シューティング・ハート ~彼は誰時 (カワタレトキ)~

高見沢綾子


1.


 鷹千穂学園高等部の正門に立ち、善知鳥景甫は、敷地内に林立する校舎の群を見上げた。
 目前の中央館、その左手向こうの教室棟が4棟と、右手奥に体育館、講堂らしき流線型の屋根。どれをとっても重厚で落ち着きのある風情だ。すれ違うように校舎を後にする生徒も良家の子女らしく、粗暴な雰囲気は微塵もない。
「景甫様。こちらへ参るということがどういう意味を持っているのか、ご存知ですね」
 念を押すように、肩口から声を掛けた佐久間涼の表情は硬く険しい。
「そうだな」
 景甫は小さくつぶやいた。
 景甫を頂点とする玄幽会は、これまで、この鷹千穂とは一線を画す二校の側に近かった。そちらを伺い敬意を表すことで、玄幽会は二校の配下に等しく扱われる感があった。それが、景甫が鷹千穂を訪れることで、一転反旗をひるがえす形になる。
 もっとも、景甫は二校を裏切るとういう感覚は持っていない。二校に対する礼儀は、前玄武帝までが培った遺物に等しい。景甫自身が二校に忠誠を誓った覚えはない。
 だが、反目する態度を表す、決定的な行動であることは確かなのだ。
 そして、もう一つ。
 景甫はどうしても会いたい人物がいた。これまで遠く、すれ違うようにしていた一人の女。彼女が、ここにいる。
「今頃、渋谷は玄幽会すべてに号令を出しているだろう。その晴れやかな顔をみれば、玄幽会の皆が、何を望んでいたか分かるというものだ」
「その通りでございます、景甫様。佐久間が気弱でございました。景甫様は間違ってはおられません」
 一転、美しい容姿を光り輝かせて、佐久間は一礼した。
 景甫も、佐久間を見返し、薄っすらと微笑を浮かべる。
「そこで立ち話をしている他校生。とっとと帰らないと、警備を呼ぶぞ」
 いつの間にいたのだろう。二人の目前に立ちはだかるように、スラリとした長身の女生徒が立っていた。
 染井佳乃。この本名よりも『桜』という名で呼ばれることの多いこの女生徒は、何度か面識があった。もちろん親しいわけではない。そのことは、桜の敵意に満ちた視線を見れば一目瞭然だ。
「我が校は、他校生の訪問を厳禁とされている。早々に引き上げろ」
 そう続ける桜に、景甫は微笑を向けた。
「君、僕は君の主に用があるんだ。案内してくれないか」
「何を戯けたことを。案内をする気はない。立ち去れ」
 桜の口調は荒かった。今にも飛び掛らんばかりの勢いだ。
 景甫よりも一歩前へ出た佐久間が少し構えて桜を見たが、景甫はそれを制して、もう一度言った。おだやかに・・・。
「君は何か勘違いをしている。僕は君の主に敵対する者ではない。それはおろか、必要な者だ。案内を・・・」
「くだらない。愚かなことを」
 桜は、周囲を囲んでいる生徒たちの存在も忘れたかのように、激情のまま表情を荒げ、動こうとして、――止まった。
「何をしているのですか、こんな場所で。わきまえなさい」
 鋭い制止の声が、両者の間に割って入った。大人びた様子の美しい女生徒は、景甫から視線を外さず、桜を諌めた。
「貴女らしくありませんわね。ここで動いた後、どう説明するおつもりだったの」
 視線で周囲に立ち尽くしている生徒たちに去るよう促すと、ニコリと笑って桜を振り返った。表情は美しく穏やかだが、明らかに諭している。
「・・・申し訳ありません。万里子様」
 桜は拳を引き、一礼した。その側に、真行寺万里子に同行していた女生徒、鳥井雛子がなだめる様に寄り添う。万里子は真正面から景甫を見つめ、満面に笑顔を浮かべた。
「さぁ、どうしましょうか、玄武帝。他校生に対して、我が校はとても厳しいのですよ。このままお帰りになられたほうが良いのではなくて」
 同じ制服を着ている者の中にいても、はっきりと存在感を示すだけの容姿と雰囲気がそこにあった。威圧する感覚はないが、容易に踏み込ませない何かがある。
 景甫は、その感覚をまるで楽しむように受け止めて、控え気味に苦笑した。
「マドンナ。他校生に厳しい鷹千穂に、再三、天光寺の香取が部下を連れて来ているということは、知っているよ。彼と僕にどう違いがあるんだ」
「香取はわたくしの友人ですわ。その連れの方もね。貴方は違うでしょう。いったい貴方はどなたに御用があっていらしたの。我が校には、玄幽会と通じているような生徒はいないはずだわ」
 抑揚を抑えた口調で、万里子は景甫の答えを待った。
 どこという特徴のない平凡な容姿のこの青年が、しかし、どこか得体の知れない不可思議な雰囲気を持っていることは、こうして正面に対してみればよく分かる。その雰囲気は、誰もが持っているようなありふれたものではない。大きく、深く、そして薄暗い。だが、暗く濁った気を持つ『不破公』常磐井とも、冷たく淀んだ貴妃のものとも違う。
 万里子には覚えがあった。幼い頃、よく似た雰囲気の少女をただ見つめることしか出来なかった自分がいたことを・・・。
 景甫は、少し考えるようにうつむいた後、肩をすくめて苦笑した。
「マドンナ。玄幽会をこの鷹千穂に持ち込もうと思ってはいないよ。ただ、僕は僕に通じている人に会いに来たのだ。会わなければならないから」
