ジーザス・クライスト=スーパースター
2004/6/3 劇団四季『ジーザス・クライスト=スーパースター』 福岡シティ劇場
ジーザス・クライスト=柳瀬大輔
イスカリオテのユダ=芝 清道
マグダラスのマリア=金 志賢
カヤバ=高井治
ピラト=村 俊英
シモン=高 栄彬
ペテロ=賀山裕介
ヘロデ王=半場俊一郎
福岡シティ劇場は福岡キャナルシティの4階にある四季専用の劇場だそうだ。
このキャナルシティへ来るのは初演の『エリザ』全国縦断公演の時、初めてこの建物の中に有るホテルを取ったのを含めてこれで3度目。最初の時此処がオープンして間がなかったからテレビでも宣伝していて、その雰囲気にとても興味があったので博多座からは少し離れているが此処のホテルを取った。ぐるりと湾曲した建物の中央に池があり昼間は時間が来ると音楽にあわせてスケールの大きな噴水が吹き上がり、夜になると周りの木々に取り付けてある電球に明かりが灯り昼間とは全く違うとても幻想的な風景が広がる。建物の中には劇場ばかりではなくホテルや食堂、他にも様々な店舗も入っていてショッピングも楽しめて、1日居ても結構退屈しない場所だ。今日は日帰りだから夜の風景は見られないが、池のほとりのオープンカフェでパンとミルクティの昼食を取っていると、鳩が2羽何かを啄ばみながらテーブルの回りをヨチヨチと動き回っている。噴水も吹き上がるし、そんな景色を背景に行きかう人たちをぼんやりと見ていると、何処か異国の地に居るような錯覚が起きた(笑)
広島で始めて観た『オペラ座の怪人』にラウル役で出ていた柳瀬大輔さんがとてもステキで『ジーザス』は彼が主演である事から以前から機会があれば是非観たいと思っていた作品だったので、ようやくその願いが実現した。久し振りに観た柳瀬さん、期待通りステキでした(^^♪
舞台は初めから幕が上がっていて、奥から手前にかなり傾斜のある荒涼とした山肌に、石の転がっている風景が見えている。この舞台装置は八百屋と呼ばれる傾斜のあるものだがその傾斜が半端なものではない。ジーザスもユダもこの傾斜を転がり落ちるシーンがあるが、最初から最後まで物語りはこの傾斜上で展開されるので、演じる役者さん達にとっては大変過酷な舞台だろうと思った。
ジーザス・クライストとは勿論イエス・キリストの事だが此処で演じられるジーザスはとても人間的だった。
尤も私は仏教徒であってクリスチャンでは無いのでキリストの生涯に付いては一般的に言われている以外には恥ずかしいくらいの知識しかない。だから疑問に思うところも有ったが感じたままを書いてみる。
パレスチナでは、ユダヤ人のヘロデ王、政治の実権を握るローマ人のピラト、ユダヤ人民を支配するユダヤ教の司祭カヤバ、この3人による政治が行われていたが人民は重税に苦しんでいた。そこへ神の心を告げる使者として現れたジーザスはたちまち人民の絶大な人気を得ることになるが、為政者たちはジーザスの存在に危機感を持ち何とか彼を陥れられないかと策をめぐらす。ジーザスの一番の使徒ユダは自分を神の子だというジーザスに、もし民衆がそれが嘘だと気が付いたら皆離れてしまう、行き過ぎは良くないと不満を持つようになっていて、そこを利用され金貨と引き換えにジーザスの居場所を教える。こんなジーザスを慰めるのは身分の卑しい娼婦(多分・・・?)マグダラのマリアだけだった。マリアはジーザスの身体を香油で清め安らかにおやすになさいと優しく歌う。
だがユダはそんなマリアに高い香油を無駄に使うと文句を言う。
ジーザスは自分の運命は十字架にかけられる事と知りながらエルサレムに向かうがエルサレムの宮殿は強欲な商人達に占拠され群集が群がっていた。
ジーザスは「金をくれ」「病気を治してくれ」と迫る民衆に怒りの余り「私は無力だ!悩めるものは自分で治せ!」と絶叫する。ジーザスは優れた天分の持ち主だっただけに揺れる弟子の心、裏切りの心も見透かす能力があったに違いない。
最後の晩餐でこのワインは私の血潮、このパンは私の身体・・・、いつかこのワインとパンで私を思い出すだろうと使徒たちに語りかける。
だが・・・「誰も居ないのか・・・? ペテロ ヨハネ ヤコブ・・・、みんな眠るのか・・・?ペテロ ヨハネ ヤコブ・・・」 呟くその声は寂しさが溢れていた。皆が眠りに就いたゲッセマネの園でジーザスはひとり神に語りかける。「神よ、あなたの心が知りたい。 どうして私が死ぬのか、その訳を知りたい。この死が無駄で無い事を、どうか教えてください」・・・。ユダの裏切りによって捉えられたジーザスはピラトによって39回の鞭打ちの刑にされる。この時ジーザスは兵士達の持つ警棒に括られあの傾斜の中をあちことと引きずられながら鞭打たれ次第に衣服は剥がされて背中に幾本もの傷跡が見えてくる。うぅ?ん このシーン観るのが辛かった!ユダはジーザスを裏切った事を後悔し自殺するが、パンフレットには首をつって自殺すると書かれてあったが今日の舞台では砂漠の砂の中の蟻地獄に落ちたようにもがきながら地中に沈んで行った。 この舞台装置も次のシーンの十字架を立てるシーンも中々見応えがあったな。小さなくぼみに十字架の足元をあてがうとジーザスを乗せたままス――ッと一気に十字架が立つ! さすが?!
