詩集 あこがれ

「あすこに白痴が歩いて行く。」さう言つて人人が舌を出した。
――純情小曲集/萩原朔太郎――

[1]
広漠たる師走の空に
白雲の成す燕が一羽
たよりなき一片の翼残して
南の方へ散りゆけり


[2]
きらびやかなるイルミネイションのほとりを
人々は影と成りてゆき交ひぬ
清涼な大気は
純白のベールを降し来たりて
光はさながらメリイゴウランドの如
十二月のミストに触るるとも
何ぞ寒き事あらん


[3]
雪は沁々と降り積もる
ネオンライトに恍惚とする過去の人に
曇天を眺むるいまの人に
天つ日を夢見る未来の人に
雪は沁々と降り積もる


[4]
あゝ幼き日には
水風船の如き宇宙に抱かれ
王の如き一枚岩をのぞみ
安逸の揺り籠に遊びたれども
混沌たる露を飲みてより後
宇宙は猥雑なる酒場へと変はり
一枚岩の幻惑は消え
卑小なる砂礫の正体を現はにせり
揺り籠もたちまちにむなしくなりぬ
おゝわが両足は未だか細く
たゞ歩む事すらまゝならねども
吾は強ひらる 吾は強ひらる!
チーターの如き疾走を!


[5]
いかで泣き給ふや
愛しき人
いざ その涙を杯にそそげ
汝が涙は
一杯の葡萄酒よりも甘く
一杯の燗よりも熱く
また 一杯の茶よりもほのぼのと
わがこころをととのふるなり
いざ その涙を杯にそそげ


[6]
ゆふまぐれ
なつかしかりし波の音に
ひとり浜辺に来てみれば
萎(しな)えしわかめに破れし貝
片輪なる蟹取り残し
きらきらしかる真砂のみ
常世の国へ招きたる
おぎろにくすしきわたつみの
神の御業を知りにけり
海原はるか明星の
あかき光も
いまは哀しく


[7]
西つ方
あかねさしたる雲の中を
白鳥が二羽 むつまじく飛び交ひぬ
悲しむべき事はあらぬに
などて涙あふれかへるや
明滅したる星をたよりに
ひとりなつかしき郷里(さと)を目指さむ
もはやゆくへは 誰も知らねど


[8]
収穫を終へた師走の田に
そほどが一人 打ち棄てられてゐる
何ヶ月ものあひだ
ひとり人々の糧を守り続けたそほど
かつて久延毘古として
すべてを知る神として崇められたそほどよ
貴方は こんなゆく末までも知つてゐたのか

やせこけた鴉の群がいま
乾燥した土中に眠る幼虫と
傷だらけのそほどを啄むためにやつて来た
おゝ! そほどよ!


[9]
青白く澄んだ感傷の霧は
僕の心を包みこんで
遠く彼方へとおし上げてゆき
ガラスで出来た天の楼閣の頂上に打ち立てられた
純白の十字架に
びいどろ色の釘を以て磔にする
どうやらこの釘は
流れる事が許されなかつた
涙によつて出来てゐるらしい


[10]
新年のご機嫌な喧騒の中
市に訪れる陽気な人々に踏み破られた
一輪の花を僕は見つけた
それは
かくも息苦しき肺炎の予兆である


[11]
真夜中にふと目を覚まし
台所にある狂つた時計の音を聴きに行くと
その気配に目覚めた飼犬達が
寝ぼけ眼で僕の方をじつと見詰めてくる
彼が見詰めてゐるのは
僕の背後に在る何かか
それとも
僕に内在する運命と云ふべきものか
それとも……
たゞひとつはつきりと言へる事は
彼は決して僕自身を見詰めてなどゐないといふ事だけである


[12]
君は君
僕は僕
君は僕で
僕は君
この世に僕でないものはひとつとしてなく
僕であるものはひとつとしてない
おゝ! なんといふ幸福! なんといふ不幸!
僕は永遠にひとりではなく
僕は永遠にひとりだ