「それでは、答えになっていませんわね」
「どう言えばわかってもらえるだろうか、マドンナ。いずれ、彼女には僕が必要になる時が来るだろう。僕が今、彼女を必要としているように・・・ね」
「あの方に、何をさせるおつもりなの」
 万里子はあからさまに表情を変え、睨むように景甫を見た。
 景甫の後ろで、佐久間が顔を曇らせる。
 桜は景色ばんだが、雛鳥に腕を取られ、それ以上には動かない。
 景甫は小さく首を振った。
「何も・・・。何もさせる気はないよ、マドンナ。ただ、会わなければならないから来たのだ。ただ、それだけなのだよ」
「それだけで済みますの。貴方が動くことが、貴妃や常磐井に対してどう意思表示をすることになるか。まして、わたくしのいる、この鷹千穂に来るという意味がどういうものか。貴方は分かっていながら、それでもあの方に会うと言うのですか」
「確かに貴女は、貴妃にも不破公にも狙われている。それほど美しければ仕方ないことだろう。だが、まだ貴妃も不破公も、マドンナの後ろに『魔女』いることには気付いていない。気付けば、すぐにでもこの鷹千穂へ襲ってくるだろう。あの二人は貴女のことを、ただ美しい無力な女性・・・としか認識していない。放っておいても害のない、自分たちにすぐさま屈服するだろうほどに、無力だと思っている。その貴女に、あの二人に匹敵する『力』があると分かれば、いかに愚かなあの二人でも黙ってはいない。だから会っておかなければならないのだよ、マドンナ」
「・・・それは、鷹千穂に、すぐさま玄幽会の傘下に入れと脅しているのですか」
「何もさせる気はないと言ったはずだよ、マドンナ。僕は僕としてここに来た。ただ、会わなければならないのだ。会えばわかる」
 低く静かな声が透き通る。
 しばらく誰も動かなかった。周りを囲んでいた一般生徒は、今はいない。
 万里子は大きく息をつくと、落胆して見せて景甫に背を向けた。
「マドンナ?」
「その様子ですと、引き合わせるまでは帰っていただけないのでしょう。わたくしがご案内いたしますわ、玄武帝。貴方一人、一緒にいらっしゃい」
 その言葉に、桜が血相を変える。
「万里子様、なりません。そんなことをして、万一何かあっては・・・」
 雛鳥の腕を振りほどいて万里子の前に立ち塞がった桜を、万里子は視線で制した。
「桜、貴女はそちらの美しい殿方から離れてはなりません。雛鳥、そちらの方を私のサロンへご案内して。もちろん、桜も同行させるのですよ。決して二人から目を離さないように」
 細身の少女は軽く返礼すると、佐久間に近づいて促した。反論しようとする桜より先に、佐久間が狼狽えた。
「しかし、玄武帝を一人にさせるわけには・・・」
 何と言ってもここは、玄幽会の領域ではない。そこで護衛もつけず景甫一人にするわけにはいかなかった。
 だが、その答えは容赦なかった。
「わたくしは、玄武帝一人を案内すると申したはず。口を挟むのであれば、お二人ともこのままお帰りなさい」
 万里子は、はっきりとした拒絶を表して、景甫の答えを待った。
 一人で従うか、このまま二人で引き下がるか。
 景甫は逆らわなかった。佐久間に視線で意を告げると、万里子に従った。
 だが、桜は収まらない。
「万里子様、何故なのですか。何故このような者を、あの方に引き合わせなければならないのですか。この男は、不破公や貴妃に通じているのですよ」
 桜はまだ納得ができないまま万里子に食い下がったが、万里子はまったく動じることなく彼女の横をすり抜けて、まっすぐ中央館へと向かった。
「何故・・・」
 二人の背を見送りながら、狂おしそうに桜は唸った。何故・・・。
 佐久間もまた案じるように、ゆっくりと遠ざかる景甫の後姿を静かに見守っていた。



「意外ですよ、マドンナ。貴女が案内に立つなど・・・」
 万里子より数歩遅れて、中央館の階段を上りながら、景甫が声をかける。
 静かな建物に声が響く。金曜の放課後。どこからか部活に励む声が聞こえるが、建物の中、とりわけこの中央館は静かだった。
「あの方はおそらく、来月の文化祭の準備に取り掛かっている頃ですわね」
 ありふれた世間話でもするように、万里子は後ろも振り返らず、笑うように言った。
「文化祭には、天光寺の香取たちもいらっしゃるでしょう。貴方もご一緒しますか、玄武帝」
 景甫は苦笑した。
「からかっているだけですか、マドンナ。僕を呼べば、玄幽会が動きますよ」
「あら、貴方は貴方として、ここに来たとおっしゃったでしょう。嘘でしたの」
 立ち止まり、あからさまに驚いて見せる万里子に、景甫は肩を震わせて笑った。
「・・・貴女にそう返されると、さすがに心が痛みます。今日の僕の行動が、僕自身では済まないと思い知らされる」
 笑いながらも、その表情は冷たく凍っていた。どうすれば良いかわからない子供のような幼い顔だ。
 万里子はその視線に一瞥をくれると、また階段を上り始めた。
「良かったこと。貴方には『心』がおありなのね。想う方の為に痛める『心』が。貴妃や常磐井のような魔物かと思ってましたわ。誰を傷つけようと、誰を犠牲にしようとまったくおかまいなしの、人の心を持たない魔物かと」
