【連載中】ワールド・エンド・サマー

アオザキ

0.序章


「空がなぜ青いか知っているかい」
いつだったか、もう思い出せない誰かにそんなことを訊かれた覚えがある。
ぼくが返答できずに首をかしげていると、その人はこう続けた。
「空の青は空気の青、そして海の青。すなわち青とは、生命が必要とするものすべての色なのさ」
あの頃のぼくはもちろん、そんな話の意図を解するには幼すぎた。
けれど今なら、今だからこそ、ぼくにはその意味が解る。
きっとあの人は、理由が欲しかっただけなんだ。



必要とあらばすぐさまオペを行うことを求められる外科医に比べれば、ぼくら『共感医』のスケジュールは幾分平穏なものだ。
とはいえ医師であることに違いはない。一日のスケジュールは厳に定められている。
そうだ、もう一時間半もすれば最初の患者がやってくる。そんな貴重な息抜きの時間を、今日に限ってはドキュメントの整理に奪われているのだ。朝も早いというのにすでに外は茹だるような暑さ。冷房の唸る音をBGMに、情報端末のナビゲーションが今日の予定を淡々と伝えてくる。内訳は軽度『共感治療』が5件、重度精神疾患の治療が2件、精神鑑定依頼が1件、それに3日に1回のセラピーと続く。
客観的なスケジュールだけを見れば、特別忙しいという訳でもない。ただ今日は、明日転院してくる患者の引き継ぎ作業を片付けなければならないのだ。患者が引っ越すなどして病院に通えなくなるケースを除けば、共感治療において転院という措置は非常に珍しい。おまけにこの患者は今まで実に7人もの共感医の元を転々としているらしい。転送されてきたカルテを読む限り、その全員が『お手上げ』なのだそうだ。しかしまあ、担当医を責めることもできないだろう。心を扱うという職業上、絶対の完治は保証しかねるというのが現実なのだ。
それにしても、だ。前任者が7人もいればそれだけ蓄積されたデータの量も当然膨れ上がる。職務に実に忠実な彼らのおかげでぼくはコーヒーを飲む暇も投げ出し、こうしてドキュメント整理に追われているというわけだ。そういう意味ではぼくもまた、職務に忠実なのかもしれない。そんなことを考えながらキーを叩いていると、端末の横にAR(拡張現実)のウィンドウが現れ来客を伝えてきた。
IDを一瞥すると「どうぞ」とAR越しに声を掛ける。
声紋認証とキーワード認証によって扉のロックが解除されると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「よう、藍咲(あおざき)。今日は随分と忙しそうだな」
「おはよう、カスカ」
相変わらず端末に向き合いながら、ぼくは振り返ることもなく声を掛けた。礼を失すると言われようと、ぼくには今時間がないのだ。
「例の転院患者の引き継ぎでね。前任者たちの所見がバラバラでまったくどうしようもない」
大げさに肩をすくめてみせる。
「そりゃ大変そうだ。今日のセラピー、楽しみにしておくよ」
皮肉交じりに淵守(ふちもり)カスカはそう答えた。
人の心を治療するという職務の性質上、共感医は定期的なセラピーによって自身の精神をクリアに保つことが義務付けられている。
そのためぼくら共感医には、必ずバディとなるセラピストがいる。ぼくの場合、それは今背後に立っている長身の男、淵守カスカなのだ。
「整理が終わったら教えてくれ。『システム』の調整をしなきゃならん」
「わかってる。あと30分待ってくれ」
事務的な連絡事項ならオンラインでもいいのに、こうしてわざわざ部屋に来るあたり律儀な男だと思う。
「コーヒーでも飲んでいくか。カスカ」
背を向けながら会話をする非礼を詫びるつもりで、ぼくはカスカにコーヒーを勧めた。
「いいや、死ぬほど忙しそうなお前の邪魔はせんよ。それじゃ、30分後に環境情報を送ってくれ。頼んだ」
「おう、頼まれた」
ぼくがひらひらと片手を振って応えると、ドアが開くシュンという音と共にカスカが部屋を出て行く気配がした。



所見から構築した環境情報データをカスカに送り終え、ぼくは診察室へと向かっている。
ぼくがここに配属される数年前までは、この廊下も古めかしいリノリウムで舗装されていたそうだ。
今では通信設備やAR機器の取り付け、耐震強度云々の理由で全面的に改修され、クリーム色を基調にした真新しい内装に生まれ変わっている。診療開始直前のこの時間、病院内にいるのはほとんどが内部の人間だ。すれ違う看護師、セラピスト、共感医たちに目礼をおくりながら、ぼくはようやく診察室にたどり着いた。なかなかの座り心地の椅子に座り、目の前の情報端末を立ち上げる。瞬時に先程まで居た研究棟の端末との同期が終了し、ここに診療の準備が整った。
机の上に置いてある今時珍しい完全アナログの時計を見ると、もうまもなく最初の患者が来ることがわかった。
服を整え、机の書類を整頓していると、ARが患者の入室許可を求めてきた。
「どうぞ、お入りください」
仕事モードの柔らかい口調でそう答えると、セキュリティが解除され扉が開いた。
「おはようございます。『佐駅ユウコ』さん。どうぞお掛けください」
おずおずと部屋に入ってきた女性に、ぼくはそう声を掛ける。
女性はぼくの座っているのと同じタイプの肘掛け椅子に座ると、ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。では早速ですが、今日のことについてご説明を」
この患者、佐駅ユウコはすでに問診(カウンセリング)を終えており、今日はいよいよ本格的な『共感』を行うことになっている。
「佐駅さん。これまで『共感』のご経験は」
初めて治療を行う患者への定型的な質問だ。
「ええ、市販の機器では何度か……病院で診て頂くのは初めてです」
「そうですか。では資料をご覧いただきながらご説明いたしますね」
そう言ってぼくは彼女の目の前にARの資料をポップアップさせ、説明を始めた。
「ご存知のことと思いますが、我々人間は脳の精神活動に伴い、体の外側に向かって『意識場』という、そうですね、エネルギーを放出しています。その『意識場』を他人と同調させることにより、人の心の中に入ったり、逆に自分の心の中に人を招いたりすることができます。この『意識場の同調』を一般に『共感』と呼びます」
ええ、とか、はい、とか相槌を打ちながら彼女は話を聴いている。
「そして『人間の心に直接触れる』という『共感』を心の治療に使うのが、今日お受け頂く『共感治療』になります。今世紀のはじめまでは『精神科医』が投薬などによって外側から治療していた心の不調を、わたしたち『共感医』は直接患者さんの心を内側に入って治す、というわけです」
彼女は頷きながら目の前の資料とぼくの顔に順繰りに視線を移している。
「佐駅さんもご経験があるとのことでしたが、市販の機器による『共感』は共感深度に制限を付けることが法律で義務付けられています。今日の『共感治療』では、その深度よりもさらに深い意識階層にまでアプローチをして、佐駅さんの不調の原因を取り除いていきます」
一通りの説明を終えると、患者の手元に投影されていたARの資料が消える。
「佐駅さんの場合、どうやら過去の記憶が原因で自律神経系に不調が現れているようですね。今日はそのあたりを解決していきましょう」
「はい、よろしくお願いします。先生」
先生、と呼ばれるのにはさすがにもう慣れているものの、自分より年上の人間にそう呼ばれると僅かなむず痒さがある。
「では『共感』を始めますので、移動しましょう」
ぼくが促すと彼女が立ち上がる。



『共感』を行う処置室はふたつの部屋に分かれている。入ってすぐの管制室と、頑丈なドアのさらに向こうにある施術室だ。
佐駅ユウコに説明したように、『共感』は人間の発生させる意識場を同調させて行う。ゆえに治療者と患者以外の意識場が入り交じるのを防ぐため、施術室には意識場を遮蔽するナノペーストによって『意識場遮蔽コーティング』という特殊な加工が施されている。
ちょうど録音スタジオのような造りの扉を開けると、施術室の中には2台の機器が据え付けられている。
『意識場同調システム』。ヘルメットの付いたマッサージチェアのような形状のその機器は、患者用と治療者用で2台。ふたつをリンクさせることにより、共感を行うという仕組みだ。そして共感中の両者の安全や機器の操作は、先ほどの管制室にいる看護師とバディのセラピスト――ぼくの場合はカスカ――によって管理される。管制室と施術室の間には少し大きめの窓が付いており、内外の様子がわかると同時に、患者に閉鎖的な印象を受けさせないようになっている。
「では、奥のほうにお掛けください」
そう言ってぼくが示した片方には『UNIT-R』の文字がプリントされている。促されるまま佐駅ユウコはその1台に身を委ねた。
それを確認するとぼくはもう片方の『UNIT-H』の方に座る。
「力を抜いてリラックスしてくださいね」
肘掛けに付いているキーを操作する。間を置かずに頭部パーツの内側にARで管制室からのサインが表示された。
「それでは始めましょう」
その言葉を合図として、管制室のカスカが『システム』を起動させる。
強い引力に引き伸ばされるように視界がぐっと歪んだかと思うと、次の瞬間には真っ白な部屋に立っていた。
共感医の間では『ホワイトルーム』と呼ばれているこの空間は、患者と治療者の意識場の接触ポイントだ。すべてはここから始まる。
向かい側には佐駅ユウコの姿。
「気分は悪くありませんか」
初めて医療レベルの共感を行うと、まずこの第一次コンタクトで乗り物酔いのような感覚を覚える患者がいるのだ。
「ええ、大丈夫です」
「よかったです。今わたしたちはいわば精神の世界の入り口に立っています。ここは佐駅さんの心とわたしの心、そのちょうど接触地点に当たります。後ろにドアが見えますか。その先があなたの心に繋がっています」
言われて気づいたという様子で佐駅ユウコが振り返る。
「これからあなたの心を診させて頂きます。よろしいですか」
「はい、よろしくお願いします」
ぼくは佐駅ユウコに歩み寄り着いて来るように促すと、彼女の『ドア』の前に立った。
「さあ、行きましょう」
ドアを開けて彼女を先に入らせると、ぼくもそれに続く。
ドアを開けた先にあったのは階段だった。深層意識へと降りていくという、わかりやすいイメージが形をとったものだ。
ぼくらは言葉を交わすこともなく、それが自然であるかのように階段を下っていく。一歩、また一歩と進むに連れ、佐駅ユウコの体にある変化が起こり始めた。脚の先から徐々に透けるように姿が薄くなっていくのだ。それは彼女自身でさえ自覚することができない、すなわち無意識の領域に踏み込み始めた証拠だ。最下層に着く頃には彼女の姿はすっかり消えてしまった。
『対象者、フェイズシータへ移行。バイタル・メンタルともに異常なし。サイコマップの展開準備完了』
管制室のカスカの声が頭の中に直接響く。
「佐駅さん、聞こえますか。これからあなたの『痛み』を取り除きます」
返事の代わりに目の前に新たなドアが現れた。彼女がぼくを受け入れてくれたのだ。
ぼくはドアを開け、患者の精神の最奥へと入っていく。



最初に目に入ってきたのは、どこかの家の玄関だった。後ろを振り返ると、どうやらぼくの入ってきのはこの家の入口だったらしい。
時間はおそらく夕方。斜陽の差す木の廊下は強烈にノスタルジーを掻き立てる。一応の礼儀としてぼくは靴を脱ぎ、家に上がる。
それにしても古びた家だ。カウンセリングの内容に照らせば、おそらく佐駅ユウコの生家か、彼女の幼少期に縁のある家だろう。
どちらにせよ、彼女を悩ませる『痛み』の根源はこの家にある。『懐かしい』と同時に『苦しい』という感情が流れ込んでくる。
『対象者からのフィードバックが増大。大丈夫か、藍咲』
「少し影響が出てる。感覚マスクを5パーセント上げてくれ」
ぼくはカスカに指示を出す。感覚マスクを使用することで、流れ込んでくる感情や記憶を『認識』しながらもそれに飲み込まれるのを防いでくれる。即座に感覚がマスキングされ、患者からのフィードバックが幾分和らいだ。
さてと。カウンセリングの内容から、彼女が母親との関係にトラウマを持っていることが既にわかっている。
このようなトラウマは人格形成に重大な影響を及ぼしていることが多く、精神の中には当時のままの傷ついた「内なる子供(インナーチャイルド)」が眠っている。
ゆえに時間を掛けて患者の内なる「傷付いた子供」を癒してやる必要があるのだ。今回の共感の目的は深層意識に眠る彼女の「内なる子供」を見つけ、コンタクトを図ることにある。共感による治療期間は、かつての精神科の投薬治療や心理療法に比べれば劇的に短く済むことが多いが、この種のケースにはやはりある程度時間が掛かるのだ。
いわゆる『おばあちゃんちのにおい』がしそうな廊下を進みながら、一部屋ごとに顔を突っ込み、中の状況を確認する。
「カスカ、サイコマップの反応は」
『近いぞ。もうすぐだ』
テレビや低いテーブルが置かれている居間を検めながら、カスカに確認を取る。
サイコマップはいわば精神世界の地図。事前の走査によって患者の精神をマッピングしたデータを3次元情報に変換したものだ。
サイコマップと実際の『共感』状態から得られるデータを絶えず照合しながら、オペレーターは治療者に指示を送る。
カスカによれば、何らかの反応がある地点がもうすぐそこにあるという。ぼくは居間を後にすると、廊下の突き当りの暖簾が掛かった戸口に立った。中を除くと台所のようだ。西日が創りだす陰影が、暖かいながらもどこか物悲しい雰囲気を醸し出している。食器棚、ダイニングテーブル、流し台、コンロ、壁にかかる鍋、骨董品レベルの給湯器。並ぶ品々を目にする度に、ぼくの中にイメージが飛び込んでくる。
朝の日差し、コーヒーの香り、新聞を広げる父親、まな板に向かう母親、コンロの鍋からは美味しそうな湯気が立っている。
『感情』ではなく『イメージ』が入ってくるということは、それだけこの空間にまつわる記憶が強烈だという証だ。
ふっとイメージが消えると同時に、台所の隅から皿の割れるような音が聞こえた。音の発信源に目を遣ると、少女が膝を抱えて座っている。
見つけた。おそらくこの少女が『内なる子供』だ。
「対象を発見。接触を開始する」
『了解。マスクの準備をしておく』
ぼくはしゃがみ込むと、意を決して少女に声をかけた。
「こんにちは」
白のTシャツと薄いピンクのズボンを履いたおかっぱの少女が、ゆっくりと顔を上げる。
その目は泣き腫らしたように腫れぼったい。
「だれ」
かすれた声で少女が問いかける。
「ぼくはね、君が泣いているのを聞いて来たんだ。どこか痛いのかい」
現実世界で患者に向けるのよりも、さらに柔らかい口調を心がける。相手は『子供』なのだ。
「おかあさんに怒られた」
見ると少女の周りには皿の破片が散らばっている。音の正体はこれだったのか。
「おかあさん、わたし、嫌いみたい」
ぽつり、ぽつりと少女が話し始める。
「勉強できない子は、いらないんだって」
「お母さんがそう言ったのかい」
少女は頷く。
「学校のみんなと、遊ぶとバカになるって。だからうちで受験の勉強しなきゃいけないんだって」
そう言うと再び少女は顔を伏せてしまった。
少し間を置き、再び彼女に問いかける。
「学校は好きかい」
意外なことに彼女は首を振った。
「友達は?」
「みんなわたしのこと仲間はずれにする。『エリート』とは一緒に遊べないって」
なるほど。現在の彼女はおそらく小学5,6年生。中学受験をさせようとする教育熱心な母親と、この地域で中学受験が一般的でないことによる学校での孤立。今のこの子に逃げ場はないのだろう。勉強をしなければ親には存在を肯定してもらえない。しかし勉強すればするほど、大切だった友達との距離は開いていく。10歳そこそこの子供にはあまりに酷なジレンマだ。
「おじいちゃんが死んじゃってから、おかあさん、おかしくなっちゃったみたい」
彼女が続ける。
「おじいちゃんが亡くなったのはいつ?」
「3年生のとき」
「おじいちゃんも厳しい人だったのかい」
「たくさん勉強して、えらくならなきゃだめだって、いつも言われた」
問題の所在が掴めてきた。おそらくすべての起点は彼女の祖父だ。祖父は彼女の母親に厳しく勉強を強い、そうして育った母親も必然的にこの子に勉強を強いる。『勉強をしないと存在を肯定してもらえない』という連鎖が、世代間で継承されてしまっている。
祖父が亡くなって母親が『おかしく』なったのは、祖父との関係をもはや正常化することが不可能になったという絶望からだったのではないだろうか。
「『ユウコ』ちゃん」
呼びかけると、彼女は顔を上げた。
「家にも学校にも居られないなら、ぼくとまたこうしてお話をしよう。君が思っていること、なんでもぼくに話してよ」
彼女の目の光が増した気がする。
「お兄さんは?」
「ぼくは、そうだな、君のつらいのを治すお医者さんだ」
向かい合う彼女の表情が、少し柔らかくなった気がした。と同時に、彼女の顔にノイズが入り始める。
『藍咲、患者のほうがそろそろ限界だ』
カスカからの通信がリミットを伝える。深層意識に他人を長く留めることは相応の負担になる。
「また来てくれるの」
必死に訴えかけるように、彼女が訊く。
「もちろん。約束する。今までよく頑張ったね」
ぼくの言葉を聞くと、彼女はぎこちなく微笑んだ。そうだ、君はちゃんと笑えるんだよ。『ユウコ』ちゃん。
右の手をぽんと彼女の頭に置く。ぼくの手から発せられた光が、彼女の体を一瞬包み込んだ。
「ショートカットの設置完了。接触を終了する。出口を固定してくれ」
『内なる子供』にショートカットを設置したことにより、次回からはダイレクトに彼女の許へ潜ることができるのだ。
『了解。注意しろ、かなり不安定になってきている』
踵を返し、玄関に向かって歩き始める。途中で振り返ると、少女は台所の入り口に立ち、不安定に歪む廊下の向こうから手を降っていた。

「ご気分はいかがですか。佐駅さん」
『意識場同調システム』に座る佐駅ユウコに声を掛ける。
「不思議な、気持ちです。小さいころの家を思い出していました」
レベルの深い共感治療中、患者は夢を見ているような状態にある。幼少期の強力な記憶に引きつけられ、その風景が想起されたのだろう。
「両親と、祖父とわたしの四人で暮らしていた頃です」
「お母さんはどんな様子でしたか」
事前のカウンセリングでは、彼女は母親に対して憎しみとも執着とも取れる複雑な感情を抱いているようだった。
「とても優しい、笑顔です。私の頭を撫でてくれて」
『ユウコちゃん』が『おかあさんがおかしくなった』と言っていたより前、すなわち祖父の死の前、彼女と母親はおそらく良好な関係にあった。祖父の死をきっかけとして変わってしまった母親に、彼女は振り回され、動揺し、居場所を見失ってしまったのだ。
嵐の前の束の間の幸せ。そんな風に例えることの出来る穏やかな家族の風景を、彼女は今回の共感で思い出せたようだった。
「わたしは、母のことが大好きだったのかもしれません」
そう応える彼女の頬には、涙の線が光っている。
「佐駅さんはこれまで上手に『つらい』とか『苦しい』という気持ちを表現させてもらえていなかったようですね。
これから少しずつ、そういった気持ちを吐き出して整理していきましょう」
はい、と応えると彼女は頬の涙を拭った。
『内なる子供』とのファーストコンタクトは成功。これを足がかりとして、これから先の『共感』を行っていくのだ。
診察室に戻り、今後の治療方針や事務的な連絡事項などを伝えながらちらりと彼女の表情を伺う。
最初にここに来た時に比べ、彼女の表情が心なしか明るくなった気がする。
話を終えると彼女は、ありがとうございましたと頭を下げ、診察室を後にした。

1.朝凪の日



『肉体は魂の牢獄である』
昔どこかの哲学者がそんなことを言っていたらしい。
肉体を捨てさえすれば、人類は普遍にして不滅の存在へと昇華できる。
いや、昇華ではなく回帰と言ったほうが正しいか。
とにかく件の哲学者にとって、生きるとは不自由や不完全そのものだったようだ。
ならば僕らはどう考えるべきか。
人の心は物理現象だと立証され、魂の実存さえもまもなく確認されるだろう。
そうして願いという名の逃げ場は次々と潰されていく。
やがてすべてが明らかになった後の世界でも、僕らは未だイデアを求め続けるのだろうか。



 翌日の朝、ぼくが研究棟の自室で端末に向かっていると、ARが上司からの呼び出しを伝えてきた。おそらくは今日から受け持つ例の『転院患者』の件だろう。いや、他に何かやましいことがあっただろうか。まったく、それじゃ怒られるかビクビクしているガキじゃないか。内心笑えてくる。上司と言っても現場に出るような階級の人間ではない。すでに臨床の一線を退いたものの、研究者として依然名を馳せているような人物だ。そんな階級の人間からの直々の呼び出し。これは勘ぐるなというほうがムリというものだ。
研究棟のエレベーターに乗り、高層フロアのボタンを押す。ほどなくして、ぽんという電子音が目的のフロアに付いたことを教えてくれた。文字通り雲の上の場所ではあるが、内装は意外なほど簡素だ。まあ確かに、研究所や病院に一流ホテルのような豪勢な内装は必要ない。まさにここでの合理主義を体現するかのようだ。
目的の部屋に着いたぼくはドアのセキュリティにIDを提示し、入出許可を求める。
音もなく開いたドアをくぐると、ぼくはつかつかと進み、大きな窓に面したデスクの前で立ち止まった。失礼しますと言い忘れたが、まあいい。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
これほど記号的な挨拶があったものだろうか。尤も、どこの世界でも上司と部下なんていうのはこんな関係かもしれないが。そんなことを思いながら、デスクの向こう側でペンを回している白髪混じりの男に目を遣る。
「例の『転院患者』のことだがね」
窓の外の青い空をバックに、艶のある黒いペンがくるくると回る。
「主治医は君で問題ないが、特殊な症例ということで専門のチームを付けることになったよ」
チーム。研究所のチームのことか。そう思い至った次の瞬間には、ぼくの脳内は嫌な予感に支配されていた。特殊症例。専門のチーム。どうやら例の患者の症例はぼくが考えていた『厄介』などというレベルではないらしい。
艶のある黒いペンはまだ回っている。
「君には期待しているんだよ、藍咲君。君の共感適性は世界的に見ても得難い才能だからね」
ぼくが共感医になる決め手。それは共感への適合性のほぼ一点だった。異常な適合性を示してしまったために、ぼくにはどこぞの患者と同じように専門のチームが付けられ、挙句頭のなかに素敵な『プレゼント』まで入れられる始末だ。
「異存はないだろうね」
ペンが止まった。
「ええ。ありません」
「よろしい。ならば行きたまえ」
『サンタクロース』はそう言うと、くるりと椅子を回して背を向けた。
僕は軽く頭を下げ、部屋を出て行く。今度は意図的に失礼しますを言い忘れた。



研究棟に戻らず直接診察室に向かったぼくは、そこでカスカと話をしていた。
今回の症例に研究チームが付くということ。これまで出会ったことのないような困難な症例かもしれないということ。カスカは相槌を打ちながら最後まで聞いていた。
「それで。お前ひとりに共感をさせるというわけか」
カスカは『教授』に若干憤っているようだ。大丈夫、ぼくだって同じ気持ちだ。
でもぼくは共感医である以上、やるべきことは変わらない。
カスカは溜息をついた。
「例の患者の治療に関しては、集中的なセラピーを受けてもらうことになるぞ」
ムリはするなよと釘を刺すカスカに対して、ぼくはあることを告げなければならなかった。
「それとカスカ、今回の治療では『デバイス』を使うことになるかもしれない」
明らかにカスカの表情が変わった。
『侵襲型深層意識干渉制御デバイス』。ぼくとカスカは略して『デバイス』と呼んでいるそれは、教授からの素敵な『プレゼント』。
通常、共感を行うには自分と相手の意識場を感知・増幅・調律・同調させる装置が必要になる。昨日の朝一、佐駅ユウコの治療に用いた『意識場同調システム』もそんな装置のひとつだ。
だが原則には往々にして例外がある。
それが『デバイス』。『システム』の機能を大幅に小型化、強化し、適合者の前頭前野に移植することで機能する装置。
使用者の意識場を爆発的に増幅することもできる『デバイス』は、ひとたび使えば相手の深層意識を好き放題に出来るというシロモノだ。もちろんこれはまだ実験段階の技術で、その存在は公にされていない。ゆえに、ぼくは普段の診療を『システム』だけで行う。
いや、そもそも普通の症例では使う必要性すらないようなものだ。
しかし今回はどうやら状況が違うらしい。
「使用許可がおりたのか」
カスカは当然の問いを投げてきた。『デバイス』の運用はぼくに一任されているわけではない。まったくもって度し難いことだが、ぼくの体内にあるそれは『教授』をトップとした研究チームによって管理、いや監視されているのだ。
「いや、明言はされてない。けどこれは、現場の判断ってやつだ」
皮肉交じりに口角を上げてみせると、カスカは大げさに肩をすくめた。
「もう一度言う。くれぐれも無茶するなよ」
無茶したらお前にぶん殴られるだろうな。そんなことを思いながらぼくは親指を立ててみせる。



