ショートショート

1.小梅メランコリ

 恋は、すこしだけしょっぱい。



『小梅メランコリ』



 深梅(みうめ)はしきりにパソコンのキーボードを打っていた。
 ブログで日記を書くのは、彼女の数少ない楽しみの一つだった。学校から帰ってから、まずはパソコンを起動して、今日あった出来事を書きとめる。たとえ部屋に客が来ていようと、その習慣を変えるつもりはなかった。だからこそ来訪者――床にごろごろと寝そべる少年は、彼女の邪魔をしないようにと漫画をすでに二時間ほど読み続けている。
 少年は時折、漫画のページを見つめながらくっくっと忍び笑いを漏らした。
 ボーン。
 壁に立てかけられた時計が、六時を告げる。
 深梅は、苛ついて、マウスをかたかたと音を立てて動かした。少年の微かな笑い声と、キーボードを打つ音が、時計の針の音をかき消していく。
「あのさ、ちょっと」
 しびれを切らしたように椅子を回転させ、深梅は少年を見下ろした。降ってきたトーンの低い声に、少年はきょとん、として、顔をあげる。
「あい~?」
「あい~、じゃないっ! いつまであたしの部屋にいるつもり? さっさと帰れこのバカ男!」
「え~……だっておれんち、マンガないし~」
「そんなに読みたかったら満喫でも行けばぁ? 今すぐ! 去れ! このアホナス!」
「あのさ~……深梅ちゃん、女の子なんだからもうちょっときれいな言葉を――」
「誰のせいだと思ってるんだよこの豆腐頭ぁっ!」
 深梅は少年の襟ぐりを掴んでぐらぐらと揺さぶった。
「ひど~い、深梅っち。こんなにおれ愛してんのに」
 軽い調子で言われたその言葉に、深梅の目がすっと細まる。
「そんな言葉を気安く使うな、ボケ。聞きあきたわ」
 にこにこと笑っていた少年は、目をぱちくりさせた。どこか寂しげな微笑を零して、頬を掻く。
「……わかった、わかったよ。じゃあ、今日はそろそろ帰るわ」
 少年はふにゃらと笑って、ひらひらと手を振る。深梅は、ふんっと鼻で息を吐き、再びパソコンの方に向かった。
 少年は、んしょっ、と声を漏らして立ち上がると、読みかけの漫画を三冊掴む。
「ね~、これ借りてってもいい?」
「それでまた没収されたりなんかしたら、原価の三倍で弁償してもらうから覚悟しといて」
 深梅は振り向きもせずに答えた。
「あはは、わかったよ、なるべく見つかんないようにがんばるって」
 少年は笑って、ドアノブに手をかけた。
「光多」
 深梅の声に、少年は首だけ少し横に傾ける。
「……あんまりこんなことばかりしないでよ。あんたのおかあさんに、またあんたが不良になるのを手助けしてる、って怒られちゃうよ」
 少年は、困ったような、はにかんだような顔をした。
「ごめんね~。ここなんか落ち着くからさあ」
「いや落ち着かれても困るんだけどね?」
「大丈夫大丈夫。おれ何があっても深梅ちゃんに手ェ出したりしないから」
「あっそ。そらありがたいこったね」
 深梅は頬杖を突き、カチ、カチ、とクリック音を立てる。画面の青い光に照らされたその横顔を、光多はしばらく見つめて、微笑んだ。
「じゃ、明日また返しにくるから」
 深梅は答えなかった。何も言えなかったのだ。
 ドアがかちゃりと閉まる音に、耳を澄ませて目を閉じた。


 ――三分たった。そろそろだな。
 深梅は、カーテンの隙間からそっと外をのぞいた。
 光多は深梅の母親からたくさんの土産をもたせられ、何度もぺこぺこと頭を上げている。窓越しの薄暗い景色の中で、光多の笑顔は灯りのように輝いて見えた。
 去り際に、光多がふと上を見上げた。
 深梅はあわてて床にへばりつく。
 ……なに、やってるんだろう。
 床にしゃがみこんだまま、窓枠の下の壁に背を預け、深梅は前髪をかきあげた。

 本当は、
 居心地がいいのは、あたしの方だ――。

 放課後、毎日のように、光多は家に寄る。当然のように深梅の部屋に上がりこんでは、門限のぎりぎりまで寛いでいく。
 何をするでもない。深梅は光多なんていないみたいに振る舞うし、光多は深梅の邪魔にならないよう、ただ側にいる。いつの間にか二人で笑い合うこともなくなったのに、ずっと、側にいてくれた。
 それが、嫌いなわけ、ないじゃないか。本当は、ずっとこの日々が続けばいいのにと願っている。うまく笑えなくて、いつからか目を合わせることをしなくなったけれど、本当は耳を澄ませて光多の息遣いを聴いている。光多は知らないのだ。あたしが、どれだけ、苦しいか。

 いつからだったのかよく覚えていないが、それだけ本当に自然に、二人は仲良くなった。
 恋愛感情なんてまったく抱いていなかった。あまりにも一緒にいることが自然で、お互いが空気みたいだったからだ。
 光多は、華道の家元の一人息子だ。けれど深梅は、そんな大層な肩書を聞いても、特に何も思わなかった。「へえ」、なんて言葉が口の端から零れただけだ。
 周りは光多をそういう目で見ていたけれど。
 光多は周りの期待によく応えるし、応えられる度量をもった人間だ。
 でも、それがただの外面だということを、深梅は知っている。
 光多が、自分の家族にさえ見せないでいる裏側――十七歳の少年の顔を、深梅は知り尽くしてしまっていた。
 けれど、光多の両親は、深梅と光多が親しくするのを好まなかった。
 むしろ、深梅を毛嫌いしていた。
 それなのに、どうして茶会に呼ばれたのか、わからなかった。
 けれど与えられた席で、上等な着物を着た大勢の人間の眼前で、
 堂々と、
 そして艶やかに、ひそやかに、
 花を滑らかに生けていく光多の指先をみながら、
 そうか、こういうことか、と、納得したのだった。
 あまりにも、住む世界が違いすぎる。
 そしてその瞬間、いつかは光多を失うのだという、怖さを知った。初めて抱いたその感情に、深梅はひどく戸惑った。


 今はどんなにお互いが等身大で、同じ目線でも。
 光多があんな環境で育っていくのならきっと、大人に近づくごとに、二人の間には埋められないほど大きな穴が開いていく。
 大人になればなるほど、きっと理性が働く。
 理性で生きていくことの方が、易しくなっていくだろう。
 あたし達のベクトルは、表面から見たら重なっているように見えても、実はずっと平行線で、浮かんでいるままで……本当に重なることなんて、きっとない。

 ――あたしには、そんな勇気なんかないんだもの。

 光多が自分を好きでいてくれていることは知っている。
 けれど、それはきっと、恋なんかじゃない。そう、深梅は思っている。
 光多はあたしに恋なんかしていない。
 きっと、別のだれかに、いつか胸がときめいて、苦しくなるような恋をするんだろう。
 いつか光多は、家にふさわしくて、華道のことをよく知っている素敵な女の人と静かに愛を育んで、幸せになっていくだろう。それは絶対に、あたしじゃないのだ。そう、きっと決まっている。
 あたしは光多の幸せを、笑ってお祝いするんだろう。
 ……そんな未来しか、見えない。

 あたしは光多よりも一足先に、大人になってしまった。

 灯りをつけていない部屋は、いつの間にか影が紛れるほどに暗くなっていた。深梅はのろのろと立ち上がって、部屋の灯りをつける。床には光多がコンビニで買ってきたまま、置きっぱなしにしていった「小梅」キャンデーが、袋からはみ出して、散らばっていた。不意に口寂しさを覚えて、一粒拾って、口に放り込む。
 飴は、甘酸っぱかった。
 でも、あたしのこの気持ちは――この恋は、とてもすっぱくて、しょっぱい。
 とてもしょっぱい。
 まるで梅干しみたいだ。
 それでも、すっぱくないふりをしなきゃいけないんだろうか。
 今の、この毎日繰り返される、放課後の時間が愛おしい。
 このままこの気持ちいい海のような時の中に、身をうずめていたいのに。
 本当は、いつまでも、このままで――。
 諦めてはいたけれど、そう、思わずにはいられないくらい、

 いつのまにか、本当に光多を好きになっていた。


「おとなになんかなりたくなかったな」
 深梅はひとりごちた。
「せめて、青梅のままでいたかった」
 そして、深梅は、飴をもう一粒、口に運んだ。

2.金木犀

 いつも歩く道に見つけた、黄色の花束。



『金木犀』



 ちゃりん、ちりん。
 電車の清算機の中に、わたしの掌から古びた百円玉が零れ落ちて行った。
 M山駅の電停で路面電車を降り、わたしはゆっくりと財布のファスナーを閉め、バッグの奥へと仕舞い込む。
 交差点を走る車。
 それぞれのスピードで歩く人。
 変わらない日常。
 記憶の中の懐かしい部分が、ぼんやりと喚起されるような、長閑な町の灯り。
 それと同時に、ごみごみした風景に、疲れた体が余計に重たくなる。

 最近、わたしの心は疲れていた。

 心から笑う瞬間。それは毎日のように、何度も、何度だってあるのに。
 その余韻は、私の心に痕を残してくれない。

 笑った瞬間、それはさっと色褪せて、過去の出来事となるのだ。わたしの心の湖は、投げられた石さえ飲みこんで、凪いでしまう。
 楽しかったことなんて、すっかり忘れてしまう。