[13]
ぼんやりとした薄煙の中
手探りすらする事もなく
幸福な結核を待ち侘びてゐる私は
つひに詩人とは成り得ず
時たまの肺炎にでもわづらはされながら
何時までも惨めにひとりぽつち
自らを自らのみがあはれみながら
夏の日照りの下置き去られた泥団子のやうに
いつか見ず知らずの誰かにでも蹴飛ばされて
こなごなにくだけてしまふのでせう
泥団子を蹴飛ばした人は
団子がくだけ散つた事など
生涯 知る由もないのです


[14]
一月の午後六時
街路の木々はかそけく
枝々を伝ひ降りて来る三日月の光は練乳の如く甘かつたが
怖ろしきシグナルの赤が周囲を染め上げ
浄福の光は瞬く間に困惑にさへぎられた
人々の話し声は不遜極まりない
僕は十一月の紅葉の葉に溜まつた雫を飲みに行く


[15]
すたれはてた冬の水路に
茶色のもみぢが幾重にも溜まり
いつか天つ日を体現してゐた木々は
もはや永久にむなしく
とざまをこゝろならず拒み続けてゐる
嗚呼 無残やな 無残やな
千年の風靡の結末は


[16]
真つ暗な
妖が出ても何らをかしくはない田舎路を
僕は唯ひとり歩いてゐる
けふは月はない
その代り 星は無数だ
彼らだけが今
この寂しく怖ろしい路をゆく僕を励ましてくれる
しかし 彼らはとうの昔に潰えてるといふぢやないか
結局 僕はひとりなのか
たゞ 彼らは間違ひなく存在してゐたといふ安心感だけが
案山子のやうにかじかんだ僕の足を
闇の中へと運んでゆく
けふは月はない


[17]
いくつもの道がある
ひとは そのいづれかを歩みゆく
憧れは永遠に憧れのまゝ
だが ひとはカルマを憎み得ない
己がじゝ想ひを秘めて
どこに居やうと
神がこちらこちらと
いざなひ給ふのである


[18]
お母さーん お母さーん…………
お母さん
このあはれな声が聞えないのですか
彼は この広漠たる世界にひとりぽつち
たつたひとり 貴女だけ認めて
自分すらもわからない中
貴女に縋つてゐるのですよ
お母さん
お母さーん お母さーん…………


[19]
落漠たる悔恨の中
わが口中につばきは多く
けふもまた 出湯の如く湧き出でぬ
かなしき詩(うた)を咳吟せしとき
茶色きコートの胸にひと滴
ふと わがつばきはこぼれたり
そは刹那
紅黒き血の如く見ゆ


[20]
いつか降つたであらう夕立は
いつたい何に恵んでゆき
いつたい何を 流し去つた?

充溢した草木に
陽射し
そして人
おぞましい程きらびやかな夏の日中
幾匹もの飛蝗は自転車に轢き潰され
緑色の露が河川敷に滴り落ち
人は冷笑を浮かべながら
陽炎の向ふにむなしくなつてゆく

やがて降るであらう夕立は
いつたい何に恵んでゆき
いつたい何を 流し去つてゆく?


[21 戯歌]
京の夜は暗澹として
極まりの無き闇がひろがり
寛やかな妖達の笑ひ声は
子供達の耳に永遠に小さく小さく残響し続ける
関守は今日もまどろむ事を強ひられ
谷にはそのいびきが静かにとゞろき
樹魂は決して鳴り止む事がない
里の人々は清らかな敬虔さの中毎日を生きてゐる


[22]
柔和なる陽射しの中
友と校庭をかけ巡つたあの日々
雨が降らうと雲が陰らうと
日光は常にわが身を優しく照らしてゐた
をはりは永遠に無く はじまりさへも無かつた
あの日々はいま!
いつたい どこへ消えてしまつたのか……
いまならわかる
そんな日々は最初から存在してゐなかつた
僕達は、僕だけが
ずつと夢を見てゐただけなのだといふことを
太陽は不変に優しく
また 僕も不変に醜穢であつたことを……
あの日の僕自身が
僕に教へたのだ


