死の医者

死の医者

 大きな聴診器をぶら下げた医者が歩いている。かなり大きな聴診器だ。むしろ聴診器が歩いているとさえ言える。一体全体、彼は何者だろう?もちろん医者といったから、きっとそうであるのだろうけど・・・・・・。街中はとても騒がしい。デモ、暴動、テロ、全てが混ざり合ってとけあっている。温かいスープでなければ、寒さをしのげないように、街は熱くなり、今にも燃え上がりそうだ。医者は人々の中を何事もなかったかのように通り抜けていく。誰も彼を止めはしない。聴診器を持っているからだろうか?それとも、外にいる人々は外の世界を求めているはずなのに、外の人間には興味がないからだろうか?全ての夜が終わろうとしている。灼熱の太陽が一つの偶像となり、政治を動かす時代が来たのだ。街にあふれた人々は、一転して静かな森に隠れ住む。一体、医者はどこへ?
 彼を見つけたのは森と街の中間にある古い教会だった。「ようこそ」僧服を着た老人が迎えた。医者は黙ってうなずく。それから中に入っていく。教会の中はひどく汚れていて、垢さえたまっているよう。空気の流れも、よどんでいないか?医者は口元を手でおさえる。大きな街が迫ってくるようだ。確かに教会と街は近づき、教会と森は近づいている。その事実を医者は重くみていた。
「困ったことになった。司教様に伝えてくれ。死の医者が来たと。だが、決して名前を言ってはいけない。司教が行くのが、天国だろうが、地獄だろうが、あの世に私の名前を持ちこんでほしくない。それが、私の唯一の望みだ。報酬もいらない。ただ、全てを私に任せるのだ。いいな?君」医者は、それだけ言うと廃墟のような待合室にあるホコリまみれのソファに座る。
 10分がたった。20分がたった。医者はいつの間にか腕時計が止まっているのに気づいた。「そうか。燃料切れだ」あくびをして、医者はソファに横になる。白衣が黒くなるのもかまわずに。
 目覚めると、さっきの老人が立っていた。「やあ」医者の声。「やあ」老人。低い鈍重な声だ。セラセラと笑う2人。彼らは楽しい遊びを発明したらしい。階上にむけて、走る老人。医者もまた追いかけて走る。「司教はどこだ♪司教はどこだ♪」歌声が教会に響く。まるでフーガ。「やあ」階上から1人の女が姿を見せた。医者と老人はその瞬間、頭を下げた。女の言葉には強烈な威厳があった。600万年前からはじまっていた“あの”高貴な性質である。医者は、だが、起き上がり、強靱な精神で女をにらむ。「ようようよう。あなたが、司教様というわけか。つい数年前までは男だったというのに、この変わりようは?そもそも私が男であるか?女であるか?その問いは虚しいモノだろう?だから、この問いは封印しよう。恐ろしい黄金の扉にお前の性別を閉じこめるのだ。さあさあ、そして、私の治療をうけてみるがいい」医者はそこまで言うと、女の反応を待った。女はまっすぐに医者を見ていた。そして長時間の無音の世界。いや、意識が他の音をとらえなかったのだ。強烈な沈黙。医者の注意は、女に向いていた。女は老人のほうを見た。「この者は?」「セラフィから来た医者です」「セラフィ?」女はぎゅっと顔のパーツを中央に集め渋い顔をした。「何しに来たのだ?」女は医者の顔を見ながら、老人と会話している。老人はかしこまって、女の足下にひれ伏して答える。「あなた様に用事があって来たようです」「ふむ」女の手が動いたかと思うと、医者に触れた。どこに?首だ。女はそのまま、優しく医者の首をなでた。すさまじく、強烈な冷気に医者は涙しそうになり、残った抵抗力で耐える。「生きるのが辛いのか?」女は聞いた。「その前にお前は司教なのか?そうでないのか?手紙を出したのは、男だろう?」医者の言葉に女は不思議そうに老人を見る。「おい。私はいつから、ここの司教だ?」「あなた様はこの教会の主であります」老人は頭を床にこすりつけている。「司教はどこだ?司教は!!!」医者はとうとう絶叫した。医者の世界が音を立てて崩れていく様を老人と女は、ただ目を閉じることなく、最後まで見届けた。
 そして、その夜。寝室で、医者は女と交わった。医者は目覚めたかのように、つぶやく。「私はどこにいたんだ?ここは、どこだ?ここは、初恋の人がいるのか?この温かさはなんだ?」
 女と医者が繰り返し、くっついては離れるのに老人は魅入っている。
「医者め。医者め。何故。主を求めたか。何故私ではないか?」老人の言葉を女が聞きとがめる。「嫉妬しているのか?」女に声をかけられて、老人は立ち上がったペニスを手で隠そうとする。それを見て女と医者は笑う。
「お前では、私をモノにできんよ」「お前じゃ無理だ」女と医者。
 老人は起き上がった性器を、ただいじるだけなのだ。そして、老人の涙は、花さえも育てない。むせび泣く老人という媚薬につられて、2人はますます激しく生き急ぐ。
『死ぬか?死ぬか?』誰かが思った。
 その瞬間。巨大な装置を運んできた老人。「なんだそれは?」医者が聞いた。だが、聞いた本人が一番わかっていた。あれは安楽死装置だ。人を眠るように死に送ってしまう機械。
「なんだそれは?」女が聞いた。女は良くわかっていた。誰が誰を死なせるために、この装置を持ちこんだか。結末は常に新しい。何故ならそれは未来だからだ。
 記述されうる可能性は未知である。同時に道である。
 何故ここにいついたのか。老人はもうクタクタだ。疲れ果てて、倒れこんだ。全ての元凶は、母親の死だった。女は誰の娘か。それさえ、わかっていれば、こんなにも長く苦しむことはなかったのだ。「お前は何者か??」老人はしわがれた力のない声で問う。女は目を細めて、圧倒的な言葉を放つ。「お前の娘だ」その瞬間、老人の体に神の息吹がかかった。老人は立ち上がり、装置のスイッチを押しまくった。医者は、慌てて止めに入る。どういう偶然だろうか?老人は装置を動かしてしまった。
 次の瞬間、女の頭が首から離れた。装置は造られた音声で「ヒトリカンリョウ」。そこで、医者は青くなってしまう。女は死んだのか?それとも??女の頭は、閉じていた目を開け放つ。巨大な装置はなおもブオオオオオンと叫ぶ。老人は、女の頭をもって、逃げ出す。「待て!!」医者の制止はもはや何の意味もない。老人は駆け出し、頭とともに、森のほうへ消えていく。医者は冷静になり、装置を止める。後には女の胴体が残されている。そして信じられないことに、女の体は立ち上がり、顔のない肉体のみで、医者を誘う。医者は、すべてにうんざりしていた。そして、その感情を消してしまうために、女の体と交わった。血まみれの交合だった。赤いセックスだ。そして、医者は街に帰っていく。太陽の支配する場所に。

死の医者

死の医者

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-18

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