「たのしかった

 おもしろかった

 うれしかった

 だから、わらった」

――そういう文字たちが、ただ、頭の中でふわふわと揺蕩い、やがて意味もない音となって記憶の海に沈んでいくのだ。



 わたしの輪郭が、見えない。

 自分が分からない。

 何が足りないのか、とか、
 何がほしくてたまらないのか、とか、
 自分には何があるのか、とか、
 頭では、文字として、わかっているのに、こころがわかっていないみたい。

 変わりたい、すてきな優しい女の子になりたい。
 そんなことを、ただぼんやりと考えているだけ。
 変わるためのエネルギーをどこから充電すればいいのかもわからないまま、元気も出なくて。
 もういいや、このままでいさせてほしい、とばかり思いながら、優しい夜の闇に包まれて、眠るだけの毎日だ。

 体も心も、眠り続ける。眠さだけが、わたしを心地よく包み込む。

 こうして家路を歩いているのに、頭には靄がかかったみたい。
 わたしは夕方の涼しい風を心地よく感じながら、家までの道をゆっくりと歩いていた。
 途中でスーパーに寄り、夕食の献立を考えながら、ゆっくりとひとつひとつの棚を見て回った。
 小さめの買い物袋を手に下げて、わたしは近道の小道を通る。
 空はぼんやりと明るくて、あかとんぼが空で静かに停止していた。

 不意に、ふわり、と甘い香りがして、足元ばかり見つめていた視界が、ぱっと開けた。
 顔をあげると、金色にも琥珀色にも、べっ甲色にも見える、鮮やかなきいろが視界いっぱいに広がった。
 折れそうなほどに細い枝は、綺麗なきいろの花の花束を一生懸命抱えているみたい。
 凛と佇む少女のような、優しい姿の金木犀。
 飴色に染まる木の家で、庭にこぢんまりと立っていた。

 おばあちゃんと昔見た、庭の大きな木。
 秋と冬のあいまに嗅いだ、花の香り。
 金木犀は、今も、わたしの想い出の中で、優しく息づいていた。

 その鮮やかなきいろは、
 わたしの目の奥に、
 こめかみの奥に、
 額の奥に、
 頬の奥に、
 まるで玉ねぎを切った時のように、つん、と染み入った。
 わたしの心臓は、ようやく鮮やかな血を送り出し、意識がぱっと灯る。



 その道も通りすぎて、視界に映るのは、夕方の、淡い薄紫色に染まる同じ風景。
 いつもの道をいつものように歩きながら、今日はじめて気付いた金木犀の木は、けれど確かに、わたしの心に甘い記憶を仄かに残した。

 アパートの階段を、微かな足音を立てながら登っていく。
 ふと顔をあげると、凪いだ空の景色が、眼に映る。
 夕焼け空には雲が薄く淡く広がって、薄紫と白のグラデーションがとても綺麗だった。

3.キミは風のように、あなたは太陽のように

 わたしはなんのとりえもない女の子だった。
 周りの子には彼氏がいて、可愛いって言われて、スポーツも得意で、いつもキラキラ笑っていた。
 みんなとても明るかったし、おおきな声で、おおきく口をあけてかけ声かけて。
 それがとてもすがすがしくて、わたしには眩しかったのだ。わたしもそんな、明るい女の子になりたかったのだけど、でもわたし、運動なんてからっきしだめだし。顔だって、地味だし。声はすっごく小さいし。
 お母さんは、一体誰と比べてそんなことで悩んでるのって言ってたけれど。
 わたしもそう思うんだ。自意識過剰だなって。
 でも、なんだかね、わたしってみんなの足引っ張ってばっかりだし。引っ張りたくないのに、どんくさくて、嫌になってしまうの。それでね、そうやってうじうじしてると、ますますうまく動けないんだ。どんくさいのが嫌なのに、嫌だな、嫌だな、って思えば思うほど、ますますのろまになるし、暗くなっちゃうの。
 だから、好きじゃなかった。こんな自分。


 運動会。
 全員リレーという種目があって。
 走りたくなんかなかったんだ。
 自分の醜態をさらすのがいやだった。
「誰もそんなこと気にしてないよ」ってクラスメイトに言われるのも、それはそれでなんとなく傷ついて。本当に面倒な人間だなあって、自分のこと。
 いつも、うつむいて走ってた。
 練習、練習。
 嫌だなあと思っても、走らなくちゃいけないから、走らないのは迷惑かけちゃうから。
 走っても迷惑かけるのに、走らないっていう選択肢も持たせてもらえないなんて。すっごくつらい。
 うつむいて、唇噛んで、泣きそうになりながらのろのろ走った。
 違うの。一生懸命走ってるんだよ。
 でも、のろくって、一生懸命走ってものろくて、のろくて。全然ゴールにたどり着かないの。こんな恥ずかしい姿、いつまでも人目に晒していたくないのに。
 足が速い子は一瞬で終わっちゃうのに。
 足が遅くて走り方も不恰好な子は長い時間そんな姿を見せていなければいけないなんて。
 いやだよ。
 はやくおわれ。
 おわれおわれ。
 はしりたくない。
 はやくおわって。


「斉藤さあ、髪切ったら?」
「え?」
 バトンも渡して、走り終わって、はあはあとあえいでいたら、あまり話したことのなかった男の子に声を掛けられた。
 いったいなんの脈絡でそんななるのか、全然わからなかった。
「え、あ、あ、な、何の話?」
 めったに人と喋らないので、ついどもってしまうのがつらい。こんなところまで悪目立ちしたくないのに。
「いや、なんか、その長い髪うっとうしそうだからさ」
 話しかけてきたクラスメイトの男子は、首を傾けてわたしを覗き込んだ。汗でぬれた色素の薄いまっすぐな髪が、ばらりとすだれみたいに揺れた。
 わたしは少しだけむっとしてしまった。むっとなる権利なんてないんだけど。
「は、走る時くらい、髪を結んどけって、い、いいいいたいんでしょ? そ、そんなこと、い、いわれなくったって」
 ――わかってる。実際、足の遅い子が髪振り乱して走ってたって、そんなのホラー漫画みたい。でも、髪の毛結んでたら、顔が露わになってしまうんだもん。ただでさえみっともない走り方してるのに、走ってる時の変な顔まで見られるの、辛いんだもの。私はその男子から目を逸らしながら、汗に濡れた前髪を指で伸ばした。あーやだやだ。ほんとにわたし、根暗だなあ。
「いや、もちろん、それもあるけどさ、でも、結ぶのがいやだから結んでないんだろ? べつにそれはいいんだって」
 わたしはばかみたいにくちを開いて突っ立ってしまった。顔を上げたついでに、その子の胸元の刺繍がちらっと見えた。持田、って書いてある。そう言えば、いたなあ……持田くん。下の名前、なんだっけ……。
 あんまり普段は目立たないけど、足が速くて体育の時はすごく目立つ男の子だ。女の子からひそかに人気あるの、知ってる――話が小耳に入ってくるだけだけど。
 ああ、わたし、あんまり友達いないのにクラスの会話には耳をそばだてちゃってるんだよね。あー気持ち悪いなあわたし。わたしはそこまで考えて、またもやもやとして俯いてしまった。
「まあ、なんで結びたくないのかまではわかんないけどさ、俺には?」
 わたしは、口をかたく結んで、ますます俯いた。
「髪を結んだら、顔が、表に出て、目立ってしまうから……」
 なんだか、泣きたい。おそるおそる目線だけ上げて、前髪から透かし見たら、持田くんは目をぱちくりと見開いていた。そのままちっとも動かないので、なんとなくその目を観察していた。眼も色素が薄くて、あと……少し、斜視も入ってるみたい。あんまり焦点が合わない感じ。
 ……不思議だな。多分、ちゃんとわたしの顔見てるんだろうけど、あんまりじろじろ見られてる心地がしない。わたしは少しだけ前髪をかき分けて、ちゃんと持田くんの目を見た。
「あ、あの……なに?」
「え、あー、ごめん、なんか想像してた答えと違ってびっくりした」
 持田くんは肩をすくめた。どんな答えを想像してたんだろう。なんだかそっちのほうが気になってしまう。
「だったら、なおさら髪切ればいいのに」
 持田くんから目を逸らした途端、降ってきた予想外の言葉に、わたしは面食らった。
「え……え? なんて?」
「え? いや……髪切ればって言っただけなんだけど……」
「え? な、なんで……?」
 なんで、そうなるの?
 持田くんは眉根を寄せた。向こうは向こうで、わたしの反応に困惑しているみたいだ。
「いや……髪結んだら顔が見えるのはわかるからさ、そしたら髪の毛短くすればいいじゃん。ほら、俺の髪の毛もさ、頬の辺りとかかかってんだろ、短いけど。意外と顔隠れるよ。うちの妹も、顔がでかく見えるからって伸ばさないで短く切ってさ、横の方で顔の線隠してる。あんまり理屈は分からんけど」
 持田くんは自分の髪の毛を抓んで、首を傾げた。確かに、彼の髪は少し揉み上げの辺りが長めで、汗で頬に張りついちゃってるし、隠れると言えば隠れるのかもしれない。
「み、短くしたことないから、わからない……」
 わたしは、呆然としながらそれだけをようやく絞り出した。
「あ、そうなん」
 持田くんは肩をすくめた。
 あぜんとした。
「あ、あの……」
「え、なに?」
 持田くんも、びくりとしたように答えた。
「か、髪の毛振り乱すよりは、そ、そっちの方が……その、短く切った方が見ててみっともなくないかな?」
「え?」
 持田くんは、またぽかんとした。
「……な、何言いだすかと思ったら……み、みっともないとか、なくないとか……」
 明らかに、笑いそうなのを堪えている。どこに笑うポイントがあったのか、わたしにはいまいちわからないのだけど。わたしは極真剣だったのだ。
「う、うん。なんか、そんな感じじゃないかな? ……ぶっ」
 持田くんはとうとう吹きだした。失礼しちゃう。でも、あんまり嫌な心地しない。持田くんのあんまり焦点があってなさそうな目を見てたら、なんとなくあんまり嫌な心地がしないのだ。じろじろ見られてる気がしなくて、目の奥にある感情とか、あんまり気にしないでいられる。不思議だ。
「ぶ……くく、ふ、き、切るつもりあるなら、……くく……や、安くていい美容院紹介するよ」
 持田くんは肩を震わせながら笑った。
 わたしは前髪を撫でつけながら俯いた。
「ちょ、ちょっと考えとく」


