌な気がした。父はあまり酒を飲まない。家では缶ビールを二本飲む程度だ。その缶ビールを飲むと、すぐに畳に寝転がって寝てしまう。酒に弱いのだ。それに近所で酒を飲むなんて聞いたことがない。何かあったのか。事故か。不安なまま、車を実家に走らせる。家に着き、玄関を開けるとそこに父がいた。体中の服が泥だらけだった。
「今、さっき、警察の人が送り届けてくれたの。道路の水路の近くで座りこんでいたらしいわ」
「おお。健か」父の目はうつろだった。
「疲れた。さあ、寝るか」父は汚れた服で靴を履いたまま家の中に入ろうとした。
「まずは靴を脱いで、着替えなきゃ」近藤は母と一緒に父親を寝まきに着替えさせた。父はその間、突っ立ったままだった。じっとしている。自分では何もしない。子供みたいだ。着替えが済むと、ふとんに寝つかせた。すぐに、ゴーゴーといびきをかいで眠りについた。近藤と母は互いに困ったように見つめ合う。
「どうしよう。健」
「とにかく病院に行こう。俺、年休を取るから、一緒に行こう」
 朝、近藤は母親と一緒に父親を連れて病院に行った。診断結果は思った通り認知症だった。
「まだ、若いのに」母は苦労して手に入れた幸せが消えていくかのように、がっくりと肩を落とした。
「大丈夫だよ。かあさん。早く、症状がわかったから、治療をしていけば、治ることはなくても、進行は遅らせられるよ」
「そうなら、いいけど。これから、楽しい人生を一緒に過ごせると思っていたのに」
 母の失望は大きい。その側では、大丈夫、大丈夫と寝言のように呟きながら、病院の待合室の長椅子に座っている父がいた。
 その日以降、母と近藤とで父の病気に着き添った。特段、大きな問題は生じなかった。生活はなんとかできた。今回が初めての大きな騒動だ。
「それがね、背広がないの。どうも背広を着て行ったみたいなの。それに、テーブルの上にマラソン大会のチラシが置いてあったわ。ひょっとしたら、お父さん、マラソンに参加する気じゃないの。病気が発生するまで、その大会に出るんだって、練習していたのよ。病気になってから、走ることはやめたけど。あなたもその大会に出場するんでしょう?」
母が言ったマラソン大会はまさに今、近藤が走ろうとする大会だった。でも、父親は申し込んではいないはずだ。父親の無念を晴らすために大会に参加するわけではない。でも、心の奥底で、そんな気持ちがないわけでもなかった。自分が小さい頃から、家族旅行と称して、父親が参加する大会に家族で一緒に行ったものだ。
 小豆島で行われるマラソン大会には前日から行き、クジャクやサルを見て、翌日には、父親だけがマラソンに出場した。その間、手持無沙汰だった母親や健は、参加者等に振舞われる小豆島特産のそうめんを食べた。そうめんを食べていることに夢中になり、父親がゴールする姿を見逃した。足を引きずりながら疲れ果てた様子の父が自分たちの方に向かってくる。健たちは箸を持ったまま、器に入ったそうめんを啜っていた。父は少し怒っているように見えたが、完走した満足感からか、走ったままの姿で健たちの横で、同じようにそうめんを啜った。そうめんと水と氷が入れられた箱には、そうめんを食べた人たちの出汁がしたたり落ち。薄茶色に染まっていた。セピア色の懐かしい思い出だ。
「まさか。背広姿でマラソン?」
「でも、靴はいつものジョギングシューズを履いていったみたいなのよ」
 背広にジョギングシューズ。アンバランスな姿だ。背広はランニングには適していない。それでも最近、目立つことを楽しむのか、着ぐるみを被ったり、キャラクターの姿に扮したランナーがマラソン大会に出場している。父も真似をしたのか。
「わかったよ。走りながら探してみるよ」
「あたしも沿道やゴールでお父さんを探すわ」
「いや。母さんは家にいてよ。父さんが、ひょっと戻ってくるかもしれないから。それに前みたいに警察から連絡があるかもしれないし」
 母と近藤との役割が決まった。近藤は、本当なら、この大会で自己記録の更新を狙っていたが、その考えは捨てた。まずは父親を探すことが第一の目的だ。本当に、父が走るのかどうかはわからない。単に沿道で応援しているだけかもしれない。だが、父なら走るだろう。そんな気がした。
 父から聞いた話だが、若い頃は本格的にマラソンに取り組んでいたらしい。本格的と言っても、週末ランナーだが、平日でも、昼休みのわずかの時間を活用して、仕事場の目の前の公園の中とか。仕事が終わった後、自宅から走ったり、定期的に、ランナー仲間たちと一緒に陸上競技場などで練習をしていたらしい。それが、自分が生まれて、仕事も忙しくなってからは、走らなくなった。それが今頃、それも認知症になってから走るだなんて、どうかしている。しかも、背広姿。ある意味、父の人生では仕事とマラソンが生きがい、生活の軸、中心だったのかもしれない。仕事は定年退職したため生きがいから消え、代わりに、地下深く眠っていた、もうひとつの生きがいであるマラソンが噴火して、今、現れたのか。
