サイコパスの童話  ~サイコロ課、発進~

 

第1章  第1幕  establishment 

 サイコパス。
 この言葉を目にして、或いは耳にして、どのような光景や人物像を思い浮かべるだろう。
 殺人、犯罪者、反社会的行動。
そういった概念が一般的かもしれない。

 しかし、サイコパス達は、現在も平和に、いたって元気に暮らしている。
 そう、殆どが。
 彼らは決して反社会的でもなく、犯罪者になり得るような人間ではない。新聞や週刊誌をはじめとするメディアに露出するような奇異な行動など、しない。
 ただ少しだけ、通常の人間と違う心理をその片隅に宿すのみである。

 心理学的に、ある意味において共通したサイコパスの定義がある。

『良心の欠如、他者に対する思いやりの欠如、他者を平然と見下す心。冷淡な心の持ち主にして、平然とつく嘘。その嘘は慢性化し、罪悪感も後悔の念も皆無。自尊  心が過大で自己中心的、自分勝手に欲しいものを奪い、好きに振舞う、無慈悲でエゴな人間』

 ところが現実はどうか。
 一見、サイコパスと思われるような罪を犯す人間は、本当の意味でサイコパスではない場合もある。
 反社会的行動をとったとしても、其処には必ず何らかの原因があり、脳的な器質異常に加え不遇な家庭環境に晒され、自ら犯罪へとのめり込んでいった者たちも多い。
 反社会的行動に身を投じた彼等を犯罪に導いた切っ掛け=ラインがどこにあったのか。それだけの違いである。
 誰でも、一度くらいは冗談で「殺したろか」と思う時、思わせる嫌な人間がいるはずだ。それでもやはりできない。思い留まる。
 思い留まれないくらい、強い殺意を持つ場合もある。憎しみと呼ばれる感情。
 金銭目的の場合、憎しみの感情が無くても平気で殺意を抱く。感情が無い分、厄介であり大罪に値する。
 何が目的で反社会的行動を思い立つのか、そのラインが各々違うだけなのである。

 本来の意味で云うサイコパスは到底判り得ないのが通常で、いつ見ても一人きりでいる無口な人間でもなく、常常周囲から疎まれるような行動をとることもない。
 極々一般的な、ありふれた人間像。
 一般社会に溶け込んでいるかのように見える彼らは、口達者で表面的にはとても魅力的なのだという。

 もしかしたら、あなたの隣にも、サイコパスがいるかもしれない。

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 警察庁刑事局特殊犯罪対策部サイコロジー捜査研究課。

 サイコパスの犯罪を心理学的観点から検証し、警視庁及び各道府県と情報を共有、日本の警察機構が未だ成し得ていない反社会的行動=サイコパス犯罪を未然に防ぐ手法を確立することを目的として設置された部署である。

 物的証拠を収集し犯人検挙に奔走するのが捜査一課や鑑識課、科学捜査研究所であるとするならば、サイコロジー捜査研究課は物的証拠の無い事件で、事件前から事件後に及ぶ犯人の心理プロファイルを取り纏め、捜査本部に情報提供する。
その他、未解決事件における犯罪者の心に潜む行動心理から事件にアプローチし、同一犯罪の起こり得る可能性を見極め、連続した事件に発展するのを防止する。

 いわば、表に出る捜査部隊がハードとするならば、サイコロジー捜査研究課はソフト。お互いが背中合わせとなり、科学捜査の一助を担う存在となるプロ集団である。
 犯罪心理、行動心理、認知心理、児童心理、発達心理、臨床心理、等々。課の全員が、入庁前から何らかの形で心理学に携わり、入庁後も心理学的観点から各地で事件解決に尽力した精鋭たちだ。

 と言えば、聞こえは悪くない。
 寧ろ、好戦的にすら感じられることだろう。

 警察庁特殊犯罪対策部サイコロジー捜査研究課、別名、サイコロ課。
 過去に起きた全ての事件ファイルから現在進行中の事件まで、サイコパスが起こしたと思われる事件をデータべース化し朝から晩まで読み漁ったうえで、各々の知見を同時に述べる。
現在、日本国内で起きている未解決凶悪犯罪の犯人像を、大声で一斉に滔々(とうとう)(まく)し立てるのが日課だ。

 彼等にとっては重要なのは、事件の核心ではない。かといって、事件の進捗や早期解決でもない。
 その興味は、専ら、犯人像のプロファイルにある。事件の背景であり、犯行に至るまでの抑圧された心理状態、自制心や抑制心が「ふっ」と消え去り、虹の階段を駆け上がるような躍動感とも言うべき犯行の瞬間、犯行後に浮き上がる、更なる衝動心理。

 そう、サイコパスたちにとって、些末な後悔の念など皆無なのだから。

 サイコロ課の面々の、なまじ心理学に傾倒したが故の机上の論理。
 異質を超えた、言葉では表現し難い人材の集合体。
 日本各地の警察から、捜査に役に立たないばかりか捜査本部に入り込み犯人像のプロファイルを延々と演述し邪魔をすると厄介者扱いされ、頼むからどうにかしてくれという四十七都道府県の切なる陳情の嵐の中、やむなく重い腰をあげた警察庁。

 警視庁をはじめ、通常各県警本部から警察庁に異動することは稀だ。
 警察庁は国の組織で国家公務員。
 他は都道府県、所謂地方公務員。
 異動など、異例中の異例。
 陳情の嵐に頭を抱えた警察庁では、庁内にスペースを設け、そこに出向という形をとることで事態の収拾を図った。
 これこそが、国民に知られざる国家機密の大袈裟ともいえる真相といったところか。

 と言うわけで、特殊犯罪対策部サイコロジー捜査研究課に配属された面々は、警察庁内はおろか、警視庁をはじめとした各道府県警からも「サイコロ課の変人部隊」と呼ばれる始末なのである。

第1章  第2幕  Eccentrics and the first case

 今日も、変人部隊の一日が始まった。

 年の一番若い和田透(わだとおる)。27歳。独身。
 北の地にある警察本部から配属された。郷土を愛する純朴な青年である。
 一応、犯罪心理が専門だ。
 くるくると動く大きな目が、まるでアイドルを思わせる愛嬌たっぷりの顔。
 出身地が東北北海道方面であるにも拘らず、綺麗な標準語を話す。本人曰く地元から出たことはないそうだが。
 この顔で、必殺技を繰り出す和田。
嫌味の無い顔で聞き込み等を得意とし、次々と情報を収集するのである。情報のソースはバラバラだが、殆どが同じ見解を述べることから、その精度は高い。

 和田は、自他共に認めるシャーロキアンでもある。小学生の時に読んだ子供向けのシリーズ本を読み終えた直後、身体に電流が走ったのだという。余程感化されたようで、小学生の間にシリーズ全巻を読破、大人用の文庫本が彼の宝となった。
 日本国内のシャーロキアン親睦団体にも入会し、かの大物作家が作り出したこの世で最も偉大な探偵、シャーロック・ホームズを人類のカリスマと呼ぶ熱狂的ともいうべきシャーロキアンだ。
 彼にとって聖典とも呼べる大人向けシリーズ本を片時も手放すことが無く、サイコロ課の机の引き出しには文庫本が並ぶ。

 和田の場合、他のシャーロキアンと比べ、研究テーマが犯罪者心理に著しく傾倒しており、特にホームズ最大の宿敵であるモリアーティ教授の心理を様々な面から明かすべく、己が道を研鑽する日々を送っている。

 何のことは無い。今はまだ、和田は若輩者である。
 サイコロ課内では、ペーペーの1年生として遠慮しながら過ごしているのが実情で、和田は内心がっかりしている。


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 日本国内で、毎日のように起きる(おびただ)しい数の事件。
軽犯罪を含めると、何百、多い時では1千件に近づく勢いで事件の数は年々増加の一途を辿るばかり。
国内47都道府県から集めたデータをデータベースに入力するのが和田の仕事だ。
作業は単純だが、お世辞にも、楽だとも楽しいとも言えるような仕事ではない。
 しかし、どんな小さな事件ファイルでもサイコパスの5文字が関係すると思われる事件があるかもしれない。放っておくことの出来ない重要な作業である。
 先輩方の話に交じりたいし、ホームズ研究もしたい、なのに事件が多すぎて入力だけで一日が終わる。
和田にしてみれば、非常に不満の残る生活だ。
 早く新人に来てほしいと願ってやまない、北の地出身の若造クンである。

 入力を続けながら、入力画面を見たまま、皆に向けて報告する和田。
 報告は、データベース入力している事件の中で未解決事件または事件そのものが奇異なストーリーを展開しているものが中心になる。

「皆さん、今日は進行中の事件が一件あります。概要は、A‐9ファイルを見てください」

 それは、都内で発生した児童失踪事件。
 失踪したのは、幼稚園児の男子、5歳。事件後、5日が経とうとしている。男子の両親に、ある程度の資金力があることから、大方の予想は営利目的の誘拐か、いたずら目的の連れ去りという見方で、所轄署及び当該県警での初動捜査が行われた。
 不思議なことに未だ身代金の要求は無く、誘拐の線は消えつつあった。捜査本部の連中が別室に集まり協議を重ね、いたずら目的の連れ去りと判断された。いたずら目的の場合、子供を生かしておく例は少ない。
小さな命に、待ったなしで危険が迫る瀬戸際の事件である。

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「『うちの子に限って』が一番危ないんですよ」

 それが口癖の、弥皇南矢(みかみあけただ)。38歳、独身。
 児童心理や発達心理を専門にする。
 関西方面の警察本部から此処に来た。弥皇(みかみ)の両親は関東圏住まいだが、一族の本拠地は近畿地方にあるという。普段弥皇(みかみ)は関西弁を話すことはないが、一族との会話時には関西弁を話すのだという。

 一見、ナルシストな気障男。
 奥一重の瞼は切れ長。
 睫毛がとても長く、ある種女性的な風貌を感じさせるも、奥に見える眼差しは深く何を考えているか周囲にも悟らせないような雰囲気を持つ。
 少し鷲鼻気味の鼻がお気に召さないらしく、いつも鏡を見ては溜息を吐いている。唇は薄く、情が薄いと言う諺が当てはまりそうな顔立ち。
 それでいて、女性にはとても優しいフェミニストの一面も見せる。言葉遣い、身のこなし、洗練されたエスコート。まあ、本人にとってナルシストもフェミニストも、その自覚は一切無いようだが。
 ワインと一人旅を愛する、孤独と言えば孤独、自由と言えば自由な生活を好んでいる。

 結婚が墓場と思い知った方なら、この言葉の意味も十分にお解りいただけるであろうか。

 弥皇(みかみ)自身は、結婚に興味がない。
 一族から追い掛け回されているという噂も聞くが、本人に聞いても、上手くはぐらかされるばかりだ。だから、その素性はサイコロ課の面々にも、警察庁の人間にも、ひいては地元警察の人々も、一切知り遂せない。
 サイコロ課の面々は、弥皇(みかみ)が結婚に、いや、女性そのものに興味がないと見ている。
 そのくせ、児童生徒の心理は己が子供を持たないと理解できない、と平然と言ってのける。自分もその一人のくせに。
 どうやら自分だけは特別と考えている節があるようだ。

『うちの子に限って』 
 弥皇(みかみ)曰く、両親が「知らない人についていっては駄目よ」と言い聞かせれば、子供は「うん、わかった」と答える。
 両親は安心する。
 分かったと答える我が子に限って、知らない人間になど付いていくわけがない、と。

 して、その実態はどうか。
 子供は、心の中で両親の言葉を理解していない。
 此処でポイントとなるのが「わかった」というワンフレーズ。
 このワンフレーズがてきめんな効果を発揮する。
 必ず、両親は自分を褒めてくれるからだ。
「そう、いい子ね」
 そして半ば説教めいた親との会話から解放される。
 だから子供は「わかった」と答えるのだという。
 両親を安心させるために言うのでもなく、言葉を理解していうのでもないと。

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「全員が全員、そうではないだろうがね」

 反対意見を述べる佐治嘉元(さじよしまさ)。こちらは45歳、妻と一人娘がいる。
 行動心理と犯罪心理を専門としている。
 こちらは南関東の警察本部から来た。
 がっしりした身体の、如何にも警察官という風貌。マル暴も経験済みの眼差しは、一見するとそちらの世界に身を置いた人間かの如く、目の奥まで何もかも見透かしているかのように鋭い。まるで黒豹のようだ。
 某国の大統領に似ていると専らの評判だが、本人は頑として受け付けない。

 佐治自身は、今回のような事件を見聞きするたび、自分の子供と重ね合わせて心を痛めてしまうという。
 なんと素晴らしい父親振り。

 世の父親諸君。そう思っているのは、実は貴男だけなのかもしれない。

 佐治の場合、家庭より仕事=佐治自身を大事にすることに腹を立てた佐治の妻が、佐治が現役を引退したら熟年離婚するつもりだと周囲に漏らしているという噂が当該県警本部や警察庁内で乱れ飛んでいるらしい。
 そのせいか、一人娘にも毎日父親の悪口を吐き出しながら生活しているのだとか。
 今や高校生になった一人娘には、口すら利いて貰えない。
 奥さんが企む熟年離婚への道のりを知らないのは佐治本人のみ。
 それとも薄々気づいているのか、サイコロ課人の面々には殆ど家族の話はしない。家族の話をするとしても、娘が可愛かった子供時代のことだけだ。
 これは噂というよりも和田が仕入れてきた情報で、何件ものヒットがあった。和田の情報網は広く信憑性が高い。洗面所や給湯室で皆が噂しているのを見聞きし、佐治本人に探りを入れた結果だ。
 たぶん、きっと、奥さんの心は変わるまい。

 佐治が何をしたわけでもない。
 男性からしてみれば、仕事が忙しいあまり、家の中を顧みなかったら妻と子に捨てられた、何て理不尽なと嘆くことだろう。
 互いの意向がすれ違った結果とはいえ、必死で働いた結果が三行半では悲しすぎやしないか。
 それとも、何を相談しても夫は暖簾に腕押しで、奥さんのプライドをズタズタにしたのか。
 程度問題ではあるが、月に1度でもいいから奥さんと向き合うべきだったのか。

 人の家庭内をどうこういう権利など、本来、誰にもないのだが。

「全員が全員、親の言うことをスルーしているわけではない」
 佐治によれば、理解せずに親に返事をする子供がいるのは確かだが、幼児は別として、今の小さい子供たちは、自分たち大人が思っているほどのんびり屋ではない。
 損得勘定の出来る子が多い。それこそ大人顔負けに。
 それでも、大人の顔色を窺い、両親の求める答えを常に考える嫌いは確かにある。これは弥皇(みかみ)と同意見だ。
 佐治は皆の言葉を制するような素振りで次第に声を大きくしながら持論を展開していく。
「俺達の小さい頃は、両親の言うことがわからないとか、言うことを受け入れられなくて駄々を捏ねたものだけど、今の子供たちには、それが無いように思えて仕方がない。表面的に受け入れてしまう。由々しき事象だと思うがねえ」

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「母親と子供の関係だけは、一種異様というか、独特なものがありますから」
 データベースをぼんやりと見ながら、低く太い声で独り言を吐き捨てるのは、我がサイコロ課紅一点、麻田茉莉(あさだまつり)。40歳、独身。
 麻田は北関東からの出向組である。
 T大を出た才女で、しなやかでサラサラの黒髪が印象的なアラフォーのお一人様。
 メガネを掛けているので目立たないが、すっと流れていく二重瞼は少しだけ垂れ目気味で可愛らしささえ感じさせる。
 本人がアイラインを釣り目気味に引いているところをみると、垂れ目を隠したいと見える。黒目が大きく鼻筋やあごのラインも丸みが無くすっきりとしており、お公家の姫君というよりは、洋風ドールといった風情を醸し出す。

 そんな麻田女史だが、此処で「お一人様」などと麻田の前で言ったが最後、その人間は(おの)ずから身の破滅を招く。
 麻田お得意の投げ技を掛けられ瞬殺されるという専らの噂だ。
 事実、柔道における警察官全国大会での成績などを勘案すれば、かなりの腕前を持つ。下手な男性警察官では及ばないと皆が口を揃えるほどだ。
射撃や剣道、体術などにも優れた強者である。
 SPとして警察庁に採用される予定だったが、本人の強い希望でサイコロ課に来たという噂と、当該県警本部内で最初から厄介者扱いされていたという噂が2分する、サイコロ課の美人警官だ。

 麻田の場合は、行動心理が専門だという。
 弥皇(みかみ)同様、ワインと一人旅を愛する本物の「お一人様」である。


 血の繋がり、母と子の繋がり。
 一見温かく深いようでいて、実は脆いというのが麻田の持論だ。

 ネグレクトの始まりも、母親の心理状態が不安定な要素が大きいと見る。
母親になった女性が本来持つべき母性本能が欠落している、女性だけの問題ではないだろうが、と前置きをしたうえで麻田は語る。
 特に離婚し母子家庭になると、子供よりも男に走り、伴侶を求める女性たちが後を絶たない。子供たちなど視界に入れようとせず、入ったとしても邪魔にしか感じない。
 子供を中心に再婚を考える女性など皆無だと、世の母親たちを敵に回すような暴言を吐く。
 その結果、ネグレクトの犠牲になり、川に突き落とされ死亡した子供もいれば、1カ月以上家に放置され餓死した子供すらいる。一番多いのが、同居を始めた男性が子供を嫌い、虐待に至るケースだ。
普通という言葉を当てはめていいかはまた別の問題として、母性のある母親なら、虐待されかける子供を守ろうとするだろう。
 男ばかり追いかけるネグレクトの母親たちは、「暴力が怖かった」と称し、自身の身の安全を図る。子供が暴力を受けていても見て見ぬふりをし、自分を第一にするのである。
大事な我が子が暴力を振るわれそうになった場合、自分が盾となるべき実の母親が、だ。
 子供が虐待されるのを黙って見ているだけ。子供より、自分。
 だから男が付け上がり、家庭内を暴力で支配するようになる。そんな痛ましい事件が各地で起きているのが現実なのだ、と、麻田の怒鳴り声交じりの暴言は続く。そういう理由から、ネグレクト症候群が現在は至る所に蔓延しているのだ、と麻田は力説する。

 一方で、これが、父親が扶養している子供ならどうか?
 父親は伴侶を求めて女の尻を追いかけるだろうか。否。

 勿論働きながら子供の面倒を見る健気な父親から、自分の両親を頼る父親もいる。家事をさせるためか、愛してのことかは知らないが、新しい伴侶を求める父親もいるだろう。
 それでも、ここで一貫しているのが、子供に不便な生活をさせたくないという心理である。継母を迎える子供たちの心理は別として、子供たちが飢えるような生活を好む父親は少ない。
 これは、本能が満ち足りた状態と考えられる。
 自分のDNAが傍にいるから、本能的に守ろうという意識が働くのだろうと。

 とはいえ世の中も様々だ。中には、妻に逃げられ子供だけが残り、虐待に及ぶ例も少なくない。
 DNAを残したいという雄の本能の部分からすると、この手の虐待は起こり得ないはずだ。従って、この場合の虐待は子供に対してではなく、子供の中に、逃げた母親、つまり妻を見ている、と考えられる。持論を早口で一気に捲し立てる麻田。
「課長は、どのようにお考えですか」

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「動物の中でも、人間が一番複雑で厄介だな」

 課長の市毛那仁(いちげともひと)が麻田の力説を引き取る。55歳。妻はいるが、子供はいない。
 深く優しげな眼は、誰もが美男子だった昔を思い起こすことだろう。甘い声で優しく語るその口元は、オジサマながら、とてもセクシー。何故、警察官など選んだのか皆不思議がっている。

 課長曰く。
 他の動物は、殆どが犯罪なんぞに手を染めない。他の鳥が作った巣にいるヒナの卵を追い落して自分の産んだ卵を巣に置くといった事例もなくはないが。
 子孫を残すのが動物としての本能であり、それこそが究極の生への執着だからだ。
それなのに、人間は己の一番大事な本能を忘れつつあるのかもしれない、というのが課長の持論だ。
 母親が夜なべして何かを編んでくれた時代は、何処かにいっちまった、というわけである。

 市毛は元々、警察庁の人間だ。心理学全般に精通していると言われる。
 ところが同期の人間はどんどん昇進しているのに市毛本人はそんなものに興味はない。妻も同様に興味を示さないらしい。できた嫁だと皆が感心する。

 佐治の家庭のように、普通の奥方なら、誰それさんは昇進したのにどうして貴男は昇進しないの、と五月蝿いだろう。しかし市毛の妻は全くそういった類に口を挟まない。
 妻には感謝しているし、とても大事にしている。
そう言って課長はいつものろけ話を皆の前でほざく。

 和田の情報収集は、なかなかどうして、侮れない。課長の奥さんは家柄の良い人で、ある種のイス取りゲームには興味が無く、市毛がやりたいことさえやっていれば満足だという説を集めてきた。
 ということは、かなりの資産家であるということも考えられる。他の説としては、「似た者同士説」これがサイコロ課の中では、一番確率的に高いと言われている。少数だが、市毛自身が資産家の子息という説もある。本人は弥皇(みかみ)同様、肯定も否定もしない。唯々煙に巻くだけだ。

 さて、その市毛が、母親論を語り出した。
 女性が子供を産む限り、必ず母性本能を求められる。
 実際に個のDNAを残したいのは男性かもしれないのに。

 女だから、母親だから子供の面倒を見るべきだという考えが、世の女性と子供を一緒くたにして縛る。かといって、父親と母親のどちらに、より子供が傾くかと言えば、大抵は母親だ。

「一般的には母親に懐くと言うだろう?俺に言わせれば、それはちょっと違うね」

 鳥の子が殻を破って初めて見たものを親だと認識するように、人間の子も産まれてすぐに母親の元に運ばれ、母の匂いを嗅ぎ、母乳を吸う。だから本能的に母親を親だと認識する。鳥の子と本能的に変わらない。
 これが産まれてすぐに別の場所に移され、1ヵ月も粉ミルクを飲んだらどうなるか。本能は混乱し、誰が本当の親かわからなる。実験したことはないが、その子の父と母を天秤に掛けたら天秤は釣り合うだろう、と市毛課長は静かに語る。
 まして、両親のどちらかといる時間が長いほど、そちらに傾く傾向はある。この場合の傾くは、「好き」だけに限らない。畏怖の対象にもなり得るのだ、と。
 だから子供は、専業主婦でいつも一緒に居る母親に肩入れしつつも、どこかで支配されている。母親の言うことさえ聞いていれば怒られない、虐待されない、と子供は思う。
反対に母親は、自分の普段の教育がいいから口答えもしないいい子に育った、あるいは言うことを聞くいい子だから、虐待に発展するような心理状態が解消される。
 ところが、そのような母親になると、段々と独特の心理状態が心の中に芽生えるという。
 自分が居ないとこの子はダメになる。自分がいればこの子は大丈夫。そういったある種の母子コーディペンデンシーに陥るだろう、というのが市毛の意見である。

「なるほど、コーディペンデンシー、共依存ですか。母子関係にも成立するんでしょうか」
 弥皇(みかみ)の問いに、答える課長。
「俺はそう思っている。1950年前後、高度成長期前の母親像と現在の子供から見た母親像を比較したことがある。手元に資料は無いが」
 課長が講釈する、昔の子供と現在の子供から見た母親像の違い。

 昔は虐待ではなく躾として体罰が容認されていたから、虐待の類いは検証の要素から外す。どちらも子供から見た母親への安心感と同時に畏怖がある。
 1950年前後の子供たちは、戦後の混乱した時代で、生きるのに必死だった自分の母親を見て育った。
決して収入が高くない家庭が殆ど。手作りされた洋服や手袋、マフラーなどの小物は、母親が家事の終わった夜遅くに編み始まる。お金が無いから、母親の着ていた洋服や着物、冬ならセーターを解いて子供のために夜通し編む。母親は自分が寒かろうとも、子供には寒い思いをさせまいと必死だった。
冬、目覚めると新しいセーターが枕元にあったことを思い出す年配者は多いだろう。
仕事に家事に忙殺され子供に構う暇さえなく、必死に働いていた母親たち。
だが、子供に当たり散らする場面はあったとしても、子供も母親の疲れを背中で見ていたから一定以上の文句は出なかったとみている、と評する。

「一方で、現在はどうだ?」
 課長が皆を見回す。
 フルタイムで一所懸命働いて夜なべする母親も、そりゃ、まだ残っているかもしれない。
 でも現実的には、コンビニで弁当を買って食わせるとか、冷凍食品やデリバリーで済ます親も少なくない。
 いや、それが悪いというわけじゃない。
 さっき麻田が言ったとおり、子供より伴侶、子供より自分という母親が増えているのは明らかだ。子供と一緒にいようとするだけでもマシであることに違いないだろう、と課長は言う。

 課長が考えるに、物が溢れ返る現代、コンビニやデリバリーなど、働く主婦を助ける商売はこれからさらに増えるだろうと指摘する。
 母親たちは忙しい。
 しかし、昔の母親像と比べると、その違いは鮮明になっている。
 今の母親と比べ、家事労働に時間を取られたのは圧倒的に1950年前後の母親である。時間換算で比較すれば、間違いなく3時間以上は違うであろう。
 とした場合、現在、少しでも楽になった時間を母親たちはどのように過ごしているのか。
 自分の趣味に使うのだという。
子供と遊んだりはしない。子供には必要最低限を求め、母親にとって都合のいい返事をさせ、自分の時間を大切にするのだと。
 子供を大事にするよう父親が進言しようものなら、家事育児仕事をこなす母親と仕事しかしない父親、どっちが大変か考えてみなさい、という強烈カウンターが父親を見舞う。

「ここにコーディペンデンシーは成立しないんだよ。依存する相手がいないだろう?」

 問題は、どちらかと言えば高収入のサラリーマン家庭や、中堅以上の会社社長宅に多い。金に困らず、家事の時間はふんだんにあるか、ハウスキーパーを雇用している。家の中は全てがきちんと、自分の思うとおりに進んでいく。
 そう、何もかもが。
 そしてそこに、子供が組み込まれていく。手塩にかけて子供を育てる。その実態が、過保護なまでに子供を育てる親であり、内的には子供を言葉で縛り支配し、支配されていれば母は何でも自分の願いを聞いてくれるという、母親と子供、共依存そのものの関係を構築していくというのだ。

 と、ご立派な講釈を垂れ流す、今、この瞬間。

 大切なのは、失踪した子供の安否であり、犯人の検挙であろう。
普通に考えれば、失踪事件の犯人像がここでの「問題解決」であり「捜査への道筋」である。
事件の起こる前或いは事件後の犯人や被害者の心理状態が人ひとりの命を左右するというのに、サイコロ課の面々ときたら、一向にお構いなし。
 こんな会話を伝え聞くから、尚更、他の部署では「変人扱い」する。そんな話をしている暇があったら仕事をしろ!と、皆が苦々しく思う、というわけだ。
 それでも、大事な捜査をかき回されるよりは、変人部隊にいてくれる方がまだマシ、という意見が大半を占めているのも、また事実なのである。

 そんな調子で、A‐9ファイルは、話が終わろうとしていた。いつもなら、市毛課長の「はい、次」の合図で一件の報告は終了する。
 だが、その日は課長が何故か言葉を発しない。
 サイコロ課の皆が、「課長。また朝から何か空想してるよ」
 そう思った矢先のことだ。
 課長が常にない行動をとって急に声を発し、皆ドキッとした。

「母親のアリバイは?共依存かもしれない。ネグレクト心理が働いた可能性もあるな」
 和田がデータベースを見返す。
「母親は、子供が失踪したと思われる時間帯、幼稚園のママ友たちと近所の珈琲ショップ店で歓談していたとのことです。ママ友たちの証言も取れています。ただ、その日、母親の携帯電話の通信履歴に、交友関係とは思えない着信が一回だけあるということです。確認したところ、宅配業者の番号でした」
「ママ友たちの証言で、母親に関する何か出ていないか?子供もだ」
 和田の他にも、皆がデータベースにアクセスし、事件概要を読みだした。

 一番のり!っとばかりに佐治が話し出す。
 他を制するように両手を広げ、手のひらを肩の前に置くような、いつもの仕草で。
「課長のいう共依存に当てはまる家庭ですね。一人っ子で過保護に育っている。幼稚園ではやりたい放題か。共依存の反動ですかね」

「共依存だったとして、母親のネグレクトとは話が繋がらないでしょう、課長」
 弥皇(みかみ)は相手が課長だとて、容赦がない。
「ネグレクトなら外に出さず何も施さない。1950年前後の母親を正反対にしたようなものでしょう。この母親はそういう所作は見受けられませんよ。ねえ麻田さん、どう思います?」
 弥皇(みかみ)が麻田の方に顔を向け、一指し指を左右に振りながら麻田を挑発している。

「直感的にだけど、私は、この母親が怪しいと思う」
 子供の粗暴な行動は母親からの抑圧に他ならないように見受けられる。子供が幼稚園で我儘なのは、母親に関係しているのは確かだ。
 これが麻田の推察だった。
 一方で子供の粗暴な行動は、常々幼稚園から母親にも連絡が行っているはずで、ママ友たちも各々の子供から聞き及んでいることだろう。
母親は心の奥底で、この子は自分に恥を掻かせた、悪い子。この子は私の言うことを聞かない、とても悪い子。
 そういった心理に変化してもおかしくないという。
 こうして、今までの共依存から一転し、子供を疎ましく思い、急転直下でネグレクト状態の心理的要素を前面に出し始めるパターンは意外に多いのだ。

「幼稚園で、失踪直前に事件とかは無かったの?和田くん」
 麻田からせっつかれた和田が、急ぎ資料を眺める。
「えーっと、あ、入力漏れでした。失踪の前日、他の園児に暴言を吐いた上に、転ばせてちょっとした怪我を負わせています」
「顛末は?」
「怪我をした園児の母親が謝罪を求めましたが、謝罪は無かったそうです」

 課内の空気が、変化の色を見せ始めた。
 佐治が、先ほどとは打って変わり深く椅子に腰かけている。
 そんな佐治の決め台詞が、出る。
「ジャスト・ミート!」

 サイコロ課内では、珍しく全員が残業していたと見える。
 少なくとも、課内の電気が付いていたのが付近から確認できる状態だった。
 和田が警視庁に出向き、捜査一課にメモを持って顔を出す。和田自身、電話もメールも信じていない。盗聴なんてどこからでも可能だ。出来る事ならフェイストゥフェイスで。
 それが和田の座右の銘。
 捜査一課に近づくにつれ、廊下まで怒号が飛び交うのがわかる。

 其処に運悪く、和田は顔を出してしまった。

 警視庁の連中は、ただでさえ被疑者の行動が掴めず焦っているところに、よりによって捜査一課浅野課長の前にサイコロ部隊如きが顔を出したものだから、和田はその場で浅野課長の前に突っ立ち、ゲリラ豪雨が降ったかのように叱責された。
 頭の先から爪先までびっしょりという、滅多にない体験だ。
 犯人像を語ろうにも、浅野課長が烈火のごとく怒っているのでは、取りつく島もない。

 さて、どうしたものか。このまま帰れば、サイコロ部隊から「幼児の使い」と、バカにされる。
特に麻田さん。
男性全般を仇とみなすような、たまに本気が判ってしまうような上から目線のキツイ態度。その実は可愛らしい人に違いないと和田は信じてやまないのだが。

 などと、考えている暇はない。

 和田は給湯室に回り込んだ。流石に事務の女性は帰っていたが、一課の新米女子警官、遠藤かおりが、げんなりと疲れ切った背中を披露していた。
 遠藤に声を掛けた和田。
 捜査一課に掛けてあった時計はアナログ時計。針は夜中の2時前を指していた。今の時間に残っているとすれば、A-9事件の関係者に違いない。
 女性の苦労話は時として現状までの流れを語ってくれたりもする。進展しない事件にイラつく課内の雰囲気の悪さをねちねちと和田にぶちまけると、遠藤は突然元気になり、和田に向かっておほほと笑いかけた。

 一か八か。

 和田は遠藤に事件終了後ランチを奢る約束を取り付けた。『A-9事件:警察庁からメモ』とデカデカ書きこんで、お茶と一緒に皆の目に入る様、遠藤に頼みこんで届けてもらったのだ。
 机に突っ伏している長谷川巡査部長、磯部巡査部長。
 ここで『こんなもの!』と一蹴されればお仕舞。そのメモは永久に日の出を見ることが叶わず事件は泥沼に嵌る。
 ところが二人はそれまでの仏頂面とは180度変わって美青年になり、メモを読みだしたのである。
 長谷川が磯部に向かって翌朝のゲリラ作戦を持ちかけた。朝5時、明るくなったところに捜査のメスを入れる。
 当然その内容は和田も知って然るべき事案なのだが、捜査一課の連中は先程とうって変わって元気になり、和田を邪魔にする。
「お前誰だ。ああ、変人部隊の1年生か。もうサイコロ課に関係ないだろ。帰れ帰れ」

 和田は廊下で様子を窺うことすら許されず、ぷりぷりと怒りながらサイコロ課に戻った。
「市毛課長!あんまりじゃないですか。夜中に警察庁からわざわざ出向いたんですよ」
「彼らの脳ミソは、自分たちが事件を解決した、に摩り替るのさ。面白いじゃないか」
「だって・・・」
「俺達が纏めた事件経過を時系列に入力することで、捜査一課の人間がそれを基にしながら色々資料書くだろ」
「あ、それずるいです」
「ま、そう言わずに。此処はこういうところなんだよ。それよりお前、都内と四国、間違えて入力してたぞ。俺達が気付かなかったら四国の幽霊事件に発展するところだった」
「そうでした?都内って入力したはずなんだけど」
「そのすっとぼけだってズルい。今日はお相子だ」
「うげえ」
「夜中に資料を一人で持って警視庁まで出歩くのも禁止。誰が狙ってるかわからんのに」
「まったく。こういうのなんていうんでしたっけ。四字熟語。ああ、思い出せない」

 @[が和田の隣に立って、薔薇の花を一輪持ちくるくるとまわしながら、くすくすと笑う。
「折角ありがとう、でいいんじゃない?」
 和田が目を三角にするように下から睨みつける。
弥皇(みかみ)さん、貸し一つ。何か僕の耳に入ったら、速攻で其処等辺(そこらへん)にばら撒いてやる」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 事件を時系列に整理した「A-9事件」の概要。

 送迎バスに乗った園児たちは、午後2時30分にバスから降り、母親たちと合流し帰宅。
 ママ友と称した5人がその後、午後3時に近所の珈琲ショップで会う約束をした。
 失踪した園児の母親が家を出たのは午後2時40分。
 園児が失踪したのは、母親が歓談中の午後3時30分前後。

 歓談が終わり、母親が帰宅した午後4時30分には、園児の姿はどこにもなかった。
 園児には、宅配便が来るので荷物を受け取るよう、その間、出かけないように何度も言い含めておいたという。
 午後3時30分前に、家の前に宅配トラックが止まっていた
 その宅配トラック便を調べたところ、トラック便のドライバーは、何度インターホンを押しても中から応答はなく、留守だったと証言している。
 それらを勘案して午後3時30分前後に失踪したという判断が下ったというわけだ。
 実際には、母親が帰宅直後に閉じ込め、或いは殺害した可能性があり得る。
 送迎バス降車から自宅まで数分、珈琲ショップまで歩いて20分。

 弥皇(みかみ)が呟く。
「ギリギリだな」
「歩けば、だろう?」
 と、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の市毛課長。 

 課長が話を続ける。
 失踪した、誘拐かもしれないと言われれば、初動捜査で大規模な家宅捜索を行うわけがない。各部屋くらいは見るだろうが、屋根裏や家の下にでも隠しておけば、そこまで見ない。
 ましてや、お金持ちの奥様であり、半狂乱で子供の安否を気遣えば、まさか誰も自分の子供に虐待や暴力をふるう、あるいはネグレクトなどという心理面を考え付かないのが妥当な線であり、誘拐に携わるのが特殊班とはいえ、そこまで考えなかったのかもしれない。
 いや、もし仮に遺体が見つかったとしても、母親は知らぬ存ぜぬを決め込んだことだろう。そのように脳内変換していたはずだ。

 今度は反対に、母親の心理に立ち返り、物事を整理してみよう。
 付近の地理に詳しい母親が防犯カメラに映らないよう、自転車を使って珈琲ショップに行くのは時間的に見て充分に可能だ。自転車は何処かに乗り捨て防犯シールを剥がしておくか、見つかったとしても盗まれたと主張すればよい。手袋さえすれば自分の指紋も出ないし、万が一出たとしても、元々主婦専用の自転車だ。毎日のようにランチなどに参加してその場所まで自転車で行っていたとしたら、指紋があってもおかしくあるまい。

 心配なのは、事件発生後、5日経過していることだった。今まで母親が車で出かけた事実があるなら、車の中を捜索すれば何か出るに違いない。出かけていないなら、家の、そう、居室に置くはずがない。夫がどういう生活をしているか掴めていないものの、死体と一緒に暮らせる人間は、そうそう居ないものだ。
 だから、一時的に台所下の収納を外して何かビニールのようなものに入れるか、大き目のスーツケースのようなものに遺体を隠し見えないように放置しているだろう。
屋根裏に容易に侵入できれば別だが、着飾ることがステイタスの奥様が取る行動としては余りに手馴れ過ぎていて違和感が残る。
この母親は子供を殺めてしまった罪悪感より自分の洋服の汚れを気にするに違いない、とサイコロ課の面々は踏んだ。