ピラトはジーザスが無罪と知りながら群集の叫びに押されついに十字架にかける。自らを架ける十字架を担いで丘を登ってくるジーザス、そして手を、足を釘で打たれ、ついに十字架は丘の上に立った。ここで余談だが柳瀬ジーザスがチョッと太めなんだ(笑)
鞭で打たれている時衣装が剥がれて白い腿がむき出しで見えるのだが・・・その瞬間・・・太ッ・・!と思っちゃった(爆) キリストは痩せている、というのが私の固定したイメージだったので・・・。
だが舞台中央の十字架の上で、腰に僅かな布を巻きつけただけの柳瀬シーザスはとても美しかった!
「神よ?!なぜ私を見捨て給うたのです・・・」 「父なる神よ?、私の魂を御手にゆだねます」 最後まで迷いながらも御心のままに、と言って息を引き取るのだが、なんとこの時の柳瀬ジーザスは息をしていない!!(?) そう?お腹も腹筋も動かないのだ。長い時間だから息をしないわけは無いのだが恐らく肩の浅い所で僅かに息をしていたのではないか? だって死人のお腹が動いては可笑しいものネ(笑)
キリスト教ではこの3日後に復活を遂げることになっているそうだが、現在のキリスト教はこの弟子達が教えを広めたものだろう。
ではジーザスが叫んだ「神よ!」は一体誰を指しているのだろう? この時のジーザスは当然ユダヤ教だったろうからエホバが神・・・・それとも実像の無い天地創造の神・・・? 私の素朴な疑問です。
現代の世界はまるで宗教戦争のように思えるが、この作品を観てジーザスが哀れな人々の心を救う様子は親鸞聖人と同じだなと思う。国を問わず時代を問わず宗教者が説く教えは物質で満たされるよりも心が救われる事が大切であるという事に尽きる。多くのものを望まず災難にはおろおろと迷いながらも、分に合ったつつましい生き方を薦める宮沢賢治の世界が何時の世も評価される由縁かも知れないのに何故多くの人たちはこの事に気が付かないのだろう?
待望の柳瀬さんを観る事が出来て、ジーザスも大変ステキで大満足の舞台だったのだが・・・ナント言うか・・・、この舞台に出演している男性キャストの歌が皆同じ様に聴こえるのに参った?!!
あのオペラ座でファントムを演じていて素晴らしいと思った高井さんの歌声さえ他の人との区別がつかない。これが四季の歌い方なのか? 同じ様な発声、同じ様な歌い方・・・、一人一人はとても上手なのに役としての個性が全く感じられない・・・、これは残念だった。こうしてみるとキャストの中に歌の下手な人が居るのも変化があって良いのかもしれない、・・・って誰のこと・・・?(爆)
だが平日マチネ公演でも満員の客席を見て、何時もこれは四季の七不思議だ?、と思う(笑) 作品も同じものを度々繰り返しているし、目新しい作品が登場する事の少ない四季がいつも何時もロングラン公演を成功させる秘密はどこにあるのだろう?この公演が12月に広島であるという。是非もう一度観たいものだ。
6/7
あれから4日経ってもまだジーザスの世界に浸かっている(笑)
ジーザスは若い頃宗教者としての修行の末に予知能力のようなものを身に着けたのではないだろうか?それとも心が澄んでいたから人の心理が読めたのかもしれない。それによって何時しか自分はもしかした神の申し子かもしれないと思うようになっていった。だがその力が衰えて来ているのを一番良く判っていたのもジーザス本人だったに違いない。何れ民衆は離れていくだろう。
そしてその人気ゆえに迫害が迫っている事を察知し自分は死ぬ運命と認識した上で最後の賭けに出たのではないかと思った。もしかしたら奇跡が起こり神のお告げがあるかもしれない。そして自分は復活するだろう・・・、と。
だから最後の最後まで自分が死ぬことを迷い神のお告げを期待したがついにそれは来なかった。
パンフの中で作家の阿刀田さんが、ジーザスは救われるのは来世と説いたのに対してユダは現世での救いを求めたのだろうと推察している。現世の指導者で居て欲しかったという、いわば路線の違いだった。ユダの思いが正しかったか・・・? ジーザスの選択が正しかったのか・・・?
ジーザス・クライスト=スーパースター