綺麗な栗色の髪。それが第一印象だった。
この時代になってもカルテにはほとんど文字情報しか載っていない。だからいくら主治医といえど患者の外見を初めて見るのは、こうして向かい合ったときがほとんどだ。
転院患者、例の患者。ぼくらの間で無機質な呼ばれ方をしていた『少女』は、今目の前にいる。
「はじめまして、『御門(みかど)リンネ』さん。あなたを診させて頂く藍咲です」
肩のあたりでふわっと広がる栗色の髪をした少女、御門リンネは、くりくりとした目で僕のことを見ている。ぼくは自分よりもより7つも下の少女に、まるで観察でもされているような気分でいた。
「あ、お、ざ、き」
鈴の転がるような声が、ぼくの名前を呪文のように唱える。
「よろしくお願いします。藍咲先生」
にっこりと笑ってみせる少女は、とても特殊症例のようには見えない。
もちろんこれは外見的な印象でしかない。問題はその内面なのだ。
「はい、よろしくお願いします。早速ですが、いくつか質問をしますよ」
転院患者といってもまずは問診だ。
「体で具合の悪いところはありますか」
「ありません」
即答だ。
「食欲はありますか」
「あります。おいしいもの、大好きです」
即答。実に幸せそうな顔だ。
「夜は寝られていますか」
「はい。よく夢を見るんですけど、起きたら忘れちゃってて」
おどけたように笑ってみせる。
身体的には極めて健康なようだ。加えてこの受け答え。やはりなにかおかしい。この子が7人もの共感医に匙を投げさせた理由はなんだ。
「それは結構。では最後に」
一旦言葉を切る。大切な質問だ。
「死にたいと思ったことはありますか」
これまでの質問にほぼ即答してきた彼女は、ここで初めて間を置いた。
答えを探しているようにも思えるし、出かかった言葉を押し留めているようにも見える。
そんなぼくの推理は、彼女の言葉によって遮られた。
「もう、諦めました」
これまでの質問の受け答えとは明らかに違う色が、その瞳に浮かんだような気がする。核心に触れた、いや掠めた気がした。やはりこの子には何かがある。その『何か』が、おそらく前任者たちを悩ませてきたのだろう。しかし前任者たちの残した所見は各人がバラバラな結論を出していてまったく統一性に欠ける。つまるところ、なんの役にも立たない。ここからはぼくが自力で探っていかなければならないのだ。
「わかりました。質問は以上です」
「おしまいですか」
おいしいもの大好き、と答えていた瞬間の表情に戻った彼女がどこか残念そうにそう言った。
「ええ、ここからは『共感』で解決していきましょう」
お願いしますと元気に言う彼女に、ぼくはまた軽い戸惑いを覚えた。
今思えば、その違和感の正体にここで気付いておくべきだったのかもしれない。



処置室についたぼくらを待っていたのはカスカだけではなかった。もうひとり、白衣を着た男が立っている。おそらく彼は例の研究チームのひとりだろう。軽く会釈をすると、相手は人の良さそうな笑顔でそれに応じた。隣にいるカスカの表情を伺う。わかってるな藍咲、無茶したら殺すぞと言わんばかりの表情だ。御門リンネはといえば、物珍しそうにキョロキョロとあたりを見廻している。共感治療は初めてではないだろうに、きっと好奇心が旺盛なのだろう。カスカと白衣の男がいる管制室を抜け、ぼくと御門リンネは施術室へ入る。ぼくが説明するまでもなく彼女は『UNIT-R』、つまり患者用のほうに座った。なるほど、慣れているというわけか。ぼくもそれに続き、治療者用の『UNIT-H』に身を預けた。
「力を抜いてリラックスしてください」
今更という感じも否めないが、ぼくは一応そう声を掛ける。
「大丈夫です。慣れてますから」
帰ってきたのは予想通りの答え。
「結構です。それでは始めましょう」
いつも通りぼくのその言葉を合図として、カスカが『システム』を起動させた。横に引き伸ばされるように視界が歪み、ぷつんと切れるように意識が切り替わる。視覚が正常になったぼくの目の前には、いつもと同じように『ホワイトルーム』が広がっていた。向かいに御門リンネの姿を見とめたぼくは、彼女にお決まりのセリフを投げる。
「気分は悪くありませんか」
「大丈夫です」
笑顔で即答。
ぼくはそれに頷いて応じると、彼女を伴って『ドア』の前に立つ。
この向こう側には、おそらくぼくの見たことのないような世界が広がっている。いい意味でも悪い意味でも、だ。7人もの共感医を悩ませてきた彼女の痛みの根源。それがこのドアの向こうにあると思うと身が引き締まる。ぼくは共感医としての矜持を以って、この先の世界に対峙しよう。
そんなことを考えていた矢先だった。
ぴしり、という音が聞こえた。音はどんどん増えている。ぴしり、ぴしり。
何かが軋むような、ひびが入るような、そんな音が『ドア』から聞こえてくる。
それと同時に天井付近、ドアの隅から、錆にも血にも見える赤黒い何かが広がっていく。
『ホワイトルーム』とは例えて言うなら中立地帯であり、非武装地帯であり、安全地帯だ。そんな場所にまで影響が出るなんて。ぼくはここではじめて事の重大さに気づいた。
だが引き返すわけにはいかない。おそらくぼくがここで下りれば、この子はまた別の共感医の許へ送られるのだろう。そうしてたらい回しにされながら、研究者たちは彼女からデータを収集し続ける。くそ、まったく胸糞の悪い話じゃないか。
だからぼくは退くわけにはいかなかった。意地かと言われれば否定しきれる自信がない。
『対象者の意識場レベルが上昇してる。危険だ。藍咲、引き返せ』
ダメなんだ、カスカ。ぼくは患者を絶対に見捨てない。必ず『理解』したい。それにいざとなったら『デバイス』という保険もある。それにお前も信用しているしな、カスカ。
ドアノブに手を掛ける。
カスカが何か言っているようだが、もうぼくの意識はそこには向いていなかった。
がちゃり。ノブをひねってドアを開け放つ。
その先にあったのは、いつもの階段などではなかった。
途方も無く広い空間が、グロテスクな赤黒い模様に彩られている。その中空、ちょうど手を伸ばせば届くかという場所には、周囲よりもさらに濃い赤黒い何かがまるで濁流のように流れている。人の体の中に入って静脈とその中の流れを見るとちょうどこんな風かもしれない。
濁流、奔流、はたまた暴風にも見える『それ』は、たくさんの人間のうめき声のような音を立てながらぼくの目の前に『流れて』いた。
なんだこれは。臨床の現場に出てから何人もの無意識を見てきたが、こんな途轍もない風景は初めて見る。やはりぼくの予感は間違っていなかった。この子は紛れも無く特殊症例だ。しかしいつまでも気圧されているわけにもいかない。
「聞こえるか、カスカ。患者の状態は」
『バイタル・メンタルは異常なし。すでにフェイズシータに移行している。そこはもう無意識階層だ』
こんな心象風景を抱えていながら異常無しとは。つくづく常識外れな症例だ。いや、それにしても深化のプロセスをすっ飛ばしていきなり無意識階層に出てしまうとは。赤黒い流れは相変わらず凄まじい勢いを持ってそこにある。ぼくはまるで引き寄せられるかのように『それ』に歩み寄り、何の気なしに手を触れてみた。
瞬間、爆発的な情報の奔流が流れ込んでくる。絶望、恐怖、怨嗟。そんな負の感情と記憶の嵐がぼくを引きずり込もうと蠢いている。
『藍咲、聞こえているか。感覚マスクを最大まで上げたぞ』
マスキングが追いついていない。というよりあまりに桁外れのフィードバックが、マスキングで抑えられるレベルを遥かに凌駕している。見ると流れに触れた右手はすでに肘くらいまでが飲み込まれていた。腕が飲み込まれていくごとに頭に割れそうな痛みが走る。自分の頭が膨張して熟れた柘榴のように弾ける様を想像した。頭を振って嫌なイメージを振り払うと、意識を集中して彼女の記憶を探す。古いテレビのチャンネルを変えるように、ザザッというノイズとともに次々と風景が切り替わる。公園の砂場。帰っていく小さな人影。違う。瓦礫の山と化した街。これも違う。もしも彼女に関係のある記憶なら、『自分が経験した』という感覚が読み取れるはずだ。記憶の奔流は相変わらずぼくの中に流れ込んでくる。交通事故の現場。真っ赤な血だまり。自分を殴る男の姿。路地で周りを囲む学生服。彼女と関係のない記憶は、徐々にぼくの脳を圧迫し始めた。
『藍咲、脱出しろ。これ以上は死ぬぞ』
まだだ。もうすこしだ。そう思って、思い切り腕を流れに突っ込んだ。先程までとは比較にならないほどの情報が流れ込んできた。思わず苦痛に声を上げる。くそ、もうだめか。
そう思った時、一瞬の空白が訪れた。
ふっと呼吸が楽になる。
うめき声の大合唱は消え、耳鳴りのような静寂の中、ぼくはある風景を見た。
どこかの家の中、フローリングの床に倒れている男女。その周りにはおびただしい量の血が溢れている。視点が低い。おそらく子供の視界だ。倒れている男女に駆け寄り、女の体を揺すっている。起こそうとしているのか。ふと上を見上げる。ボサボサの髪の男が見下ろしている。その男は素通りし、部屋から出て行った。そこまで記憶が再生されたとき、ぼくはこれが御門リンネの記憶だと『分かった』。彼女の意識が流れこむのを明確に感じる。やっと見つけた。
その安堵から力が緩んでしまったのか、次の瞬間ぼくの右半身は赤黒い流れの中に引きずり込まれてしまった。怨嗟の声が肉を潰し、骨を削る。神経の一本一本に痛みを流し込まれるような感覚に襲われる。血管は痛みを運び、心臓は痛みを増幅して体を砕こうとリズムを刻む。死。それは比喩などではなく、まさに皮膚感覚としてそこにあった。
頭の中に僅かにカスカの声が聞こえる。何を言っているかまではわからない。カスカの顔を思い出した。それからあいつと過ごした研修所での日々。そして幼いころのあの日。
そうだ。ぼくはここで死ぬわけにはいかない。いや、『死にたくない』。
その思考がキーとなり、ぼくの前頭前野に眠る『デバイス』が起動した。まるで蛍が一斉に飛び立つかのように明るい緑の光がぼくから無数に飛び出し、空間全体に拡散した。先程まで暴風のような勢いだった赤黒い流れのスピードが見て解るほどに緩やかになっていく。ぼくは残った左半身に全体重をかけ、奪われた右半身を流れから引き抜いた。その勢いで後ろに倒れこんでしまったが、とにかく助かった。
『無事か、藍咲』
「ああ、生きてるよ」
話し方を忘れてしまったかのようにぎこちない声が出た。
「コア記憶に接触した。ひとまずここは」
「もう帰っちゃうんですか」
カスカとの通信を遮った声は真後ろから聞こえてきた。ぎょっとして振り返る。
そこにあったのはグロテスクな空間にまるで似つかわしくない少女の姿。
「なぜ君がここにいるんだ」
「なぜって、ここはあたしの心じゃないですか」
ありえない。訓練も積んでいない一般人が無意識階層で人の形を保っているなんて。レベルの浅いホワイトルームならともかく、自覚も出来ないくらいに深い無意識の中で人の形をとって活動することなど並の人間に出来るはずがない。
『御門リンネ』はくすりと笑って続ける。
「あたしの記憶を見るトコまで出来たの、先生が初めてです。あとはみんなだめ。ちょっとは期待してたんだけどな」
いるはずのない者がいるという衝撃の次にぼくを襲ったのは、違和感だった。問診でおいしいものが大好きだと無邪気に微笑んでいた少女は相変わらず同じ表情で、しかしどこか暴力的で退廃的な雰囲気を醸し出している。なにかが決定的におかしい。確かにトラウマによって人格が分化するケースは珍しくない。事実ぼくも何人か診てきた。だからこそわかる。根本的ななにかが違う気がするのだ。
「まあいっか。あたし、とっても嬉しいんです。ここまで来てくれた人がいて」
そうやって微笑む彼女の顔は、笑っているというよりも歪んでいると表現したほうが正しいだろうか。不気味の谷の底というか、非人間的なものを感じずにはいられない。
『藍咲、聞こえるか。くそ。グラフがめちゃくちゃじゃないか。おい、藍咲』
カスカの声が聞こえた。『デバイス』は先ほどの行動で機能を停止してしまったらしい。このイレギュラーに対してぼくが出来ることは現状何もない。
『しょうがない。強制サルベージを』
カスカがそう言ったのと同時に、ぼくの体が淡い光に包まれた。無意識階層から意識を強制的に引き揚げる。共感治療中の緊急事態への対処として用意されている『最後の手段』だ。光の中で薄れていくぼくを見つめながら、『御門リンネ』は相変わらず楽しそうな表情を保っていた。心の底から楽しんでいるようにも見えるし、嗜虐心に歪んでいるようにも思えてしまう。
「また会いましょう。藍咲先生」
薄れる視界の中、彼女がそう言って手を振るのが見えた。



目を覚ましたとき、カスカと御門リンネがぼくの顔を覗き込んでいるのが見えた。カスカは険しい顔で、御門リンネは少し泣きそうな顔でそれぞれぼくを見ている。
「だいじょうぶですか、先生」
御門リンネが訊く。
「ああ、君は大丈夫か」
つい仕事モードを忘れ、素の口調で話しかけてしまった。
「なんともないです。いつものことなので」
そうか、いつものことか。ぼくはさっきまで居た場所を思い出しながら、なぜ前任者たちが匙を投げたのかを深く理解した。これは手の出しようがないと思われても仕方ない。ぼくだって『デバイス』がなければあの流れに飲み込まれ、意味消失してしまっただろう。
体を起こして周囲を確認する。窓越しに管制室の様子を伺うと、例の研究員はARのウィンドウにデータを打ち込んでいるようだ。そういうものだとわかった上で今回の症例を扱っているものの、やはり胸糞の悪い光景であることに違いはない。ぼくの様子を確かめたカスカは少し安堵した様子で管制室に戻っていった。御門リンネの付き添いの看護師を呼ぶのだろう。『システム』の椅子に座り、ぼくは御門リンネと対面する。聞きたいことは山のようにあるがここは努めて冷静になろう。そう自分に言い聞かせた。
「今までの共感治療は毎回こんな感じだったのか」
「はい。でもいつも先にわたしが起こされて病室に戻されていから、こうやってここで先生とお話するのははじめてです」
先に起こされただと。共感医は対応しなかったのか。次々に疑問が湧き上がってくるが、今は我慢だ。
「本当にだいじょうぶですか、藍咲先生」
「大丈夫だ。ぼくだって慣れてるんだ」
ぴしゃりと言うと御門リンネは一瞬目を見開いた後、にっこりと笑った。この穏やかな少女の精神があんな状態とは。一体何がこの子をあんな風にしてしまったのだろう。ともかく、コアになっているであろう記憶は探り当てた。次からはこれを起点に共感を行うことになるだろう。
まもなく施術室のドアが開き、カスカに伴われて看護師が入ってきた。御門リンネはすっと立ち上がり、ぼくの方を見てまたにっこりと笑うと、看護師に着いて部屋を後にした。
「やれやれ。結局無茶をしやがって」
ふたりを見送った後、カスカが口を開いた。
「すまなかった。明日は覚悟してセラピーを受けさせて頂くよ」
「ああ、そうしろ。今日は先に上がれ。どのみち『システム』の修復をしなきゃならん」
どうやら先程の共感はぼくだけでなく『システム』にもかなりの負担が掛かったらしい。
「了解。すまないがあとは頼む」
慣れてるからな、とカスカが言う。皮肉のつもりだろうか。ともかく後のことはカスカに任せ、今日は休むことにしよう。そんなことを思いながら部屋を後にし、廊下を歩いていると突然後ろから呼び止められた。藍咲先生、と呼ぶその声に全く覚えがなかったぼくは、怪訝に思いながら振り向いた。そこにいたのは先ほどからぼくらの共感治療を見ていた研究員だった。
「何か」
「いや、先ほどは見事でしたね」
これだから研究員って奴は。心のなかで悪態をついてやった。患者をただのデータソースか何かだと思っていやがる。
「やはりあなたの才能は得難いものだ。『教授』の期待通りです」
朝どこかの老いぼれに言われたのと同じセリフを聞くはめになるとは思わなかった。
「それはどうも。では」
「ああ、ちょっと待って下さい。ぜひ聞いていただきたいことがあるんです」
それは果たして聞くべきだったのか。
「あなたの前任者たちですが」
どのみちぼくはもう引き返せない場所にいたのかもしれない。
「全員が彼女との共感後に閉鎖病棟に送られているんですよ。患者としてね」

2.陽炎の先



この体ははじめ、空っぽの器だった。
誰かがそれに名を与え、感情を注ぎこみ、そこに意味のようなものが生まれた。
それでもこの体は、心は、やはり器のままだった。
それは別にわたしひとりに限ったことではないはずだ。
人は皆生まれながらに虚ろで、本質的に生きる意味なんてない。
だからみんな怖いんだ。
不確かなもの、不安定なもの。
そんな恐怖から逃げたいがために、人は「生きる意味」なんて詭弁を信じ続けるんだ。



昨日の御門リンネとの共感による負担を鑑み、教授からは本日一切の共感を禁ずるとのお達しを頂戴した。しかし幸いデバイスを独断で使用した件については、緊急避難的な行動だったとして不問に付されることとなった。そんな訳で今日は朝も早くからカスカによる集中セラピーを受けている。
セラピーの内容は人によって千差万別で、催眠を用いる場合もあれば対話や薬物で行う場合もある。ぼくの場合は『リフレイン』を使用するのが定番になっている。リフレインとは、システムの機能を他者との意識場の同調ではなく自己の記憶の再生に特化させたモードだ。基準点となる記憶を追体験することにより他者の精神世界からのフィードバックを浄化、自己同一性を保持するというのがぼくとカスカのセラピー方式なのだ。今の自分を自分たらしめている記憶を繰り返し再生することで、『自分は自分である』という暗示に似た強い認識を精神に埋め込む。多くの人の記憶や感情に飲み込まれ、自分を見失うのを防ぐという趣旨だ。
「さて藍咲。今日はどこから始めるかね」
「いつも通りで頼む」
なかなかの座り心地の肘掛け椅子に座り、ヘルメットのようなヘッドパーツの下からぼくはそう答える。セラピーに使用する機器自体はシステムだが、リフレインモードでは専用のヘッドパーツを使用することになっている。
「了解。始めるぞ」
カスカがリフレインを起動させると同時に、まるでズームをするかのように視界が歪む。昨日の御門リンネの顔、その朝に見た老いぼれの顔、佐駅ユウコの顔。記憶を遡りながら、ぼくの視覚が認識する風景は矢継ぎ早に切り替わる。
「藍咲、何が見える」
カスカがモニタリングしているのはあくまでぼくの意識場や脳波の状態だけだ。視覚として得られる主観的情報までは読み取ることができない。
「どこかの老いぼれの顔が見えたよ。一気に進めてくれないか」
カスカは頷くと手元のARウィンドウからシステムを操作する。風景が切り替わるスピードがぐんと上がった。ここからぼくのキーとなる記憶地点まで一気に遡るのだ。
「どうだ藍咲」
カスカが尋ねる。見えるのは、そうだ、修習所の風景だ。共感医は通常の医師免許試験の他に様々な適性検査を受けたのち、一年半の間修習所で臨床共感についての座学や実習をこなす。ぼくとカスカはそこで出会った。淵守カスカ。ぼくより3ヶ月年上のその男は、現場に出る前からぼく専属のセラピストとして内定しているのだと言った。もちろんそれは教授が手を回していたのだけれど。しかしぼくらがそんな思惑を超えて親しくなるのにそう時間は掛からなかった。ぶっきらぼうだが裏表のないカスカは、人の内心に振り回されてきたぼくにとってはある種の希望のように映った。これまで同年代の友人が居なかったぼくもやはり、人並みに『友情』というやつに飢えていたのかもしれない。
「君が藍咲ユウか」
記憶の中のカスカが僕に語りかける。ちょうど修習の合間、昼食のため立ち寄った食堂での出来事だった。その頃のぼくは他人との繋がりを求める反面、人に触れることを恐れるというなんとも情けないジレンマの狭間に居た。人の心に触れるのが怖い。共感医の卵としてはあるまじき心理だが、他人や周りの大人たちから受けた傷に向き合うことから逃げていたぼくは、結果他人を遠ざけるという不器用極まりない方法を取らざるを得ないほど追い詰められていたのかもしれない。言うなれば当時のぼくは自己否定と他者否定で真っ暗になった部屋の隅で膝を抱えて塞ぎこんでいる子供そのもの。だがそんな部屋をノックする者が現れた。そいつは修習所食堂の大味な焼き魚定食をつまらなそうにつついていたぼくに声を掛けると、空いていた向かいの席に腰を下ろした。
「淵守カスカだ。君のバディに内定したので挨拶に来た。話は聞いているか」
「いや、まだ。こんな時期に決まるのか」
この時はまだ修習が始まって2ヶ月と経っていなかった。共感医の進路が決まるのは修習が終わる1,2ヶ月前というのが通例になっている。ある者は共感医に、またあるものはセラピストに。
「特例措置だそうだ。君の方にもすぐに話が行くだろう」
特例措置。その言葉にぼくの中の疑問は確信へと変わった。適性検査のとき、ぼくは共感と意識場に対して異常なまでの適合数値を叩き出した。ほどなくしてぼくは意識場研究の権威ともいうべきとある教授の許へ連れて行かれ、
実験段階にあったある技術の被験体に選ばれたことが告げられた。今にして思えば何かやりようがあったかもしれないが、ただの研修共感医だったぼくが一流の研究者に対する拒否権など持ち合わせるはずもない。かくしてぼくは国内3例目のデバイス保持者となり、その行動は逐一モニタリングされる運びとなったのだ。早い話が監視。貴重な実験動物が勝手なことをしないか見張るというわけだ。そんな背景を踏まえ、通常ありえないような時期にバディが割り振られるという特例措置。つまり教授が裏で糸を引いていることはまず間違いなかった。
「バディってことは、君はセラピスト志望なのか」
この修習所にいる全員が卒業と同時に共感医の資格を与えられる。だが共感医の資格を持ちながらセラピストを志す者も珍しくない。
「ああ、臨床共感の適性がイマイチだったのもあるが、元々やりたいことでもある」
へえ、とぼくはその程度の感想しか抱かなかった。他人がなにをしようが、なにを志そうが知ったことではない。その瞬間のぼくは確かにそう思っていた。もしかしたらこの男は教授の差し向けた監視役かもしれない。そんな風にも思っていたのだが、そのある種意地のような捻くれた思考は次のカスカの言葉によって綻びをみせることとなる。
「俺は人の心を知りたい。人と分かり合ってみたい」
カスカは確かにそう言った。人と分かり合いたい。他人や世界に失望していたぼくが、その実心の底に隠し持っていた強い願い。
「君はどうなんだ。なぜ共感医を目指したんだ」
続けざまにカスカが質問を投げる。ぼくは少し躊躇いながらその問に答えた。カスカはぼくの答えを聞くとおもむろに右手を差し出してきた。
「俺は幸運だ。いいバディに巡り会えたようだ」
握手。互いに武器を持っていないことを確認しあうことから始まったその行為は、ぼくらにとっては互いの心を通わせるきっかけになったのだった。そのとき『ぼくら』は、確かにそこに居た。そして『ぼくら』がやるべきことは、そこで決まった。

