サキの木
アイモの里の民はみな、生まれると誰もが自分の「木」を持つ。その木にきれいな花を咲かせるのが、里に生まれたものの仕事だ。春には春の、夏には夏の、秋には秋の、そして、
冬には冬の四季折々の立派な花を咲かせ、それを都へ売りに行って暮らしている。
里の中に、サキと言う、今年十六になる娘がいた。サキはたったひとりぼっちで暮らしていた。サキの親はふたりとも、すでにこの世から旅立っていた。
親を失ったサキの木には次第に、どうしたことか花が咲かなくなってしまった。
サキは、自分の木にどうして花が咲かなくなったのかわからなかった。
「このままでは、オラは里のやっかいもんだ。どうにかして、花を咲かせなければ。」
サキはそう決意すると、里の者に、どうして自分の木に花が咲かないのかを聞いてまわった。
けれど、誰ひとりとしてそのわけを知る者はいなかった。
そこでサキは、里の外にそびえ立つ『黒んぼ山』の山姥のところへ行こうと考えた。山姥は百歳をとうに超えた老婆で、それくらい長生きの者ならば、花が咲かない理由を知っているかもしれない、と、こう考えたのだ。
「なに?黒んぼ山へ行くだ?やめとけやめとけ!あそこはてっぺんに行くまでの道がえらいもんだ。おめぇの足でなんぞ行けたもんでねぇ。」
「それに、山姥は人間を喰らうって話だ。おまえなんぞ一飲みにされっちまうぞ!」
「花なんか咲かなくったって、里のみんなであんたの面倒さ見るから、気にすることねぇ。」
里の者はそう言ってサキを止めようとしたが、サキの決意は変わらなかった。
「オラ、おっかあもおっとうもいなくなって、そのうえ里のみんなと同じように花を咲かせられねぇで、このまま生きるなんて耐えらんねぇ。オラ、行くだ。」
そう言うと、みなが止めるのも聞かずにサキは、アイモの里を後にした。
黒んぼ山はいつもてっぺんが黒い雲に覆われていて、その先を見ることができなかった。
サキは心を決めると、黒んぼ山へと足を一歩踏み出した。
里の者の言うとおり、黒んぼ山の斜面は険しく、大きな砂利や葉の無い木がそこかしこから飛び出しており、一筋縄では登ることができない。
一日目の晩を大きな連なった岩の影で過ごし、サキは再び、山のてっぺんを目指して上り始めた。
二日目、斜面は更に険しさを増した。てっぺんに近づくに連れ、突風が多くなる。やはり里の者の言うとおり、頂上まで登ることは不可能なのだろうか。サキの心は一時、頂上から離れた。
サキは下を振り返った。もう、地上は見えない。
「…知らない間に、ずいぶんと登ったんだなぁ…。ここまで来たら、最後まで登ってしまった方がええ。…おっとう、おっかあ、どうかオラのこと見守っててくれ。さあ、行くぞ。」
サキは、くたくたになった体に言い聞かせると、また、一歩一歩山を登った。
二日目の晩は、枯葉を集めて、木の下で眠った。
さて、三日目の朝を迎えた。サキはもう、一歩を踏み出すのもやっとなくらい疲れ果てていた。てっぺんに近づけば近づくほど、風が激しく吹き荒れた。
…このまま、山姥に会えないまま死んでしまうかもしれない…。
サキの心に、そんな想いが浮かんだ。そしていよいよ、サキは足を一歩も踏み出すことが出来なくなって、その場にパタリと倒れてしまった。
…おっかあ、おっとう、オラもそっちに行きてぇ…。毎日、会いたくてしかたねぇだ。
このまま、そっちに行ってもええだろうか…。
父と母を想い、サキは次第に気を失って行った。
「…ほう、久々に人間の臭いがすると思うたら、女子(おなご)か。」
その声は人のそれにしては随分と低く、ゆっくりと静かに辺りに響いた。
気を失ったサキの前に現れた山姥は、百をとうに超えたとは思えぬほど背筋をしゃんとしていた。白い着物に身を包んでおり、長く綺麗な白髪(しろかみ)を靡かせ、そばに白い犬を連れていた。
山姥がスッと右手を犬の上に出すと、白い犬はそれに応えるかのように、気を失って冷たくなったサキをひょいと拾い上げ、自分の背中に乗せた。