 事件の経過を辿れば、腐敗臭が立ち込め始めてもおかしくない時期だ。そろそろ母親に動きがあるに違いない。
「どうして床下と当たりをつけたんですか?」
「警察は自宅に行くだろう?誘拐もあり得るわけだから。庭を掘れば、どうしたって警察の目に付いてしまう。だから、主に女性しか入らない台所、それも床下収納庫の下、と目星を付けたのさ」

 3日後、警視庁刑事局特殊犯罪対策部長が、サイコロ課に姿を見せた。
 皆、直立して敬礼する。
「事件解決への糸口、ありがとう。児童は残念な結果だったが、犯人は逮捕できた。これからも職務に励行するように」

 部長が居なくなってから1分も経たないうちに、だらだらと動き始めるサイコロ部隊。
「課長。あれって誉めてたんですか?もっと稼げってことですか?」
 和田の問いに、首を横に振る市毛課長。
「さあな」

 佐治が顎に親指と人差し指をVの字に当てて、顔を傾け、不思議サインを皆に送る。
「あの事件、被疑者が共依存していたのはわかったが、果たしてサイコパスだったのか?元々、サイコパスが連れ去りを起こしたとして、こちらに事件ファイルが来たんだろう?」

 麻田がさらさらの黒髪をかきあげるような仕草をしたあと、縁がグレーベージュのセルフレームメガネをかける。麻田が声を大にして言うには、このメガネは「近近両用メガネ」だ。周りは揃って反論する。
「それは遠近両用の間違いじゃないのか?」

 麻田は早口に異論を(まく)し立てるばかりか、掌を広げて自分に構うなという所作をする。その割には話たがっているようにも見える。
「みなさん。近近、遠近、この2つには明確な違いがあるんです。私の場合、普段使いのメガネは近視用、辞書や細かい字を見るときは老眼用、データベースと手元の資料をみる仕事中のみ、近近両用を使用しています。近近両用はパソコン等画面を見る距離に合わせますので遠くは見えません。そもそも、遠近両用は、普段使いと老眼鏡を兼ねた商品ですから、2つとも持っている私には必要ありません」

 和田が聞く。
「要は、何本メガネ持っているんですか?麻田さん」
「仕事に生きるには必要な道具だからね。何本でも」
 弥皇(みかみ)が頬杖をついて、麻田をまじまじと観察するように見る。
「コンタクトにすればいいのに。今じゃ遠近両用コンタクトあるんですよ。メガネだと見えない周辺もカバーするらしいし。麻田さんにメガネは勿体無いですよ」
「いいの。私の場合乱視もあるから、どうしてもハードレンズになるのよ。風が吹いた時のあの痛み、忘れないわ。もうしない」
「昔より付け心地良いかもしれないじゃないですか」
「付け心地関係ないから」
 麻田は、残念そうな顔をする弥皇(みかみ)を振り切って、仕事の話に戻る。

「先程のサイコパスの話に戻りますが、私は彼女がサイコパスだと確信しています」
 相手の気持ちはお構いなしに、自分の尺度や気持ちのみを優先させるのがサイコパスである。今回の母親の行動について、まず子供を諌めるのが先決であり、そのために親が自ら頭を下げ周囲に謝るのが、周囲と上手く付き合うための鉄則。
 結局、母親は頭を下げるどころか、父親にも報告していなかった。
 サイコパスは頭を下げることや、自分が諌められることを何より嫌う。サイコパスが頭を下げるとしたら、必要な場合に演技としてのみ。

弥皇(みかみ)くんはどう思う?」
「ハーフハーフ」
「馬鹿か、あんたは」
「失礼。ただ、所轄の取調べ状況は聞いています」
 取調べによれば、夫との確執というか、夫が別の女性と食事していたことで浮気を疑い、精神錯乱状態にあった、と言っているそうだ。輪をかけて子供の幼稚園での出来事があり、つい魔が差したと。

「僕は女性じゃないから分からないけど、食事に行ったくらいで精神錯乱するんですか?麻田さんの意見をどうぞ」
「私の意見が参考になるはずないでしょう、弥皇(みかみ)くん。夫もいないし子供もいないのよ。一つだけ言えるのは、サイコパスには口達者な者が多く、脳内変換力が極めて高い、ということよ」

 佐治が後を引き受ける。
「恐らく夫の浮気のせいにして、情状酌量を狙っているんだろうさ」
 それも、俗にいう、うそ発見器などに引っ掛からないほど、(もっと)もらしく脳内変換された、事実とは真逆のストーリーで。サイコパスのような類稀なる人種は、どんな機械にも反応しない。根っからのサイコパスなのだ。
「願わくば、反省、と言う言葉を知ってほしいものだ。情状酌量などあり得ない事件だから、しっかりと罪を償う機会は与えられる。しかし、反省しなければ罪を償ったことにはならないからな」
 市毛課長の言葉に、皆が神妙な顔で頷いた。

 こうしてA‐9事件ファイルは、まさかの展開で事件解決をみる。
 解決できた警視庁では少しは感謝したことだろうが、他の都道府県警では、サイコロ課の活躍を「あり得ない」と噂し合っているらしい。
 そもそも、どこからサイコロ課の話が漏れたのか。
 捜査一課では浅野課長を初めとし、長谷川刑事など皆が脳内変換したはずである。あのメモは捜査一課が考え付いたと。
 それこそがサイコパス的な考え方ではあるのだが、皆が皆サイコパスに当てはまるわけではない。
 その証拠に、各県警に今回の事件でサイコロ課が活躍したらしいという情報は流れた。

 そんなことはお構いなし。サイコロ課の面々は、今日も我が道を行く。

第1章  第3幕  The second case

 ある日のことだ。
 データベースを覗き込んでいた和田が、不意に呟いた。
「何年か前、クリスマス・イブ一家殺人ってありましたよね。未解決の」

 皆が顔を上げる。
「2年前の、あれか?」

 その事件は、2G-99事件ファイルと呼ばれている。

 2年前の冬、12月24日深夜。
 都内で一家が襲われ、両親と子供の家族5人が亡くなった事件だ。
 クリスマスツリーが綺麗に飾られ、サンタクロースの服を着ていた父親。対照的に、十字架に磔にされ、左胸に刃渡り数十センチの刃を突き立てられた母親。プレゼントを手に握った子供たち、という惨状で5人は見つかった。
 全員が絞殺で、現場に残された指紋はなく、犯人の遺留品は一切見つからなかった。下足痕すら明確なものが見つからず、周辺の防犯カメラにも犯人らしき人物は映っていなかった。

 当初、妻の遺体状況を重視した警視庁は、妻に恨みを持つ者の犯行と断定し、捜査を開始した。
 クリスマス・イブというイベント当日でもあり、街の中は賑わい、人出も多かったはずだ。近隣に聞き込みをすれば、何らかの動きがあると思ったのだろう。

 妻は銀行員で、異動こそあったものの、結婚するまでは浮いた噂も無く、結婚に至った。
 夫は小さな会社を経営しており、周囲では金に困った様子は見受けられなかったという。
 あるとき遠隔地に異動命令の出た妻は、それを機に銀行を退職し、遠隔地に行かず同行のパートとして働いていた。

 捜査線上に浮かんだ妻の知り合いの男性陣には、悉くアリバイが成立し、すぐに捜査は行き詰った。
 聞き込み範囲を会社経営の夫近辺まで広げたが、それでも目ぼしい容疑者が現れることは無く、通りすがりの猟奇的殺人ではないかとの見解が主流となり、並行しての目撃情報の聞き込みも範囲を広げた。
 それも空振りに終わり、現在に至っているのが実情だった。

「あれって、本当に通り魔だったんでしょうか」
 和田が、どうにも腑に落ちないと言った表情で弥皇を見る。
「どうしたのさ、急に」
 ちょうど、データベースから離れ珈琲をマイカップに入れていた弥皇が和田に聞く。
「事件の現場ですよ」
「現場?」
「通り魔サイコパスの犯行と仮定して、僕には理解できないことが多すぎて」

 和田の講釈によれば、子供へのクリスマスプレゼントが理解できないと言う。クリスマスのプレゼントは必須アイテムだから、父親のサンタクロース姿はある程度、意味づけが有る。
 その場合、母親の十字架磔は関連性が無い。これが父親ならイエス・キリストを模したものと考えられるが、母親に対する凶行は意味をなさない。聖母マリアやマグダラのマリアでさえこのような刑罰は受けていない。
 磔の聖マブラとその夫など、およそ一般市民の知らない人物なら女性の磔もあったが、著名人の磔がない。

 となれば、妻を十字架に吊るしただけなのか、本当に磔にしたかったのか、2つの心理的行動にして、その意味は全然違うものとなる。

 妻が不倫をしており、相手の男性が不倫相手を磔にした、或いは何処かで別の女性に恨みをかっての磔なら、そこには悪意が蔓延しており、夫にわざわざサンタの服など着せるわけもない。
 男性は、不倫相手の夫など、なるべくなら見たくないものだ。男性の憎しみターゲットは、非力の女性である場合が多い。

 反対に、夫が不倫していたとしよう。
 不倫相手である女性は現場を混乱させるため、不倫相手である夫にサンタの服を着せるかもしれない。女性が憎しみターゲットとするのは男性である夫ではなく、女性である妻であることが多い例から見ても、妻に刃を向けることもあるだろう。

 それにしても、刃を向けた相手を磔にするなど、女性一人の力では難しい。
 その証拠に、データベースの資料では妻の身体には引きずったような跡が見受けられないという。あるのは、死亡の原因となった首元のロープ跡と胸の刃だけである。刃の跡は包丁だったようだが、科捜研の調べだと、生活反応がない、いわゆる落命後の仕業だという。

 と、ここまでは、一般人の心理でモノを語った場合である。

 これがサイコロ課のサイコロ人の見立てだとどうなるか。
 まずもって、一般に通り魔と呼ばれる殺人の場合、一種独特の供述が得られる。
「自分を受け入れてくれる人がいなかった」
「親と折り合いが悪かった」
 これらの中には脳の器質異常もあるだろうが、家族構成や家庭内環境など、他人には分からない悩みなどを抱えている場合も、往々にしてあるものだ。

「人を殺してみたかった」
 過去には、人肉を喰らう目的で女性に近づき、知り合いになったところで女性を食事に招待し、そこで凶行に及んだ例は実在する。そういった、凶悪と言うよりもどこか薄ら寒い事件は、流石にサイコパス的要素の強い事件でもある。
 サイコパス達は、あっけらかんと殺害目的を口にする。

 和田の論理からすると、己のアリバイをきちんと構築できる犯人はサイコパスらしくない。そもそも、サイコパス達が完璧な殺人を犯す例は少ない。自分では完璧なつもりが、どこかに見落としがある。
 サイコパスの行動原理とは何なのか、不明な箇所も未だ残っているのである。

 ふとした悪意と、ふとした殺意。
 クリスマスという聖なる日に(なぞら)えた悪意は、時間を掛けて劇場型犯罪を行い、2年も見つからずにいる。
 いや、サイコパスだからこそ、何食わぬ顔をして生活しているのかもしれない。己の犯罪に酔いしれながら、このまま逃げ遂せるつもりでいるのだろうか。

◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

「なんか、引っ掛かるな。その光景を思うと」

 弥皇(みかみ)が、コンクリートむき出しの事務室内で冷ややかな佇まいの天井を見ながら、さも当時の光景を浮かびあがらせるように呟く。
 和田が反応した。
「何がです?弥皇(みかみ)さん」
「磔って、いかにも悪いイメージに思われがちだけど、イエス・キリストを模した可能性もあるかなって」
「蘇るってことですか?」
「或いは」

 離れて座っていた佐治が、机に頬杖を突きながら、弥皇(みかみ)と和田に手を振っている。
「俺の家では、ツリー飾ってピンポンダッシュして、子供にプレゼントあげてたぞ」
 皆、異様な顔つきで佐治を睨む。
「何ですか?ピンポンダッシュって」
「文字どおり、ピンポンダッシュだよ」
 佐治によると、佐治妻からの提案で昔行っていたクリスマスイベントだという。

 プレゼントをあらかじめ準備して、妻と娘と3人、家族全員でリビングにいる。
 母親が、子供を2階に連れて行く、何かしら理由を付けて。一種の気を逸らす方法である。その間に父親はリビングの窓からダッシュで外に出て玄関先にプレゼントの箱を置く。
 そしてインターホンを押してダッシュで窓からまた家に入り、『誰か来た見たいだね、行ってみようか』となる。
 そこで子供はサンタさんが家に来たことを知る、という寸法なのだそうだ。

 弥皇(みかみ)が呆れた顔をする。
「凝り性ですからね、佐治さんは。奥さんも良く協力してくれましたね」
「妻の提案だから。俺はサンタ役を演じていただけだ。課長んとこはどうでした?」
「うちは子供いないから、わからん」
「サンタっていえば、サンタから手紙が届くようなイベントありますね」
「ああ、本場から届くとか。子供にしてみれば夢のような出来事かもね」
「大きくなって、事実を知った時の衝撃は大きいだろうなあ」
「その前に、こんなもんだなって思うわよ、今の子供なら」
 麻田はガキの頃から夢の無い少女だったのだろうな、と佐治と弥皇(みかみ)が口を手で隠しながら、こそこそと呟いている。

 和田の、むっとした声が響く。
「僕のいうこと、聞いてます?」
 皆が和田の方を振り向く。
 代表して、市毛課長が謝った。
「悪い。サンタ談義に興じてしまったよ。で、磔が不自然だと思った捜査一課の連中は、サイコパス説を捨てて奥方関係を洗ったけど、何も出てこなかったんだろう?」
「はい、そのようですね」

 弥皇(みかみ)が、考え込んだ末に和田に聞く。
「そもそも、この家ではそういうシチュエーションで父親サンタとか、毎年してたのかい?」
「いえ、データベースでの検索になりますが、子供の友人たちによると、プレゼントはいつも枕元に置かれていたと話していたことがあるそうです」
「ふーん、その年だけサンタ姿ねぇ」
「子供は、男の子だけ?」
「いえ、3人のうち、一番上が男の子で下2人は女の子です」

「解せない」
 佐治が腕を組み椅子に踏ん反り返りながら持論を展開する。

 人間と言うものは、そもそも行動パターンが変化しないものである。性格がそうであるように、行動を全く変えるのは、本当に稀だ。クリスマスイベントの内容を全く変えるのも、何かしら理由があっての趣向の変化でない限り、通常は起こり得ないという。
 だから、全く別の人間が入り込んで細工した可能性が高い。しかし、プレゼントを握らせるにも、その年齢や性別に適したものでなくてはならない。
 通り魔的犯行であるならば、それはリスクと言わざるを得ない。
 どの家に入るかも決めていないのなら、その家族がどういう家族構成でどんな趣向を凝らしているかもわからない。
「まあ、本物のサンタが有り余るほどプレゼント持っていたなら別だが。ある程度、この家の内情を知っていないと。通り魔で片付けるには、少し無理がある」
 此処で再び麻田が参戦した。
「佐治さん、私や弥皇(みかみ)くんは独身だから経験ありませんけど、子供に聞くんですか?プレゼントの中身」
「普通はどうだろう、うちではサンタさんは何を持ってきてくれるかな?って聞くと、子供が自分の欲しいものを必ず口走るんだ」

 ここで市毛課長の出番と相成った。
「いずれ、過去の事件で今はもう物的証拠すら見つからないし、遺体さえない。せめて遺体の状況が判れば話も進むが、こうしていても堂々巡りだろう。和田、警視庁から遺体の解剖診断書を取り寄せて見ろ。何か見えていないものが見える可能性もある」
「はい、承知しました」

 2日後。
 和田は朝から、がっくりと肩を落としている。
 警視庁に問い合わせたところ、科捜研では状況を検証したものの、司法解剖においても何ら問題は無く、絞殺との判断に至った、という返事のみ。解剖所見の詳細は教えてもらえなかったというのである。
 警視庁にしてみれば、サイコロ課など取るに足らぬ組織であり、自分たちが見つけられないものを見つけられるはずがない、という態度が見え見えである。万が一見つけられたら、それこそ全国の恥さらしになる、そう思っているらしい。

「仕方ない。出向くとするか」
 市毛課長の言葉に素早く反応する麻田。
「あ、私、留守番してますから4人でどうぞ。何かあったら、連絡ください」
 6月近くになり、湿っぽい日も増えた。
 麻田はズルい。
「はいはい、僕たちは同行ですね」
 残りの3人は麻田を恨めしそうに見ながら、課長と共に警視庁に出向いた。

 捜査一課に赴いた4人。
 今度はサイコロ課の課長まで居ると言うのに、長谷川・磯部の両刑事ときたら、いつもの調子で嫌そうな顔と失礼な態度を露骨に表現する。
「浅野課長、いる?」
 市毛課長が聞いても、無視する捜査一課員たち。
 和田は今度こそ、怒鳴りつけたくなってきた。隣にいる佐治と弥皇(みかみ)を見ると、何故か二人とも笑っている。この状況でどうして笑えるのか。
 普通の人間なら、怒って爆発するところかもしれないのに。

 不思議なことに、サイコロ課人は自分たちを嫌う人間の心理にも興味がある。
 失礼な態度がどのような心理から脳を経由して表情に至るのか、声にするのか、そういう本音の部分に興味が集中する。
 あからさまに嫌味な態度を取るということは、サイコパスから遠ざかっているとも言えるかもしれないし、そうでないのかもしれない。
 佐治や弥皇(みかみ)から言わせれば、善人も悪人も人は人。人間ほど観察していて面白い物は無い、ということのようだ。

 市毛課長を先頭に待つこと1時間。
 何処からか出てきた浅野課長は、サイコロ人に目もくれずブツブツと文句を言いながらも科捜研に電話する。
 サイコロ課を代表し、和田と佐治が、当時の資料を仕舞っている部屋に案内されることになった。
 市毛課長はまだしも、弥皇(みかみ)が資料を持たないのは不公平だと和田が心に思い浮かべると、佐治がその胸の内を大声で弥皇(みかみ)に話す。なぜ自分の思いがバレたのかとドッキリした和田は、防戦一方だ。
 結局資料室には4人全員で行くことになった。

 和田は廊下に出ると、捜査一課を指さして鬼だとでも言いたげに両手を使い角を立てる。
「僕が来たときはゲリラ豪雨だったんですよ、浅野課長」
 和田の恨み節は消えない。
「なあに。今日はたまたま機嫌がいいのさ」
 市毛課長は和田の肩をポンポンと叩き、科捜研に行くぞという顔をする。

「また事件解決、よろしくお願いしますぅ」
 磯部刑事が冗談を言った時だった。長谷川刑事がその肩を小突き、もう関わるなといった風体で手を振る。
 浅野課長は黙ったままだった。

 科捜研から借りた5箱ほどの資料。
 資料はサイコロ課に持って帰らないというのが捜査一課との約束だったらしい。
 資料室に缶詰にされた4人。
和田は外部入力用にデータベースの小型版が入力されたタブレットを持参していた。そのタブレットに入力していく。あとの3人は、資料を総て見ながら必要と思われる個所を読み上げ、和田に入力させる。

「目ぼしい個所がないねぇ」
 佐治がトーンダウンしている。
「2年前だし」
 弥皇(みかみ)も半ば諦め顔だ。
 市毛課長だけは、何も口にすることなく黙々と資料を読み漁り、写真を見ている。
「和田」
「はい、課長」
「解剖所見によると全員絞殺となっているが、1人だけ電流を流された人物がいるようだ。ほらここ、首に少しだけ火傷の跡が見られる。新しいのかな、古いのかな」
「妻ですか?」
「夫だ」
「じゃあ、絞殺ではなく感電死ですか?」
「これだけでは断定できないな。解剖医の所見としては、絞殺だ」

「課長」
「なんだ、弥皇(みかみ)
「絞殺とかロープと資料にあったから、普通のロープだと思ってたら違うんですね。夫以外は、異様な紐の痕ですよ。これ、クリスマスツリーのオーナメントじゃないかな」
 和田が弥皇(みかみ)の肩を突く。
「夫だけはちょっと他と形が違っていたみたいですよ。夫の写真はないのかな」
弥皇(みかみ)、夫の写真あったぞ。オーナメントのようなものと、ドライヤーのコードが巻き付いてる。感電と絞殺の両方、死因があり得るわけだ」
 市毛課長の言葉を聞いていない和田は別の視点で物を言う。
「子供たちは丁寧にプレゼントを握らされていますね、絞殺直後でしょうか」
「たぶんな。和田。あと、妻の方に何か不審な点はあるか?」
「いえ、課長。奇異な姿以外は何も」
「磔といっても、吊るした感じだな。昔の磔を忠実には模していない」
「サイコパスなら、寧ろ、そういうところを忠実に再現すると思うけど」
 佐治も弥皇(みかみ)も同意見のようで、自分が最初に言い出したのだと喧嘩している。

 馬鹿二人を放ったまま、市毛課長が和田に指示する。
「家族の通院歴とか、そういった情報も調べてくれないか」
「は?」
 和田は何の事だかわからず、急いで自分が入力した画面を探す。
「あ、妻も夫も心療内科に通院していますね」
「処方されていた薬も入力しておくように」
「はい、何種類かありますね、っと。終わりました」
 市毛課長がゆっくりと椅子から立ち上がり皆に指示した。
「そうか、では暇乞いしよう」

 また捜査一課内に赴き、市毛課長が浅野課長に一言、礼を言うらしい。
 さっきだって待たせた挙句にブツブツ文句言う始末なんだから無視すればいいのに、と和田は思っていた。
 しかし市毛課長の姿を見た瞬間、浅野課長が椅子から立ち上がり敬礼しようとしたのが見えた。捜一課員は皆気付いていないようだ。
 和田、弥皇、佐治ともビックリ仰天である。
 市毛課長はと言えば、浅野課長の動きを瞬時に見切り、すっと右手を出して握手を求めた。
 浅野課長が目を潤ませたのを見逃すサイコロ人たちでは無い。部下の手前もあろう。サイコロ人たちは一列に横並びし、浅野課長の顔が部下に見えないようにした。
 和田の情報網には引っ掛かりもしない、相当な何かがある。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 帰りもまた市毛課長を先頭に、4人並んで警察庁5階のサイコロ課に戻る。
 手を振って、課内では何も情報が出なかったと知らせる麻田。
 和田はタブレットデータからサイコロ課のデータベースにデータを転送していた。
 データ転送を待つ間、皆で珈琲を飲みながら黙って目を瞑っている。
 (皆、絶対寝てる)
 和田は目を三角にし、半ば怒りながら作業を進めた。僕だってひとしきり仕事してまたここに立ってデータ移行してるのに。なんでみんな何も言わず寝てるかな、と。
 最初は怒りに染まっていた和田の感情が替わってきた、和田には別のルートが見えてきたように思えたのだ。

 まず、夫妻が通院していた精神科の医師に関してアリバイを調べていない。
 さっきは入力で手一杯だったが、向精神薬も含めかなりの薬が処方されていた。
 医師ともめた可能性はある。医師なら、論文執筆するため、といいつつ一人になる時間が出るだろう。其処等のヘボなドラマと同じトリックという訳だ。医師自身が妻に興味を示し断られたため、一家惨殺という行動に出た可能性は大いにある。
 サイコパス犯罪ではなく、ただの痴情の縺れというヤツか。

 しばらくすると、トン、とデータ転送の終わった音が鳴った。皆を起こそうかなと和田が席を立った瞬間、皆はすっと目を開けた。
 自分以外の皆が寝ているわけではなかったらしいと解した和田の怒りもようやく冷めた。

 市毛課長が和田の方を向いて聞いた。
「和田、全て見られる状況か?」
「はい、転送終了しました」
「よし。では、私から。結論を最初に言おう。これはサイコパスによる猟奇殺人ではなく、無理心中だ」
「えっ?」
 和田だけが、素っ頓狂な声を上げる。
「サイコパスによる殺人ではないのはまだしも、精神科の医師はまだアリバイ確認していませんよ」
「確かにな。今更調べても2年も前だ、アリバイは出ないだろう」
「なら、医師が凶行に走っていないと言い切れないです」
「普通ならば、そう思うだろう。でもあの場合、違うんだ」

 弥皇(みかみ)と佐治も同意見だった。
「そうですね、医師の存在があったとしても、あれなら状況に納得がいきます」
「見かけの異状さに惑わされてしまいそうになるけど、あの家に外部から侵入した形跡はない。まして、サイコパスの犯行なら子供たちをあんなふうに扱わないね。とても丁寧に扱われていたから。完璧を好むサイコパスは多いが、実は穴だらけなんだ、サイコパスの行動は」

 だが、捜査権のないサイコロ課では聞き込み調査もままならない。そこで捜査一課の浅野課長から要請された体をとり、普段なら足を使わないサイコロ課員たちの地道な聞き込み調査が始まった。
 そして少しずつ事件の全容が明らかになってきた。

 この一家は、妻が銀行員、夫が自営業とごく普通に生活していた。
 が、3年ほど前。妻が勤務先の銀行でパワハラを受け鬱病を患い心療内科に通いだした。鬱との診断から1年。銀行側は妻に対し退職しろと言わんばかりに遠隔地への異動を命じた。妻は退職を余儀なくされ、それでもパートとして銀行に残り続けた。建てた家のローン返済や子供の教育費など、一生懸命だったのだろう。
 誰にも相談せず、もくもくと仕事をする中で、心は徐々に壊れ始めた。
 抗鬱剤を初めとした向精神薬の種類は増え続け、抗鬱薬3種類、抗不安薬3種類、睡眠導入剤、睡眠剤3種類を処方されていた。
 そして、今度は夫が半年ほど前から鬱病を発症し、同じ病院で、抗鬱薬2種類、抗不安薬3種類、睡眠導入剤、睡眠剤3種類を処方されていた。夫が鬱病を発症した原因はわからない。

 近所づきあいはそれほど良くなかったらしい。夫婦とも仕事を持っていたのも理由だろう。ただし、町内の参加必須行事には、夫が顔出ししていたようだ。
 2人で病気を患ってからは、その回数も減っている。周囲では健康面で何かあったのかと心配していた住民もいたが、頑なに援助を拒まれ、周囲の住民は家の中に入れず相談できる役所などを紹介することもできなかったという。

 
捜査一課とは別に和田が通院していた心療内科の実態を調べたところ、薬漬けにする病院として有名だった。
 実際に科警研の薬剤師免許保持者に見せたところ、通い始めた年数を考えると処方薬が多すぎる。尋常ではない量の処方だ、との指摘があった。
 通常は、少量から開始して様子を見ながら増量、というのが薬学のセオリーだろう。
 強い抗鬱剤も、一度薬漬けにされるとなかなか抜け出せないばかりか、抜け出そうとするときの離脱症状と言うものが人それぞれ違うらしく、酷い人は半年以上も苦しむという。
 

 一家の内情に話を戻そう。

 パワハラで精神を病んだ妻。
 実際には躁鬱病だったが鬱病と診断された。そこまではよくある話だ。鬱と躁鬱を見分けるのは難しい。それでも、鬱診断時から尋常ではない薬の数、普通とはかけ離れた処方。
 これでは、妻が普通の精神状態でいられなかった様子が垣間見える。
 たぶん、気分の乱高下を繰り返したのだろう。
 仕事には出ていたようだが、仕事や家事が、まともにできたかどうかは不明だ。警視庁の資料では、妻の勤務先には交友関係を重点的の聞き取りし、パワハラや通院歴などは補足として聞き取っていたようだが、薬の量を考えると、自殺企図を起こしただろうことは容易に想像できる。
 警視庁の方々は、なぜか見逃したようだが。

 また、仕事をしながら子供たちを世話し、妻の分まで家事に追われた夫。
 少し疲れてしまったと考えるのが妥当だろう。そこで例の心療内科を訪れた。
 本当は心が少し疲れただけだったのに、よりによって、強い抗鬱薬を処方された。それも、初期段階で飲むような錠数ではなかった。その他にも数種類の薬剤を処方されていた。
 抗鬱薬は諸刃の刃である。使い方を誤れば、さまざまな症状に苦しめられる。自暴自棄になったり、狂暴化したり、自殺企図を起こしたり。
 病に、そして薬の作用に、また副作用に翻弄された両親2人は、心の行き場を失い、一緒に自殺を図ろうとした。

 ここで問題が起こった。
両親の入っていた生命保険では、自殺の場合保険金が支払われない。残された子供たちは生活できないばかりか、施設送りになるだろう。身勝手になった両親は、子供たちを自分たちが処方された睡眠剤で眠らせ、クリスマスオーナメント用のコードで絞殺した。
 その後、妻は夫に絞殺を持ちかけ、夫は泣きながら妻を殺めた。そして、キリストの復活になぞられ、妻を十字架にはりつけるような形で見送った。
 最後に夫は、終ぞ着たことの無いサンタクロースの衣装を着て、ロープを自分の首に巻き、ドアノブに自分を吊るそうとした。
 その方法では妻や子供たちの後を追うことができなかったのか、初めから現場を混乱させるつもりだったのか。
 いずれ、死にきれなかった夫は、次にドライヤーのコードを首に巻き、水場の方に近づいた。自らを感電させるために。
ただ、そこまで辿り着いたのかどうかはわからない。

 夫はたぶん、泣きながら一連の作業を行っていたのだろう。警視庁の調書には載っていなかったが、写真をみたところ、クリスマスツリーのオーナメント部分とサンタの洋服に、妙な斑が出来ていた。涙の跡と類推されるようなものだった。
外部の人間による犯行なら父親の服だけに涙が付くのはおかしい。犯行の際に涙を流していた痕跡ではないか、との結論に至ったサイコロ課員。

 首に巻き付けたドライヤーのコードを電源に差し込んだとき、涙がドライヤーの中に入ったのか、或いは台所まで行けたのか、近くに水物を用意したのかも分からない。
 いずれ、夫は自分の首を絞めるのではなく、感電を目的としてドライヤーを準備した模様だと思われる。何らかの方法でコードを差し電源を入れ、水の類いにドライヤーを漬けようとしたはずだ。
 現場からすると、テーブルにコップがあったのだろう。水かジュースが入れてあったと思われる。
父親が水分のあった場所からツリー付近まで吹っ飛んでいることを考慮すると、首吊りによる自死というよりも、感電死が第一の目的になる。
 しかし、そこで運良くか、または運悪くか、コードが抜けた。そのためコードによって首が絞まったのか、今となっては検証の仕様もない。
 結局、異状な光景がまず目をひいたために、夫が感電を目的としたものと見なされず、絞殺主体で検視が進んだものと推察された。当時の科捜研としては、失態中の失態である。

 司法解剖で涙の要素が検出されたとは書かれていない。或いは涙の欠片すらなく、夫が常軌を逸した犯行に走ったとも考えられる。
 それでも、子供たちへの接し方を見る限り、親として子供たちを愛していたのは紛れもない事実だったと推し量ることができる。

 これが、サイコロ課が出した「クリスマス・イブ一家殺人事件」の顛末だった。
 サイコパスが起こしたと言われ、世間を騒がせた事件。

 両親は決してサイコパスなどではなく、極々普通の人間で、極々普通に暮らしていた。何がきっかけとなったのか。
 職場でのパワハラか、飲み過ぎた薬か、それはわからない。生と死の狭間のトリガーを見つけるのは、2年経った今となっては難しい。
「無理心中なんて、本当に哀しいですね」
 和田が、か細い声で呟いた。
 皆が頷く。

 市毛が和田の肩をポンポン、と叩く。
「これが彼等のためになるのか、それはわからない。そもそも、我々の考えが採用されるとは限らない。それでも、我々はこれを結論として出した。資料を捜査一課に送ってくれ」
 こうして、2G-99事件ファイルを締めくくったサイコロ課だった。

第2章  第1幕  The third case ~ Monster

 近頃大きな事件も無く、定時に帰宅するサイコロ課の面々。
 佐治は家で邪険にされるのが怖くて、定時帰宅の日は図書館巡りに出向いているらしい。なんという、可哀想なお父さん。
 それでも、過去に起きた事件の載った新聞記事などを集めているコーナーに入り浸っているという話も聞く。
なんとまあ、仕事熱心な事か。
 そんな佐治が、ある日結婚詐欺の話題をもって颯爽と登庁してきた。
 
「おう、独身3人組!結婚詐欺なんぞに引っ掛かるんじゃないぞ。ちょうど1年前に結婚詐欺から始まった殺人未遂事件があったそうだ」

 和田が自分の机から立ち上がり、データベース用デスクに向かうと、わらわらと検索し始める。
 弥皇(みかみ)と麻田は、己の興味の範疇にない男女間のトラブル~事件である。故に何の反応も見せない。
弥皇(みかみ)に至っては徐に席を立ち、珈琲タイムだと言わんばかりに課内に設置されている珈琲サーバーに手を伸ばす。
片や麻田ときたら、警視庁内の規則が書かれた例規集を紐解いているように見せつつ、その下には沖縄リゾートの旅行ガイドブック。

 佐治は自分の椅子に座らずに、自分の向かい側にある弥皇(みかみ)の椅子に座ると、隣にある麻田の机をガン見する。
 二人の思考を見透かしたかのように佐治が咳払いすると、ぐるりと遠巻きに歩いていた弥皇(みかみ)が麻田の机に辿り着き、麻田に囁いた。
「結婚詐欺って、結婚した後に態度が変わって邪険にするのも含まれると思いませんか。籍入れたら一生飼い殺しですよ、怖い怖い」
 麻田が弥皇(みかみ)の顔を見ながら大きな声でほざく。
「同感だわ。金持ってかれたとしても、結婚しなくて済んだなら、これもまた幸いよね」

 麻田の隣にある弥皇(みかみ)の椅子に腰かけている佐治に聞えたようだ。というか、さも聞こえるように大きな声を出したとしか思えない麻田。
「そこ!なんだとぉ」
「何も言ってませんよ、ねえ、麻田さん」
 麻田は直ぐに裏切る。おまけに、地雷を踏みまくる。
弥皇(みかみ)くんがね、結婚後に態度変わるのも結婚詐欺だって言ってるー。佐治さん、心当たりあるー?」
「どのツラして言う、弥皇(みかみ)よ」
 弥皇(みかみ)はまさに佐治家の地雷を踏んだ。
 家庭の話を佐治に振るのは自殺行為だ。佐治は元々の顔が怖い。身体も鍛えているから、痩せた弥皇(みかみ)がひょろひょろと見える。
 弥皇(みかみ)はその分、身のこなしが速いと言うか、逃げ足が速い草食動物のように動き回る。弥皇(みかみ)は麻田の右肩をポン、と叩いて向かい側にある和田の机がある場所に逃げる。佐治が自分の机に戻ると、今度は麻田の椅子の後ろに逃げる。その繰り返しだ。
 佐治は追いかけるのを止め、どっしりと自分の椅子に座りこんだ。
「お前女性と付き合ったこともないんだろ。まさかのゲイか?」
「まさか。女性には優しいでしょ、僕。結婚に興味ないだけですよ」

 弥皇(みかみ)の返事を待つかのように、麻田が今度は時限爆弾をもってやってくる。
「言われてみれば弥皇(みかみ)くんって、誰に対しても優しいよね。好みのタイプとか無いの?」
「綺麗に越したことはないし、料理上手に越したことはないですけど」
 麻田の顔が鬼のように赤らんできた。
「おう、弥皇(みかみ)よ。あたしの前で料理の事言うかね?あとで休憩室にて寝技かけてやる」

「麻田さん、綺麗でしょう。料理は上手か知らないけど」
 弥皇(みかみ)は麻田の怒りなど構わずに”正直者”を演出し、なおかつ言葉にする。
 麻田が怪獣のようにガオーッと両手を上げるのを見ながら、佐治はやれやれと言った表情で、データベースに集中している和田に声を掛けた。
「どうだ、何か出てきたか。サイコパス系の結婚詐欺」
「そういえば。前に結婚詐欺か何かで捕まった事件がありましたね」
「サイコパス系なんてあるの?」
 麻田と弥皇(みかみ)が同時に反応した。
この二人、どちらかと言えば性格的に似ているのかもしれないと和田は考えている。

 二人を見てか見ずしてか、和田が顔を上げて右手人差し指を上に突き出す。

「あ、あったあった。ありましたよ、物凄いのが」
「物凄いって、何が」
「カテゴリですよ、覚えてませんか?弥皇(みかみ)さん」
 誰にでもフェミニストの弥皇(みかみ)は、思い出せないでいるらしい。
 弥皇(みかみ)よりも麻田が最初に、事件の概要を思い出したようだ。
「あ、思い出した。あれ、かなりのカテゴリだったわねえ。流石の私もぶっ飛んだ」

 事件の概要を知らされ、佐治と弥皇(みかみ)も思い出した。
「サイコパス女性の際たる実証、結婚詐欺事件ですね」
「ああ、あの・・・」
 4人全員が口を揃える。
「あり得ないカテゴリ」

 今度は皆が一斉に話し出す。誰が誰に話しかけているのかもわからない。傍目から見れば、全員が独り言を言っているように聞こえるかもしれない。それくらい、目と目を合わすことなく、相槌を打つでもなく、好き勝手に話しているのである。