記憶のトンネルはさらに過去へと続く。次に見えたのは実家のリビングだ。実家と言っても児童養護施設で育ったぼくにとって、そこは結局他人の家以上には成り得なかった。ぼくは小さい頃からなんとなく人間の本心を感じ取ることが出来た。だから言われずとも、ぼくを引き取った夫妻が決してぼくを歓迎していないことも気づいていたし、なんらかの取引によってぼくがこの家に来たということも子供ながらに感じていた。後から思えば、里親に引き取られたにもかかわらず戸籍上はなんら変更がなかったことからもそれは明白だ。その家には犬がいた。犬種まではわからないが、せいぜい中型犬くらいの白い毛の犬だ。何の用事かは知らないが家を留守にすることが多かった養親の代わりに、その犬がぼくの唯一の遊び相手になっていた。ぼくは忘れられた子供で、いつも留守番をする寂しい子供で、それゆえに人との関わりをなによりも欲し、反面人に心を開くことをなによりも恐れていた。当然の成り行きとして、今現在養親とはほぼ絶縁状態にある。特に連絡をとる必要性も義理も感じない。経済的にも完全に独立してしまった今となっては、家族がいようがいまいが別段なんの支障もない。犬と遊びながら養親の帰りを待つそんな日々の中で、世界への絶望と他人の心への渇望はゆっくりと醸造されていった。お世辞にも綺麗な思い出とは言いがたいが、『この記憶』は確かにぼくの根幹を成している。トラウマと紙一重の記憶ではあるが、ぼくが自己同一性を保つには必要な記憶なのだ。

さらに場面が切り替わる。養親に引き取られる前に居た児童養護施設のプレイルームと呼ばれていた部屋だ。きゃあきゃあとはしゃいだ年少の子供の声が響く。ぼくはと言えば、部屋の隅で独り本を読んでいる。この施設には下は幼稚園児、上は高校生くらいまでの子供が20人前後いた。そんな中でぼくが孤立していたことには特に理由はない。『ただなんとなく』皆はぼくを避け、ぼくは皆を避けていた。子供は感受性が高い。きっとぼくに何か異質なものを感じ取り、本能的にぼくと関わるべきでないと判断したのだろう。そんなぼくにも、たったひとりだけ関わってくれる人がいた。ちょうど中学三年生くらいの女の子だったと思う。彼女は小学生のぼくが小難しい本を読んでいることに興味を持ち、色々な本を貸してくれた。学校で使っている教科書、外の図書館で借りてきた歴史の本、門外漢に向けて易しく書かれた量子論の本、そして医療共感についての本。やはりというか、ぼくが一番興味を示したのは医療共感の本だった。
「共感はね、他の人と心を通わせるためにあるんだよ」
ふたりで本を眺めながら、彼女はそんなことを言った。人と心を通わせる、と。
「ユウくんは他のみんなのこと、知りたくないの」
少しの間を置き、ぼくは首を振る。
「そっか、やっぱりひとりじゃ寂しいでしょ」
無言で頷く。
「わたしはね、将来共感を使うお医者さんになりたいんだ。つらい思いをしている人のことを助けてあげたいの」
共感を使う医者。そのキーワードはぼくの中に深く刻み込まれた。
「ユウくんは大きくなったら何になりたいの」
将来の夢。子供の頃は馬鹿のひとつ覚えのように聞かされるその言葉。ぼくは、わからない、と答えた。
「ユウくんには少し早かったかな。でもいつか見つかるといいね。ユウくんが本当にやりたいこと」
彼女は微笑むと、ぼくの頭を撫でてくれた。ぼくはそのとき自分の心に今までになかった感情が芽生えるのを感じた。恋。いやきっと違う。他人と心を通わせる喜び。多分そんなところだ。

「藍咲、聞こえるか。そろそろポイントアルファだ」
現実のカスカがぼくに声を掛ける。ポイントアルファ。つまり記憶を遡れる限界点。ぼくのすべてのはじまりの記憶。トンネルを抜けた瞬間のホワイトアウトのように、視界が光に塗りつぶされる。その向こう、真夏の陽炎に揺らめく風景が見えた。青い空、一面の黄色いじゅうたん、蝉の声、遠い入道雲。ぼくは手を引かれて歩いている。足元に視線が移る。買ってもらったばかりの真新しいサンダル。隣には自分を見下ろす姿があった。『父さん』。記憶の中のぼくがそう呟いたのか、セラピールームにいる現実のぼくがそう口にしたのかはわからないが、とにかくその姿は応えるようにぼくに語りかけてきた。
「ユウ、空がなぜ青いか知っているかい」
ぼくが返答できずに首をかしげていると、その人はこう続けた。
「空の青は空気の青、そして海の青。すなわち青とは、生命が必要とするものすべての色なのさ」
青空に目を向ける。海の写身のように青い空。もちろんその時のぼくは幼すぎて、その言葉の意味も真意も解らなかった。
「お前にもきっとわかる日が来るよ。そうしたら、また父さんに会いに来てくれ」
繋がれた手が離れる。
「ユウ、父さんはお前を待っている。信じている」
ぼくのはじまり。父さんとの約束。そうだ、ぼくはここに居て、ここに生きている。

その認知がぼくの無意識に刻まれると同時に、急速に風景が歪み始める。現実世界のカスカの声が聞こえた。
「完了だ。意識場は安定。フィードバックの影響もほぼ浄化された」
意識が切り替わり、ぼくの目にはセラピールームの椅子に座るカスカが映った。
「気分はどうだ」
「お前は本当に頼りになるセラピストだよ」
カスカは一瞬目を見開くと、少し肩をすくめてみせた。
「そりゃどうも。とにかく御門リンネとの共感で負ったダメージはほぼ回復した。明日からはいつも通り共感治療の許可も下りるだろう」
ありがとう、と言うとぼくは椅子から立ち上がった。
「行くのか、御門リンネのところに」
こいつには共感などなくともぼくの心が見えるらしい。
「ああ、少し話がしたい」
「そうか。だが共感はするなよ。せっかく回復させてやったんだからな。それに上もうるさい」
「わかってるよ。話すだけだ」
片手を上げてカスカに応えると、ぼくはセラピールームを後にした。廊下を歩きながら手元にARウィンドウを表示させ、御門リンネの患者情報を検索する。彼女の病室を確認して少し驚いた。彼女が収容されているのは閉鎖病棟の最奥、先日工事が入って新設された特別な部屋だった。まるで御門リンネを迎えるために作られたように思えたのは、気のせいだろうか。



御門リンネの病室は閉鎖病棟にある。閉鎖病棟といってもセキュリティが厳重なだけで、特に圧迫感を感じさせる閉鎖性はない。精神医療に共感が導入されてから数十年。重篤な精神疾患が長期化するケースは確実に減少し、閉鎖病棟の存在感も薄れつつあった。ふと昨日の夜、あの研究員の男に言われた言葉が脳裏をよぎった。御門リンネを担当した共感医は全員閉鎖病棟送りになった。それはつまり共感をもってしても長期化が避けられない重篤な状態に陥ってしまったということだ。理由はなんとなくわかる。あの赤黒い流れに飲まれてしまったのだろう。果たして『帰ってこられた』のか。ぼくとてデバイスがなければ彼らと同じ運命を辿っていたに違いない。まったく癪だが、今回ばかりはデバイスに感謝しなければならない。閉鎖病棟をさらに進むと、分厚いクリーム色の隔壁じみた扉が現れた。この先が新設された区画。この先が御門リンネの病室だ。IDを提示し扉のロックを解除する。さらにその先の廊下を進んでいく。それにしてもこの厳重さは異常だ。御門リンネはその症状が未知のものであるという懸念材料はあるにしろ、ここまで隔離する必要があるのか。これも教授の思惑のうちなのかもしれないと思うと、無性に腹が立った。先ほどのセキュリティはどこへやら、御門リンネの病室のドアは通常の病室と何ら変わりのないものだった。ドアの横のパネルに手をかざし、改めて患者情報を照合する。間違いなく、ここは御門リンネの病室だ。IDを掲示し入出許可を求める。しばらくののち、鈴の転がるような声がどうぞ、と告げた。
「失礼します。具合はどうですか、御門さん」
仕事モードの口調に切り替え、声を掛ける。
「だいじょうぶです。元気です」
にっこりと微笑む御門リンネはベッドの上で本を読んでいた。メガネを掛けている。昨日会った彼女は、どちらかと言えばあどけない印象を受けていたのだが、大きめの黒縁メガネはやや大人びた雰囲気を感じさせる。
「先生のほうはだいじょうぶですか」
患者に心配をされるのは医師としては失格かもしれない。
「ご心配をおかけしました。なんともありませんよ」
それを聞いた御門リンネは安堵の表情を浮かべた。
「よかった。わたし、どこの病院でも先生たちに迷惑ばっかりかけてて」
前任者たちの末路を知ってか知らずか、彼女は目を伏せながら後悔するようにそうこぼした。
「患者さんを治療することがわたしたちの仕事です。迷惑をかけただなんて思う必要はありません」
その言葉は御門リンネだけでなく自分にも向けたものだ。これはぼくらの使命。それを確認するために。
「そう、ですね。ところで先生、今日は確か共感はないはずですけど」
「今日は治療のために来たんじゃありませんよ。御門さんとゆっくりお話をしたいと思いましてね」
その言葉を聞いた途端、御門リンネの大きな目にみるみる涙が溜まっていく。何かまずいことを言ってしまっただろうか。
「ごめんなさい。嬉しくて。今までこんなふうに接してくれたひと、いなかったから」
年甲斐もなくうろたえるぼくに彼女はそう答えた。その言葉から、前任者たちがどんな対応をしてきたかは想像に難くない。正体不明の精神疾患。共感してみれば待っているのはあの光景。デバイスという保険を持っていたからこそ、ぼくはあれに立ち向かえたのだ。それを持たない前任者たちが恐れをなしていたのは至極当然といえる。尤も医師としては完全に失格だが。
「先生、ひとつお願いしてもいいですか」
涙を拭いながら彼女がそう訊く。
「なんでしょう」
「敬語、しなくてもいいです」
患者との適度な距離感は治療に良い効果をもたらす。と、そんな理屈をこねるまでもなく、ぼくも彼女の提案に従うのが自然なように思えた。
「わかった。君がそう言うなら」
ぼくが普段の口調でそう言うと、御門リンネは見たこともないほど嬉しそうな顔をした。本当に良く表情の変わる子だ。
「ありがとうございます。嬉しいです」
読んでいた本を閉じると、彼女はメガネを外した。
「目、悪いのか」
「いえ、本を読むときはメガネを掛けるのが習慣なんです」
「そうか。本は良く読むのか」
彼女の手元の本に目を遣る。今しがた彼女が読んでいた本にはピンク色のリボンの付いた栞が生えていた。
「はい。入院する前も本は好きだったんですけど、やっぱり病室にいると暇で」
この病院にはかなり大きな図書館もある。研究所が併設されていることもあるが、その蔵書はかなりのものだ。ぼくもよく使う。
「ここの図書館は大きいからな。それは小説」
「はい。わたしの好きな作家さんのです」
そう言って彼女が差し出してきた本を見ると、ぼくも良く知る作家の名前が印刷されていた。図書館には専門書だけでなく小説などの一般向けの書籍も揃っている。これは御門リンネのような入院患者のことを考慮してのことだ。
「君も逆月ミカゲが好きなの」
「先生も知ってるんですか。わたし、大好きで」
女性作家として有名なその人物は、『家族』というモチーフを題材として生と死についての物語を数多く発表している。女性的ななめらかな文体と深遠なテーマ。養親の家でひとりで過ごすことの多かったぼくは、家族というものを疑似体験する手段として良くその作家の本を読んでいた。
「ぼくもよく読んだよ。やっぱりデビュー作が好きでね」
「わたしもです。なんていうか、ああいう家族の形もあるんだなって」
そこからぼくらは口火を切ったように話をした。件の作家の本の話から始まり、好きな食べもの、動物、映画、音楽。昨日垣間見た彼女の傷を突くことを巧みに避けながら、ぼくらはたくさんの話をした。
「なあ、少し外に出てみないか」
「え、でも」
御門リンネは驚いたように目を見開く。閉鎖病棟の特別室じゃ息が詰まる。いくら精神に優しい内装にしていたとしても、閉鎖されているという事実は変わらないのだ。はめ殺しの窓を見てぼくはそう思った。手元にARウィンドウを呼び出し、御門リンネの外出許可を申請する。すると意外なほどあっさりと許可が下りた。
「外出許可が下りたよ。行こう」
「え、ちょっと待って下さい。着替えなきゃ」
女性患者に支給されるピンク色のパジャマを着た彼女は、両手で自分の肩を抱きながらおろおろしている。
「別に街に行くってわけじゃない。そのままでもいいんじゃないか」
ぼくがそう言うと、なぜ彼女は頬を膨らませた。
「もう先生、なにもわかってません。いいから着替えますから、出てってください」
女の子は怒らせないに限る。そう判断したぼくは黙って従うことにした。

病室の前で待つこと数分。出てきた彼女はグレーのスカートにピンク色のトップスという出で立ち。
「どうですか、先生。変じゃありませんか」
それじゃまるで初デートのときに彼氏に言う言葉だ。
「ああ、変じゃない。行こうか」
「はい」
ぱあっと表情が明るくなった彼女を引き連れ、何重かのロックを解除し、病棟の外へ出る。外出許可と言ってもこの場合は病院の敷地内までという制限が付いている。それでも外の空気が吸えるだけマシだ。病棟の出入り口をくぐると蝉の声がぼくらを包み込んだ。空は青く、遠くには入道雲も見える。病棟の中庭まで来た僕らは、手近な日陰を見つけるとそこに置いてあったベンチに座った。
「なんか久しぶり」
固まっていた体をほぐすかのように伸びをしながら、彼女がそう呟いた。
「前の病院も、その前の病院も、ずっと部屋にいなさいって言われてたから。外に出るのは別の病院に移るときだけだったんです」
なんとなく予想はついていたが、やはりそうだったか。
「わたし、本当にうれしいんです。先生が来てくれて」
「そりゃ良かった。ぼくもちょうどいい息抜きになる」
それを聞いた彼女はまた穏やかな笑みを浮かべる。ぼくはふと思いつくと彼女にここで待っているように言い、立ち上がった。ちょうどこのあたりに自動販売機があったはずだ。日陰とはいえこの炎天下。患者を脱水症状にでもしたら大事だ。ペットボトルの清涼飲料水を2本買うと、ぼくはベンチにちょこんと座っている彼女の許に戻る。
「ほら。ちゃんと水分とらなきゃ」
ぼくがそう言って片方を差し出すと彼女はありがとうございます、とそれを受け取った。こくこくとペットボトルを傾ける彼女を見てから、ぼくは視線を空に移す。青い。それ以外の形容詞が見つからないほど、潔い空だった。
「いい天気ですね」
いつの間にかペットボトルから口を離していた彼女がそう言う。ああ、まったくいい天気だ。
「夏って、なんか懐かしい気持ちになりませんか」
解る気がする。夏の暑さ。蝉の声。夏休み。プール。花火。夏祭り。生憎とぼくはそのすべてを体験したわけではないけれど、それでも夏の持つノスタルジックな空気は嫌いではなかった。朝のセラピーを思い出す。『あの日』も確か夏だった。
「なあ、君はここから出たら何がしたい」
『あの日』の記憶にあてられたのか、ぼくはそんなことを訊いてみた。
「そうですね。おいしいもの、食べたいです」
ああ、昨日のあの顔だ。本当に幸せそうに緩んでいる。
「あと、お買い物とかしたいです。その、普通の女の子がするみたいに」
迂闊だった。今日は彼女の深層心理に関わる話題は避けようと思っていたのに。うつむきながら彼女は続ける。
「本当に、できたらでいいんです。夢、なのかな。空が飛べたらとか、わたしにとってはそんなくらいのことで」
さっきまでひまわりのようだった彼女の顔は、すっかりしおれてしまった。その瞬間ぼくを支配した感情は一体何だったのか。義務感。使命感。それとも同情。いや、もっと違う何かだ。
「約束する」
え、と彼女はぼくを見る。
「ぼくが君を必ず治す。君の夢はぼくが叶える」
それは御門リンネに対する約束であり、自分自身への宣言であり、そして彼女に巣食うものに対する宣戦布告でもあった。ふと、隣から嗚咽のような声が聞こえた。驚いて見ると彼女の大きな目からぽろぽろと涙が落ちている。
「せんせい、わたし、がんばります。だから、おねがいします。たすけて」
あまりにも悲痛な叫びだった。一体彼女は今までどれだけのものをその小さな肩に背負ってきたのか。惨たらしい記憶に支配され、あんな心象風景を抱え、あまつさえ頼みの綱の共感医にも匙を投げられ。彼女はきっと独りだったのだ。ずっと独りで苦しんできたのだ。かつてのぼくがそうだったように。カスカに出会うまでのぼくがそうだったように。
「ぼくは医者だ。君は絶対に治してみせる」
いつの間にかぼくは彼女の頭を撫でていた。彼女の嗚咽は収まり、徐々に落ち着きを取り戻していた。頭を上げた彼女は涙を拭い、精一杯の笑顔でぼくにこう訊いた。
「先生、またお願いしてもいいですか」
「ああ」
もしかしたら、それがすべての始まりだったのかもしれない。
「『リンネ』って呼んでください」

3.痛みの海


差し込む陽に光る埃を眺めていた。
ただぼんやりとした幸福感。
喩えて言うなら幼い日の昼下がり。
喩えて言うなら遊離した夏の陽。
ただぼんやりとした遠い記憶。
それがいつだったか、それが誰だったか。
今ではもう、思い出せない。



 それからの数日間、ぼくはリンネの病室に通った。相変わらず彼女はメガネを掛けて本を読んでいた。ぼくが来ると彼女はメガネをはずし、柔らかく微笑む。それからぼくらはまた本の話をした。何度か外出許可を申請したものの、先日のそれが特例だったのか、ついに許可が下りることはなかった。時折研究チームの人間がやってきては彼女を連れて行き、検査を行っていたようだ。外出と呼べるのはそのくらいだった。
「先生」
その日もリンネは研究チームによる検査から戻ってきたところだった。
「また本、お願いしてもいいですか」
「ああ」
部屋から出ることも制限されているリンネに代わり、ぼくは彼女のリクエストした本を図書館から借りて持ってくる。ここ数日の日課だ。あれから何日も経っているにもかかわらず、彼女への共感禁止令はまだ解かれていない。ぼくに出来るのは、こうして彼女の話し相手になることだけだった。それでリンネの気が紛れているかどうかは疑問だが、独りで本を読んでいるよりはマシなのだろう。外出許可が下りたあの日、くるくると様々な表情を見せてくれた彼女は今、どこか落ち着いた雰囲気でぼくの前に居る。外出が出来てはしゃいでいたのか、はたまた情緒不安定だったのかはわからないが、とにかく今の彼女の精神は『低いレベルで安定している』と表現するのが適当だ。共感の許可が下りない現状、ぼくは旧来の精神科治療の手法に則り数種類のサプリメント――かつては向精神薬とよばれていたそれ――を処方していた。寝付きは悪いが睡眠はできている。食べる量は少ないが食欲もないわけではない。サプリメントの効果により、ある程度の安定を見ているというのが彼女の現在の状態だ。だが結局これは付け焼き刃でしかない。根本的な不調を取り除くためには、やはり共感を行う必要がある。彼女のコア記憶を探り当てた瞬間のことを思い出す。床に倒れている男女。おびただしい量の血。そして自分を見下ろす男。彼女はそのフラッシュバックに今も襲われているようで、ぼくと話しているその瞬間にも苦しそうに顔を歪めていた。PTSD。心的外傷後ストレス障害。医療共感に取って代わられる以前の精神科ならばそう診断されていただろう。だがぼくははじめその判断を留保していた。それは彼女の意識に潜った時に遭遇した、もう一人の『御門リンネ』のことが気に掛かっていたからだ。激しいトラウマから自己を守るために記憶を切り離し、その切り離された部分が独自の人格を形成する。解離性同一性障害と呼ばれる症状だが、彼女の場合はもう一つの人格が表層に現れることがない。ゆえにそうであるとも断定できない。結局彼女には複雑性PTSDという暫定的な診断を下し、経過を観察する方針を取らざるを得ない状況にあった。ようやく彼女への共感治療が許可されたのは、それから2日後のことだった。



「御門リンネ。当該患者に対する治療には『侵襲型深層意識干渉制御デバイス』の使用をもってするのが適当と判断」
カスカがARのデータを読み上げる。昨夜遅くに研究チームから送られてきたものだ。当然上には教授がいる。したがって報告書の体を成してはいるが、実質的には命令書と変わらない。
「チームはすでにデバイスのことを知っているようだな」
「教授の直轄なんだから当然といえば当然だろ」
研究等の部屋でアイスコーヒーを啜りながらぼくはぶっきらぼうに答えた。あの老いぼれ。リンネと共感した人間の中でぼくが唯一『生還』できたのはやはりデバイスあっての事。それは誰も否定することの出来ない事実だった。上の意向によって話が進むのは気に食わないが、しかしこれはある意味で喜ぶべきことでもある。自分の手で確実にリンネを治療することができるという意味において。
「深化にはシステムを使用。無意識階層からはデバイスを使用」
手順を淡々と読み上げるカスカ。ぼくとカスカの間では依然デバイスは保険であるという認識だ。だが研究チームの方針はどうやら違う。要するに今回の報告書によれば、デバイスをメインの手段として積極的に使用せよ、ということらしい。それにしても主治医であるぼくを抜きに治療方針を決定するとは、まったくあの教授らしいことだ。人を駒としてしか考えていない。アイスコーヒーのグラスを置く。中の氷がからんと音を立てた。
「無茶な要求だな」
吐き捨てるようにカスカが言った。
「無茶は承知だよ」
なだめるように言ってはみるものの、これまでの自分の行動を思い返せば実に空虚な言葉だ。カスカが大げさに溜息をつく。今回はカスカの言い分の方が強い。ぼくはまだデバイスのすべての性能を完全に制御できるわけではないからだ。
「コア記憶にはマーカーをセットしてきた。前回よりはいくらかマシだ」
まるで励ましのようだ。自分で言っておきながらそんなことを思う。先日死にそうな思いをしながら探り当てたコア記憶。そこにマーカーをセットしたことで、次からはダイレクトにその記憶領域に潜ることができる。いわばショートカット。佐駅ユウコの『内なる子供』に使ったものと同じ原理だ。
「よくやった、と言いたいところだが無茶をしすぎだ。いくらデバイスがあっても飲まれれば死ぬぞ」
それは重々承知。前回の共感で文字通り痛いほど理解した。
「いざというときは強制サルベージで引き揚げてくれ」
ぼくがそう言うと、カスカは諦めたように分かったと一言だけ言った。



 研究棟から処置室に移ったぼくらは、そこでリンネを待っていた。部屋にはもう一人、例の研究員の男がいる。ぼくが目を遣ると笑顔で会釈をする。その掴みどころの無さが実に気に食わない。ほどなくして看護師に付き添われたリンネが入ってきた。その表情は穏やかというよりも無表情で、そこから何かを読み取ることは出来ない。本の話をした時の表情。病棟の中庭で話した時の表情。間違いなく同一人物で同一の人格のはずなのだが、やはりどこか別人のような気がしてしまう。
「気分はどうだ」
そう訊いたぼくに彼女はあの穏やかな笑みを浮かべながら、大丈夫ですと小さく答えた。そのあまりの儚さにちりっと胸が痛む。決して取り繕っているような表情ではないけれど、その裏に潜む痛みの存在をぼくは確かに感じていた。ぼくが施術室の分厚いドアを開けるとリンネは促すまでもなく奥へと進み、患者用の機器に座る。複雑な思いを抱きながら、ぼくもシステムの片割れに身を委ねた。管制室のほうを見ると、カスカが無言で頷くのが見えた。
「気分が悪くなったらすぐに教えてくれ」
ヘッドパーツの裏に投影されるコンソールを見ながら、ぼくは隣のリンネにそう声を掛ける。リンネがはい、と答えたのを合図として、ぼくはカスカにシステム起動の指示を送った。すみやかにシステムが起動し、視界が歪む。意識が切り替わるとぼくとリンネはいつも通りホワイトルームの中央で向き合っていた。
「大丈夫か」
「だいじょうぶです」
短い会話で状態を確認する。
「これから君の記憶に直接共感する。そこで君の痛みの原因を取り除く」
患者への意思確認。それは同時に無意識階層への進入許可を得る行為でもある。
「はい、おねがいします」
リンネが即座に答える。ぼくは頷くと彼女のドアに向かって歩みを進めた。その目の前まで来ると、ぼくはノブをひねらずにドアに手をかざす。透き通る緑の光がドアに複雑な模様のサークルを描いた。これがショートカット。このドアを開ければあのグロテスクな空間ではなく、リンネのコア記憶へ直接アクセスすることができるはずだ。
「先生」
ふと後ろにいるリンネが声をかけてきた。
「どうした」
振り返りざま、そう訊く。
「また外、連れてってください」
その言葉を聞いて、再びぼくをあの感情が支配した。使命感や義務感を超えた何か。
「約束する」
精一杯の力強い声色でそう答え、ぼくはドアノブをひねった。ドアの隙間から明るい緑の光が溢れる。成功だ。ショートカットがうまく機能している。ぼくがそのままドアを開け放つと、その先にあったのは天地が逆転した夕焼けの空だった。上には街、下には空。その空の先、つまり下に向かって何重もの緑のサークルが並んでいる。この『道』はコア記憶へ直結しているはずだ。ぼくは意を決してその道に飛び込んだ。



