車と海老子

 海老子さんの運転は海老子さんらしく、静かで柔らかである。
 ハンドルを握ると人格が変わるタイプの人ではなくて安心する。海老子さんにはどんなときも海老子さんでいてほしいのである。
 静かで柔らかで優しい運転の海老子さんであるが、迷いはなく潔い。車線変更でまごつくことは、まずない。助手席で命の危険を感じたことは一度もないし、むしろ海老子さんには申し訳ないが、まるでゆりかごのような車のたおやかな揺れに眠ってしまうこともしばしばだ。海老子さんの真っ赤な軽自動車で出掛けるばかりで僕はといえば、未だ運転免許証を取得していない。車を必要とする職種ではないし、そもそも興味がないので教習所に通うつもりもない。
「それは無くても不便がないからよ」と、海老子さんは言う。
 たしかに、住んでいるマンションの一階には夜十時までやっているスーパーマーケット、マンションから歩いて一分のところにはコンビニもある。更に歩いて三分で、市内では最も大きい駅にも行ける。電車の線も充実しているし、バスだって十五分置きに発車する。
 対して海老子さんはおなじ市内でも、とびっきりの山奥に一人で住んでいる。車がないと買い物に行くにも一苦労する土地である。最寄りのバス停まで歩いて四十分。いちばん近くのスーパーマーケットが歩いて五十分。海老子さんの職場は歩けば一時間三十分以上かかる市街地にあるので、中古の真っ赤な軽自動車は海老子さんの足であり、海老子さん曰く「私と現世を繋ぐ牛車みたいなもの」であるらしい。海老子さんは読書家であるが、僕には一文たりとも意味の解らない本を好む。海老子さんが住まう山小屋のような小さな家には、大量の書物が詰め込まれている。二階建て以上の家ならば過積載で床が抜けるに違いない。慎ましやかにやっている家庭菜園を猿や猪に荒らされようと気にしない海老子さんが考える、山奥に住んでいることの唯一の難点といえば、本屋が遠いことなのだそうだ。
「ならば僕と一緒に、僕の家で暮らしませんか」
 プロポーズまがいの言葉を、僕は海老子さんに投げかけたことがある。
 本気ではない。いや、半分は本気かもしれない。でも、海老子さんには旦那さんがいる。いるらしい。僕は逢ったことがない。
 海老子さんの旦那さんは海老子さんが住む山奥の更に奥に住んでいて、海老子さんの前にしか現れないらしかった。人間なのか、獣なのか、それだけでも教えてくれないかとお願いしたら「半人半獣なの」と、海老子さんは至極まじめな声色で答えた。地底人や海底人なら知り合いにもいるが、半人半獣は、僕はお目にかかったことがなかったので「へえ」としか返せなかった。地底人や海底人と違って半人半獣は人口が極端に少ない珍種のため、彼らを売り買いする業者が大勢いるそうで、滅多に山から下りてこないのだとか。海老子さんの旦那さんだという半人半獣は顔から腰が人間で、腰から足は日本鹿だそうだ。つまり海老子さんと交われば生まれる子どもは海底人、甲殻亜門、半人半獣の混血になるということ。海老子さんと僕が交わると、海底人、甲殻亜門、人間の混血となる。最近では珍しくないな。僕は思ったが、海老子さんと半人半獣の旦那さんの間に割って入るつもりは毛頭ない。海老子さんが独身だったら、わからないけれど。
 あんな山奥にいて、故郷が恋しくならないか。そう海老子さんに訊ねたこともあったが、愚問だった。
「平気よ。この子がいればどこにでも行けちゃうの」
 ハンドルを握る海老子さんの手の甲を、僕はじっと見ていた。寒気がするほどに白い手を、海老子さんはしている。
 海老子さんの故郷は海の中。真っ赤な軽自動車はガソリン車。さすがに家までは連れていけないけどね。もこもこのセーターのような優しい微笑みを浮かべる海老子さん。
 そういえば半人半獣の旦那さんという人は、泳げるのだろうか。
 どうでもいいことを考えながら、僕は今日も運転する海老子さんの隣でまどろむ。

車と海老子

車と海老子

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-19

CC BY-NC-ND
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