[23]
はや夏は来たりぬ
けたゝましかれど
切実なる祈りのほのめきたる蝉声
黄金の如くきらめきたれど
つひぞ沐み得ぬ海波
おぼろなれど
すさまじさを覚ゆるかげらふ
はるかなれど
何ものよりも親しき雲の峰
確かなれど
千古にあり得ぬ童の笑み
今年もはや 夏は来たりぬ


[24]
わがたまの むなしくあらば
垂れよ 尽きせぬ
かなしみの雫を 放てよ
絶ち得ぬ 羨望の光を
帰せよ 未だ無垢なる
深奥の想ひを
わがたまの むなしくあらば
…………………………………………


[25]
生きませう
秋まで頑張つて 生きませう
金木犀を 夢みながら


[26]
月下の際に
光たゆたひて
讃へごと申したる
歌びとの声 はろばろ
あはれ あなあはれ
神々も さやにきこしめす
おもしろき この夜かな


[27]
木花之佐久夜毘賣

木花開耶姫

あな めくしや めくし

コノハナノサクヤヒメ

このはなのさくやひめ


[28]
流れゆかう 僕達は たゞこの川を流れゆかう
いつか 術なき岩に打ち砕かれやうと
僕達は たゞこの川を流れゆかう
流れ流れて 草木が 川に満ち満ちた頃
僕達は 再び巡り逢へるでせうから


[29]
時はひたぶるに流れゆく
計り事などする間もなく
塔のするどき先端の如
まつすぐにそらを見据ゑて
永遠の夢路をひたぶるに流れゆく
想ひ見るべし! その寂しさを
その猛々しさを!


[30]
うら若き十三の少女
日々物語に親しみ
友と共に かもし出されるわが身の清麗さを
君は 無上の誇りとしてゐた
全くの無自覚のうちに
うら若き十三の少女よ
いま君は 燃え上がる炎に焼かれ
昼は 病人の如く呻き
夜は 獣の如く叫ぶ日々を送つてゐる
やはり 全くの無自覚のうちに
うら若き十三の少女よ
君はしばらく思ひ出せない
可憐だつたほんの一週間前までの日々を
しかし 僕は君によつて初めて思ひ出したのだ
うら若かりき十三の少女よ!


[31]
子供達が 石を砕いて遊んでゐる
全体的にザラザラしてゐるものの
所々つるつるとしてゐる石
そこら中にありふれた石
何億年かを流れるまゝ過ごして来た石
その石を 子供達が砕いて遊んでゐる


[32]
すみ渡つた冬の朝
岸辺に光はみちみちて
点々と穴あいた木の葉の下に寄り合ふ
黒い七星達の背はまばゆく
残り少ない草木は
黄葉がよみがへつたかのやうにきらめき
地に落ちた椿に降りた露は
ひとつひとつ後光のやうに輝いてゐる

繋がれてゐた 一湊の船を解き放ち
いつか舞ひ戻る日を夢みながら
私はここを立ち去つた


[33]
昨晩より 僕の鼻の中に
どこかほの甘い 乳の様なものが
香つてゐる なつかしく
まばゆかつた あの日々の匂ひ
かなしく さびしかつた
あの日々の匂ひ
さうだ! これは
お母さんの匂ひぢやないか!
優しく 暖かつた幻に
吾をも知らず 惑ひ得た
あの日々に 香つてゐた
お母さんの匂ひだ
全てを知らず 全てを知らない事が
無上の高潔と 誰人もが
自覚の 直前にまで たゝへてゐた
あの日々の あの柔らかい御胸に香つてゐた
お母さんの匂ひぢやないか…………


[34]
遙か彼方の空を見渡せば
十億の星達が ひとつひとつ
花火の如くさんざめき
たつたひとつの月が 破れた行燈の如く
無関心な涙を垂れながら
何時とも知れぬ“取り換”の日を待ち侘びてゐる
まばゆき百億の想ひ出達に照らされながら
たつたひとりで!