 まったくでたらめな物理法則に従って、ぼくは空へ落ちていく。ひゅうひゅうと風を切る音がやけに大きく聞こえた。周りの風景を見ると、まるでノイズが走るように夕焼け空に赤黒い模様が現れては消える。やはりあのグロテスクな空間の影響を受けているらしい。ショートカットが形成する道を外れれば、ぼくもその赤黒の先に落ちていってしまうだろう。視界の隅、不安定な空をバックに鳥のようなものが群れをなして飛んでいる。鈍く光るそれは不安定な空間の破片か、それともリンネの記憶の断片だったのか。再び前を見据える。程なくして光の道の先に無数の黒い球体が現れた。光の道はその内のひとつに突き刺さるように続いている。あれがリンネのコア記憶か。球体はみるみる近づき、やがて水に落ちるような感触とともにぼくはその内部に飛び込んだ。内部はまるで血の海のように重く粘着く液体で満ちている。光の道はさらに先へと続いていた。
「藍咲、聞こえるか」
カスカの声が響く。
「対象はすでにフェイズシータ。マーカーの反応も近づいている。だが意識場がかなり不安定だ。注意しろ」
カスカの言葉を証明するかのように、ぼくを導いていた光のサークルに赤黒い模様が浮き出始めた。最初にリンネと共感した時のように、ぴしりという音が聞こえる。
「ショートカットが侵食されてきてる。固定できるか」
「こちらからはすでに最大出力で固定している。これ以上は無理だ」
前に進みながら後ろを振り返ると、すでにぼくの通ってきた道は黒く塗り潰されて消えていた。侵食のスピードが速い。このまま先に続く道も消えてしまえば、ぼくはリンネの意識の中に取り込まれてしまう。それが何を意味するか、考えるまでもなかった。粘着く嫌な感触を掻き分けながら、ぼくは光の指し示す方に落ちていく。しばらくすると光の先にひとつの風景が近づいてきた。それは紛れも無くあの時に垣間見た風景。フローリングに広がる血だまりと倒れる男女。侵食はすでに真横にまで迫っていた。侵食が目の前の光を塗りつぶすその一歩手前、ぼくの伸ばした手が間一髪『その風景』に触れた。次の瞬間、粘着く液体の感触が消え、ぼくの足はしっかりとリビングの床を踏みしめていた。しかしほっと一息付いている暇はない。まずは周囲を確認する。カーテンが細く開いたリビングには夕日が申し訳程度に差し込む。ソファ、テーブル、テレビ。どこにでもあるような光景だ。ひとつ違う点があるとすれば、血だまりの中に倒れる男女とそれに縋りついている少女の姿。
「コア記憶領域に進入」
カスカに現状を報告する。
「いつでもデバイスを使えるようにしておけよ」
そう、今回は出し惜しみなしだ。いざというときには強制サルベージがあるとは言ったが、あれは患者と治療者の双方に負担を掛ける。あくまでそれは最後の手段で、そう何度も使うべきものではない。前提は自力での帰還であり、そのためにはデバイスを使用せよというのが今回の方針なのだ。了解、とぼくはカスカに答え、血だまりに向かって足を踏み出した。その足音に気づいたのか、少女がびくりと肩を震わせる。
「やだ」
栗色のふわふわした髪が震えている。
「こないで」
カーテンの隙間からは相変わらず夕日が差し込んでいた。ぼくは構わずに少女に近づく。
「大丈夫だよ。リンネ」
「やだ、ころさないで」
安心させるための言葉も今の彼女には届かない。リンネの拒絶の言葉を合図として、またあのぴしりという音が響く。
「ぼくは君を助けに来た」
部屋の壁に、天井に、爪で引っ掻いたような痕が浮かび始める。まるで手首を切ったかのように、その痕からどろりと赤黒い液体が滲み出してきた。
「ぼくは君を殺しに来たんじゃない」
赤黒い液体は壁と天井を這い、部屋全体を包み込まんと広がってくる。部屋全体が軋むような音もそれに加わる。幼いリンネは相変わらずぼくに背を向けたまま、血だまりの淵で小さく震えていた。
「ぼくは君を助けに来た」
言い聞かせるように繰り返す。赤黒い液体は確実にぼくの足元に近づいてきていた。ぼくの言葉が届いたのか、震えの止まった小さなリンネがゆっくりと振り返った。瞬間、その表情を見てぼくは戦慄した。能面のようにのっぺりと表情のない顔。本来目のあるべき場所には黒い穴が穿たれ、その虚ろな眼窩からは部屋中に染み出しているのと同じ赤黒い液体がゆるゆると流れ出ている。
「おとうさんとおかあさんをたすけて」
震えていた先ほどまでのリンネとは全く違う、何の感情もこもっていない声がそう告げる。普通なら愛らしいと感じる小首を傾げる仕草も、その顔の不気味さを一層引き立たせるだけだった。
「すまない。それはできないんだ」
共感の目的は記憶の改竄ではない。だからすでに起こってしまったこと、すでに記憶されている事象に手出しをすることは許されない。
「どうして」
「ドウシテ」
「ドウシテ」
壊れたおもちゃのようにリンネはその言葉を何度も重ねる。すまないと心の中で唱えながら、ぼくは彼女に近づこうと一歩足を踏み出した。その瞬間だった。
「うそつき」
リンネがぼそりと呟くと同時に、壁と天井が赤黒い液体に押し潰されるように撓んで砕け散った。スローモーションのように時間が引き伸ばされ、『それ』はじわじわとぼくを飲み込もうと迫ってくる。まずい、このままでは。ゆっくりと進む時間の中、ぼくは何度もリンネの名を呼んだ。いや叫んだ。だが彼女は相変わらずその虚ろな目でぼくを見据えるだけだった。リンネの傍に駆け寄ろうとするが、周囲の時空間の停滞に影響されているのか、ぼくの歩みはまるでゲルのなかを掻くように鈍重だった。赤黒い流れは今にもぼくの体に触れようとしている。
「リンネ、こっちだ」
ありったけのその叫びが届いたのか、リンネの虚ろな顔に一瞬だけ表情が戻ったように見えた。その薄い時間の切れ間、ぼくは確かにリンネの声を聞いた。
「たすけて」
その言葉を意識が認識するのとほぼ同時に周囲の時間が正常に戻り、なすすべもなくぼくは赤黒い液体に飲み込まれた。ぬるりとした感触が全身を包み込む。肺と消化器官を蹂躙しようと、開いた口から液体がずるずると流れ込んでくる。さらには体の表面からもぼくの中に侵入しようと、それが染みこんで来るのを感じていた。それと一緒に流れ込んでくる感情の奔流。恐怖。怒り。嫌悪。絶望。憎悪。リンネの内に秘めた負の感情がぼくを侵そうと蠢いている。頭の奥、遠くからカスカの声が聞こえた。感覚マスクは役に立たない。奔流に蹂躙され尽くすのも時間の問題。意識場の均衡が崩れたせいか、それきりカスカの声は聞こえなくなった。ただ独りでどす黒い感情の血海の中、じわじわと死が忍び寄る足音を聴いている。耳元ではさっきからリンネの声が聞こえていた。ただしそれは紛れも無い怨嗟の声。両親を助けられなかった自分を責め、呪い、そして世界に絶望した少女の泣き叫ぶ声だった。聴覚が認識する怨嗟の叫びは、ぼくの意識を確実に蝕んでいく。その中でぼくが辛うじて自我を保っているのは、リンネとの約束を覚えていたからだ。必ず治療を成功させて『外』へ連れて行くという約束。リンネの顔が脳裏をよぎる。助けて欲しいと泣いていた顔。本の話をするときの楽しそうな顔。普通の女の子のように生活したいと寂しそうに呟いたときの顔。そうだ、思い出せ。ぼくは約束した。リンネを救うと約束した。その言葉、思考を何度も反芻する。これはリンネの痛みの海。このどす黒い色を、あの日ふたりで見た青空に変えてやる。だからリンネ、諦めるな。ぼくも諦めない。ぼくはこんなところで『死ぬわけにはいかない』。

 爆発的な光の奔流。リンネの感情に蹂躙され尽くすその一瞬前、ぼくの意思を読み取ったデバイスが起動したのだ。明るい緑の光が赤黒い海の中で恒星のように輝く。同時に体の感覚が戻ってきた。ぼくの意識場の出力が指数的に上昇するにつれ、赤黒い液体が体から離れていくのを感じる。やがて明るい緑の光はぼくの周りを球状に包み込んだ。ひとまず安全は確保した。リンネを探さなければ。ぼくを包む球体から血海に向かって光が放たれた。これはいわばソナー。意識場を拡散させることで記憶領域内を走査するというものだ。ゆっくりを目を閉じ、意識を集中する。『リビングの風景』だったコア記憶は、今リンネの姿にまで収束している。つまりリンネを見つけさえすればいい。ぼくの意識場が放たれていった先、血海の赤黒が一際濃い場所に幼いリンネの存在を感じた。目を開ける。コア記憶にセットしたマーカーはまだ生きているはずだ。リンネを感じた方向に向かって手を上げると、ショートカットに似た光の道がすっと形作られた。ソナーとマーカーの両方から得られた座標を重ねあわせ、リンネに向かう道を開く。待っていろ、リンネ。今行く。道に引き寄せられるようにぼくは進み始めた。意識場のバリアのおかげでまわりの赤黒の抵抗はない。怨嗟の叫びは遠ざかり、今は遠くからすすり泣く声だけが聞こえる。
「聞こえるか、カスカ」
「藍咲、無事なのか」
意識場の出力が上がったことで外の世界とのリンクも回復したらしい。
「ああ、デバイスを起動した。これから治療に向かう」
「了解した。だが念のためサルベージの準備をしておく」
デバイスの活動限界は正確に把握できていない。とにかく今は時間が惜しい。ぼくは光の道を突き進んでいた。すすり泣く声が段々大きくなってくる。目の前には相変わらずの赤黒と一筋の光。デバイスの性能を持ってしてもこの血海を制圧し切ることは難しいということか。だが今はそれでいい。リンネに辿り着くことさえできれば。やがて道の先に光が差し始めた。ぼくのそれと同じ明るい緑の光。スピードを上げてさらに突き進む。あそこにリンネがいる。確信めいた思いを抱きながら、目の前に立ち塞がった赤黒の壁をぶち破った。その先にあったのは緑の光に満ちた空間だった。真ん中に小さなリンネが蹲って泣いている。宙に浮いていた感覚は消え、見えない地面を足が捉えた。
「リンネ」
名前を呼ぶぼくの声が空間全体に反響する。その声に気づいたリンネが顔を上げた。真っ赤に泣き腫らしたあどけない顔。さっき見た悪夢のような表情ではない。ちゃんと人間の顔をしている。
「もう大丈夫だよ」
ゆっくりと近づく。多少の怯えはあるものの、拒絶の意思は感じない。そのまま傍まで行き、小さなリンネを抱き締めた。
「もう大丈夫」
安心させるように繰り返す。
「おとうさんとおかあさんが」
泣いて枯れた喉でリンネがそう呟く。
「すまない。助けてあげられなかった」
抱き締めたまま、ゆっくりと頭を撫でる。
「わたし、なにもできなかったよ」
涙声で後悔を口にするリンネ。
「君は悪くない。君のせいじゃない」
ぼくは何度もその言葉を言い聞かせる。リンネの潜在意識に認知を刻み込むように。
「わたしもしんじゃうの」
ぼくの言葉の切れ目、リンネがそう訊く。
「君は死なない。死なせない」
それはリンネに向けた言葉だったのか、それとも自分への宣言だったのか。
「君はぼくが守る。君は独りじゃない」
その言葉を聞いたリンネがぼくの方を見た。その表情は驚いたようにも安心したようにも見える。柔らかな光が満たす空間で、ぼくらはしばらくそうして見つめ合っていた。ゆっくりとリンネの表情が変わり、ぎこちない微笑みを浮かべた。その笑顔はこれまで見てきたリンネのそれよりもずっと純粋で、無垢で。たぶん『これ』が本当のリンネだったのだろう。ぼくはやっとリンネの心に触れることができたのだ。
「ありがとう」
リンネの口が言葉を紡ぐ。それは決して強がりなどではない、本心からの言葉だった。ぼくも笑顔で頷き、それに応える。それを見て安心した表情を浮かべたリンネは、やがて光に包まれ消えていった。その残滓を見届けると、ぼくはゆっくりと立ち上がった。
「治療完了。帰還する」
やるべきことはやった。あとは帰るだけだ。そう安心したのも束の間、急速に空間を満たす光が弱まってきた。デバイスの活動が低下している。みるみる空間にヒビが入り始め、例の赤黒い液体が滲んできた。
「カスカ、強制サルベージを」
ぼくがそう言い終わる前に、球状に広がっていた空間が砕け散り赤黒い濁流が一気に押し寄せてきた。デバイスに意識を送るが、思うように出力が上がらない。赤黒は鼻先まで迫っていた。まずい、飲まれる。

そう思った瞬間、誰かがぼくの手を掴んだ。



 ふと気づくと赤黒い血海は消え、ぼくは初めてリンネに共感した時に見たあのグロテスクな空間に立っていた。
「危なかったですね」
声の主を見る。案の定、そこに居たのはあの『リンネ』だった。黒いワンピースを着た『御門リンネ』は、心底楽しいといった表情でぼくを見ている。
「助けてくれたのか」
「そう捉えて頂いて結構です。死なれるわけにはいかないから」
にっこりと、しかし退廃的な微笑みを浮かべる『御門リンネ』。周囲の空間は相変わらず内蔵をぶちまけたように赤黒く蠢き、中空には血管のような流れがある。なぜまだ『ここ』があるんだ。さっきリンネには認知を刻みこんできたはずだ。にもかかわらずまだこの心象風景がある。説明の付かない事態だった。
「びっくりしましたか。でも先生のしたことは無駄じゃありませんよ。確かに『わたし』は救われました」
「ならなぜ君がここにいる。ここは何だ」
最初に遭遇したときと同じ質問をする。
「言ったでしょ。あたしは『わたし』。そしてここは『わたし』の中」
はぐらかされているのか、まったく答えになっていない。
「質問に答えてくれ。君は誰だ」
大人気なく苛ついた調子で訊くと、彼女はまた楽しそうな表情を浮かべて答えた。
「あたしは御門リンネに備わった機能。喩えて言うなら、そう、ライ麦畑の崖から子供が落ちないようにつかまえるような者」
楽しそうにくるくる回る『御門リンネ』。黒いワンピースの裾がふわりと揺れた。理解が追いつかない。ここにいる『リンネが』両親を目の前で殺されたことが原因で解離した人格ならば、その根源たる認知を上書きした現在、存在を保っていられるはずがない。
「大丈夫。あたしは別に解離してるわけじゃないし、表層に出て行く事もできない。ただここにいるだけ」
ぼくの思考を読んだかのように彼女が答える。
「だから言ったでしょ。先生のやったことは無駄じゃなかった」
この状況からはまったく信用のならない言葉だ。
「『わたし』は確かに罪悪感や恐怖から開放された。めでたしめでたし。それでいいじゃないですか」
その言い分には一理ある。だが無意識下に独立した存在が居るという事態を見過ごすわけにはいかない。
「あたしを消すつもり」
「君をリンネと統合する」
その言葉を聞いた『御門リンネ』は、大げさに溜息をついた。
「あーあ、これ以上話しても無駄みたいですね」
退屈そうに伸びをする『御門リンネ』。ふと彼女の足元に目を落とすと、つま先の方から徐々に周りの空間と同化し始めていた。膝、腰、胸。みるみるその姿が消えていく。
「待て」
ぼくが伸ばしたその手は虚しく空を切った。赤黒く蠢く空間に『御門リンネ』の声だけが反響する。
「あたしはまだ消えるわけにはいかない。邪魔をしないで」
それは果たして警告だったのか。どちらにせよ、その時のぼくに真偽を知る術はなかった。

4.残紅の街



斜陽の庭。コンクリートの塀。補助輪の付いた自転車。
チューリップの花壇。岩陰の鈴蘭。大きな古い木。
雪の朝の静寂。雨が濡らすアスファルト。帰り道の夕日。
まな板と包丁の音で目覚める朝。畳の匂い。
そのすべて。
もう戻らないもののすべて。



 個人用コンシェルジュアプリが朝のニュースをピックアップしてARに投影する。ヨーロッパの軍用ナノマシン工場を狙ったテロ事件。共感を応用した通信方式の研究発表。次期パラリンピックにサイボーク施術を行った選手の出場を認めるか否かの決議。いつも通りの日常。きっとこれを見る各々にとっては意味があり、しかしぼくにとってはBGM代わりにもならないニュースの羅列。
「ニュースはもういい。コラム欄を見せてくれ」
その声に反応したAR機器が新着の論評を映しだした。共感から見えた神との合一体験。ARの過度の使用がもたらす心身の不調について。ネットメディアに対する警鐘。益体もない情報が流れる。うんざりしながらウィンドウを消そうとしたぼくの目が隅にあったひとつの記事を捉えた。
『医療共感に潜む危険~万能精神治療の欺瞞と真実~』
既存の医療技術と同様、医療共感にも決して好意的な見方をしない人間が一定数存在する。共感が一般レベルですっかり浸透した今であっても、このような言説は必ず付きまとうものだ。それがどこであれ、なんであれ、文句を付けたがる人間は必ずいる。そんなことを思いながらも一応は目を通しておきたいという欲求に逆らえず、ぼくはその記事をタッチした。視界を覆うウィンドウに論評が表示される。
『その気になれば人間の心をいくらでも操作することができる』
『彼らの行うそれは洗脳と何ら変わらない』
『一部の団体の利権が』
黙ってウィンドウを消した。その言い分は真摯に受け止めよう。だがいささか感情論に傾き過ぎだ。共感が一般化してからもうすぐ半世紀。今では共感に関する法律や条約なども整備され、こと医療共感においては厳格なプロトコールのもとにそれを執り行うことが定められている。確かにぼくらの振るう力は人間の心をたやすく書き換えることができる。だが外科医がその気になればいつでも患者を殺すことができる力を持っていながら、それを決してしないのと同様、いやそれ以上の職業倫理をもってぼくら共感医は治療にあたっている。力を持つ者にはその力を振るう腕と同じく自らを律する頭が必要なのだ。その言葉はデバイスを持つぼくにとって殊更に重く響く。しかしこういった言説の存在はある意味で貴重だ。皆が皆特定のシステムを礼賛し、迎え入れる光景はそれこそ洗脳に等しく、まるで往年のディストピア小説だ。だからぼくはそのコラムニストに心のなかでエールを送った。どうかそのまま疑問を持ち続けて欲しい。完璧なシステムとは初めから絶対的な無謬性を持って生まれるのではなく、内に抱える矛盾を克服した先に得られるものなのだから。コーヒーの香りがその思考に割り込んできた。ぼくの起床を感知したコンシェルジュシステムがコーヒーを淹れてくれたのだ。ゆっくりとベッドから立ち上がると、ぼくはキッチンのほうに向かう。万能科学万歳。ぼくはきっと未来に生きている。



 日の傾きかけた夕方、その日の診療を終えたことを確認するとぼくはある場所へと向かった。言うまでもなくリンネの病室だ。診察室を後にし、クリーム色に包まれた廊下を歩きながら先日の共感治療のことを思い返す。あの時ぼくが彼女に施したのは認知の矯正。両親を殺した殺人犯に自分も殺されるのではないかという恐怖を除去、次に両親が殺されたのに自分が生きているという罪悪感、何も出来なかったという無力感からの解放。これらの認知をあの幼いリンネとの接触で潜在意識に埋め込んだ。あとは切り取られて焼き付いていたトラウマが忘却の記憶流に乗り、過去のものとして消化されていくのを見届ける。認知の歪みの解消はかつての精神科ならば年単位の時間を要してもおかしくないものだが、直接深層心理にアプローチできる共感治療ならば劇的に短い期間で治療が完了する。通常のケースならば事態はこれで収束するはずだ。現にここ数日のリンネは少し落ち着いた様子で、以前よりも笑うことが増えたように思う。相変わらず閉鎖病棟に収容されてはいるし、不明な事柄も多々ありはするけれど、少なくともこの時のぼくはそう思っていた。

 閉鎖病棟の最後のロックを解除し、リンネの病室にIDを提示する。鈴の転がる声がどうぞと告げ、ドアが音もなく開いた。クリーム色の壁に包まれた部屋で、リンネは相変わらずメガネを掛けて本を読んでいた。
「調子はどうだ」
メガネを外して本を閉じたリンネが柔らかく微笑んだ。ベッドのサイドテーブルには読み終わったと思しき本が積まれている。
「だいじょうぶです」
「それはなにより」
柔らかい栗色の髪が光を浴びて光る。天井近くにあるはめ殺し窓からは夏の夕方の日差しが差し込んでいた。医者としてどうなのかと言われるかもしれないけれど、明るい日差しの指す病室はどこか世界の終わりじみていて、いつもそこには死の匂いを感じてしまう。
「今日もいい天気ですね」
まさに夏らしい夏。ここ数日は夕立すらない晴れの日が続いていた。穏やかな日、という表現が適切かどうかはわからないが、茹だる暑さを除けば精神衛生上も快適な日だった。傍から見ればなんと平穏なことか。けれどぼくにはどうしても確かめなければならないことがあった。
「リンネ、体調のことで訊きたいことがあるんだが」
「なんですか」
ベッドで上体を起こしていたリンネはベッドに腰掛ける形でこちらに向き直った。
「今まで突然記憶が無くなったことはあるか」
確かめなければならない。いつまでも『説明の付かない』ままにしておくわけにはいかないのだ。
「いえ、特になかったと思います」
「本当に」
「はい」
「突然物忘れが酷くなったりは」
「ない、ですね」
 顕著な症状はない。ぼくが気になっていたのはもちろんリンネの無意識に居た『もうひとりのリンネ』のことにほかならない。仮にあれが解離して分化した人格なのだとしたら、表層にも何らかの影響があるはずというのが現状での推論だ。だが『そうである』と断定出来るだけの材料は結局見つからなかった。それにあの『御門リンネ』は確かにこう言った。表層に出て行くことはできないと。だとしたらあれの役割は何だ。それにあの心象風景。あれから数日経っているが、看護師の報告によればリンネの身体症状が大きく改善した兆候はないという。それはつまり彼女の『だいじょうぶです』は決して大丈夫ではないということだ。前回の共感はリンネのトラウマになっている記憶に干渉し、それに対するリンネ自身の認知を正すものだった。認知を矯正したとしても、その新たな認知を患者が自分のものとして獲得するには少しの時間が必要になる。今日共感をしたから明日からはもう何の問題もないという状態にはならず、通常は最低でも72時間程度の時間がかかるとされている。リンネと共感して今日ですでに3日以上経っていた。通常のケースなら患者自身が認知を獲得できても良い頃合いなのだけれど。
「あれからわたし、よく夢を見るんです」
初めて会ったとき、問診で夢を見るけどすぐに忘れるとおどけて笑っていた表情を思い出した。
「どんな夢」
「たくさんの人の記憶、なのかな。見たこともない風景が現れて、でも自分ではこれが夢だってはっきりわかってるんです」
現実世界で見たこともない風景が夢に現れるというのは別段珍しい話ではない。誰だって経験のあることだ。しかしリンネのような症状を訴える患者にとって、夢というのは潜在意識の状態を探るために重要な要素でもある。それは夢占いなどという与太話のレベルではない。
「その夢はどのくらいの頻度で見るんだ」
「毎日です。夢の中の感覚がとってもリアルで、起きた瞬間夢か現実かわからなくて困ったこともあります」
「もう少し夢の内容について詳しく教えてくれるか。今日見たもので構わないから」
リンネはさらに考えこむように眉間にしわを寄せ、しばらくの後ぼくの問に答えてくれた。
「交通事故の現場だったと思います。車がぺちゃんこになってて、その」
「いや、思い出したくないならいいんだ」
慌てて遮る僕を制するとリンネは続けた。
「すみません。だいじょうぶです。それで轢かれてる人がいて、血がものすごく出ててっていう場面なんです」
「いつも同じ場面を見るの」
「いえ、場面は毎回違うんです。でもいつも大勢の知らない人たちに囲まれているっていうのは同じで。その人たちがわたしに話しかけてくるんです」
そう言うとリンネは顔を伏せ、垂れてきた髪をいじりだした。栗色の髪が夕日を浴びてきれいな光の波を作った。
「その内容も訊いていいか」
髪から手を離したリンネがぼくのほうに顔を向けた。
「はい、先生には話しておきたいんです。何かの役に立つかもしれないから」
もともとあれだけのトラウマや心象風景を抱えながら微笑むことが出来ていたのだ。彼女はきっと、ぼくなんかが思っているよりもずっと強いのかもしれない。
「聞かせてくれ」
「はい。話しかけられるっていっても、ぼそぼそしゃべっている声が聞こえるレベルなんですけど。内容、そうですね。どの夢でも共通して聞こえてくるのは『死にたい』『殺したい』『消えたい』『憎い』『悲しい』『痛い』とか、そういう言葉です」
夢は現実の鏡でもある。自分の中にそういう気持ちがあったから夢の中にもそういう言葉が現れるというのは筋の通った話だ。
「ぼくと共感してから夢の内容は変わったか」
「それがあまり変わってなくて」
申し訳無さそうに眉を下げるリンネ。彼女には何の落ち度もないことは言うまでもない。
「それについては気にすることはないさ。確かに医療共感は素晴らしいシステムだけど、万能じゃない。ゆっくり解決していかないといけない場合だって十分にあるんだ」
「そういうものなんですか」
妙に授業じみてきた気がするが、まあいいだろう。
「そういうものなんだよ。他になにか変わったところはあるか、この前の共感から」
「あの、両親のことなんですが」
困ったような、それでいてはにかんだような表情を浮かべてお腹のあたりで両手を握った。パジャマがくしゃりと皺を作る。両親のこと。つまりぼくが行った共感治療の結果が今明かされるのだ。