     §


 その日の夜、台所できゅうりの皮を剥きながら、わたしはなるべく平然を装ってぽつりと呟いた。
「おかあさん」
「ん? なあに?」
 母は、菜箸をかちかちと鳴らしながら振り返った。
「そ、その……わたし、髪切ってみてもいいかなあ」
 母は一瞬目をぱちくりさせた。けれどすぐににっと笑って、
「いいんじゃない?」
と言った。あまりの簡単な受け答えに、わたしは呆気にとられてしまった。
「あ、あの、短くってことよ、ばっさりってことよ? 今までやったことないんだよ?」
 うろたえたわたしの様子に、母はくくくっと、口に手をあてて笑った。
「わかってるわよ。そうね、よく考えたら、和佳が髪短いのなんて赤ちゃんのころ以来なんだし、たまにはイメチェンもいいんじゃないの? でも、切ったら日焼け止めはちゃんと塗りなさいね。髪短いと首が焼けるわよ~」
 母はいたずらっぽく笑った。


     §


 土日を挟んで月曜日、わたしは思い切って持田くんに話しかけることにした。
「ね、ねえ、あの」
 わたしの声は、小さすぎて、みんなの声であふれかえっている教室では、なかなか聞き取れるようなものでもない。
 持田くんから机二個分離れた所で、あたふたするわたしは滑稽かもしれない。もっと近づけばいいのに、って自分でもわかってるんだけど。肩を叩いて振り向かせれば、確実に気づいてもらえるんだし。
 でも、なんだか、すべてがはじめてのことで、わたしがふつうに男の子としゃべるとか、いろんなことが起こりすぎて、あたまのなかがめちゃくちゃで、そこまで近づくだけで、精一杯なのだった。
「ね、ねえ、ねえってば、あの、」
 さっきよりも声をキンと張り上げたら、持田くんは私に気がついた。自分を指さして、『俺?』と言ったように首を傾げる。
 思わずわたしはうつむいてしまった。顔がほてってしまう。なんか、女子が何人か気づいて、こちらを見て何かをこしょこしょ言ってるのがわかる。ああ、なんでもっと自然に普通にできないんだろう。何にも疚しくないのになあ……。
 息を整えようと何回か深呼吸してたら、自分のシューズの先に、もう一つ、こぎれいなシューズの爪先が視界に入ってきた。はっとして、顔をあげる。
 持田くんは、また首を大きく横に傾げてわたしを覗き込んでいた。どうしていちいち覗き込むのかなあ、と思ったけど、よく考えたら持田くんは私より背が高いし、そうしないと顔がよく見えないのかもしれない。……よく見なくていいんだけどなあ。
「なんか用? 美容院?」
 わたしはぽかんとしてしまった。つくづく察しがいいなあ……。目が合ってしまう。あんまり焦点の合ってない茶色の目に、わたしが映っている。あんまりじろじろ見られるの好きじゃないんだけど、この目に見られるとあんまりいたたまれない気持ちにはならないからほんとに不思議だ。
「うん? なんか別の用?」
 持田くんは困ったように首を反対側に傾げた。わたしはぶんぶんと首を振った。
「い、いや、あの、髪切りたくて、や、安いって昨日、言ってた、し」
 持田くんはやっと首をまっすぐにしてくれた。
「ああ、うん。じゃあ今日の放課後は? 空いてる?」
「う、う、うん、ううん、」
「いやどっち」
「だ、だから、あああいてる」
「……ぶっ」
 また笑われた。失礼しちゃう。


 道中、彼はとくに振り向きもしなかった。けれど、わたしがすこし遅れ始めると、歩みをおもむろに止めて、耳をすましながら、待ってくれている。
 わたしが走ってあわてて追いつくと、その足音を確認したかのように、またおもむろに歩き始めた。
 その仕草がなんだかぎこちないように見える。
 一応は女子と二人きりで帰っている形だし、実際に帰る前に少し友達にはやされていたみたいだし、やっぱりちょっと居心地は悪いのかもしれない。しかも相手がわたしだからなあ。申し訳ないなあ。
 これ以上は迷惑かけないようにしよう。わたしは真っ青な空を見つめた。入道雲みたいにもくもくした雲は、まるで綿みたいだ。長い前髪から日差しが透けて、光の粒が見える。わたしは目を細めた。
 髪の毛、切るのかあ。全然想像つかない。でも、言われなきゃ思いつかなかったなあ。
 何か変われるかなあ。
 暦の上では秋なのに、まだ真夏みたいに暑い。額に汗が滲んだ。
 はっとして視線を戻すと、少し離れたところで、持田くんが塀にもたれて待ってくれていた。わたしは慌ててその傍に駆け寄った。持田くんは何も言わずに、わたしをちら、とだけ見てまた歩き出した。その背中を、今度は置いて行かれないように小走りで追いかける。
 正面から照りつける太陽に、目を細めた。わたしに影を作ってくれる背中は、なんだか、とてもおおきく見えた。