「そうだな。カテゴリ的にはあり得ない。でも確か、料理が上手かったはずだよな」
「男性は料理上手の女性に弱いですからねぇ」
「でも、あれって我々の業務にとって、一番参考になるケースじゃない?」
「サイコパスは男性の方が多いとする論文もあったはずだけど」
「そうですね、連続切り裂き事件とかが有名です」
「それは殺人とか凶悪な犯罪をデータに落とし込んでいるだけで、実際には女性のサイコパスだって多いと思うわ」
「男性の結婚詐欺なんて、騙して捨てて終わりでしょ。最後に追いすがられて殺すのが常套。サイコパスかどうかも怪しいわよ、あの事件とは比べ物にならないわ」
「女は怖いと言いますけど、下手に料理上手な人は危ないんですかね」
「佐治さんのお宅では、奥さんの料理ってどんな感じです?」

 佐治はどうでもいいといった面持ちで、そっぽを向く。
「女性も男性も、料理上手に越したことはないだろう」
「佐治さんはもう結婚しているから別として、弥皇(みかみ)さんならどうです?あの事件の被害者のように、お金、渡しますか?」
「ああ、僕はお金持ってないから大丈夫。和田くん。詐欺ってね、お金持ってる人が引っ掛かるから」

 麻田が半ば囃し立てるように、弥皇(みかみ)の方を見ながら小さく拍手する。
弥皇(みかみ)くんらしいわ。生活能力まるでなし。結婚できないわけだ」
「麻田さん、僕は出来ないじゃなくて、しないんです。間違えないでくださいよ」

 もうたくさんだという顔をする佐治。
「どっちも理解不能だ。俺は家族が大事。それだけだよ」
 和田が、佐治に向かって天使のような微笑みを返す。
「僕はまだ彼女もいないですけど、佐治さんや課長のような家庭を持ちたいです」

 と、和田を指差し、口に手を当てて、ひそひそ声で話すフリをしながら、その実、大きな声が課内に響き渡る。
「あ、和田の坊主がいい子ちゃんしてるわよ」
「ホントだ。お坊ちゃまがいい子ちゃんしてる」
 性格の悪いアラフォー2人組。麻田と弥皇(みかみ)である。

 さて。
 彼らが話題にしているのは、データベースに登録された結婚詐欺の事件だ。関西と関東でそれぞれ、女性が男性から金をだまし取り、様々な方法で男性たちの命を奪ったとされる事件。
 40代から80代の男性合わせて10人以上が犠牲になっているはずだ。
 女性たちは、『カテゴリ』とサイコロ課の面々が口にするように、美人と評する人は少ないと思われる。男性なら容姿に目が向くのでは?と思いがちだが、実は違う。
 最終的な伴侶を決めるのは、女子力。料理の腕前であったり、家庭的な雰囲気であったり。
 事件の犯人も、さもありなん。料理上手な面や面倒見の良さを己が武器として、次々と男性に近づいたと言われている。

 それにしても、これら事件の異様さは、金を巻き上げ、巻き上げた直後に次々と命を奪った点にある。
 直情型犯行ではなく、綿密に計算したであろう、すべて違った方法で男性たちは命を落としている。火事が3件、入水自殺が2件、練炭自殺が3件、車の自爆自殺が2件。
 調書を見る限り、共犯者の影は見えない。女性は綿密に計画及び実行したつもりだったようだが、警察からすれば犯行手口そのものは幼稚極まりなかった。練炭の購入記録や男性たちの胃から見つかった薬物など、至る所に綻びが見つかり、そこから犯人と言えるだけの状況証拠は揃った。

 しかし、確実な『自白という証拠』は何一つない。
 裁判では、『疑わしきはこれを罰せず』
 だから状況証拠だけで捕まえても犯罪の立証にはならないのである。
 罪を問われない。
 もしも、女性達がそこまで考えて犯行に及んでいるとしたら、犯行の立証は一筋縄ではいかないだろう。

「サイコパスの一番の素質と言うか、彼らの中に蠢くものって、自己防衛反応なんでしょうか」
「だから状況証拠は残しても、確実に自分を指し示す証拠は残さない、か」
「状況証拠のみをわざと残すのかもねぇ」

 麻田は紅一点として、射的ターゲットにされているような錯覚に捉われる。
「私に聞かれても。ただ、和田くんのいう自己防衛反応には長けている、私もそんな気がする」
「この犯人はこうして警察の手に落ちたから、これ以上の犠牲はでないけど、世の中じゃまだまだあくどいサイコパスが、蜘蛛の巣のように網を張って待っているかもしれないというわけか。怖いもんだよ」
「サイコパスの要素は、見かけじゃ判断不能だから困るよね。僕らだって、いつ引っ掛かるかわからないわけだろう?ねえ、麻田さん?」
弥皇(みかみ)。あんたは早く詐欺に引っ掛かれ」
「どうしてそう捻くれたものの言い方をするかな、素直になって欲しいなあ、麻田さん。仲良くしましょう」
「あ、言い過ぎたかな。さすがに。ごめーん」
「とにかく、仲良くしましょう。5人しかいないサイコロ部隊ですから」
 麻田も弥皇くんに一本取られた格好だ。
 冷静に対処しなければ、サイコパスの餌食になるのは目に見えている。

「おい、そろそろ雑談は仕舞にしろよ」
 市毛課長のお出ましで、大論争は終わりを見た。
 一番ほっとしたのは佐治だろう。結婚詐欺を口走ったばかりに、大論争に発展し自分の家族のことを聞かれる。佐治はこの半年、いや、1年。家で誰とも話をしていなかった。それを誰かに悟られることを嫌って、自分のことはなるたけ話さないようにしていたのだ。

「課長。何かありましたか?」 
 佐治の声とともに皆が一斉に立ち上がり、市毛課長を見る。
「新手の結婚詐欺事件だ。和田、早速データベース入力してくれ」
「はい、承知しました」
 和田が入力している間、他のサイコロ人はぼんやりとしている。天井を見上げる者あり。目を閉じて微動だにしない者あり。机に片肘を突き、前を凝視する者あり。
 そう、ぼんやりした先輩方と和田は思っていたのだが、どうやら違っているのがわかった。各々が何かをイメージでもしているのか、どこかに魂を放り投げているような気がする。
 今回の事件は、当該県警において膨大な資料を作成しており、和田も入力に手間がかかった。
 お前の居場所はサイコロ課ではなくなるぞ、そんな囁きが耳の奥で聞こえるような錯覚に捉われる和田。
 そう、意見するたび出るのは、非情な言葉の刃。
 どっちを取るべきか、未だ答えの出ない若造クンなのである。

「本筋、入力完了」
 和田の一言で、皆の魂は元の身体に舞い戻り、和田以外全員の目つきが、ぱっと変わる。
 市毛課長が号令を掛ける。
「和田、概要を読み上げてくれ」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 東北地方で起きた、結婚詐欺と思しき事件。
 以前に発生した結婚詐欺と、手口的には同様と推測される。

 被害者は40代の公務員男性。
 死因は、高低差のある地形での、ブレーキ痕無しの車体ダイブ。
 ただし、ブレーキが甘くなっていた。当該県警の鑑識では、これくらいだと踏んでも効かないレベル、とまではいかないという判断が付記されていた。
 手っ取り早く言えば、ブレーキをがっちり踏んでいればセーフ、浅く踏めばアウトという寸法である。
 薬物やアルコール類なども検出されたが、普段から抗不安剤の常用者であり、通院歴もある。アルコール中毒との報告は入っていない。
 現在、被害者の遺書のみが、唯一の物的証拠とのことだ。

 弥皇(みかみ)が、はあ?と言いがなら遺書を読む。
「君なしでは生きていけないから、あの世に行きます?なんだ、これは」
「遺書でしょ」
「いい年こいた男がこんな遺書、書くかい?確か、40代の公務員男性だろう」
「これ、パソコンプリントアウトしたのか。ねえ、和田くん。遺書だってどうして断定したのかしら」
「断定と言うか、証拠品であるということです。指紋がないようなので、かなり妙なんですが」
「って、指紋すらないわけ?そんな遺書ないでしょうが」
 弥皇(みかみ)は信じられないと言った様子で肩を竦めた。
「まあまあ。そう血気盛んになるな。和田、結婚詐欺の被疑者は分かっているのか」
 市毛課長が容疑者の写真を出すよう和田に指示すると、和田がキーを叩きながら返事をする。
「はい、今から写真出します」
 皆が、目を見張る。静寂が課内を包みこむ。男性陣は、漏れなく溜息をついていた、和田を除いては。
「すげえ美人。いくつ?」
「えーと、42歳です」
「これなら引っ掛かるわけだ」
 弥皇(みかみ)が涎を垂らして写真に見入る。
「出た。弥皇(みかみ)の美人好き」
「麻田さん、ここは僻まないでください。ほら、美人のカテゴリに入るでしょ」
「ま、認めるわね。で、どうしてこの女性が被疑者の結婚詐欺だと断定したの」
「この女性の預金口座に、一度に多額の振り込みがあったそうです」
「いくら?」
「800万円です」
「振込ねえ。なんか秘密握って、脅した可能性もあるんじゃないの」
 麻田の容赦ない意見に、同調する者は皆無だ。今度は佐治が引っ掛かっている。
「いや、麻田。脅すような顔じゃない。見ろよ、このか弱い雰囲気」
「それは痩せているからでしょう。168cm、38kg。すごっ!」
「なあ、和田。こんなおねえさんなら、お前も恋したくなるだろう」

 和田が間髪入れずに答える。
「僕はこういう顔、キライです。媚びた顔は苦手中の苦手です。凛とした顔が好みだし。ましてや、42歳でこの体重じゃ、脱いだら鶏ガラですよ。みっともない」

 まるで競馬場の中、鼻さでゴールし画像シーンをドキドキしながら皆で見つめるような、静寂に包まれシーンと静まり返る、課内。
 次の瞬間、大爆笑が巻き起こる。和田以外の4人は腹を抱えて自身の机に突っ伏した。
「脱いだ瞬間まで考えるよな、そりゃ」
「確かに。媚びた顔、か。美に惑わされると思考回路が麻痺するんだな」
「まったく。麻痺しなかったのは私と和田くんだけだった、と。ねえ、弥皇(みかみ)くん」
 麻田は弥皇(みかみ)の方を向いて、あっかんべえと舌を出す。
「課長まで見惚れるなんて、珍しいですね」
「おいおい、俺はさっきから何一つ言葉発してないぞ。俺を入れるな」
 課長の場合、見惚れすぎて言葉が出なかった可能性の方が高い。
「課長。我々を欺こうとしても無理ですよ。ほら、よだれ」
「え、何処だ?」
 焦る課長を見て、見惚れすぎた一番の阿呆と思うサイコロ課人たち。
「多分この中で一番初めに引っ掛かるのは課長ですね」
「そうそう。鼻の下、伸びてますよ」
「課長も鶏ガラ趣味でしたか。残念です」
「よだれなんてないぞ。誰だ、俺を騙した奴は!」
「知りませーん」

 ひとしきり笑いは渦を巻き、ようやく本来の顔に戻ったサイコロ課員。

 弥皇(みかみ)が手を上げる。
「ただの結婚詐欺なら、うちのデータベースには情報来ないでしょう?どうして今回、この件が回って来たんです?」
 市毛課長が咳払いをして、一言だけ告げる。
「サイコパスの可能性が高い。結婚詐欺もそうなんだが、周囲で色々あるようだ」
 サイコロ課員たちは、段々眉間に皺が寄ってきた。

まさか、まさかの東北長期出張---。

 断末魔のように、喉の奥から声にならない声を絞り出す弥皇(みかみ)。周囲が、どうしたんだと言わんばかりに弥皇(みかみ)を見る。
弥皇(みかみ)くんはね、来月くらいまでの間に休暇欲しかったみたいなの。長期で」
「僕の心理や行動をよくご存じですね、麻田さん」
「旅行のガイドブックやらツアーの概要書やら、机に山積みでしょうが」
「あ、そうでした?いや、失礼。一人旅ってのは良いですよ。煩わしさが無い」
「同感ね。そこだけは」
「初めて意見合いましたねえ。東北か、まだ行ったことないな」
「どこかいいとこあったら後で教えてよ、弥皇くん」
 市毛課長が再び咳払いをして麻田と弥皇(みかみ)を牽制する。
弥皇(みかみ)、麻田。旅行の話はあとで、こっそりと2人でやれ。今はこっち。事件だ」

 和田がポン!とエンターキーを押し、入力が完了したことを知らせた。
「県警が集めた詳細なデータです。長いので、ご自由にどうぞ」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

【東北結婚詐欺事件被疑者:サイコパスの疑い濃厚:聞き取り資料等】

氏名 緑川聖泉(みどりかわさとみ)
年齢 42歳
職業 地方公務員

生まれたときから非常に可愛らしく、親の愛情を一心に受けて育つ。
そのためか、一人っ子。
あまりにも可愛らしいため弟妹を蔑ろにしそうで、両親は弟妹が必要なかったという噂。高校は女子校。
大学でも美人として有名。
大学卒業後、一旦銀行に勤めるが1年余りで退職。
翌々年、地方公務員を受験し合格。
最初の配属先こそ自宅近辺だったが、その後は12年ほど、県の本庁舎にて勤務。
今も両親と3人で暮らしている。

「ホント、どうしてこんな美人が独身なんでしょうかね」
「下まで読んで見ろ」

独身の理由(推測)
勿論、高嶺の花と男性が近寄れなかった、とも言えるだろう。
しかし、当該県庁においては、過去にも何人もの高嶺の花がいた。彼女たちは漏れなく生涯の伴侶を見つけ結婚している。
その彼女たちを凌ぐほどの美人か、目を釘付けにするかと言われれば、答えは「不明」

緑川はとても社交的で、つんとお高く留まっていないから、声を掛けやすい雰囲気。
凛とした顔の美人ではなく、可愛らしいという表現が似合う。
実際、地方事務所勤務ながら仕事で県庁に来て、緑川の下を訪れ挨拶していく男性職員は後を絶たない。

緑川はそれぞれに笑顔を振り撒き、しばし廊下や喫茶ルームなどで歓談している。
廊下と喫茶ルームの差がどこにあるのか、それは誰にもわからない。
一方、女性に対しても一見、敵対心を持つようには見受けられない。
昼食を一緒に摂る女性たちも、毎日違う。嫌われている様子もない。

一人娘で可愛いがため、結婚などさせるか、と親が話を断っているという。


過去の生い立ち(周辺からの聞き取り)
緑川は、小さな頃から何処へ行っても女王様である。
幼稚園でも。
小学校でも。
中学校でも。
小さな頃から、聖泉は、自分の言うことを聞かない子を嫌った。
苛めはしない。

彼ら彼女らのマイナス面や規律違反などを、嘘を交えて先生に報告するだけ。
当然、その子たちは先生から叱られる。
その子たちは、自分は嘘をついていないと先生に反論し訴えるだろう。
しかし、当時から既に口達者な緑川は、先生たちからの信頼を得ていた。
信頼のおける子供のいう言葉が真実に成り易いのも、火を見るより明らかな現実だ。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

「華々しいサイコパスデビューだねぇ」
「此処からはメモ書きです。聞き込みを行った捜査員の意見ですね」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

(捜査メモ)
ここで重要なのが、誰がそれを先生に告げ口したか、である。
覚えにないだろうか、犯人捜し。
退屈な日常に色を付けてくれる不思議な事件。すると、なぜそうなったのか、誰かが先生に告げ口したのではないかという疑心暗鬼の渦。皆が皆を疑いつつ、本音を言い出せない、ある意味のスリル。

ここで緑川は、いつも上手く立ち回った。
そう、自分よりも先生の信頼を得ている女子を犯人に仕立て上げる。
それも、自分の口からは絶対に言わない。
その子の名前が出るようなフレーズを二つ、三つ、周囲に流せばそれで良い。
周囲は緑川の誘導に惑わされ、流され、結局、犯人はその女子になってくれる。
そうやって、邪魔な女子は排除していった。
誰も自分がやったとは気付いていない。

自分は何もしていない。
あの女子が犯人なのだ。
そうだ、彼女が悪いのだ。
脳内変換とでもいうべきだろうか。いや、完全なる脳内変換である。
自分の行いを反省することもなく、自己保身のために動く。
或いは欲望のために同級生などの日常を狂わせながら日々を過ごした。

幼稚園や小学校なら容易い嘘も、中学校になると上げ足を取られかねない。
中学校に進学すると、周囲を味方に引き寄せるために何をしたか。
母にねだって、お菓子やアクセサリを大量に買い込んだ。
そして、それらをばら撒き、女子の気を引いた。
男子は何も言わずとも、自分の味方になってくれた。

中学校三年生の夏頃。
高校進学の三者面談があった。
緑川は、勿論県内トップクラスの高校を選んだ。
当時は男女別学だったので偏差値も問題ない。
当県は現在、総て共学化したため偏差値は変動している。

当時の緑川の偏差値では、現在県内一の偏差値を誇る高校は不合格の可能性が高い。
しかし、緑川の心は自尊心の塊であり、今でも自分なら合格したと思っているだろう。
男子に対して、そう興味を抱かなかったのも、高校が別になるからかもしれない。
金ない男子、権力の無い男子に、抱く(いだく)感情など無かった模様。
逆に、女生徒で自分より偏差値のいい一人の女生徒には、猛烈に嫉妬した。
憎しみにも近い感情を抱いたとみられる。

入学受験当日、緑川は、かなり早めに入試会場入りし、受付を済ませた。
そして、コートを着たまま、陰でその女生徒が来るのを待った。
女生徒が来ると、何気なしに駆け寄った。
まだ受付を済ませておらず、コートを着ているのを確認した。
さり気なく言葉を交わし、すれ違いざまに相手のコートの右ポケットに針を入れた。

そして、後ろを振り返った。
「右のポケットから何か落ちそう」
 当然、その子は無意識に右ポケットに手を入れた。
そこに入っていた針に指が刺さる。
通常の日なら、何でもない怪我であり、それこそ犯人捜しに発展する事例だ。

しかし、その日は中学生にとって、一大イベントだった。
少し気持ちが違っただけで、結果は全然違うものとなる場合も多い。
皆、自分のことで精一杯で、他の生徒に気を回すことなどなかっただろう。
そう、誰かが落ちれば自分が入れるかもしれないのだから。

針が指に刺さり吃驚した女子は、いい意味での緊張感を保つことができなかった。
結局、その女生徒は、入試に失敗した。
緑川の中学女子同級生の中で一番偏差値が高く、平常心で会場入りしたにも拘らず。
以上の入試事件は、針が刺さった本人からの証言として残しておく。

高校生になると、周囲は女子だけで面白くなかった。
しかし、自分よりも容姿のずば抜けた生徒もいない。
それだけで優越感に浸り、自尊心を満たすことができた。

成績が上位だったとは言えない。
学年で百番前後。
一学年320人を超える高校だったから、決して低い方ではないが、特別高くもない。
大学受験を控え、両親から地元に残る様懇願された。自分としては県外で一人暮らししてみたかったが、アルバイトするのは嫌だった。
教師には県内の国公立大学は難しいと言われていた。最初から県内私立一本はプライドが許さない。
受けるのは自由だからと、県内の国公立大学を受けた。
周囲には、「合格圏内だったが、その日体調が悪かった」と嘘をついた。
憶測だが、緑川の中で脳内変換され、其れが真実と化していたと思われる。

一応滑り止めとして受けた私立大学に行くと、男子も多く、緑川は持て囃された。
教授たちからも目立つ存在だったようだ。
学内でセクハラ疑惑のあった教授を助けたことがあった。早速、男性教授に取り入り、自分の要求を何でものませた。利用できるものは何でもする。
テストの成績が悪くとも、男性の教授なら下駄を履かせてくれる。
女性の教授は物理的な陽動作戦に出た。
それが無理なら、男子学生にレポートを書かせて凌いだ。
全ては就職のためである。


最初は公務員など興味もなかった。地味な職場は嫌いだった。

大手の銀行や、地方銀行でも県内に本拠を置く銀行なら、パーティーなどもあると聞く。親にねだって、地方銀行に財を蓄えた。親が同居を望み、自分も同居することで家事一切もせず食費の1円も払わなくて済む。まさに働きながらのパラサイト生活。
それすらも『親の願いを聞き入れる私は親孝行者』と脳内変換する、コーディペンデンシー、共依存。

就職活動も程々に、県内大手の銀行を第一候補にし、合格した。

緑川の性格上、苦痛以外の何物でもなかった社内研修が終了すると配属が決定する仕組みと聞いた。
勿論、秘書室を希望していた。自分の容姿と頭脳なら必ず配属されるはずだと。
その期待を大きく裏切る形で配属されたのは、行内の経理関係部署だった。窓口業務はなく、一般客との接触はないので楽だが、地味な仕事しかない。

生まれて初めての、計り知れない挫折感。
そう、緑川にしか理解できない挫折感だったはずで、傍目から見ればただの配属が、緑川本人にとっては一生を覆すような大きなうねりだったのだろう。

そうした気持ちを気取られないようにするため、仕事を他の女子行員に押しつけた。緑川本人は男性たちと休憩場所で話ばかりしていた。
こればかりは気取られないようにするためなのか、元々の本人の資質だったのかは不明。これ以降の箇所における仕事ぶりを見ても自分で黙々と仕事をしている姿は見受けられず、いつの時点が出発点なのか疑問の残るところ。

兎角、銀行は女性が華ともいうべき場所である。
瞬く間にその噂は広がり、女性行員から嫌味を言われることもあったようだ。そんなときのために、取って置きの策を用意した。
上司に入れ知恵を忘れるような緑川ではない。言葉巧みに飲みに誘い、身体の関係だけは避けて骨抜きにするまで上司を口説く。身体を避ければその分相手は寄ってくることも承知の上だった。
自分の奴隷とでもいうべき存在にするまでに、飲んで口説いてを繰り返した。

そして、その上司に嫌味を言った女子行員の名を出した。
自分は何もしていないのに誹謗中傷されたと嘘をつく。周囲では嘘だと分かっていたが、下手に口を出せば自分も巻き添えを食いかねないと、知らぬ顔をする。
男性たちは自分が話をしていると知られれば辺鄙な土地に転勤の可能性があるため、嘘と分かっていても誰も口を割らない。

損をするのは、嫌味を言った女子行員のみだった。
案の定、女子行員はほんのわずかなミスを皆の前で延々と叱責された。叱責された行員は余程悔しかったと見える。
女子行員は間近に結婚を控えていたこともあり、寿退社で幕引きと相成った。
同僚の話では、寿退社で幕を引かせたのは銀行側であったという。
実際には鬱病を発症し、結婚はご破算、元女子行員は引きこもり生活になった模様。

その後緑川の仕事に対する姿勢が良くないと総務本部への匿名投書があった。
経理の上司を丸め込んでいたので、直ぐ耳に入った。こればかりは相手も特定できず、どうやって総務の上司を丸め込もうか悩んだ。経理の上司を唆してみたが、総務にまでは手が届かない。
仕方なく、仕事をしているふりをして机に向かう。その実、成果品らしい成果品は無いに等しい状態だった。

翌年。人事異動。緑川は今度こそ秘書室に行けると思っていた。
またしても希望は叶わず、配属先は、市内の工場地帯にある店舗。それも、窓口業務。
一日だけ、窓口に出た。月初めの一番手頃な時期である。
一日で嫌になり、生理休暇を取った。
そして辞職願を書いた。
通常なら一ヵ月前までに提出しなければならない、と規定で定められた辞職願。
経理の元上司に頼みこんで2月中の日付にし、強硬に処理させた。多額の財もそれに役に立ったのか、それはわからない。
退職し、ほとぼりが冷めた頃、預けていた財は皆解約し、他の銀行へ移している。

無職になった。
家事手伝いと言えば聞こえはいいが、たまにフリーターと揶揄する大学の同期もいる。
出来の良い自分が無職のままでは、聞こえが悪い。
地方公務員の中でも、県職員試験を受けた。大卒用の試験は、昔はとても条件が厳しく試験内容も難しかった。国公立大学卒業でないと合格できないような試験だったが、緑川の時代は違っていた。
大学のランクはどうあれ、面接で自分の長所をアピールすれば良い。アピール力には自信がある。
思った通り、面接は集団形式だった。自分が総て仕切ってテーマを上手く纏めた。
自分にはその点の才能が確かにある。自己採点では、採用は確実だった。

合格者が発表された。合格している。自分が落ちるわけがない。自分を落す要因など見つからないのだから。
採用の知らせを待った。

勿論、本庁舎の秘書課が目当てだった。
県の秘書課と言えば、県知事が出入りするところだ。
これほど自分に似つかわしい場所は無い。

本採用の知らせが来た。
憮然とした。自宅近くの福祉関係の事務所だった。
福祉関係の事務所で何の仕事をしたかなど、一つも覚えていない。覚えていなくて当たり前だ。仕事などしたことが無い。周囲からは不満の声も漏れていたが、上司を抱き込むことで、それを無視した。50代男性は何処でも同じだ。
上手く甘えれば、自分に有利に動く。骨抜きにしてしまえば問題ない。
たまに、自分を妾のように扱う上司もいた。利用できるだけ利用して、あとは切って捨てる。追ってくるようなら、セクハラされたといえば済む。
緑川は、不完全な計算高さを持っていた。今の世の中、女性の言葉を蔑ろにはできまいという世論が彼女の計算だった。

仕方なく3年福祉関係の事務所で我慢した。家からも近く父が毎日朝に送ってくれた。
月に一度「お腹が痛い」といいながら4日続けて生理休暇を取った。
副業に従事するためだ。地方公務員に限らないが、一般的に公務員の副業は各々規定で禁止されている。
家に帰ってからするのも面倒だから、休んで従事する。何の副業かと言えば、翻訳の仕事だった。簡単な書類ではあったが。

銀行に勤めたとき、取引先の社長に引き合わせてくれた上司がいた。
取引先は、部品製造の子会社。誰も英語が解らないというので翻訳を手伝った。以来、その会社やその周辺の会社から来る簡単な書類を翻訳している。
緑川自身、英語が堪能なわけではない。
福祉事務所の上司にねだって、高額の翻訳機を買って貰った。副業で翻訳機は大活躍した。福祉事務所や元いた銀行にも内緒で、月々結構な報酬を貰い続けることができた。
今も報酬を得ているが、向こうも礼金や翻訳料として経費計上していない。お互いに、美味しい仕事と言うわけだ。

3年後、漸く県庁本庁舎に勤務内示が出た。またしても秘書課ではない。
何故自分が秘書課でないのか?誰かが邪魔しているのかと訝った。ただ単に、生理休暇や遅刻が多いので秘書業務に合わないと判断されただけなのだが。
副業も変わりなくこなしている。誰も知る者はいない。副業に有給は勿体無いので、月に4日間は生理休暇として休みを貰う。
アラフィフに手が届く今でも休暇の使い方は変わっていない。

県庁に来てから、様々な部署に異動し、15年以上の時が経ていた。
福祉関係、税務関係、商業関係など。未だに秘書課への希望は叶わない。

緑川は、直前にいた商業部署の上司から休みがちなことで注意を受けたことがある。休むなら、とことん休んで体調を整えろと。
緑川にとって、これは屈辱的な「命令」だった。
2か月だけ休んで、復職した。もっと休めと言われたが、頑として断った。上司からパワハラされて自分は休む羽目になったと、周囲に向け訴えた。
その上司は休む原因が何なのか本当に分かっていたのかいなかったのか。副業とは夢にも思わなかっただろうが。


その間、次々と秘書課に行きそうな若い女子たちを潰してきた。
精神的に止む方向に持っていかせる場合が殆どだった。自死した者もいる。
子供が出来そうな背景にある職員は行かない、と聞き、若い男性を差し向けた。その男と付き合い結婚し、子供が出来る者はまだいい。
ストーキングスレスレのところまで持っていく。いや、ストーカーそのものが犯罪だ。
緑川に操られ、秘書課候補の女性と無理心中した男性職員までいる。
総てに於いて、緑川の犯行を証明できる手立てはなく、証拠もない。

被害者総数20名余り
精神のみを病んだ女子職員、約10名余り。(下記ストーカーの犯行を含む)
自死した女子職員3名。ストーカーで逮捕された男性職員3名。無理心中した職員2組。

そこまで人の人生を左右しておきながら、緑川自身の生活は変わらない。
仕事をしないのは相変わらず。周囲から全庁的に、薄らと副職の噂が漏れていることに気が付いていない。公務の仕事が何たるかを弁えている者は、緑川の考え方や、その行動を是としない。
酒の席になると、彼らの鬱憤は一気に爆発するようだ。隣席に収まり、話の中身を聞いた。

「あいつ、自分の仕事はしないで、さも偉そうに他の奴に押しつけて」
「自分は課内で喋ってるか、喫茶ルームに行ってるか、どちらかでさ。困ったもんだ」
「ああ、聞いた、聞いた。前にいた部署でもそうだったらしい」
「鼻の下伸ばして嬉しそうに話す奴見ると、がっかりする」
「それ、使えない男だな、絶対」
「女の本性も見分けられないんじゃ、出世は無理だろうねぇ」
「お前は自信ある?見分けるの」
「どうかな」
「そういえば、昔彼氏いたんだって?フラれて激やせしたって噂だぜ」
緑川の男関係が浮上。
上司を骨抜きにする以外では初めての男性関係だ。
10年ほど前、緑川が30歳前後だろう。
大学生になりたての男子と付き合い始めた。
だが、ほどなく破局する。理由は不明。

当該男性を探し当てるも、一切の話を拒否。ただ嫌悪感を露にしていたのが印象的。
失恋が与える心の痛みは、女性にとって計り知れないものがあるが、緑川の場合、尋常ではなかった。
50キログラム近くあった体重が、10キログラムはゆうに痩せたと思われる。現在は40キログラム弱の体重を維持している。
緑川は何も口にしなかったようだが、破局の噂が庁内人事サイドに流布されている。
それ以後は、交際らしい交際の噂が無い。

福祉関連部署や税務関連部署で骨抜きにした上司を、今もトリガーとして使う。彼らも出世してきたから、使いやすくなった。
気に入らない人間は、彼らにお願いして消してしまえばいい。

そんな折、またしても屈辱的な人事異動の命が下った。
総務関係部署の「集計担当事務」
簡単に言えば、数字のとりまとめだ。方々から集めた数字を取りまとめる。そして他の部署に数字を流す。
自分が目立たない、縁の下の仕事。この世で緑川が最も忌み嫌う仕事。
緑川は、仕事も上下で差別する。
自分が目立つ仕事が上の仕事。
知事に近い関係者、メディア関係者などが出入りする仕事は上の仕事。
イベント関係など外部に顔を売る仕事は上、経理など内部事務は下、と解り易い。
の割に、仕事をしない。いつまで残業するのだろうというくらい。出口をチェックしているが、いつまでも出てこないときが多い。
本人は英語力堪能を誇示しているが、会話を聞いた者は一人としていない。

先だって、興味深い話を聞いた。
集計事務を一緒に担当した嘉藤優花が周囲に漏らしたとされる内容だ。
「緑川が開口一番に、あたしはこんな仕事をするような人間じゃないと嘯いて、当時は仕事をするのが辛かった」というものである。
やはり、緑川は上の仕事と下の仕事を線引きしていたことが証明された。

あるとき、緑川の後輩、鈴木明子が、先月結婚した。
兎に角、話術が得意で、海外事務所から秘書課に戻り、また海外事務所に行った子だ。
結婚式に参加した緑川は、職場でその話をしていた。
総務部署の先輩、安倍みちるに「あの子は男性にモテるから」と聞き、顔色がかわった。
その安倍先輩も顔色に気付き、同僚に話しているという証言有り。
他の同僚が、洗面所での緑川の呟きを覚えている。
”あいつ如きブスが”
海外で男性職員にちやほやされただけよ。
緑川自身、言い聞かせるように呟いたと思われる。
余程腹の虫が収まらないのだろうと、同僚たちは怖くなったという。
鈴木が秘書課を希望し、すんなり配属されたらしいという話も怒りに輪をかける。
緑川は、鈴木との交友を避けるようになっていった。

当時の上司は、昔骨抜きにし、今や緑川にぞっこんの相手だった。緑川はことある毎に職務内容の変更か、人事異動を願い出ていた。

その年の冬。
世間では、ロングブーツにショートパンツ、ふわふわ毛皮付ニット。そんな洋服が雑誌を賑わせていた。緑川は、いつも本の中から抜け出してきたようなスタイルで仕事をしている。そう、ロングブーツにショートパンツ、ふわふわの毛皮付ニット。
ロングブーツは常時着用していた。

誰も何も言わなかったが、安倍先輩が陰でこっそりとロングブーツを注意した。
安倍先輩は毛皮も気に入らなかったようだが、注意されたのはブーツだけ。
毛皮着用での仕事などもってのほか、と思いつつも、最低限のブーツだけ注意した。
「ブーツは防寒用に外で履く物であり、屋内で着用するものではないよね」と、優しく。

緑川は、その場こそするりと抜けて外に出たものの、心の中で爆発したに違いない。
メモに書き、破ったものをそのままゴミ捨て場に捨てたため、掃除婦の男性が見つけた。
自分に指図する?
高卒如きのあんたが?
何様のつもり?
「あいつ如きが、このあたしに注意するなんて許さない」

久々に、緑川本来の姿が現れた。緑川は、自分にぞっこんの上司と夜に一席設けた。その際、安倍先輩から、あることないこと言われたと大泣きした。
上司は烈火のごとく怒りを露にし、緑川の敵討ちを約束してくれた。

次の日、安倍先輩は上司に叱責された。
「メモの数字を何度も間違えるな!」
それも、フロア全体に響くような大声で。
思わず、安倍先輩は泣いた。大粒の涙が頬に伝うのを一切拭いもせず、数字を調整しコピー機のある場所まで移動してコピーを取っていた。
緑川はそろそろとコピー機に近づき、安倍先輩の背後に回り込んで耳元でそっと囁いた。
「大丈夫ですかあ?」

その後、2か月間、安倍先輩は朝から晩まで、誰とも一言も話さなかった。パソコンだけを見つめながら、8時間ぶっ通しで仕事をしたという。
周囲は心配したらしい。元々精神を病み、良くなったところで現在の部署に来た安倍先輩だった。
緑川から囁かれた瞬間、敵討ちされたと漸く理解し、再び精神が乱れて生理も止まったと行き付けの精神科で話している。

(あたしの勝ちね)
緑川は、そう思ったようだ。その証拠に、毎日室内でロングブーツをこれ見よがしに履いたという。どうやら、安倍先輩に見せびらかすつもりだったようである。これは複数の元課員が証言している。
その代り、緑川に成り代わり敵討ちした骨抜き上司は、毎日のように仕事中に緑川を別室に呼んだ。二人きりで何時間も話をさせられた。部屋の中で、何があったのかはわからない。緑川も当時の上司も、他者に語ることは一度もなかったから。
骨抜き上司にしてみれば、ある意味、自分へのご褒美だったのだろう。その上司は退職間際だった。
緑川にしてみれば疎ましいことこの上ないが、あと数カ月のの辛抱と思いお付き合いしたと思われる。
それを部署の人間が気付かぬはずもない。皆、陰で噂をしていたようだが、敵討ちの噂も早々に広まっており、表面上、周囲は静かだった。

翌年度の異動。
秘書課への異動は無理だったが、集計事務からは解放された緑川。退職間際のぞっこん上司が、荒業を使った。緑川の思いとおり、職務内容を変更し、マスメディア対応もある職務に据えた。
その代りに、3人の女性が犠牲になった。

一人は、それまでマスメディア対応の仕事をしていた女性職員藤田玲子。まだ若く出来も良かったが、介護という事情があり仕事を続けるか悩んでいた。
彼女はこともあろうに、ぞっこん上司に相談した。それが運の尽きだった。上司は部署内の皆に早々と藤田の退職を公言した。藤田は悩む間もなく、退職を余儀なくされた。
これで職務内容の変更は目処がついた。残るは、集計担当に誰を回すかである。緑川の知ったことではなかったが、ぞっこん上司に進言した。緑川の前に集計担当をしていた女子職員がいたから、それを宛がえば、と。それが、ブーツを注意した安倍先輩だった。
(あんたは、クズみたいな仕事していればいいのよ)
 ぞっこん上司は緑川の言うとおり安倍先輩を集計業務に据えると、退職し、いなくなった。
 緑川は周囲に「嫌だったわ、あの人」と漏らすようになった。切って捨てられた方も気の毒だ。
 たまに緑川の姿を見に来ていたようだが、事前に察知するらしい。緑川は、いつも物陰に隠れて様子を窺っていた。全ての事情を知るもう一人の山田先輩は、緑川に手出しはしなかったが、内心では緑川を嫌っていたと思われる。

 新年度、代わりに来た上司。
 自分に話しかけてはくるときもあるが、靡く気配がない。自分に靡かせるため、必死になった。洋服も、毎日かっちりとしたスーツ姿に変え、毎日パンプスを履いた。
 間違っても、冬にブーツや毛皮など着用せず。一年前の服装は何だったのか?と言わんばかりの変身術。

 それでも上司は靡かない。その上司は、緑川のブーツ事件で精神を乱した安倍先輩の知り合いだった。緑川は、いつか何かを告げ口されるのではないかと心配しつつも、平気なふりをした。自分とあのぞっこん上司の約束など、誰も知るわけがないと高を括っている。
 心配は徒労に終わった。怒られる気配はない。かといって、靡く気配もない。