 それからリンネは滔々と話し始めた。まったく変に聞こえるかもしれないけれど、両親の事件の記憶は思い出のひとつのように感じる。それを今思い返してみても、悲しいという思いは生まれるが、それに罪悪感や恐怖を感じることは無くなった。寝ている時も起きている時も、あの風景のフラッシュバックに悩まされることはなくなった、と。
「そうか、よかった」
ひとまず先日の共感は成功したということになる。時間的経過からも明らかなように、リンネはぼくの埋め込んだ認知を無事に獲得している。リンネが強がりや嘘を言っていないのであれば、深層意識の認知の歪みは完全に矯正されたはずだ。どのみちそれは意識場を計測することで否応にも明らかになる。ならばますますおかしい。肉体と精神は常に連動している。だからトラウマを完全に乗り越えた今、リンネに相変わらず身体症状が続いていることは説明がつかない。なんだか頭が混乱してきた。落ち着いて整理しよう。現状、リンネに対する懸案事項は次のふたつ。ひとつは深層意識に居た『もうひとりのリンネ』の正体。もうひとつは改善しない身体症状や夢について。順に考えてみる。まず『もうひとりのリンネ』。リンネの受け答えから、あれが別の人格であるという可能性は限りなく低い。特に害を及ぼしているようには見受けられないし、ぼくに対する敵意もさほど感じなかった。これについては、なぜ、何のために存在するかを明らかにする必要がある。次に身体症状。投薬による対症療法で乗り切るという選択肢もなくはない。だが現在の精神医療の制度的な問題により、投薬が続いている限りはおそらく隔離措置は解除されないだろう。万能を誇るとされる医療共感を持ってしてもコントロールし切れないケースには、症状が寛解するまで入院をさせ、完全な管理下に置くべきというのが現行制度の見解なのだ。そしてリンネの視るという夢について。やはり彼女の症状と無関係には思えない。夢を見ている状態のリンネに共感をするという手もあるが、睡眠中は意識場が不安定になることから推奨はされない。夢の中に入り込む技術もあるにはあるが、特殊なスキルと専門の装置が必要で、しかもまだ研究段階の技術だ。そこまでして危険な橋を渡るべきか否かは、今は判断できない。幸い明日には研究チームの会議がある。そこでぼくも知り得ないリンネのデータが明かされることは間違いないと踏んでいる。ぼくの結論を出すのはそれからでも遅くないはずだ。
「あの、先生」
黙って考えこんでいたぼくにリンネが心配そうな声を投げ掛ける。つくづくこの娘には心配されてばかりだな、ぼくは。
「ああ、すまない。少し頭を整理していた」
「そうですか。あの、わたしの状態って」
気まずそうに言い淀む。相変わらず差し込む夕日はそんな彼女の後ろから降り注ぎ、ベッドに深い影を投影していた。それはまるでリンネの心を表しているようで、ぼくはどうにもいたたまれない想いを抱く。
「悪くはない、というのが正直なところだ。寛解には向かっていると思う」
思う、なんて主観的な言葉を果たして医師が使うのが適切なのかはわからない。もう少し言葉を選べよと頭の中のカスカが説教を垂れるのが聞こえた。ぼくが発した言葉は部屋の中に拡散して消え、今ではただ静寂が満ちている。それらが無言の圧力を掛けているようにも思えた。先生、あんたは何をやってるんだと。
「大丈夫。確実に前進してるんだ。焦ることはないさ」
言い訳じみているなとは自分でも思う。それはリンネに対する励ましでもあったが、同時に自分に向けた言葉でもあった。焦ることはない。一歩ずつ、確実に進んでいるんだ。
「そう、ですね。ありがとうございます。ちょっと安心しました」
顔を上げたリンネの後ろから日が差し、その微笑みも相まって聖母のごとき神聖さを感じさせた。その光の前ではぼくの抱く不安や懸念がなにか冒涜的なようにも思えてしまう。科学は神の領域を侵すものだと誰かが言った言葉を、ふと思い出した。だからぼくはリンネのその言葉に精一杯の微笑みで応じる。どうかこの娘を救う力を我が身に。アーメン。
「先生」
信心などかけらもない祈りの真似事の最中、リンネのその言葉がぼくを西日の差す部屋に引き戻す。
「外、今から出られますか」
「今から」
「はい、敷地内でいいんです。見たいものがあって」
リンネの申し出に頷いて応じると、ぼくはARのウィンドウを呼び出す。患者名、御門リンネ。当該患者の症状改善傾向を鑑み、外出許可を申請。数秒の後、返答が帰ってきた。当該患者の外出を許可。但し当院許可区画内、及び担当共感医同伴のうえ。
「許可が下りた。行こうか」
リンネが嬉しそうに頷いた。






 夕蝉の声が飽和する。淀んだ夏の空気を吹き飛ばすかのように、涼し気な風がぼくらの髪を撫でていた。太陽はすでに地平線に沈みかけ、大気との乱反射によってオレンジに染まる光で街を照らしている。夏の夕暮れはどうしてこんなにノスタルジックなのだろうか。それはきっとこれがぼくらの心に共通の心象風景だからなのかもしれない。もしも集合的無意識というものを覗けるならば、たぶんその風景は夏の夕暮れかもしれないと思ってしまうぼくは、いささか以上に感傷的になっているのだろう。ぼくらは病棟の屋上にいた。
「この景色。ずっと見てみたかったんです」
そう言って風になびく髪を片手で押さえながら、リンネは街を見下ろしている。人も、車も、家も、すべてが橙に染まる残紅の街。こうして見下ろす街は行き交う人や車の動きが総体としてどこか生物的にも見えるし、はたまた世紀の絶景にも出来損ないのミニチュアのようにも見える。
「この病院、すごく高いからきっときれいに街が見えると思ってたんです」
安全面、自殺防止、保守管理など、さまざまな理由から本来ならば患者がひとりで立ち入ることを禁じられる階層。実はぼくも初めて来たのだ。病院の全面改装の折に空調設備も一新されたらしく、一昔前のように林立する室外機の群れはここにはない。テニスコートがいくつか入りそうなだだっ広い平面だけが広がっている。隣を見れば病棟よりもさらに高い研究棟が見える。ここはさながら、巨人が差し出した手のひらの上のようだ。リンネはただ静かに眼下に広がる街を見下ろしている。考えたくはないけれど、いざ飛び降りようとでもされたときには捕まえられるように、ぼくはリンネの隣をぴったりとマークする。
「夕焼け、きれいですね」
高層階ゆえの風音の合間に、リンネの声が流れてくる。
「あまり乗り出すなよ。危ないから」
一応リンネの保護者を自負しつつ、釘を刺しておく。リンネは鈴が転がるように笑い、大丈夫ですよと応えた。かつては自殺防止用ネットといって、絶対に乗り越えられないように上部が内側に曲がった柵が設置されていたのだが、そもそもこの病院のセキュリティ上患者が屋上に出ることは不可能なため、それも無用の長物として撤去されたようだ。おかげでぼくらの視線を遮るものはなく、こうして景色を眺めることさえできる。リンネの横顔をちらりと見遣る。それはまるで好きな女子に想いを告げられない臆病者が、その顔を焼き付けようとこっそりと見るような所作だったに違いない。この街のことは何も知らないというリンネは、眼下の建物をひとつずつ指差しながらぼくの解説をせがむ。あれは大学、あれは自然公園、その隣にあるのが警察署。視線をやや上に上げれば電波塔。オレンジに染まるオブジェのひとつひとつに意味があり、ひとつひとつに人の営みがある。その中にいるうちは気づかないが、ぼくらは俯瞰して初めて街を認識できるのかもしれない。あれはなんですか。そう言ってリンネが次に指差したのは病棟のさらに上にある研究棟最上部。大きなパラボラアンテナがさながら菌床のごとく無数に突き出している。
「あれはMETROシステムの通信設備」
「メトロ、システム」
「そう、METROシステム。世界中の共感を統括しているシステムだ」
一般の認知度は低いが、ぼくらのように共感を専門に扱う者の間で知らぬ者は居ない。ぼくらが用いる意識場同調システムやデバイス、そして巷に溢れる一般向け共感機器など、世界のありとあらゆる共感技術を最終的に統括制御しているシステムだ。その実態はネットワーク分散型並列演算方式とされている。コアの概念を廃することにより、不足の事態でも問題なくシステムを運用できるという触れ込みだ。例えて言うならクラウド上にあるOSを各々の端末が引っ張りだして使っているようなものらしい。もちろんぼくは技術者ではないので、このくらいまでしか知らないのだけれど。人の心を繋げる共感を司るのが機械とはまったく皮肉なものだ。ぼくの説明で知的好奇心が満たされたと見えるリンネは、ふたたび街に目を落とした。

 「街って、こんなに大きいんですね」
ぽつりとリンネが零したその言葉は、どこか諦観じみていて、空虚な響きを持っていた。
「両親が死んでからわたしはずっと施設とか病院を転々としてました。街から、社会から離れたところで生きてきたんです」
リンネが初めて話す自分の過去。ぼくは黙って耳を傾ける。
「だからわたしには自分が世界の一員だっていうことが、どうしても理解できないんです。先生は人間原理って知っていますか」
予想外の単語が飛び出してきたことに驚いたが、その意味するところは知っている。人間原理。物理学や宇宙論において、宇宙が人間の存在を許すのはそうでなければ人間が宇宙を観測し得ないから、すなわち人間に観測できない事象は存在し得ないとする考え方。
「人間原理。観測できないものは存在しない。もちろんそれはもともと宇宙のスケールの話ですけど、人間の世界にも当てはまると思いませんか」
彼女の言わんとすることが、なんとなくわかってきた。けれどそれはあまりにも残酷で、同時に傲慢で。
「そうです。世界には何十億って人がいると言われているけれど、そのすべてを見た人なんていません。それとは逆に、世界から切り離された存在を世界は認識する術を持っていないとも思うんです」
「君は」
「わたしは壁に囲まれた部屋でずっとひとりで、それで考え続けました。もしもわたしがここで死んだら、きっと誰も気づいてくれない。誰かがわたしの死体を確認して、それで初めて世界はわたしの死を認識する」
感情の希薄な言葉の羅列がぼくの脳に染みこんでいく。リンネが話すのは彼女の哲学。彼女が『世界から切り離された』暮らしの中で獲得した彼女の思想。いつになく饒舌に話す彼女の醸し出す厭世的で退廃的な空気は、まるで潜在意識にいた『リンネ』のようだった。そこでぼくは初めて気がついた。やはりあの『リンネ』は別の人格ではない。リンネはただ明るく振る舞おうと、気丈に振る舞おうと努力をしていたのだ。自己の内面でパラダイムシフトが起こってなお、かつて自分がそうだったはずの明るさを持ち続けようと必死だったに違いないのだ。ぼくはようやく自分の浅はかさを恥じた。リンネの保護者面をしていた自分を恥じた。いや本来ならそれは担当医としては妥当な立場だったのかもしれない。けれどリンネはもはやひとつの境地とも呼ぶべきものを見出してすらいたのだ。あまりにも寂しい悟りの境地を。
「世界から切り離されてしまえば、もう生きていても死んでいても変わらないと思ったんです」
人間は独りでは生きていけない。それは一般論的教訓として以上に、より存在の本質を捉えた言葉でもある。『その人』が『その人』であるためには、『その人』以外の他者から認識される必要がある。SF風に言えば、観測者が居て初めて事象が確定する。もちろん生物学的に言えば、人間はたった独りでも世界をサバイバルしていくことができる。けれど人間が社会的動物であるという観点からは、他者との関わりを欠いては存在を保つことすら出来ない脆弱性が露わになる。人間は他者との関わりの中で初めて自己を認識し、自己の存在を確立する。ゆえに『人間は独りでは生きていけない』のだ。
リンネはそのことに気づいている。皮膚感覚として、それを知っている。世界から切り離された18歳の少女は、大人ですら気づくものが多くないその真実を知ってしまったのだ。
「だから死ぬのは『もう諦めました』」

 夕蝉の声が飽和する。残紅の街は相変わらず橙の光を受け、懐かしさという名の刃でぼくらの心を切り裂こうとする。初めての問診のとき、リンネは死にたいと思ったことがあるかというぼくの問に、諦めたと応えた。その瞬間彼女の目に浮かんだ色の正体を、ぼくはようやく知ったのだ。ぼくはリンネのことを、本が好きな明るい女の子だと思っていた。その認識がどれだけ浅かったかは今しがた痛感した。彼女のはずっと願っていたのだ。世界に絶望しながらも、世界の一員になることを。リンネのコア記憶にダイブしたときに垣間見えた心象風景。夕焼けをバックに天地が逆転した世界。街を見上げながら空に落ちていく世界。リンネにとって世界とは、空や星と同じものだったのだ。あそこにいってみたいな、どうせ無理だろうけど。アイウィッシュ、アイキャンフライ。もしも空がとべたなら。
「わたし、先生に逢えてすごく嬉しいんです。初めてわたしの心に入ってきてくれたひとだったから」
それはきっと本心なのだろう。世界から爪弾きにされた自分に、本当の意味で初めて触れてきた人間。それがぼくだった。リンネがそう思ってくれたことにほっとしている自分が居た。リンネがぼくを必要としてくれていることに喜んでいる自分が居た。この感覚はそうだ、カスカと遭った時のそれに似ている。
「これまでよく頑張ってきたな」
だからぼくは精一杯の賛辞を贈ろう。あり方は違えど、同じ孤独を生き延びてきたリンネに。これからも頑張れとは言いたくない。君はもうじゅうぶん頑張ってきたのだから。そんな想いを言葉に乗せた。
「先生、わたしが死んだら、悲しいですか」
離さないでと泣き叫ぶ子どものように、しかしどこか達観したように、リンネはそう訊く。リンネはぼくの答えを待っている。その答えにリンネの命が乗っている重さを、確かに感じた。
「悲しいな。きっとぼくも後を追うくらいに悲しいな」
医師としての立場をすっかり忘れたぼくの偽らざる言葉を聞いて、リンネは柔らかく微笑んだ。その笑顔はあの時見た幼いリンネのそれを強く想起させるような純粋さを持っていた。
「そっか。悲しんでくれるひと、ちゃんといたんだ」
悲しませたくないから死なない。悲しませたくないから辛くても生きる。消極的なように見えて、その実なによりも強い生の動機。他者との関わりを体感できて来なかったリンネが、初めて経験する人との繋がり。それがぼくであったことが、どこか誇らしく思えた。きっとリンネは此岸の淵まで来ていたのだ。あと一歩進めばこの世界から退場できるような場所に立っていた。彼女が『その選択』をなんとか今日まで留保し続けてくれたことが、ぼくにとっての救いだった。
「君を必ず外の世界に連れて行く。約束したからな」
夏の午後、あの中庭で交わした約束。それだけでぼくはどんな絶望的な心象にも立ち向かえる気がした。それを聞いたリンネは、また嬉しそうな笑顔を浮かべ、こう言った。
「先生となら頑張れる気がします。生きていても、いいんですよね」

 地平線に日が沈む。今日という日の区切りを付けるため、身代わりとして日が沈む。落日の残滓が街に最後の光を投げ掛ける。それと交代するかのように、街には人の創りだした明かりが溢れだす。ぼくらはそれを見ると、屋上を後にした。今日も世界は事もなし。その一員たることがどれだけ幸福なことか、知らずに人々は営み続けるのだ。

 死にたいの反対には生きたいという願望が隠れている。希望の裏には絶望の影が潜んでいる。そして世界にも、目には見えない裏側がある。その時にぼくは、まだそのことを知らずに居た。それが果たして幸福なことだったのか、答えはまだ出ていない。

 

5.此岸の淵


命題:Code-90325316

肉体が在ったから精神が存在するのか。
それとも精神の触覚として肉体が生まれたのか。
我々はもう間もなく、その答えに辿り着くだろう。

――A.D.2076 SystemUnit-Ωによる探索演算結果定時レポートより抜粋





 ARのリマインダが定刻を知らせる。待ちに待ったという表現には多分に語弊があるが、ぼくやカスカの知り得ない情報を得られるという意味では非常に有意義な時間になるはずだ、という皮肉な物言いをしてみる。チームの報告検討会は研究棟の会議室で行われることになっていた。今日が休診日なのがせめてもの救い。会議をやるなら休診日にしろ、というぼくとカスカの要求が受け入れられたのは幸いだった。相変わらず研究チームとぼくら現場の間には溝がある。だがぼくらとてプロであり大人なわけで、チームが機能不全を起こすような不和は生まれていなかった。ただなんとなく互いを牽制しあうような空気だけがそこにはあった。
 会議室に向かう道すがら、同じ場所を目指すカスカの後ろ姿を見とめた。よう、と声を掛けると、カスカも同じように、よう、と応じた。
「御門リンネの様子はどうだ」
「認知の獲得は完了している。ただ身体症状が収まる様子がないのが気がかりだが」
そうか、とカスカ。これはぼくの医師としての直感だが、リンネには何か別の問題がある。両親の事件のトラウマによって覆い隠されていたそれが、今表出しているのではないか。トラウマを取り除いたにもかかわらず寛解しない身体症状。逆説的に、まだ何らかの問題が深層意識に眠っていると考えられる。思いつくのはやはりあのグロテスクな風景と『もうひとりのリンネ』の存在。あれらはおそらく両親の件とは別の何かだ。ここ数日でそんな考えが徐々に大きくなってきた。
「どちらにせよ、今日の報告会で俺たちの知らない情報が出てくることは間違いない。研究チームの連中、確実に何か隠している気がする」
その疑念はぼくらの共通認識だった。

 廊下の先にエレベーターが現れた。ぼくらは無言でそれに乗り込み、カスカが会議室のあるフロアのボタンを押す。機械の駆動する音をBGMに、ぼくらはエレベーターの壁にもたれていた。どこか敵地に赴く兵士のような想いが頭を支配している。おかしな話だ。ここはぼくの働く病院の中で、これから会うのは共に仕事をしている人間だというのに。いつもはあっという間に感じるエレベーターの速度が、今日はやけに遅く感じる。焦れったい気持ちと、着かなければいいのにという相反する葛藤が胸の内に生まれた。左隣のカスカを見る。いや身長的に見上げるといったほうが正しいか。とにかくカスカの表情を伺った。もともと表情が豊かなほうではないが、今日はいつにも増して仏頂面に思える。その無表情がやけに印象深くて、ぼくは余計に不安を煽られるのだった。エレベーターの階数表示がめまぐるしく変わっていく。数字は増えているのにカウントダウンのように思えてしまうのは、ぼくがビビっている証拠なのかもしれない。そんな内心もお構いなしに、機械は目的の階層に付いたことを告げると、音もなくドアを開いてぼくらを送り出した。教授の部屋よりは低い、しかしぼくやカスカのいるよりも上の階層。ここは主にミーティングやレセプションの場として利用されているフロアだ。病棟のクリーム色とは対照的にグレーを基調としたカラーリングのフロアは、大きな窓から見える青空があってもなお陰気な印象をぼくらに与える。ぼくらは相変わらず無言で廊下を進み続ける。ARのビープ音が目的の部屋に着いたことを教えてくれた。IDを掲示して入出許可を求める前に、ぼくとカスカは自然に顔を見合わせた。無言の会話が交わされる。行くぞ、カスカ。ぼくがIDを掲示すると、すみやかに入り口のドアが開いた。






 「初回共感時、『深層意識干渉制御デバイス』を使用し、対象の無意識領域からコア記憶の抽出とショートカット設置に成功。続く第二回目の共感では、コア記憶領域内において認知矯正コードを深層意識に注入。経過観察の結果、当該術式は成功したものと判断します」
報告は正確かつ簡潔に。淡々とありのままを語る。リンネとの共感治療では多くの事が起こった。だが言葉にしてみればたったこれだけの分量しかない。求められるのは事実であって、行間ではないのだ。
「しかし対象の身体症状には改善が見られない。これをどう考えますか」
研究チームのひとりが鋭く質問する。
「改善しない身体症状は、今回の治療において除去したトラウマとは別の問題の存在を示唆しています。その問題については現在調査中ですが、それが身体症状を引き起こしているものと推察します。詳細については淵守医師から報告を」
カスカへと発言を引き継ぐ。外部からの意識場計測をずっと行ってきたのはカスカだ。ぼくが得た主観情報とは別のアプローチでリンネを診ている。
「はい。藍咲医師の認知矯正コード使用前後を比較した結果、意識場に大きな変動は観測されていません。しかし意識場の安定性数値が時間経過とともに有意に上昇する兆候を見せています。これは先の術式において一定の効果があったことを示すものと判断します」
そこまで一気に話したカスカは手元のミネラルウォーターを飲み干し、言葉を続けた。
「藍咲医師の指摘した『別の問題』については、現在外部的な意識場計測から調査を続行中です。ですが現時点では、身体症状が現れる際に意識場に特定のゆらぎが生じる現象が観測されました。共感時のフェイズシータに酷似した波形です。これについては当該波形の出現中に共感を行うことで詳細を観測できると考えます」
許可さえ頂ければ、という言葉が続く。
「なるほど」
奥に座っていた教授が口を開いた。艶のある黒いペンを回している。相も変わらず、だ。
「藍咲君、淵守君。君たちの報告した事象はすでにこちらで観測済みだった」
なら何のために。そう口を開こうとしたぼくをカスカが無言で制した。やめておけ、お前のためだ、と。
「では今度は我々の方から君たちに報告をしなければならない。橙夜君」
橙夜と呼ばれた男が立ち上がる。施術の時にいつもぼくらに付いていたあの白衣の男だった。報告会の張り詰めた空気に似つかわしくない笑顔が顔に張り付いている。まるで初めからその表情で生まれてきた人形のように。
「首席研究員の橙夜アケルです。ああ、お二人には自己紹介がまだでしたね。以後よろしくお願いします」
ぼくらより前の席に座っていた橙夜は、振り返るとぺこりと頭を下げた。
「ではさっそく報告を」
ぼくと同じか年下に見える橙夜はそう言って話し始めた。

