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【第一部】
白、というよりそもそも何の色も指定されていないような空っぽの背景が眼前に広がっている。三百六十度、ぐるりを見回すようにして視点を移動させてもそれは連続している。いや、動かしたつもりで実はその行為自体不可能で未承認なのかもしれない。とにかく背景には果てはなく、実質無限であった。
突如として、どこか認知できない一点から突き破るように、深い藍色が這い出した。あっという間に拡大してゆく。もしくは私が近づいてゆく。しかし今の場合は「私」という与えられた意識以外に私と空白の明確な境界線がまだ存在しないので、どちらでもよろしい。藍色は正方形となって、ある大きさまで育ってようやく静止した。
ようこそ、私はあなた。つまりあなたは私、私は私である。何がなんだかよくわからないがつまりそういうことであるので、あまり深く考えないでほしい。とは言ったものの、あなたは私の正体について掘り下げたくて仕方がないはずだ。よくわかる、私はあなただから。そういう理屈だ。
要するに「観測用の私」なのである。あなたは三人称視点の物語、その語り部(観測者)の「誰が」をはっきりさせたかったために、客観的に記述するためだけのあなたとして私を召喚した。結局ラップトップのキーを打って文字に起こして物語を描写してゆくのは物理肉体を保有するあなたなのだけれども、浮かんだイメージを整形し把握するのはまた別の仕事だ。だからこそあなた自身にアウトソーシングされる形で、私という擬似的な人格は用意された。ストーリーとしての心象風景に潜伏して逐一を記録するカメラ付きの小型偵察機と言い換えるとわかりやすいかもしれないが、まあお好きに定義してくれて構わない。なにしろ私はどこまで行けどもあなたなのだからね。とはいえいつまでもぼかしたままでは支障が出るので、以下は便宜上「私」とするからあしからず。
話が逸れた間も、親愛なる正方形は黙って待っていてくれていた。気の良い奴である。ところがそこではたと私は気づく。重大なことに気づく。更に言うなら、二つの事実に、ほぼ同時に。
まず一つ目。この藍色の四角、これまではずっと正方形、つまり平面だと認識していたのだが、どうやら実際は奥行きを有した立体であるらしい。各辺の長さは同一だから立方体だ。言い訳させてもらうなら、先程は空白の果てしなさで空間認識能力が麻痺してしまって奥行きだとか三次元なんて概念が咄嗟に浮かんでこなかったのだ。というか私の能力はあなたの想像力だとか表現力と呼ばれるそれに依拠するのだから、もっとちゃんと考えてほしい。
二つ目。これはかなり深刻だ。残念だが今回の試み自体失敗であると言わざるを得ない。あなたがうっかり私を用意したせいで、つまりあなたが観測者として介在しようとしたせいで、文章は初めから二人称視点で進んでしまっているのだ。作りたかったのは三人称の物語にも関わらず。曖昧な視点の主体をはっきり固定しようと、そればかりに拘泥したせいで本末転倒ではないか。どうしてくれるのだ。
いや、と私もしくはあなたは言う。どうしよう、と。
まったく、どうしようも何もあったものではない。このままではどうしようもないから、とりあえずは私が妥協しよう。今後できるだけ人格としての主張を抑えるから、しっかりあなたは物語を全うしてほしい。
了解しました。ありがとう。
というわけで、以下の様な身勝手な要望を打ち込み溜息などついて、そこでようやくテキストエディタのツールバー左上部の「保存」をクリックしたのである。
『こんなものでよければ今後共お付き合い願いたい。』
【第二部】
あちこちがびんびんびしびしと突き出して、クリスマスツリーの天辺で輝くベツレヘムの星が危害を加える意思を明確にしたかのようである。数日前まで立方体だった藍色の物質のことだ。この形状に至るまでの過程でどのような遷移があったのか、誰も知るものはなかった。きっとこの刺の塊自身記憶してはおらず、もしくは一切の痕跡を巧妙に消し去った上での現在の姿なのだから、過去を暴かれるのは本意ではあるまい。