突風が吹き荒れる中、サキを連れた山姥と白い犬はその場をゆっくりと後にし、やがて見えなくなった。
いちばん最初に飛び込んで来たのは、見慣れぬ天井であった。
山姥に拾われ、しばらく眠り込んでいたサキは、今やっと目を覚ましたところであった。
「…ここは…どこだ…。オラはいったい…。」
ゆっくりと寝床から起き上がったサキのすぐそばに、真っ白な綺麗な犬が静かに座っている。
「…おまえは…、綺麗な犬だなあ。おまえがオラを助けてくれたのか…?」
サキが白い犬を優しく撫でていると、戸が開いた。
「目が覚めたか。」
「…おまえさまは、山姥だな…。」
その老婆が山姥だと、サキには一目でわかった。
「オラ、もう会えないかと思った。」
「おまえは、アイモの里の民だな。」
「オラのこと、わかるのか?」
「においでわかる。おまえみたいな小娘が命を賭してここまで来ようとは、まさかオレに喰われに来たわけでもあるまい。」
「おまえさまは、人を喰らうのか?」
「ふ、そう言う者もおる。」
「オラ、死ぬのは怖くねぇ。里で、オラの木だけ花が咲かなくなった。おまえさまに会えば、
どうしてオラの木だけ花が咲かないのかわかると思ってここへ来た。このままだとオラは里の厄介もんだ。…誰にも必要とされねぇ。このまま花を咲かすことができねぇならいっそのこと、
おっとうとおっかあのところに行ってしまいてぇ。」
サキは涙ながらに自分の心の内を、山姥に訴えた。両親が死んで、ずっとひとりぼっちで
寂しくて悲しくて、辛い毎日を送っていたことを。
山姥はサキの話をただ黙ってじっと聞いていた。サキがすべて話終えて少しすると、山姥
はゆっくりと口を開いた。
「たしかにオレは、お前の木に花が咲かないわけを知っているが、それを教えたところで
オレになんの得がある。オレは善人でもなんでもねぇから、お前が勝手に死んでも何とも思わねぇ。」
「じゃあ、なんでオラをここへ連れて来たんだ?」
「喰ろうてやるためだ。おまえにうんと役に立ってもらってからな。ここから東にずっと行くと、泉がある。その水を、かめいっぱいに汲んで来い。」
山姥はそう言うと、部屋の隅に置いてあった大きなかめを指さした。
「“白夜”を供に連れて行け。賢い犬だ、おまえの思うとおりに動く。」
山姥にそう言い付けられたサキは、白い犬の白夜を連れ、東にある泉へと向かった。
黒んぼ山のてっぺんは下から見るのと違って黒い雲が晴れており、固い大地に太陽がさんさんと照りつけていた。
「黒んぼ山のてっぺんがこんなに明るいとは知らなかった。来てみないとわかんねぇもんだな。」
白夜を連れたサキは、照りつける太陽を浴びながらそのままずっと東へと歩いて行った。
しばらくすると、山姥の言った泉が見えて来た。
「…やっと見えた…、あれだな。」
サキは泉の前に来ると、白夜からかめを下ろした。
「ありがとう白夜。おまえはほんとうに、きれいで賢い犬だな。」
サキは白夜を優しく撫でると、かめいっぱいに水を入れ、再び白夜の背中にくくりつけ、元来た道を戻った。
山姥の家に向け歩いていたサキは、しばらくして、あっと声を上げた。
「かめん中に水が入ってねぇ。」
さきほど確かにかめの中に入れたはずの水が、きれいさっぱりなくなっていたのだ。
「…こぼれたわけでもなさそうだし…、おかしいな…。もういちど汲んで来るか。」
そう言ってサキは白夜と共にまた泉に水を汲みに戻った。
そしてさきほどのようにかめに水をたっぷり入れると、また来た道を戻って進んだ。そしてしばらく進むと、またしてもかめの中の水はいつの間にか空になっている。
「あれぇ、今度も空になってる。おかしいな。これじゃあ水を持って帰れねぇだ。困ったな、どうしよう。」
サキは再び白夜を連れて泉に戻った。
「…どうせまた汲んでも空になっちまうんだろうなぁ…。」
サキは泉の前に屈むと、泉の中をのぞき込んだ。何も変わったところもない、普通の泉だ。透き通ったその水は、サキの姿をそっくりそのまま映していた。この時サキは、えらく久しぶりに自分の姿を見た。