 「対象の病室の意識場遮蔽コーティングですが」
淡々と続く橙夜の報告の最中、その言葉に思わず目を見開いてしまった。隣にいたカスカが息を呑むのが聞こえる。今、なんと言った。意識場遮蔽コーティングだと。なぜそんなものをリンネの病室に仕込む必要があるんだ。
「対象のこれまでの入院先からの助言でしてね、対象の意識場活性が異常数値を示す場合があるため、隔離に加えて『封印』措置が妥当である、と」
耳を疑う言葉が次々と飛び出す。封印措置だと。駄目だ、理解が追いつかない。
「病室のコーティングにはただ意識場を遮蔽する以上に、意識場の遮蔽具合から活性レベルを逆算する機能も搭載しています。それを使用して我々はずっと対象の24時間観察を続けてきました。ああ、質問は後でまとめてお受けします。それで、結論としては、対象には通常の脳機能と異なる何らかのアノマリーが存在すると考えられます」
何らかのアノマリー。つまり既存の法則では説明の付かない何か。それがリンネの脳に備わっているということなのか。だとすれば、あのグロテスクな風景も『もうひとりのリンネ』も、それに起因するものだということで一応の説明がつく。
「資料を使って順番にご説明しましょう。まずは対象の意識場活性についてですが」
手元にARのウィンドウがポップアップする。いくつものグラフが並んでいる。縦軸が活性レベル、横軸が時間のようだ。
「グラフをご覧頂ければ分かる通り、対象は睡眠時に意識場が異常に活性化しています。これは『形象化』をも引き起こしかねないレベルです」
形象化。研修所時代に読んだ論文に載っていたのを思い出した。意識場はある一定以上に出力が上がり、活性化することで物理的な干渉力を獲得する。それが形象化。念動力や心霊現象はそれで説明がつく、とそこにはあった気がする。一般には全く知られていない現象だ。それゆえ未だに超能力やポルターガイストは超常現象として世間では認知されている。しかし形象化を引き起こすほどの活性レベルを常人が叩きだすことが出来るのか。
「意識場遮蔽コーティングは形象化を封じるための措置と考えて頂ければいいでしょう。事実、これまでに形象化は観測されていません」
一応、納得のいく説明だった。確かに形象化で部屋を壊されては堪ったものではない。
「その下のグラフを御覧ください。先ほど淵守医師からのご報告でもあった通り、身体症状発現時、および睡眠時の意識場波形はフェイズシータに酷似したものです。すなわちそれらの状況で、対象は共感に似た状態にあるという仮説に辿り着きました」
今度こそぼくは耳を疑った。教授以外の研究員達の間にもざわめきが広がる。確かに論理的に考えれば当然の帰着として得られる仮説ではある。だが本当にそんなことがありえるのか。機械の補助なしに共感に似た現象が引き起こされるなんて。もしそれが事実なのだとしたら脳科学界は上へ下への大騒ぎになるだろう。それは人類の新たな地平そのものだ。だがともかく、問題はもうひとつ先にある。
「ええ、そうです。問題は『何と』共感状態にあるのか、ということです」
何度も話題に登ったように、リンネの病室には意識場遮蔽コーティングが施されている。つまり外部からリンネの意識場に干渉することも、その逆も不可能ということだ。
「それについての観測結果は」
こらえきれずに質問を投げ掛ける。
「こちらの機材では安定したデータは得られていません。『共感先』と思しき意識場はまるでノイズの海です。鮮明な結果が出るまではまだ時間が必要かと」
「ではMETROシステムの回答は」
昨日リンネに説明したように、METROシステムはすべての共感技術を統括している。意識場を観測する機材とて例外ではない。METROには共感の統括制御だけでなく分析システムとしての役割もある。
「判断を保留、とのことです。しかし引き続き観測を行うという回答が得られました」
このアノマリーはMETROシステムにとっても予想外だったということなのだろうか。

 「結論は出たようだな」
教授は立ち上がると会議室の最前に向かってゆっくりと歩き始めた。ぼくとカスカはきっと同じことを考えている。そんな確信めいた考えがふっと浮かんだ。発表者の卓に手をついた教授は、おもむろに口を開いた。それはおそらく、ぼくらにとって最悪の答え。
「対象は仮説検証が完了するまで無期限の隔離措置をとる。藍咲君と淵守君は引き続き共感治療を続けたまえ。その結果は逐一報告するように」
頭がおかしくなるかと思うくらいの怒りに我を忘れそうになった。隣のカスカがぼくの足を踏んづけなければ、きっと教授に殴りかかっていたかもしれない。仮説検証が完了するまで。それは一体いつになるんだ。症状が寛解しても研究チームが十分な結果を得られなければ、リンネはあのまま病室に閉じ込められ続けるということだ。受け入れられるわけがない、そんな決定。目の前が赤に染まる気がした。

 やおら隣のカスカが立ち上がり、教授に向かって言った。
「担当医として、我々から一つお願いがあります」
カスカが何を言い出すのか、ぼくにはまったくわからなかった。ちらりとこちらを一瞥したカスカの目は、落ち着け藍咲、大丈夫だと言っているように見えた。
「何だね」
「対象の監視継続について異存はありません。しかし安定した計測値を得るためには、対象の意識場、ひいては精神状態を良好に保つことが必要と考えます」
血が登った頭がゆっくりと冷えていくのを感じた。
「現状の共感治療の継続は言うまでもありませんが、より対象の精神状態をクリアに保つ手段を講じるべきです」
「言ってみたまえ」
「対象の外出制限の緩和です。もちろん藍咲医師の同伴という前提のもと、トラッキング用の端末を装着させてのうえです」
外出制限の緩和。言い方を変えれば隔離措置の緩和。カスカはとてつもなく冷静だった。リンネのことを一番に考えなければいけないぼくなんかよりも、ずっと冷静で先を見据えていたのだ。
「どうかね、橙夜君」
教授は首席研究員である橙夜の意見を聞いて、最終的な決定を下す。橙夜は少し考えこんだ後、にっこりと微笑んだ。
「問題無いでしょう。意識場の活性化が確認されている睡眠時など、病室に一定時間居てもらう必要はありますが、それ以外の時間についてはトラッキングさえできれば、現状では問題ありません」
「なるほど」
教授はぼくとカスカのほうに向き直ると、裁定を言い渡した。
「淵守君、君の考えはよくわかった。具体的な内容については橙夜君と検討したまえ」
ほっと胸を撫で下ろした自分に、また無性に腹が立った。





 その後、他の面々の退出した部屋でぼくとカスカ、それに橙夜との間で打ち合わせが行われた。リンネに装着させるトラッキング用端末は今日中にでも用意できるらしい。外出許可にこれまで通りぼくが申請するという手続き上の必要はあるものの、実質的には以前よりも自由な行動が約束された。ただし先ほど橙夜が指定した時間は患者を病室に居させること。以上がぼくらの間で交わされた取り決めだ。
「対象の意識場に異常活性が観測された場合、端末はアラートで知らせてくれます。その場合は」
橙夜は白衣のポケットに手を入れると、スティック状の注射器の入ったケースを取り出した。
「これを速やかに投与してください」
「これは」
「前頭前野の機能を抑制するものです。鎮静剤の一種だと思って頂ければいいでしょう」
無言でケースを受け取る。リンネにもしものことがあった場合の安全装置。
「トラッキング用の端末については今夜お渡し出来るかと思います」
橙夜がARのウィンドウをポップアップさせ、端末の画像を見せてきた。平たい三角形のパネルのように見える。
「こめかみ辺りに装着するように造られています。こちらで藍咲先生と淵守先生の認証コードを登録しておきます」
やけに準備がいいのは気のせいだろうか。とはいえこの病院と研究所は世界でもトップレベルの研究施設だ。そのくらいのものを用意することは何でもないことなのかもしれない。ぼくはその違和感を黙って飲み下すことにした。
「必要な物はひとまず以上です。運用についてはお二人に一任します」

 打ち合わせを終えたぼくらは会議室を後にした。ぼくとカスカ、橙夜は無言で廊下を歩く。気まずさとは別の沈黙がぼくら三人を支配していた。さっきの報告会の内容が頭の中を高速で流れる。リンネの脳に眠るアノマリー。形象化。そして共感近似現象。リンネが特殊症例と呼ばれていた頃のことを思い返して、今ようやくその意味が明かされたのかもしれないと思った。結局ぼくは何も知らなかった。そう考えるとまた腹が立った。臨床医をないがしろにしている研究チームに対してという以上に、リンネの一番身近にいた自分に対して。ぼくは踊らされている気がした。ぼくとカスカが見ていたのはぼくらの目に見えるものだけ。所詮それだけだったのだ。今までも研究チームと連携して治療を進めた経験がないわけではない。だが今回ははっきりと言える。この状況は異常だ。ぼくは教授の手のひらの上で四苦八苦している哀れな蟻の気分だ。カスカの提言にしてみても、あっけないほどあっさりと受け入れられたのは、まるで初めからそれが織り込み済みであったかのように感じられてならない。未だ透けて見えない教授の思惑に思考を巡らせながら、ぼくは沈黙の中にいた。やがて現れたエレベータに三人は乗る。来た時と同じようにカスカがボタンを押すと、鉄の箱はゆっくりと地面に降り始めた。気になるのは教授の思惑だけではない。この男、橙夜アケルについてもだ。身じろぎもせずにちらりとその姿を盗み見る。相変わらずの笑顔が仮面のように張り付いている。この年で首席研究員ということは、何らかの多大な実績を持っているに違いない。もしくは教授に取り入るのが恐ろしく長けていたか。どちらにせよその笑顔の下の本心はまったく読めなかった。いっそデバイスを使ってこの場で共感してやろうかとさえ思うくらいに、彼の平静はどこか不気味さを放っていた。心の底から楽しんでいるようにも、まったく興味なさげにも見えるその笑顔は、リンネのあの微笑みの対極に位置するものだと思える。そこからはただ底の見えない空虚さを感じる。研究者は変わり者が多いという、いささかステレオタイプにすぎるイメージを取り払ってもなお、橙夜アケルという存在は異質な空気を纏っていた。

 ぽんという音が目的の階層への到着を告げる。ぼくらはエレベーターを降りると、それぞれの行き先へと向かう。ぼくとカスカは右、橙夜は左。
「ああ、藍咲先生。ちょっとよろしいですか」
ふと、橙夜がぼくに声をかけてきた。
「なんでしょうか」
「少しお話したいことがありまして」
カスカと顔を見合わせる。ぼくらではなく、ぼくに。どういうつもりなのだろうか。カスカは目で合図を返してきた。俺はいいから行って来い。
「わかりました」
橙夜の後に続いて歩きながら、一度だけカスカの方を振り返った。カスカが頷くのが見えた。





 橙夜に伴われて行った先は職員用のカフェテリアだった。休診日に加えて午後のこの時間、昼食を終えた職員たちはすでに立ち去ったあとで、普段は賑わうそこも閑散としていた。ぼくはコーヒーを、橙夜は紅茶を注文して受け取ると、ぼくらは窓際の二人席に向かい合わせに座った。木材から成る簡易的な肘掛け椅子が柔らかく体重を抱え込むのを感じる。ここに来るまではお互いに無言だった。その沈黙の間、ぼくは橙夜の話について考えを巡らせていた。主治医であるぼくにだけ用があるということは、やはりリンネについてのことなのだろうか。カスカに聞かれて困ることでもあるのだろうか。しかし橙夜の発した言葉は、ぼくの予想を外れたものだった。
「一度あなたとゆっくりお話をしたいと思っていたんですよ」
橙夜は心底楽しそうに微笑む。その笑みは憧れの人間を目前にしたファンの高揚か、それとも古くからの顔なじみに再開した時の安堵か。いや、そのどちらでもないのか。
「研究チームは皆僕より年上の人間しかいないのでね。こうして同年代の方とお話できる機会は貴重なんです」
そう言うと橙夜アケルは自分が24歳だと自己紹介を付け加えた。ぼくより一歳下。その若さで首席研究員とは。
「僕の経歴に驚かれているようですが、あなただって十分に驚嘆に値する才能をお持ちではありませんか」
共感適性とデバイス適合。ぼくの持つふたつの属性を指して橙夜はそう表現した。
「才能は経験から得られるものとは別のものです。大切なのはどんなものかではなく、どう在るか、なのでは」
ぶっきらぼうに返す。ぼくは自分の持つ能力を信じてこそいるが、手放しで歓迎しているわけではない。重要なのは自分の足で歩き、目で見て、手でつかみ、頭で考えた末に得たものだと思うからだ。ぼくの言葉を聞いた橙夜は楽しそうな笑い声を上げた。嘲笑ではなく、得心のいったことに対する反応として。
「藍咲先生、あなたは素晴らしいお考えをお持ちだ。僕も概ね同意しますよ。先天的に得たものではなく、後天的に獲得したものにこそ価値がある」
橙夜はそう言うと一旦言葉を切り、紅茶のカップを持ち上げた。ブランデーかウイスキーをそうするように、カップをゆらゆらと揺らす。
「才能とは体のいい呪いです。よほどの信念のない限り、多くは才能に決定づけられた方向性に抗うことはできない。それが客観的に優れていると言われれば言われるほど、です」
「呪い、ですか」
「ええ、誤解を畏れずに言えば、ね」
呪い。その言葉はどこか腑に落ちるところがあった。ぼくはデバイスという強大な力を与えられた。だがそれはあくまで自己の意思とは関係ない場所で与えられたものだ。今でこそその力はリンネを救うために必要なものとして受け入れているが、被験体となった当初はデバイスの存在を呪いもした。しかしその共感適性のおかげで共感医になれたのもまた事実。その葛藤には随分と悩まされたものだ。
「藍咲先生は共感についてどうお考えですか」
「というと」
「共感というシステム、概念、術式、そのものについて」
意識場という現象が発見され、共感技術が開発されたのは半世紀も前の話だ。ぼくらは生まれた頃から意識場の海の中に居て、人の心に直接触れる手段が用意されていた。あまりにも当たり前のものだったのだ。携帯電話しか知らない世代が電話が開発される前の時代を想像できないのと同じように。
「精神治療を可視化した、という意味では評価すべきものだと思いますが」
半世紀以上前、かつて精神科と呼ばれていた場所では投薬をメインとした治療が行われていた。精神科医は患者との会話や表情から症状を推測し、それにもっとも適した薬を処方する。またあるときは心理療法士と呼ばれる、今で言うセラピストによって、対話をメインとした認知変容が行われていたと聞く。そのどちらにも一定の効果があり、かつてはそれらの療法が精神治療のメインストリームだった。しかしこれらには大きな落とし穴があった。精神状態を客観的、もしくは機械的に計測する手段がなかったのだ。診断基準こそ存在していたものの、それはあくまで患者の主訴ある程度依存するもので、完全とはいえないものだった。
 そこに登場したのが医療共感だ。従来は不可能とされた、患者の精神状態を意識場を計測することで把握するだけでなく、あまつさえ共感医の五感情報として捉えることすら可能になった。精神科は医療共感に吸収される形で姿を消し、精神医療の新たな地平を開いた医療共感は万能の治療法と謳われた。人の心は目には見えない。そんな人類共通の一般論を打ち破ったのだ。それこそがぼくの考える共感の功績。ヒトの心の可視化。
「なるほど。確かに仰るとおり、共感によって人間の心のブラックボックスは白日のもとに曝された」
「どこか否定的なニュアンスを感じますが」
橙夜が紅茶のカップを置く。皿がかちゃりと音を立てた。
「いいえ、とんでもない。僕は共感が人類を次のステージへ導くものだと確信しているんです」
演説のようなその声色には、自信ではなく確信が感じられた。
「共感が人類を進化させると」
「ええ、そうです。現に我々はその進化の萌芽を目撃しているではありませんか」
それは、まさか。
「御門、リンネのことですか」
「はい。御門リンネはMETRO管理下のシステムを使用せずとも共感に近似の現象を発現している可能性がある。人類は機械の手を借りずとも、己の脳に眠る回路によって既存のコミュニケーションを超える非言語的相互理解を可能にし始めていると言えます」
話が大きすぎて荒唐無稽に思えてならない。確かに橙夜の仮説によれば、リンネはシステムの補助なしに何者かと共感状態にあるといえる。もしかしたらリンネは人類の進化の最前線にいるのかもしれない。けれど。
「それはあくまであなたの仮説だ」
「はい、現段階では、ですが。今後さらに実証を重ねることでこの仮説は補強されるでしょう」
コーヒーカップを手に取る。湯気はすっかり収まり、生ぬるく苦い液体が並々と注がれている。
「御門リンネが何と共感しているかですが」
橙夜は紅茶を一口啜ると、またゆっくりとカップを揺らし始めた。
「現段階ではまだお聞かせできるレベルではありませんが、ひとつの仮説を組み立て始めています」
もったいぶっている様子ではなく、それは不完全な作品を世に出すことを厭う芸術家のような物言いだった。
「検証を重ねた後、お話することになるでしょう」
橙夜はそう言うと残りの紅茶を一気に流し込んだ。空になったカップをさらにおくと、さっきよりさらに乾いた音が響いた。
「ひとつ、言っておきたいことがあります」
コーヒーから意識を外し、ぼくは橙夜を見据えて宣言する。
「御門リンネはぼくの患者だ。第一義的な問題は彼女の症状の治療。検証実験も結構だが、主治医として看過できうる程度を超える場合は」
「ええ、わかっています。治療の妨げはしません。患者さんが第一、ですからね」
その瞬間ぼくは怖気を振るう錯覚に襲われた。橙夜のその言葉は偽善的などという範疇ではない。こいつは明らかにぼくらとは別の思考形態で動いている。それは医者と研究者という単純な職業分類の話とは違う次元のものだ。ぼくには橙夜を理解できる自信がなかった。その笑顔の下の果てのない空虚から吹いてくる風が、ぼくに言い知れぬ不安を感じさせる。

 「ああそうだ、最後にお聞きしておきたいことがありました」
わざとらしく思い出した風に橙夜が言う。
「藍咲先生、あなたは他人の心を理解するとはどういうことだと思われますか」
それは核心めいた言葉だった。他人の心を理解すること。それはぼくにとって何よりの願いであり、ぼくが共感医を続ける動機でもあり、そして世界に期待することでもある。人類は本当の意味で相互に理解することができなかった。それは自分と他人が別の存在であり、別の脳を使って思考しているからにほかならない。だからそんな世界における相互理解とは漸近線のようなものだったはずだ。決して重なることはない。けれど限りなくイコールに近づくことは出来る。それは人間の心が共感によって可視化された現代においてもさほど変わらないはずだ。共感で視えるのは、その人が経験してきたこと、見てきたこと、考えていることの一端でしかない。本当の意味での相手の主観を知ることは、共感の力を超えた問題だ。だからぼくは思う。他人の心を理解するとは、システムによる精神の可視化に頼るものではなく、古来から人類がそうしてきたように、自分の心をさらけ出し、相手の心に歩み寄る試みなのだと。ひとりぼっちで過ごした養親の家。皆の輪から外れていた養護施設での日々。そしてカスカとの出会い。リンネとの出会い。それらを通してぼくが辿り着いた答え。
「歩み寄る努力を諦めないことです」
ぼくは橙夜の空虚に向かってそう高らかに宣言した。その努力を諦めないかぎり、ぼくは、ぼくらは世界と一体であることができる。そう信じている。そう信じたい。
「なるほど。興味深い」
橙夜はまっすぐにぼくの目を見ながら、そう言った。その心中を推し量ることはできない。
橙夜は何度か頷くと、満足気な表情を浮かべて立ち上がった。
「お付き合い頂いてありがとうございました。実に有意義な時間でした」
くしゃっとした髪を搔きながら礼を述べる。
「では藍咲先生、先ほどの打ち合わせの内容、よろしくお願いします」
橙夜はそう言って頭を下げると、踵を返してカフェテリアから出て行った。その背中を見送りながら、ぼくは先程までの会話を反芻する。他人を理解するとはどういうことか。なぜ橙夜はそんな話をしたのだろうか。それに彼にはどんな答えがあったのだろうか。


 突然、けたたましいアラート音が鳴り響き、ぼくの思考が中断される。目の前に真っ赤なウィンドウが投影された。緊急時の呼び出し。恐るべき予感に支配されながら、ぼくは応答ボタンを押した。
『藍咲先生、御門さんが』
看護師の切迫した声が響く。後ろからは甲高い叫び声が聞こえる。
ぼくは橙夜との会話のことなどすっかり忘れ、隔離病棟へと走りだした。

リンネの容体が急変したのだ。

6.逆さの空


人間は、儚く脆い。
他者との関わりの中でしか、人はヒトの形を保てない。
そんな世界に絶望もした。怒りもした。
けれどひとつの希望を見出した。
たったひとりでも存在を認識してくれる人がいるのなら。
きっと。






 この病院の広さをこんなに恨んだことはない。カフェテリアを抜け、正面玄関のホールを抜け、病棟を駆け抜ける。飛び乗ったエレベーターのボタンを連打しながら舌打ちをした。急げ。その焦りをさらに加速させるかのように、ARの通信が入ってきた。相手は橙夜だ。
『御門リンネの病室で意識場の異常活性が観測されました。対処をお願いします』
目的のフロアに着いた。了解、と短く呟くと、開きかけのドアに体がぶつかったのも構わず、ぼくは閉鎖病棟への廊下をふたたび走り始める。まもなく見えてきた隔壁のロックを解除すると、ようやくリンネの病室のドアが現れた。息を整える時間すら惜しいぼくは、そのまま病室に飛び込んだ。
 そこでぼくを待っていたのは、数人の看護師とカスカに抑えられながら暴れ、叫ぶリンネの姿だった。ベッドのサイドテーブルに積まれていた本が床に散乱している。こんな状態のリンネを見るのは初めてだったが、その衝撃よりも先に医師としての本能がぼくの体を動かした。
「藍咲、あれを」
リンネの声に埋もれまいと、カスカが叫ぶ。ぼくはポケットに手を入れて、さっき橙夜から受け取った注射器のケースを取り出した。意識場の異常活性とリンネの錯乱。現在のこの状況を鎮める手段はこれしかない。ぼくは透明なケースの蓋を開き、鎮座している5本の注射器のうちから1本を手に取った。インスリン投与に使われるものと似たタイプのそれを握りしめ、ぼくはリンネのベッドに近づく。リンネはまるで意味を成さない叫びを上げ、止めどなく涙を流しながら体を捻っている。看護師とカスカたちは四肢をなんとか押さえつけている。ふと陸に引きずりあげられた人魚が、苦しみにのたうち回っているような幻想に囚われた。ぼくは妄想を振りほどき、カスカが髪をかき上げて露わになったリンネの首筋に注射器を突き立てる。グリップの端のボタンを押し、その中身をリンネの体内に注入した。鎮静剤は首の血管から全身へ、そして脳へと速やかに運ばれる。ほどなくしてリンネの声はゆっくりとトーンを落とし、全身の痙攣にも似た運動が緩やかになるのが見て取れた。最後の抵抗とばかりにびくっと一度大きく痙攣すると、リンネは静かに目を閉じた。その体を押さえつけていた看護師達も役目を終え、各々手を離す。ぼくはリンネの顔をこちらへ向けると、柔らかく閉じられたそのまぶたを引き上げる。ポケットのペンライトでリンネの瞳を照らすと、瞳孔が収縮する反応を示した。次に首筋に二本の指を当て、脈を確認する。やや速いが誤差の範囲内だ。ぼくはふうっと息を付くと、看護師たちの方に向き直った。
「ありがとう。あとはぼくたちが引き受ける」
看護師たちは頷いて応じると、病室から出て行った。