[35]
寝静まつた峠道に立つ
一本の外灯よ 君の顔には
君を無二の存在と幻惑した
あはれな虫達が夜な夜な打ち当たつて来る訳だが
君はそれをどう思つてゐるんだい?
塵まみれの体をゆさぶりながら
ひらひらひらとまとわり着いてくる蛾や
玉虫とは比べものにならない
茶色く濁つたカナブン
ご自慢の角を突き刺しへし折りながら
もはや君をも忘れて突進し続ける甲虫
こんなあはれな虫達を
その 青く冷たい光で惑はし
その 透明で堅い顔で傷つけながら
毎日 案山子の様に立ち続けてゐる
君は 一体何を考へてゐるんだい?


[36]
くゞもつた 夜の淵より
きら きら きら と
光が 降つて来る
このくにの 名も知らない
されどたしかに このくにの
誰かの想ひを 含んだ光が
きら きら きら と
夜の淵より 降つて来る
入方の如く 静かに
なす術もなく
光が 降つて来る


[37]
桜の咲きはじめた三月の半ば
春の陽射しに暖められた風は
母がわが子を抱く如く 人々を包みなぐさめ
凍て付いてゐた涙が
頬を伝つて再びつちにこぼれはじめた
あゝ かみさま
来年も きつと花は咲くでせうか
きつと きつと 花は咲くでせうか


[38]
自宅の庭に咲いてゐる鷺草な辺に
鳩や雀が数羽やつて来てゐたので
飼つてゐるインコにいつもやつてゐる手製の餌を
何気もなしにまいてやつたのだが
奴等恐る恐るひと口ついばんだつきり
全く食はうとしやがらない
味は結構良い 匂ひも悪くない
さう奴等は言ふ
ぢやあ何で食はないんだと聞いてみたら
せつかくあなたがくれたからひと口はいたゞいたものの
何だか得体の知れない見た目をしてゐるので
これ以上食べると変な病気になるかもしれない だとさ
馬鹿らしい


[39]
恋をしたい
また 恋をしたい
恋をして また僕は生きてみたい
恋は かみさまがお恵みくださるものだ
半年前 僕は己が身の儚さゆゑに
むかし 恋をお恵みくださつた
かみさまを裏切つてしまつた
かなしい程におやさしいかみさまは
それでもまたこんな僕に恋をお恵みくださるかもしれない
しかし 僕の躰はもう
あの日の様にすこやかではなく
湧き出る恋の雫を湛へる事は出来ないだらう
それでも僕は また恋をしたい
また恋をして 本当に生きてみたい
あゝかみさま もう一度
もう一度だけ 愚かなわたくしめに恋をお恵みください
もう一度だけ…………


[40]
高き御空を仰げども
垣根に散つた ひとひらの椿が気になつて
楓の葉を見遣れない


[41]
愛に飢ゑすぎた無頼漢のやうな木枯しによつて
紅いきらびやかな衣を剥ぎ取られた木々に
桃色の柔らかな衣を給ひ
月光に冷やされた雪を食んで
病んでしまつた小鳥の儚い喉を
暖かく包みなぐさめ
散りおちたむかしの花々を
優しく つちへとかへす
そんな 春の陽光を
美辞麗句を言挙げし続けた似非詩人は
永遠に やましくながめてゐなければならないのか


[42 雪虫]
ちら ちら ちらと
桜の花に紛ひ成り
ふわ ふわ ふわと
春のそよ風に浮かび
ひとの衣をしとねに 果てなむとする
この 羽毛のやうな生き物達は
疾うにすぎ去つた 冬の忘れ形見だ
全てを慈しむ筈の
春の陽光にも 喘がなければならない
あはれな白姫のみなし児達だ!