「…オラ、こんなにも痩せてたんだな…。」
両親を失ってから悲しみのどん底にいたサキは、みるみるうちに痩せ衰えて行った。
紅色だった頬も今ではすっかりこけてしまい、見る影もない。
サキは泉の中にいる自分を、しばらくずっと眺めていた。
泉に映るサキは、悲しそうにじっとこちらを見つめているように見えた。
その瞳が潤むわけは両親を失った悲しみのそれではないように思えた。
ただ、自分を見つめてほしい、と、切に願っているかのようであった。
しばらく、ただじっと自分を見つめていたサキの頬に、伝うものがあった。
「…ごめんな…。」
サキは自分でもわからずにどうしてか、そんな言葉を零した。
「…ごめんな…、…ごめんな…。」
自分でも気づかぬうちに想いがこみ上げて来て、サキは泉に映った自分に、ひたすらあやまった。サキの隣でただじっと佇んでいた白夜が、サキにやさしく語りかけるように、舌でサキの涙をそっと拭った。白夜の温もりに、サキは久しぶりに満たされた気持ちになった。サキは白夜の肩にゆっくりと体を預けると、溢れ出る涙を覆うように、静かに目を閉じた。
それから間もなくして、サキと白夜は、山姥の家に戻った。山姥は自分の吐息で、黒んぼ山に
かかる黒い雲を作っているところだった。サキと白夜に気づくと、山姥は顔を上げた。
「帰ったか。さあ、水をこっちに寄こせ。」
山姥にそう言われたサキは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「山姥さん、すまねぇ。泉の水は汲んでこれなかった。オラが汲んでも、なぜだかかめが空っぽになっちまうんだ。」
サキがそう言ったが、山姥は、薄笑いを浮かべるとかめを指して言った。
「なにを言うとる。水ならかめに、溢れんばかりに入っているではないか。さあ、早う寄こせ。」
山姥にそう言われ、サキはえっ、となってかめを見た。するとそこには山姥の言うとおりに、
キラキラと輝く水が溢れんばかりに入っていたのだ。
「…どう言うことだ…。オラ…。」
「サキ。」
戸惑うサキの名を山姥が呼んだ。
「おまえの木には、もう花が咲く。」
「…えっ、どうしてだ?」
「花が咲くのも、かめに水が満ちるのも、同じ道理だ。おまえはやっと自分を見ることができた。愛を欲している自分に気づくことができた。おまえの木に花を咲かせることができるのは、
おまえ自身の“愛”だけだ。」
「オラ自身の…愛…。」
「そうだ。自分に目を向けずに、過去やまわりのことばかり気にするようになると、とたんに花は咲かなくなってしまう。親が注いでくれた愛が途絶えてしまったなら、今度は自分で愛を注がなければならん。草木や自然のものは、そうして育つ。失ったものより、今あるものに目を向けよ。今を生きよ。おまえはさっき、泉に映った自分の声が、聞こえたのだろう。」
ゆっくりと話す山姥を目の前に、サキの目には、大粒の涙が溢れていた。
「…オラ、随分とオラにかわいそうなことをしていたんだなぁ…。すまなかったなぁ…。ここに来なければ気づかなかった。これからはオラ、鏡見るたび思い出すだ。ちゃんと…、オラの声聞くだ。」
サキを見つめていた山姥の顔が、少し和らいだかのように見えた。
「白夜におまえを里まで送らせよう。ここに来たことは他言してはならん。もし話せば、おまえと里の民の記憶はみな消える。」
山姥に言われると、サキは深くうなづいた。
「山姥さん、ほんとうにありがとう。」
サキは山姥にお礼を告げると、白夜の背中に跨った。
突風吹き付ける中、白夜は颯爽と黒んぼ山を下った。
温かい白夜の背中に抱き着きながら、サキは、黒んぼ山の白いやさしい山姥のことを一生忘れずに、誰にも言うまいと誓った。
やがてサキが里に近づくと、今まで見たこともないくらいの美しい花を咲かせた木が、サキの目の中に飛び込んできた。
おしまい
サキの木