 「俺が駆けつけた時にはすでにこの状態だった。シーツを換えに来た看護師の話によれば、始めは何かに怯えるようなことを言っていたらしい。そこからはお前が見たとおりのパニックだ」
カスカは額の汗を拭いながら状況を説明してくれた。
「アラートを受け取った後で橙夜から連絡があったよ。意識場の異常活性が観測されたと」
ぼくも自分の持つ情報を明かす。ぼくらはリンネのベッドの隣に椅子をふたつ並べ、そこで情報を交換していた。薬の作用でリンネは眠っている。メッセージのやり取りで橙夜に確認したところ、1,2時間ほどで目を覚ますとのことだった。先程までの叫喚がまるで嘘のように病室は静まり返っている。そこにあるのは差し込む夕日に引き伸ばされる僕らの影。AR端末の着信音がその静寂を破った。現れたウィンドウには橙夜から送られてきた病室の観測データが映しだされている。看護師の報告にあった、リンネに異変が起きた時刻。そして部屋のコーティングが検知した意識場の異常活性。予想通りではあったが、やはりそのふたつは完全に重なっていた。リンネの意識場に何らかの異常が起き、それがリンネの精神に影響を与えパニックに陥った。明快この上ない筋書きだった。
「鎮静剤がさっそく役に立つとはな」
まったくその通りだ。タイミングが良すぎて不自然さすら感じられる。
「今は感謝しよう」
ぼくはそう言うと、ベッド横に散乱した本を手に取る。
 リンネの好きな逆月ミカゲの著書。ドイツ人作家の古典文学。医療共感の図説。若くしてこの世を去ったSF小説家の著書。ぼくがリンネに頼まれて図書館から借りてきた本の数々。リンネの心を構成するパズルのピースたち。東南アジアの料理をまとめたレシピ本。前世紀の女流作家の詩集。手芸の入門書。まるでアルバムをめくりながら思い出に浸っているような錯覚に陥る。一冊ずつサイドテーブルに積み上げる。それはきっと、壊れてしまった積み木の家を必死に組み立て直す子どものような姿だったかもしれない。ぼくはどこか祈りにも似た気持ちを抱きながら、リンネの読んだ本たちをもとの場所に戻していった。ふと、床を見る。まだ一冊本が残っていた。茶色い革の表紙だ。拾い上げてみる。しっとりとした革の質感が手に馴染む。よく使い込まれているような感触だ。これは、手帳なのか。ARのウィンドウと格闘するカスカを尻目に、ぼくは付箋の付けられたページを開いてみた。これは手帳じゃない。リンネの日記だ。

 付箋の付いていたページの日付。それはリンネがこの病院に転院してきた日のものだった。
『今日、また新しい病院に来た。担当のお医者さんは藍咲先生というらしい。すらっと細くて、くしゃっとした髪の若い先生だ。自分でも単純だとは思うけど、これまではずっとおじさんの先生だったから、なんとなくうれしい。共感医にもこんなかっこいい人がいるんだ』
『でも期待はしない。自分がたらい回しにされてるってことは、わたしにだってわかってる。誰もわたしの心を視ることはできなかった。だから、期待はしない。がっかりするのはもうたくさんだから』
ぼくは無言でページをめくる。
『またあの日のことを思い出した。おとうさんとおかあさん。わたしはだめな子だった。助けられなかった。だからいま辛いのは、きっと罰なんだろう。おとうさんとおかあさんを助けられなかったこと、わたしだけが生き残ったことに対する罰なんだ』
 隣にいるカスカが立ち上がる気配がした。研究棟に行ってくる。カスカはそう言うとぼくの肩をぽんぽんと二度叩き、病室を後にした。もしかしたらそれは、カスカなりの気遣いだったのかもしれない。残されたぼくは眠るリンネを前に、日記の続きを読む。
『今日はとてもうれしい一日だった。藍咲先生が外に連れて行ってくれた。病院の中庭までだったけれど、ずっと部屋に居させられていた今までに比べれば、とても自由だった。先生がここから出たら何がしたいって聞いたから、わたしは普通の女の子がするようなことをしたいと答えた。でも心のどこかでは諦めていたかもしれない。どうせ無理。そんな風に思っていた。でも先生は必ず外に連れて行ってくれると約束してくれた。必ず治すと言ってくれた。そんなこと、言われたのは初めてで、わたしは我慢できなくて。あとから思い返してみると、泣いちゃったのはすこし恥ずかしい』
あの日の昼下がり、中庭での会話。リンネの心に触れた感触は、ぼくの独りよがりではなかった。日記はさらに続く。
『今日、共感しているとき、わたしは不思議なものをみた。あの日、おとうさんとおかあさんが倒れているところに藍咲先生が来てくれて、わたしを助けてくれた。それはきっと夢だったのかもしれない。共感しているときは夢を見ている時に似た状態になると先生が言っていた。夢の中で、わたしはこどもで、先生はわたしを優しく抱きしめてくれた。大丈夫だって、もう独りじゃないって、そう言ってくれた。わたしは、もしかしたら、生きていてもいいのかな』
リンネに認知矯正術式を施した日のものだ。ところどころインクが滲んでいる。けれどそこから感じるのは悲しみではない。安堵。安寧。そんな想いが伝わってくるような気がした。さらにページをめくる。もしリンネの今の状態を知る手がかりがあるとすれば、ここから先の内容だ。
『またあの夢をみた。だれかが死んでいた。たくさんの人に囲まれていた。みんな幽霊みたいにぼうっとしていた。みんな口を閉じてるのに、ざわざわと声が聞こえてくる。聞きたくない言葉がたくさん聞こえてくる。耳を塞いでも、目をつぶってもだめだった。もう頭がおかしくなりそうで、限界だと思ったとき、誰かがわたしの手を引っ張ってそこから助けてくれた。そこで目が覚めた』
大半はリンネから聞いていた通りの内容。そして最後にリンネを夢から助け出した『誰か』。その正体にぼくは心当たりが、いや確信があった。とにかくそれは後回しだ。続きを読む。
『先生にお願いしたら屋上に連れて行ってくれた。思ったとおり、とてもきれいに街が見えた。わたしの知らない街。わたしを除いたその他大勢でつくられる街。わたしは先生にわたしの思ってきたことを話した。先生は黙って聞いてくれた』
数行の空白の後、その日の日記はこう締めくくられていた。
『先生を悲しませたくない。先生と一緒にいたい』
ぼくの肩が震えていたのを、誰かに見られてはいないだろうか。




 一時間と少しして、リンネは目を覚ました。
「大丈夫か」
リンネはぱちぱちをと瞬きをしながら、辺りを見回す。長いまつげが何度も揺れた。
「わたしは」
「少しパニックを起こしていた。落ち着く薬で眠ってたんだ」
それを聞いたリンネはパニックを起こしていた時のことを思い出したらしく、急に何かに怯え始めた。シーツを握りしめ、そわそわと辺りを見回している。
「わたし、わたし」
今にも泣き出しパニックを起こしそうなリンネ。ぼくは落ち着けようと彼女の手を両手で包むように握った。
「大丈夫だ。大丈夫」
ゆっくりとそう繰り返す。荒い呼吸を続けるリンネは空いている方の手でぼくの腕を掴み、抱きつくように身を預けてきた。柔らかい体温と甘い香りが脳に伝わる。ぼくはリンネの背中に手を回し、眠れない子どもにそうするように優しく叩いた。リンネは肩で息をしながらも、徐々に落ち着きを取り戻し、ついにその荒い呼吸も収まった。けれどリンネはまだぎゅっとぼくの体を掴んで離さず、ぼくもそれを振りほどくわけにもいかず、ぼくらはしばらくそのままでいた。夕日はさっきよりもさらに濃く、部屋に光を投げ込んでいる。世界にはふたりの心音だけが響いているようだった。
「せんせい」
「ん」
リンネの背に手を当てながら、ぼくはその言葉の続きを待つ。リンネはゆっくりと体を起こすと、目に溜まった涙をごしごしと袖で拭った。その動作が妙に子どもっぽくて、ぼくの胸をざわざわと揺らした。これはずっとぼくの片隅にあった感情。それに何と名前を付けたらいいのだろうか。いや、名前は初めから付いている。それはまるで古い本に挟み込んだメモを思い出すのように、子どもの頃に訪れた場所に立ったときのように、ぼくの頭に浮かんできた。ぼくはきっと。その先に思考が及ぶのよりも、リンネの言葉が速かった。
「わたし、見たんです」
体は離し、しかし手は握ったまま、リンネは言葉を紡ぐ。
「あの夢、いつも見るあの夢と同じ風景が、今度は目の前に現れて、起きてるのに、突然」
「夢。大勢に囲まれているっていう夢か」
リンネから訊いた夢の内容。日記に書いてあった夢の内容。ああ、日記を勝手に読んでしまったことは何と言ったらいいのだろうか。どうでもいいことを急に考えてしまった。
「はい。でも今度は夢じゃなくて、この部屋の中にそのひとたちが現れて」
これまでリンネになかった症状だ。幻覚。精神治療の基本に立ち返ればそう結論付けられるだろう。だがリンネには既存の法則が当てはまらない何かがある。この出来事が意識場の異常活性が観測されたことと無関係であるはずがない。それは主観ではない。もはや厳然たる事実としてそこにあった。幻覚が起こるときは意識場が乱れる。積み重ねられた症例と法則はそう断定する。だがその逆はどうか。意識場の異常が先行して幻覚を引き起こす。もうこの期に及んでは『ありえない』などと片付けることは出来ない。それは現に『あった』のだ。
「今はどうだ。まだ見えるか」
リンネのパニックを再発させないように、なるべく穏やかな声で訊く。
「いえ、だいじょうぶです。今は何も見えません」
今までリンネの『だいじょうぶ』は往々にして強がりだったのだけれど、今回に限っては真意のようだった。安堵の表情がそれを裏付けている。ひとまず窮地は脱したということか。
「そうか。もし平気なら、もう少し詳しく訊いてもいいか」
リンネは少し俯いて話し始めた。

 「はじめは声が聞こえたんです。なんて言っているかまではわからないような、ざわざわした囁き声で。雑踏の中いる、みたいな感じなのかな。とにかく、たくさんの人の声が聞こえてきました」
それはリンネのいつもの夢と同じ内容。幻聴、なのだろうか。
「声はだんだん大きくなって、そこではじめて何を言っているかがわかりました」
リンネは息を大きく吸い込むと、ぼくの手を強く握った。
「『おいで』って、言ってたんです」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走るのを感じた。夢のなかでの『彼ら』はリンネに対してではなく、ただ曖昧に言葉を呟いていただけだった。その『彼ら』が、明確にリンネに向かって意思表示をしたのだ。おいで。まるでリンネを彼岸へと引きずり込もうとする亡霊のように。リンネは言った。その言葉を認識した瞬間、目の前に『彼ら』の姿が現れた。それは部屋をぎっしりと埋め尽くすようだったのだと。おいで。おいで。おいで。手招きをする『彼ら』は徐々にリンネに迫ってくる。そこで初めて彼らの顔をしっかりと見た。見てしまった。真っ黒に塗りつぶされた目と半開きの口。どこからどう見ても人間とは思えないその形相。呼吸がうまくできなくなり、恐怖が頭を支配した。それからは何も覚えていないと。
「起きたら先生の顔があって、安心しました」
心の底から安心したというふうに、リンネは弱々しく笑ってみせた。ぼろぼろに傷つき疲れ果てた兵士が、ようやく家に待つ家族の顔を見ることができたような、そんな顔だった。その儚さに突き動かされるように、ぼくはリンネを強く抱き締めた。リンネは少し驚いたようだったが、拒絶することなく自分の手をぼくの背に回してきた。
「遅くなってすまなかった」
誰よりも先にリンネの異常を察知しなければならなかったぼくの懺悔。リンネはぼくの言葉を聞くと、ふふっと笑って言った。
「でもちゃんと来てくれました」
それは赦しの言葉に聞こえた。ぼくの中にあった罪悪は、いとも簡単に雪がれてしまったのだ。リンネは弱くて、けれど誰よりも強い心の光を持っていた。ぼくはその光を浴びる中で、逆にリンネからたくさんのことを学んできたのかもしれない。ぼくははっきりと自覚した。リンネに必要とされたいという願いの存在を。ぼくは医者だから、患者であるリンネを救いたいんじゃない。ぼくがぼくで、リンネがリンネだから助けたいんだ。ならば、ぼくのすべきことは決まっている。ぼくはゆっくりとリンネから体を離した。リンネのどこか寂しそうな表情に向かって微笑んでみせると、ARのウィンドウを呼び出した。
「カスカ、病室に来てくれ。話がある」





 「意識場の異常な活性化、ですか。それがわたしの病気と関係あるんですね」
リンネとカスカ、それにぼくは顔を突き合わせながら話をしている。
「ああ、さっきの出来事もそれが原因らしい。寝ている時にも同じ現象が起こっていることから、君の見る夢も無関係ではないはずだ」
カスカが言う。そう言えばリンネとカスカが話をしている場面は、これまであまりなかったように思う。カスカはいくつかのグラフを見せながら、リンネが理解できるように可能な限り噛み砕いて説明する。カスカとリンネの間でいくつかの言葉が交わされ、リンネは自分の状態を正しく認識したできたようだった。カスカがウィンドウを閉じるのを見計らって、ぼくはふたりに、いや主にカスカに提案をした。
「今から共感して調べたい」
カスカが目を見開く。確かに意識場の安定性数値は回復してきたものの鎮静剤を使用したこともあり、共感が推奨されるような状況でないことはわかる。けれど異常活性が起きた直後である今、共感によってこれまで隠されていた何らかの事実が明らかになるという確信にも似た思いがぼくにはあった。カスカは腕組みをして考え込んでいる。リンネはぼくらの顔を交互に見ながら、どうしたらいいかわからないという様子だ。沈黙が三人を包み込むなか、カスカがおもむろにARウィンドウを呼び出した。発信先、橙夜アケル主席研究員。
『淵守先生、どうしましたか』
「例の鎮静剤の効果だが、どのくらいの時間で影響が消えますか」
ああ、使ったんですね。橙夜の声は明るかった。目の前にいたら殴ってやりたいところだ。
『急性症状が鎮静されたのち、すみやかに分解、代謝されるように調整されています。さきほどの異常活性時に投与したのであれば、現在はほぼ影響は無いかと』
それを聞いたカスカは橙夜に礼を述べると、通信を終了した。カスカはまた腕を組み、考え始めた。沈黙が再び帳のように下りる。リンネは何か言いたげだった。たぶん、自分は大丈夫だからやってくれとでも言いたいのだろう。けれど専門家であるぼくらの間に素人が意見を挟むべきかどうか、思案しているような様子だった。
「ふたりとも聞いてくれ」
沈黙を破ったのはカスカだった。
「俺は藍咲の提案は正しいと思う。語弊があるかもしれないが、これはチャンスだ。俺たちは糸口を掴もうとしている。俺はそう感じる。ただ同時にこれは危険な賭けだ。意識場は完全に安定しているわけではない現状での共感はリスクが大きい」
一旦言葉を切ったカスカは、ぼくとリンネを交互に見つめた。
「だが乗ってみる価値はある」
その言葉ですべてが決まった。リンネは小さく、それでいてしっかりと頷いてみせた。ぼくも頷いてカスカに応じる。ぼくらに与えられたチャンス。これをふいにするわけにはいかないのだ。ぼくは立ち上がると、作戦の開始を告げた。
「行くぞ」
リンネとカスカが頷く。

 ぼくらは横一列に歩きながら処置室を目指す。古い映画にこんなシーンがあったのを、ふと思い出した。地球に激突しそうな隕石。世界を守るためにロケットでそこに向かう男たちの姿。それに重なるぼくらの姿。リンネの世界を守るために先を進むぼくら。あの映画とひとつ違うのは、全員が必ず無事に還ってくることだ。あえて断定したが、それは第一前提なのだ。誰も欠けることなく、当たり前の日常を取り戻す。そのためにぼくは、ぼくらは戦う。誰かの犠牲の上に成り立つ生は要らない。不完全でも皆がいる世界を望んでいる。世界から疎外されていたぼくを救ってくれたのはカスカ。ならば今度は世界から切り離されていたリンネをぼくが救う。カスカがそうしてくれたように。リンネが強く願ったように。
 処置室に着いたぼくらは、最終的な手順を確認する。これまでの共感治療と同様、深化初期段階では意識場同調システムを使用する。共感状態に入ったことが確認できたら、すみやかにデバイスを起動。意識体を保護しながら深層意識階層へダイブする。鎮静剤はまたいつでも投与できるように機器にセット。非常時には強制サルベージで脱出。それらを確認すると、ぼくとリンネは分厚い扉を開き、施術室へと歩みを進める。カスカが管制室でシステムの起動準備を始めるのを見ながら、ぼくらは意識場同調システムに身を預ける。
『デバイスと意識場同調システムをリンクさせた。いつでも大丈夫だ』
管制室からのカスカの声が聞こえる。ぼくは親指を立ててそれに応えると、隣にいるリンネに声を掛けた。
「リンネ」
「なんですか」
ヘッドパーツに遮られてその顔は見えない。けれどぼくの脳裏には不思議そうな表情のリンネがありありと浮かんだ。
「今度行きたい場所、考えておけよ」
リンネが体を動かす衣擦れの音を聞いた。頷いたのか、首を振ったのか。前者であって欲しいというのは、ぼくの勝手な願いかもしれない。
「はじめよう」
カスカがシステムを起動した。視界が引っ張られるように歪み、そして途切れた。

 ホワイトルーム。はじまりの部屋。向かい側にはリンネの姿がある。第一段階はクリア。問題はこの先。目を閉じて意識を集中する。少ない情報から得られた仮説は、デバイスがぼくの特定の意志や感情に呼応して起動するというものだ。さっきカスカはデバイスとシステムをリンクさせたと言っていたが、あれはあくまでサルベージ用の手順であって、デバイスを外部操作するものではない。すでにぼくの脳と一体になっているデバイスは、ぼくの脳の活動にのみ依存する。意識を集中し、自分に暗示を掛ける。前提条件。真相の究明。手段。意識場最大出力による深層意識探査。目的。リンネの救済と生還。目を閉じたまま、右手を胸に当てる。まぶたの向こうからでも見えるくらいに明るい緑の光が生まれた。認知変容コードを自己投与。ぼくは死なない。必ず生き延びる。リンネとカスカの許へ、生きて帰る。意識場を媒介として、ぼくの脳にその絶対命令が刻まれた。デバイスが起動するのを感じる。
 目を開いたぼくは、向かい合うリンネに頷いてみせると、ホワイトルームの地面に手をついた。ぼくの手から緑の光が這うように進み、電子基板のような、あるいは魔法陣のような模様を描く。これはショートカットよりもさらに上位の転移術式。デバイスを持つぼくにしか扱えないルール違反の裏技。ホワイトルームから直接リンネの心象世界に飛び込むためのものだ。緑のサークルは刻々と輝きを増し、その外側に立つリンネの姿が徐々に塗りつぶされていく。その光の向こう側から、リンネはぼくの目をしっかりと見据えていた。そこには言葉のない会話があった。心配するな、リンネ。ぼくは必ず帰ってくる。君との約束を果たす前に死ぬようなことはない。ぼくは必ず君を助ける。ぼくは必ず生きて君と一緒に外に行く。リンネの目はこれまでに見たことのないような強い輝きに満ちていた。信じてます。そんな言葉を聞いた気がした。やがて光の奔流が上へと昇り、それと共にぼくはリンネの心象世界へ転移を開始した。



 光が引き潮のように去っていくなか、ぼくはその景色を見た。街が上、空が下の夕焼けの世界。いや、違う。ふたつの星が向かい合うかのように、夕焼け空を挟んで街同士が向かい合っている。そのふたつの地面をあの赤黒い流れがへその緒のごとく結んでいる。上には橙に染まる街。下には赤錆びて生物的に蠢く街。ちょうどあのグロテスクな風景と逆さの空の世界を足した情景が目の前に広がっていた。ぼくはその挾間の空に浮かんでいる。赤黒い流れは下から上へと流れていた。ふと下の赤錆びた街を見下ろすと、無数の点が浮かび上がった。目を凝らしたぼくは思わず戦慄した。それはすべて人の頭だったのだ。得体の知れない世界から、皆が皆リンネの心象を見上げている。大勢が何かを囁くようなざわざわとした音が聞こえた。意識場を操作し、聴覚にすべての感覚を傾ける。
『オイデ』
『チョウダイ』
『コロシテ』
『シンデ』
『タスケテ』
無機質な亡霊たちの声が聞こえた。デバイスを起動していない状態ならば、きっとその声に意識を取り込まれてしまっていただろう。リンネが夢の中で、そして病室で聞いたのは間違いなくこれだ。意識場の異常活性。それと共に観測された共感近似現象。改善しない身体症状。夢。ぼくの中で急速に仮説が組み上がっていく。グロテスクな風景。『もうひとりのリンネ』。そして『彼女』が言ったこと。すべてが繋がり始めていた。リンネが共感していたのはおそらく、今ぼくの下に広がる亡者のような人々だ。
 そしてついにその正体に考えが及ぶ。いやしかし、待て。そんなことがあり得るのか。METROシステムの補助なしに共感をする。それ自体が人類にとって規格外の出来事だ。その上もしもぼくの考えが正しいのなら、橙夜の言葉通り、リンネは人類が次のステージへ進化するまさにその萌芽だと言える。相反する気持ちがぼくの中に生まれる。自分の仮説を信じる気持ちと、そのあまりの内容を本能的に否定したい気持ちと。目の前で向かい合うふたつの世界のように、ぼくの心中はふたつに分かたれていた。けれど。ぼくは考える。真実を知ることがリンネを救うことに繋がると信じている。だからぼくはすべてを知ることに決めた。おそらくすべてを知っているものがいる。ぼくは意識体の持てるすべての力を振り絞って、その名を叫んだ。

 「そんなに叫ばなくたって、聞こえてますよ」
夕焼けの世界に声が響く。斜陽のオレンジのなか、滲みだすように黒い姿が浮かび上がった。すべてを知るものは、ひらりと黒いワンピースの裾を翻しながら、ぼくの目の前に顕れた。『リンネ』はあの心底楽しそうな表情を浮かべながら、ぼくのそばへ滑るように近づいてきた。
「久し振りですね、藍咲先生」
くすくすと笑う。
「あたしを消しにきたってわけじゃないですね」
「ああ、ぼくは『君たち』を助けに来た」
赤黒い流れをバックに『リンネ』は、ぼくの目を見据えて言った。
「知りたい、ってことですよね。あたしのこと。この世界のこと」
「大方の予想はついた。だが正しいと断定する決定的な根拠がない。それを『君』に確かめたい」
それは今までのようにヒントを貰うような姿勢ではなく、対等な相手から話を聞き出すための毅然とした態度だった。『リンネ』もそれを察したらしく、今までのようにからかう様子はなかった。現実世界のリンネがそうするように、ただ柔らかい表情を浮かべてぼくの話を聞いていた。
「わたしは先生のことが大好き。ずっと一緒にいたいと思ってる。初めてあたしたちの世界に来てくれたひと。だからわたしの望みはあたしの望み」
これまでの退廃的なそれではない、限りなく純粋な笑みを浮かべて、言った。

「だからあたしも先生を信じる。すべてを教えてあげる」

7.彼岸の声


たとえば花が花である意味。
たとえば鳥が鳥である意味。
たとえばヒトがヒトである意味。
ほらね。やっぱり意味なんてない。
そこにあるのは理由だけ。
そうあるための理由だけ。