さて、インディゴの星はどうやらある軸を定めて、緩やかに自転しているのだった。宇宙では一般的に無重力下で天体に何らかのエネルギーが加わることでそれらはやがて安定した自転運動の継続へと至るのだが、いついかなる力の働きによってあれが状態を保っているのかは不明である。多分これ以上考えても無駄になるだけだから、あまり深くは追求しないことにした。
その後星はずっと安定した形状と運動を続けていた。あまりに何も起こらないせいで危うくこの物語は閉じられる寸前だったのだが、退屈な時間がだいぶ循環して果てのない空白の隅々にまで行き届いたところでようやく変化が再開された。脈打ちさざめきながら膨らんで上下にやや伸びる。無数に張り出していた角は呑み込まれて消え、ポリゴン様であった表面は艶やかな光沢と丸みを帯びていき、どうやらこれは円柱状であるな、というところで、
「ちょっと」無粋な声がした。
一体いつ現れたのか、私がそこにいた。「そこ」というのも定まらずただ空白上の任意の一点であり、私がこうして観察を始めた時、いやそれよりはるかに前かちょっぴり後かは判然としないが、もしかするとずっといたのではないか。私は大変憮然とした顔で私を非難した。
「あなたね、きっと物書きに向いていません。いいえ本気です。骨の髄まで。この物語を三人称にする、って言ったのはついこの間じゃないですか。」
ちなみに今文句を言っているのは、前段で「観測用」として紹介した例の私である。混乱を回避するために以下では「彼」と表記する、とそこまで入力すると再びブーブー言い出した。
「だからそういうのがいけないと言っている。これじゃあ、この文章の書き方じゃ一人称視点の物語なんですよ」
あ、と思わず口に出てしまった。ここまでを読み返すとなるほど確かにこいつは一人称だ。一人称でしか使われてはいけない、いけなかないがあまり望ましくない表現がいくつもある。この指摘にはさすがに反省するほかなく、己へ謝罪しつつ、
「どうして気づかなかったかなあ」
と首を振ると、
「どうして気づかないんだろうなあ」
彼は苛立たしげに頭を掻いた。私はなんとか怒りを鎮めてもらおうと、適当な言い訳を並べ立てる。
「いやさ、やっぱり手癖みたいなものもあるし。三人称だと思ったら一人称、みたいな物とか三人称でも話自体そんなに長くはなかったり」
彼は瞑目し、腕組みして一応耳を貸してくれていた。調子づいてなおも言い募る。
「それに、ね。よく考えてほしいんだ。何もない空間に、いつ変化するかわからないこんなものをぽんと出されて『さあ三人称で書け』って言われたってね。なかなかどうしてできるもんじゃないよ」
そこまで言って、ちらりと上目遣いに見やる。しばらく互いに黙っていたが、やがて彼のほうから口を開いた。
「わかった。ならもう、しかたがないよな」
いともあっさり引き下がった。これも彼が私であるがゆえであろう。基本的に私はこうした自己弁護の類に弱い傾向にあり、それを自覚しながら有効に利用したということになる。情けないにも程があると私以外からは言われかねないが、他に避ける方法がなかったのだから大目に見ていただきたい。
彼はそこで演技がかった咳払いを一つすると、「ならば」と切り出した。「どうでしょう。いっそ私が登場人物になるというのは」
いかにも名案のように思えた。自己主張を控えながらもイメージの中継映像だけはきっちり送ってくれる有能な彼であるから、きっと私が三人称視点を構築する上でも節度を守って活躍してくれるはずだ。私は一も二もなくこれを承諾した。
ちょうどその時、随分放っておかれていた藍色のものの変化も終わろうとしていた。蠢くそれがようやくある形で安定し、突然「硬質の白い床」として認識できるようになった地面に倒れ伏した時、私は阿呆じみて、
「人だな」
すると彼はすかさず助け起こし、
「女性だ」
と言った。
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