 かなり強い口調で言い切った万里子の言葉を、景甫は無言で聞いた。
 万里子の噂は玄幽会でもかなりのもので、『貴妃が嫉むほどの美しい女』として名が通っている。一目見るまでは、『魔女』の印象と重ねていた景甫も、こうして見れば見るほど、『魔女』とはかけ離れた女性だとわかる。
 晴れやかで気丈でしなやかで、陰りがない。
「玄武帝、貴方は『魔女』のことを、どれほどご存知なの」
 ふいに小さな問いがかかる。万里子は背を向けたまま歩を進めている。景甫のほうを見ないようにしているようだ。だが、声の調子には隙のない、辺りをはばかる様な緊迫感があった。
 景甫はしばし考えた。
「どれほどというのは、どういう意味ですか。マドンナ」
「出自、境遇・・・すべてですわ」
 その答えにどれほどの意味があるのだろうか。万里子は何かを願うように、背中で景甫の答えを待った。
 その答えは、意外なほど軽かった。
「知りません。そんなものに、興味はありませんよ。マドンナ、意味がない」
「・・・・・」
「貴女は笑うかもしれないが、彼女がどこの誰だろうと関係ない。ただ、会わなければならないというだけだ。それ以上の答えはない」
 ゆるぎない声が、万里子の表情を柔らかいものに変えた。
「本当に困った方なのですね、玄武帝。あの方に似ていらっしゃる」
「え・・・」
「そのように思うがまま行動して、周りを心配させるところなどは、そっくり」
 面白そうにクスクスと笑うと、万里子は軽く後ろを振り返り、ニコリと笑って景甫に言った。
「間違えないでくださいね、玄武帝。私は貴方が、あの方に近づくのを認めた訳ではないのですよ。あの方の側にいるべき人は、もっと別の方だと思っているのです。でも・・・確かに、貴方にはあの方が必要かもしれませんわね」


「何故、こんなことになるの・・・。ただでさえ、常に危険と隣り合わせのあの方に、これ以上不幸を押し付ける必要があると言うのですか。こんなことをして、何の意味があるの・・・」
 万里子のサロンの窓際で、桜は窺うように主のいる遠い部屋を見つめながら、誰とはなしに不満をぶちまけていた。至極『影』らしくない桜の態度を見ながら、佐久間はソファに座り、雛鳥から受け取った紅茶に口をつけた。
 佐久間もまた、はやる心を抑えていた。
 この学内には、貴妃も不破公も手出しはできないだろう。無防備に見えて、異様に警備が堅い。常に視線を感じるが、学生のものとはまったく異質の気配が多い。景甫を敵視していないとなれば、何の心配もないだろう。しかし・・・。
「貴方は玄幽会の宰相でしょう。玄武帝に意見ができる立場にありながら、何故あの男を放っておくの。今、貴妃と不破公はどちらも勢力を拡大しようと蠢いているのよ。そんな時に、玄武帝が『マドンナ』の在籍するこの鷹千穂に訪れるということが、何を意味するか、もう少し考えたらどうなの」
 突然、桜の矛先が佐久間に向いた。襲い掛からんばかりの勢いだ。
 見かねた雛鳥が桜の腕を取り、なだめた。
「いけませんわ。万里子さまが招いた方です。失礼があってはなりません」
 しかし、今度は雛鳥に食ってかかる。
「雛鳥様はなぜ、そうも平然とされているのですか。マドンナの身にもしものことがあったらとは考えないのですか。貴妃や不破公がこれを理由に襲ってくるかもしれない。玄武帝が、玄幽会が何かを仕掛けてくるのかもしれないのですよ」
 桜のあまりの激しさに、言葉に詰まってしまった雛鳥にかわり、佐久間が口を挟んだ。
「玄幽会が、鷹千穂を脅かすことなどありません。玄武帝はただ、君の主に会うだけです。心配は無用・・・」
 だが、矛先が佐久間に変わっただけだ。桜はおさまらない。
「無用というなら、貴方の主の想いこそ無用でしょう。勝手に夢を見て、わざわざこんなところまで来るなんて、愚かだわ」
 佐久間は黙って、静かに桜を見つめた。どれほどの想いで、この『影』は彼の女性の側にいるのだろう。
 ただ、『仕えている』という様子ではない。雛鳥のほうが、よほどひっそりと控えめで『影』らしい。しかし、そんな雛鳥が、万里子はおろか、彼の女性にとっても大切なものであることは、以前の事件ではっきりと知っている。雛鳥ともう一人、鷹千穂の女生徒を助ける為に、万里子と彼の女性がどれほどの手を尽くしたのか。桜があくまでも『影』として、どう動いていたか、佐久間は知っていた。
 そんな桜が見せる感情を、佐久間は半ば茫然として見つめていた。
「桜・・・、そんなに愚かなことなのでしょうか」
 ふいに、雛鳥が小さく問うた。
「届かぬ想いを・・・、理解されぬ想いを抱くことは、そんなに愚かなことなのでしょうか」
 まったく別の青年を思い浮かべながら、雛鳥は呟いた。
 桜が景甫にぶつける感情を真正面に受け止めて、雛鳥は自分の胸の奥深くに燻る、断ち切れない想いのことを憂いた。どれほど想おうと、どれほど追いかけようと、届かない。この苦しい想いを切り捨てることができればと思うほど、捨てきれない自分にさいなまれる。
 桜がやりきれない表情で、顔を背けた。