 よく見ると、今回の異動では、以前秘書課出身者が数名、転入してきた。新しい上司は、その数名とばかり仲良く会話していた。緑川の自尊心は大きく揺さぶられ傷を負ったとみられる。自分が行きたいのに行けない秘書課。なのに、どうしてあんな出来損ないばかり行くのだろう。
(あたしの方が余程相応しいのに)

 夏になり、翌年度行きたい部署を尋ねられた。迷わず秘書課と答えた。上司は言いも悪いも何も言わず、すぐに面談は終わった。
 ブーツを注意した安倍先輩も変わる時期らしく、何か聞かれていた。ふん、あんな高卒女に出来る仕事なんかない。
 その矢先。
 安倍先輩はまた身体に不調を訴え、長期に渡り休むようになった。
 全ての事情を知るもう一人の山田先輩が、その煽りを食らって転勤できなくなった。
 緑川は、秘書課を希望したが、年齢的にも42歳。もう、秘書の役目を果たす年齢ではない。かといって、係長に抜擢されるような実績も残していない。

 結局、福祉関係部署に異動した。
 噂によれば、県庁ではなく地方事務所に行く予定だったという。誰かがどこかで人事をひっくり返したのだろうと推測される。
 煽りを食らった山田先輩は、その年度末、早々に退職した。長期休暇の安倍先輩も、翌年度末、退職した。
 緑川は「どちらもあたしのせいじゃない」と周囲に漏らしたという。
 緑川は、次の骨抜きターゲットを探した。

 福祉関係の部署では、時間内に完璧に仕事をこなし、回りからの評判も良い年下の女性がいた。次は秘書課かと噂されているようだ。年下のその女性、千田祥子は、結婚し夫がいる。
 子供はまだいない。
 緑川は、千田が不倫しているような写真をでっちあげた。上司と人事当局、そして千田の夫に、匿名で写真をばら撒いた。千田の秘書課行きは消えたも同然となり、夫との仲も拗れ、千田は自死を図った。
 未遂に終わったが、千田はそのまま退職。夫と離婚して実家に戻った。
 緑川は、罪悪感さえ持たない。
(あいつが秘書課に行かなきゃ何だっていいわ)

 また、自分の同期で、明らかに容姿が自分より劣ると思われる女性、久道早紀がいた。そちらは早々に秘書課に行った。緑川より八年ほど早く、秘書課に行っている。
その時も悔しい思いをしたが、昨年、久道が係長になった。自分の方が女子力も仕事力も上回っているはずなのにと思った。
 これは実際に悪口を話したことが確認されている。

 自分が骨抜きにし、今や各部で偉い立場にある元上司たちがいる。
 彼等に「自分を係長にしてほしい」「秘書課に行きたい」と方々で願いを伝えた。
 だが、そこは酒の席である。YESともNOとも返事は無く、煙に巻かれてしまう状況が現在も続いている。
 いくら緑川を目に掛けるとはいえ、仕事のできない部下である。ラインに据えることだけは、できなかったのだろう。或いは、押したが人事当局で潰したかのどちらかだ。

 なお、現在は名目上でも交際中の男性の姿は浮かび上がらない。
 男性の好みは、10歳以上年下の男性。新規採用者を好んで相手にするところから、大方躾けたい願望があるのではと推察される。見かけは勿論だが、素直で若い男性は漏れなくターゲットにしている。
 自分が気に入ると、どんなに断っても迫る傾向有。そして、私は人事を意のままにできる、と若い男性に対し嘯く傾向有。男性と本気で交際する気があるのかどうかは、今のところ不明。

 先日の結婚詐欺事件については箝口令が敷かれたらしく、県庁内外での証言を得ること叶わず。
(捜査メモ終了)

第2章  第2幕  Monster=Psychopath

 全てを読み終えるまでに、どのくらいの時間を要しただろうか。
 読みふける間、ひと言も言葉を発しないサイコロ課員たち。麻田の眉間にはくっきりと縦じわが寄り、いつも軽口を叩き女性の悪口を言わない弥皇(みかみ)でさえ、無口のまま目を細くしてデータを読むことに没頭している。佐治や市毛課長も心なしか暗い表情になり、驚きを隠さないといった風情だ。
 和田は入力したデータを見ながら、今回は相当のヤマになると予感していた。

 全員がデータをひととおり読み終えたようだ。誰が最初に言葉を発したか誰も覚えていないのだが、いつものバラバラトークが始まった。
「いやあ、これは凄まじい」
「骨抜きですか、それこそ荒業ですね」
「だから、女の怨念は怖いんだってば」
「退職させたの何人?精神で何人駄目にした?」
「精神は10人以上。骨抜きは何人いるのやら。この分だと、10や20じゃ済まないだろうな」
「若くて綺麗な女性や、評判の良い女性が皆、潰されてしまいますよ」
「紛れもないサイコパスですね、これは」
「表面上普通に生活していますから、余計に目立たないのでしょうね」
「望みがあるとすれば、結婚詐欺の証拠が出ることくらいか」
「薄い望みですねえ」
「じゃあ、俺が荒業を使って望みを厚くしてこよう」
 市毛課長が、ほくそ笑んで部屋を出る。

 独身組三人は、そこはかとなく背筋に寒いものを感じ、ぶるぶるっと震えた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 一週間後。
 東北の地に、三名のサイコロ人が放り出されていた。

 当該県警に無理を言って、警察庁から県警に出向したうえで行政部の事務に異動し、緑川の周辺を探り、サイコパス心理を見極めるために派遣された者たちだ。
 市毛課長の言う「荒業」である。
 犠牲になったのは、独身組、麻田、弥皇(みかみ)、和田の三名。

 荒業計画を聞いた3人が、二つ返事で東北に赴くわけがない。

 麻田はキャリアもT大と凄いので『キャリアウーマンが警察庁から着て秘書課に行く』という噂も流しやすい。幸か不幸か、麻田は緑川と同年代だ。麻田は納得していないが、周囲はそんなこと、お構いなし。麻田は今回の計画を聞くや否や、市毛課長に噛み付いた。
「どうして私がサイコパスのターゲットになるんですか」
「お前が女性だからだな。秘書の仕事は女性を採用しているらしい」
「女性だから?無茶苦茶です、そんなの」
 そこに弥皇(みかみ)が割って入る。
「僕たちだって、結婚詐欺のターゲットになりに行くんだから。お互い様だよ」
「腑に落ちないわ。今回ばかりは」
「僕はどうして東北に行くんですか」
 和田が生真面目な顔をする。その顔色を見た麻田と弥皇(みかみ)は、笑いをこらえながらスルスルと音も立てずに和田の両脇に寄って行く。

 緑川の彼氏候補だと聞いた和田。あからさまに拒否する風体を見せて、何か反論の材料がないかとデータデスクを見に行こうとするが、麻田と弥皇(みかみ)に腕を押えられて身動きが取れない。
 鶏ガラの相手だけは勘弁してほしいと市毛課長に願い出るが、和田の主張など誰も聞いてはいない。緑川と交際した相手がかなり年下だと言うだけで、和田が適任という。
 弥皇(みかみ)は金持ちのふりをして、緑川の金蔓、違った、ターゲットになるのだと聞き、漸く和田の文句が止んだ。

 市毛課長がメモを残して何処かに消えた。和田が開いたメモには『三名の検討を祈る』というワンフレーズのみ。
 東北組3名は、「死んだら化けて出てやる」と口々に市毛課長を罵る。
 確かに。
 死と隣り合わせの東北ツアー。

 己が表に出ることはほとんどなく、精神的に相手を追い詰めていく。
 まるで、昔のモノクロ映画にあったミステリー、サスペンスそのもののストーリー展開。
 其定其処(そんじょそこ)らのお化け屋敷の比ではない。
 命を懸けるような仕事が、サイコロ課にあるとは思いもよらなかった。

 まあ、放り出されたものは仕方がない。職務を全うして帰る以外に道は無い。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 県警に出向き、人事担当部署に挨拶を済ませた3人。県警では粗方の事件経緯を把握している。
あの捜査メモもすごい執念だと和田は感じていた。余程聞き込みに時間を要したことだろう。あまりサイコロ課の出番を快くは思っていないようだったが、緑川がサイコパスと思われる側面があること、被害者多数ということも手伝い、疎かには出来なかったようだ。
 行政部にもきちんと話していない捜査らしく、県警本部内にある捜査一課に顔を出した時は『邪魔するな』とだけ言われた。

 住まいは運よく警察関係官舎を借用できた。警察官舎が住まいとは周囲に言えないため、居住地はダミーを使い、徹底的にはぐらかさなければならない。あとは心配することもないだろう。
明日は行政部に出向き、挨拶するだけだ。
「じゃ、また明日」
「はーい、僕らは三階ですから」
「お休み」
「ちょいまち。あんたたち」
「何ですか?」
「電話の登録」
「あ、名前の登録、偽名にしろって言われてましたね」
「そう、私が『おだまり』でしょ、和田くんは『かたすかし』、弥皇(みかみ)くんは『いやおうなし』佐治さんが『さじかげん』、課長が『いちもうだじん』。ちゃんと変えておきなさいよ。緑川に見つかったら計画台無しなんだから」

 翌日、県の行政部に出向いた3人。
 行政部長に会い、異動内示書を渡し、警察庁からの出向組だと伝え、麻田から始まり弥皇(みかみ)、和田が続けて挨拶をした。
「よろしくお願いします」
 言うまでもなく、相手はかなり訝っているのが手に取るようにわかる。
 なぜ、今の時期。
 今は2月。来月には大規模な人事異動も発表する予定だというのに。
 まして、なぜ警察の人間が行政の部署に入り込むのか。興味というより、迷惑だと言わんばかりの顔だった。

 行政人事部署では特に驚きもしていないようだが、真意を確かめたい、そんな眼差しが冷やかしと交じりあい部屋の中を漂いながら、3人の顔に突き刺さる。
「わたくし、警察庁から出向し、行政部の秘書課に配属が決まった、麻田茉莉(あさだまつり)です。隣が福祉課の弥皇南矢(みかみあけただ)、そして福祉二課の和田透(わだとおる)です」
「お話は県警の方から伺っています。この時期に大変ですね。何か事件でも?」
「いいえ、人事交流ということで、私ども3名が行政についてご教示いただくことになりました」
「4月の異動時期には、まだ早いでしょう」
「行政部における異動時期の動きなどもご教示いただきたい項目の一つです」
 麻田と弥皇(みかみ)は嘘八百を並べ立てる。和田はもじもじするばかりだ。隣で麻田が『ネジを巻け!』とばかりに微笑んでいる。
「そちらの男性は、お若いですね。警察庁ではどんな仕事を?」
「あ、僕は心・・」

 麻田は目眩を起こす寸前だ。此処に来て正直に話してどうする。麻田はちらりと和田を睨み、和田の靴先をヒールで蹴り飛ばす。勿論、目の前の相手に気付かれないように。
 一番左側に立っていた弥皇(みかみ)が代弁した。
「申し訳ありません、守秘事項で、お話できないことになっています」
「警察はそういった守秘事項が多いですからね」
 これだから警察は、という顔、顔、顔。

 めげずに、麻田が締めくくる。
「本当にお忙しい時期に、私どもを受け入れていただき、感謝します」
「では、明日からの勤務と言うことで・・・」

 行政人事部署の部屋を出た3人。早速、麻田からの御小言が和田を包囲する。
「和田くん。本当の仕事言ったら、心理ヲタクの集合体ってバレるでしょうが」
「はあ、すみません。嘘って付き慣れないものですから」
 弥皇(みかみ)がチッ、チッ、っと人差し指を振る。
「嘘はついていないさ。任務の一環として、与えられた偽情報を開示しただけだよ。本当のことを言うのだけが任務ではないだろう?」
「そうよ。捜査権のない我々にとっては、ターゲットに近づいて心理分析するしかないんだから。だからターゲットが反応しそうな場所に潜入するの」
「ところで、ターゲットが人事異動して福祉関係部署から離れることは無いんですか?」
 麻田、弥皇(みかみ)、共に息が止まった。

 そうだ、人事異動。
 まさか、あと2か月弱でターゲットを分析しろと?
「まさかの展開、ないわよね」
「無いことを祈りましょう。2か月で分析は無理ですよ。24時間見張ってるわけじゃないですから」
「じゃあ、あとは官舎に戻ってもう一度ターゲットの履歴を確認して、自分たちの役割を再確認して終わりですね」

 あとは明日からの任務を全うするのみ。
 3人がそう思って歩き出した時のことだった。
 目の前に、出た。
 いや、現れた、ターゲット。
 緑川聖泉(みどりかわさとみ)

 3人とも、お互いの心臓の鼓動が、自分のそれとシンクロしたような錯覚に襲われた。
 麻田は、癖とまではいかないものの、緊張したり気合が入ったとき、髪をかき上げる。今回は気合と言うより、突然のターゲット出現に驚いたようだ。
 自分でも気づかないうちに、自然とその癖が出ていた。誰もが認めるであろう、サラサラで艶やかな、本当に綺麗な黒髪を、左手で無造作にかき上げた。

 弥皇(みかみ)は写真と実物の違いを言葉にできず、もどかしさが募るばかりだ。
 写真が昔の物だったのか、それとも自分の目が悪いのか。
 それとも、和田の「媚びた顔」というフレーズが頭に残ったのだろうか。緑川の顔が、どうにも美人から遠ざかって見える。

(ただのオバサンやんか)

 それでも、ここから任務の開始だ。
 美人だ!という驚きの顔。ちょっと高揚しつつも職務中に話しかけられないジレンマ。
 緑川が通り過ぎるまで、ずっと弥皇(みかみ)は緑川を見つめ続けた。

 和田は、修業が足りない。
 弥皇(みかみ)のように演技するでもなく、ただ反射的に、ぺこりと頭を下げ、素直に緑川をやり過ごした。
 県庁の中では、誰も何も口にしなかった。どこで誰が聞いているかわからないから。

 県庁の外に出た。和田が立ち止り、弥皇(みかみ)と麻田に声を掛ける。
「これから、どうします?」
 弥皇(みかみ)と麻田が、急にハッとした表情を見せた。
「昼でも食べて、官舎に戻るか」
「そうね、色々生活雑貨もいるでしょうから買い物もしないとね」

 和田がにこにこと笑う。
「お二人とも、かなり緊張していたようですね」
「和田くんは緊張しなかったの?」
「だから、好みじゃない女性に緊張しませんって」
「いや、そういう問題の前に、任務があるだろ。和田くん、ターゲット観察したか?」
「はい」
「気付いたことは?」
「麻田さんを鬼のような目で睨みました、一瞬ですけど」
「本当?私を?」
「ターゲットは毛髪にコンプレックスがあるようですね。クセっ毛でしたよ。お世辞にも綺麗な髪とは言えないなって思いました」

 麻田と弥皇(みかみ)は顔を見合わせる。
 自分たちが如何に緊張していたのかを物語るハプニングだったと言えよう。
「和田くん。今日の昼は私の奢り」
「気付かなかった僕も半分、出しましょう」

 昼食は、県庁から歩いて30分ほど離れた駅前で摂った。観光客の間では、有名な店だ。
 3人の場合、観光気分で食べるのではない。こういったところは待ち人数がでるから、地元の人は余り使わない。

 仕事柄、公務員なら見れば大凡の見当がつく。県庁の職員なら、外出時には普通は身分章を付ける。
 一般会社なら、会社のバッジか身分証明書を首からぶら下げている。紐の部分が背広から見えるのでバッジが無くても分かる。
 あとは雰囲気だ。
 両者には決定的な違いがある。
 一般的に、公務員以外のサラリーマンは食べるのが早い。スケジュールが押してしまうから、優雅に食事を取る時間が無いためだ。
 それに対し、余程のスケジュールをこなす公務員でなければ、ある程度の余裕をもって食す。

 この店に、公務員の類いは、いないと見える。
 麻田は席を探してよっこらしょと掛け声を発しながら座った。
「情報共有、どうしようかしら」
 弥皇(みかみ)はくくくっと声にならない声で麻田を指差し笑う。
「よっこらしょはないでしょ、麻田さん。官舎にすれば?」
「五月蝿い、弥皇(みかみ)
 和田も最上の笑顔を先輩2名に向けた。
「また、着た早々喧嘩しないでください。警察の官舎なら行政部の人間は入りませんね。ただし、緑川の息がかかった人物がいないかどうか」
「それも調べないとな。県警にいる職員が行政部に異動している例もあるんだろう?」
「事務系なら。警察官の異動はありません。この警察官舎の住人名簿を見たところ、事務系の人間はいませんでした」
「どうして知ってるの?和田くん」
「県警に行ったとき、県警職員名簿をお借りしました」
「どうしてまた」
弥皇(みかみ)さん、陽動作戦ですよ。ターゲットをうやむやにする、といったイメージですかね」
「もしかしたら、みな僕たちのことを警察庁の監察だと?」

 麻田があっはっはと大きな声を出し笑った。
「色々な噂が出回るでしょうね。言わせておけばいいわ。和田くん、いい仕事したわね」
「褒められるなんて、久しぶりだなあ」
 麻田、弥皇(みかみ)両名がニヤリと和田を覗き込み、小声で呟いた。
「今回、一番働いてもらうことになるからね」

 夜の警察官舎。
 寮形式の官舎なので、1階に談話室がある。
 情報共有を談話室にしようか、弥皇(みかみ)か和田の部屋に集まろうかというところだ。
 談話室は、隠したい情報には向かない。反対に、出回らせたい情報は各部屋で話しても無駄だ。
 二つの場所を効果的に使用し、情報を拡散、或いは収集していくことで方向性は決まった。

 まずは、和田の部屋での会合風景。
 サイコロ課員にのみ閲覧可能なタブレットだから、当然、三重のパスワードと指紋認証式が掛けられている。それでも最重要事項は、瞳孔認証を用いている。持ち主以外がアクセスしようとした場合、データは破壊される仕組みだ。

「随分と細かい部分まで出てましたね、小さい頃とか」
「まあ、地域には必ず情報を握っている輩がいるからね」
「学校でのこととかも?」
「同級生とかに聞けばわかるだろう」
「職場も?」
「退職に追い込まれた人間なら、話す可能性は大きいさ」
「これが男性だったら、ここまで細かく出なかったと思うわ。女性の恨みは深いのよ」

 和田が溜息をつく。
「女性に対する目が変わりそうですよ。僕、結婚できないかも」
 弥皇(みかみ)のパンチが、和田の心に炸裂する。
「結婚なんてするもんじゃない。奥さんの顔色窺って過ごす毎日なんて真っ平だね」
 麻田のボディブロー。
「同感。お前は女だから家事して当たり前、母親なんだから子育てして当たり前。馬鹿かっての。父子家庭はどうすんのよ。立派に育ってる子供だって多いわ。要は愛情の問題でしょう。愛情を注がない母親に注意するならわかるけど、女だ、母親だ、ってすぐにジェンダー論持ち出す男は最低よ」

「僕の友人、いつも喧嘩しあってる両親もってます。父親はディベートに優れているから、母親はヒステリー起こすんだそうです。友人は『どっちも馬鹿。どっちも自分を優先したくせに』って呆れてます」
「それ見たことか。一番の犠牲者はいつも子供じゃないの」
 弥皇(みかみ)も麻田に激しく同調している。
「どっちもどっち。それぞれに言い分があるんでしょうけど、周囲にしてみれば迷惑極まりない」

 和田が苦笑いする。
「先輩たちは結婚の話になると鬼のように否定しますね」
「そりゃそうよ、本能の部分からすればハズレ者だけど、私の人生、他人に変えられたくないもの」
「右に同じ」

 そこに、トントン、とドアをノックする音が聞こえた。
 瞬間、ドキッとする三人。
 和田が徐に席を立ち、ドアの方に向かう。
「はい」

 和田の目の前に現れたのは、30代ほどの男性と女性だった。
「失礼ですが、どちら様ですか」
 男性が和田に耳打ちする。中華圏の言葉だろうか。男性の声は低く、聞き取りできなかった。麻田と弥皇(みかみ)が身構えるだろうと予想していた和田。

 と、思いきや。

「あら、ようこそ」
「心強いパートナーのお出ましだ」
 麻田と弥皇(みかみ)はフレンドリーな態度で男女を迎え入れる。和田は首を傾げた。自分たち以外に緑川を追っている人物がいたなんて。そんなことを思っていると、相手は流暢な日本語で挨拶してきた。
「俺は莎尊於(サ・ソンウ)です。日本語名は、かやつりたかお。コードネームは「さとうとしお」です。みなさん、よろしくお願いします」
「私は椥法堡(チェ・フランブルク)。日本語名は、なぎほばら。コードネームは「いこくじん」でお願いします」

 空気が読めていない和田を囲むように麻田と弥皇(みかみ)が立ち上がる。麻田が和田に耳打ちする。
「この2人は大丈夫。課長が派遣してくれたのよ」
 弥皇(みかみ)は2人と握手しながら、ハグしている。よほど信頼している人間と見える。
「いやあ、百人力です。ご協力感謝します」
 和田は、自分だけが相手の素性を知らないのが面白くない。
「よくわかりません。僕だけ置いて行かれた気分です」
 ()が説明する。
「隠密部隊と考えてください。あなた方とは、余程のことが無い限り、お会いすることがない。わたしどもの顔だけ覚えていただきたく、本日ご訪問した次第です」
「どこかで会っても、必ず知らぬふりをしてください。わたしどもとの接触は吉と出るか凶と出るかわかりませんから」

 そう言い放つと、影の訪問者たちは直ぐに姿を消した。
残った3人は、明日からの行動計画を立てて、各自、自分の部屋に戻る。
 東北での寒さもさることながら、これから起きるであろう、大小様々な事件に思いを馳せる3人。犠牲者を最小限に食い止めなくては。
 どんな小さなことでも、見落とせばそこに蟻地獄を呼びよせるだろう。サイコパスと言う名の、蟻地獄。緑川の蟻地獄に落とされてしまう、或いは引き寄せられる人が出ないよう、もし、落ちそうになっている人がいたら、何が何でも助けるのが、自分たちのミッション。
 できることなら、蟻地獄そのものが無くなってしまう未来を祈りながら寝るとしよう。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 翌朝、福祉部署に出勤した男性2名。
 勿論、和田は緑川と同じ福祉二課。弥皇(みかみ)は廊下で会えるように、隣の福祉課に配属された。
 どこでゴリ押ししたものか。和田は緑川と机を並べて働くことになっていた。心なしか元気のない和田。
 午前9時頃、臨時職員と呼ばれる契約社員さんたちが出勤してきた。
 あ!と驚く和田。椥法堡(チェ・フランブルク)、いこくじんさんがその中にいた。勿論相手は知らん顔。
 和田も特に気にする素振りを見せず、緑川からのレクチャーを聞く。これが市毛課長の必殺技だ、緑川を和田の教育係にしたらしい。所属からしてみれば、仕事をしない緑川にはちょうどいいだろう、という腹が見え見えである。和田は、がっかりと肩を落とす。
 ただ、全員に紹介してもらったことで、フランブルクさんと挨拶くらいはできるようになった。それだけが唯一の救いである。

 和田と弥皇(みかみ)の間で、スマホを2回鳴らしたらトイレ休憩の名目で廊下に出ることにしていた。その時間が待ち遠しい和田。飄々としている弥皇(みかみ)は、ヘビに絡め捕られようとしている子ガエルには、頼もしい限りの先輩である。
 ブーン、ブーンとバイブモードのスマホが鳴った。やっと弥皇(みかみ)からの合図が和田に届いた。和田はお腹を押さえながら立ち上がり、緑川に対し会釈してから部屋を出た。
「おはよう、和田くん。どうだい、慣れたかい?」
「虎穴に入ることは入りました」
「OH。そりゃあ、幸先がいいね」
「精神が持つか、心配ですけど」
「大丈夫、大丈夫」

 あまり長くは話せない。連絡事項だけ確認したら席に戻ることにしている。和田が席に就いてまもなく、周囲がざわめいた。
 警察庁所属T大出身才女にして、本日付で秘書課係長(行事担当)に発令された麻田茉莉(まつり)の登場である。

「警察庁から参りました麻田です。よろしくお願いします」

 警察出身者らしい、きびきびとした動き。
 一礼した際、自慢のさらさらとした髪はしなやかに揺れ、まるで、そよ風に靡くかのように動きを持つ。

 和田は、麻田が来た際、ちょっとだけ立つ位置と角度を調整し、緑川の表情をちらりと観察していた。麻田は緑川に一瞥をくれることすらせずに、部屋を立ち去っていく。
 一部始終を横目で追った和田。邪気を感じる。凄い邪気。緑川は何事もなかったようにしているつもりのようだが、顔はひきつり、笑っているように見せているものの、その目は異常なまでに敵意に満ち溢れ、口元が歪み上手く笑顔が作れない。
そんな造作など、見破るのは赤子の手を捻るよりも簡単だと和田は思った。

(麻田さん、ターゲット確定ですよー)

 決して、口には出せないこの一言。
 和田が心理を研究しているから分かるのかどうか、周囲の人々にはどのような表情に写ったのか、聞いてみたい衝動に駆られる。この衝動を押さえなければ。逆に和田は、自分の興奮状態を察知する。
 ちらりとフランブルクさんを見た。彼女もまた、緑川の動向を遠くから職員たちに紛れて観察していたらしい。表情は一切変えようとしなかったが、目が緑川の動向を見たと言いたげに鋭く光っていた。

 和田も警察学校を出て県警勤務を経験しているからには、ある程度の訓練は行ったつもりだ。
 しかし、実戦は違う。
 目つきからして尋常でなくなるのが本当の犯罪者なのだと悟った。警察学校では、いくら腕っぷしが良くて悪者の役をしていても、(たと)えそれが知らされていなかった犯人検挙の訓練だったとしても、これほどの邪気は感じたことが無い。
 自分は今、正に、本当のサイコパスを目前にしているのだとあらためて感じ、気を引き締め直す和田だった。

 麻田が姿を消してから、緑川は何処かに行ってしまったようだ。
 それまで息を押し殺していた和田は、廊下に出て新鮮な空気を求め、再び部屋を出て階段を探した。
 途中、フランブルクさんが洗面所から戻る所に出くわした。
「これから本番です」
 すれ違いざまの、ひと言。
「はい」
 誰にも聞こえないよう、和田は低い声で応じた。

 和田が廊下を抜け階段の方へ行くと、階段近くでは弥皇(みかみ)がふらついている。互いに連絡し合って廊下に出たわけではない。
「早速サボリですか」
 問いかける和田に、静かに!と言わんばかりに口に人差し指を立てる弥皇(みかみ)。聞き耳を立て、緊張しつつも、聞き漏らすまいと神経を耳に集中させているのが見て取れた。2~3分、階段口でじっとしていた2人。

 ようやく弥皇(みかみ)は、緊張の糸を解き、いつものふわふわ人間に戻る。
 和田が目を丸くして弥皇(みかみ)に尋ねた。
「どうしたんです?」
「緑川が階下に降りた。2、3階下だろう。そこで話す声が聞こえた。相手は分からない。階段での会話って、結構上に聞こえたりするんだよ。この建物の設計上、聞こえ易い部分もあるんだろうがねえ」
「ここって9階ですよね、とすると7階辺りですか。内容は聞き取れました?」
「電話していたようだ。骨抜きだと思うよ、相手は。どの骨抜きかはわからない」

 和田は、先ほど緑川の豹変顔を見たからか、どこか急いている自分がいた。
「骨抜きデータ、誰かに送ってほしいですねえ。いちいち調べられないでしょうし」
「そうだな」
「で、内容聞き取れました?」
「麻田さんがキミのところに顔出したんだろ?ヒステリックになっていたんじゃないかな。そういう言葉遣いはしていないし、甘えた声を出していたけど、内心は麻田さんに対してかなりライバル意識持ったみたいだ」
「麻田さん、普段見せないように心掛けているようですけど、結構美人ですからね」

 弥皇(みかみ)が目を見開き、和田を見る。
「和田くんは、あんなのが好みなのかい?」
「どうして極端に話が飛ぶんです」
「悪い。兎に角、網にかかったのは事実だ。キミも教えを乞うふりして、色々と探りを入れるんだよ」
弥皇(みかみ)さんは?」
「勿論、惚れる役目だよ。金蔓と思わせないと話が進まないから」
「囮の三連荘ですねえ」
「僕等は捜査に携わらないからいいの。たまたま此処に来ただけさ」
 その時、麻田から2人にメールが入った。

 自分達とは別に、被害に遭いそうなターゲットを見かけたら保護する事。それが市毛課長からの命令だという。
 昨日考えた蟻地獄。これから立ち向かうのは正にそれだ、と思う3人。
 緑川の行く手を阻む者、金蔓になりそうな者は即、ターゲットになり得る可能性がある。
 弥皇(みかみ)は和田と向き合い、ガッツポーズを作る。気を引き締めてかからねば。

 夜、和田が官舎に帰るとフランブルクさんがやってきた。
 麻田と二言三言交わしただけ。何か封筒を渡し、そのまま闇に紛れた。
「麻田さん、フランブルクさん何を持ってきたんです?」
「骨抜きの資料」
 二人が話していると、ちょうど弥皇(みかみ)が帰宅した。麻田が封筒を振って弥皇(みかみ)に知らせる。
「フランブルクから資料。骨抜き一覧表。顔写真付」
「ヒュー、流石。あちらさんは仕事が早い」
 和田が懇願する。
「どこかで見たいです」
 麻田が腕を組んで自分の部屋を固辞している。麻田が腕を組むときは、いつも何かを拒否している。
「いや、別に僕は女性と思ってないからいいけど、麻田さんは困るか」
弥皇(みかみ)。向こう帰ったら、何倍返しを望む?」
「麻田さん次第ですよ」

 和田は、なんだかんだといいつつも、この2人は息が合っているなと感じる。
 ハードな麻田さんとソフトな弥皇(みかみ)さん。たぶん、息が合っているのを感じてないのは、当人たちだけだ。
「じゃあ、僕の部屋に行きましょう、麻田さん、弥皇(みかみ)さん」
「いいよ、着替えたら行く。最初に行っててくれ」

 和田と麻田は揃って、和田の部屋に向かう。
 部屋に入る。鍵を掛けると男女2人ではちょっと疾しさが残るので掛けないでおく。弥皇弥皇(みかみ)も来ることだし。
 早速、骨抜き上司の資料に見入る2人。
 古くは銀行時代。
 現在も続く副業先の社長。
 驚いたことに、かつて交際した相手の資料まである。

 そして、公務員時代。
 退職した者。現在も県にて勤務する者。結構な数だ。
 20人は下らない。
 下手をすると30人を超えているかもしれない。
 和田は素っ頓狂な声を上げた。
「すごい数ですね」
 最初は流す程度に読み、じっくりと家族構成など確認するつもりだったのだが、資料が厚すぎてそれは不可能に近かった。
「あっ!」
 和田が叫ぶ。
「どうしたの?」
「見てください」
 そこにあった名前。それは、ブーツ事件で緑川の怒りを買い、敵討ちされて精神に異常をきたした安倍先輩の夫、佐藤孝雄だった。
 和田が早速課内の女子職員たちから仕入れてきた情報によると、安倍先輩は夫の給与の使い道などに口出しすることもなく、何時誰と何処に行こうが聞くこともないという。
 平日夜、緑川に逢っているのも確かだが、もう一人の女性が急浮上した。
 半年前に離婚した女性職員、吉田洋子。
 休みの日も、何かと理由を付けては外出する安倍先輩の夫、佐藤。

 どうやら、緑川よりも吉田の方が親密度は高いらしい。吉田は小さな子供がいるが、両親に預け、仕事を終えると放蕩三昧。色々な男性を口説くと同世代間では有名な女子職員のようだ。口説いた男性達を金蔓にしているのかは不明だが。
 吉田の元夫は国家公務員で東京住まいである。養育費も結構な額が振り込まれている。

 緑川は休日、男と逢うところを見られていない。今は交際相手が居ない証拠でもあろう。

「どっちが本命なのか、どんな理由があるのかわからないわね」
「平日の方が圧倒的に多いですが、イベントとかは?」
「休日なら吉田ね。平日は緑川の時もあるけど」
「でも、自分の奥さんが緑川のせいで神経病んだくらい、知っているでしょうに」
「和田くん。明日フランブルクにメモを渡して。吉田と安倍先輩、安倍先輩の夫の佐藤を調べてもらおう」
「安倍先輩の履歴ですか?夫の佐藤だけじゃなくて?」
「安倍先輩が病んだ理由もなんだけど、この家庭の内情が知りたいのよ。ここにあるだけじゃ判断材料にならない。安倍先輩の過去が必要だわ」

 っと、そこに着替えて登場した弥皇(みかみ)
 和田がかいつまんで、状況を説明する。3人しかいないのに、またもやバラバラトークが始まる。
「女に興味のない僕としては、この夫の神経がわからんね。安倍先輩は一度この夫と離婚して、再度同居してるじゃないか。この辺がツッコミどころじゃないの?」
「子供二人か。子供のために同居した可能性は高いわね」
「嫌いだから離婚するんでしょう。どうしてまた同居できるんです?」
「私は母性あるわけじゃないけど、子供のこと考えたら、この子が成人するまで、って考えもありでしょう。だから名字はそのままに、婚姻していない」
「そのうち、何らかの原因で、それが緑川かもしれないけど。いや、待てよ。安倍先輩、前見た資料に二回目の長期休暇って書いてなかったかい?」
「安倍先輩が最初に精神を病んだ原因は夫じゃないの?DVとかモラハラとか」
「また逃げればいいのに」
「親権を夫が握っているとしたら?」
「心臓掴まれてるようなものですねえ。この夫もサイコパス、いや、どうかな」
「とにかく、この夫と緑川、吉田、安倍先輩。これは何か怪しい気配がぷんぷんしてる」
「どれ、他にぞっこんクンはいるのかな」
「今のところ、退職者も含め30名ほどは確実に。退職者は用済みなので適当にお付き合いしているようですが」
「今日の電話、相手は誰だったんだろう」
「電話?初耳ね」

 和田が昼間の出来事を麻田に話した。
「ふーん、そうきたか。私の悪口を言って悔しがるくらいだから、弥皇(みかみ)くんの見立て通り、骨抜き相手でしょう」
「さて、この中にいるのやら」
「人事権を持っている人間じゃないかしら?」
「ああ、自分が異動したいのは、やまやまだしね。来月の人事異動情報も仕入れたいことだろうし」
「どれ・・・うーん。局長クラスにいることはいるんだけど、この人は病院関係者だから緑川の人事には口を出せないな。あとは・・・ああ。安倍先輩の夫がいたよ」
「他にはいないの?」
「緑川が擦り寄っている人事当局界隈の人間はガードが堅いから誘いに乗っていないね。大体、私情を挟む人間は人事屋として失格でしょ」
「となると、現段階で一番可能性が高いのが、安倍先輩の夫ね」
「吉田と佐藤と安倍。資料欲しいな。キーパーソンかもしれない」
「2、3日中には資料入手可能でしょ。あの2人に頼んでみる」

 和田が驚く。
「人ひとり、いや、それ以上ですよ?とてもじゃないけど探偵だって無理じゃないですか」
 麻田が右の口元だけ上げて、不気味に笑う。
「フランブルクちゃんやソンウくんは、常人じゃないのよ」

 数日間、和田は必死に仕事を覚えながら、緑川好みの年下男性を演じるのに一苦労していた。あらためて分かったことがある。緑川の経歴にもあったが、緑川は、悪い意味で女王様気質なのだ。
 だから、命令が大好きで、望みを叶えると褒美をくれる。で、また命令される。叶えるともっと褒美をくれる。その繰り返し。何かに似ている。そうだ、犬だ。犬の躾に似ているんだ。
 犬に成り下がった自分。和田は、何となく惨めな思いがした。
 とはいえ、考え直す。これはあくまで仕事上だ。仕事場以外で、自分に興味を示して来るかどうかが、和田にとって一つの鍵となる。あくまで、素知らぬふりをしながら周囲に溶け込み情報を掴むのが、自分にできる精一杯だろう。自分は金蔓には成り得ないのだから。

 
そんな和田に、あくる日の夕方緑川からお誘いの声がかかった。
「和田くん。転勤祝いしましょう」
「ほんとですか?ありがとうございます」
「じゃあ、日程と店はこっちで決めるから。その日だけは、空けておいてよ」
 言い方は如何にも可愛らしいが、言っていることは女王様そのものだ。

 ましてや、和田は声の汚い女性は苦手なのに、緑川は声が汚い。低いとか、ガラガラとか、そういう汚さではない。なぜ汚いと思えるのか、自分でも上手く説明できないけれど。ああ。わかった。声音と話し方がミスマッチだから汚く聞こえるんだ。
麻田さんのように、年相応の話し方ならこの声で十分なのに。年増といったら失礼だけど、自分の姿を客観的に受け入れられないって、不幸だ。自分が何歳のつもりでいるんだろう、この人は。