 どこにいるんだろう。近藤はスタート地点をジョギングしながら辺りを見回す。参加人数は約一万人。この中から父を探し出すのは至難の業だ。いや、不可能だ。道路には人が溢れている。唯一、救いなのは、父が背広姿であることだ。ランナーたちは、ランシャツにランパン、またはタイツ、女性はスカート姿だ。背広姿なら目立つから見つけられる可能性はある。だが、人と人が重なれば見分けはつきにくい。
 近藤はスタート地点の周辺をゆっくりと走る。ここは港がすぐそばで、海浜公園もある。赤灯台までの海沿いの公園やテントを張り、受付をしている広場、すぐ隣に建っているシンボルタワー、国の合同庁舎、少し足を延ばして、JRの駅やバスターミナル、タクシー乗り場まで範囲を広げて、父を捜した。だが、やはり父は見つからなかった。背広姿にジョギングシューズで家を出たからといって、その背広の下には、ランシャツ、ランパンを見に着けていたかもしれない。背広を脱げば、他のランナーと一緒の姿になる。それでは見つかりにくい。
 それに、父がマラソンに出場するとは限らない。たまたま、テーブルの上に、マラソン大会のチラシが置いてあっただけじゃないのだろうか。今頃、家の近所を散歩して、ただいま、腹が減った、と帰って来ているんじゃないだろうか。近藤はポケットから携帯電話を取り出した。画面を見る。着信の表示はない。やはり、まだ、父は家には帰っていないのか。
 近藤はアップしているランナーだけでなく、その応援の家族や観客にもできるだけ注意を向けた。だが、父の姿を見つけることはできなかった。
 そろそろ集合時間だ。このマラソン大会はスタートが早い。九時スタートだ。今は、八時十分。四十分前には集合だ。集合時間は、少し早いような気もするが、一万人も出場するのだから、ランナーを整列させるのに時間がかかる。運営も大変だろう。仕方がない。
 また、スタート時間が九時と早いのは、スタート地点がJRや私鉄、バス、フェリーなどの交通の結節点だからだろう。できるだけ、公共交通機関の利用者に迷惑を掛けないようにしようという配慮なのだろう。それにしても、九時は少し早い。体はまだ眠っている。
 地元の参加者ならばその日の早朝に自宅を出れば受付の最終時間の八時に間に合うが、県外など遠方からの参加者は前泊しないと難しい。そうか。最近のマラソン大会は、健康志向もあるが、ランナーと言う観光客を誘致するための観光戦略で開催される場合も多い。朝の九時がスタートならば、遠方のランナーは、泊まらざるを得ない。地元としては、このT市に多くの観光客等が来て、ホテルに宿泊し、土産を買い、飲食店で食事をして、お金を落とすことによって、街が賑わい、潤うのはありがたいことだ。
 それに、朝九時スタートだと、サブスリーを目指しているランナーならば、昼過ぎにはゴールでき、午後からはゆっくりと休息できる。もちろん、膝や股関節が痛いだとか、ふくらはぎが吊りそうだとか、アキレス腱が切れそうだとか、後遺症はあるものの、翌日には仕事が控えているサラリーマンランナーにとっては、体を休ませる時間は少しでも長い方がいい。近藤にとっても、スタート時間が早いマラソンは好都合であった。
 自分のことはいい。それよりも、父を探さないと。アップでかいた汗をぬぐい、大会に出場用のランニングシャツとパンツに着替えると、近藤はスタート地点に向かった。ただし、今日の大会出場の目的は、サブスリーの記録更新ではなく、父を探すことだ。

 俺は何で走っているんだろう。そうか。もうすぐ大会があるんだ。だから、練習しているんだ。練習?何のため?大会に出場するため。何の大会だっけ、ああ、そうだ。地元で開催される初めてのマラソン大会だ。それなら、出場しないといけないな。その大会、いつだっけ。

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(1)

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(1)

会社を定年になると同時に認知症になったサラリーマンが、流れに身を任せ、地元で初めて開催されるマラソン大会を走る。生きることは走ること、走ることは、まあ、いいか。一 スタート前

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-23

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