     §


「……ここって」
 わたしは目の前の建物をぽかんと口を開けて見上げていた。
「んー?」
 持田くんは、背中を丸めて腰をかがめ、目を細めて鍵穴を見つめていた。鍵を鍵穴に何度かぶつけて、ようやくねじ込む。
「……持田くん、もしかして目が悪い?」
「あ? ああ、俺遠視入ってんの」
「……その歳で?」
「歳は関係ないわい。そのうち自然に矯正されるって言われてるから眼鏡はかけてねえけど、あんまり近いところは見えづらいんだよ」
 持田くんは、鍵を回して息をつくと、躊躇いなく焦げ茶色のドアを開けた。表札には、『持田』の文字。白い壁。玄関の階段に並べられたたくさんのプランター。
 あきらかに、おかしいと思う。
「あの……」
「あん? 何?」
「なんで、わたしは持田くんちにお邪魔してるんだろう?」
 持田くんは目を見開いて、きょとんとした。やがて、少しずつ頬に赤色が滲んでくる。
「あ、や、説明してなくて、わ、悪い」
 持田くんはおろおろとしたように目を泳がせた。
「お、俺んち、美容院なんだよ。ほ、ほら、そこにあるだろ、しましまのポールが」
 指差された方向を見遣ると、確かに美容院独特の赤青白のサインポールがくるくる回っていた。
「……そ、それはわかったけど……でも、ここはどう見てもお店の入り口じゃないような……」
「いや、そうなんだけど……あー」
 持田くんはがりがりと頭を掻いた。
「今日は月曜日で店は休みなの。だから店の入り口はどうせ閉まってるし、面倒だからこっちから入ってもらおうと思ったの」
「あ、うん……ありがとう?」
「どういたしまして!」
 持田くんはわたしから目を逸らし、前髪をばばばっと撫でつけて叫んだ。前髪で目を隠すなんて、根暗のわたしと似たようなことするんだなあ、と、わたしはなんとなく不思議な気持ちで持田くんの仕草を眺めていた。
 そう言えば今、お休みだって言ってたけど……じゃあ、今日はどうするんだろう?
「ただいまー」
 ドアを開けると、大音量のロックみたいな音が聴こえて、飛び上がりそうになった。持田くんは舌打ちした。わたしはびっくりした。優しそうな顔してて、舌打ちするんだ。でも、驚くところはそこじゃない気も自分でする。
「兄貴! 近所迷惑だっつってんだろ!」
 持田くんは大声で叫ぶ。急に傍で叫ばないでほしい。びっくりしてしまう。そのまま、靴もならべず、どかどかと足音を立てて持田くんは奥に引っ込んでしまった。わたしはとりあえず玄関のドアを閉めて、ぽつんと立ち尽くした。それにしても大きい音だなあ……カラオケ屋さんみたい。不意にぎゃー、と小さな悲鳴が聞こえて、音がぎゅいん、と小さくなった。な、何が起こったんだろう、奥で。
 やがて、持田くんがぱん、ぱん、と両手をはたきながらしかめっつらで奥から姿を見せた。しかめっつらもするんだなあ、と思いながらその顔を見あげる。
 持田くんはばつが悪そうにむすっとして、後ろで頭を抱えているもっと背の高い男の人を無言で指差した。とってもおしゃれな、モデルみたいな人だ。あと、すごく金髪だ。
「どうも~……彰人の友達って君?」
「とっ」
 友達? いつから?
 わたしはぽかんとした。内心パニックになりながら目だけで持田くんを見ると、持田くんは流し目で再びモデルみたいな人のことを見た。は、話を合わせればいいのかな?
「は、はい。たぶん」
「たぶんじゃねえだろ。ていうか普通にクラスメイトだよ」
 持田くんの声に少し棘がある気がする。わたしは俯きそうになるのをどうにか堪えた。
「ふーん。どうも、彰人の兄の翔治です。一応、母親と一緒にここで美容師やってます。……彰人さあ、連れてくるとは聞いてたけど、一応今日店休日だぞ。そんな時に営業したら色々まずいんだからな」
「俺の髪はただで切るじゃん。別にいいだろ、友達の一人や二人くらい」
「え、はぁ? ただでやれと。おまえは一応家族だからさあ~」
「あ?」
「いや、『あ?』じゃねえっての」
「あ、あの……」
 なんとなく、話の内容を察してわたしは口を開いた。
「で、出直します。わ、わたしちゃんとお金は払うつもりだったんです……すみません、美容院が月曜日はいつもお休みだってことすっかり忘れてて……あ、明日また来ます」
「あ、そう?」
「明日は俺が部活」
 持田くんはすごく不機嫌そうな声でそう言った。わたしは思わず眉を潜めた。それが何か今関係あるだろうか。
「……ば、場所は分かったし、普通に明日一人で来られるよ?」
「……察しろよ」
 持田くんは、お兄さんをぎろりと睨みながら唸った。わたしにはわけがわからない。翔治さんは一瞬きょとんとして、突然、ぎこちない笑みでふにゃりと笑った。
「あ、あー……なるほど。なるほど。あのね、あきちゃん、それは先に言っといてくれないとわからなかっただろ」
「…………察しろ」
「あ、うんうんごめん、あきちゃんは取り消す」
 何を兄弟でお互い見つめ合っているのか、わたしにはてんでわからない。わからないけれど、いたたまれないから帰りたいのだ。わたしはここからもう動いてもいいだろうか。
 それにしても、持田くん、こんな歯ぎしりしそうな顔するんだなあ、と思う。その横顔を黙って見つめていたら、翔治さんが突然営業スマイルを浮かべてわたしの背中をそっと押した。
「ごめんね~、ごたごたして。弟の友達だし、今日だけ特別ね? 次回からはぜひもちだ美容室をよろしくお願いいたします~」
「あ、は、はい」
「さあ、あがってあがって。麦茶とオレンジジュースどっちがいい?」
「あ、え? む、麦茶で……」
「はいはい。彰人、案内して」
「こっち」
 持田くんはぶっきらぼうに指をさした。
 レースのカーテンを潜り抜けると、よく見る美容室のフロアに出た。ぷん、といい香りが漂う。シャンプーだとか、整髪剤の匂い。
「で、でも、営業時間外なんじゃ……」
「金とらなきゃ営業じゃねえし。俺もよくここで切ってもらうから。気にしないで」
「あの、でも……」
「いいから」
 持田くんは深く溜息をついた後、わたしを椅子に座らせ、割烹着のような布を着せた。髪に触れて、首の周りにタオルを巻く。なんだかくすぐったい。びくりと肩を揺らしてしまう。持田くんは、持ち上げた私の髪の毛を背中に降ろして、しばらく指で梳いていた。やがて、すたすたと部屋の隅っこに歩いて行って、ソファにごろんと仰向けに横になった。開いた雑誌を目の上にかぶせてしまう。
 何も言えないまま、時間が流れていく。ぱちり、と電気がついて、翔治さんが顔を覗かせた。
「あれっ、なんで電気つけないかなあ……はい、どうぞ」
「あの、本当にお金……」
「いや、今回はいいよ。やるって言ったのは俺だしね。次からまたうちに来てくれたら、っていうのと、あとは彰人とこれからも仲良くしてやって――って、お前はたぬき寝入りかよ」
 翔治さんは持田くんの肩を丸めた雑誌で軽く叩いた。持田くんは寝返りを打って背もたれに顔を向けた。
「やれやれ」
 翔治さんは溜息をついて、わたしの髪に触れた。いい匂いのする霧吹きを、しゃっしゃっと髪にかけて馴染ませていく。
「本当に、すみません……」
「いやいや、無理を言って混乱させたのはうちの弟だしね、別にいいよ。髪の毛切るのは好きなんだ」
 翔治さんは、鏡に映る私に向かってにこっと笑った。わたしも、ぎこちなかったけれど微笑み返した。
「綺麗な髪だねー。くせもないし。地毛だよね?」
「あ、は、はい」
「へー。こんなにストレートなのは珍しいねえ。綺麗綺麗」
 あんまり言われてないから、恥ずかしい。わたしはきゅっと目を瞑った。
「どんな髪型にするの?」
「あ、あの、短めに」
「んー……どれくらい? ボブ? ばさっとショート?」
「う、うーん……」
「この中で、なんか好きなのある?」
 翔治さんは雑誌を取り出して、モデルさんたちの映るページを開いた。わたしは一通りそれを見つめて、恐る恐る一つを指さした。
「おっけー」
 翔治さんはにっこり笑った。
「髪質が違うから、ちょっと違う感じになるかもしれないけど、可愛く見えるように切ってあげるよ。じゃあ、行きますか。行くよ?」
「は、はい」
 はさみの、じゃきっという、重たい音。
 はらはらと、腕の中に落ちてくる長い髪の毛の束に、わたしは不安で、恐くて、でも、鏡に映る、翔治さんの美容師としての顔はとても真剣で、きれいで。
 わたしは、不安に構えるのをやめた。目蓋を閉じて、すう、と息を吸って。
 鏡の向こうで、どんどん切り落とされていくわたしの一部だったものを、静かに見つめていた。



     §



 別に、例えば顔がかわいいとか、好みだとかで気になったわけじゃない。
 その子を憐れんで、声をかけたわけでもなかった。
 そこまで、人間はできていないから。
 ただ俺は、たまたまクラスで一番短距離には向いていて、たまたまアンカーを任されたから、一応責任は重いから、どんな子がどんな走りをしているのかなって、一応頭に入れておこうと思っただけだ。
 足が速くない子がいるなら、勝つためにはその分俺が努力して走らなければいけないし、その子たちよりは足の速いやつらで協力して、少しでもリーチを稼がないといけない。足が速くない子たちにはせめてバトンの受け渡しだけでもスムーズに運ぶように、声をかけてやらなければいけなかった。こういうのは大体、足の速いやつでなければわからないことなんだ。速い速い……って、まるで自分を自慢しているみたいだけど、違う。そういうことじゃないんだ。でも、足が速くない子たちって言うのは、どうも俺に言わせれば自分の走りだけにいっぱいいっぱいで、周りのことは見えていないんじゃないかって気がしている。
 多分、走り方も感覚でわからないし、教えたところですぐにできるわけでもないんだろうと思う。俺は残念ながら、どううまくアドバイスすれば少しでも早く走れるのかなんて、引き出しをもっていなかった。だからせめて、自分のクラスのやつらの足事情――って、なんか変な言い方だけど――くらいは少しでも把握しておこうと思ったのだ。
 そうしてグラウンドを半周走り続けるクラスメイト達を眺めていて、その子のことが妙に気になった。足が格別遅いというわけじゃない。……もちろん、早くもないけど。前のめりで走っているのも、前を見ずに俯いてばっかりなのも、腕の振り方が足りないのも、足の上げ方が足りないのも、足が速くない子たちの特徴を、全部網羅していたけれど、別にそこが気になったわけじゃない。ただ。
 なんだか、すごく髪の毛が邪魔そうだと思った。少しだけ不快な気持ちが湧きあがった。なんで不快な気分になるのかわからなかった。見ていてちょっとだけいらっとしたという感じなのかもしれない。ただその苛立ちは、すごく理不尽なものだと言うことだけは分かっていた。だから俺は、その子に対して不快感をこれ以上もちたくなくて、ガン見していたのだ。それでもなんとなくイライラは収まらなくて、ふと気づいたのだ。その子が走りながら顔に張り付く髪を払いのける動作。口に入ってしまう髪を抜き取る動作――明らかに、走ることに集中できていない仕草だった。俺はきっと、そこに引っかかってしまったのだ。集中できないから、余計なことを考えてしまうんじゃないかって。実際、その子はどうも周りを気にし過ぎなような気がした。走った後も、ハイタッチしようと構えているクラスメイトに気づきもしないで素通りする。きょろきょろして、挙動不審。遅くったって一生懸命走れてたら、もう少し周りが見えるんじゃないかって思った。だってはらはらするんだ。影でこそこそ言われてるんだぞ。気づけよ。
 かと言って、髪結べば?――なんて言っていいのかどうか、俺には判別がつかなかった。妹が、「髪にカタがつくから嫌だ」と言って髪をゴムで縛らないのを見ているから、女子にはそういう男にはわからないこだわりがあるのかなとも思ったし、あるいは上手に結べなくてそのままにしてるのかなとも思ったのだ。でも、俺はその子に、髪の毛をどうにかしてほしかった。というか、仮にも美容師の息子として、あの手入れされてない髪自体、なんとなく我慢ならない。
 それで、セクハラにならない程度にその子の胸元の刺繍を見つめて、名前を確認しながらふと気づいたのだ。妹も、髪を結びたくないからという謎の理由でついこの間髪を短く切ったけれど、わりとそれっていいアイデアなんじゃないかって。
 斉藤、という苗字を口の中で反芻して、俺は下の名前を思い出した。よく考えたら、斉藤和佳は小五の時も俺同じクラスだった。でもその時は、長い髪をちゃんと二つに縛っていたと思う。だったらどうして、今は縛らないんだろうと不思議に思った。所謂思春期ってやつなんだろうか。髪を縛るとダサいからとか、そういう。
 そこまで考えて、ますます俺は、彼女に「髪切ったら?」と言いたくてたまらなくなってしまった。俺の母さんと兄貴は美容師で、母さんは少しセンスが古いけど、兄貴のセンスは垢ぬけてるって弟の俺にも自信があるのだった。兄貴に頼んで結構いい感じの髪型にしてやれるぜ、って急に自慢したくなった。そういうことを悶々と考えていたら、赤いコーンを抱えた斉藤が目の前に来たので、俺はぽろっと何の心構えもなく言ってしまったのだ。「斉藤さあ、髪切ったら?」――って。
 しまったな、と内心冷や汗かいてたんだけど、意外と感触は悪くなかった。よくわからないけど、別に俺の言ったことに怒っているわけではないみたいだ。考えておく、という彼女の言葉に、まあ、そりゃそうだろうなと思いながら俺は使い終わったバトンを受け取って用具入れに放り投げた。それから、意外と久しぶりに話してみても会話は成り立つもんなんだなと思っていた。斉藤自身は結構どもっていたけれど、それ自体は不思議と気にならなかった。髪の毛がやたら気になってしまったのは、一応は美容師の息子だからかもしれない。