 和田は、何か馬鹿らしさを感じ、思わず廊下に出た。
『王様の耳はロバの耳!』と叫びたい気分だった。

 3日後、ソンウさんが警察官舎に来て資料を和田に託してまたも闇に消えた。
 今回は3人揃っていたので、資料を片手に和田の部屋に入る。

 和田が今日の出来事を麻田と弥皇に報告し、いつものバラバラトーク時間となった。
「仕事の転勤祝いと言うことで緑川から誘いがきました。今週の金曜日です」
「明後日か。金曜日なら、とことん付き合わされるんじゃないか」
「勘弁してください。自慢じゃないけど酒は嫌いだし、酔っ払いの相手も嫌いです」
「酔っ払いだと思うしかないわね、行動はつぶさに確認してよ」
「はい、実際飲みませんから、その辺で失敗することは無いと思います」
「万が一だけど薬物には気を付けてくれ、和田くん」
「ありましたね、そういえば」
「睡眠導入剤でフラフラにする手口ね。飲んだくれなきゃ大丈夫でしょう」
「はい、麻田さん。様子をみますんで。女王様だから「飲め」攻撃もあり得ますけど、程々にしときます」
「その辺は心配してないわ。うちの課でも一番酒に強いから。和田くんは」
「程々なだけですよ」
「さて。先日の報告書ね。私が読むから、和田くん、データベース入力できる?」
「任せてください」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 麻田が資料を読み上げる。

 安倍みちる。
 県内の高校卒業後入庁。
 実家は中流以下の家庭。母と兄が実家で暮らしている。
 24歳の時、父が他界。
 25歳、夫佐藤孝雄と結婚、二児の母となる。
 結婚前の佐藤は、完璧なまでに優しい男だったというが、結婚後、180度態度を変えている。
 安倍は初婚、佐藤は離婚歴2回、安倍が3人目の結婚相手だ。
 夫佐藤は、安倍が夜10時~11時まで外で飲酒するのを許さず、5分おきに電話するという嫉妬深さを見せている。
 そういう晩は、帰ると必ず暴力を振るわれた。余程、安倍が外で同僚と飲食するのが嫌だったとみえる。
 怒鳴り散らし説教するか、暴力を振るったという。帰るのが嫌で日を跨いで飲んだ際には、朝まで説教され、なじられ暴力を受けている。
『母親にくせに』夫、佐藤が毎度口にする言い分。

 また、自分が煙草を止めたのに安倍が吸うと、怒鳴って安倍の煙草を平気で捨てる。
 佐藤の気に入らない色味が明るめ(赤やピンクなど)だったり、少しでも鎖骨が見える洋服などは、安倍の給料からの小遣いで買ったものであっても、たとえそれが何十万円の物であろうが、本人の了解なしに全て捨てる。兄からプレゼントされたブランド物の時計でさえも、他の男からもらったのではないかと疑われ、いつの間にか捨てられていた。

 モラハラだけではない、手を上げ暴力をふるう理由。
 それは安倍の父が結婚前に他界し、佐藤に物を言う人間がいないためと考えられる。
 その証拠に、過去の結婚時も佐藤は妻に暴力をふるい妻の親から告訴されていた。
 佐藤は自分の親にねだり多額の慰謝料を払っている。
 安倍の兄も高卒で決して高学歴とは言えず、夫の佐藤は常に安倍の兄を馬鹿にしている。
 兄の言うことなど全てディベートで負かすことができる、と安倍を脅していた。
 夫婦喧嘩の際、佐藤が口走ったという。
 これについては当時の周辺住民の証言が取れている。

 5年後、安倍は同居していた自分の母、子供二人を連れて元実家に移り住む。
 安倍の兄は当時、仕事で県外におりフォローできなかった。
 佐藤から子供に会いたい、の言葉すらなく、そういった趣旨のやり取りは無い。これは安倍の兄からの証言。
 保育所や地域のイベントの時にだけ、連絡もなくこれ見よがしに保育園にくる夫の佐藤。
 耐えられず安倍は離婚調停を起こすが、佐藤に足元を掬われた。
 それまで色々と相談していた男性Aを浮気相手と称された。
 実際に交際していたかどうかは不明だが安倍がそういった発言をしたという説もある。
 そのため、安倍は逆に子供たちの親権を取られることになる。
 他にも養育費毎月10万、子供名義の保険料支払いと満期保険金の譲渡を命じられる。

 子供と別れるとき、安倍は子供に言い聞かせている。
『お父さんは強くないから、あなたたちが行って強くしてあげて』
 子供は当時の保母に「僕のお父さんは弱いから僕が守ってあげるんだ」と話したという。
 周囲からの噂に何も反論せず、安倍は全てを自分の胸にしまい込んだ。そして県庁を離れ、遠地で仕事をした。

 ほどなく10歳年下の男性新田と交際を始めるが、5年後破局。
 新田は強かで、浮気癖の抜けない男だった。いつも2人の女を天秤にかけないと気の済まない男。そして自分に尽くす女を選んだ。いや、最初の女に飽きて乗り換えるための口実に「自分に尽くす女を選ぶ」と女たちに迫ったのだろう。
 交際を始めた時も同様で新田には彼女がいた。安倍は知らずに付き合い出したが新田の行動が不審であったこと、見知らぬ相手から嫌がらせのように車両を傷つけられたりしたことから新田を問いただす。
 新田の答えはいつも同じ。
「どちらが僕に尽くしてくれるんだろう」
 交際も5年を経て、新田の態度が異状になった。手作りの菓子類やケーキをおすそ分けと称して安倍に持ってくる。明らかに素人くさい猥褻な写真をノートに挟む。新田を問いただすとあっさりと浮気を認め、安倍に別れを告げたという。
 佐藤から逃げて5年。
 安倍は子供たち以外の人間に尽くすことが嫌になってしまっていた。
 浮気をされた経験のない安倍は驚き泣いたが、既に心は新田から離れていたのだろう。トラブルも無く直ぐに新田との交際を終わらせた。
 泣いた場面に居合わせた友人からの証言。

 麻田がメラメラと目の奥に火を燃やす。
「どうしようもない鬼畜ね。サイコパスだわ。投げ飛ばしたくらいじゃ直りそうにない」
 和田と弥皇(みかみ)が2人がかりで麻田を押さえ付けながら同意した。
「確かに。今は新田も県庁にいるはずですけど、見ます?実物」
弥皇(みかみ)さん、それ同意じゃなくて火に油注いでないですか?嫌ですよ、血みるの」
「そうだね。さ、麻田さん、僕らはあるべき仕事に戻りましょうか。人の噂話が仕事じゃないでしょう」

 新田は別れを切り出す前に、安倍に対し子供たちへの手紙を書かせた。
 その手紙が縁となり、元夫佐藤から電話が入る。
 夫の佐藤は、子供たちに安倍との再同居を決めさせるという一番卑劣で汚い手を使った。小学生の子供なら、普通は母親と暮らしたいと思うだろう。余程母親に苛められた経験がない限りは。

 そうして、子供たちが選んだ結果と称して、安倍との再同居を始める。
 子供たちは小学生。小さな頃から、常に親の心中を察する子供だったという。
 安倍は婚姻と言う形を拒み、同居人として子供の面倒を見るつもりでいたらしい。子供たちが大きくなるにつれ、教育面で子供を叱責するようになった安倍。安倍が叱責しないと、佐藤が子供たちを卑下し叱責し暴力をふるうからである。

 佐藤との喧嘩も、教育面が原因でエスカレートしていく。
 最終的な進学先を決定したのは夫佐藤だが、今でも安倍のせいにしているという。行きたい高校を諦め進学した子供は素行不良、反省した安倍だったが、直後に安倍は鬱病発症。

 鬱病発症は、教育面で夫佐藤と反目したこと、口論、モラハラが主原因と推察される。
 1年の休暇後、元気になって復帰した安倍。この間、500万近くの借金を作っている。
 だが、2年半後、緑川によって再び1年の休暇を余儀なくされた。
 2回の休暇を取っているが、休暇中は、ずっと夫佐藤から無視され、話をしていない。2回目の休みの際は、1,000万を超える借金を作っている。
 これは友人たちからの情報である。

 その後一旦復職したが、自身が双極性障害・躁鬱の病と気が付いた安倍。
 秋に退職を決意し年度末に退職。
 病気での退職にも関わらず、佐藤は安倍にフルタイムで仕事をするよう命令している。
 公務員時代の給料とまではいかずとも。これは職業紹介所、ハローワークの記録からも明らかである。
 何社か面接に行ったが、全て採用には至っていない。
 退職間際、退職後にも何度か夫佐藤から極度の負荷を掛けられている。
 幻聴に悩まされ、統合失調症ではないかと疑い精神科を受診している。
 病気に関しては、兄からの情報。

 麻田は容赦ない。結婚後の安倍の性格があまり好きではないようだ。
「なるほどね。なんだかわかんない人だわ。鬱とかの発症を人のせいにしてる気がする」
「元々明るい人格が売りだったようですから、病気を受け入れることができない」
「他人に明るいと思われたい人だったのね」
「自分を作らないと人前に立てなかったんでしょう。ないですか?そういうこと」
「ない」
「鋼鉄のような麻田さんにはわからないか」
「五月蝿い。次。夫の佐藤と怪しい関係の吉田、続けていくわよ」


 夫、佐藤孝雄。地元の大学を卒業後、入庁。
 こちらは中流の家庭に育つが、両親の喧嘩が絶えない家庭だったという。
 佐藤は金銭に汚く、自分名義の銀行引き落とし等が決済されないと、毎回安倍をなじりお金を巻き上げる。
 自分が悪く言われることを極端に嫌う。
 周囲の評価は二分。デキる上司または、ワンマン上司。
 人間的評価も若い時から二分しており、安倍との結婚を心配した者すらいる。

 周囲には絶対に見せないが、妻に対し暴力をふるう。妻を蔑む傾向がある。
 得意分野はディベート。自身の能力に相当の自信を持っていると推察される。
 子供の親権争いも得意のディベートで安倍を完膚なきまでに追い詰めたという。
 妻の安倍が鬱を発症し自殺未遂など図った際も、優しい言葉を掛けず無視している。2回目の休暇から、喧嘩の時以外は一切安倍とは話をしなくなった。
 安倍が退職する前後から、喧嘩のたびに出る言葉がある。周辺住民からの証言だ。
「俺が出ていくからお前が自宅のローンを払え」
 安倍を精神的に追い詰める言葉である。現在無職の安倍にとって家を失うことは必至であり、子を守るために、自死による保険金取得も考慮に入れることは、推測するまでもない。

 以上が佐藤の人間性。
 佐藤は外面が良く、身内が自分の思い通りにならないと癇癪を起す。金遣いについては、貯金をしたことがない。慰謝料を親に払わせたのも、自身に全く貯金が無かったからである。給料を妻に渡さない。使い道を妻に話そうとしない。使い道を聞くと、喧嘩になる。
 これは昔の妻たちの証言である。
 帰宅はいつも遅い。昔はギャンブルばかりしていたが、吉田に会ってからはギャンブルを止めている。その時間を逢瀬の時間に充てていると考えるのが妥当。女性へ金を渡している節がある。該当者は、吉田と緑川と思われる。捜査令状がないため、銀行口座は未確認。


 吉田洋子。
 緑川と同世代の女性職員。

 男にだらしないという噂が同世代の間で広く出回り良い噂を聞かない。緑川同様、年上の男性を主なターゲットとし放蕩三昧を繰り返していた。
 一方で婚活にも余念がなく、金持ちの分野にスポットをあてアタックを続けていた模様。
 めでたく婚活成功するが、夫は国家公務員キャリアで主として東京勤務。同居を持ちかけられるが拒否した。これは元夫からの証言。
 その後子供を産んだが、子供が一歳の時、協議離婚。子供の親権を手にしたが、その子供は両親に預けている。地方事務所に配属された際、子供を産み県庁に戻ってやる、と息巻いたと言う。
 極秘だが、夫は結婚直後から別居の形をとっており、子供の出自に疑問を抱いたことからDNA鑑定を行おうとした。それを知った吉田が上手く言いくるめ、養育費だけの協議離婚で落ち着いたのだとか。
 DNA鑑定の話が無ければ、もっと夫から金を搾り取る思惑だったとみられる。子供が一歳になった際に離婚し、子供を両親に預け自分は放蕩三昧の生活に戻った。
 放蕩三昧の男好きということで嫌う人間も多いのは確かだが、サイコパスではない。根っから多数の男性が好きなだけ、というのが心理分析的なカテゴリである。

 子供の本当の父親は未だもって不明のまま。知っているのは吉田のみであろう。過去、同僚だった男性陣は、吉田の名を出すと、必ず言葉を濁す。その男性たちには、何らかのモーションがあったことは想像に難くない。殆どの男性がかなりスレスレか、或いは一線を越えているのだろうと推察される。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 入力を終えた和田と麻田が会話している。弥皇(みかみ)はじっとうつむいたままだ。
「なんだかどろどろですねえ」
「ああ、安倍のこと?」
「佐藤です。過去にも2回離婚していますね、どっちも子供いなかったみたいだけど」
「元嫁から、もっとなんかこう、新種の情報引き出せなかったのかしら、佐藤の」
「元嫁にも暴力をふるったらしいですよ、ただ、元嫁の父親が元気で」
「やりたい放題は無理だったと」
「佐藤そのものは、安倍が子供に言った通り、小心者なんですかね」
「どうかしら。なんでこういう男が大きな顔して、のさばっているのか私には解せないわ」

 弥皇(みかみ)が、暗い影を落とすように呟く。
「力の暴力。それが無くなったら、今度は言葉の暴力、モラハラ。精神的殺人者」
 モラハラ、このところ、世の中に浮上したハラスメントの一種だ。異様なまでの精神的暴力。麻田曰く、これは男女どちらに多いとかではなく、たまたま男性から女性に向ける場合が多い傾向にある、というだけだが。

 安倍が受けたモラハラ。
 母親にくせに、というお定まりのモラハラ劇場。
 別居時、周囲の人が見ている時にしか参加しない保育園イベント。
 再同居時の子供たちへの責任転嫁(子供が選んだから俺は許した、と叫んだとされる)
 妻が自分で買った洋服などを勝手に捨てる。
 ある種の強欲さとして、躁鬱病で退職しているのに、働くことを強要、無理強いしている。
 ただでさえ双極性障害・躁鬱病患者が新しい環境の中に身を置くことは、一種の賭けとも言える。症状が劇的に悪くなる場合があるからだ。過剰適応など起こせば最悪の事態も招きかねない。にも関わらず、安倍の体調を心配する素振りは見受けられない。
 佐藤自身は、周囲に「安倍は公務員よりも別の仕事が向いている」と言い訳しているようだが、50歳を超えた女性で、双極性障害・躁鬱病を患っている者が、ある程度の賃金を得るには、身も心もボロボロになるまで働かなければいけないだろう。再発しないとも限らない。一番心配なのは、再発し自死に至る最悪のパターンである。
 佐藤が故意にそれを望めば別だが。

 安倍の兄は、安倍が働くことに反対していたが、佐藤に進言しても無視されるという。
 佐藤はあくまで、自分が好きに使える金が欲しいのだろう。他人から見える家の事などは尤もらしく行う。自分が他者から悪く言われるのを極度に嫌う。
 といったような調子で、モラハラが恒常的に行われていたと推測される。結婚して五年間は暴力に苦しみ、再度同居しモラハラに苦しみ五年後鬱発症、そこからまたモラハラは留まるどころかスピードを上げて安倍を襲った。

 安倍は、親しい友人に漏らしたとされる。
「毎日、玄関の開く音がすると、心臓がドキッとする」
「暴言を吐かれると、決まって幻聴が聞こえた。ドンドンとドアを叩く音や、誰かが自分に話しかける声。もしかしたら、統合失調症かもしれない」
 ただし安倍にも悪い点はある。借金を重ねすぎた。いくら自分で支払ったとはいえ。首が回らないほどの借金。そこだけは、夫の佐藤が怒る気持ちもわからないではない。全て鬱病や躁鬱病を患っている時期ではあったが。
 いずれ、借りを重ねたものは返さなければならない。その点でも夫は安倍を支えようとはせず、安倍は夫に借金返済を手伝ってもらったことすら、ただの一度もない。借金について、悪いということは安倍自身、十分に理解していると思われる。

 夫、佐藤はこれからも一緒に暮らす限り、安倍を働かせ給料を貪るだろう。
 通常なら夫しか働いておらず、2,3人の子を持つ家庭など、ざらにあるというのに。安倍が拒めば、自分が出ていくから家のローンを返済しろ、とか、さもなくば安倍を追い出して、今度は子供たちから貪るだろう。
 子供から金銭を貪ることが妥当かどうかはその家庭によるが、公務員という職業を考えれば、佐藤の給料をもって、子供から貪るのは鬼畜にも等しい行為だ。

「ああ、腹の立つ男だわ」
「でも自己防衛反応に異常に長けてるねえ」
「僕はこういう夫にもなりたくないし、こういう父親にもなりたくないです」
「安倍にも問題はあるけどね。病気を借金の理由にするのは間違ってる。自分で働いた金で相殺するんでしょうから、自業自得ね」
「貪られると知りつつも、これからも働くでしょうし」
「それが子供に対するせめてもの償いだよね、この場合」
「間違った結婚だけど、子供が優しく育ったことだけがこの夫婦の唯一の宝じゃないの」

 こんな報告書を見た後だ。和田の結婚への意欲は減退の一歩。恋愛と結婚の最たる違いをまざまざと見せつけられ、元気をなくしている。意気消沈という言葉が似合う、和田であった。
「和田くん。かのカリスマですら結婚はしていないよ。自分の推理力を鈍らせるから」
「さ、あとは緑川と佐藤の関係よ。佐藤が人事に口を出すなら、今回緑川が異動する可能性もあり得る」
「人事サイドがどの程度、佐藤の言葉を聞くかによるでしょう」

第2章  第3幕  Hunting~to be continued

 間もなく人事異動の内示日がやってくる。
 そんなある日の夜、東京にいる佐治から弥皇(みかみ)宛にメールが届いた。和田が入力したデータベースを読んだらしい。
 緑川の人事にはストップが掛けられたという。安倍の夫、佐藤のゴリ押しがあったようだが、どうやら人事サイドには佐藤のプライベート行動が筒抜けだということだった。
 一職員のプライベート行動を知り得る人事サイド及び県の人事案を発表前に知ることができるサイコロ課って、途轍もなく凄い?と思いつつ、和田と麻田を呼び、佐治からのメールを見せた弥皇(みかみ)

 3人が頬を寄せ合うように近づき輪をつくりながら、警察官舎の廊下でひそひそトークを始めた。
 麻田は人事サイド行動筒抜け説に懐疑的である。一方、弥皇(みかみ)と和田は人事サイドに対する評価を改めたようだ。
「人事サイドって、どれだけ情報掴んでるのかしら」
「相当のコネクションあるようだねえ」
「今は内部告発とか、メールで簡単にできちゃいますからね」
「我々警察も同じってことなの?」
「そうなりますね」
 弥皇(みかみ)の一言で、麻田は輪の中から外れた。
 内部告発か、穏やかならぬ響きだ。麻田は遠い過去が蘇るように感じて、その夜は眠りにつけなかった。ベッドの中で羊を数えつつ、夜明けを迎えたのだった。


 さて、麻田と和田については緑川への心理潜入が巧く運んだようだ。脳裏に焼き付く役目を果たしたようである。
 残るは弥皇(みかみ)だ。
 弥皇(みかみ)は隣の部署にいるため、なかなか会うタイミングを合わせられずにいた。
 どうすれば緑川の前に現れ、なおかつ結婚詐欺のカモとなるような男のイメージを植え付けることができたものかとシミュレーションしてみるが、そのチャンスが巡ってこない。 
 奴が餌食にするのは、どういう男性なのだろう。

 サイコロ室の資料によれば、車でダイブした犠牲者は40代後半。
 大人しく、仕事に対して真面目。周囲には優しい男性という評判。
 勤務してからの交際歴は無し。
 アルコールやたばこは、殆ど口にしない。ギャンブル癖もない。
 ここ数年は、心療内科で心の調子を整える薬を処方されていた。
 長男、嫁取りということで結婚が遅れたか。
 根が真面目だから、女性に気の利いたジョークも言えなかったと見える。

(僕とは正反対のタイプじゃないか。女性との交際歴なしを除けば)

 弥皇(みかみ)は焦りを覚えつつあった。他の職員や、別ルートでカモを探されてはミッションにならない。
 まして、カモとしてのターゲットから外されれば、自分の沽券に関わるというものだ。

◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

弥皇(みかみ)さん、聞いてくださいよ」
 その日、緑川と飲んで夜遅く戻った和田が、弥皇(みかみ)の部屋で嘆きぼやく。
 時間は日が変わろうかという頃だった。
「遅かったな。例のお祝いか?」
「ええ、全くの女王さま。ドSですよ」
 和田の見立てによると、本性はまだ隠していると思われるが、仕草の一つ、言葉尻の一つまで、緑川の言いなりにさせるという。無理矢理、酒を飲ませようとする、酒が終わればゲームセンター。カラオケに行かなかったところを見ると、歌は苦手なのだろう。膨大な捜査資料にも歌の話は出てこない。
 弥皇(みかみ)は参った、というふうに肩を竦めて見せた。弥皇(みかみ)は独りカラオケが大好き。間違えても、緑川を誘う際にはカラオケなどと答えてはいけないというわけだ。

 そういえば、といった顔で弥皇(みかみ)が和田に聞く。
「全部でどのくらい使った?」
「今日は1万くらいです。皆、緑川が出しましたよ」
「行くとこまでいったら、それなりの出費になるな」
「なんですか、それ。怖いこと言わないでくださいよ。嫌ですよ、鶏ガラ見るの」
「和田くん。そういう時は、二人きりになれて嬉しいけれど、きちんと段階を踏みたいって逃げるんだよ」
「段階を踏む、ですか」
「そう。親に会うとか、指輪が欲しいって言われた時も、まずはその手で逃げろ」
「逃げられなかったら?」
「鶏ガラは、絶対に逃げるしかない。指輪は、『緑川さんに相応しい指輪を買えるほどお金がなくて。両親に仕送りしているんです』と誤魔化す。それでも、って言われたら・・・」
「言われたら?」
「経費で落ちるのか?指輪って」
「知りませんよ、サイコロ課に予算なんてないでしょ」
「じゃあ、自腹だな」
「勘弁してください。なんで僕が。仕事とはいえ、初めて女性に送る貴重な指輪が緑川になるのは我慢できません」
「これが僕たちの仕事だ。公僕と言う言葉を忘れないように」

 げんなりと肩を落とし立ち去ろうとする和田に弥皇(みかみ)は不思議そうな顔をしながらなおも聞いてくる。
「僕らが警察庁から来てる警官だってことは緑川も知ってるんだよね」
「配属時にそういう挨拶しましたから、たぶん知ってるかと」
「君が警官だとして、自分が絡んだ犯罪を暴くかもしれない危険な相手、近づいてはいけない相手って思わないのかな」
「どうでしょう、その辺能天気っていうか、ただのバカですよ、ありゃ」
 弥皇(みかみ)の思考にしてみれば、普通、犯罪者は警察と聞いただけで自分たちを敬遠する傾向が強い。
通常ベースなら本当にそのとおりで、よほど自分の犯した罪が暴かれるはずがないと言う自信がないと警察関係者は相手にもされないはずだ。
尻尾を掴ませるものかという自信の表れなのか。
何か秘策があるのだろうか。

 弥皇(みかみ)はふと我に返り、和田に、緑川と遭遇できないと嘆いた。
サイコロ課時代から、余程のことが無い限り残業しない弥皇(みかみ)。こちらに来てからもその習慣は変わらない。
 和田が言うには、緑川が庁舎から出て、家に帰るのは午後8時過ぎ。それまでは県庁の中で遊んで時間外手当を不当に受給しているという。
 そのお金で休日は朝から出かけてハイブランドの物を買い漁り周囲に自慢しているのだとか。

 弥皇(みかみ)の顔が段々鬼のようになる。目は三白眼となり、口元はへの字に曲がりだした。和田は弥皇(みかみ)を宥めながら、緑川遭遇作戦を伝授する。
「仕方ないですよ、午後8時過ぎに庁舎を出て、遭遇したら声かけて、緑川の向かう駅方面に一緒に歩けばいいでしょう、弥皇(みかみ)さん」
「犠牲者と僕の行動パターンや性格の余りの違いと、緑川拒否症候群が入り混じって、今、僕はシミュレーションが飽和状態なんだ」
「じゃ、僕が緑川に言いましょうか」
「おお、その手があるねぇ」
「知り合いとして紹介するくらいなら構わないと思いますよ。あとは弥皇(みかみ)さんの腕の見せ所ですけど」

「ついでに私からのコメントも付け加えて」
 いつの間にか、麻田が弥皇(みかみ)の部屋に紛れ込み、地の底から這い出るような、電源を切ったテレビから出てくるような怖い声を出す。
「麻田さん、急に出てきたから吃驚しましたよ」
 弥皇(みかみ)の言葉など、麻田は聞いていない。
「ジャブかませれば、必ず食いつくわよ。先日挨拶に来た秘書課の麻田係長と面識があって、先日廊下で会ったら緑川を綺麗な人だと褒めていた、と」
「火が付きそうな言葉ですね」
「完全にターゲット確定」

 だが、3人の計画は直ぐに実行には移せなかった。緑川は次の日から、恒例の生理休暇が始まったのである。今週はもう出勤しないらしい。
女子職員の間で、噂が聞こえてくる。素知らぬ顔で理由を聞く和田。廊下の端で、何人もの女子職員が輪になり和田を囲む。
 一種、和田が王様のハーレムのようにも感じるが、空気はそれを違うと物語っている。女性職員たちは和田そっちのけで緑川への口撃に忙しい。和田はどうにか突破口を開けないかと、そちらこちらに視線を送っている。
 一人の女性職員と目が合い、早速口撃に乗じて緑川のことを質問する。
「緑川さん、身体が弱いんですかね」
「ずる休みよ、本人は至る所で自分は虚弱体質って言ってるけど。知ってるんだから、毎日適当に時間つぶして時間外手当もらって。でも休みの日になると必ず外に出て遊んでるのよ」
「そうなんですか。どうしてわかるんです?休日の行動」
「SNSにあげてるのよ。ご丁寧に自分の顔写真まで」
「そりゃ、わかっちゃいますね、誰でも」
「あ、内緒ね。貴男、彼女のお気に入りみたいだし」
「まったく。仕事は全部あたしたちに勝手に振るの、上司がいるのに」
「そういえば、上司の沖田さんとはあまり話しませんね」
「沖田さんは馬鹿を相手にしないから。ミーは嫌われているの」
「ミー?緑川さんのことですか?」
「エムって呼んだらバレバレじゃない。この部署で名字のイニシャルがMなのは彼女だけだし」
「じゃあ、僕は聞かなかったことにします。でも、噂は教えてくださいね。僕の先輩が興味あるらしくて」
「やっだ、また趣味悪いのが増えたの?それにしちゃ、此処に来ないわね。ま、いいけどさ」

 和田は頷きそうになる自分を制するのに苦労した。こういう集団の中にいて、YES/NOを発するのは危険だ。発した時点で和田が言っていたことにされかねない。そのリスクだけは避けなければ。
 緑川の居ないこの機に重要な情報を仕入れようと必死になっていた和田は、目の合った女性陣誰彼構わず聞きまくる。
「話は変わるんですが、先月かな、自死した職員さんがいるって聞きましたけど」
「ああ、ミーがカモにして捨てたって噂の彼ね」
「フラれて死ぬくらい、何か事情があったんでしょうか」
「親の金に手をつけたみたい。ミーに貢いで。で、勘当されちゃって」
「でも、独身の方でしたよね。もしかして結婚の予定とかあったりしないのかな」
「結納金にしたって今や200万から300万の間でしょ。貢ぎ過ぎだって」
「いくら貢いだんですか?」
「2千万くらい貢いだらしいわよ」

 内心苦笑する和田。
噂と言うものは、段々尾ひれがついて広がっていくものだ。
これこそ伝言ゲーム。話を面白おかしくしたい、大袈裟にしたいという、内面心理の一端であろう。ある種、緑川への嫉妬もあるのかもしれない。
「僕の常識の範囲外でした。凄いんですね」
「噂じゃ、それ専用の通帳あるらしいって」
「貢がせるための?」
「そう。貢いだ相手と自分しか知らない口座」
「でも、偽名で振込もありでしょう?」
「いざという時の保険よ。本名で振り込ませるって」
「保険、というと」
「奥さんにバラすってこと」
「あー、なるほど」
「独身男性はまだしも、奥さんが怒るでしょ、そんなの」
「そうそう、普通なら離婚沙汰になりかねないもの」
「噂じゃあ、相当いるらしいわよ」
「へー、そんなにいるんだ。みなさん、お金持ちなんですね」

 緑川のいない一週間は、情報収集の宝庫になった。
 ミーという陰の名。僕等もこれからはミーと呼ぼう。
 貢がせ専用口座の真偽。これは是非、通帳を押収して欲しいものだ。
 貢いだ金の対価。どのような名目で車ダイブしたあの男性から800万円もせしめたのだろうか。
 親から勘当されたのは事実なのか。親の金を使い込んだとなれば、搾り取れなくなって自死に追い込んだ可能性は十分にある。
 物的証拠がなければ事件とは言えないし、結婚詐欺とは成り得ない。
 何か、もう一つ、緑川が犯人であるはずの決定的なトリガーが隠されているに違いない。

 週明け、緑川はいつもながらのプチ遅刻で出勤してきた。早速和田は緑川に近寄り、こっそりと『ご馳走さま』とお礼を言ってから、椅子に腰かけた。緑川は満足したようだった。そして、また行きましょうと、こともあろうに職場のメールを使って誘いが来た。

 心の中では、いつもげんなりしている和田。
ドSというより、あれは馬の調教か何かの間違いのような気がする。そうだ、かつては自分ほど年の差がある年下男性と交際していたのなら、調教好きのドSということになるか。そんな年上の女なんて普通なら男の方から願い下げだけど。
 困ったのは弥皇さんと緑川のアポイントメント。どうしたら緑川と引き合わせることができるだろう。

 和田に一つの考えが(ひらめ)いた。

 廊下で出くわし長々と話すのは難しい。緑川がのってこない可能性もある。そこで目を付けたのが1階の珈琲ショップだった。珈琲ショップで、ばったりと弥皇(みかみ)に出くわす芝居を打つことができないか。
 和田の計画は、いたってシンプルなものだ。
 緑川は毎日、午前10時と午後3時の定時に仕事をさぼって珈琲を飲みに1階の珈琲ショップへ行く習慣がある。
 和田は緑川の傍により、珈琲の香りを褒めちぎって一緒に連れて行ってくれと頼めば連れて行ってくれるのではないか。
珈琲の趣味の良さを褒められれば、緑川はいい気になって和田を珈琲ショップに誘ってくれるだろう。そこに弥皇(みかみ)をスタンバイさせておくのである。その計画をささっと陰でメールし、弥皇(みかみ)に知らせ、OKの返事が来た。

 北の地に生まれたホームズは、いつも直球勝負。負けることを想定していない。
 緑川に直接耳元で囁きOKの言質をとった和田。メールやSNSで形に残るのが何より嫌だった。

 午前10時。緑川が席を立ち、1階の珈琲ショップに向かう。和田も素知らぬふりをし、後から続いた。
緑川たちが店に入った頃、弥皇(みかみ)は既に店の奥に陣取って珈琲を口にしていたのが和田からも確認できた。緊張の色が見て取れるが、それはそれで、演技っぽくなくていい。
 緑川が珈琲2つを注文し、店内の中程にある自分のお気に入り席に座った。和田が珈琲を持って緑川の向かいに座ると、店の奥に陣取っていた弥皇(みかみ)がすかさず立ち上がり、和田の方に近づいてきた。すれ違いざまに、和田が声を掛ける。
「あ、お久しぶりです」
 和田の声に気が付いた緑川が弥皇(みかみ)の方をちらりと向いた。
「こちらの人は?和田くん」
「こちら、警察庁の先輩で、えーと」
弥皇(みかみ)と申します。東北への出向は初めてなのですが、こんなお綺麗な方がいらっしゃるとは。本当に今回の出向は、僕にとって幸せの極みです」
「緑川と言います。和田くんの先輩?今度一緒にお昼でもいかが?」
「ええ、是非!」
 弥皇(みかみ)はうるうると目を潤ませている。
 絶対目薬仕込んだな、と和田は思ったが笑ってはいけない。表情も、いつもどおりでなければ。ミーは鼻が利きそうな予感がする。どこで自分たちの作戦を嗅ぎつけるかわからない。
 昼食の約束を交わし、店を出てトイレに向かった弥皇(みかみ)。電話を出し、メールする。

(緑川と昼食の約束取り付けました。向こうが主導するものと思われます、どうします?)