[43]
春の夜の カーテンを締め切つた
物音ひとつしない 真つ黒な部屋に
虚無を見つめてゐた 私の魂は
突如鳴り響いてきた列車の音に
むごたらしく 引きずられていつた


[44]
ひとひらが ひとひらを装ひ
暖め ひとつの花を かたちづくる
八重桜のやうに 一心の
誰かをもたない者に 春風は
どうしてこんなにも 冷たいのか


[45]
なまぬるい雨が降りしきり
荒々しくうねつた海波は
防波堤に次々とむなしく
おぼろげに望む彼方の島には
得体の知れない オーロラのやうな緑がゆらめいてゐる


[46]
君とのぞみし西つ方
暮春の空に二筋の
飛行機雲の並びあり
吾たはむれにこの雲の
何れが先に散らむやと
君に問へども君はたゞ
夕陽に溶くる笑み浮かべ
共に散らむとさゝやきぬ


[47]
をみなのこゑ さやけし
をみなのふり うつくし
をみなのころも にほはし
をみなみな かなし
をみなはともし
ともしかりけり


[48]
かそいろよ
聴きたまへ
告らさせたまへ
かそいろよ
月をおほひし
雲の苦しみを
つぼみと咲き得ぬ
花のなげきを
かぎろひに照る
露のおもひを
聴きたまへ
うたはせたまへ
かそいろよ


[49]
中空より億粒の雨降り注ぎ
虚空の境目を明らかに彩るを見ゆ
然れども渇きたる肌身は露も濡れず
真白きシャツも透くことのなく
たゞ吐息の如く幽かに
荒れたる頬を撫でゆきしのみ
嗚呼 木の葉をゆするそよ風を
空を照らす流れを 人々は覚えず
吾たゞひとり 甘き雨の匂ひに醸されて
ちよろづの過現未を覚え泪を垂りぬ


[50]
パン屑のちらばる皿の上で
今に飢ゑ死なうとしてもがき苦しむ蚊をよそ目に
たいして腹が減つてゐるでもなしに
素麺をゆでながら
ぴくぴくと足が痙攣する毎に胸を痛めてゐる
私は何と同情的なパリサイ人だらう!


[51]
億千のふみの文字は
黒雲のはてにまたゝきし
星々の如くきらめき、まどひ
尾を引きながら下界に足らふ
わだつみのへを照らしてはまたゝき
照らしてはまたゝきながら
須臾のなごりを遺し得ては
黒雲のはてにはかなく またかへし来たり
あな いつくしき天降言


[52]
大学のチャイムには
小学校の無知な期待はなく
中学の無責任なまばゆきもない
また高校のやうな軽薄な諦めもない
(僕のこゝろは段々とすり減つてゆくやうだ)
あと三十秒もすると時計は十時四十分を指し
裂け目のない抜け殻どもを一散に講堂へと呼び寄せる
その重苦しいだけのチャイムは鳴り
無造作に花瓶へ放り込まれてゐた
すみれの花は今日もすり散らされてゆく


[53 発露]
風もないのに揺らぎ続けてゐた海波は
いま ひとつの珊瑚が崩れる音を聞いて
より一層激しく揺らぎ
それが確かであると悟つた瞬間
不思議な安らぎを得て
しづかにしづかに
鎮まつていつた


[54]
数日前より膨れあがつてきた足裏の
黄身がかつた三十数個もの水疱に
僕はこれまでの これからの咎を思ふ
そのいぢらしい痛みに悶え
しかも愛児の如く それをいつくしみながら
僕は歩みゆかねばならない
一歩々々 その破裂を怖れながら


[55]
透きとほつた秋の日向に
たがひに便利な カップルの靴が響いて
おまへがいつもしてゐた
軽薄なすゝり泣きがよみがへつてくる

おまへはずつと探してゐた
その胸をふさぐ哀しみを
私はずつと求めてゐた
傷を広げきつてしまふ寂しさを

おまへは決して認めなかつた
わざとらしく傷つけ伸ばした その手を
何人もの人が包んでゐることを

私はずつと忘れてゐた
かつて たつた一度だけ恵まれた
そのほゝゑみの術なさを


[56]
鏡の中のあかの他人に
毎日々々 ひもすがら
あるいはなぐさめられ あるいははづかしめられながら
日々を茫洋とたゞよひ続けるおのれらの
反照に焼けたゞれた皮膚の臭気に
遠方にひそむおや達はむせかへつてゐることを
誰ひとりとして知る者はない


