忘れられない男

忘れられない男

物語作家七夕ハル『紙は死んだ!』

忘れられない男はあなたにいますか?

 若い頃、私の中で大きな部分を占めていた、あの男が去ってから二十年になる。今でも、あの男の夢を見る意味は何だろう?と私は、毎朝考える。時には、深夜に跳ね起きて汗を流していることも。特に記憶に焼き付いているのは、あの男の笑顔だ。確かに笑っていた。歪んだ顔で、哀れみさえ、もよおす声を上げている姿。昔は、とても若かったし、わかっていないことも多かった。けれども、あの男を初めて見た時に嫌悪したのを覚えている。それは、理由など何もない生理的な抵抗だった。その本能とも呼べる感情に、私は心地よい陶酔さえ感じたのだ。あの男は、結果的に私の中に入ってきて、大切な何かを奪っていったけれども、結局、私は、それに対して、どうやって忘れるかに終始していたのだ。大切なものは、かけがえのないものは、決して忘れることができない。だから、過去が私を苦しめる。たぶん、一度あの男と再び話しあう必要があるのだ。あの男の居場所はわかっている。とても暗くてジメジメしたところ。
 「やあ」会いに行って最初の言葉。相手は、何も答えない。濁った目で、私を見つめる。私は男に名前を告げる。その時、男の生気がわずかに蘇った気がした。「何のようだ」男は、希望などこの世にないといった調子で、こわばった表情をして言う。私は、その声を聞いて、何も言えなかった。少しの怖れと大部分の哀れみが私の中を満たした。そして、私たちは、しばらく見つめ合った。「なんだよ」男は、少し苛立った口調。私は乾いた口内に唾液を満たす。「こんなところにいるのは、もうやめにしない?」私が言い終わった後に、男は自嘲気味に笑う。「俺が俺の意志でここにいると思っているのか?」「違うの?」私が問いかけると男は、目をつぶり、しばらく考えこんだ。「いや、そうかもしれないな」男の心には見たくない己の心が浮かんできたのだろう。それを知って私は、満足する。男は、もう私から逃れられない。二十年間私が、男から逃れられなかったように。「ここから出たいならお金を用意するわ」男は、その申し出に驚いたようだった。何故お前が?そんな言葉が今にも出ようとするのを、こらえにこらえて、男は、ぶっきらぼうに言い放つ。「いらん」私の目に男の苦しみが、はっきりと見える。男は、もう一度自由の身になるという誘惑に、頭がいっぱいになったのだ。自由は、時に、はちみつより甘く、麻薬よりも中毒性のあるものだ。男にとっては、特に『そう』だと、私は、知っていた。「その代わり……」私が言いかけると、男は、ほらおいでなすった、とばかりに、疑念の目を向ける。「謝罪してください。そして、私から奪ったものを返してください」「それは、どういう意味だ?」男は、私たちの間にあったことを何かも承知の上で、私が、男に会いに来た目的については、まるっきり無知だった。男は途端にギラギラした表情になり、太陽を見るように私を見た。「俺は、どうにもしようがないよ。謝罪もできないほど、あっちの世界に行ってしまっている。俺のことは、忘れて生きるんだな」今度は、私が大声をあげる。「忘れられるものなら、とっくに忘れています!」怒気を含んだ声に、男は、あっけにとられている。この男は、女というものを理解していないのだな。そして、人間というものを。それは、男が、男自身について、空っぽの頭しか持っていないことを示している。時として、無理解は、無謀を生み出す。その犠牲者が私。それでも、それでも、私は、偶然を信じない。私たちの間には、何かが生まれたはずだ。でも、男の目は、それっきりまた濁ってしまって、ついに、何を話しかけても返答がなくなった。男の仲間がやってきて、「こいつは、あっちの世界に行ってしまったのさ」とだけ短く言うと、私の格好を見て、鼻をならし、帰れと手を振る。私は、もう一度だけ男の姿を見ると、その目は、もう私を見ていなかった。少しの後悔と、少しの満足を携えて、私は家に戻る。家には、あの男の指。左手の薬指だ。私が、噛みちぎった指は、今でも、液体に神々しく漬けられたままだ。

忘れられない男

忘れられない男

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-15

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