 メールの宛先は、麻田だ。

(初日に私が出たら、貴男を印象付けるチャンスにならないので、遠慮)
(はいはい)

 数日が過ぎた。只管に弥皇(みかみ)は待つしかない。和田ですら、その話題を緑川に振ることができない。
 仕方がない。和田は緑川に、美味しい昼食を食べたいと話を振り、緑川がその気になって動き出すのを待った。
和田の予想どおり、昼食の日時と店は緑川が選定した。
和田は弥皇も一緒にと必死に頼み込む。初めは渋い顔をしていた緑川だったが、和田の必死さに折れた、というよりは和田に貸しを作りたかったのだろう。
翌日、県庁から離れたホテルのラウンジで、3人で昼食を摂ることで話は纏まった。
指図されたり決められたりするのを、一番嫌うサイコパス。だから和田は必死に頼みこむしかなかったのだが、和田の心の内は激しいぞ唸るものが溢れ出しそうになっている。
なぜ自分がこんな鶏ガラのために一生懸命演技をして、女王様のご機嫌伺いをしなければならないのか。一体いつまでこんなことが続くのか。

 翌日の昼、緑川から告げられた待ち合わせ場所に急ぐ弥皇(みかみ)。遅刻などしようものなら、緑川に良い印象を与えられない。サイコパス達は、自分が遅刻するのは良くても、相手が遅刻するのを大いに嫌う節があるのだ。
 待ち合わせ場所は1階の珈琲ショップの前だった。
 良かった、和田と緑川はまだ到着していない。階段を急いで下りて来た甲斐がある。昼時のエレベータは、満員電車並みに込み合う。緑川の性格からして、階段を下りてくるはずもない。必ず和田を伴ってエレベータに乗ってくるはずだ。
 いわずもがな。
 エレベータの方向から、和田を後ろに従えた緑川が姿を見せた。
 速足でそちらに向かう弥皇(みかみ)
「こんにちは、緑川さん。美味しいランチのホテルだそうですね。楽しみです」
 さて、次はどう出ようか。

 考えあぐねていると、緑川が弥皇(みかみ)に話しかけてきた。
 可愛らしい、人懐っこい笑顔である。弥皇(みかみ)の名札をまじまじと見つめる緑川。
弥皇(みかみ)と書いてみなみ、って読むの?珍しいのねえ、出身はどこなの?」

 弥皇(みかみ)はカチンとくる。みかみと教えただろう。なんで南になる。
 そこで顔に出してはいけない。にっこり笑って緑川を見つめる。自分の芝居は主演男優賞モノだと思う。
「両親は北関東にいますが、先祖は近畿方面だと聞いています。皇室に所縁(ゆかり)のある職に就いていたのでしょう」
「私、大学時代は文学部で日本史専攻だったし、歴史とか英語とか成績良かったから。わかんないときはいつでも聞いて」
「恐縮です、もしよかったら、またこうしてお時間くださると有難いです」
「こちらこそ。で、何食べる?」
「緑川さんのお薦めなら、どれも美味しいでしょうね」
「じゃあ、任せて」
「そうだ、メールのアドレス、交換していただけますか」
「あら、いまだにメールなの?古いわね」
「普段からSNSとか使い慣れないもので。今度それも教えてください」

 その後、和田と一緒にではあるものの、弥皇(みかみ)は緑川と珈琲タイムや昼食を一緒にするようになった。皇室所縁(ゆかり)の一言が効いたに違いない。
だがまだ、財産を聞くような真似はしてこない。
それが緑川の詐欺方法なのか。
一緒にいるときは一瞬たりとも気が抜けない弥皇(みかみ)がいた。
 一方で、歴史が得意と言う緑川が嘘をついていることが判った。古代に始まって、中世、近代、何もかもが中途半端な知識しか持ち合わせない緑川。下手に質問して返答に窮するシチュエーションだけは避けなければ。
弥皇(みかみ)は常に気を遣うことになった。

 緑川や和田らと昼に食事を一緒にするようになったある日、警察官舎に戻った弥皇(みかみ)は、体中から憮然としたオーラを放っていた。
原因は勿論、緑川だ。
 麻田の部屋に向かい、コンコン、とドアをノックする。
 果たして、麻田は帰宅していない。一度自室に戻ると、1時間後にまた、麻田の部屋をノックする。今度はドアが開いた。
「麻田さん、弥皇(みかみ)です。僕の部屋に来ませんか。和田くん、まだ戻ってないんですけど」
「どうしたの、珍しい」
「ヤケ酒気分ですかね」
「貴男が私の部屋に入るよりは、私が行くわ。娯楽室で酒飲んで、万が一にでも何か叫んだら不味いしね」
 弥皇(みかみ)は先に自室に戻った。パジャマ用ジャージのようなだらだらとしたジャージを着ていた麻田だが、外出用ジャージに着替えたらしい。5分ほど遅れて弥皇(みかみ)の部屋のドアを叩いた。

 弥皇(みかみ)が静かにドアを開け、麻田を部屋に招き入れる。部屋の中を覗いた麻田は素直に驚いた。
 男性にしては、と言ったら失礼だが、整理整頓の行き届いた部屋。
 ライトや時計など、小物の選定はファッショナブルでいて、カラーリングもモノクロームグラデーションによる絶妙なコントラストを描き、その中に1カ所だけ明るめの色を加え、居心地の良さを与えてくれる。
 それでいて、機能面でも一定以上のラインを保つ。
 妥協を許さないセンス。そのセンスに支持された物だけが、これまた機能的な位置に、きちんと置かれている。
「あら、予想外」
「部屋ですか。麻田さんのことだから、僕はチャラチャラと適当に買い求めてると思ったんでしょう。でなきゃ、すごく汚いとか」
「いやあ、本音を言えば。見直したわ、良いセンスしてる」
「あ、麻田さんが初めて僕を褒めてくれましたね」

 屈託のない笑顔で弥皇(みかみ)が笑う。
 しかしその笑顔は直ぐに消え、その目には暗い影が宿る。重々しい口調で弥皇(みかみ)は話し始めた。
「麻田さん、僕ね、妥協できないんですよ」
「何に」
「さっきから、何かこう、腹立たしいような、果てしなく疲れたような気分が渦巻いて」
「だから、何にそういう気持ちを持ったわけ?」
「ミーです」
「ミー、っていうと、あのミー?」
「そうです。歴史の歴の字も知らない女が、歴女気取りで僕に蘊蓄(うんちく)たれやがる」
弥皇(みかみ)くん、もう飲んだの?」
「いや、これからです」
「深酒は止めなさいよ。明日以降もミー周辺をうろつくんだから。和田くんのところに行けばよくなった分、楽になったでしょう」
「あのつまらん話の、どこが良くて骨抜きになるんです?」
「綺麗だって、鼻の下伸ばしたじゃない。皆で」

 麻田が意地悪ばあさんのようにメガネをずり下げ、右肘で弥皇(みかみ)を小突く。
 弥皇(みかみ)は恥ずかしいといった素振りで、両手を頭の後ろで組んだ。その手を前で組み直し、左手を右手で抓る動作を繰り返す。
 ありったけの溜息をつく弥皇(みかみ)

深く、そして長く。

 苦労の絶えない弥皇(みかみ)と和田に対し、まだ何も起こらない自分は何て呑気な毎日なのだろうと反省しつつも、早く緑川の尻尾を掴みたいと焦っている自分を冷静に捉えている麻田は、弥皇(みかみ)が買ってきた焼酎を水割りにして2人で飲み始めた。
2人とも、言葉を発しようとはしない。焼酎をグラスに次ぎ、水を加え、一気に飲み干す弥皇。少しずつ口に運ぶ麻田。それ以外の物音は部屋の中から遠ざかり、官舎沿道のクラクションの音が聞こえるだけ。
 誰ともなく、口を開いたのは弥皇(みかみ)だった。
「これまで、色んなカテゴリを見てきました。僕はいつだって相手を敬いつつも、距離を置いてきただけなんです。ミーのような阿呆は、カテゴリ未満。写す価値なし」
「3流以下ってこと?」
「そうです、あんなに阿呆だと、話題にも一苦労なんですよ。こっちが知ってる、ということを悟られてもいけないでしょう」
「確かに。こっちが勝っていたら、その時点で外れ確定するわね、恥かかせられないから」
「でしょう?例えばですよ、邪馬台国は何処に在ったと思います?」
「私は九州説ね」
「僕は畿内説なんですよ、自分の系譜も含めて。そこから話が発展するでしょう、普通」
「ミーはどっちだったの」
「邪馬台国さえ知りませんでしたよ、ミーは」
「はあ?知らないことは無いでしょう、仮にも日本人なら学校で習うじゃない。場所は別としても」
「焦りましたよ、恥かかせられないし。なんのことは無い、この県で有名な武将がいましたよね。確かゲームとかにもなった」
「ああ、いたいた。片目の武将と優秀な家来」
「商業関連部署にいたとき、少しだけ仕入れた蘊蓄(うんちく)を我が物顔に話すんですよ、ドアホが」
「あまり嫌っても駄目よ、顔に、特に目に出るから」
「明日から気を付けますから、今晩だけは本音を吐露させてくださいよ」
「はいはい、わかったわ」
「麻田さんはメガネ取ったら美人なのに、どうしてガードを固めているんです?」
弥皇(みかみ)。お前。酒の勢い?言いたい放題じゃないの」

 麻田は眼鏡の縁をいつもの癖で親指と中指を使って押し上げる。
 弥皇(みかみ)は顔色こそ変わっていないが、麻田には、弥皇(みかみ)が相当酔っているように感じられた。
「はは。明日からいつもの僕になりますから。まったく、今回の任務ほど馬鹿らしいものは無い。でも、誰かが傷つく恐れがあるでしょう、阻止しないといけない」
「そうね、普通なら移動任務はあり得ない。助けられる命があるってことなのよ、きっと」
「僕が近畿の皇家所縁(ゆかり)末裔(まつえい)だって話したら、食いついてきましたよ。金目の話にね。僕、本当は二男ですけど嘘ついて『長男で節税対策に勤めているだけ』って言ったら、もう目が爛々」
「皇家所縁(ゆかり)は本当なの?」
 酔っ払いの、にっこり笑い。
「ホントです。色んな所縁(ゆかり)があるでしょう。今度ご一緒にいかがです?」

 そこに、部屋をノックもせずに和田が息を切らして飛び込んできた。弥皇(みかみ)は何故か慌てている。麻田はのんびりしたものだ。
「なんだ、和田くん。ノックもしないで」
「お帰り、和田くん。お先に飲んでたわよ」
「二人とも、のんびり酒飲んでる場合じゃないですよ!ミー関係の骨抜き退職組、練炭で自死しました」
「なんですって?」
 弥皇(みかみ)と麻田ののんびりムードも、刃が空を斬る如く掻き消された。
「練炭?なぜ足が付くような真似を」
「今はわかりません。ここの県警本部からは連絡ないんで、本庁からの連絡待ちです」

 その晩遅く、データベースに入力したという佐治からの連絡を受け、三人はデータベースをタブレットで見る。
 被害者は、安倍先輩を叱責し、その後も緑川に付きまとっていた元上司だった。3日前、緑川の通帳に1千万円の振り込みが為されていた。

 暑さ寒さも彼岸まで。
 季節は冬から春へと移動しつつあった。
 それは街中だけのことである。この地方は海と山に囲まれた地形で、山にはまだまだ雪が残る。
 元上司は自宅が自然豊かな場所にあるらしく、自宅から10数キロ離れた雪山に車で練炭を持ち込み、車は内側から目張りされていた。内側から鍵をかけ、練炭と着火剤の入った七輪に火を放ったものである。自殺サイトを見たと思われ、そのページコピーと、ご丁寧に水入りやかんまで用意していた。
 睡眠剤、抗不安剤、アルコール、吐き気止め用の二日酔い止め剤と乗り物酔い止め剤の成分が胃の中から見つかった。
 緑川に会った頃か、その前後に精神不安定になった時期があり、この元上司も通院歴があった、現在も通院している。今回、遺書は見つかっていない。
 同日、Nシステムで元上司の向かった山麓に、緑川が往復していることが確認されている。このことから、山の麓、人目に付かない場所での密会を持ちかけた緑川が、最初にアルコールと薬類を飲ませ、相手が寝入ってから七輪などを助手席に準備して火をつけ、犯行に及んだとみられる。七輪や練炭、やかん、目張り用ガムテープ、アルコール、酔い止め薬など、緑川が準備したであろう品々については、購入記録を照会中。
 なお、元上司の車の鍵は見つかっていない。

「嘘みたいだ。昨夜のうちに事件を起こしてたのか」
 弥皇(みかみ)が我を忘れたように呟く。
麻田はここでも冷静だった。
人事カードによっては止めるつもりもあったのかと訝る弥皇(みかみ)に、麻田は、人事がどうあれ犯行には踏み切っただろうと推測する。和田も同意見だ。
「方法は以前の練炭殺人事件を模倣したのでしょうね。金の振り込み時期からして人事が原因じゃなく付きまといに嫌気がさしたんでしょう」
「あの料理人カテゴリ同様、自分も逃げ切れるって?そりゃ甘いですよ。あの料理人は凄腕のサイコパスだ。ミーと比較できるような相手じゃない」
「ミーから心中を持ちかけたかもしれないわ。結婚するためのお金を巻き上げてから結婚できない状況作って、貴方と一緒になれないなら、って言えばいい。お金は全て骨抜きに準備させられるでしょう。墓場まで持って行こうとしたはずよ。車の鍵だけは今もミーが持っているか、途中で捨てたか。それなら、アリじゃない?」
「ミーって馬鹿ですね。Nシステムの知識もないんでしょうか。地図を見る限りでは裏道なんていくらでもあるのに」
「雪があるだろう。山麓に行ったことがないから不安だったのさ。途中で車が転げたりしたら、言い訳できないだろう?スキー場とも逆方向だし」

 重苦しく流れる空気。犠牲者を出さないために着たはずが、出てしまった、犠牲者。いくら安倍先輩を潰した直接のトリガーとはいえ、緑川のサイコパス犠牲者の線が濃厚だ。
「あ、佐治さんから続報です」
 また、各々データベースを確認する。
「何だって?」
「まさか」
「安倍先輩が同じものを購入している?練炭と七輪」
「薬類も持ってるし」
「Nシステムは?」
「安倍先輩は発病後、すぐに車の運転を止めたそうです。免許の更新だけはしてますが」
「なら、レンタカー。よほど慣れてないと雪道は走れないわよね」
「レンタカーを今照会中のようです。けど、安倍先輩は雪道大嫌いだったみたいですよ」
「どうしてわかるの?」
「雪道で五回ほど自損事故起こしてます。注意力も学習能力もないなあ」
「僕だって雪道はイヤだよ。絶対に走りたくない」
「簡単とは言いませんけど、注意さえすれば走れるものですよ」
「和田くん。簡単に言うけど、南の地出身者にはそれが無理なんだよ」

 また、佐治から続報が入る。
 安倍先輩名義でレンタカーを借りた記録は残っていなかった。借用記録に名前が無いほか、Nシステムにもヒットしていない。
 また、アリバイが確認されている。家人と、向かいのマンションに住む人物の証言によると、安倍先輩は、当日在宅しており、パソコンの前に座っていたという。
 安倍先輩は、以前にも農薬や硫化水素の材料まで買い込んだことがあった。鬱病と診断されていた時だ。記録を辿ると、かれこれ5年ほど前になる。復職時には処分した、と職場の友人に告げていたらしい。
 今回の事件とは関係性が薄いものの、こちらもきな臭い動きだ。

 何れ、一刻も早く緑川の犯罪と立証するためには、何らかの証拠を掴まなければいけない。3人共に、表情に焦りの色が滲み出ている。
 弥皇(みかみ)も、すっかり先程の酔いから覚めた様子だ。
「私の情報、流してちょうだい」
「僕は和田くんのところに通い詰めて、ミーを誘いに乗らせよう」
「僕は引き続き様子を見ながら情報収集します」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 翌日。
 部署は元上司の噂で持ちきりだった。関東や関西で起こった事件と類似していることから、緑川に疑いを向ける女性たちもいた。
 しかし、目の前で言えば、自分が骨抜き上司のターゲットになるのを察知しているのだろう。緑川が遅刻して出勤すると、皆、固く口を噤んだ。

 緑川が、周囲の重苦しい空気に反応を見せる。
「和田くん、どうしたの?この部屋、空気重くない?」
「なんでも、昔の上司がお亡くなりになったとかで」
「ああ、新聞に載ってたやつね。あの人嫌いだったし、罰が当たったんじゃないの」
「悪い人だったんですか」
「私、日中から口説かれて大変だったの。噂じゃ退職してから精神的に参っていたみたいよ」
「そうでしたか」

 思い出したように和田が緑川の方を向いて無邪気を装い、にっこりと笑う。
「秘書課に配属された麻田係長と、昨日廊下ですれ違ったら、美人さんの隣でラッキーねって言われました」
 緑川は平静を装うようにしながらも、口の端が片方だけ上がり、目はギラギラとして、嫉妬の炎が燃え盛っているのを和田は見逃さなかった。
「あの女性係長と弥皇(みかみ)さんとは、知り合いなの?」
「さあ。顔見知りらしいけど、どうなんでしょう」
 和田の、プラマイゼロの完璧な答え。
 緑川の聞きたかったのは、和田や弥皇(みかみ)と麻田の親しさの程度である。それを、どうなんでしょうと煙に巻いた。どちらかわからないが、仲が悪いとは言っていない。今も緑川の目の奥に、炎が見え隠れする。口元が歪み続けるのがわかるほど、効果的な言葉だったようだ。

 突然やってきて、あたしの行きたい場所を占領した女。髪がさらさらとして、あたしのくせ毛コンプレックスを嫌と言うほど刺激する女。それが、あたしよりも人気があるはずがない。弥皇(みかみ)と仲が良いなら、弥皇(みかみ)を誑かして骨抜きにしてしまえ。そう思ったのかもしれない。
「ね、今日も帰り、行かない?」
「あ、はい。そういえば、弥皇(みかみ)さんがご一緒したいって」
「向こうは別の日に。今日は貴男だけ」
「日取りだけでも決めていただけると有難いです。弥皇(みかみ)さん、緑川さんに夢中なんです」
「あらそう。じゃ、明日って伝えておいて」
「ありがとうございます。弥皇(みかみ)さん、会うといつもせがむから安心しました」

 その日、緑川は相変わらず仕事もしないで暫く何か考え込んでいた。
 和田は隣で仕事をしながら、麻田さんを追い落とす算段を模索しているのだろうと揣摩臆断(しまおくそく)した。
緑川にとって麻田さんは邪魔者でしかなく、もし今、麻田さんが何らかの不祥事で失脚すればその椅子を狙える可能性がある、と踏んでいるのだろう、と。
 それは全くのお門違いで、元々が麻田のために新設した役職だから居なくなれば椅子は消えるだけなのだが。

 仕事を8時まで手伝わされた上に、また酒の席に誘われた和田。
今日もか、と思う。
仕方なく後をついて夜のネオン街に入る。今日は、カウンター席。緑川のボディタッチが五月蝿い。兎に角、五月蝿くて仕方がない。小バエみたいだと思いながらも、笑顔を振り撒いて過ごす和田。此処は耐えろと先輩たちが言うからだ。
 1軒で11時近くまで飲んだ後、緑川はこともあろうに「帰りたくないわ」と言い出した。和田、操の危機である。連れて行かれる方には怪しいネオンが立ち並ぶのが見える。

 不味い。

 和田は携帯電話を二台持ちしている。一台は一般用、一台は秘密のサイコロ課専用だ。
 コートに手を入れて、秘密の携帯電話を駆使しながら、人前に出している方の携帯電話のコールを鳴らす。
「あ、すみません、電話が。少し待ってくださいね」
 少し離れつつも、緑川に聞こえるような声で話す。
「はい、はい、今からですか?酒入ってますけど。はあ、はい、はい。わかりました」

 緑川の元に戻って、すまなさそうに詫びる和田。
「上司からで。東京から先程こちらに着いたそうで、迎えに来いと言われまして」
「みなみさんとか、秘書課のメガネじゃ駄目なの?」
「あの二人は、警察庁では僕と違う部署なんです。今日の上司は直属で。警察の階級って厳しくて、上下関係は凄いですよ。その中でも出世頭の上司なので、僕はラッキーなんです、目を掛けて貰えて」
「じゃあ、仕方ないわね。今度付き合ってね」
「タクシー探しましょう。最初に緑川さんに乗って貰えれば安心です」
「ねえ、これからも付き合ってくれるでしょう」
「勿論です、でも僕。結婚前の行為、そういうのは自分の中で許せないものがあって」
「どうして?私が良いならいいじゃない」
「大切に思えばこそ、です。もし僕が悪い奴で、女性の体目当てに近づいて、心も体も乗っ取って、そのまま逃げたら女性に対して失礼じゃないですか。僕は行動に責任を持ちたいと思っていますから」
 と、弥皇(みかみ)譲りの講釈を受け売り垂れ流し、緑川をタクシーに乗せ、見送った。勿論ナンバーは把握済みだ。

 そのあと、自分は違う場所に移動して、タクシーを捕まえた。鏡を手に。緑川が追いかけてきていないか確認するためである。流石に緑川も、其処までは頭が回らなかったのだろう。
 しかし、緑川が酔っていなかったのは、その目を見ただけで和田には判った。
 かろうじて、警察官舎が一般人には容易に入れる場所ではないことだけが救いである。
 官舎に戻った和田は、くたくただった。緑川の相手は疲れる。緑川信奉者や崇拝者なら、なんとかホイホイのようにベタベタくっついていくのだろうが。

 一方その時間、弥皇(みかみ)の一般携帯には、緑川からのメール着信があった。

(今度、夕食ご馳走になっていいかしら。勿論、お酒付で)

 ご馳走ね、と思いながら返信する。

(ええ、是非!こちらは初めてなので、お店さえ選んでいただけければ)
(ホテルのディナーでもいい?)
(勿論です、貴女の前にはどんな景色も色褪せるでしょうけれど)
(じゃあ、明日の午後6時半に。待ち合わせは、駅前に武将の銅像があるから、そこで)
(はい、遅れないように行きます)
(楽しみにしているわ)

 メールが終わった直後、和田が官舎に帰って来たらしく、弥皇(みかみ)の部屋に顔を見せた。和田は半べそだ。
「操の危機でした」
「上手く逃れたな」
弥皇(みかみ)さんのお蔭です、感謝します」
「その代り、僕に奢って欲しいそうだ」
「連絡来たんですか。いつです?場所は?」
「明日、ホテルのディナー。そのまま部屋に引きずり込むんじゃないだろうな」
「わかりませんよ、少しサービスしてから首根を捕えて鎖でつなぐ。そんなインプレッション、感じます」
「面倒過ぎる。阿呆とは話したくないんだが」
「まあまあ、堪えてください。任務ですから」
「なんでサイコロ課があんな阿呆に振り回されるんだ?」
「サイコパスと言う確証を得るためでしょう。囮捜査じゃないですし」

 誰かがコンコン、と弥皇(みかみ)の部屋をノックする。そっと開けるとそこにはフランブルクの姿があった。
「これ」
 言葉少なに資料のみを弥皇(みかみ)に渡し、風のように去る。
 資料を開くと、セキュリティ番号が表示されていた。データベースに資料を入れたのだろう。早速、帰ってきたばかりでスーツ姿の麻田も呼んで3人でデータベースをチェックする。
「金蔓は弥皇さんに絞られたみたいですね」
「憎しみのターゲットは、まだわからないか。私の名前は出したでしょう」
「はい、苦々しげでした」
「待っていれば向こうから仕掛けてくるわね」

 緑川に振り回され結構な時間を費やしていた3人は、すっかり忘れていた。明日は人事異動の内示日だった。3人は着たばかりなので、近頃、周囲がそわそわしている原因が理解できなかった。
どうやら、人事異動は一大イベントらしい。警察庁あたりも同様なのだろうが、サイコロ課の面々にはドキドキ感というものが無い。サイコロ課が存続さえすれば、皆、それで満足なのだから。


 翌日夕方、人事異動の内示が行われた。

 勿論、緑川が秘書課の係長に異動する内示など、天地がひっくり返ってもある筈がない。今の福祉部署に残留した。緑川の悔しがりようといったら、尋常ではないのが誰の眼から見ても一目瞭然、誰も緑川に話しかける者はいなかった。
 心底悔しかったらしく、持っていた内示書を廊下の隅でビリビリと破いているのを和田が目撃した。その後部屋に戻ってからは平気を装っていたが、言葉の端々に冗談めかした陰険さが目立った。
 例えば、隣の人間が地方事務所に内示が出た。その職員にはこうだ。
「あら、残念ね。外回りで」
 向かいの女子職員には、こうだ。この職員は本庁の三階に内示が出た。
「あら、あの部署って評価低い人が行くのよ」

 その後、弥皇(みかみ)に会った和田が耳打ちする。
「ミー、荒れに荒れてますよ、今日。大丈夫ですか?」
「話聞いて、それからだねえ。約束したから行くしかないでしょ」
「危ない時は逃げてくださいよ」

 夕方、弥皇(みかみ)と和田両名に麻田からメールが着た。

(秘書課に美人で有能な江本という職員が転入。ターゲットになる可能性、アリ)

 弥皇(みかみ)も和田も、その職員に魔の手が伸びないようにするにはどうしたらいいのか、知り合いも少ない今、妙案が浮かばない。
ソンウさんとフランブルクさんは、どこか他からの指示で動いている。連絡も取れない現状で、彼らを頼るのは無理だろう。どちらかフリーなら手もあろうが、男性陣はどちらも緑川の周辺を探っている。
もう一つ身体が欲しいと願う男性2人である。

 麻田からのメールを見てからしばらく考え込み、弥皇(みかみ)は約束の時間10分前に待ち合わせ場所に着いた。
もちろん緑川は、いない。
 30分が経過したが、来ない。
生憎、弥皇(みかみ)は緑川の携帯番号を知らない。知っているのはメールのアドレスだけだ。和田に聞けばいいのだろうが、緑川の心情を考えれば、こちらから連絡を取るのは憚られた。
 それに、怒りに震えて人前に出られる状況ではないのかもしれない。和田には緑川の動きを監視させているから、動きがあれば何か連絡があるだろう。
 2時間、ぼんやりと待った。待たせて、待たせて、相手の反応を見る可能性もある。終電までは待たなくてはなるまい。
 3時間が経とうかと言う頃、漸く緑川が現れた。息せき切って走ってきたようだ。ま、それもこの何十メートルをダッシュしただけで、その実は悠々と歩いて来たのだろうが。

「ごめんなさあい。みなみさあん」
 弥皇(みかみ)は、緑川の体調を心配したと言おうとしたが図星になりそうなので敢えて避けた。
「待ち合わせの場所を間違えたかと心配したんですが、携帯の番号を知らなかったので」
「あら、和田っちに聞けば良かったのに」
 心の中で、目が点になる。

(和田っちだと?和田が聞いたら憤慨するな)

「そうでしたね。いやあ、思いつきませんでした」
「もう来ないと思った?」
「どうでしょう。僕が待ちたいと思った限りは、何時まででも待つつもりでいましたが」
「嬉しいわ。ホテルのディナー、もう遅いわね」
「緑川さんとご一緒なら、何処でも構いません」
「じゃあ、ホテルの最上階にワインバーがあるから、そこに行きましょ」

 駅のタクシー乗り場からホテルの名を告げ、エントランスまで乗り入れる。
「釣りは要りません。お気を付けて」
 タクシーの会社名、ナンバー、ドライバーの氏名、皆記憶する。
 着いたのは外資系のホテルで、確か東北初、秋にオープンしたばかり。最上階には、東北初上陸の有名飲食店が軒を連ねる。このワインバーもその一つだ。
「いらっしゃいませ、ご予約ですか?」
「いえ。空いているなら、夜景が綺麗な席を」
 弥皇(みかみ)はそう答え、ボーイのあとをゆっくりとした足取りで付いていく。
 ちょうど時間帯が良かったらしく、夜景の見える席が空いていた。

「わあ、ここのホテル、初めてなの。夜景が綺麗」
「緑川さんの美しさには夜景も霞みますよ」
「あら、お世辞?」
「僕は正直だけが取り柄ですから」
「お上手なのね」
「本音ですよ」

 弥皇(みかみ)は心で呟く。

(本音を言えば、僕はここから一刻も早く逃げたい)

「じゃあ、いただきましょうか」
「ちょっとしたお料理も。ワインは赤にしますか?白にしますか?」
「お肉が食べたいけど、お肉には赤ワインなんでしょう?」

(行儀作法の時間じゃあるまいし、どっちだっていいだろうが)

「じゃあ、赤ワインにしましょうか」
「ううん、やっぱり白ワインが飲みたい」
「わかりました」

 すっと横を向いて、こちらを窺っているボーイさんに目で合図する。
「白ワインに合う、こちらでのお薦め料理は?」
「ほんのり火加減の鯛のメドレーや、鱚と茸のクリーム煮 パイ包み焼き、伊勢海老のタルタル キャヴィアと黒トリュフの競演、といったところでしょうか」
「どうします?緑川さん」
「全部貰ってもいい?」
「ええ、では、今のお料理全て。ワインはお任せします」

 ボーイが去った。緑川が不思議そうに弥皇(みかみ)を見る。
「どうしてワインもお薦めを聞かなかったの?」
「ホテルの格を見るためですよ。料理に合わないワインなら失格ですからね」
「そうなんだ」
「一流と名乗るなら、その誇りを持って料理とワインをセッティングするものです」

 まず、ソムリエがワインを持って弥皇たちのテーブルに近づいてくる。
 ブショネのワインか否か、コルクの匂いを嗅いでいる。どうやら、コルクに問題はなかったようだ。
 次に、テイスティングである。

 弥皇(みかみ)は気障にするつもりも、気取っているつもりもないのだが、匂いを嗅いだり口に含んだワインを舌で転がす動作、それらが嫌味なく、いちいち決まって見える。一連の動作をスマートに済ませ、ソムリエに微笑み、YESの合図を送る。
 ワインの銘柄や年数なども説明を受けたが、ただ頷くだけで、弥皇は聞いていなかった。目の前にいるこの女に説明して解るはずもなく、それなら、耳に入れないでおいた方がいい。 

 麻田さんならこういうところでワイン談義が出来るだろうに。

「かしこまりました」
 ソムリエが去って行くと、緑川が満足げに笑っている。
弥皇(みかみ)さんってもしかして、お金持ち?」
「いいえ、全然。手元にお金ないですから」
「手元、ね。今のなんだっけ、ワインのソムリエの。あれなんて、すごく慣れてた」
「ああ、こういった場所には、たまたま通い慣れているだけですよ」

(相手はいないけど、いつも一人だけど、嘘じゃないし)

「ワインも料理に合うようです。楽しみに待ちましょう」

 人事異動の内示があった当日にも関わらず、緑川は一切その話に触れなかった。相当やっかみを持ったに違いない。ターゲット保護の方法を考えなければ。緑川の幼稚な話に合わせつつ、弥皇(みかみ)の頭はそのことで一杯だった。
 2時間ほど、その店で寛いだ。もうすぐ終電の時間だ。緑川はどう出るか。
「あ、終電。帰らなきゃ」
「そうですね、ご家族も心配されるでしょう」
「じゃ、また今度」
 緑川は、いかにも横で弥皇(みかみ)を待っているようだったが、その実、支払方法を確認しているのが見て取れた。

 弥皇(みかみ)は、財布からプラチナとブラックカードを出した。そして、ブラックカードで決済した。
 庶民の噂に上る、いや、ある意味都市伝説と化している、プラチナカードとブラックカードである。カード会社からの招待を主とするプラチナカード。そして、何よりカード会社から招待されない限り、その存在すらわからないとされるブラックカード。
 超のつくお金持ちしか持てない、持つことすら許されないといわれる、2種類のカード。
 カードを見た瞬間、緑川の目は爛々と輝き、口元はまるで切り裂き魔が相手を仕留めるときにニヤリと笑う、そんな風貌。
 美人とはお世辞にも言えない、浅ましい本性が湧き出ていた。

 夜も遅く。弥皇(みかみ)がこれまた憮然とした表情で警察官舎に戻ってきた。
 麻田と和田は、緑川が怒りのあまり弥皇との約束をすっぽかしたのではないか、よしんば約束を守っていたとして、弥皇が待ちくたびれなかったのかと心配していた。
 じらせるか、怒りを収めるかどっちかだろうと思ったから、想定内だという弥皇(みかみ)に、ほっとした様子だった。
「よく3時間も待ったわね。店閉まるじゃない。どこで飲んだの?」
「ほら、新しいホテルが出来たでしょう。そこのワインバーで。普通にワインとつまみで。トドメがブラックカード」

 麻田が呆れた顔をする。
ミー如きにブラックカードを使うのかと言った顔をして弥皇(みかみ)の胸を何度も突き、挙句カードを見せろと命令する。弥皇(みかみ)は財布を隠そうとするが、麻田に見つかって没収された。
「あんた、マジ持ちしてんの?私、持ってる人に、初めてお目にかかったわ」
「もひとつありますよ、とっておき」
「とっておき?何?」
「ナイショです」
「そりゃ楽しみね。で、秘書課の話よ」

 麻田によれば、水星の如く現れ秘書に抜擢された江本。彼女本来の姿は、なんと、現職警察官である。警察庁が直々に派遣したS、二名の片割れだという。もう一人Sがいるということだ。
 県警本部も、先日の山麓殺人とみられる事件で緑川へのマークを厳しくするとともに、サイコロ課の若輩者3人では、逆にミイラ取りがミイラ、いや、失礼、緑川の術中に嵌るのではないかと危惧したようで警察庁に相談を持ち掛けたらしい。
 そこで、Sの女子警官二名とSP二名を派遣というのが顛末だ。
 Sと言っても、実質SPに近い存在で武術に優れたツワモノ女性たち。周囲をSPが囲んでいる限り、刃物程度のストーキング連中なら、十分身の安全を守れるのだという。

「皆、名だたる大会の記録保持者みたいよ。格闘系にも秀でているの。私たち、そろそろ帰り支度かもね」
「そっちは証拠作りで、その心理を暴くのが僕らの仕事じゃないですか」
「そりゃそうだね、和田くん」
「そうね、私もSPに守られたいわあ」

 弥皇(みかみ)と和田が、どんぐり眼で麻田を見る。男性2人が、ズズズッと音を立てて後ずさる。
「麻田さん、彼女らを倒すくらいの猛者でしょう」
「僕も知ってますよ、有名ですもん、何名もの男性が意識消失って」
「あれは。たまたま相手が失神しただけよ」
「と、言うことにしておきましょう。また明日から、戻っておいでコールが来るまで働きましょうね。麻田さん、弥皇(みかみ)さん」
「和田くん。ミーの取引銀行、知っているか?」
「確か、大小銀行の県庁支店だったと。僕が通帳作るって口走ったら、大小にしなよ、あたしもだから、って言いました」
「そうか、ありがとう」
弥皇(みかみ)くん、どうしたの?」
「だから、とっておきですって」

 そのまま弥皇(みかみ)は部屋を出て何処かに消えた。
麻田は朝寝朝湯と、まるで爺やのような生活。
和田は情報のデータベース入力に忙しい。
 弥皇(みかみ)は昼過ぎに戻ったようだった。
 麻田が朝湯を止めて部屋に戻った。洗ったばかりのサラサラとした髪。まさに一本一本が艶を帯び、それだけでも十分に色気があるのだが、本人は殊更、化粧や髪など、女の武器ともいうべきアイテムを覆い隠そうとする。
 その行為が、逆に武器を目立たせる場合もある、ということを、どうやら理解していないらしい。

 顔の火照りもそのままに弥皇(みかみ)の部屋に乱入した麻田がニヤリと笑う。和田も弥皇(みかみ)の帰宅を待っていたようで、すぐに姿を現した。
「で、弥皇(みかみ)くん、とっておきって何?」
「そうですね、弥皇さん。こちらも万全の態勢でジャストなタイミングを計る必要がありますから、教えてください」
「仕方ないなあ。最後に『おーっ』って言わせたかったのに」
 麻田と和田が、口に手を当ててプッと笑う。
「実はね、佐治さんから連絡入ってるの。こないだも和田くんに銀行聞いてたでしょう」
 弥皇(みかみ)は肩を落とす。
「バレバレかあ」
「見せて」

 弥皇(みかみ)がバッグから取り出したのは、小切手帳だった。これなら、緑川自らが金額を書いたことも筆跡で分かる。おまけに、支店こそ違うものの、緑川が初めに就職した銀行である。緑川が辞めた銀行に行かせるつもりかと、麻田、和田共に苦笑いする。
「意地悪なやり方考えたわね」
「先日の無駄な時間を、倍にして返して欲しかったんで。僕自身、小切手帳をミーになど渡すのは不本意ですし」
「自分の当座預金なの?」
「そうですよ」
「金持ちなの?あんた。それともただの阿呆なの?」
「失礼ですねえ。麻田さん」
「あら、ごめんあそばせ。つい本音が」
「そういう本音は、心に仕舞ったままにしてください」
「ミーへの小切手帳は、本当に本物なわけ?」
「正真正銘、本物ですよ。ダミー使ってバレたら、それこそどうなるかわからないでしょう」
「ねえ、小切手見せて。私、恥ずかしながら見たこと無いの」
 弥皇が小切手帳を麻田に渡した。
「右側にある二本線、これって何?」
「確か、即現金化できない、じゃなかったかな。その場で現金に換金されたら、即、他の銀行に預け替えるだろうから。あの銀行とは疎遠だし。ただ、僕、正直使い方よく覚えてないんですよ」
「一つだけわかるわよ、少しでも障害物を置くのね」
「筆跡鑑定で小切手の金額を自分で決めさせればいいでしょう?会話では僕が隠しマイクを持って資金提供の金額を定めますけど、ミーのことだ、それ以上の金額を下ろすに違いありませんからね」
「当座預金のお金って別の口座に移したらすぐに使えちゃうわけ?」
「そうです。その銀行で現金化できないだけで。当座の残金ゼロなら不渡りですよ。僕の死期が早まるだけだ」

 麻田が、もう一度データベースを確認する。
「今まではお金を手にしてから数日以内に犯行に及んでいるわね」
「貰う物貰えば、相手は要らないでしょうから」
「おや、待てよ。和田くん、麻田さん。佐治さんデータベース更新してるみたいですよ」

【結婚詐欺等サイコパス事件】
 前回の計画殺人は、やはり融資を申し込んでいた形跡がある。以下、被害者の書き込み。
『結婚したい人が出来ました、緑川聖泉(さとみ)と言う女性です。プロポーズし、OKされました。嬉しい。写真は後程載せます』
『(最後の書き込み)
彼女に、結婚資金が必要だと言われました。結納金だねって。これで、必要なものを全部揃えてくれるそうです。
あとは、新しい生活を待つばかり。とても楽しみ。彼女が写真を嫌がるので載せませんが、とても綺麗な女性です』

 ただし、これらは一般に出回るようなSNSではなく、仲間内同士のみでやりとりできるSNSの類い、とのこと。5~6人とのごく親しいやりとりだったようだ。だから、緑川の本名が出ていた。緑川は知らなかったことだろう。

 なぜこの情報が警察に流れたかと言えば、死んだ男性の友人たちがSNSを見て、自死するはずがない、自死する理由がないと警察に駆け込んだからだという。一部の友人は緑川なる女性が詐欺を働いているのではないかと疑って警察に連絡を入れたらしい。
 SNSの事実を知る者は少なく、其れ等の証言が、自死ではなく事件だとする信憑性を高くする要因にもなり得ていた。

 被害者男性は独身のアパート住まい。緑川は、何か自分にとって不都合なものが出ないかどうか、合鍵を作って出入りした形跡があった。目撃証言もあり公表寸前だったが、第二の殺人が起こり、念のため捜査本部では全ての情報を一時非開示としたようである。

 ブレーキ痕についても、踏まなかったのか踏めなかったのか、がキーポイントだと。これは推測の域を出ないものだったが、ブレーキ下に何か置いてあったかように、車のブレーキ下部分のマットに不自然な跡が残っているらしい。ダイブして破損した車の中からは、ワインの瓶などアルコール類の残骸が2~3本見つかっているという。大きさも要領も形もまちまち。ダイブの衝撃で割れたものも多数あり、どうやらワインの瓶がブレーキの下にあったらしいという推測だけで、それを緑川と繋げるものは何も出ていない。

 雪山での事件は、被害者は生前、1回に数万から数十万、合計で200万円程を緑川の骨抜き専用通帳に用立てていた。それも在職中が多く、緑川が避けるようになった後は、金銭の動きは無かった。
 しかし、急転直下で、死の数日前に1千万円、振り込まれていたのである。
 退職金からの振り込みと思われた。
 被害者とされる男性のメールや電話などの内容確認を急いでいるが、心中をもちかけたとすれば「親の将来的な介護資金」を要求された可能性が高い。緑川亡きあと、両親が暮らせるような介護付きマンションへの入居費用。それならば、纏まった金額が必要になるであろう。
 事件の全貌は、練炭殺人との予測が大多数を占めている。

 和田が弥皇(みかみ)を心配する。
弥皇(みかみ)さん、不味くないですか」
「命?望むところよ。あとは、七輪の登場を待つだけさ」
「でも山麓には行けないわよね。弥皇(みかみ)くん、車持ってないし」
「この辺りは、山も近いけど海も近いですから、海沿いと言う線もあります」
 弥皇(みかみ)は、いつでも来い、といわんばかりに心の準備をしている。心残りがちょっぴりあるが。知らず、知らず、溜息を洩らしたらしい。
「どうしました、弥皇(みかみ)さん」
「ん、和田くんか。いや、何でもないよ」
「まったまた。何か心残りがあるんでしょう」

 弥皇(みかみ)は、心を見透かされているのかと、徐に警戒する。
「いいえ、違いますよ。何言ってるんです、麻田さん」
「僕は和田ですよ。麻田さんは、そっち向いて何かやってます」
「あ、そ、そうか?」
「絶対そうです。今の溜息。生死と己が願望の狭間で悩める男そのものでした」
「願望、か。あるかも」
「何?」
「絶対に内緒。誰にも言わない」
 麻田はこの手の言葉に対する反応が速い。後ろを向いていたはずが、今や弥皇(みかみ)の目と鼻の先に自分の鼻がくっつかんばかりに近づいている。
「何が内緒だって?」
弥皇(みかみ)さんが、生死と願望の狭間で悩んでいるんです」
「じゃあ、黄泉(よみ)への御餞別は?」
「麻田さん、鬼ですね。それこそ要りませんよ。涙の一粒で結構です」
「なんだ、真面目ね。いつもと違って」
「生死の狭間にあれば、きっとこうなるんですよ、弥皇(みかみ)さんも人間ですから」
「和田くん。キミの方が心臓に毛が生えていると思うよ、僕は」