 実を言うと、俺の母親が美容師であることを知っている人間は多いけれど、兄貴も一緒に美容師やってるってことを知っている人間は、この町には少ないのだった。兄貴は結構都市部にバイトしに行くから、あんまり店にいないし。だけど俺は、兄貴の腕に関しては自分のことじゃないけど自信はあったのだ。俺の兄貴すげえんだぜって自慢したくて、でも美容師って自慢するほどのものでもないのかなとか萎れたりもして、とにかく、俺は内心、兄貴の自慢をしたくてたまらなかったのだ。兄貴を知り合いに紹介したかった。それで、こんなにしゃれたやつが俺の兄貴なんだぜって自慢したかった。うわ、俺性格悪いな。結局はそういう兄貴の弟だって自慢をしたいだけなんだし。

 でも俺は、そんな気持ちでいっぱいで、体育が終わってからもずっと斉藤をちらちら見てしまっていた。考えておくっては言ってたけど、いつだろう、いつ返事くれるんだろうって思って。結局その日、斉藤はちらりとも俺を見なくて、当然視線も合わなくて、そのままいつの間にか帰ってしまっていた。しかもその日は金曜日で、土日は休みだから忘れられそうだなと思ったらすごく落胆した。その日帰ってすぐに、兄貴にはクラスメイトを連れてくる了承を取った(アポを取ったともいう)けど、俺は結局、土日の間も斉藤のことを考えて悶々としていた。だからさ、俺って馬鹿なんだ。

 そのまま月曜日になって、俺の近くに来ながらもじもじとしている斉藤を見たら、なんだか妙な気分になった。なんだこれ、恥ずかしいなって。別に、普通の話だ。なんのたわいもない話のはずなのに、向こうが妙に緊張してるから俺まで緊張してしまいそうになるのだ。改まってする話でもないはずなのに、それが改まった話になってしまった。斉藤和佳って言うのは、なんでも少し大げさにしてしまう子なのかもしれないなと思った。多分、そうしたくてしてるわけじゃないんだろうけど。なんとなく。

 緊張したって言うのは、つまり意識してしまったってことで、金曜日からずっと斉藤のことを見ていた挙句、せっかくの休みの日も斉藤のことばっかり考え、挙句なんだかぎこちない空気まで味合されてしまった結果、二人で帰る時には俺は完全に斉藤のことを意識してしまっていた。おかしい。こんなはずじゃなかったのに。しかも斉藤は歩くのも早くないし、俺がゆっくり歩くか待つかしなきゃいけなかった。ゆっくり歩く? 冗談じゃない! こっぱずかしい! そ、それって隣に並んで歩くとかになっちゃうじゃんか。恥ずかしくて信じらんねえ。
 一回意識してしまうとまともに顔も見れねえし、振り返りもしないのに足音に耳を澄ます変態みたいになってしまって、斉藤が傍にいなければダッシュで路地裏に逃げ込んで蹲りたい気分だった。あんまり意識してると、その子がなんだか可愛いような自分の好みなような変な気がしてくるし、傍に寄られると母親とか父親とか兄貴の独特のにおいとも違う、部活の仲間の汗臭えのとも違う、なんかいい匂いがするような気もして、本当に妙な気分だった。騙されるなと思った。シャンプーの匂いならうちの美容室に漂うそれの方が絶対いい匂いのはずなんだ。なんかそういう問題でもない気もするけど、どうでもいい。

 そんな感じでいっぱいいっぱいで帰宅したもんだから、兄貴の物わかりの悪さにすごく焦ってしまった。絞り出した一言が「察しろ」だ。何がだ。何が察しろなんだ。意味がわかんねえ。斉藤が出直すと言ったのもなぜか焦ってしまった。もう、ほんとに俺訳わかんねえな。なんか、せっかくここまで一喜一憂したのに俺のいないところでさっさと髪切って終わりにされるのもしゃくな気がしたのだ。

 髪を切った斉藤の姿は、普通だったというか、なんというかすごく違和感があった。見慣れない。なんかものすごく頭の辺りが小さくなったなと思った。ふと、兄貴が前に女の子は髪が長いと女の子らしく見えて短いとちょっと中性的になる――みたいなことを言ってたのを思い出して、なんだか「確かに」なんて思ってしまった。どうやら、俺はあんまり女子のショートヘアーは特に好きじゃないみたいだ。よくよく考えたら今まで芸能人見ても短い髪のやつを可愛いって思ったことなかったんだった。

 でも、だからと言って斉藤のそれが似合ってなかったわけじゃない。斉藤の雰囲気は、髪を切っただけでなんだかがらりと変わって見えた。すっきりしたっていうのかな。それに何より、斉藤の表情が明るかった。前髪を切ったせいもあるかもだけど、目をぱっちり見開いて、俺からも目を逸らさなかった。その表情に、俺は好感を持ったのだと思う。なんだか、すごく嬉しかった。

 帰りを途中まで送るついでに、少し前から思っていたことを言ってみた。長距離、意外と向いてるんじゃないかって。斉藤は走ってもあんまり息を切らしていないのだ。それが、ずっと見ていて何となく気になっていた。瞬発力はないし、足も速くはないけど、持久走なら意外と普通なんじゃないかなとか思っていた。それを言ってみたら、斉藤は「長距離はきつそうだからって思って考えてすらいなかった」なんて言った。また、「考えてみる」なんて言われたけど、今度は微妙な気持ちにはならなかった。むしろ俺の気持ちは晴れやかな感じだった。


 それからの話は、大したこともなくて、斉藤は足が速くないのは相変わらずだけど、おれの目につくような走り方をしなくなった。だから、逆に俺は気にならなくなってしまって、あの日の妙などきどきも忘れつつあった。なんとなく、心の端っこで引っかかってはいたんだけど。

 結局斉藤は、全員リレー外の個人種目は400m走に決めて、体育大会の当日も、前をしっかり見て走っていた。一位にはなれなかったけど、びりでもないし、よかったんじゃねえかな、なんて思いながら、俺は斉藤の後姿を見つめていた。なんでなんとなく寂しいのかよくわからなかった。ポカリを飲み始めた斉藤から目を逸らして、九月の暑い日差しに目を細めていたら、足音が近づいて、俺の肩口にふわりと汗の匂いが待った。一緒に、何かのシャンプーの香りとか、多分柔軟剤とかの匂いまで漂って。
 人間、驚いたらぽかんとするより口を引き結んでしまうんだと思う。俺はなぜか歯を食いしばってしまった。斉藤が、俺を見あげていた。キラキラと笑って。ほんとに、キラキラしているように見えたんだ。汗の粒のせいかもしれねえけど。
「走ったよ!走った!」
 斉藤は、嬉しそうにそんなことを言った。今までほぼしゃべりかけてこなかったのに、なんで急にそんなことを言って来たのかわからなくて、混乱した。それなのに、俺の口元はなぜか緩みそうになった。俺は手で口を覆って、でも堪えきれず笑ってしまった。斉藤は笑われたと思ったのか少しむすっとして、また笑った。俺はVサインを作って、
「おつかれ!」
と叫んだ。斉藤は視線を揺らして、ぐっと拳を握りしめて、
「つ、次、全員リレーだね」
とどもった。
 ああ、なんだろうな、これ。なんか、今日はくそ暑いのに、胸のなかがじわじわあったかくなる。暑いのにな。でも、嫌じゃない。
「俺が挽回してやるから、安心して走ってきな」
 俺がそう言ったら、斉藤は気合を入れるように自分の両頬をぱん、と両手で鋏むように叩いた。それがおかしくて、俺はまた笑った。
「そうだね、がんばってね、アンカーさん」
「おう。でも、まあ斉藤も少しは速いと俺も楽なんだけどなー」
「あれ、今安心してゆっくり走って来いって言ったのに」
「ゆっくり走れとは言ってねえよ。風に乗るみたいに走れよ。羽になったつもりでさ。それか落ち葉」
「落ち葉の気持ちで走るのって何か微妙だなあ」
 斉藤はくすくす笑いながら、首筋の汗を手の甲で拭った。なんとなくその仕草を見ていたら、目のやり場に困った。
「がんばろうね!」
 ふわりと笑った斉藤の短くなった髪の毛の先から、ぽたぽたと汗の雫が落ちて、キラキラ光った。


