綾崎

ふと耳にした言葉によって、身体のなかに立ち込めていた霧が一瞬で一滴のしずくに凝結したような感覚を覚えた。



18歳の冬、公募推薦で既に進路先が決まったわたしは、今の家の状態が奇異なものではないかと疑い始めた。いままではただ両親の不仲というか、父の価値観の異常性を認めていただけだった。
しかしここ最近になってテレビで『モラルハラスメント』という言葉をよく聞くようになった。
そしてわたしの家の状態はまさにこれであると気づいた。テレビで言われる典型的なモラハラ夫のセリフの8割から9割は当てはまっている。
母は大学を卒業したあと、大学の事務の仕事をしていたが父との結婚を機に辞めてしまった。父は医者であったので、収入としては父一人が働いていれば家計には十分であったのだ。
資格も仕事も持っていない母は父の言いなりになるしか無かった。



わたしは長年モラハラが行われていた家で育った子供の典型的な性格になってしまっていた。母が父にめためたに何か言われて泣きていたり機嫌がよくないと、わたしは必死で戯けて悪い空気を断ち切ろうとした。その結果わたしは人付き合いをするときに、癖でついへらへらしていることが多い。それが友達にとっては八方美人のようにみえて、一時喧嘩になったこともあった。しかし、わたしにとってはその態度は自分の身を守るために必要なものだったので、いくら文句を言われようと矯正しようがないものだった。
またわたしは人付き合いや集団行動が苦手だ。慣れていない人といると居心地が悪く早く立ち去りたい気持ちになる。

よく喋り慣れた気心の知れた仲の友達も、複数で一緒の空間にいると不思議と冷や汗がでそうなほど不安になった。2人でいるときは考えずとも出てくる言葉をどこか遠くに置き忘れてしまったような感覚だ。話題が突然出てこなくなったり他人の話に相槌を打つのが億劫になる。
同時に友達にとっての自分の優先順位を気にしてしまっているのかもしれない。独占欲は大っぴらにはしないが人一倍強かった。

わたしは経済的に将来男性に頼ることがないように必死で自分を強くしようとしていた。所謂、ヒーロー願望だ。ただ堅い意志は諸刃の剣である。堅いがゆえに強いが、柔軟性がないため少しの衝撃で折れやすい。
しばしばヒステリーになった。何かテストがあると直前の数日間は今迄ずっと勉強してきたにもかかわらず不安が押し寄せた。良い点を取らなければとプレッシャーで押しつぶされそうになった。
助けてくれるような人間も身近にはいなかった。いや、正確に言うと助けを求めることが上手くできないためというのもあった。他人にやっとの思いで打ちあけたことが、簡単に流され、重く受けとめられることがなかった。わたしは何度もそれを繰り返したが、周りとの環境の差をただひしひしと思い知らされるだけであった。
おかげで周りの人間を心底信頼することは無くなった。

信用こそしても、信頼は到底不可能である。


去年の秋に、父は病気をしてから少し穏やかになったようであった。そのことはわたしと母の間でよく話題になっていた。


しかし本当にそうなのだろうか。父が変わった?
確かに父も変わったかもしれない。だが変わってしまったのは家の雰囲気、つまり母とわたしではないだろうか。
ずっと父の怒号に怯え、だんだんと逆らえなくなっていた。だから自然と家は父の都合のよい世界へと変わっていく。
もうこの家は既に父の独裁国家になっているのかもしれない。そんな疑念が渦巻き始めた。



私はこの何処にも遣りようのない気持ちを何とか落ち着けたかった。また、それと同時に自分の感覚がある種の異常性を持っているのか、否かを誰かに問いただしてみたい気持ちになった。ひとり自分の部屋のベットに横になり、様々な空想を描いた。


例えば、学校に来るカウンセラーに相談する。しかしこれは実行には到底うつせなかった。確かに学校にカウンセラーは来る。だが、これを受けるためには事前に申請が必要で、担任にまずその旨を伝えなければならなかった。学校のホームページにはカウンセラーが学校に来る日程なんて当然載っていない。つまり、相談するには担任を通すことが必須であった。カウンセラーは問題解決のプロであるからまだいいが、家族や友人に言えないことがどうして担任になんて言えるだろうか?



もう一つの思いつきは、中学校からの腐れ縁の男の子に話をきいてもらうことだった。私と彼は友人というほど仲が良いわけではないが、不思議な縁があって6年間不即不離な関係であった。私は恋や愛というものがピンとこないたちであったので、特別恋愛感情はなかったが、なんとなく彼が気にかかっていた。

私からすると、彼はひどく道徳的であった。まさに『ひどく』道徳的なのだ。たいして関わりもなく、親しくない私にさえも言われたこちら側が逆にこっぱずかしくなってしまうような、しかしそれと同時に胸をくすぐられるような温かさを持つ言葉を平然と吐く。クラスメイトや先生達が困らないようにと当番でもないのに黒板を消しにいく。愛だの恋だのばかり言っているシンガーソングライターに耽溺している。『幸せな家庭』や『美しい恋愛』のイメージに対して何の疑いもない。変に自信がなくて傷つきやすい。きっと他人の前でも平気で泣ける。まさに私とは全く逆方向を走る自己犠牲精神の塊ともいえる人間である。

そんな彼に私は自分の過去を、現在を、将来への不安をただ聞いてもらいたかった。しかしそれもまた、ただの淡い夢の話である。先述したように、私と彼はさほど仲が良いというわけでもない。道徳の教科書みたいな彼はきっと私の拙い思いつきを静かに聞いてくれるかもしれない。最後には優しい、温かい、私が無意識に望む言葉をかけてくれるかもしれない。だが、だからといってそれに甘んじる自分も許せなかったし、他人からのダイレクトな優しさにさらされるための勇気もなかった。



きっと私は強くなる。歳を重ねるごとにより自律的な人間になる。だが、それは同時に孤立へのステップアップなのだ。

ねぇ、聞いてください。わたしは狂っていますか?

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-17

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