今日も空は青いよ。
カナシマくんっていう人はね、いつも空を見ている。
バスを降りた直後のバス停から、教室の窓から、体育の時間にグラウンドから、ほんとうは入っちゃいけない屋上から、カナシマくんは空ばかりを見ているから、先生によく叱られる。カナシマくんはいつでも、うわの空である。
カナシマくんはひとりが好きだ。
ぼくが横にいるときでも、まるでひとりかのように過ごしている。ずっと本を読んでいる。トルストイに、ドストエフスキー。文庫本の表紙を盗み見たのだが、ぼくはトルストイもドストエフスキーも図書室で名前を見たことがあるだけで、しかもその本ときたら図書室の奥まった薄暗い角の、誰も借りないような古めかしくて小難しい本ばかりが並んでいる棚のすみっこにあって、一体どんな奴が読むのかと不思議に思っていたものだから、カナシマくんがふつうに読んでいて驚いた。
また、カナシマくんはだまって自分の飲み物だけを買いに行ったりするし、眠くなったら眠るし、飽きたらそっと帰ってゆくから、昼寝から起きたらカナシマくんがいない、なんてこともしばしばだ。
ぼくとカナシマくんは友だちではない。
学校の仲間はみんなお友だち、が通じるのは小学生までだとぼくは考える。ぼくとカナシマくんのあいだに会話はほとんどない。携帯電話の番号もメールアドレスも知らないぼくらは、たまたまおなじ学校に通う、おなじ年に生まれた顔見知り、いや、おなじ時間(授業中)をおなじ空間(屋上)で共有する、カフェや電車のボックス席で相席になった他人という表現が、ぼくとカナシマくんの関係を言い表すには妥当かもしれない。(もしかしたらカナシマくんは、ぼくのことをヒトではなく、ただの空気だと思っているかもしれないが)
ぼくがカナシマくんに何も訊かないのは、カナシマくんがぼくに何も訊ねてこないからで、カナシマくんはおそらくぼくに興味がないから、ぼくもカナシマくんに興味がないフリをしている。カナシマくんは実の親に捨てられて、一人暮らしをしているらしい。カナシマくんは年上の恋人がいて、その人に学費や生活費を賄ってもらっているらしい。うわさに事欠かないカナシマくんは、視線を向けられれば背中が粟立つほどの鋭い眼と、ちょっと転んだだけで骨が折れてしまいそうなほどに細い腕と脚を持っている。ぼくはときどき、カナシマくんに暴力的な行為を仕掛けてみたいと思う瞬間があるのだが、これは気の迷いであってほしいと願っている。
そういえば数えられるほどしかないカナシマくんとの会話の中でも、おそらく死ぬまで忘れないだろう、こんなやりとりがあった。
それは、カナシマくんと屋上で二回目に会ったときのことだ。
カナシマくんはこの上なくつまらなそうに、ぼくにこう問うた。
「お前は、なんのために学校に来てるの」
すこし悩んで、将来のため、と平凡であるがごく当たり前だと思われる解答をしたぼくを、カナシマくんは笑うかと思ったけれど、笑わなかった。
ふうん、とだけ言って、カナシマくんは開いていた文庫本のページに視線を落とした。そのときに読んでいたのは、おそらく詩集のようだった。はっきり名前までは覚えていないが、書いた人が外国人であることは確かだった。その日は風が強い日で、カナシマくんは文庫本のページをしかと指で押さえていて、なんだか読みにくそうだった。
カナシマくんの声って、なんか、ぬぼっとしている。
カナシマくんと会うのは二回目であったが、声を聞いたのははじめてで、ぼくは漠然とそう感じた。昼でも暗く、じめじめした陰を好む、キノコのような奴だと思った。
「そういうお前は?」と、今度はぼくがカナシマくんに訊ねながら、校舎の壁に背を向け、彼のとなりに腰を下ろした。当時はカナシマくんが“カナシマミツル”という名前であることを、ぼくはまだ知らなかった。
ぼくが座ったと同時に、カナシマくんは本を閉じた。
そして静かに、空を見上げた。
ぼくもカナシマくんの真似をして、空を見た。
その日は風が強かったせいか、朝に出ていた雲はすっかり流れ失せており、空は一面に青かった。別に感動も糞もない、いつもの晴れた日の青空だったが、カナシマくんはなにやらしみじみと入った面持ちをしていた。空ではなくて、空の向こうを見ているような感じだった。
「おれも、将来のため。でも、べつに、将来やりたいこととか、就きたい職とか、ないし。できることなら、なにもしたくない。欲を言えば、動きたくない。許されるのなら、息だけして生きていたい」
今にも消え入りそうなか細い声を、カナシマくんは発した。
たとえば、恵まれない環境で育った故の悲観さや、諦めなどは一切感じられなくて、そのときは、彼は心から面倒くさがりなのだろうと思ったが、うわさであれ両親に捨てられたらしいと聞いてからは、彼は、ほんとうは泣き寝入りたいほどにさびしいのではないかと、ぼくは考えるようになった。両親は健在で、お金持ちではないが然して貧しくもない、世間一般によくある家庭で育ったぼくの、浅はかな想像であるけれど。
へえ、とだけ、ぼくは言った。カナシマくんは閉じた本を置き、銀色の柵があるところまでずかずか歩いていった。がしゃん、と音を立てて柵をつかむものだから、そのまま飛び降りる気なのではと焦った。カナシマくんは死にたそうには見えなかったが、生き続けたそうにも見えなかった。風が吹いて、カナシマくんのワイシャツがはためいた。
「ほうきで空を飛びたいと思わないか」
「ほうき?」
ずいぶん、子どもじみたことを言う。
でも、ぼくは笑わなかった。
笑ってはいけないと思った。
「高校生になったら魔法を習うって聞いた。むかし。でも、やんないならもう、どうでもいいや」
抑揚のない声でそう言い放ち、カナシマくんは空を仰いだ。
やっぱり、ぼくは笑わなかった。
笑ってはいけないと思ったのではなくて、笑えなかった。
思えば、出会った頃からぼくとカナシマくんのあいだに冗談でも笑いがこぼれたことは、一度もなかった。
カナシマくんは今日もトルストイを読みながら、ときどき、空を仰ぐ。
カナシマくんがなにを考えているかはわからない。
空を飛びたいと思っているかもしれないし、魔法がつかえたならば、世界を変えたいなどと思っているかもしれない。ぼくとカナシマくんのあいだに相変わらず大した会話は生まれないし、笑いだって微塵も起こらない。
カナシマくん、見て。
ぼくは右手の人差し指を立てて、ぱっと思いついた単語を羅列した。呪文を唱えるみたいに。
アイスクリーム、トルストイ、ペペロンチーノ、クロワッサン、ドストエフスキー、プリンアラモード、アゼルバイジャン。
どこかでプワァンと、車のクラクションが鳴った。
見て、と言ったのに文庫本から目を離さなかったカナシマくんが、微かだが、鼻から空気が抜けていくような笑い方をした気がした。
空は、今日もただひたすらに、青い。
今日も空は青いよ。