 同級生たちの、誰かを応援する声が重なって、波になってうねっている。俺はあと何人で自分の番か、指を折って数えた。コースの向こう側で、斉藤が一生懸命腕を振って走ってる。速くはないけど。
 多分、もう、「恥ずかしい」とかいう余計な気持ちはないんだ。今は一生懸命、ただ前だけを見て走っている。それがすごく伝わってきて、俺の心臓までとくとくと早く鼓動した。走りきって、オレンジ色のバトンをきちんと手渡したのを見たら、思わず口から「よし!」という声が漏れた。
 そのまま、控え席に戻りながら次の走者の走りを見つめる斉藤の横顔が、逆光に照らされる。短くなったまっすぐな髪が、風に流されて、さらさらと波打って、ところどころきらきら光っていた。なんとなく、海の水面みたいだなと思った。そこだけ時間がゆっくりと進んでいるみたいだ。のんびりしているのは、走る速さだけじゃないのかな、とか思ったらなんとなく面白かった。
 風でかきあげられた髪の奥から、紅潮した顔が見えている。多分、日焼けと走った熱と、両方あるんだろうなって思った。写真を見ているみたいだ。なんか、きれいだ。
 斉藤は俺に気が付いて、両手を万歳するみたいにあげて、何かを叫んだ。
 声は喧騒に紛れて、聞こえない。けれど口の動きならわかる。
 は、し、った!
 そんな当たり前のことを、斉藤は言っているみたいだった。耐えきれなくなって、俺は吹きだした。あー、腹いてえ。
「おつかれ!」
 俺も叫んだ。多分向こうには聞こえていない。だけど、二人とも笑っていた。
 そのうち、俺の出番が来て、俺はレーンの方へと歩いた。
「わたし、いつもよりは早かったでしょ」
 すれ違う時、斉藤がそんなこと言ったので、俺はなんとなく斉藤の頭を小突いた。
「一生懸命走ってたのは分かったけど、残念ながら大して変わんねえよ」
「えー……風になったつもりで走ったのに」
 斉藤は冗談っぽくそう言った。
「がんばってね」
 俺は、体が熱くなるのを感じながら親指を立てた。
 なんか、今日はめっちゃ調子よく走れる気がする。
 レーンの上に踵をぶつけたら、わっと歓声がうねった。
 まぶしい。
 目を細めて、少しずつ近づいて来るオレンジ色の棒を見つめた。



     §



 歓声の渦の真ん中で、持田くんはにやりと不敵な笑みを浮かべて後ろを見つめていた。そんな表情は、なんだか珍しいなあとわたしは思った。今日は、絶好調なのかもしれない。

 熱気を帯びた生ぬるい風が、わたしの髪を撫でていく。さらさら、さらさら。
軽い。涼しい。視界が広い。体も心も、なんだかすごく軽いなあと思う。

 バトンが渡る。バトンがひゅっと音を立てて前方へ向けられる。白線の向こう側へ飛び出した持田くんの背中が、逆光に照らされている。きらきらと、幾筋もの光がきらめいて、まるで持田くんが太陽そのものになったみたいだ。キラキラ。キラキラ。

 眩しいなあと思いながら、私は目の上に手を翳した。

 がんばれ、がんばって、と祈りながら。

4.メロウの翠

 僕はその日、何の異常もなく、実に普通に、お風呂に入っていた。
 夏はその暑さを緩ませて、空は青と言うよりは薄く紫がかった色を貼り付けている。
 本当は海で泳ぐのが好きなのだけれど、もうこの時期は海月が出てしまうから、そうなると僕は残り少ない夏休みを市民プールで過ごすことになる。
 とかく僕は幼い頃から水の中に潜るという行為が酷く好きだった。水の中にいると、息ができる気がする――いや、正確にはその表現は正しくないのだけれど、なんと言うのだろう、水の中で息を吐いていると、まるで僕は魚になったような、安堵感に包まれてしまうのだ。空気に触れている時間の方が断然長いと言うのに、どうしてそんな気持ちになるのかは自分でもわからなかった。閉ざされた空間にいるようなものだからかもしれない。要らない情報もない。煩い声も聞こえない。煩わされない。ただ、生き延びることだけを考えていればいいのだから。水を飲み込んでしまわないように。間違っても肺を水で満たしてしまわないようにと。……まあ、大げさか。
 まあ、そんなわけで、僕は男の割には長風呂だったし(この際、水の温度は特に関係がなかった)、今日も清潔に磨いた体で湯船に漬かって、長いため息をついていたのだった。
 湯気がこもって、静かな、そこだけ時の流れが緩やかに足踏みしているような白く狭い空間。
 僕は湯船の水面をしばらく見つめていた。少しだけ緑がかったように見えるその波の間に、僕の顔が映る。笑い方がわからない。一人でいると、笑い方を忘れてしまう。まあ、一人でげらげらと笑っているのもまた不気味な話だけれど。
 僕はすう、と息を吸い込むと、背中をつけるようにして湯の中にもぐった。瞼をゆっくりと開いて、ゆれる水面を眺める。プールよりも海よりもずっと近い水面。けれどそれは嫌いじゃない。音が篭る。耳が詰まって気持ちが悪いはずなのに、その篭った振動はとても体に心地よい。
「もしもしぃ」
 そうだ、音は全て篭っている。たとえ今母さんが声をかけても多分はっきりとした内容は聞き取れないだろう。篭っている。篭っている、はずだ。
「もしもしぃ?」
(嘘だろ?)
 遂に僕の脳は、脳内人格と言うやつを――小人的な何かを再生するようになったのだろうかと困惑する。そんなに孤独だったつもりはない。学校では普通にクラスメイトと話すし、家族関係も良好だ。
 何の問題もないはずだった。
「ねぇ~きこえているんですでしょう? なにでむしするですかぁ?」
 僕はがばっと体を起こした。激しい音がして浴槽の壁に波がぶち当たる。音が帰ってくる。なんだ今のは。やけにはっきりと聞こえたぞ。なんだ、あの変な日本語は。
 僕はばくばくと心臓を鼓動させながら、結局怖いもの見たさで――そして、状況確認のために、顔だけを水面につけて瞼をかっと見開いた。

 な、んだ、これは。

 ぽかーんと、馬鹿そうな顔で、人形の目の様な丸い目で僕を見上げる、小さな小人が――ただし腕や足には木の葉のような緑の透き通る鰭が揺らめいている――そこに、いた。
「あぁ~、やぁっとみてくれましたますね~」
(誰)
 誰と言うか、何、と問うべきなのだが僕は思わず心の中でそう呟いていた。小人は三日月形に口をゆがめる。不気味だ。何かが僕に、それ以上それに触れてはいけないと警鐘を鳴らしている。それなのに、僕は動くことができない。目をそらすこともできない。
 がん見だ。僕はまさに、【それ】をがん見していた。
「わちちはぁ~ポポクルですよぅ~。やっと見てくれましてすねぇ。あなたを~さがしてたでです~」
(探してた……?)
 どうやら、心の声でも会話はできるらしい。
「そうですよぅ~。わちちがなにかわからますかぁ~?」
 聞き取りにくい日本語だ。もう少しきちんと喋って欲しい。僕は眉をひそめる。
 彼――なのか彼女なのか定かではないが、得体の知れないそいつのどこか間の抜けたような声のせいで、僕の脳は考えることをどこか放棄してしまっている。僕は、危機感を持たなければならないはずだ。そのはずなのだ。
 こんなの、異常だ。
「わちちねぇ~、しにがむんです」
(なんだって?)
 そろそろ息が苦しい。僕は顔を上げようとした。
「あぁ~いけませんねぇ~やっとぉ、おはなさすできましたです。ここででらるたらこまるですよぉ~」
 そう言って、そいつはぴょん、とはねると僕の鼻先に触れた。
 途端に、僕の顔面に空気の膜ができる。風船のように。息が、できる。
「だからぁ~、わちちはぁ、しにがむですよ~、あなたのいのちもらいますよぉ~」
「は?」
 なんだって?
 何の話だ?
 頭が靄がかかったように働かない。
 しにがむって、しにがみ、って言いたいんだろうか。ああ、しにがみってなんだっただろう。知っているはずなのに、思い出せない。
「いのち……いのち? どうして?」
 僕はわけもわからず尋ねていた。
「あなたはぁ、しんでもいいなぁっておもってです~。そしてあなたはぁ、さかなになりたがってるからぁ、うってつけでしの~」
「そ……んな、こと、思ってない」
「うそはぁよくないでしたよ~」
 そいつはにやりと笑う。
「あなたはぁ~、ほんちおは、くるしいのでしよ~。ひとのかんじょうのなみについていけないのでしたよ~。わからねえと、こわえとあたまをかけえたですよ~。しってますです。あなたはぁ、わすれてるんでし」
「やめ、て……」
 目がそらせない。その無機質な、空洞のような醜悪さから目がそらせない。体が動かない。力が入らない。
「あなたはぁ、うまれるのまちがえたのなです~。あなたはさかなだでした~。なのににんげんにうまるたからくるしいのです~」
「そんなことない……そんなこと」
 確かに僕は、水の中が好きだった。それだけだ。それだけの話だ。そんなの、僕くらいの活発な子供なら誰でもやっていることだ。
「かっぱつとはちがうでしよ~。あなたはぁ、にげられるです~。かわいそうにぃ、かわいそうにぃ、そんなにつらかったでしたか~? だいすきなおんなのこがぁ~、しんゆうとおつきあいしたのは~つらかったでしたねぇ~?」
「やめてよ!」
 僕は叫んだ。口からあぶくが零れ出る。
「あいつは、親友でもないし、あいつのことが好きだったわけじゃ……ただ、置いていかれたような気が、した、だけで」
 取り残されたような気がした。二人の間にもう割り込むことはできない。僕はそれまで、少年時代を物心ついたときからずっと過ごした思い出を、幼馴染を、取られて途方にくれたと言うだけなのだ。他に友達なんていなかったから。僕の過去を語り合える人なんてほかにいなかったから。
「ばぁかでしね~」
 そいつはにたりと笑い続ける。
「そもそもでしたがぁ、あなたはぁ、にんげんではないのでぇ、にんげんにまどうのはぁ、いささかむだってもんでしたよ~」
「人間だよ! だったら他になんだって言うんだ!」
「にんげんがさかなになりたいならぁ、」
 化け物は牙を見せるようににたりと笑みを深めた。
「それってぇ、にんぎょってはなしでしたよぉ」

