ある日、虹の渡廊から
ある日、遠い空の上でのやりとり
ある晴れた日、空のずっと高いところには、白い雲が重なり合って、城のようにそびえている。その城のような雲と雲を結ぶ、虹の渡廊に男が立っていた。
「困ったなあ」
しきりと頭の冠に手をやりながら、イエスが困っているところに、ブッダが通りかかった。
「なにをそんなに困っているんだい」
見てくれよとイエスが指差すのは、虹の上から眺められる、地上での人びとの様子だった。
人々は、あたふたとあっちからこっちへ、またこっちからあっちへと動き回っているが、ブッダには、無秩序かつ無意味に動いているとしか思えない。
「いつもと変わらない人間たちじゃないか」
あーあ、分かってないなという気持ちをこめて、大げさに肩をすくめてみせるとイエスはいった。
「よく見てくれよ、人間たちの働きぶりをさ」
「働きぶり?」
ブッダは目を凝らしてみるが、よくわからない。
人間は人間だ。長くもない一生の間、働くにしろ遊ぶにしろ、余裕というものがない。やたらちょこまかと動き回る存在だ。その点ほかの生き物たちから頭ひとつ抜けている。
しかし、そんな中にも動きの悪いものもいる。
「あまり働かないのがいるね」
「そうなんだよ」
イエスは、わかってくれたかとばかりに口元をほころばせたかと思うと、またすぐへの字に結んだ。
「老人たちなんだけどね。働いてくれないんだ」
「でも、年を取ると無理は効かないから仕方がないよ。ぼくにも経験がある」
何か思い出した記憶でもあるのか、ブッダは振り払うように頭を振った。
「いや、無理に体を動かせというわけじゃないんだ。ITだの、インターネットだのいわれる時代だ。老人に肉体労働しろなんていわないよ」
ぼくにはよくわからないけど、というニュアンスを眉間に漂わせながらイエスは続けた。
「やる気の問題だと思うんだ。どうすれば彼らにやる気を持ってもらえるんだろう。この国を担当している僕としては、今一番悩ましい問題が、これなんだよ」
虹の渡廊から、眺められる地上は遠い。
「何か足りないものがあるのかなあ」
イエスと並んで地上を見下ろしながら、ブッダが呟いた。
「なにが。僕には、彼らのことがわかってないとでも?」
不本意だと言わんばかりに、イエスがブッダをにらみつける。あわてて、ブッダは顔の前で手をひらひらさせてみせた。
「いくらきみだって、気づかないことはあるさ」
「きみは何か足りないものに気づいたとでもいうのかい」
ぐいと身を乗り出して、イエスはブッダに詰め寄った。ブッダは、取り繕うように思いつくまま人間たちの不満を上げ始めた。
「お金がないとか」
「彼らの平均貯蓄は1,798万円だ。資産はもっとあるから、お金がないとはいえないだろ」
「それじゃあ、時間がないとか」
「平均寿命は80歳を超えてる。100年前から40年も延ばしたんだぜ。寿命を延ばすのは、もう無理じゃないか」
「食べ物や住むところに不満があるとかさ」
「食品ロスを年間800万トンも作るくらいだから、食べ物の味に不満はあるのかもしれないね。
「住むところだって、空き家が820万戸もあるのに、家を新築しようとしてるくらいだ。住宅事情に不満があるんだろうよ」
イエスは、遠くを見透かすような目で地上をながめやった。ブッダは心からイエスのことが気の毒になり始めた。
「皮肉は人間たちに言ってくれよ。きみが頑張ってきたことは認めるよ、大変だったね」
「そうなんだよ!」
ブッダを見やるイエスの目は心なしか涙目になっている。
「彼らに足りないものはないはずだ。これ以上ぼくにどうしろっていうんだ」
「モノじゃないのかなあ」
「え」
意外なことを聞いたかように、イエスは言葉を呑んだ。
「形があるものじゃなくて、形にならないものが、足りないのかもしれないよ」
「たとえば?」
「たとえば幸せとか、愛とか、希望とかさ」
「……」
「……」
ほんのわずかの間、ブッダの言葉を噛み締めるための時間が流れた。
「それだよ、きっと」
わずかのうちに、イエスの眉間から曇りが吹き払われていた。目が生き生きしてきた。
「でも」
「そう。でも、どうやって愛や希望を彼らに与えればいいんだろう。なにしろ形のないものだからね」
イエスは、また頭の冠をさすりながら、困った困ったとつぶやきはじめた。しかし、先ほどまでと違って、その姿から陰が消えていた。ブッダは、そっとその場を離れた。
数日後、ブッダが同じ場所を通りかかるとイエスがいて、呼び止められた。
「やあブッダ。先日はありがとう。きみのおかげでなんとかなりそうだよ」
先日とは打って変わった清々しい表情でイエスは話しかけてきた。
ブッダが驚いて地上を見ると、確かに先日はほとんど働いていなかった老人たちが、はつらつと働いているようにみえる。
「おめでとう、イエス。いったい彼らに何を与えたらこうなったんだい」
イエスは軽くウインクしてみせていった。
「実は、何も与えてはいないんだ」
どういうことだという顔つきのブッダにイエスは説明し始めた。
「彼らには、忘れていたことを思い出してもらっただけなんだ。よい行いを積めば、天国へ行けるって、思い出させてあげたのさ」
虹の渡廊から眺められる地上では、人間たちが老いも若きも仕事に精をだしているのがながめられた。
「それで老人たちに希望ができたんだね」
「そう。でも、ぼくもすっかり忘れていたよ。だめだなあ」
イエスは、いかにも面目ないといった様子で冠をさすった。
「仕方ないよ」
ブッダが自らにも言い聞かせるようにいった。
「ぼくたちだって、神さまってわけじゃないんだし」
ある日、虹の渡廊から