「私には理解できません。雛鳥様の想いも、万里子様のお考えも・・・」
 それだけ呟くと、桜は黙って窓の外を見つめた。雛鳥もまた、言葉にしたことを後悔するかのように押し黙り、佐久間の前の椅子に沈んだ。
 そんな二人を見守るように、広い部屋の一角に端然と座りながら、佐久間は景甫の身を案じていた。


 万里子と一緒に生徒会長室へ入って来た景甫を見て、綾はしばらく絶句のまま立ち尽くしていた。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょう。校内を見学したいという方をお連れしましたわ」
 万里子は有無を言わさない口調で、景甫を部屋へうながした。
「どういうつもりだ。万里子。校内は他校生厳禁――」
「あら、綾。香取が何人配下のものを連れて来ようと、そのような意地悪はおっしゃらないでしょう。この方が、校内を見学なさりたいとおっしゃるの。生徒会長の貴女がご案内するほうがよろしいと思ったのです。では、頼みましたわ、綾。終わったら、わたくしの所までお連れしてくださいね」
 綾の反論など聞く気もないようで、それだけ言うと、万里子は景甫に目もくれず、部屋を出て行ってしまった。
「何を考えているんだ、まったく・・・」
 幼い時から知っているが、時折理解できなくなるときがある。
 ・・・自分もか・・・。
 やっと出た言葉を呟いて視線をあげると、いつの間にか目前に景甫の襟元があった。
 額に声がかかる。
「こうして会える日を、どれほど待っていたか。『魔女』・・・いや、何と呼べばいいのだろうか、我が半身よ」
「いつの間に・・・」
 綾は、ただ呆然と景甫を見上げた。
 かつて、これほどまでに無防備に人を近づけたことはない。退くことさえ忘れて、ただ端正な顔を見上げた。少し色の白い頬と薄い唇が、窓から差す黄昏時の陽光に浮かんで、陰りを増す。
 まるで無反応な綾を見下ろし、景甫のほうが恥じるように、ツイッと離れて窓辺による。
「やっと会えた。・・・ただ、ずっと君を探していたよ。いつか必ず会えると分かっていても、早く会っておきたかった」
「別に用はない。会う必要などどこにもないだろう、玄武帝。関わりないことだ。早々に帰ってくれないか」
 綾は、机の上を片付け始めた。
「万里子の気まぐれに付き合う気はない。お前をもてなす気もない。大体何故、そこまで私に固執しているんだ、玄武帝。私はお前や貴妃や不破公が、どこで何をしようとかまわない」
「だが、いつだったか、玄幽会の支部に殴りこんだのは、一般生徒の所業とは思えないよ。先日の聖蘭とのバスケの練習試合も、鷹千穂勝利で結果を出した。君の持っている力を貴妃や不破公が知れば、あきらかに彼らの脅威になる」
「知られなければよいだけだろう。第一、あやつらに対する為に持っているものではない。まして、お前のことなど考えたこともない」
「・・・では、やはり僕が必要になるだろうね」
 満足そうな笑みを浮かべて、景甫は綾を見た。当然至極という口調の低い声に、綾は流し目をくれる。
「どうしてそうなる。必要ないと言っている」
「いや・・・、必要になる」
「しつこいな、玄武帝。必要ないと言っている。何を根拠にそんな戯言が言えるんだ」
 苛立ちを隠さない口調で続ける綾に、景甫の笑みは苦笑に変わり、何かを持て余すように左手で顔を隠して肩をすくめた。
「確かに、我ながら笑ってしまうよ」
 実際、笑うしかないのだろう。
「だが、そう思わずにはいられないのだ。こうして君を間近にすればよくわかる。僕たちは、お互い必要なのだ」
 綾は、肩越しに掛かる視線と言葉を、背を覆う真っすぐな栗色の髪で拒絶するように背を向け、部屋の窓の戸締りをした。
「私は、必要としていない。勝手に一緒にするな」
「本当に?」
「言っている意味がわからない。そんなにしつこくて、煩わしいとは思わないのか」
 最後の窓を閉め、爆発寸前の静けさがある低い声で言い切る綾に、景甫は真顔でゆっくりと近づいた。
「本当に、君にはわからないのだろうか」
 悪びれもせず手を差し伸べてくる景甫の手の平から、淡い光が炎のように立ち昇っているのが見える。冴え冴えとした月の光を燃え立つようなその炎が、綾の中の何かに引かれているのがわかった。
 ・・・だが、その感覚に浸るつもりはない。
 景甫から離れて視線を逸らし、さっさと扉に向かいながら、綾は軽く咳払いをして、促した。
「では、行こうか。玄武帝」
「? どこへ行く」
 不意を衝かれたように戸惑う景甫を一瞥して、綾は不満そうに答えた。
「校内を案内しろと、万里子が言っていた。さっさと回って、万里子の所へ連れて行く」
「伝説の『魔女』は意外に生真面目なのだな」
 楽しそうに従う景甫に、綾は屹然と言い返す。
「鷹沢だ、玄武帝。鷹沢綾。『魔女』ではない」
「わかった。アヤ、だな」
「違う。タカザワだ」
 それ以外の呼び方を許さない口調の綾だったが、景甫は一層目を細めた。
「僕のことは景甫と呼べばいい。善知鳥景甫だ、綾」
 なおも『タカザワ』を強調しようとして、綾はやめた。際限がない。
「まったく・・・、勝手にしろ」