 ぶちり、と音がする。何が起こったのかよくわからなかった。僕の腕が――日に焼けた、かさむけた肌が、青い鱗で覆われていくのだけが、瞼の裏に焼きついて、消えた。



     §



「ちょっと、ハル君~? いつまでお風呂に入っているの~? さすがに長すぎるわよ~」

 母親の声が聞こえる。

「もう! 後がつかえているんだから、さっさとあがってくれる?」

 姉の声も追いかけてくる。

 彼はにっこりと笑った。

「今出るよ~」

 手の中に何かを包み込んで、彼はそっと湯船から足を上げる。体を拭いて、慣れたように与えられた服を身に着ける。そのまま彼は洗面所へと向かった。

 歯磨き用のコップに浴槽のお湯を汲み取って。

 そうして彼は、手の中にあるものをそっとその中に放した。

 青い色の尾びれを揺らして、【ベタ】が泣いていた。

 ハルと呼ばれた少年はにっこりと笑ってそれを見つめる。

「だからぁ、言ったでしょう? 空気が吸えるからって、人間だと勘違いしましたかぁ? あなたはただの魚ですよ。それに、残念なことにあなたはメスなんですから、あなたの幼馴染とはどうあがいても結ばれないんです。残念でしたね。どうして男に生まれたんですかぁ」

 ベタは戸惑うようにくるりと回って泳ぐ。

「そんなに、同じものになりたかったんです? あなたがかつて愛しちゃった王子様と同じになりたかったんです? 結ばれないならせめてって? 残念でしたぁ。もう時間切れです。お父上がお怒りですよ。あなたは戻らないと……。ああ、大丈夫ですよ。あなたは神様の子供ですからね、普通のベタと違って長生きですよ。ちゃあんと僕が世話をしますからね。そうしていつか僕があなたのこの体を朽ち果てさせたら、一緒に帰りましょうね。大丈夫ですよ。ちゃあんと、あなたの大事な家族に迷惑はかけないようにしますからぁ。綺麗な青ですね。ふふ」

 少年はベタの背を指でそっと撫でた。ベタはまた泣いていた。何が辛くてそんなに泣くのだろう。少年にはわからなかった。わかる努力はしてきたつもりだったけれど。どうして彼女が、ここまで僕を見てくれないのかわからない。どうしてこんな、美しくない生き物に恋したのかもよくわからない。わかりたいとは思っているのに。

「さあ、僕のお姫様。綺麗な硝子の瓶に後で入れてあげますからね。それまで待っていてください。そうして一緒に帰りましょう。僕も一緒にあなたのお父上に謝ってあげますから」

 勝手に追いかけてきたのも、自分だから。

「ふふ」

 少年は笑う。

「よかった、ようやくあなたが、水を恋しいと思ってくれて」


 髪の毛が、蛍光灯の明かりで怪しく緑に照らされていた。

5.ポメグラネイト


 眠らぬ姫と眠り姫は最後の果実の半分ずつを分け合った。



『ポメグラネイト』


 ふわりと香る、鉄錆の匂い。

 ああ、彼女が来たのだと、わたしの心は跳ねた。

 「おはよう。どんな夢を見ているの?」

 透き通ったミントブルーの音色を持つ声がわたしの目蓋に星屑のような輝きとなって降り注ぐ。

 体中に回る眠気毒で目を開けることもできないわたしには、彼女の声が真っ暗闇のわたしの視界を彩るこの瞬間だけが、幸福だった。

 わたしを縛る鎖のようなこの眠りは、私に唇を震わすことさえ許してくれない。だから彼女が会いに来て、声をかけてくれるのに、応えたいのに、声を返すことができないのだ。

「今日はここに来る途中で勿忘草の花畑を見つけたよ。いつかあなたと来れたらいいな」

 彼女は明るい声で、優しく言葉をかけてくれる。

「そうだ、それからね、これ、すごくいい匂いだろう? 蜂蜜って言うんだって。僕たちには毒だけれど、素敵な香りだから少しだけ分けてもらったんだ。あなたもきっと、気に入ってくれるから」

 彼女は笑った。

 ねえ、あなたは今何日目? わたしはもう、数え方も忘れてしまったの。

 わたしの指が微かに動く。それをそっと彼女が握ってくれた。とても、とても……その指は熱かった。

 ああ、また、終わりなのね。

 わたしの開かない目蓋から、涙ばかりが零れて落ちる。

「泣くなよ」

 彼女は弱々しい声で言った。

「また、会いに来るからね」

 そう言って彼女はくすりと笑う。

「ああ、こうして泣いてもらえると、何回も死ぬ甲斐があるなあ。あなたはずっと目を覚まさないけれど、涙を流してくれるってことは僕の言葉が届いているんだね。僕が……死んでいることが、わかるんだね」

 そう言って彼女はわたしの涙をそっと指で拭った。

 やがて鳥のさえずりだけがわたしの耳孔を満たして、彼女は一言もしゃべらなくなった。

 彼女の心臓の音が聴こえない。

 わたしはまた泣いていた。

 あなたに、笑ってあげたいと願いながら、泣いていた。



     *




 わたしを彼女は眠り姫と呼ぶ。

 ならば彼女のことは【眠らぬ姫】だと呼べるだろう。

 眠りつづけるわたしと、眠ることができない彼女。

 わたしは意思を持った時から眠っていたから、ここがどういう場所なのかもわからない。

 始まりの物語なんて忘れてしまったし、どれくらいの時間が経ってしまったのかも、忘れてしまった。

 ただ一つだけわかるのは、わたしが決して目覚められないこと。

 彼女は眠れないまま時を過ごし、やがて心臓を止め死んでしまうこと。

 そしてまたどこか遠くで生まれ変わること。

 わたしに会いに来て、また死んでしまうこと。

 わたしは悔しかった。

 あなたがどうしてわたしに会いに来てくれるのか、尋ねることもできない。

 無理なんかしなくていい、わたしに会いに来るために心の臓を痛めつけるくらいなら、どこか遠くで穏やかに生きていてと、伝えることができない。

 彼女はいつだって血の匂いを纏っていた。

 彼女の肌から零れ落ちる紅い雫が、わたしの頬を濡らしたことさえある。

 どうしてそんな風に傷だらけになりながら、わたしの下へ来てくれるのかわからない。

 変われたらいいのに。

 あなたの見た世界をわたしは見たい。

 わたしを蝕むこの眠りも、きっとあなたの糧になってくれるだろう。

「こんにちは、調子はどう?」

 どこか擦れた声で、今日の彼女はそう言った。

「参っちゃうなあ。生まれた場所が星の果てだったんだ。おかげで僕はあなたに会いに来るのが……遅く、なっちゃって、だ、めだ。も、心臓が、いた……もた、な」

 どさり、と音がして、彼女の息の音がぴたりと止まった。

 何度も何度も繰り返した静けさに、わたしは心が張り裂けそうだった。

 じわりじわりと蟻が這うように指を伸ばした。それが精いっぱいだった。ようやくわたしの指が彼女に届いた頃には、彼女は冷たくなっていた。

 ――もう、いや。

 動かした指先が地面に擦れて擦り傷を作っていた。その鈍い痛みがわたしの心に少しだけ熱を灯した。

 わたしは息を吐いた。その時、わたしの唇に何か糸くずのようなものが触れた。

 その感触に、恐らくわたしは驚いてしまったのだと思う。

 ぴくりと動いた睫毛の先で、ばり、という小さな音がした。まるで虫の羽が千切れるような音だった。目の下の頬にまた糸くずのようなものが舞い落ちた。わたしはそうして初めて、自分の瞼が開くことを知った。

 目を開けた先に広がった空のどす黒さに、わたしの喉から悲鳴にもならない音が漏れた。赤と青と黒と茶をぐちゃぐちゃに混ぜたよう。どうしたらこんなに禍々しい色が作れるのか、わからない。そうして眼前の異様な空を認めて初めて、わたしは私を纏う異臭に気が付いた。

 腐った血の匂い。塵の匂い。

 心臓がどきどきと煩く鼓動していた。血液が体を駆け巡り、わたしを蝕んでいた毒はまるで吐き出されてしまったかのように、わたしは眠りから覚めた。まだ気だるさの残る体をゆっくりと起こして、わたしはまた泣いた。

 わたしを守る様に積み重なる白骨と、虫の死骸と、血の塊。串刺しにされた小さな体。腕を切り落とされた身体。顔を抉られた身体。

 黒い十字架が無造作に打ち立てられた墓場の中央に、わたしはいた。

 黒焦げの体。毛をむしり取られた身体。バラバラの体。

 わたしは湧き上がってくる吐き気を抑えながらふらふらと立ち上がり、足を踏み出した。

 沢山の骨の先に、点々と血の雫の乾いた道があった。虫に食われた葉に覆われた小さな木が生い茂るアーチをくぐる。わたしの足元にべちゃりと嫌な音を立てて何かが落ち、わたしはびくりと肩を震わせた。赤い雫が私の頬に跳ねる。

 それは腐った柘榴だった。どうしてこんな場所に生えているのかわからない。虫に食われてしまった熟れすぎた果実が虚ろな顔の断面を私に向けている。わたしは震える手でアーチに触れた。まだ無事な実が一つだけ残っている。わたしはこれ以上血の匂いをかいでいられなくて、その実をもぎ取った。

 アーチをくぐると、橙と薄藤色の混ざった気味の悪い空に灰色の水平線が刻まれている。黒い十字架達はわたしを拒絶するかのように立ち尽くし、わたしを睨みつけている。わたしはひゅうひゅうと苦しげな息を吐き出す喉を押さえながらよろよろと歩いた。真っ黒に焦げた木の十字架が一つぼろりと崩れた。