 和田は、これでいて不可解な人物である。怖がりのようでいて、そうでもない。かといって、猛者でもない。蚤の心臓かと思いきや、毛が生えていたりする。誠に不可解である。

 週明け、出勤した和田は緑川の動向を注意深く観察し、メモしていた。
 緑川は、金曜日こそ怒り心頭に発していたようだが、今は通常ベースに戻っている。此処までの笑顔は久しぶりだ。何か、自分にとってプラスになる出来事を起こしたに違いない。
 急いで、麻田と弥皇(みかみ)にメールする。

(ミーがいやに上機嫌。不自然過ぎる)

 弥皇(みかみ)が自分の部署を出ようとした瞬間、緑川が福祉課に姿を現した。一階の珈琲ショップに行こうと誘ってきたのだ。
周囲を見ると、「いけいけ!」と皆ニヤニヤしている。勘違いされた。まあ、それこそが第一目的だったはずだが。
廊下を歩きながら緑川が弥皇(みかみ)と腕を組もうとする。公衆の面前であるにも関わらず。やんわりとその腕を振り解いた弥皇(みかみ)は代わりににっこりと微笑んだ。
「お早う、緑川さん」
「これからは聖泉(さとみ)って呼んでね」
「聖なる泉、本当に清々しくて綺麗なお名前ですね」

 エレベータに乗り、階下まで降りて珈琲ショップに入った弥皇(みかみ)と緑川。
「緑川さん。お好きな物を決めたら、席に座っていて結構ですよ」
 緑川が奥に消えたのを確認し、弥皇(みかみ)はベルト式隠しマイクのスイッチを押した。科捜研のお手製だ。事件が新たな展開を見せたことで、県警の科捜研は協力的になってきた。
 珈琲やら菓子やらを携えひとしきり緑川を探す。
 思ったとおり、一番奥に陣取っていた。
「はい、どうぞ」
 緑川が、一層甘えた声を出す。
「ありがとう、みなみさん。ね、相談があるの」
「どうしたんです?」
「あたしね、取りたい資格があって。仕事で海外に行くことも多いし、そっち関係」
「それは素晴らしい」
「でね、米国税理士と、米国公認会計士の資格取るためには、行ったり来たりしないといけないんですって」
「なるほど。それは費用が掛かりますね」
「辞めて行くわけにもいかないし」
「そうですね」
「もう一つ、イタリアソムリエ協会認定ソムリエの資格が欲しいの。この間、みなみさんの仕草を見てて感動したの。こういう風にスマートに飲んでもらえるんだって。ソムリエにお任せする人も多いみたいだし」
「お褒めに預かり光栄です」
「それでね、それでね、お願いがあるの」
「何でしょう」
「うちの親、体の具合が良くなくて。お給料が病院代に消えちゃうの」
「大変ですね、ご両親、お父様?お母様?」
「母よ。父は『俺が面倒を見るからお前はいい』って言うんだけど、支払いはあたしがしてるから心配で」
 緑川が、周囲に聞えないよう、身体を乗り出し、弥皇(みかみ)の耳元で囁いた。
「それでね。お金、少し用立ててもらえないかなって」
「おいくらくらいです?」
「1千万ほど」
「うーん、1千万ですか」
「ダメ?」
 緑川が、上目遣いに弥皇(みかみ)を見る。
 周囲の男性職員は羨望と嫉妬の眼差しをギラつかせ、弥皇(みかみ)を真っ向から睨んでいる。

(こいつら、1千万貸せって言われてんの知ったら、目つき変わるかな)

「ダメではありません。ただ、僕の一存じゃ決められないんです。明日またお話ししましょう。少しだけお待ちください」

(よっしゃー、金蔓作戦成功だ。ホント、馬鹿な割には傲慢だ)

 緑川の興味は、男より金、に移ったようだ。
 和田への集中砲撃も鳴りを潜めた、といった様相を呈している。

 それから弥皇(みかみ)は、毎日のように誘われ高級レストランでの食事やら酒飲みやらに付き合わされた。高級な場のみ、ブラックカードである。ただの酒にブラックは勿体無い。
 洋服もねだられるのだが、『今のキミをこれ以上綺麗に魅せる洋服はない』『着飾る必要などないくらいに美しい』などと、聞こえはいいが、実際には煙に巻き買うのを渋っていた。
 煙に巻かれることを好まないと思われる緑川が、我慢して弥皇(みかみ)に拘った理由は、やはりブラックカードだったのだろう。

 一週間ほどたち、またワインバーで資格取得融資の依頼があった。いや、半ば催促だ。
 弥皇(みかみ)は、ひと言だけ、答えた。
「いいですよ」
「じゃあ、あたしの銀行に振り込んで」
「この間も言いましたが、実は僕、手元にまとまったお金を持っていないんです」
「じゃあ、どうするの」
「こちら、どうぞ。小切手帳です。中は白紙です」
 差し出されたのは、金額欄が白紙で右側に二本線のある小切手だった。ただし、銀行と支店は、緑川が大卒後に勤務した銀行だ。
 どうでるか、弥皇(みかみ)は緑川の顔色を見る。今は銀行名など、目に入っていないと見える。目を皿にして見つめているのは、白紙の小切手、ただそれだけ。

 普通なら使うのに苦労しそうなものだが、緑川は元銀行員である。こういうところだけは抜かりなく、使用手段を画策しているようだ。
 ましてや、白紙の小切手。1千万は、あくまで口約束だ。
「ね、もしも、もしも足りなかったら、もう少し貸してもらえるかな」
 弥皇はハッキリとした答えを出さなかった。
「緑川さん、まさか5億とか言いませんよね?」
「やだ、どれだけ入ってるの、当座に」
 緑川の顔が、一瞬、夜の石造にライトを当てたように不気味な顔に見えたのは錯覚だったのか。
 その晩の緑川は、いつにも増して上機嫌だった。弥皇(みかみ)は、緑川が自由に使えるような小遣い帳を渡したようなものだ。これでもう、弥皇(みかみ)に用はないだろう。
 あとはいつ、殺人の動きが出るか、そこだった。
 今までの例で言えば、お金が振り込まれてから3日前後で犯行に至っている。弥皇の例は通常と違い、当座預金のある銀行に小切手を持ちこんで、自筆でサインすれば、直ぐ口座に振り込まれる仕組みだが、犯行までの時系列は変わらないだろう。引き出せるだけのお金を引き出し、いつにも増して犯行を急ぐかもしれない。

 しかし、緑川は公務員になる前の銀行員時代、秘書課に行けなかった腹いせに、その銀行から全財産を吸い上げ、口座を解約していた。
 一旦そこで口座を作らないと、直ぐにお金は口座入金されない。他行の小切手で、現在の自分名義銀行口座に振り込みできるのか。厳密にいえば、銀行間で違うらしいが、出来ない銀行が多いようだ。リスクを最小限にするためである。
 弥皇が小切手を振り出した銀行は、他行への振り込みを認めていない。また、小切手に線が入っているため現金受取も不可だった。緑川が、仕方なく元勤めた銀行の、何処かの支店に行くしかないよう、わざと仕向けた。口座の開設、通帳発行という細々とした手続き。時間稼ぎでもないが、すぐに小切手帳を使われるのも癪に障った。

 小切手帳を緑川に渡した後、弥皇(みかみ)は警察官舎に戻り麻田の部屋をノックしていた。
「麻田さーん」
「何?」
「明日、ホテル行きましょう」
 麻田の目が丸くなる。
「あんた、言うに事欠いて突然何言い出すわけ」
「イヤだな、変な想像しないでください」
「え?別に私はそこまで言ってないけど。ところで随分浮かれてるわね」
「ホラ、ワインバーです。麻田さん、ワイン詳しいでしょう」
「そりゃ、ワインは好きだけど。大丈夫?私といるのがバレたら計画おじゃんよ」
「大丈夫です。いつもの休暇期間に入ったようです。ホテルも緑川の家や県庁から遠いし、夜も出てきませんよ」
「やっぱり浮かれてない?」
 弥皇(みかみ)が麻田のサラサラ髪を、右手の5本の指でゆっくりとかき上げ、耳元で囁く。
「逆ですよ」
「逆?」
「生きて帰れる保証は、100%じゃないですからね」
 麻田が弥皇(みかみ)を見つめる。弥皇の本気度は100%のようだ。
「そうね。わかった、いつ行く?」
「明日」


 翌日、夕方。
 県庁の裏で待ち合わせた麻田と弥皇(みかみ)は、タクシーでそのままワインバーのあるホテルに向かった。

 まだ、開店までに時間がある。
「ロビーで珈琲でも飲みましょうか」
「ちょっと。万が一ミーが別の男と来たら、どうするの」
「あの女にとって、僕はもう用済みですから」
 用済みになった弥皇(みかみ)。小切手帳を入手し、ごそごそと口座に入金するばかりである。
麻田は名義人が弥皇(みかみ)だというが、弥皇(みかみ)曰く当座預金に資金さえあればよい。今頃いい気になって銀行巡りだと渇いた笑いを麻田に向ける。
「麻田さんのような常人には理解できないですよ、あの女の行動ときたら」
「最初の『美人~』って鼻伸ばしたときと、随分差が激しいわね」
「我ながら、こんなに女性を見る眼が落ちたか、と反省しきりです」
「で、どうして今日は私を誘ってくれたの」
「心残りを消すために」

 麻田がのけぞりながら大声で笑いだした。
 反対に弥皇(みかみ)は半分怒ったように真面目な顔をする。
「あ、笑っちゃいけないでしょ、この場面。二人ともシリアスにいかないと」
「私とワイン飲むことで、心残りが消えるの?」
「そうですね、恐らく」
「こりゃまた、弥皇(みかみ)くんらしい発言ね」
「一人でワインを飲んできましたから味は分かる。でも、二人で飲むワインの味が分からない」
「こないだ、ミーと一緒に来たじゃない」
「あれは人じゃない。ただのサイコパスです」
「なるほど。私は人と認めてもらえたようね」
「ええ、麻田さんなら。麻田さんは、赤白どっちがお好きですか」
「どちらかと言えば、淡白な白が好きね。ただ、料理の臭みが口の中に残りそうな料理だけは、赤ワインの濃厚さで消すかな」
「僕もそうなんです。ま、今日も料理だけ決めて、ワインはお任せにするつもりですけど、もし、お好みのワインがあったら言ってくださいね」
「そうするわ、有難う」
「ワインと料理のマリアージュがね、結構いけるんです。この店は」
「相性か。ね、緑川にマリアージュなんて言葉使ったりするの?」
「まさか。知らないでしょう、たぶん」
「そうね。恥かかせたら計画台無しになっちゃう」
 弥皇(みかみ)と麻田。一見相反しそうな性格の二人だが、この夜だけは仕事も忘れ、弥皇(みかみ)の命運も忘れ、二人はワイン談義に興じるのだった。

 翌日、佐治から、緑川が早速小切手を使って1千万円の口座入金を依頼したことが報告された。3日経てば、口座に入金される寸法だ。
 緑川は調子に乗って公務を休み、毎回1千万円ほど、5日続けて別支店に現れては引き出しを繰り返しているという。
 計、5千万。

 その晩は和田の部屋に集まり、緑川の動きを整理する3人。麻田と和田の心配をよそに、弥皇(みかみ)は冷静に見えた。
「緑川の連続休暇今日が最終日ですね。この5日間で5千万円分の小切手を換金しています」
「意外と渋ちんだね。僕はもっと豪勢にやるかと思ってた」
 麻田も流石に弥皇(みかみ)の命が心配らしい。
「って、笑ってる場合じゃないって。今度はホントに命賭けるんでしょ」
「そうですね。このまま僕を野放しにはしないでしょう」
「全部おろしてからってことはないの?」
「僕、口割りませんから」
「気を付けてよ。なんか、気が気じゃないわ」
「僕もそうです。ドキドキするんですよ。そうだ、和田くん。キミ、研修だって言うことにして東京帰りなよ」
「え?だって麻田さんとかもまだいるし、弥皇(みかみ)さんもどうなるかわからないし」
「僕は大丈夫。キミもあの女のペットに成り下がるのは、やめてさ。あいつは自分好みに躾たいペットを常時探している。キミの役割もほぼ終わりだから、一刻も早くあの女の前から消えたほうがいい」
「麻田さんは大丈夫なんですか?」
「SPだらけの職場みたいなものよ。あとは行政部への報告だけ。そうね、もう帰りなさい」
「じゃあ、僕はお先に失礼して東京に戻ります。明日の新幹線で帰りますので」
「ああ、元気で」
「そうね、みんな元気で、東京のサイコロ課で逢いましょう」

 最後に1千万を口座入金した日。
 緑川から弥皇(みかみ)に電話で連絡が入った。
「こんにちはあ、忙しくって。連絡もしないでごめんなさい」
「そうでしたか。お忙しいのは一段落しましたか?」
「ええ、おかげさまで」
「何よりです」
「ねえ、みなみさん。融資していただいたせめてものお礼なんだけど、明日ドライブに行かない?」

 お金を貸してもらった、せめてもの礼。海岸にドライブに行こうという誘いだった。
「明日は休みですからね、いいですよ、僕はいつでも」
「良かったあ。じゃあ、今住んでるところまで迎えに行くわ」
「いえ、ここは外から入れないし、電話の入りも悪いんです。だから僕が緑川さんのお宅の近くまで電車で行きますよ」
 官舎まで迎えに行くと言われた弥皇(みかみ)は、緑川宅との中間点で待ち合わせることを希望した。万が一、警察関係者の顔を知られないように。

 翌日。
 いつも6時に起きる弥皇(みかみ)が、珍しく5時に目が覚めた。緊張しているのかなと自分でも思う。部屋にあるミニ洗面台で顔を洗い、いつもと違った雰囲気にするため整髪料をつけて髪を纏める。緑川との待ち合わせは午前10時だ。官舎を出るのは9時でいい。髭は出掛ける寸前に剃ることにした。
 出陣までの3時間。弥皇(みかみ)は何か心理に関する本を読もうと思ったが、内容が頭に入らない。運良く戻れたら、市毛課長に掛け合ってご褒美に休みを貰い海外に行こうか。1冊だけこちらに来て買った海外のガイドブックを眺める。
だが写真をパラパラと見ているだけで、海外への興味を持つまでには至らなかった。

 和田は午前7時に起きてきて、シャツにコートを羽織っただけの軽装で東京に戻った。
弥皇(みかみ)さん、何時に出るんですか」
「9時かな。和田くん、気をつけて」
「はい。弥皇(みかみ)さんも、くれぐれも気を付けてください」

 8時半に和田を見送った弥皇(みかみ)は、髭を剃り着替えに移る。弥皇は寒がりだから和田のようにシャツにコート一枚などという真似は無理だ。黒いタートルニットを着て、薄茶のシャツを羽織り、その上に黒いダウンジャケット。下は厚手のアイボリーのパンツ。いつもなら好みのブランド物の靴を合わせるところだが、今日は終わりが見えない。迷うことなくベージュ系の安物の靴にした。

 出掛ける前、麻田に挨拶する。
「行ってきます、麻田さん」
 いつもは鉄の女みたいな顔をしている麻田が、さすがに心配そうに弥皇(みかみ)を見る。
「本当に気を付けて」
「有難う、麻田さん」
弥皇(みかみ)くんが無事に戻ったら」
「戻ったら?」
「また一緒に何か美味しい物、食べに行こう」
「そうですね、見繕っておいてくださいよ」
「いってらっしゃい」

 弥皇(みかみ)は二度、繰り返す。
「行ってきます、麻田さん」
 そういってもう一度、後ろを振り返る。
「麻田さん」
「何?」
「約束ですよ。二人きりで行きたい」
「え?」
「絶対に、二人きりで行きたい」
「いいわ、約束する、必ず二人きりで行こう」

 約束の駅まで、電車を乗り継ぐ。とうとう、来たか。
電車内で普段は絶対に見せないしかめっ面をしている弥皇(みかみ)
 ガラスを見ながら、否。ガラスを素通りして、その向こうに見えるであろう景色を思い描く。その横に、すっと立った男性がいた。気配が一般人と違う。
 弥皇(みかみ)の隣に姿を現したのは、なんと市毛課長だった。
「課長!」
「お疲れ。これから決戦か。命令だ。どこかでこの洋服に着替えろ」

 洋服と靴一式を渡された。
「これは?」
「作戦遂行に必要なアイテムだ。絶対に着替えろよ」
「はい。分かりました」
「緊張した顔だぞ」
「はい。なるべく意識を失わないようにして脱出するつもりですが、ガラスを破るしかありませんから時間との闘いかと」
「大船に乗っているから大丈夫だ。安心しろ」
「ありがとうございます。万が一もあるんで、皆によろしく伝えといてください」
「ないない。皆には、元気で戻ると言っておこう」

(課長。慰めになってないですよ)

 待ち合わせの駅が近づいてきた。
 電車を降りた弥皇(みかみ)は、そのまま乗車する課長に向け、敬礼をした。改札を探し静かに、ゆっくりと歩みを進める。
一度改札口の前まで進んだ弥皇(みかみ)だったが、課長の言っていたアイテムを思い出した。
そうだ、着替えなければ。
周囲を見回すと、改札に行く前にトイレ設備があった。
 中に入り、袋の洋服を取り出すと、洋服と靴下、靴まで新調されている。
 ベージュのダウンとベージュのタートルニット、黒いシャツと黒いパンツ。すべて全国展開している衣料量販店で買ったものらしい。靴も靴下もベージュで靴はローファー。パンツの中にマスクがねじ込んである。何のためにねじ込んであるのかわからないが、何か使用の機会でもあるのだろうか。

 それにしても、よく弥皇(みかみ)自身のサイズが分かったなと感心する。常日頃の会話で口にしていたのか、サイコロ課や警察庁内での健康診断などで記録が残っていたのか、よく覚えていない。
 脱いだ洋服は、申し訳ないが駅のトイレに捨てさせてもらった。元々今日はめかし込むつもりは無かった。相手が緑川なのも、多分に影響したのは間違いない。
 改札を出て車列の方に足を向け、歩みを止めた。そういえば、緑川の車種を思い出した。前の事件でNシステムに写っていた。赤の1,500ccの車だ。ここには2台、赤の車が駐車している。

 しかし、車の車種や色を知っていると言って緑川車に近づくことはできない。相手が来るまで待つしかない。今日は、早く自分を黄泉(よみ)送りにしたいだろうから、そんなに遅れてくることは無いだろうと弥皇(みかみ)は考えていた。
 案の定、電車到着後10分もしないうちに緑川は現れた。車は、やはりNシステムにヒットした赤い車。1,500cc、ナンバー照合、確認。
「お待たせですっ。これから行くのは、オススメデートコースなんですよ。海がね、とても綺麗なの。その中でも、知る人ぞ知る、穴場をお知らせしちゃいます」
「それは楽しみだ。こちらは海も綺麗だと聞きます」
 緑川によれば、これから向かうのはデート場所で有名な海辺の、穴場スポットだという。 反対にいえば、誰も来ない危ない場所、ということか。そちら方面に向かう車は多いから、デート場所があるのは確かだろう。

 今日はいやに口数が多い、緑川。自分のことを話すだけ。こちらへの質問はしない。そして、弥皇(みかみ)に話す機会を与えないようにしているのが明らかに分かる。金を釣れたからいい、それだけではないだろう。会話によって5,000千万の小切手使用がバレたり、何か不都合を避けようとする心理が働いていると見える。一見、嘘を覆い隠そうとする子供と、何ら変わりない感情。

 其処にあるのは、良心の欠如であり、皆無の罪悪感であり、これまでに平然と並べられてきた嘘の数々である。
 今回の事件でお前は終わりだ。
弥皇(みかみ)は、緑川の話はロクに聞かず相槌だけ打ち、その実、脱出方法をシミュレートしていた。
 緑川たちの車の後を、黒い全ガラススモーク張りの車が追っていた。運転席も助手席も見えない。完全な違法改造車だ。さすがの弥皇(みかみ)もその存在には気が付かなかった。

「さ、着きましたあ。みなみさん、降りましょうか」
 駐車場だ。緑川が笑う。
「そうだね」
 弥皇(みかみ)も答える。最期までみなみかよと思いつつ。

 そして、弥皇(みかみ)は自分でドアを開けた。そのとき、後部座席か、トランクだろうか、ゴロゴロ、と転がる音がした。七輪のような、硬い物を積んでいるのだろう。練炭の臭いまでは嗅ぎ分けられなかった。
 車内に、何種類かの芳香剤を混ぜたような、弥皇(みかみ)に言わせれば「趣味の悪い香り」が充満していたからだ。

 10分ほど、周囲を散歩しただろうか。シミュレートも固まった。弥皇(みかみ)から言葉を出す。
「まだ風が冷たいね。車に戻ろうか」
 助手席のドアを開けようとした弥皇(みかみ)を、微笑みながら緑川が遮る。
「次は弥皇(みかみ)さんの運転で」
「道、わからないよ」
「大丈夫。教えるから」

 そう来たか。そりゃ、僕が助手席で事切れていては事件になる。事件であってはいけない。自死でなければならないのだから。
言われるがままに、運転席に移った。と言うことは、場所はここでは無いようだ。
 もっと奥まで車を進めて、その場所まで僕に運転させるのか。これでハンドルとアクセルから僕の痕跡が出るな。なるほど。
「もう少し先に行くと、穴場があるの」
 向かった先には、無人の車が二台、止まっていた。一台は、先程の黒いスモーク張りの車。もう一台は、シルバーの1,500cc。ちょうどこの赤い車のカラー違いだ。
 スモーク車の正体は知らないが、シルバーの新車は自分が乗って帰るための車だろう。両親や知り合いには、車を下取りに出し、買い替えたといえば済むことだ。

「ほとんど車もいないところだね」
「ここは穴場だから」
 もう一台の車を気にしている緑川は、どう頑張っても中が見えないのに痺れを切らし、仕舞には、コンコン、とドアを叩く始末。相手が筋の良くない輩だったらどうするつもりなんだろう。
 目の前しか見ない、後先考えない。完璧なようでいて抜けている。結局全て嘘で塗り固めるから、大雑把なやり口で構わないのだろう。運良く、スモーク車からの応答はない。どうやら、中には誰もいないようだ。

 次に来るのは、飲み物だろう。それも、十中八九、アルコール。

「みなみさん、どうぞ」
 飲み物を差し出す緑川。そら、来た。ウイスキー、ダブルぐらいの量をグラスに注いであった。これをストレートで飲むわけね。春になったとはいえ、東北の、それも海風は冷たい。それでも、せめて氷で冷えたのが飲みたい。気を利かせろ。
「これじゃ、帰りには飲酒運転で捕まってしまうよ」
「この辺、警察いないもん」
「それでもね、飲酒で新聞沙汰は公務員たるもの、恥ずかしい」
「じゃあ、少し寝てから帰ればいいよ、ね?あたしも飲むし」

 と、緑川本人は、いけしゃあしゃあと飲んでいる。
 警察の取り締まりがないのは本当らしい。
「じゃあ僕は三~四時間、横になって酔いを醒ますよ」
「あ、早く酔いから醒める薬があるの、今出すね」
 これが睡眠剤やら何やらの薬か。

 弥皇(みかみ)は薬を貰って、ウイスキーとは別に用意されていた水で飲むふりをし、自ら気管に入れた。途端に、激しくむせた。むせると同時に、ドアを開け、薬を全部吐き出した。無論、緑川に見つからないように。
 あとで見つかったとしても、土に塗れた薬を胃に入れる訳にはいくまい。ただ、周囲を確認しないとも限らない。見つからないよう、持ち去らせるわけにもいかない。一か八かで、パンツのポケットに入れてあったマスクを取り出し、マスクに吐き出したものをくるみまとめて、再びマスクをポケットに突っ込んだ。
 どうしてボトムスにマスクが入っていたのか、これで理由が判ったような気がした。
「大丈夫?」
 声が掠れて緑川の問いに答えられない。右手をあげて、大丈夫、と言う仕草をする。

 ダブルの酒を飲み終える頃、弥皇(みかみ)は呟いた。
「さて、少し横になるよ」
「あたしも一緒に寝るわ」
 寝入ったように見せかける、弥皇(みかみ)
 緑川は余程時間が押したのか、それとも一刻も早く帰りたかったのか、20分もしないうちに犯行作業に取り掛かり始めた。
 まず、弥皇(みかみ)が寝ているのを確認した。ウィスキーグラスはそのまま置きっぱなしだ。何も手を付けず、手袋だけをはめる音が聞こえる。
 薄眼を開けて見ていた弥皇(みかみ)は、あまりのお粗末さに呆れ返った。
これで完全犯罪のつもりか?
そして、腹が読めた。
 方法など、ぞんざいで構わないのだ、今回に限っては。

 たぶん、今回のストーリーは、『無理心中』
 そう、犯人は僕。
 そんなことを考えながら、緑川の作業を見える範囲と音だけで、確認する。

 弥皇(みかみ)自身、結構な度数のアルコールを入れているので、それが功を奏した。良く寝ているように思わせることができたらしい。
すると、そこから緑川の作業はスピードアップしていった。
 トランクから七輪、練炭を出し、助手席の足下に置く。四方のガラスに内側からガムテープで目張りをして密着させていく。ネットのサイトを真似したつもりだろうが、なんとも雑なやり方。
 助手席だけはドアを開けて張ったので、ガムテープと車体との粘着力が弱かった。他に良い方法を思いつかなかったのだろう。仕上げに、着火剤を入れて火を放つ。やかんには先ほど弥皇(みかみ)が飲んだペットボトルの水を入れて。
 車のエンジンは掛けたままだった。

 弥皇(みかみ)は、段々と効いてきたアルコールと車内の熱で、考えが纏まらなくなってきた。

(無理心中だから、エンジンがかかっていてもおかしくないのか?いや、普通に考えて、エンジンは切るだろう。えーと、ガソリンを燃焼させるには酸素が必要で、燃焼後には二酸化炭素が排出される。今の場合、一酸化炭素が車内に充満するわけで、エンジンを掛けたままなら、ある程度外からの空気を入れられるはずだ。酔って間違えているか?)

 考えが間違っていなければ、これでしばらく車の換気が使える。弥皇(みかみ)にしてみれば、天の助けだ。そう、ガラスを割るまでのタイムリミットが少しだけ、長くなるはずだ。一瞬安心した弥皇(みかみ)だが、空気が混じるということは換気以前に一酸化炭素が酸素に混じりはしないか。でももう、シミュレートができない。
 そして、燃料ランプが赤く点灯し始めた。燃料切れでエンジンが止まるのを見越したか。ギリギリの燃料で来たのだろう。点灯し始めたということは、この古い車で、ざっと見積もって百キロメートル弱、走行可能分の燃料があるということだ。

 自分の車なので、別に指紋拭き取りも要らないと踏んだのだろう。ドアを内側からロックするように助手席を締めると、シルバーの車に向かって走って行くのが見えた。本当に急いでいたのだろう。近くには怪しげなスモーク車もいる。緑川はバタバタと事を済ませ、逃げるようにシルバーの車に乗り込むとスピードを上げて立ち去って行った。
 ストーリーが無理心中だとしたら、助手席をロックする必要もないと思うのだが。

 緑川の考えた筋書きは、たぶんこんなところだろう。
『学業に融資してもらったが、代償として交際を要求された。海岸へのドライブを強要され、仕方なく行った。其処で再度交際を要求されたが、学業優先のため交際を断ったところ逆上し練炭による無理心中を図られた。自分も酒を飲まされた。相手は酒と薬を飲んでいた。自分は薬を飲むふりをして飲まず、アルコールだけを飲んだ。車内は目貼りされたが、どうにか自分でドアを蹴破ることが出来たので逃げた。薬は逃げるときに海に捨てた。相手は酒と薬で熟睡したようだった。怖くなって、誰にも話せないまま時間が過ぎた。申し訳ないことをした。自分がすぐ警察に行けば助かったかもしれない。でも、以前からストーカーしてやると脅されていたので怖かった』

 自分に貢いだ男に別れ話を切り出し逆上され、無理心中を図られたというストーリーは、今の世の中、成り立たないでもない。
 その場合不自然なのが、目的地まで電車で防犯カメラに写り込むよう歩いてきた男が、練炭のような大荷物を持っていないということである。まあ、市毛課長から受け取った荷物は大きかったが、電車内でもらったものだから共犯者でもいない限り無理心中の手法とは言えない。
あるいは事前に、駅のコインロッカーに入れておくという手もあるだろう。それなら男は、2回、駅の防犯カメラに写り込むはずだ。地元民ならまだしも、東京から来た自分が防犯カメラの場所を知るわけもない。防犯カメラを避けながら目的地まで進むのは、土地勘がないと難しいものである。
 何処をどう頑張っても、別れ話に逆上して無理心中を図る(=死ぬ)犯人が取るような行動心理ではない。計画的な犯行なら辻褄が合うのだろうが。

 以前に購入したのだろうが、納車自体は今朝、ここに納車させたはずだ。共犯でもいない限り、ここにシルバーの車はないはずだから。それでなければ、2、3日前にディーラーに行き、車を取って自分でここまで運転したと考える方法もあるが、そうなれば、やはり共犯者が必要となる。緑川が共犯者を作るとは考えにくい。自分が頭脳判断力も行動力も一番でなければ気が済まない、そんな女だ。
 そんなもの、ディーラーに聞けばすぐに判る幼稚な手だ。どのように言いくるめたのか分からないが、ディーラーでも、自宅ではなく海岸の奥まった場所に、と言われれば記憶に残るだろう。

 反対に、心中なら何より不自然極まりないが、無理心中ならデートと称する日に新車を納車させるのはごく当たり前だ。海辺に置いたのも、サプライズだとディーラーに吹き込めば、ディーラーも快く引き受けてくれることだろう。
 緑川のことだ、恋人へのサプライズとかそういう名目でディーラーに運ばせたに違いない。
 一体、仕方なく、そう、好きでもない相手と出かけた海岸ドライブでサプライズプレゼントに車を渡す阿呆が何処にいるというのか。
 サプライズで車を贈るくらいの人間を、嫌っていたと考えるのは著しく妥当性から外れていく。一般的に。やっていることがどうもチグハグな気がする。頭が良くないのだけはわかった。男性の被害者たちは、どうしてこんなアホらしい策に気付かなかったのだろう。
 借りた金のお礼なら、車ではなく資格取得になると思うのだが。

 それにしても。
 無理心中がお約束の場合、普通なら相手と自分を縄で結ぶよな、無理心中って。逃げられないように。ま、縛られなくてよかったけど、などと軽く考えてみる。
 手が自由の身であるということは、弥皇(みかみ)にとって断然有利な状況だった。
 弥皇(みかみ)はシルバーの緑川車が視界から消えるのを待ち、息をなるべくしないよう心掛け、どうにか窓を破る方法を考えた。

まず、助手席のダッシュボートを開ける。
 そこには何も入っていなかった。緑川がガラスを破られる可能性を考慮したとは考えにくい。普段から何も入れていないのだろう。
 後部座席を見る。どうにもふにゃふにゃしたぬいぐるみくらいしか見つからない。
 工具一式、車内の何処かにあるはずだ。トランクだったら、ジ・エンド。座席を壊せばなんとかなるだろうか。

 うぅっ。
 空気中の一酸化炭素を吸い込んでしまった。息をしないのも結構大変な作業だ。外の空気を入れている代わりに、後部座席にも一酸化炭素が早々と回っている。エンジンを切るべきか。いや、もう回ってしまったからには仕方がない。早く固形物を見つけなくては。
 段々、目の前がチカチカしてきた。不味い、このまま意識を失ったら、アウトだ。
弥皇(みかみ)は緑川が後部座席に置いた自分のバッグを開け、何か無いか探した。手帖とペンくらいしか見つからない。仕方がない。手帖で、自分の指を切った。紙で切った時は、痛みが増す。どうにか意識を保っていられた。

 工具、工具、何処だ。探しても見つからない。何か、何でもいいから、固形物はないか。
 あ、馬鹿だな、僕は。
 もしかしたら、この車なら頭部のヘッドが外れるかもしれない。それならパイプが2本出るはずだ。急いで後部座席側からヘッド部分を引き抜いてみる。
 動かない。そういうタイプじゃないのか?
 運転席側に回る。もう一度チャレンジしようとして、助手席側の一酸化炭素を、もろに吸い込んだ。
 意識が朦朧とし始めた。不味い、本当に不味い。
 このまま倒れたら、麻田さんと美味しいものを食べる約束を果たせない。その約束だけは、是非とも実行に移したい。
 手や肘をガラスに打ち付ける。意識を保つために。ペンを刺したりもした。
 それももう、限界に近づこうとしていた。このまま、事切れてしまうのか・・・。

 その時だった。

 誰かが車の窓を叩く。初めは意識が朦朧として、誰だか分からなかった。
 弥皇(みかみ)朦朧とした中で目を凝らして窓の外を見た。なんと、そこにはフランブルクとソンウが並んでこっちを見ている。車の窓を叩いたのは、彼等だった。
 後ろの窓を軒並み破壊するという仕草で、前に屈めと丸くなる仕草を交互に繰り返す。言われた通り、朦朧としながらも運転席に戻り、身体を丸めて後ろからの破片などに備えた。どうやら、動画に収めながらの救出劇となるようだ。二人とも準備をしている。

 次の瞬間。
 けたたましい音とともに、ガラスが割れた。そこから手を入れて後部のドアを開けると、まず弥皇(みかみ)を車外に出すべく運転席を後ろに倒してくれた。弥皇(みかみ)さえ助かれば、急ぐ必要もない。
 初めは息も出来ず、チアノーゼが出ていたらしい。フランブルクに背中をさすって貰いながら、徐々に酸素を取り込むことが出来るようになった。九死に一生でもないが、ソンウとフランブルクがいなかったら、生きてここに立てていたかどうか。空気がこんなに美味しいものとは思わなかった。
 ソンウたちは、車内の様子も可能な限り動画に収めていた。七輪を動画に写しガムテープやその他内部を全て動画に収め、最後に火を消したのだった。

「ありがとう、ソンウ、フランブルク」
「ミッション、完璧」
「あと、弥皇(みかみ)、姿を消すだけ」
 七輪があるからと弥皇(みかみ)は助手席を観なかったのだが、またもや、車内に遺書を残されていたのをソンウが見つけた。
『僕はもう彼女なしでは生きられない。一緒に死にます』
 ふざけた遺書だ。
弥皇(みかみ)、急ぐ」
「見つかる前に」
 遺書はパソコンで作成されており、どちらとも決め手に欠ける。疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に、が今の原則。今回の場合、生き残った弥皇(みかみ)の言葉が全てを物語る。
弥皇(みかみ)は、そのまま東北から姿を消すことになった。

 あの後ろにぴったりついていたスモーク車の乗員は、フランブルクとソンウだった。
 緑川の車を追いかけ、追い越し、車から出て、二手に分かれて緑川が停車しそうな場所をマークしていたという。
 そして、奥に入った緑川の車を目撃した。
 フランブルクとソンウは別の角度から、隠れて一部始終を動画に撮っていた。緑川が立ち去ってからは、申し訳ないと思いつつ、弥皇がガラスを割る方法を探すところも撮っていた。そうしないと、緑川の犯行が裏付けられない。その後、窓ガラスをハンマーで叩き壊し、弥皇(みかみ)を救助した、というわけである。

 潮の香りが心地よかったであろう駐車場は、潮の香りと一酸化炭素の臭い、散乱したガラスで百年の恋も瞬く間に冷めてしまうような、無様な光景に変わり果てていた。
「すごい状態になっちゃいましたね」
「片付ける」
「緑川は、ここに戻らないでしょうからいいですけど。普通犯行現場に犯人が戻るという通説がありますからね。緑川のような手合いは、自分に自信があるし、他の人間より上だと思っているから戻らない、戻りたいと思っても戻れないでしょう」
「代わりに、フェイクの赤い車置いておく」
「なるほど。近くまで来なくても車があれば・・いや、ナンバーくらい見るでしょう」
「この車から付け替える」
「いや、それ、不味いですって。緑川の、この車だって言う証拠が無いと」
「上からOK出てる」
 弥皇(みかみ)は、姿を見られるわけにいかない。万が一、緑川が誰かに命じて弥皇の死を確かめに来ないとも限らない。殺人の片棒を担ぐ人間も、それを強要する女もいないとは思うが、念のため、弥皇(みかみ)は素早くスモーク車に身を潜めた。

 中に入ると、フロントガラスと運転席及び助手席は、良く店舗などで見かけるミラーガラスになっていた。俗にいう、マジックミラーである。
 警察機構で使用するため緊急時の運転が大前提なので、スピードに耐えうる頑丈なガラスが必要だ。ソンウ曰く、日本には町工場でいい仕事をしている例が多いという。この車改造のためのガラスも、日本の町工場の頭脳を結集し出来上がったものだそうだ。
国内では違法改造車の扱いではあるが、余りに出来がいいので諸外国の大使館からも引き合いがきているという。戦闘地域やテロ勃発地域において、中が見えないことは安全なのだとか。