[57]
雨明けの露に 濡れながら
遠く 金色のいちやうの奥処に
消えてゆく あはあはしい光を
晩秋の 日焼けしたもみぢは抱き
にこやかで もろい午前は
ゆつたりと 橙の午後に
うつろふ


[58]
網目に飾つた 硝子戸を
競ふかのやうに 滴る
幾つぶもの あましづく
ひと垂り毎に 映る椿は
歪んで 弾けて
その すこやかな赤が
絵の具を溶いた 水面のやうに
じんわりと 窓に たゞよひ
朝日と 夕焼けの入りまじつた光が
さびしく すがすがしく
痛いほどに 照らす
この 人屋じみた病室に!


[59]
ぽた ぽた ぽたと
バルブのゆるんだシャワーからしたたる
この鉄くさい水の くぐもつた音を聞いてゐると
かんばつしたこの俺の魂が
ますます枯れ縮んでゆく気がするのは
一体なぜか


[60]
ひとよ、釣りびとよ
こんな 夜遅く
そんな 人工の光をもつてして
(ひとゝきの愉楽を得んがために)
明朝 白鳥のはしにあるはずであつた
わびしい魚(いを)の覚悟をもて遊ばうといふのか
ひとよ、釣りびとよ


[61]
二月 十一日
枝々に すゞめはとびはねて
今年も春が やつてきた!


[62]
長閑にすぎる春の日差しに
焦り続ける筈であつた予定は疾うに崩され
けふも僕は日課となり果てた昼寝にむなしく
横暴にまぶしい電灯を消す
すると
この 雑然とさせたひとつ部屋の
なんとうつろに暗いことか
かつて この部屋中を被つてゐたかの太陽は
もとよりやさしい幻惑であつたか
窓枠に挿したピンに吊るしなびく
平たい水槽のやうなカーテンを
とざすもひらくも任意であつたといふことを
私は否が応でも答へられねばならぬ


[63 無自覚な予感]
暁闇にゆれる
この 真つ青な炎は
風もないのに なぜ
古びた案上にゆれなければならないのか
その理由を
みなが見てみぬふりをしてゐるつもりでゐる
ならば 私は告げよう
“その足は折れかゝつてゐるぞ!” と。


[64]
満月の真下に浮かぶ
真黒な大樹の影に 私はよぢ登り
昼間に摘んだ
瑞々しい椿の若葉を香らせ
高く 低く そしてまた高く
草笛を吹いた

その音色は
樹下に呆ける僕だけが聞いてゐたのだ


[65]
真昼すぎ
けふも私は 四階分の階段を降り
つらつら椿の庭に出て
咲きつ散りつゝする香を惜しみながら
両手を挙げて中天を仰ぐ

毎日々々
屋上から降つて来る僕を受けとめるために


[66]
冬の朝日影を歩くのは楽しい
冬の朝日影を帰るのも楽しい

しかし
朝日影の途中 凍て墜ちた鳥を知るのはわびしい

あゝ
一体どこに 楽しみはあったか
一体どこに かなしみはあるか

冬の朝日影を歩くのはわびしい
冬の朝日影を帰るのはわびしい


[67]
さあ息をしろ息をしろ
めいつぱいに息をしろ
朦朧とした頭では
死ぬことすらもまゝならない
さあ、息をしろ息をしろ
めいつぱいに息をしろ


[68 青春は永久に虚しく]
荒れはじめた首筋をしたゝつてゆく
むずがゆい汗水を気にしながら
つやゝかな瞳の上に
すゝけた蜘蛛の巣をはりめぐらせる
部活帰りの中学生の肌は
青春の曙光に赤黒くこげて
雨露に濡れたつゝじのやうな匂ひを放ち
その臭気に誘はれた一匹の蚊が
いま 彼女の襟を突き刺した!