 言い捨てて扉を勢いよく開けると、廊下で大きな声があがり、扉が障害に当たる。
 綾が、怪訝な顔で扉の外に視線を移して見上げると、大柄な背広の男が立っていた。
「ごあいさつだね、したたか顔を打ったよ」
 実際顔を打ったのだろう。鼻の頭が少し赤い。
「本部長、いつからいらしたのです」
 顔を撫でる巨体を振り仰いで、綾が訝しげに眉をひそめた。部屋へ近づいた気配が感じられなかったのだ。
 容赦ない視線を流しながら、少し背中を反らせるようにして立ち、目を細めて本多県警本部長が笑う。
「士音の所でお茶を飲んでいたのだが、ふと君に用を思い出してね。呼びに来たところだったのだが、・・・忙しいかな」
 綾の後方で成り行きを見ている景甫に軽く会釈して、本多はしばし二人を見比べた。
「叔父上、お茶のついでの用件なら、もうしばらく待っていただいてもかまわないでしょう。父の所にいてください。後ほど伺います」
 本多の視線を遮るようにその脇をすり抜けると、綾はもう一度景甫を促した。
「あの御仁の用件より、僕を選んで良かったのかい」
 先を急ぐ綾を追うように歩きながら、声の届かない場所で景甫は訊いた。表情は晴れやかだ。
 反面、綾は仏頂面で先を急ぐ。
「父の顔を見るついでに、私の所へ来られただけだ。急用ではない。・・・第一、用があるのかどうかも怪しい。コイツの顔を見に来られただけのような気もする」
 最後はブツブツと呟くようだ。気配を消していた本多の表情が、気に入らない。
「とにかく、お前を選んだ訳ではない。誤解するな」
 念を押すように言い切って、綾は歩を緩めない。それに難無く従いながら、景甫は問う。
「先程、あの御仁を『本部長』と呼んでいたが」
 威風堂々とした立ち居振る舞いに、品の良い背広姿。おおらかな雰囲気もあるが、どこかおいそれと踏み込ませない隙のなさがあった。単なるどこかの会社員とは思えない。
「あの人は、県警本部長。警察関係者だ」
「なるほど、では、この学園の危機管理は完璧ということだね」
「学園とは関係ない。単なる父の友人だ」
 綾の仏頂面は、まだ続いている。
 おそらく、今頃理事長室で、その部屋の主に何か報告しているだろう。何か・・・は、わかったものではない。
 綾に遅れないように歩きながら、景甫が呟く。
「君の父上が、この学園の関係者だったとは知らなかった」
「えっ」
 景甫の言葉に、綾は立ち止まって振り返った。急に反転されて、景甫も立ち止まり目を見張る。
「僕は、何か、可笑しなことでも言ったかね」
「・・・知らないのか、玄武帝」
「何を」
「私の父のことを・・・」
 その問いに、景甫は綾の顔を見つめた。ただ真っすぐに見つめて、答えた。
「マドンナにも訊かれたが、知らないと答えた。あえて訊こうとは思わないよ。君が何者であろうと、誰の娘であろうと、僕の半身に変わりはない。それに、出自に関しては、僕自身はっきりとしないのだ。血縁者というものが皆無なものでね。僕の持っているものといえば、僕自身と君への想いだけだ」
「・・・・・・・」
「少しは僕に、興味を持ってくれたようだね」
 無言の表情の中の微かな感情を見つけ、景甫が囁くように伝える。満面の笑顔で心の中を見透かされ、綾はまた先を急ぐように背を向けた。
「私の父はこの学園の理事長だ。あまりに多忙で話をすることはあまりない。だから本多の叔父上が来た時は、色々と口実を作って理事長室へ呼ばれる。それだけだ」
 中庭まで出て来た二人が上を見上げると、理事長室のある廊下、本多の隣に一人の紳士が立ち、綾と景甫を見つめていた。微かに微笑を浮かべている。本多とは対照的に細身で柔らかく、端正な顔立ちをしていた。
「君はどうやら、父上似のようだ」
 景甫はポツリと呟いて、まっすぐ鷹沢士音を見返した。



 今泉藤也は、第一教室棟の三階にあるクラスの窓辺に陣取り、望遠レンズを磨いていた。
 かなり性能のいいもので、遠い米粒ほどの人間の表情まで写すことができる。黒光りするそのフォルムを神妙な顔で眺めていた藤也の視線が、驚いたように見開かれ、窓の外を捉えた。
「マジで・・・」
 レトロな呟きを漏らし、素早く手にした望遠レンズをセットすると、数枚シャッターを切った。
「今泉、くだらない写真は撮るな。カメラごと没収するぞ」
 音に気付いて見上げた綾が、眉間に皺を寄せて上を見上げる。
 景甫も気付いていたようだが、綾のようには怒っていないようだ。楽しそうに綾と藤也を見比べていた。
 藤也は、綾の怒った顔などおかまいなしで、ニヤリと笑う。
「意外な組み合わせだな。知らないヤツが見たら、腰抜かすぞ」
「好きで歩いている訳じゃない。今泉、暇ならお前が代わってくれないか」
「嫌だね。ウマに蹴られる趣味はないんだ」
「どうして、馬に蹴られるんだ」
 言っている意味が判らず怪訝な顔で見返すと、藤也の代わりに景甫が、綾を窺うように耳元で囁いた。
「彼は、僕の恋路の邪魔はしないと言っているのだよ、綾。先日東都ホテルで、彼が女装姿で僕の前に現れた時に、君への想いを見透かされてね」
「・・・女装?」
 綾が眉間にシワを寄せて、止まった。