 薄暗くはあるが、運転できないほどではない。夜は通常のガラス程度になるから、運転も可能だろう。それにしても、よくもここまでの違法改造車を作ったものだと感心する。
8ナンバーの改造車である。緑川は、まさかこれが警察車両とは夢にも思わなかっただろう。改造した8ナンバー車は多い。緑川が8ナンバーと気づいたかどうかも怪しいが。
 外ではソンウとフランブルクの二人が、破壊した車のガラス類を綺麗に片付けていた。ナンバーは流石に諦めたらしい。何処かに電話しているようだ。
 暫くすると、緑川の車と同車種の赤い中古車が運ばれてきた。ナンバーは付いていたがその上に緑川と同じナンバーの偽プレートの玩具をくっつけて、赤い車はそこにおかれた。
 勿論、全体に目張りをして。

 中のマネキンは弥皇(みかみ)が今、着ている服と同じものを着ている。予め、洋服は二着用意されていたのだった。これでかつらでも被せれば、万が一見られたとしても、じろじろと見たりはしないだろう。
そのために課長は洋服一式置いて行ったのか、と、あの時の課長の言葉を思い出し今更ながらに弥皇(みかみ)は笑ってしまった。
「問題があるとしたら、一般人がこれを見て警察に通報することくらいか」
「大丈夫、弥皇(みかみ)。この先に、行き止まりの看板立てる。見に来るとすれば、あの女だけ」
「ありがとう、ソンウ、フランブルク」
弥皇(みかみ)、死んだことになった。我々、東京へ向かう」
 黒のスモーク車に乗り込んだ弥皇(みかみ)は、東北を離れ東京のサイコロ課に帰ることになった。
 東北に、あの県庁内に心配の種が残るものの、課長も向こうに行ったみたいだし、全て上手くいくだろう。絶対、サイコパス騒動に決着をつけなければいけない。

 しかし、先程一酸化炭素を少し吸い込んだようだ。ちょっと吐き気がする。
「フランブルク、ソンウに伝えてください。先ほど、少し一酸化炭素を吸い込んだようだと。吐き気がする。警察病院に行ってもらうよう、話してください。呼気中アルコール濃度も計測したいですし」
「わかった。病院向かう」
 ソンウたちに話して、健康診断がてら警察病院に寄った。自分の身体から、何がしかの証拠が出るのは明白な事実だったから。
 やはり、一酸化炭素の中毒症状が出ていた。また、呼気中アルコール濃度0.18mg以上と、結構な数値を示していた。途中で吐き出した薬は、科捜研に送るべきだろう。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 翌日。
 海辺の死に関し、新聞に記事が出ないことを不思議に思う緑川だったが、弥皇(みかみ)から奪ったお金もふんだんにある今、無理心中のニュースなど念頭になかった。
 今の緑川が気にかけているのは県庁内のあの眼鏡女を初めとした邪魔者のことだった。

 緑川は、自分にとって邪魔なものは、其れが人であろうが物であろうが徹底的に排除したくなる衝動に駆られる。
 そう、女王の前を綺麗なガラスの靴で歩く者は、それが誰であろうとも、処罰されなければならないのだ。女王以外に、綺麗なガラスの靴を履くことは許されないのである。
 だから、眼鏡女を筆頭に甚振らなくてはならないのが二人増えた。
そう、年度末に秘書課に配属された江本ゆかりと内田小枝子だ。緑川が安倍先輩の次にターゲットにしたのは、秘書課を巡る女性陣である。
 まず、江本と内田。江本は本当に綺麗で、仕事も完璧と評判の女性だ。秘書課内においても、テキパキと動き誰にでもきちんとした対応の出来る女性である。何より、華があるという噂だ。

(許せない。華があるですって?あたしを超える女など、この世にはいないの。邪魔だから、何処かへいって。いえ、何処かに飛ばしてやる)

 頭で理解していなかったが、緑川は彼女の若さに相当な危機感を募らせていた。
だからすぐさま行動に移った。自分を慕い寄ってくる後輩男子を、江本の周囲でうろつかせたのである。
 後輩男子はすっかり江本を見初め、付きまとい出した。後輩男子の付きまといは、人事当局に知れ渡る所となり、こともあろうに、ストーカーとして逮捕されてしまった。
 それも、江本に一本背負いで投げ飛ばされ、たまたま居合わせた警官に手錠を嵌められたという、お粗末な結果をもって。
 緑川、完敗である。
しかし本人は認めようとしない。

(失敗?あたしが?違うわ、あたしが悪いんじゃない。あたしの言うことを聞かなかった男が悪いのよ。罰せられるなら、あの男。だって、ストーカーで捕まったんだもの)

 内田も同様に評判の良さを買われて秘書課に行ったという噂だ。顔はそんなに良くない、取り柄と言ったら笑顔くらい。実際にはかなりテキパキと動く人物なのだが、ふんわりした見かけだったので、緑川にはそう見えなかった。

(あんなブスがあたしを差し置いて行くなんて。どうしてなんだろう。ああ、そうよ、知り合いにとても偉い人がいるに違いない。でなければ、あたしが勝つに決まっているもの。そうよ、そうに決まってる。それだと、下手に手出ししたら、あたしの顔に傷が付かないかしら。そうだ、それと無く、探りを入れればいいんだ)

 意を決し、緑川は内田に接触を試みた。秘書課に入るわけにはいかないので、秘書課職員が専門に使うエレベータを使った。
 何度も上がり降りを繰り返していると、ようやく内田がエレベーターに乗ってきた。
「こんにちは、秘書課にいる方よね」
「初めまして、内田と申します。どうぞよろしくお願いします」
「ところで、どなたか県庁にお知り合いでもいるの?」
「知り合いと言うか。麻田係長には大変お世話になっています」
 麻田の名を聞いた途端、緑川の顔が引き攣り片方の眉が意地悪そうに上がる。
「麻田?どちらかでご一緒に?」
「はい、以前に少し」
「そう。頑張ってね」
 推薦者が麻田と知り、怒りがじわじわと広がる緑川。
 その時々の感情に任せて行動する緑川は、物事の奥の奥を考えようとしない。
 内田のこともそうだ。麻田に関係があるなら、警察に関係した人物ではないのかと考えそうなもので、そこまで考えが至れば、安易に甚振ろうとなどとは通常なら思わないことだろう。
 だが、緑川は麻田と内田の関係性を脳裏にさえ思い浮かべようとはしなかった。

(いらつくわ。なんだかとてもいらつく)

 和田は研修とかで東京へ向かったという。調教する和田もいない。緑川にとって、毎日がイライラの連続だった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 そんなある日。
 福祉課に残留した緑川の上司として臨床心理の管理官が派遣されてきた。何処から来たのか知らないが、やけにすべての女性に優しい。

(あたしに一番初めに声を掛けて、優しくするべきじゃない。何も知らないのかしら)

 名札を見た。市毛、とある。
 緑川からは、挨拶しなかった。さも、市毛管理官、お前からあたしに声を掛けなさい、と言わんばかりに。

 翌日朝に、やっと市毛は緑川に近づき話しかけた。
「ああ、キミ」
「はい、何ですか」
 緑川は座ったまま。市毛を見上げて、やっと自分に挨拶することに気づいたのかと鼻を高くした。
「立ちなさい」
 なんですって?このあたしに命令する気なの、このオヤジ。
 立つ気などさらさらなかった緑川だったが、人事を司っている福祉課長が寄ってきて、管理官の言うことを聞け、という仕草をされた。課長の指示を聞かなければ内申に障る。
 いやいやながら立ち上がった緑川に対し、市毛は頭から足の先までじろじろと見定めたような目で言い放った。
「その服装、公務員としてのTPOにそぐわないね。まるで雑誌から出てきたようだ。ロングブーツは止めなさい。そしてスーツがあるなら、そちらを着なさい。秘書課の麻田係長のように」

 緑川の顔色がサッと赤みを帯びた。
 口元が引き攣り震えるのが止まらない。それはやがて、全身に広がりを見せた。細かに震える身体。何も考えられなくなっている脳。
 ひと言も、返事は返さなかった。
 市毛は暫くの間、「YES」の返答を待っていたようだが、絶対に返事をしたくなかった。無視してやればいい。そう思った。
 周囲を見回した市毛。「こりゃ駄目だ」と言わんばかりに両手の掌を上に向けた。首を左右に振りながら。
 周囲、特に女性たちは、すっと席を外した。廊下に行くようだった。事実、廊下では緑川を嘲る会話がなされていた。女性たちは常日頃のストレスが解消できて、溜飲(りゅういん)が下がる思いだったらしい。この出来事で女性職員たちから、市毛課長、いや、市毛管理官の株は爆上がりしたようだった。

 緑川は完全に噴火した。
 人前で、それも自分が一番自慢し、自信を持っている服装のことで注意されるなんて、あり得ない、許せないという気持ちが緑川の中に渦巻く。まして、麻田と比べられるなど我慢の限界を超える。
 それから1時間もしないうちに緑川は腹痛を装って早退した。
 家で考えた。邪魔な奴らの追い落とし。麻田とあの男、市毛。そうだ、あの二人を一緒にして写真合成しよう。千田でやったように。大丈夫、あれだって出来栄えは凄く良くて皆が信じたんだもの。今度も絶対に上手くいく。

(あの女、麻田。邪魔な上に、変なのばかり連れてきて。あんたさえいなきゃ、とっくにあたしはその席に収まっていたの。あんたが来たばかりに席を取られて、こんなヘボい部署で我慢されられて。有能なあたしが、なんでもっと目立つ場所に行かないのよ。おかげで今日だって、あのくそジジイの御小言を聞く羽目になった)

 麻田を許さないとあらためて誓う緑川だった。追い落としの方法は決まった。あとはチャンスを待つばかりである。
 と、ちょうど翌日の夕方、いつもより早めに帰ろうとした緑川の前を、麻田と小言ジジイの市毛が連れだって歩いていく。何かの感が働いた。この二人は、何かしらある、と。
 写真が撮れれば撮るし、撮れなくてもなにか得る物があるはず。公園に入った二人を付けて、自分も公園に入る。
 何やら話しているようだったが、突然笑って抱き合うのが見えた。これは恰好のエサだ。緑川は咄嗟にスマホで写真を撮った。

 早速、人事当局あてに匿名で、ばら撒いた。何が起こるか、楽しみだった。
 しかし、何事も起こらない。
 三日、一週間。もう、待てない。苛立ちは我慢の限界を超えた。
 普通なら人事異動で麻田の席が空くはずなのに。あの写真なら、一発で麻田の株を落したはずなのに。緑川は何故だろうと訝り、瞬間的に自分を納得させる理由を見つけようとする。イライラが募り、いつもの連続休暇に入った。

 写真に関して言えば、何も起こりようがなかった。予め緑川の帰宅に合わせ、市毛と麻田の二人が出て行ったもので、人事サイドへの連絡もなされていた。あの時の市毛と麻田の会話といえば、弥皇(みかみ)無事、緑川噴火の報告であり、歓喜のハグだ。
 それ以前に、人事サイドもビックリの大事件が勃発、発展していたのだから、人事当局にとっては警察庁から来た男女間の一枚の写真など、最早どうでもいいことだった。

 それすら知らずに、緑川は休暇を無為に過ごしていた。
 それでも、あの小切手帳さえあれば、暫くは金蔓に困らない。通帳を見ながら、毎夜薄ら笑いを浮かべ、目はギラギラとしていた。
 引く手数多だった昔に比べ、げっそりと痩せ、皮膚は弛みを見せている。夜のこじんまりしたライトに照らされたその姿は、肉の削げ落ちかかった骸骨が眼だけを爛々と輝かせているように見えた。そんな容貌も相俟って、薄ら笑いを浮かべた緑川は、本物の鬼女に見えたかもしれない。洋風に言えば、ゾンビである。

 女性陣を甚振ることに失敗した緑川。
「失敗」の二文字ほど、緑川のプライドを揺さぶり傷つける言葉は無い。緑川は休暇をとって家で遊んでいた。調教中の和田もいない。何か面白いことがないだろうか。
(いつも休んで行っていた、この翻訳のアルバイト。小切手帳さえあれば、しなくて済むかもしれない)
(また、小切手を使っても怪しまれないだろうか)

 幸い、弥皇(みかみ)の死亡ニュースは流れていない。
 あの場所が誰にも知られていないに違いない。ただ、あの場所を訪れるのは危険だ。犯人は必ず犯行現場に戻る、とテレビでも良くいわれる。自分くらい賢い人間なら、そんなヘマはしない。

(誰かに頼んで見に行ってもらおう。でも、なぜと理由を聞かれたらどう誤魔化そうか。知り合いに自分の車を貸していたが返ってこない。海岸でみたという人がいるが、自分で確認に行けないから・・・。いや、それは不味い。遠目でナンバー確認だけでいいからといっても、実際に車の中を見ないとは限らない。みなみ(・・・)には、命の有無に関わらず、なるべく姿を見せないでもらわねば。当座預金から、金を根こそぎ出し終えるまで)

 いつか弥皇(みかみ)の死亡が分かった時点で、そこまでなら融資ということで言い訳が付く。ううん、弥皇(みかみ)が死んだところで、一冊白紙でもらったのだから、いくら融資するかなど皆知るまい。当座全てを融資してもらったのだと証言すればいい。

(不渡りになったところで、あたしの腹は痛まない。信用を無くすのはみなみ(・・・)なのだから。ま、死んでしまえば信用もへったくれもないけれど)

 飛び起きて、お気に入りの外出着に着替えた。
 弥皇(みかみ)殺人の直前に入手したシルバーの車で、出かけた。そのあとを、ゆっくりと付けていく黒いワゴン車があるとも知らずに。

 最初に、昔勤めた銀行に行くのだけは嫌だったが、金の誘惑に勝てるはずが無かった。

 毎回1千万ずつ出金してきたが、毎度この銀行に来るのは煩わしい。
 5億はない、と弥皇(みかみ)は言った。と言うことは少なくとも1億はあるだろう。いや、3億くらいあるかもしれない。
 でも、億単位の金を小切手で決済したら、目立ちはしないだろうか。
 いいえ、当座の世界は何億と言う金が動くことだってある。自分が公務員になって大枚の世界に縁遠くなっただけのこと。自分のような優れたものにだけ、金は与えられる。
 そう。
 自分にはいくら与えられてもいいのだ。それで死ねるなら、男たちも本望というものだろう。

 自信満々の表情を浮かべ、緑川は銀行の支店へと足を踏み入れた。一億円の小切手を切り、口座への入金を求める。
「少し、お待ちください」

 いつも待たされる。
 慣れていたので、その日も雑誌を読もうかスマホで何か読もうかとしていた矢先。窓口から呼ばれた。
 不渡りだという。
 ならば、と5千万円で切りなおしたが、やはり不渡りだと言われた。
 不覚だった。
 口座取引が停止になってしまった。あと4千万くらい残っていたかもしれないのに。1千万ずつ何回かに分けておろせば良かった。
 でもまあ、いい。5千万だもの。

 次に、大小銀行に行って、奪った全額の入ったカードでATMを操作する。
『窓口にお問い合わせください』と表示された。
 今日はツイてない。窓口に行き、話をした。
 暫く、待った。10分、20分。スマホをいじってゲームをしていたが、対応が遅すぎる。銀行に文句を言おうと立ち上がった。
 その時初めて気が付いた。
 先程まで自分の前には誰も居らず、広々とした空間に座りこれからの楽しい生活をシミュレーションしていたはずなのに、今は、目の前が窮屈な空間に変化している。

「緑川、緑川聖泉(さとみ)さんですね」
 むさ苦しい、ヤクザみたいな男が三人。新手のナンパかしらと訝る。
「緑川さん、ですね」
 もう一度確認された。
「はい、そうですが」
弥皇南矢(みかみあけただ)さん、ご存知ですね。弥皇(みかみ)さん殺害未遂容疑が掛けられています。この通り、捜査令状もあります。署までご同行願います」

 警察手帳と捜査令状を見せられた。手錠をちらつかせる男たち。一番年上そうな男が首を横に振る。手錠は部下らしき男の背広の内ポケットに仕舞われた。
 その代り、肩をがっちりと掴まれた。
 逃げられないように、である。
「いたーい」
 可愛く叫んでみたが、相手には通じなかった。
「連行する」
 先ほど首を振った男が口にすると、他の男たちに肩を掴まれたまま、歩かされた。
 銀行内での、まさかの展開である。
 周囲にいた客は恐れおののき、または何事かと目を輝かせ、緑川たちを見る。

(なに、こいつら。それに、何故金がおりなかったの?)

 緑川は、銀行員を睨みつけた。
 反対に行員たちは、皆が立って緑川をあざ笑うかのように能面のごとき顔をしている。

 そう、大小銀行をはじめとした県内金融機関には、捜査令状が下りた時点で警察から通達がおりていた。
『緑川聖泉(さとみ)の全口座、全取引を凍結せよ。なお、小切手による換金には応ずることなく不渡りとして処理されたい。またATM機器におけるカード使用は、使用不能扱いとし、小切手を使用した銀行本支店、ATMや銀行に現れた本支店においては、警察本部あてに早急に連絡されたい』
 男たちに掴まれたまま外に出され、止まっていた黒いワゴン車に押し込められた。

 緑川聖泉(さとみ)弥皇南矢(みかみあけただ)殺害未遂の疑いで逮捕。
 5月13日金曜日、午後2時46分。

◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇

 弥皇(みかみ)の証跡を基に、車が押収され、七輪や練炭、弥皇(みかみ)が吐き出した薬、東京に向かう途中で医療機関を受診し、計ったアルコール濃度や健康診断の結果票が提出され、事件当日の動きが明らかにされていく。
 また、詳細なその日の動きを記録するために、弥皇(みかみ)はいつでも録音マイクを仕掛けていた。併せてそれらを警察に提出した。

 極めつけが、ソンウとフランブルクが録画した当日の海岸、緑川の赤い車での行動とシルバー車で逃走した、あの録画シーン。勿論、証拠品として提出された。その中には、七輪を移動し、練炭を移動しガムテープで目貼りをした緑川の動きが映っていた。
 至極残念なのは、練炭に着火するところだけが隠れて撮れなかったことである。
 裁判で、録音テープ類が何処まで証拠採用されるかは不透明だ。もしかしたら認められない可能性も十分にある。小切手帳からの振り出しと、自分の口にした金額がどのくらい相違があるかだけでも、金銭授受の主導権が緑川にあったことの証となれば良いのだが。

 警察庁では、日本中の全金融機関に『弥皇南矢(みかみあけただ)名義の小切手帳で現金あるいは口座入金を要求する人物が現れた場合、至急最寄りの警察署に連絡されたい』という通達を出していた。
 弥皇(みかみ)が襲われた時点から緑川を尾行し動きを見ていたが、捜査令状がおりたため、取引停止に踏み切ったのだった。
 何故なら、前回の事件までは男性からの振込と言う形を取らせたために、どちらが主導してお金の授受が成されたのか解明できなかった。金銭は相手の意志で送られたのか、それとも緑川の意志で送らせたのか、或いはだまし取ったのか、誰が金銭の流れの主導権を握っていたのか、確たる証拠になるものがなかったのだ。
 今回、弥皇(みかみ)は緑川に会うたび会話を録音していたので「1千万」という言葉が残っていた。

 しかし、最終的に緑川が小切手を使い口座へ移した金額は4千万円も多い、5千万円である。これで完全に緑川が金銭の授受を主導していることが明らかになった。
 緑川は、おとり捜査だと弁護人に訴えているという。
 自分は金があるから有名な弁護人をつけると息巻いているとか、そういったスケールの大きい話が漏れ伝ってくる。取調べでも、色香で相手を誘惑するような素振りを見せたり、気に入らない話は聞こえないフリをしたり。誰かと比較しようものなら、一瞬鬼のような目をして、その後だんまりを決め込んだりと、相変わらずのサイコパス的所作で立ち回っていると聞く。

 ただ、弥皇(みかみ)が警察の人間だという情報を掴み、緑川に対する囮捜査を行ったという噂も県庁内では流れているらしかった。どうやら、どこの誰かは知らないが、今の今になっても緑川信奉者は存在しているようだ。
 差し入れを届けた人間か、面会した人間に限られるが、今回、直接犯行に加担、或いは物品の購入など共犯に値する行動をとった人間は確認されていない。その気になれば、いつでも情報提供者を割り出すことなど造作もないのだから、県警側では放っておくことにしたという。
 弥皇(みかみ)は警察の人間だが、警察庁に所属する限り、警察官としての捜査権は無い。
 東北に行き県警出向した際も、そこからすぐ行政部に出向しているため、同じく捜査権は無い。私人として、海岸に行ったあの日に緑川を現行犯逮捕できたかと言えば、それも難しい状況だった。自分が密室にいる状態が作られてこそ、殺人容疑になり得るのだから。

 どちらにしても、緑川の言う捜査権は、弥皇(みかみ)が行使できるものではなかったのが事実だ。サイコパス心理の調査を行うためサイコロ課員が東北に行ったのであり、囮捜査に該当しない、弥皇(みかみ)本人が詐欺に引っ掛かっただけ、というのが警察側の言い分だ。
 
 今回の連続殺人及び殺人未遂事件では、緑川が故意に詐欺を働いたという事実がある。結婚、介護費用、学業融資のために3人の男性から計7千万円もの金銭を騙し取り、時に相手を車ごとダイブさせ、時に練炭を燃やした。それは紛れもなく、悪意である。

 県警の大規模家宅捜索を受け、自宅から、小切手帳、通帳、カメラやパソコン等が押収された。通帳には、保険として本名で振り込ませていた上司や元上司の名が連なる。白日の下に晒されたのは、様々な男性職員から金額の多少を問わず融資を受けていた実態。

 行政部では、職員、元職員を含め夥しい数に上り、上を下への大騒ぎとなったのは言うまでもない。

 警察は、全員の家族に事実関係を知らせ、金銭授受の過程を聴取することを決定した。妻に黙って融資した職員が殆どで、ましてや、人事サイドでも掴めないほどの職員の数。皆、人事課は仕方なくても妻だけは止めてくれと懇願したが、警察はそんなあまっちょろい言葉をいちいち聞くほど甘くは無い。
 結局、相当数の男性が妻に見捨てられたらしい。熟年離婚したケースも少なくないと聞く。離婚ばかりではないのだろうが。
 本人が悪いわけではないから処分は行われなかったが、噂は噂を呼ぶものである。暫くの間、県庁内はゴタゴタが続いたようだ。元職員も、お咎めこそ無かったが、家の中はさぞや滅茶苦茶になったことだろう。退職金付きの年金受給者というバックボーンもあり、こちらは漏れなく熟年離婚のパーセンテージがアップしたらしい。

 県警の科捜研で解析した結果、カメラやパソコンから、千田追い落としの時に使った、合成写真の合成過程が見つかった。また、ダイブしたとされる男性職員と、弥皇の時に使われた遺書の文面が発見された。緑川本人はゴミ箱からポイ捨てして、この世から無くなったと思っていたようだが、パソコンはそんなにオバカではない。内部にしっかりと証拠が残っていた。

 パソコンに合成時の記録があったものの、これがイコール緑川の仕業と断定できるかどうかは、捜査の進展を見守るしかない。
 共犯者がいて、家からパソコンを持ちだしてまで作業したとは考えにくい。
 実家にパラサイト住まいで、若い友人の出入りは殆どなかったという証言が取れている。それ故に、写真合成もそれらの過程も、緑川が行ったと考えるのが妥当であり、自然だろう。
 また、入庁時に書いた書類や他の自筆書類も次々と県庁内部から押収され、小切手の筆跡鑑定が行われた。これが金の流れを明らかにした唯一の書類である。鑑定には時間を要し、本人である確率を最大限上げるよう、努力していると聞く。
 千田の自死未遂、車のダイブ死亡、山麓での練炭死亡、そして、海岸部における弥皇(みかみ)練炭殺害未遂。緑川本人は、未だに総ての事件を否定している。

 緑川の罪はそれだけではない。他にも、精神を病んだ女性たちが多数存在する。
 それらに関しては、罪と呼べるかどうかの判定は困難であり、実質、トリガーであることの証明ができるかできないか、の程度に終わるだろう。
 もう一人、銀行の先輩も、風の便りに元気を取り戻したと聞く。時間の流れが、やっと鍵の掛かってしまった心に合鍵を作り出してくれたのだろうか。喜ばしい限りである。

 新聞等で緑川事件が報道され始めてから、千田の元夫からサイコロ課宛に手紙が届いた。
『真実を暴いていただき感謝します。あのとき、千田を許せなかった自分が恥ずかしく、後悔しています。でも、後悔などしたところで千田はもう、自分の元には居ない。あんなにも愛したはずの千田が今、自分の目の前に居ないのは天が自分に与えた罰なのでしょう。千田の心が一日にも早く快復することを祈っています』と結んであった。

 和田は、当たり前だろうといった表情で、手紙を皆に見せた。当時は仕方なかったとはいえ、夫が妻を許せず、ぎくしゃくし千田が精神を病んだことが離婚の原因になったと机をバンバン叩く。
「僕なら、許すけどな」
 弥皇(みかみ)がぼっそりと呟く。
弥皇(みかみ)さんが?何を許すんですか?」
「嘘と真実、どちらも」
 和田が驚いた顔で弥皇(みかみ)を見る。
「夫と妻の話とか、男と女の話ですよ。弥皇(みかみ)さんて、そういうスタンスでしたっけ?」

 弥皇(みかみ)は大きく息を吸い込んで、机に両肘を乗せ両手を組んで祈るようなポーズを取る。
「向こうで色々あったからねえ。妻とか夫とか堅苦しいものでなくとも、パートナーがいるのは、いいことだって思えるようになったのよ」
「何、ミーの影響?」
 麻田が脇から弥皇(みかみ)を覗き込む。
「失礼なこと言わないでください、麻田さん」
「ああ、あの時本部から美人ばっかり、たくさん行ったものね」
 弥皇(みかみ)が話を反らす。
「よく、あれだけの人数動かせましたね、課長」
「ん?まあ、それだけ事件を重く見たんだろう」
 和田がのっそりと弥皇(みかみ)と課長、2人の間に入る。
「で、弥皇(みかみ)さんが魅かれたのは、本部の美人さんなんですか、それとも、あさ・・」

 弥皇(みかみ)が慌てたように和田の口を塞ぐ。かなり不審な行動。
「いいじゃないか、僕の話は」
「今回の事件で、一番変化があったのは弥皇(みかみ)さんだと思うんですが」
「あら、そうなんだ」
「和田、あまり弥皇(みかみ)を苛めるなよ」
「そうですね、ブラックカードに小切手持ちですから」
「あら、弥皇(みかみ)くん、ホントにそうだったの?あの時だけのカードだと思ってた」
「まさか。誰もあのカードなんて貸してくれないでしょう?それこそ、シーンによって使い分けているだけです。そこらのスーパーで使うのは変ですからね」
「じゃあ、当座に、いくら入ってるの?」
「さあて。八桁ほどですかねえ」
「っていうか、ホントの金額、普通言わないだろうが」
「僕は正直が唯一の取り柄ですから」
「すごーい。億万長者ってヤツ?」

 皆が一様に驚く。
 その中でも、麻田が一番性格が悪い。
「僕は、人間という生き物の心を観察するために仕事していますからね」
「あ、そう。相続税とか払うために稼いでるんだ。お坊ちゃまだわ」
「今、誰か失礼なこと言いませんでした?違いますよ」
「ふーん、お坊ちゃまにしては、今回、命張って稼いだわけだ。死にかけたもんね」
「お坊ちゃまではありません。たまたま、お金があるだけです」
弥皇(みかみ)くん。たまたま、お金が億もある人間なんて、この世じゃかなり珍しいと思うわよ。私に貢いでよ」
「貢ぐという言葉、男性から女性への、一方的かつ盲目的な下心を感じるんですが」
「そんなことないわよ。たぶん」
 麻田が、普段見せない満面の笑みを浮かべ、やや上目遣いに、弥皇(みかみ)の表情を窺う。
「皇家所縁のナントカって、ホントにホントなの?」
「ナイショです」
「あら、内緒にしたいくらい何か秘密があるってことね?」
「おいおい、また始まったのか。お前達のは、単なる追いかけっこだろうが」
「すみませーん」
 麻田と弥皇(みかみ)が同時に謝る。

 久しぶりに全員が揃ったサイコロ課で、のんびりムードが続く。かと思えば、久々にバラバラトークが始まった。
「そういえば、骨抜きの一人で安倍の夫、佐藤。あの後、自死したそうですね」
「ああ、マスコミに吉田との密会現場写真を撮られた上に、吉田への入金記録やら、緑川の捜査で押収した例の秘密の通帳。あの中に名前があった。緑川への入金記録までマスコミに出た。あとは、安倍に対するモラハラ発言。何でも安倍が録音していたとか」
「そりゃあ、虚栄心の塊みたいな人間としては、もう生きて人前に顔出せませんね」
「安倍が最後に一生分の復讐をしたのかもね。それが許される範囲かどうかは別として」
「緑川事件の入金記録って、どっからマスコミに漏れたんだ?ましてや、吉田への入金記録なんてマスコミに漏れるわけないだろう」
「さあ」
「警察の中で安倍に接触した人間、いませんよ」
「知らぬが仏イコール、無知は至福である」
弥皇(みかみ)くん、言葉の使い方、間違えてない?」
「知らなくても僕たちには何ら関係ないことでしょう。事件は終わったんですから」

 市毛課長が机に両手をつきながら、大きく首を横に振る。
「これからが始まりさ。緑川の場合、自己愛性パーソナリティ障害なのは間違いない。その場合判例上は刑事責任能力があるとされる」
 佐治も課長の真似をして両手を机においたまま、目を閉じて頷いた。
「善悪の判断が可能で刑事責任能力があれば、緑川にとって厳しい判決が予想されるからな」

 五人が揃ったように、ふっと溜息をつく。
 それぞれが役割を持って、解決に導いた東北のサイコパス事件。
 決して、円満な解決ではなかったかもしれない。
 それでも、心理的要素から始まる罪を減らしていかなければ、後々重大事件に発展する可能性がある。可能性がある限り、それらは排除されるべき本質的な要素となるのだ。

「さ、解散だ。お疲れ様」
「お疲れ様です」

 弥皇(みかみ)が独身組に声を掛ける。
「麻田さん、和田くん、お帰りと言ってくれる家族が居ない者同士、飲みに行かないか」
「失礼ね、相変わらず。でも、いいわよ。和田くんは?」
「僕もご一緒します。お二人きりだと何が起こるかわかりませんから」
 和田の言葉に、麻田と弥皇の二人が反発する。弥皇(みかみ)が反論の口火を切って落とす。
「どうして僕と麻田さんが二人きりになるんだい。和田くんも誘っているじゃないか」
「そうよ。それに、よしんば弥皇くんと二人きりでも、何にも起こりゃしないわ」
 和田の目が三角になった。
「そうですか?本当に?」
「そうだとも」
「本当よ」
 麻田も弥皇(みかみ)も、防戦一方だ。

 和田の目は、今なお三角である。麻田と弥皇(みかみ)が嘘をついていると、怒っているらしい。
「僕の情報収集能力を甘く見てもらっては困ります。筒抜けでしたよ、全部」
「何が筒抜けなのかわからない。そんなに君を怒らせるようなことをしたか?」
「どうして僕に内緒にするんです」
「内緒も何も。和田くんに隠し事なんてしていないよ、僕は」
「ふーん。どうしても黙っているつもりなんですね」
「だから何を言えばいいんだ?」

 弥皇(みかみ)を見た和田。男性二人が見つめあう。
「麻田さんに二人だけで飲みに行こう、って最後の現場に行く直前に、約束したでしょう」
「あ、あれは」
 その言葉を聞いた瞬間、弥皇(みかみ)の顔が次第に紅潮していく。
 真っ赤と言ってもいい。これほど顔色を変えた弥皇(みかみ)を、皆、見たことが無い。

 そこで麻田が中に割って入り助け舟を出した。
 言い訳のつもりか、弥皇(みかみ)を援護したかったのか、それはわからない。
「あの、ほら、生死の境目だったし。少しでも元気づけようと思っただけよ」
 途端に、今度は弥皇(みかみ)が麻田を振り返る。顔を赤らめたまま、じっと麻田を見つめた。
「麻田さん、じゃあ、あの言葉は全部嘘だったんですか?」
 麻田を少なからず責めるような弥皇(みかみ)の言葉に、周りは目が点になっている。
「あれは強ち、嘘ではないわよ、弥皇(みかみ)くん。今度、一緒に行きましょう」
「強ちってなんです。今、僕は心が痛烈に痛んでます」
「そんなに怒らないでよ」
「麻田さん。少なくとも、僕は本気で言いました。でも麻田さんは違っていたんですね」
「だから嘘じゃないって、さっきから言ってるじゃない」
 麻田が困り果てるような顔になる。
 畳みかけるように、和田が麻田の横で、ぼそっと呟いた。
「麻田さん。お二人が甘い雰囲気で、ワイングラス片手にご歓談の話も伝わっています」
「和田くん。甘いは余計だから」
 角を生やしかけた麻田。弥皇(みかみ)と一緒になって和田に詰め寄った。
「君、どこからその情報を仕入れたんだい?」
「そうよ、大体それ誰に聞いたの?」
「だから、僕の情報収集能力です。緑川の件で至る所に網を張っていましたから」

 やっと顔色が元に戻った弥皇(みかみ)。麻田も冷静になったように見えた。
「和田くん。とにかく、僕等のことは放っておいてくれ」
「そうね、取り敢えず、ここは引いてちょうだい」
「それって、弥皇(みかみ)さんと麻田さん双方、と言う意味で良いんですよね?」
 和田は、ニヤっと笑った。
「じゃあ、二人とも認めたということで。さ、行きましょう」
「和田くん、雰囲気が変わったよ。素直で朴訥な青年だとばかり思っていたのに」
「雪が、東北の大地が、僕の本能を目覚めさせたんです」

 市毛課長はそれを見ながら、佐治に目くばせした。
「我々も一杯どうだ」
「いいですね」
 こうして、事件解決とともに、サイコロ課内の電気が消えた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 サイコロ課の面々を、監視カメラで見つめる人物がいた。どうやらサイコロ課には監視カメラが付いているらしい。となれば、盗聴器も付いているのだろう。
 これは、サイコロ人たちも知らない。警察庁の人間である市毛だけが知る事実だ。
 いや、課内の四人も総てを知っていて、何も言わないだけかもしれない。彼らの心理は、一般人には計りかねる。
 カメラや盗聴器の設置は、特に処罰を行うためではない。
 どのくらいのキャリアがあり、どういった犯罪についてどういった能力を発揮するのか。机上の空論なら、プロファイルだけなら、専門的な部署など要らない。

 上層部では、変人部隊と呼ばれるメンバーたちの行動面を見定める狙いがあった。
 ただの四十七都道府県からの泣きごとなら、とうの昔に却下している。以前にも言ったはずだ。警察はそんなに甘くない。
 近年、件数を増している異常な犯罪の手口、犯人の心理。これらを的確に纏め上げる組織は、絶対に必要なのだ。サイバー犯罪にサイバー室が創設されたように、サイコパスに対抗出来得る能力を有した人材の確保は、警察にとっても急務なのである。
 そのメンバーが変人であれ、一般人であれ、事件解決の糸口さえ掴めれば、サイコロ課設立の目的はある程度果たされたことになる。
「どう思われますか」
「彼等か?」
「はい。使えるでしょうか」
「市毛が何とか纏めるだろう。あいつは昇進を蹴った男だからな」
「そうでしたか、彼が噂の」
「ああ。私の同期だ。変わった奴だよ。昔から」

 明日もまた、謎や驚きに包まれたサイコパスの惨憺たる行為がサイコロ課の面々を待ち受けているだろう。それでも彼らに出来るのは、連綿と続くサイコパスの恐怖から人々を解き放ち、守り、救う。
 ただ、それだけだ。
 そのために自分たちの持ち得る知識であり、状況判断で事件を紐解いていく。そう、連続しているようでいながら、日々の景色が四季とともに変わるように、人の心もまた移ろい、時に歓喜し、笑い、時に肩を震わせ、怒り、時に打ち拉がれ、涙する。

 喜怒哀楽があってこその人間。
 どれが欠けても、人間というカテゴリそのものから遠ざかってしまうように見える。
 サイコパスが、哀しみの感情だけを持たずに生まれたのか、哀しみの感情が封印されているのかは、わからない。
 脳科学が飛躍的に進歩すれば、サイコパスの思考、その全貌を目の当たりにすることが出来るのだろうか。日本を含めた世界、地球全体が、今はまだ、全貌を知る段階にないのが現状だ。


 サイコパスは、ひっそりと暮らしている。いつ起爆スイッチが入り、どこで行動を起こすかわからない。
 普段はきさくで明るい人。それが多くのサイコパスに共通する外見である。

 そう。
 あなたの隣で、あなたの向かいで、明るく笑う。
 その人こそが、本当はサイコパスかもしれないのだ。

サイコパスの童話  ~サイコロ課、発進~

 

サイコパスの童話  ~サイコロ課、発進~

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1章  第1幕  establishment 
  2. 第1章  第2幕  Eccentrics and the first case
  3. 第1章  第3幕  The second case
  4. 第2章  第1幕  The third case ~ Monster
  5. 第2章  第2幕  Monster=Psychopath
  6. 第2章  第3幕  Hunting~to be continued