…………………………………………………………
…………………………………………………………
青春は 永久に虚しく……………………
…………………………………………………………
…………………………………………………………


[69 二十九年の春に]
泰然とたゝずむ
真白い幾十ものあはせのすきまから
夏の夕風の如くなまあたゝかい
かげろふ立つた目が私を睨み
瞬き毎に落ちる涙が
薄鼠色に染めた袖を揺さぶる

あれは
すべてを叶へられる筈であつた三年前の私の目だ


[70 業火]
さうして薪を焼べ続けるが良い、父よ
燃やせ、燃やせ、燃やしてしまへ
乾いた海に、片輪の舞妓
装うた餓鬼に、飛ぶ鳥も
みんなみんな燃やしてしまへ
燃やし尽くした後にさへ
貴様の指は焦げもせぬ
燃やせ、燃やせ、燃やしてしまへ
みんなみんな燃やしてしまへ


[71 私へ、あるいは私のやうな私へ]
裏返された雲のあはひに
琥珀色した蜜の垂れる 夕暮れ
シグナルの色は反照におほはれ
萎えたひまはりのやうな影を伸ばす
交錯した人々の顔はひとつに収斂し
道の辺には黒円の花々が咲く
この 脈の乱れた交差点に
さあ、ためらはず挨拶するが良い
ゆふづゝはもう煌きはじめてゐるのだから


[72]
私の身内を
灰に澱んだ風が過ぎ
鼻腔の奥に積もつてゐた
天花の粉を巻き上げる

頭には
夜に染つた雨が打つ
ひとみのやうに
縁を静かにかゞやかせ……

うすむらさきのひとひらを
せめてうらにはのぞみつゝ
なさへとめえぬなつかしき
はまひるがほのひとひらのはな


[73 八月三十一日]
暦の上ではとうに秋は立つて
初風も冷たく吹き初めた
この夕に
もう
そんな苦しさうになかなくても良いのだよ お前

空を見てごらん
初夏には
瑠璃色の宮殿を垣間見た雲のあはひに
いま
わたつみが山吹色に凪いでゐるのが見える

何もかもが変はつて、手遅れなのに
なにひとつ移ろはずに、安らかだつたんだ

だから
もう
そんなになかなくても良いのだよ お前


[74]
未だ紅葉を知らない
秋の夜更けに
配送日時の定かでない
郵便を求めて
日毎ポストを尋ねるのは気が詰まる

ポストへの経路には
約七十段の階と
二十歩分の廊下とがあり
七年前に遊離していつた私の魂の一部が
いま 鈴虫となつてその到るところに蜜月を楽しむ
(もう満月を見ない私の魂!)

私には それらの魂を鎮める義務がある
(たゞまつすぐに廊下を歩むだけ)

しかし 砂鉄のおほつた両足に
樹皮を幾重にも巻いたこの首は
歩行の曲折に視線の下降を私に強ひてゆく
(夢中の飛行がまゝならぬやうに)

さうした体躯を引きずつて
四角に区切られた地面にい向かはねばならない瞳に
廊下はいつたい幾度の反復を見なければならないのだらう



[75 別れ路]
   心なき身にもあはれは知られけり
   鴫立つ沢の秋の夕暮れ   西行

わかれ路のたゞ中に 湖は
甘くゆふ焼けた 琥珀の影を抱いて
つるばみに溶けた 山陰を写し
濡れたほとりに 咲いてゐたひるがほは
わくら葉の蔭を かこちつゝ萎む
水は
水面を蹴つた 鴫の羽交ひによどむ
……………………………………………………
……………………………………………………
……………………………………………………
山のあなたの灯火は 直に仄めくであらう



     [76 リハビリテーション]
鼻腔の奥にたくはへてゐた
新年のにほひを 如月の屋上に
はき出す 午前三時の
星のまたゝき いつも見えない
鉄塔の赤 信号の緑
月の青 すこし澱んだ ため息の白
三色たりない 虹を架けたら
あしたの空は紫に染まつてたつけ