 その道は凄惨に満ちていた。

 倒れたまま虫に食い尽くされ、腐った身体を何度踏み越えたかわからない。焼け焦げた建物、植物、息絶えた虫の乾いた死骸。鼻腔から離れてくれない煤と鉄錆と汚物の匂い。こんな、こんな道を……あの子はわたしに会いに。

 どれほどの時間を歩いただろう。わたしは自分が眠っていなかったことにも気づかなかった。やがてわたしは自分の体を焦がすような熱に気付いた。その時にはもう全てが遅くて、わたしの心臓は止まりかけていた。眠らなくちゃ。眠らなければ、死んでしまう。どうしてもう眠くないの。どうしてもう眠れないの。死んでしまう。死んでしまう。またあの場所からやり直すのは嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 胸に抱えた柘榴の実を握りしめる。熟れて来ていた実の皮がぶちりと裂けて、赤い汁が私の腕を濡らした。潰れてしまった柘榴の実を見つめながら、呆然としてわたしはその場に崩れ落ちた。

 なんのために歩いていたのだろう。わたしはどうしてあの場所から逃げ出したのだろう。どうして、目を開けようだなんて思ったのだろう。

「眠り姫?」

 心が震えた。

 柔らかな声の降る空を仰ぐと、わたしを覗き込む少年の姿があった。その澄んだ靑の瞳を見て、わたしは漸く、それが男の子の声だったことを知った。眠らぬ姫はわたしを呆然として見つめ、自分の右手に握られた血染めの槍をゆらゆらと揺れる眼差しで見つめた。
 わたしはもう声が出なかった。その槍の先に、彼と同じ青い瞳が刺さっていた。彼の左手には、もげた白い腕が抱えられている。

「眠っていてくれたらよかったのに」

 彼はぽつりと呟いた。その声は震えていた。

「もう、繰り返すのは嫌だよ」

 わたしはかたかたと唇を震わせながら首を傾けた。彼は哀しげに眼を細めた。

「ねえ、前は僕が眠り姫で、あなたが目を覚ましていたね。その時もこんな風に、僕があなたを迎えに来て、あなたが眠ってしまったんだっけ。その前はあなたが眠っていて、その前は僕。いつもその繰り返し。ねえ、だけどね、もうここはだめだよ。この世界はもうだめだ。たくさんの僕らになりきれなかった子供たちが腐敗して、あなたと僕を同じように腐らせようとするんだ。だからね、僕があなたのかわりに壊していたの。あなたにこれができる? こんな……残酷なことが、できる?」

 そう言って、彼は串刺された眼球を抜き取ると、土の上へ放り投げた。

「でもね、しないと、僕達二人が食べられちゃうよ。そうしたら死んじゃうよ。どちらも死んじゃうよ。どちらかが眠っている限り――死んでいない限り、僕らは何度だって巡り会えるのに。何もこんなところで出会わなくてもなあ。ここが一番、腐った場所なのに」

 彼は目を擦りながら擦れた声で呟いた。わたしは訳が分からなかった。彼はただ一言、「眠い」と呟いた。

「今度は僕が眠る番だね、お姫様。ちゃんと僕の代わりに、僕とあなたを守ってね。なるべく早く起きるから。きっとあなたを迎えに行くから……」

「だめよ」

 わたしはかたかたと震える腕を彼に伸ばし、頬を撫でた。白い頬が紅い果汁で汚れた。

「だめだよ、二人で、もう、終わりにしようよ。こんな世界で生きていても、一人で生きていても、哀しいよ」

「終わらせるなんて無理だよ」

 彼は哀しげに俯いた。わたしは柘榴を二つに割った。

「君と一緒にわらいたかったの。綺麗な景色を見て、美味しいものをたべて、わらいたかったの。でもね、もう柘榴は一個しかないみたい。どうせみんな腐っちゃう」

 わたしは彼にその半分をそっと持たせた。彼はためらうようにわたしを見つめた。

「あなたは血まみれ、わたしも紅まみれ。二人で汚れてしまおう? ね、最後の果実を、一緒に食べよう?」

 わたしは涙の止まらない目を懸命に細めて、笑った。彼の青い瞳もまた揺れて、柘榴の赤を映し出した。

 わたしたちは柘榴に被りついた。ひたひたと、赤い雫が零れてわたし達を汚していく。 

 ああ、やっと、一つになれた。

 わたしは果汁の染みこんだ赤い指先で、目を擦った。



     *



 最初のお話。

 あるところに人形作りの男の子がいました。

 彼には小さな妹がいて、とてもおしゃまな女の子でした。

 幼い頃、彼は初めて作った不格好な人形を、妹が欲しいと言って泣くので、あげたのでした。

 そのお人形は不格好でお世辞にもかわいいとは言えませんでしたが、彼にとってはとても大切な、思い入れのある人形でした。

 妹は彼が新しい人形を作るたび、それをほしがりました。彼は妹を可愛がってもいましたし、また自分の作った人形を褒めてもらえることが嬉しくて、その度彼女にあげていました。けれど飽きっぽい妹は新しい人形をほしがるばかりで、古い人形をちっとも大事にしてくれないのです。少年がそのことに気づいたのは、少し後になってからでした。少年は妹に古い人形を大事にして欲しくて、やがて妹のほしがらなさそうな男の子の人形を作るようになりました。

 完成した人形を見て、妹の言った言葉が忘れられません。

 ――可愛くない人形なんて、誰も欲しがらないわ。そんなの作って、お兄ちゃんったら馬鹿みたい。

 少年は深く傷つきました。少年はその人形をよく出来ていると思っていたからです。少年は男の子の人形を作り続けました。たくさん工夫して、作り続けました。やがて妹はおしゃれに目覚めて、人形遊びなんてしなくなりました。男の子の人形を作り続ける兄を見て、妹は言いました。

 ――そんなのばっかり作って、気持ち悪い。

 少年はどうしようもなく傷つきました。僕の作った人形を返してと言うと、
 ――嫌よ、だってあれは気に入ってるんだもの。ああ、でも、一番最初にもらったお人形、あれ気持ち悪いからいらない。返すわ。
 そう、妹は言ったのでした。

 帰ってきた最初の人形を見て、少年は泣きました。

 それは確かに不格好で、不細工で、可愛くない人形でした。美しい人形を作り続けた少年もまた、最初の人形を、気持ち悪いと思ってしまったのでした。けれど、それは少年にとって初めての、大事な大切な人形だったのです。

 初めて作った、初めて褒めてもらえた、初めて欲しいと言ってもらえた、人形だったのです。



     ***



 広い広いお屋敷で、小さな女の子が年の離れたお姉さんとかくれんぼをしていました。
 女の子は暗くて埃めいた部屋に紛れ込んでしまいました。滑って尻餅をついたとき、何かをおしりの下にしいてしまいました。

 女の子は不思議に思ってそれをまさぐります。小さな指が掴んだのは、埃をかぶった二つの人形でした。一つは子供が作ったみたいに不格好で、目が離れていて、口は少し割れていました。そしてその目と口が、糸で開かないように縫い付けられていました。なんだか可哀想に思えて、女の子は歯を器用に使って糸を千切り、外してあげました。もともと脆くなっていた糸は、簡単に解けてくれました。もう一つは可愛らしい男の子の人形でした。青い目が、少しだけ変色して赤くなっています。頬にも赤いしみがついています。

「おじいちゃあん」

 女の子は、ぱたぱたとかけて彼女の優しいおじいさんの膝に乗りました。

「このお人形さん、だれの?」

 女の子のお姉さんが声を頼りに戻ってきて、顔をしかめます。

「こら! おじいちゃんがきついでしょ! あんた意外と重たいんだからおりなさい!」

「かまわないよ」

 おじいさんは目を細めて笑いました。そうして妹の方を撫でながら、懐かしむように深く息を吐きます。

 姉妹はおじいさんが少年だった頃の話に耳を傾けました。

 おじいさんが話し終えると、妹は目をキラキラと輝かせました。

「すごぉい! すごぉい! おじいちゃん、お人形さん作れるの? すごぉい!」

「もう、昔の話だよ。この子を最後に作らなくなってしまって、もう作り方は忘れてしまった」

 そう言って、おじいさんは節くれだった指で愛おしむように男の子の人形に触れました。

「セシリー、どうしたね」

 おじいさんは傍らでくすんくすんと泣き出した、今年十六歳になる姉の方を不思議そうに見つめました。

「おじいちゃん、私に、そのお人形ちょうだい。大事にする。きっと大事にするね」

「グレーテもだいじにするー!」

 姉がくすんくすんと泣く側で、妹がはしゃいだように言います。

 おじいさんは僅かに驚いたように目を見開き、やがて鼻を赤くして、か細い声で言ったのでした。

「ありがとう」




【ポメグラネイト】


 繰り返す。繰り返している。

 わたしたちは、繰り返し続ける。

 眠りつづけるわたしと、眠ることができない君が、

 ただ会いたくて、手を繋ぎたくて、笑いあいたくて、

 何度でも繰り返して、やり直すのだ。

 幸せの答えなんて、わからないまま。



End.

ショートショート

ショートショート

【完結済】 5年前ほどに書いたものに手を加えただけのSS集です。 第一話『小梅メランコリア』(しょっぱい恋のお話) 第二話『金木犀』 第三話『キミは風のように、あなたは太陽のように』(青春もの) 第四話『メロウの翠』(ホラー風味) 第五話『ポメグラネイト』(ファンタジー風味)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1.小梅メランコリ
  2. 2.金木犀
  3. 3.キミは風のように、あなたは太陽のように
  4. 4.メロウの翠
  5. 5.ポメグラネイト