哀しい海
港を覆いつくすカモメの大群。白い羽毛に包まれた綿に似た鳥は海に近づき、空中を舞っている。太陽が天高く昇り、正午近くを告げる。観光船が静かに岸を離れる。海を巡るために地平線へ旅立つ青い鉄。透明なガラス窓はやや清潔感を欠いている。黒いカビが生えている。その古い船の没落が、この土地のさびれを象徴しているようだ。
5人の客が船内にまばらに座っている。
まず目につくのは2人の男だ。みずみずしい若い肌からすると、まだ20は越えてないだろう。長い合金製の椅子に座る二人の男は小さな声で話し合っている。かろうじて聞き取れるのは『ランゲルハンス』『アナフィラキシー』『脳血液』など聞き慣れない言葉ばかり。一体2人は何者であろうか?
船内の造りは、後部座席に進むに従って高くなっている。二人の男を見下ろす形で、一人の女がカメラを持って立っている。女の指はカメラのシャッターを切ろうと待ち構えているようだ。女はサングラスをかけている。視線はどちらを向いているのか、わからない。
もう1組2メートル近い男と小柄なミナトがいる。男の重さで船が傾いているのではないか、と思えるほど体格がいい。体重も100kgは越えているだろう。ミナトは男に言う。「もうすぐだね」巨漢はわずかに身じろぎする。少し船が揺れたような気がした。「もし、君が望むなら笛をあげるよ」男は、またもや何も言わない。ただ、頭を大きく動かし、うなずいた。ミナトの腕が動いて、肩からさげていたクマの刺繍のバッグを開く。中からビー玉と小さな笛がのぞく。ミナトは曲がった手で黄色い笛を取り出して、大きな男の腹の前に出した。「ありがとう」初めて男が喋った。男にしては高い声だ。のどの調子が悪いのだろうか。息を吐き、疲れたように手をゆっくりと動かす。黄色い笛が、太陽の光に反射して、輝いた。男の目は優しく笛を見つめている。おもむろに先端を口にもってくる男。その姿を見るミナトの目は、どこか哀しそうだ。船内に音楽が響き渡る。とても上手い。『JAPNESE MAN IN PARI』の曲だ。20年前に流行ったバンドの曲。「カナリヤ。吹くのは、後でね」ミナトは男をカナリヤと呼んだ。カナリヤは、それでも吹き続ける。太く水ぶくれしたような指が笛の穴で踊る。
カナリヤの演奏に船内はBGMを流している喫茶店のようだ。「これでコーヒーでもあれば、最高ね」カメラをしまった女のつぶやきは誰にも聞こえていない。2人の若い男は、カナリヤとミナトの方を見ている。「もうすぐだから。もうすぐだから」言いながら、カナリヤの大きな膝にミナトは小さな手をそっとそえた。「あ、あ、あ、……」カナリヤは何かを言いかけて、やめたようだった。ミナトはカナリヤを放っておくことに決めたらしい。窓の外を見て、自分の世界に入ってしまった。カナリヤのメロディーは、とうとうサビまで来た。サビの半ばが終わった頃、突然息が切れた。音が止まり、また船のエンジン音と海鳥たちの鳴く声が戻ってきた。「やめたの?」ミナトは海を見ながら、カナリヤに聞いた。「あ、あ、あ……」またカナリヤは言いかけたが、最後まで言えなかったようだ。
若い2人の男は、まだ何事か話し合っている。どうやら、しりとりをしているらしい。だんだんとわかってきた。『ゴルジ体』『インプラント』カナリヤの音色に、一時中断していたゲームを、再開したのだが、そのうち『上腕二頭筋』と言って「あっ」と言ったきり、2人とも黙ってしまった。2人の間に友情あり、同時にほの温かい恋情さえ隠れている。2人でいることに緊張していた。若い中学生の恋愛のように2人はぎこちなく相手をさぐっていた。嫌われたくない一心は、これほど相手との距離を遠ざけるものか。そういう意味では、2人が次に話せるのは船が着いてから。
女がタバコを吸い出した。ドイツ製の濃い黒い煙を吐くタイプだ。船の後方に煙が流れていった。後部デッキで作業をしていた見習い船員が、嫌な顔をした。何も言わず、女を見た。女はサングラスを外して後ろの海を見た。太陽が空高く海を照らしている。女にも光が当たり光陰が、女の美しさを倍加するように魅せた。船員の胸は高鳴り、女から目が離せなくなった。太いロープを結ぶ仕事が残っている。再び前を向く女。船員は恋が破れたかのように目をそらして仕事へ。
カナリヤは、ずっと手に持った笛を見つめている。動く船に射しこむ光は海面からきたものだ。もう、ミナトは外を見ていなかった。ぼんやりと前を見つめている。船の汽笛がなった。「もうすぐだ」ミナトは立ち上がって、背の高いカナリヤの耳にささやいた。「ありがとう」カナリヤは、とうとう言った。にっこりと笑うミナト。カナリヤもぎこちなく笑う。2人は見つめ合い、笑いあったまま甲板に出ると、手をつないで、海に身を投げた。誰かがシャッターを切った音とともに。
哀しい海
物語作家七夕ハル。
略歴:地獄一丁目小学校卒業。爆裂男塾中学校卒業。シーザー高校卒業。アルハンブラ大学卒業。
受賞歴:第1億2千万回虻ちゃん文学賞準入選。第1回バルタザール物語賞大賞。
初代新世界文章協会会長。
世界を哲学する。私の世界はどれほど傷つこうとも、大樹となるだろう。ユグドラシルに似ている。黄昏に全て燃え尽くされようとも、私は進み続ける。かつての物語作家のように。私の考えは、やがて闇に至る。それでも、光は天から降ってくるだろう。
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