[77]
なんど読んでもわからない
あてずつぱうの感傷にもひたらない
ふあんひいたあの熱気から逃れて
冬のとぐわいはたゞに清冽
十いちねんまへのかみきりがゐた
こならのぢざうのまんしよんに
ほしのなみだははねかへつて
いまはみえない山のあなたの
あちらこちらに灯るたいまつ










散つた硝子のひとつびとつに
夜の怨嗟は照りかへる



[78 菜の花忌に]
こゝ数日の雲の速さに
急かされることもなく
私の足はけふも遅い

靄とも花粉とも知れぬ
ぼんやりと白い皮膜の向ふに
「雲居は鳥の化身だ」と
日毎肯んぜられた空は阻たつてゐる

時計は十三時を指して
黄みがゝりつゝ傾いてきた陽光は
鼻腔を通して私の視野を侵蝕してゆく

菜種油の引かれた皿を
二つ並べた食卓に
ちゞこまつてゆく誰かの世界



[79 『鏡花短篇集』感想]
深と、新月の空よりも、黒々、手長に横はる山々。颪は、ささくれを剥ぐやうに、指に痛く、帰路、流離うてゐるとも、彷徨うてゐるとも、知れぬ、だんだらの道端。幼心地に、躑躅の点滴を吸うたところ、鳳の幻に、ぬば玉に澄んだ瞳を、キッと見開き、翼ひろげて、仰けに凍ててゐるのは、いつかの春泥に、初々しい濁声で母を恋ひ乞うてゐた、あの幼な雀ではなかつたか。霜焼けた掌に、冷たい、乳房の、蕾のやうに含んだ尖端だけが、春雨のやうに温い。


[80 戯歌Ⅱ 或る詩人と画家へ]
イラクサ色した冷艶な語感が
わらひさざめき 甲高い響音に引き攣つたまなじりを
黒い 石畳の上に爪立てた
裸足の 凍てついた指先にそそぐ

ふるうとなどいつまでもうそぶいてゐるな
水の あどけない甘みだけを舐つてゐろ

やがて種まく暮れ方のひとりを
焦がれ眩んだとておまへの眼窩にゑまふのは
逆浪にたじろぐ海蜻蛉のまぼろしに
ちろちろと手招くやうに靡き萎れる
やみ爛れたアネモネの花だけだ


[81 戯歌Ⅲ 或る詩人とその同情者へ]
にまにまにまにまいつまでもわらつて
薬缶はもう使はれることのない
累夜
「ら」も「う」も傍目に同じだと
意味あり気に頬づかれた一線の肘が
わたくしの食だうに 微細な血清をのこして
くちびるの片はしに ひとかけらのしんぴをかたちづくらうとも
「ら」も「う」も傍目に同じでない
不ぞろひな奥歯に 一点の鱗粉の齟齬を知らず
眉間の表皮へ ゆるやかな反芻のさゞめきを伝へつづけるのであれば
山は明日も動かない



[82 戯歌Ⅳ 或る批評家へ]
みつの重力に
すみわたらねばならなかつたをとゝひの空を
たかはまたゝきもゆるされず失墜する

あかにうはぬられた地面はたゞうはぬられたにすぎず
しとりしとり透りぬけていつたなぐさめの甲羅どもはにべもない

げるまにうむの制服を仕立てあぐねてゐる間に
のゝ字ばかりの寂光土はいよいよしめり気を帯びてきた

かひのふし穴ばかりのぞきこんでゐないで
いつかもち腐れてしまつた卵歯でも使つて
流泉のそら音でもさぐり鳴らしてみてはどうか

詩集 あこがれ

詩集 あこがれ

詩集と銘打っているものの実質自作詩の私的ノートであり、並列順序等も何ら意図なくほぼ作成順(16歳頃〜現在)である。また、詩一篇々々のタイトルは追って加えてゆくつもりである。

  • 自由詩
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-14

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