無尽蔵
私はいつもの窓際の席に座って、すぐにいつものハヤシライスを注文した。
いつもの少し無愛想なウェイターが、再び焦げ茶色の盆に品を持ってやってくるまでの間、いつものように窓の外に見える素朴な景色を眺めて、やり過ごす。
間もなくして、いつも通り美味しそうな香りを漂わせて、ハヤシライスとお冷やが運ばれてきた。待ってましたとばかりに銀色に光るスプーンを手に取り、ハヤシライスを頬張ると、その味わい深いコクとまろやかさが口一杯に広がる。
外は雲一つない快晴。そよぐ風が木々の葉を揺らし、スキップするようにするりと吹き抜けていく。いつもと変わらぬ、穏やかな日だ。
カランカラン。
店の入り口のドアについた小さな鐘が鳴って、一組の若いカップルが姿を現した。入ってくるなり、青年の方は辺りをぐるりと見回し、おぉと小さく洩らした。
「"夢幻レストラン"だってさ。なかなか良さそうな店じゃん」
お気に入りのおもちゃが増えた稚児のように満足そうな表情を浮かべた彼が、隣にいる彼女に言う。
「うーん、そうかもしれないけど、なんか不気味……」
ワクワクしている様子を見せる彼とは裏腹に、少し怯えたような彼女が、彼に小さな声で言った。
「そうか? 落ち着いていて、静かな店じゃないか」
「それが不気味なんだって……ねぇ、やめとこ? この前のとこにしようよ」
この店には、清潔で落ち着いた雰囲気がある。机や椅子は木目調の西洋風デザインで、質素でありながらしっとりとした存在感がある。壁紙や床も、素朴だが洗練されているようで、オーナーのセンスが伺える。他にも、明るすぎず食事を引き立てる照明や、店内に控えめに流れるジャズ、所々に置かれた絵画や骨董品……。どれをとっても上品な落ち着きが感じられる。
私は割と好きだが、不気味といえば不気味なのかもしれない。
しかし、彼の方はそんなことは気にしないようであった。
「いいじゃん、きっと気のせいだよ。それにこの店、おかわり自由らしいぜ!」
そうなのだ。この店は"おかわりし放題"なのだ。そのお陰で、私は今この店にいる。いわゆる"常連客"ってやつである。私はまたハヤシライスを口に入れた。何度口に運んでも、洗練された上品な味が香る。
彼らは空き席を探して店内を見渡すと、結局通路を挟んで私の隣のテーブルに座った。
奥の扉からフロアに入ってきたウェイターさんが、夕焼けのようなオレンジ色のカバーに入ったメニューと、グラスに入った水を持ってきた。
しばらくメニューを見てあれこれと悩んでいたようだったが、ついに彼らはカルボナーラとハヤシライス、サラダと、コーヒーを二つ頼んだ。
初めは警戒していた彼女も、どうやらこの店の雰囲気に慣れてきたようだった。彼らは料理が来るまで、とりとめのない話に花を咲かせている。私は、相も変わらず魅力的に香るハヤシライスを口に運びながら、彼らの和やかな様子をしばらく眺めていた。
「あれ?」
不意に彼らのいる隣の席から声が聞こえた。話を聞いていると思っていたが、いつの間にかぼうっとしていたらしい私は、その声で意識を戻した。
「どうした?」彼女の向かいに座った彼がそれに応える。
「私たちが飲んでる水………減ってないような気がしない?」
「えっ?」
彼は慌てて、手元にある自分のグラスを見た。
差し込む日光を浴びて透明に光るグラスには、容積の7割ほど水が入っている。
「そんなバカな……気のせいだよ。雰囲気につられて変な想像しちゃってるんだよ」
「でも、なんか気味悪いよ、帰ろう?」
「いや、折角料理を頼んだんだし、食って帰ろうぜ。な?」
怯える彼女をなんとか説得してみているが、彼の方も明らかに動揺しているのが素振りを見れば分かる。
待つか帰るかの話し合いは結局平行線となり、そうこうしている間に、彼らのテーブルの上に料理が運ばれてきた。
たゆたう湯気と一緒に、食欲をそそる匂いが辺りにふわりと漂う。その匂いに惹かれるようにして、彼らは食器を手に取り、そっと食べ始めた。
「……美味しい」
先程まで不安で仕方ない様子だった彼女が、声を漏らした。この店の料理はどれも格段に美味いのだ。ハンバーグ、オムライス、カルボナーラにロールキャベツ……。今までここに居続けて色んな料理を食べてきたが、どれも文句のつけようがないくらい素晴らしい。特にハヤシライスは絶品で、一度この店で食べたら、他の店では食べられなくなるくらい、とびきりに美味い。
彼らは少し前に感じた疑念を、料理の味できれいさっぱり忘れてしまったかのように、談笑しながら食事を楽しんでいた。
しかし、彼らが再び異変に気づくまでに、そう時間はかからなかった。
「……おかしいな」
今度は彼が口を開いた。どことなく焦りか恐怖のような感情が滲んだ声に聞こえた。私はハヤシライスを食べる手を少し止めた。
「どうしたの?」
彼女は、先程の疑念と不気味さを再び感じたのか、怯えたような小さな声で尋ねる。
「このハヤシライス……減ってない」
彼らが料理を食べ始めて5分少し経ったが、確かに彼のハヤシライスは減っていない。相変わらずできたてのようにホカホカと香る湯気を漂わせている。
彼女はぎょっとして、弾かれたように自分のカルボナーラを見る。
減っていない。彼らの料理は、いくら食べても少しも減っていないのだ。
彼がハッとして、水の入ったコップを手に取り、一気に飲み干した。
はずだった。
しかし、彼がコップをテーブルに置く頃には、いつの間にやら水が7割ほど入っていた。
「いやぁっ!!」彼女が悲鳴をあげる。
「なんなんだよこの店!!」
彼は勢い良く席を立ち、彼女の手を取ると、店の出口に向かって走りだした。
彼が出口の扉についたドアノブを握り、勢いのまま押し開いて外へ飛び出す。
次の瞬間、先程からウェイターさんが入ってきていた奥の扉が破裂したように開き、たった今外に出ようとした彼らが飛び込んできた。
彼らは、その場に茫然と立ちすくみ、目を見開いて辺りを見回した。声も出ないといった有り様だった。彼女は摩訶不思議な出来事のショックに耐えられず、ついには崩れるように床に座り込んでしまった。
「どういうことだよ……」彼が消え入るような声で呟く。少し震えた彼の声は、真冬の吐息のようにそっと浮かび、控えめなジャズの中に蒸散したようだった。
きぃとドアが鳴いて、さっき彼らが"出てきた"扉からウェイターさんが"入ってきた"。
ウェイターさんは慎ましい振る舞いで彼の隣に立ち、そっと言った。
このレストランは"夢幻レストラン"と申します。
素敵な"ゆめまぼろし"が"無限"に続くようにと、先代オーナーによって名付けられました。
どうぞお二方、席にお戻りください。
当店は"おかわりし放題"ですから。
お客様の素敵な夢幻と腕によりをかけた料理がいつまでも醒めませんよう。
いつまでも、ごゆっくり。
もう何度聞いたかも分からない台詞だった。私はつい今しがた運ばれてきたかのように熱と上品な香りをたたえたハヤシライスに、またスプーンを入れた。
こうして彼らも"常連客"に仲間入りしたのだった。
無尽蔵