「綾、引っかかる単語を間違えてるぞ。恋路だ、コイジ。玄武帝のご乱心のほうが重要だろうが」
「私には、どちらもくだらないと思えるが・・・」
 惚けた答えに景甫は吹き出し、藤也は目くじらを立てた。
「綾。お前はもう少し潤いのある感覚を磨け。玄武帝、こんなヤツ、やめておけ。後悔するぞ。女はいくらでもいるんだ」
 窓辺から身を乗りだすようにして叫んだ藤也に、景甫が笑う。
「これくらいでなければ、物足りないというものだよ、少年。ただし、あのときの女装のキミが相手なら、僕も考えるけれどね」
「・・・やはり悪趣味だな、玄武帝。そんなことで、どこぞの怪物二人と手が切れるのか」
 最後の部分は、少し音量を下げた。
 藤也の視線は容赦なく景甫を見つめている。どんな小さな隙も見逃さない視線が問うている。貴妃と、そして不破公と、手を切ることができるのか・・・と。
 景甫は即答しなかった。綾を見、藤也を見、軽く一つ息をついた。
「相変わらず、厳しい質問をする」
「それは、あいつらと手を切ることが難しく、この鷹千穂まで危険にさらすと言っているのか。玄武帝」
 藤也は声を荒げた。綾は成り行きを見つめている。
 景甫は、少し考え込むように視線を伏せた後、吹っ切るように・・・微笑した。
「約束しよう。この鷹千穂には決して災いが降りかかることがないようにする、と。今泉・・・だったね、君が大切にしている綾も、彼女に関わるすべてのものにも、災いが降りかからぬように僕が守ろう」
 自信に満ちた答えに、歓迎の言葉が返ってくると思っていたが、一転、同時に眉をひそめた二人は、
「・・・いや、お前に守ってもらう必要はない」と、綾。
「・・・いや、綾はどうなってもいいから。放っておいてもらえるかな」と、藤也。
 二人の切り替えしの早さに、景甫が大きく声を出して笑った。
「まったく、君たちは・・・。本当に愉快だよ」


「いつまで笑っているのだ、玄武帝」
 ひとしきり藤也をからかった景甫は、綾より数歩遅れて歩きながら、肩を揺らした。
「まったく、君の周りには飽きない連中が多すぎる。貴妃が君を見れば、さぞ羨むだろう」
 いつも不愉快そうな横顔の貴妃を思い浮かべながら、景甫は笑いが止まらなかった。
 主を思うあまり逆上することを隠そうともしない影。あえて親友の嫌うことをしてはばからない女性。女と見紛うばかりの口の悪い美少年。
 そして、遠く屋外にあるバスケットコートからこちらを窺う丈高い男子生徒たち。何人かは、顔に覚えがある。
 誰もが、景甫を正面から見据えてひるまない。
「頼もしい限りだ・・・」
「・・・」
「この先、僕がどんな行動をとろうとも、君を脅かすものなど皆無だろう。たとえ脅かそうとも、君の周囲の者たちが、必ず君を守り通すだろう」
「どういう意味だ、玄武帝。何が言いたい」
 景甫の云わんとすることを図りかね、綾は怪訝な表情でその次の言葉を待った。
 微かに流れるピアノの音に引き寄せられるように歩く二人を、緑葉を茂らせた木々が見下ろしている。
 景甫は空を振り仰ぎ、薄く雲がかかる青い空を見つめた。
「綾。もうこれ以上、貴妃の欲望にも、不破公の横暴にも耐えるわけにはいかない」
「それで・・・、どうする」
「玄幽会を動かす」
「・・・まさか、ここに来たのは、奴らへの宣戦布告が目的なのか」
 綾は景甫を凝視した。脳裏には、いつか見た貴妃と不破公の姿があった。
 貴妃の話は『影』から聞いている。退屈を紛らわせる為に、手当たりしだいに陵辱していく。挙句に側にいる者たちを傷つける。どれほどの人間が泣き叫ぼうと、意に介さない冷酷な女。先の聖蘭との、バスケの練習試合での裏工作は、鷹千穂の選手が何人も傷ついた。
 不破公の話は五十嵐飛水から聞いた。何もかも飲み込もうとする貪欲さで、万里子を狙いながら、その後ろにある真行寺に害を為すことを厭わない男。目的の為には、手段は選ばない。
 景甫は、綾の視線を正面に見据えて、受け止めるように微笑した。
「君は、あの二人を見てどう思った。君がしたことは、明らかにあの二人に反目することだよ」
 練習試合の結果は、貴妃にも不破公にも泥を塗る形で終わった。
「当たり前だろう。たかがバスケの練習試合で、どれだけの人間が傷ついたと思っている。闇討ちにあって重症を負った者は、まだ入院中だ」
 気を削ぐように眼鏡を直し、綾は言葉を切った。
 卓馬の腕はまだ完治していない。日下は回復しているとは言え、まだまだ退院するには時間がかかる。そして試合終了間際に傷を負った聖蘭の選手がどうなったか、その時使われた銃がどうなったか、調べを進めれば進めるだけ腸が煮えくり返る。
 その感情を受け入れるように、景甫は一歩綾に踏み出した。
「ここへ来たのは純粋に、君に会いたかったからだ。すべてが動き出す前に、会っておきたかった」
「それがどういう意味を持つのか、考えた上でのことか」
 嫌悪さえ感じられる綾の表情を物ともせず、景甫は微笑で流した。
「一応考えてみたが、どうも君には勝てなくてね」
 その口調に辟易した様子で身を翻すと、木立の陰より女生徒が現れる。
