転寝
ある冬の事である。
マンションの一室のベッドの上で、男が目を覚ました。彼の手元には、眠りに落ちるまでは握られていたであろうスマートフォンが、黒い画面をたたえて転がっていた。
寝ぼけ眼でふと窓の外に視線を向けると、すっかり暗いようである。
何で眠ってしまったのだったかと、ぼんやりと考えながらスマートフォンのスリープを解除すると、そこには読みかけの物語があった。画面右上に表示された時刻は午前2時を回ったところであった。
彼は本に限らず、文章を読むことが好きで、色んな文章を選り好みなく読む。
普段から超大作を読んだりもするのだが、今回のはなかなかに終わりの見えない歯ごたえのある物語で、珍しく疲れてしまったのか、どうやら途中で意識を手放してしまったらしい。もうどこまで読んだのか、内容を途中までしか覚えていない。
ベッドの縁に腰掛け、大きくあくびをすると、彼は無性に珈琲を飲んで落ち着きたい気分になった。スマートフォンをベッドに置き、立ち上がろうと足に力を入れると、床が少し鳴った。
何だか軽い筋肉痛になっているようで、歩く動作のなかでも太腿の前の方が軽く痛んだ。彼は冷蔵庫の前まで歩いてくると、少し屈んで中を確認した。そして、珈琲のストックが無いのを見受けると、わざわざ出掛けなくては珈琲が飲めないという事実に、げんなりと舌打ちをした。
彼の家から最寄りのコンビニまでは、歩いて5分くらいだが、たどり着く迄には坂を下る必要があり、それはすなわち帰るためにその坂を上らなければならないという事だ。しかもその坂というのは、近所では心臓破りと呼ばれる坂で、勾配がやや急な上に長いのだ。
それでもどうしても珈琲が飲みたくて、しぶしぶ仕度をして外に出ようとすると、玄関にチェーンがかかっていたことに気付いた。
普段は帰ってきてチェーンをかけたりはしないのだが、そういえば何でかけたのだったか……。まあ、かけた時はきっと何か思うことでもあったのかもしれないと思うことにしてチェーンを外し、少し重いドアを開けると、凍てついた空気がキンと彼の肌を刺す。
たまらず彼は一旦住みかに引っ込み、玄関の近くに放ってあったマフラーを首に巻き付け、再び凍える宵闇に飛び込んだ。
角を一つ曲がって坂を降りようとすると、正面の寒空には僅かにかけた月が、小さく輝いていた。
彼は何となく首を傾げた。
濃紺色の布を張ったような空に、点々と光が漏れる針穴の星と、その中に嘘みたいに白く輝く月。
今目の前に広がるそんな冬の空を、どこかで見たことがあるような気がしたのだった。
小さい頃に冬休みを使って家族と行った旅行先だったか、高校の卒業旅行で行った観光地だったか、どうにも思い出せない。
あれかこれかと頭を悩ませながら坂を降り切って一つ目の角を曲がり、少し大きな通りに出た。
いつもなら車や人がある程度いる通りなのだが、今日は少し前方を歩く人と、違法駐車の3tトラックの他にそれらの気配はなかった。
この時間なら無理もないかとぼんやり考え歩き続けていると、彼は妙なことに気がついた。
前方を歩く女性らしき人の後ろ姿が、なんだか知ってる人に似ている気がしたのだ。肩より下くらいまで伸びた黒い髪、少し筋が強張った白っぽい首筋。右の爪先だけ地面を擦る特徴的な歩き方が、街灯を受けて落とした影が伸びてはアスファルトに溶ける。
彼は少し早足で歩いて追い越そうと思った。そして追い抜くついでに顔を見て誰なのか確かめようと思った。
彼は歩みを速めた。
しかし、この時間にあの女性は何をしに歩いてるのだろう。ちょいとコンビニまでとは思えない緋色の長袖ワンピースを着ていて……。
そこまで考えて彼は足を止めた。彼は気づいてしまったからだ。何故真冬の刺すような夜に、彼女は薄着で出られるのか。
もう手を伸ばせば届くくらいの位置に、彼女の黒髪がある。いつの間にか彼女も歩みを止めていた。
彼は最早全て理解していた。というより、思い出していた。
何故彼は彼女の後ろ姿に見覚えがあったのか。
何故彼は濃紺色の空に浮かぶ白い月にデジャヴを覚えたのか。
何故彼はドアチェーンをかけておいたのか。
何故彼の太腿は筋肉痛なのか。
何故彼は無性に珈琲が飲みたいのか。
そして、彼が転寝する前、何が起こっていたのか。
彼女の黒髪が凍てつく空気を泳ぐようにふわりと揺れて、ゆっくり振り返る。
彼の身体は立ち止まったまま、動き方を忘れ、ただ心臓と呼吸だけが乱れた。
彼女はゆっくりと男と視線を合わせた。本来彼女の目があるべき場所には、ただ吸い込まれるような黒を湛えた穴があった。
やがて彼女の口がゆっくり開いて、囁くような声が、やけにクリアに彼に届いた。
「また会ったね」
彼は気が付けば必死で走りだしていた。
全速力で来た道を戻り、太腿の痛みを堪えて坂を一気にかけのぼっていく。最早珈琲がどうとかそんなことは言っていられない。
後ろなど振り返る事はできないが、緋色のワンピースを着た何かと僅かに欠けた月が、彼の背中に視線を向けているのを感じていた。
振り切るようにもう一つ角を曲がりながら鍵を取り出して、一気に彼の自宅に駆け込み、焦りで覚束ない手をなんとか操って鍵を閉め、チェーンをかけた。
家の中は静かで、彼の荒れた息と心臓の音だけが場違いに響くように思えた。
彼は少し安心して靴を脱ぎ、マフラーを玄関の近くに放って、部屋の電気をつけた。とはいえ、こんな事があったのではひとりで夜を過ごすのは心細い。とりあえず少し心を落ち着けて、今日のところは友人宅にでも泊めてもらおうかと考えながら、ベッドの上に置いて行かれていたスマートフォンを拾ってスリープを解除する。
浮かび上がった真っ白の画面に黒い文字で書いてあったのは、そこにあるはずの読みかけの物語ではなかった。
「今度はもっと近くまで来てくれてたね」
彼は意識を手放してしまった。
ある冬の事である。
マンションの一室のベッドの上で、男が目を覚ました。
彼の手元には、眠りに落ちるまでは握られていたであろうスマートフォンが、黒い画面をたたえて転がっていた。
寝ぼけ眼でふと窓の外に視線を向けると、すっかり暗いようである。
何で眠ってしまったのだったかと、ぼんやりと考えながらスマートフォンのスリープを解除すると、そこには読みかけの物語があった。画面右上に表示された時刻は午前2時を回ったところであった。
彼は本に限らず、文章を読むことが好きで、色んな文章を選り好みなく読む。普段から超大作を読んだりもするのだが、今回のはなかなかに終わりの見えない歯ごたえのある物語で、珍しく疲れてしまったのか、どうやら途中で意識を手放してしまったらしい。
ベッドの縁に腰掛け、大きくあくびをすると、彼は無性に珈琲を飲んで落ち着きたい気分になった。
携帯電話をベッドに置き、立ち上がろうと足に力を入れると、床が少し鳴った。
置き去りにされた携帯電話の白い画面に黒い文字で綴られた物語は、このように始まっていた。
『ある冬の事である。マンションの一室のベッドの上で、男が目を覚ました』
転寝
あなたも、ほら