 蛍だ。蛍は主と客人に一礼し、指示を待った。
 景甫は、見覚えのある影を一瞥すると、綾の肩越しにその表情を窺った。
 綾は、まるで長い髪で壁を作るように顔を背けた。
「玄武帝を、万里子のところへ」
 そう伝えると、蛍の傍をすり抜けるように遠ざかる。
「おや、君が送ってくれるのではなかったのかい」
 声をかける景甫の顔は、既に諦めに近い。それでも声をかけずにはいられないのだろう。だが、反面綾の表情は鬼面に近い。居心地が悪いと言わんばかりの表情だ。
「私でなくともいいだろう」
 と言い捨てる。
「もっとゆっくり話がしたかったよ、綾」
 そう続ける景甫に、一瞬立ち止まり、
「これ以上、お前の話を聞いていてどうなるんだ。結局、この鷹千穂に害が及ぶという話だろう。誰がそんな話、聞きたいものか――」
 と振り返った綾の間近に、景甫の顔があった。抗うように振り上げられた綾の手首を掴み、景甫はその耳元で囁いた。
「君を脅かすものはないだろう。それとも、それほどまでに神経質にならなければならない理由が、君にあると考えなくてはならないのかい」
 綾の動きが止まった。
 何故『魔女』が、『影』を持ち、これほどの『力』を持っているのか、景甫は知らない。それを知ろうともせず、しかし何故この男は、これほど傍近く在ろうとするのか。
 暫し綾は動くことを忘れて、間近にある青年の双眸を見つめた。
 蛍は身構えながらも動くことができなかった。妖糸を使えば綾にまで怪我をさせてしまうだろう。
 そのまま抱きすくめてしまえる距離で景甫は、眼鏡の隙間から見える瞳を見た。
「奇麗な瞳の色だ。その美しい栗色の髪と同じ色――」
 言いかけて、止めた。
 景甫が何かに気づいたように言葉を切り、我に返った綾が顔を伏せて景甫の身体を押し退けて下がった。
「綾・・・。その瞳は・・・」
「見るな」
 眼鏡で隠すように顔を背け、綾は蛍に目配せすると、さらに身を翻して景甫から離れた。
 蛍が二人の間に割って入る。
 言いかける景甫を制するように、鋭い口調が飛ぶ。
「何も考えるな、玄武帝」
 激しい拒絶が空気を揺らす。景甫は感情を抑えた表情で立ち尽くしていた。
 脅えにも似た綾の拒絶。
 間近で見た瞳の揺らめきが何であるのか、景甫は差し伸べた左手で感じ取った。
「綾、心配はいらない。僕は既に君に囚われている。ただ――その瞳は、僕以外に見せないと約束してくれ」
 狂おしい視線と静かな声が、綾の背中に届く。だが、綾はすべてを否定するように背を向けたまま、微かに蛍に指示を出す。
「お前と約束などする必要はない」
「綾」
「近づかなければ誰も気付かない。お前は、とっとと帰れ」
「綾」
 綾は二度と振り返ることなく林の向こうへ消えた。



「怒らせるつもりはなかったのだがね」
 敢えて軽い口調で呟くと、景甫は、改めて目前の影の姿を確認した。
 奇麗な顔立ちと背に届く柔らかく長い髪、細く長い指先。瞬きの間に消えてしまいそうな淡い存在感の姿が、景甫を正面に無防備を演じている。
 主の指示通り、景甫を万里子の元まで案内する為にそこにいる。
 木立をゆく風を感じる。
「君は、殺気がないね。もう一人の『影』とは、まるで違う」
「それは、私を侮っておられると解釈してもよろしいのでしょうか」
 抑揚のない口調で、蛍は視線を逸らせることなく景甫を見た。言葉には何の感情も見当たらない。
 景甫は苦笑した。
「失敬。君が君の主に忠実なのはよくわかっているつもりだよ。いつか僕に仕掛けてきた時も、君から殺気は感じなかった。ただ、目障りだったので退けさせてもらったがね。身を挺して主を庇うのはいいが、もう少し自分を大事にしなければ、守りたいものも守り通せないよ」
 あの時、景甫の歩みを止めようとその前に立ちはだかりながら、一撃で吹き飛ばされたことを、蛍は忘れていない。そして、その時に感じたこの男の異様な雰囲気も、まだ手の平に残っている。
 しかし、今はただ、主の指示に従うだけだ。
 特に表情を変えることもなく端然と立っている蛍は、景甫の言葉を聞き流し、木立の先を促した。
 一歩ずつ、ピアノの調べが大きくなっていく。
 静かな林の中を進みながら、蛍は、景甫のみに聞こえる声で話し始めた。
「貴方様のことを調べました。多くの不動産を所有するさる富豪の老夫婦の養子であり、いずれはそのすべてを受け継ぐ方だとか。すでに社交の場にも出ておられ、その人脈も着々と伸ばしておられるようですね」
 自分について語られる内容をゆっくりと噛み締めるように聞いていた景甫は、不意に聞き返す。
「僕の養父母は、とても物静かで穏やかな方でね。僕は、5歳の時に大きな屋敷に引き取られたのだよ。それで、君が調べて、5歳以前の僕のことがわかったかい」
 その問いに、蛍は答えに詰まった。
「いえ」
 何故そのようなことを問うのか疑問に思いながら景甫を見返すと、当人は屈託のない表情で笑った。
「そうかい、それは残念だ。僕自身がそれを聞きたかったよ」
 内心、残念だ。何故、今の家に引き取られたのか、理由は知らない。今まで知ろうとも思わなかった。
 物静かな老夫婦は、何不自由ない環境で景甫を育てた。血の繋がりがないことも含めて、老夫婦は色々なことを教え込んだ。ひたすらに、小さな子供を育てることを楽しみにしている、そんな夫婦だった。景甫は何の疑問も持たず、息子の役割を務めてきた。
 蛍はどうしても問い質したい件があった。先程の、主に対する様子を見ても、確認しておかなければならない事柄だ。
「お付き合いをされている女性が、複数おられますね。それはどう説明されますか」
 景甫のことを調べていくうちに、一人二人と女性の名前が出て来た。それは多くの場合、彼の受け継ぐ財産に関わる関係とも見えたが、しかし、それだけでは済まない感情が女性達の中にあるようだった。
 果たして、この男がどう考えてここまで来たのか、蛍は図りかねていた。
 女性関係に触れられて、景甫は一瞬視線を在らぬ方へ向けたが、すぐに蛍の背中に向けて問い返した。
「そのことは、重要なことかい。君の主に報告済みかい」
 気に留めるほどではないがと言わんばかりの表情を浮かべながらも、何かを探るような口調になる。
 蛍は特に感情もなく、さらりと流した。
「いいえ、ここまでお話したことはまだ何一つ、お伝えしてはおりません。我が主は、貴方様の事について、特に興味は持たれていないようでございます。お調べしたのは、『影』としての務め。今後、我が主が貴方様に興味を示されれば、知り得たすべてをご報告いたしますが、その際、多くの女人方については、どのようにお伝えすればよろしいですか」
 毅然とした姿勢が、景甫の苦笑を誘う。
「・・・美しい顔をして、意地悪な物言いだね」
「それでは、我が主もまた、その多くの女人方と同じ扱い――と、思っておいでなのですか」
「どう見る」
「複数の女人と主を同列にお考えというのは、お仕えする身としては許せません。私は影です。主の害になる者は、排除するだけです」
 蛍ははっきりと言い切ると、それ以上は語らず先を急いだ。
「では、君に排除されないように努力しよう」
 その歩調に合わせながら、景甫は少し肩をすくめて呟いた。
 万里子のサロンのある専門棟まで来ると、景甫は蛍を制止した。
 ここまで林の中を歩き、人の気配はさほど感じなかったが、この辺りまでくると、複数の話し声や人の気配が感じられる。
「君は、ここまででいい。もう行きたまえ」
 木の陰に促すように片手を挙げ、景甫は周囲を見回した。
「いえ、万里子様の元まで案内するようにとのことですので・・・」
 と蛍は返すが、景甫はちょうど通りかかった男子生徒を呼び止めながら、小さな声で蛍に言った。
「君は、彼女の『影』だろう。姿かたち、雰囲気も似せて作っている。君の仕事は彼女の傍にいることだ。僕のことはいい、彼女の元へ戻れ」
 離れ際、音にはならない「頼む」という口の動きを、蛍ははっきりと受け止めた。


 薄暗い生徒会長室に立ち尽くし、綾は片手で顔を覆い、目を閉じていた。
 収拾のつかない感情が、肩や背を這うように蠢く。歯を食いしばり、食い止めるように身体を固めるが、鎮まらない。
 ノックが3回して、スルリと一つの影が滑り込む。
「本部長殿が、催促か」
 背を向けたまま、短く問い質す綾に、暗がりで端然と立つ中津守弘が目を伏せて、理事長秘書としての役目を伝える。
「本多様は急用とのことで、お帰りになりました。穂積宗隆様がお嬢様にお会いしたいとのことで、理事長室にてお待ちです」
「――わかった。すぐに行く」
 そう言いながらも、綾は動くことができなかった。ひたすら何かを抑え付けるように、目を閉じて呼吸を鎮める。
「穂積様に、お断りをいれましょうか」
 抑揚のない口調の中津は、ただ視線を伏せたまま、女主人の答えを待った。
 綾は、ゆっくりと顔を上げると、流れるように身体を反転させ、いつもの表情を作った。
「いや、宗隆様にはお聞きしたいことがある」
 そう続けると、中津の傍まで行き、綾はふいに立ち止まった。
「大丈夫か」
 問うたのは、中津だ。
 美しい栗色の髪の流れと微かな額の重さを右肩に感じながら、中津は微動だにせず、伏せた視線に入る細い肩を見つめた。
 物音一つない薄暗い部屋で、微かに触れる。
「あぁ、・・・大丈夫だ」
 目を閉じて、自分以外の存在を感じていた綾が、おもむろに顔を上げる。
「玄武帝は?」
 その問いは、中津の後方に膝をついた蛍に向けられた。
 蛍は、敢えて視線を伏せたままだ。
「玄武帝は、万里子様の元へ。警備をつけましたので、ご心配には及びません。また、周囲に怪しい動きもないようです」
「そうか」
 中津から身体を離し、綾は眼鏡を掛けなおすと、視線を上げて扉へ向かう。
「行こう」
 まるで自分自身に言い聞かせるようにそう呟き、綾は一歩踏み出した。

シューティング・ハート ~彼は誰時 (カワタレトキ)~

シューティング・ハート ~彼は誰時 (カワタレトキ)~

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-16

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