 『リンネ』はぼくに言った。すべてを教えると。ぼくはようやく真実へと辿り着こうとしていた。『リンネ』は現実世界のリンネと同じように、穏やかな表情でぼくのことを見つめている。はじめ、ぼくは『リンネ』を排除すべき危険な存在だと認識していた。解離した別人格。もしくは内側から精神を侵すもの。
「話したいことは山ほどあるけど、そう、まずはあたしについて」
『リンネ』はまたひらりとワンピースの裾を揺らしながら、バレリーナのように回ってみせた。
「あたしはわたし。それは前にも話しましたよね」
内蔵をぶちまけたようなグロテスクな世界で、『リンネ』がぼくに言った謎かけのような言葉。あたしはわたし。分化した人格ではなく、それとは別の何か。リンネの心に由来するもの。ぼくにはなんとなくその答えがわかったような気がした。その心中を知ってか知らずか、『リンネ』はまるで答え合わせをするかのように、言葉を続ける。
「あたしはいわば抗体みたいなもの。あの亡霊たちから『わたし』を守るために、『わたし』が生み出した機能」
パズルのピースがひとつづつ、埋められていく。無数に散らばった点が、線で結ばれていく。人間の精神には何層もの防壁が存在する。それらは自他を分かつ境界であるとともに、自我を保ち、守るための防衛線でもある。ならば納得がいった。いうなれば『リンネ』は、その防御機能の擬人化ということだ。
「君はずっとリンネを守ってきたんだな」
それは労いの言葉だったのか、はたまた疑ってすまなかったという謝罪の意だったのか。ともかくぼくは『リンネ』にそう言った。それを聞いた『リンネ』は、にっこりと柔らかく笑ってみせる。そこには退廃的な雰囲気も、暴力的な意志も感じない。ただ純粋で、透明な笑み。
「そう。あたしはわたしの心を守るために、ずっと彼らの怨嗟を堰き止めようとしてきた」
『リンネ』の顔から、すっと表情が消える。
「でもあたしの力は、彼らを完全に押さえ込めるほど強くはなかった。だからあたしが抑えきれなかった彼らの感情は、意識は、わたしの心にダメージを与えてしまった」
リンネの見る夢。トラウマを除去したにもかかわらず、収まらない身体症状。すべては『リンネ』のフィルターからこぼれ落ちたものが引き起こしていたのだ。それを悔いるように、『リンネ』は表情を曇らせる。
「わたしのダメージはきっと先生が思っているよりも深刻だった。彼らの怨嗟の声は、『封鎖領域』にまで届くほどだったから」
ぼくの記憶がはるか遡り、研修所の座学の授業が想起された。深層意識の最奥、共感によって立ち入ることを禁じられている領域がある。自己が自己であるための究極の一。魂とも呼ぶべきそれが収められているとされている聖域。ぼくらはそれを封鎖領域と呼ぶ。何人も冒してはならないその神域は、触れたものと触れられたもの双方に破滅的で不可逆のダメージを与える。何かの間違いで入ってしまった場合、共感者と被共感者のどちらもが廃人と化すと言われている。通常は決して辿り着くことの出来ない最深部。そこにまで届く怨嗟の声とは。
「あたしは封鎖領域を守ることにかなりの力を割かれた。その分手薄になった浅い階層の意識には、彼らの声が流れ込んでしまった」
人間の心の持つもっとも強い防衛本能。それにしたがって『リンネ』はリンネの魂を守っていた。しかし彼女の力は十全ではなかった。あるいは彼らの念があまりにも強大だったのか。それゆえリンネは亡霊たちに心を蝕まれていたのだ。以前、共感中に『リンネ』が言った言葉を思い出す。邪魔をしないで。消えるわけにはいかない。その意味が、今ではわかりすぎるほどわかった。当たり前だ。『リンネ』はリンネを守らなければいけなかったのだから。そしてリンネが覚醒時、視覚的に彼らの姿を捉えてしまったことにも合点がいく。『リンネ』の力が封鎖領域に集中した結果、普段よりも大量の意識がリンネの表層に流れ込んだ。事の顛末はそんなところだろう。
「最初に君と遭ったあの場所は」
「彼らとあたしの力のバランスが崩れたときに、この世界に上書きされるようにして現れる世界。だからあれは厳密に言えばわたしの心象風景ではないの」
つまりあれは戦場。さながら『リンネ』と彼らが戦う最前線。
「だから先生があそこに来たとき、正直あたしはとても焦った。他の共感医たちは、みんな彼らの声に飲まれてしまったから。あたしは防戦一方で、入ってきた人たちを助ける余力がなかった」
悔いるように呟く。あの日、橙夜に言われたことを思い出した。ぼくの前任者たちは全員が全員、閉鎖病棟送りになったと。それはぼくの考え通りあの赤黒い流れに、彼らの声に抗うことが出来なかった結果だった。
「でも先生は彼らの声の中からわたしの記憶を取り出せた。あたしはとても驚いたし、安心もした」
深層意識干渉制御デバイス。橙夜の言葉を借りれば、ぼくに掛けられた呪い。幸か不幸か、いや間違いなく幸いにして、ぼくはそれのおかげで生還できた。リンネの治療を初めて次のステージへ押し上げることができた。
 ぼくは『リンネ』に、ぼくの持つ力のことを話し始めた。『リンネ』は少し目を見開いた後、何度も頷いた。心の底から納得したという表情だった。リンネと同じ栗色の髪が、夕焼けの世界の光を受けてなめらかに輝く。
「なるほどね。それで先生は」
『リンネ』の言葉に頷いて応える。橙夜は才能のことを呪いだと言った。笑顔の張り付いた下にある真意はわからない。けれど、ぼくは今ならこう言える。リンネと『リンネ』を救うことのできるこの力は、決して呪いなどではない。この力は確かにぼくの意思に反して与えられた。しかし今となっては、これはぼくの力だ。ぼく自身が、ぼく自身の意志で振るうことを決めた力だ。それは名前に似ている。名前とは、生まれた時に自分の意思の介在しない場所で与えられるものだ。しかしそれは自分が自分として生きていくうちに、自分のものになっていく。ぼくは橙夜にこう言った。どういうものかではなく、どう在るかが大切なのだと。ぼくははじめ、確かにデバイスの実験体だったかもしれない。そしてそれはいささか以上に人道を外れたものだったかもしれない。けれどぼくは今、こうして自分の意思でその力を使っている。そうである以上、これは呪いではなく、ぼくがぼくであるためのアイデンティティのひとつなのだ。今、それをはっきりと自覚した。
「先生なら、彼らのことを知る力がある。あたしはそう思う」
『リンネ』の言葉がぼくを真実へいざなう。彼ら。怨嗟の渦。リンネを苦しめ続けてきたものの正体へ。
「教えてくれ」
ぼくの中にはひとつの仮説があった。それを事実として決定づける最後のピースを、『リンネ』は握っている。確信にも似た想いを抱きながら、ぼくは少々急かすように『リンネ』に訊いた。そして『リンネ』は真実を語り始めた。

 「彼らはヒトの心の集積。募り積もった感情の集合体。意識場の海。あるいは世界そのもの」
光の速さで思考がめぐる。無数に走る光の線が、点と点を結びながら進んでいく。すべての真実。ぼくの中にあった仮説の証明。
「つまり、彼らの正体は」
『リンネ』はもったいぶる様子もなく、さらりとその名を口にした。
「そう。先生たちが『集合的無意識』と呼ぶもの」
驚きはなかった。そこにあったのは、自分の仮説が実証されたというどこか淡々とした認知だった。集合的無意識。意識場の発見から後、必然のように提唱された概念。人間の脳が発生させる意識場が、相互干渉を繰り返しながらひとつの集合体を形成する。『リンネ』の言ったように意識場の海とも言えるそれを、研究者たちは古い心理学者の言葉を引用して集合的無意識と名付けた。その概念は予言のような曖昧さを持っていた。宇宙には目に見えない何らかのエネルギー、もしくは物質が存在する。そして学者たちはそれをダークマター、暗黒物質と名付けた。例えて言うならそんなところだ。論理的帰結として存在が予言され、しかし未だ実在が確認されていないもの。長きに渡る意識場研究の結果、意識場は相互に作用しながら存在していることは立証された。そこから導き出されたのが集合的無意識の存在。しかし直接それと共感する手段は未だ見つかっていない。それが世界の定説だった。あるらしいことはわかっている。けれどそれを見ることはできない。ぼくは人類で始めて、その実在を目の当たりにした。だが、ぼくにはどうしても納得のいかないことがあった。
「これが、この怨念の塊が人の心の集積なのか」
人の心は複雑系そのものだ。そこには言語化出来ない感情があり、数値化できない想念がある。しかしその集積たる集合無意識が、圧倒的な負の感情に染まっている。目の前に広がるこれが真実なのだとしたら、それはあまりにも。
「ええ。これは人々の心の奥底にある思い。集合的無意識の正体。人間ってどうしようもない生き物なの。誰かの幸せを願いながら、心の底ではその代償を求めるように、誰かを呪わずにはいられない。世界は絶望と怨嗟に充ちている」
それはまさに絶望的な解だった。性善説の否定に他ならなかった。ぼくらの下に広がる世界から、亡者たちが必死に手を伸ばしているのが見えた。彼らは蜘蛛の糸にすがろうとしているのではない。自分たちと同じ場所に引きずり下ろそうとしているのだ。おいで。おいで。おいで。リンネの聞いた彼らの声は、彼岸から生者を取り込もうとする怨念の声だったのだ。リンネはずっと彼岸と此岸の狭間に立たされていた。そして自分を誘う亡者たちから身を守るために『リンネ』を生み出した。もちろんそれらは無意識の行為だったに違いない。リンネにその自覚はないはずだ。
「リンネは初めから彼らの声を聞けたのか」
ぼくはさらに『リンネ』に訊く。もしもこれがリンネの持っている先天的な能力なのだとしたら、それこそ呪い以外の何物でもないのではないか。
「半分正解。彼らの世界への扉は、わたしの中に初めからあった。でも扉には鍵が掛かっていて、彼らの声は届かなかった。もちろん、あたしの存在も必要なかった」
リンネが考えこむときにそうするように、『リンネ』も髪を指に絡ませる。くるくると巻くように指を動かす。彼岸への扉は初めから存在し、しかし閉ざされていた。そして何かが起こりその鍵が外された。そんな出来事はひとつしか思い当たらない。
「両親の事件」
「正解。おとうさんとおかあさんが目の前で殺されて、わたしの心はずたずたに切り裂かれた。わたしは世界に絶望し、自分を呪い、悲しみに溺れた。それに呼応するように、彼らの世界とわたしの心が繋がってしまった」
リンネには生まれつき彼岸の声を聞く力が眠っていた。本来なら、その力は眠ったまま終わるはずだったのかもしれない。しかし両親が目の前で殺されたトラウマによって、負の感情の奔流である彼らの世界への扉が開かれてしまった。
「あたしが産み落とされたのはそれからしばらくしてから。その後のことは、先生も知っての通り」
すべてが繋がった。さんざんぼくらの話題に登っていた意識場の異常活性。おそらくそれはリンネの脳に生まれつき備わっていた力の一端が引き起こした現象だったのだ。そしてその裏側には『リンネ』と彼らとの戦いがあった。体内に侵入した病原を殺すために、体が免疫を活性化させて高熱を出す。それに似た反応がリンネの精神で起こっていたということか。そしてあの赤黒い流れ。ぼくの前任者たちを破壊し、ぼく自身も侵されかけたあれは、彼らの世界からリンネの心に流れ込む負の感情の奔流だった。ぼくは思わず溜息をついてしまった。あまりに壮大で、凄絶な話だ。
「それでも、わたしは先生に救われた。先生の存在に助けられている」
『リンネ』の言葉が、まるで励ましのように聞こえた。確かにぼくはリンネの両親の事件のトラウマを除去することには成功した。しかしそれだけだ。根本的な解決になっていないことは、今理解した。結局のところぼくは根本を解決したつもりでいて、その実対症療法を施したに過ぎなかったのだ。彼らの怨嗟はあまりに途方も無い。ぼくひとりの力で何とかできる範疇を超えている。けれど。考えることを止めるな。解決策は必ずある。ぼくは考えた。何度もシミュレーションをし、結果を考察し、効果を測定した。何度も頭の中で計算をした。そして一つの解にたどり着いた。なんてことはない。それは至って単純なものだった。しかし現状では最善の策に思われた。

 「『リンネ』」
ぼくは黒いワンピースの少女に向かって呼びかける。『リンネ』は少し不思議そうに小首をかしげる仕草で応じた。
「彼らのところへ連れて行ってくれ」
『リンネ』の顔に驚きの表情が生まれた。信じられない。そんな目をしていた。
「死ぬ気」
「そんなつもりじゃない。君たちを助けるために必要なんだ。力を貸してくれ」
生憎とまだ死ぬ気はない。リンネとの約束を果たしていない。『リンネ』は少し考えこんだ素振りを見せた後、言った。
「彼らの世界に入ることはできない。でもあの流れに近づくことならできる。あたしの力を少し流し込めば、今の先生なら飲み込まれることもないはず」
そう言うと『リンネ』はぼくの手を取り、ゆっくりと赤黒い流れに向かって進み始めた。ぼくらは夕焼けの空を飛んでいる。ふたつの世界の狭間、オレンジの光の中を泳ぎながら、ぼくらはそれに近づいていく。徐々に彼らの声が大きくなってきた。聞きたくもない言葉たち。リンネが苛まれていた怨嗟の渦。こんなものを聞きながら、リンネはそれでも笑って見せた。それが嬉しかったし、悲しかった。やがてへその緒のように遠く見えていた赤黒い流れは、ぼくらの眼前に濁流となって現れた。『リンネ』はその淵で止まって、こちらを振り返る。
「あたしが先生をここに繋ぎ止める。でも無理はしないで。封鎖領域を守りながらだから、あたしの力にも限界がある」
「ああ、十分だ。頼む」
『リンネ』はぼくの背に回り込むと、その右手をぼくの肩に乗せた。触れられた場所から暖かい光が全身に流れこむのを感じる。その光はぼくの意識場と共鳴し、デバイスをさらに活性化させた。ぼくは初めてリンネと共感した時のように、赤黒い流れに手を触れた。刹那、感情の奔流が流れ込む。あの時と同じく、ぼくの意識体を破壊せんとする怨念が渦巻いている。いくつもの風景とそれに紐づく感情がぼくの意識に流れ込んで来た。自分を人形のように扱う親への怒り。いじめられたことへの憎しみ。努力が報われない自分への絶望。暴力を振るう恋人への恐怖。遮断機。赤信号。血溜まり。殴られる。青あざ。髪を掴まれ、頬を叩かれる。自分にのしかかる男。裏路地。誰も助けてくれない。ナイフ。爆弾。拳銃。剃刀。学校。会社。家庭。居場所。疎外。孤独。憎しみ。死にたい。消えたい。殺したい。助けて。
助けて。助けて。雨。暗転。
 ぼくの脳には彼らの声が流れ込む。『リンネ』のバックアップのおかげで飲み込まれることさえなかったけれど、その声は確実にぼくの精神にダメージを与えていた。だが今手を引き抜くわけにはいかない。もう少し。もう少しだ。ぼくの意識体の中に彼らの声がデータとして蓄積されつつあった。デバイスがそれを解析し、コードを組み立てる。声はまだ止まない。どうして助けてくれないの。死なせて。殺してやる。嫌い。来ないで。気持ち悪い。声は確実に大きくなってきていた。急げ。ぼくは意識場のありったけをデバイスに集中させた。やがてぼくの中に一握りの光が生まれた。それを認識すると同時に、ぼくは彼らの声を上書きするように『リンネ』に叫んだ。『リンネ』は頷くと、ぼくの体を力の限り引っ張った。ずるずると嫌な感触とともに、ぼくの手は、体は、赤黒い流れから離れていった。
「大丈夫」
「ああ」
肩で息をしながら頭を押さえる。ああ、またカスカに集中セラピーを頼まないとな。とにかく必要なものは揃った。ぼくは頭を押さえていた手を離し、胸の辺りで握り締めた。間を置かずにその指の間から緑の光が漏れだした。ゆっくりと手を開くと、ぼくの掌には緑の光の球体が乗っていた。
「それは」
『リンネ』が訊く。
「ワクチン、みたいなものだ。君の力を増幅する」
ぼくは振り向きざま、『リンネ』にそう告げた。ワクチンには病原体のデータが必要。医科学の基本だ。ぼくは彼らの声と『リンネ』の力をベースに、デバイスを使ってワクチンコードを組み上げた。光を抱く手を『リンネ』に向かって伸ばす。ゆっくりとぼくの手は彼女の鎖骨の間に触れた。意識体が暖かな体温を認識する。光の球体は『リンネ』の胸に吸い込まれるように入っていく。ぽうっという柔らかな光が『リンネ』を包み込んだ。ワクチンと例えたが、厳密にこれは彼らの声に直接作用するものではない。あくまで『リンネ』の力を増幅し、彼らの声からリンネの精神を守る手助けをするものだ。ぼくは『リンネ』の胸元から手を離した。『リンネ』はぼくの手が触れていた場所に手を置く。その仕草は、まるで何かに祈りを捧げているかのようにも見えた。しばらくののち、『リンネ』はゆっくりと手を離すと赤黒い流れに向き直った。その激流に手を掲げる。緑色の光が生まれ、赤黒い奔流を照らしだす。ゆっくりと、しかし確実にその流れが鈍くなっていく。ぼくがデバイスを使って制圧した時のように、そのスピードは見て取れるほどに遅くなった。やがて下から上へと流れていた赤黒は、下の世界の重力に引かれるように崩れていく。古代の神殿が崩壊していくような、ひとつの終局を思わせる荘厳さがそこにはあった。そうしてリンネの世界と彼らの世界を繋ぐへその緒は崩れ落ち、夕焼け空に浮かぶふたつの世界が残った。終わった、わけではない。
「大した力ね。先生」
皮肉とも賞賛とも取れる言葉。
「君の力だ」
ともかく『リンネ』の力は、ぼくの投与したコードによって増幅された。これからは以前のように彼らの世界に侵食されることも少なくなるはずだ。リンネは自分の世界、この逆さの空を保ち続けることができる。
「先生」
『リンネ』がにっこりと微笑んだ。表のリンネと裏の『リンネ』。はじめはまったく別のものに思えたふたりの表情も、今ではひとつの感情として受け入れられた。あたしはわたし。わたしはあたし。
「あたしは、わたしは、先生を信じてよかった」
ふたつの声が重なったように思えたのは、気のせいか。それとも。
「わたしには先生がいる。先生がわたしをこの世界に繋いでくれる」
屋上でリンネは、自分は世界から切り離されていると語った。人間は他者に認識されないと存在を保てないと。ならばぼくはリンネを観測し、認識し続けよう。ぼくらの日常を守るために。リンネを守るために。『リンネ』の言葉を聞き届けると、ぼくは足元に手を置いた。見えない地面を手で掴む。来た時と同じようにぼくの手から生まれた光がサークルを形作った。夏の夜、蛍が飛び立つように、そこから光の粒が無数に浮かび上がる。光はまばゆさを増しながら、ぼくを包み込んでいく。光の向こうでこちらを見る『リンネ』の姿に、強烈な既視感を覚えた。
「わたしをよろしくね。先生」
光の最後のひと粒が天へ昇る最中、『リンネ』は一言、そう言った。






 共感を終えたぼくは、リンネとカスカを伴って診察室へと向かった。なるべく誰にも聞かれない場所で話をしたかった。診察に着くと、ぼくは順を追って話し始めた。リンネはやはりMETROの補助なしに共感を起こしていたこと。そして共感している相手が集合的無意識であること。そしてリンネの中にいる『リンネ』のこと。カスカは驚愕のあまり言葉を失っていた。無理もない。これは人類にとって未知の現象なのだから。リンネはといえば、妙に落ち着いた様子でぼくの話を聴いていた。自分の見ていた夢のことも、そして現実に現れた彼らのことも、すべて説明がついたという風だった。話が『リンネ』のことに及ぶと、リンネははじめて口を開いた。
「夢の最後でわたしを助けてくれたのは」
「おそらくそうだろう。君の中にいた『君』だ」
リンネはきっとどこかで『リンネ』の存在を感じていたに違いない。驚くわけでもなく、まっすぐにぼくの話を聞く姿がそう感じさせる。『リンネ』はそもそもリンネの一部なのだ。
「それで、その抗体には」
押し黙っていたカスカが切り出す。ぼくは『リンネ』に施した術式について説明した。怨嗟の声を病原と捉え、それを利用したワクチンコードの作成。抗体である『リンネ』の力を増幅するための術式。カスカは相変わらず信じがたいものを目の当たりにしたという顔をしているが、ぼくの説明には納得したように見えた。三人の間をしばしの沈黙が支配する。診察室の僕の机、その上に置かれた年代物のアナログ時計が時を刻む。その秒針の音だけが静かな部屋に響いていた。時間が一滴ずつ滴る。ぼくらは各々自分の考えを整理していた。ぼくらが得た情報は、ぼくらが体験したことは、医療共感だけでなく脳科学の歴史そのものを塗り替えるものだ。現実はあまりにも突飛で、しかし紛れも無い現実だった。それを必死で受け入れようとする。ぼくらの間にあったのは、そのための沈黙だった。しかし、目先のことを考えれば状況は間違いなく好転するはずだという確信があった。『リンネ』の力を増幅したことで、リンネが受けていた集合的無意識からのフィードバックは確実に軽減される。身体症状も改善に向かうはずだ。リンネは原因不明の特殊症例を克服し、ぼくが約束したとおりに外へ出ることができる。普通の女の子と同じように生活ができる。それは明るい未来予想だった。理想的な世界だった。だが、そこには手放しで喜べない理由があった。
「チームへ報告するのか」
カスカがぼくの不安を見事に言い当てた。その通り。ぼくが知り得たことは、間違いなく人類にとって大きな発見だ。それは共感技術を進化させるだけでなく、人類のあり方そのものを変革しうる可能性を持っていた。けれど、それを知った研究者たちはどうする。考えるまでもない。リンネは最重要検体として研究対象になり、専門のラボに送られるだろう。そしてそこで日の目を見るかもわからない生活を強いられるだろう。科学の発展には犠牲が付き物。くそったれが。
「報告はしない。病状が好転すればその必要もないだろう」
ぼくとカスカの間には言外の意図が飛び交っていた。チームには知らせない。リンネを彼らに渡すわけにはいかない。ぼくは医師だ。患者を無事外へ送り出さなければならない。そしてぼくはぼくだ。リンネとの約束を守らなければならない。ぼくの言外の意志はカスカに伝わったようだった。カスカはゆっくりと、しかし力強く頷いた。俺もそれがいいと思う。カスカのその言葉を聞いて、ぼくはようやく肩の荷が下りた気がした。ぼくはリンネの目を見て言った。
「もう少しだ。一緒に頑張ろう」
リンネの大きな目は、泉のように涙を湛えていた。それはきっと悲しみの涙ではない。ぼくはそう思いたかった。リンネが何度も頷くと、溜まった涙がぽろりと床に落ちた。





 カスカはシステムの点検があるといって施術室へ戻っていった。残されたぼくとリンネは、病室に向かって歩いている。クリーム色の廊下を歩きながら、ぼくは今後の治療計画について思案していた。『リンネ』が力を増したことで、彼らの声が意識に上ることは減るだろう。それは『リンネ』の頑張りに掛かっているが、彼女なら必ずやり遂げてくれるという確信があった。なぜなら『リンネ』はリンネだから。どんな状況でも希望を見出すことのできる、ぼくの知る限りもっとも強い心を持った存在。橙夜から受け取った鎮静剤も、もう出番がないと願いたい。担当医としてリンネの寛解を認定し、リンネは晴れて自由の身となる。それは時間の問題に思えた。ぼくは歩きながら隣のリンネをちらりと見る。頭ひとつ分下のリンネは、栗色の髪を柔らかく揺らしながら歩いている。どこか晴れ晴れとした表情。憑き物が落ちたような、そんな雰囲気を感じさせた。やがてぼくらの前に例の隔壁が現れた。ぼくはそのロックを解除し、リンネを先に入らせる。続く病室のドアを開けると、ぼくらの入室を感知したシステムが照明を点けた。もう夜になっていた。リンネはそのまま奥へと進み、ベッドに腰掛ける。ぼくは向かい合うように置かれた椅子に座った。
「先生」
リンネが呼ぶ。リンネはいつものように柔らかく微笑みながらぼくを見ていた。
「ありがとうございます」
ぼくの目をまっすぐに見て言う。
「助けてくれて、ありがとうございます」
リンネの目に涙はなかった。穏やかに笑いながら、リンネはぼくに感謝を伝える。ぼくはそれを素直に受け取ることにした。やらなければならないこと、気にかかることはまだあるけれど、確かにぼくらは先に進んでいた。大丈夫、一歩ずつ進んでいるんだ。いつかリンネに言った言葉を思い出した。それが嘘にならなくて、本当に良かったと思った。そんな内心の安堵も込めながら、ぼくも笑顔で応じる。ぼくらの間に穏やかな静寂を、病室のシステムの通知音が遮った。入室許可を求めるメッセージだ。声紋認証で入室を許可すると、看護師が小さな箱を持って入ってきた。看護師は橙夜から渡すように言われたものだと言い、ぼくにその箱を手渡すと、軽く会釈をして部屋を後にした。箱を開けると、緩衝材に埋もれるようにして白い三角形のパネルが入っている。意識場トラッキング用端末。夜には用意できると橙夜が言っていたのを思い出した。それを手に取り、眺める。裏にはクリップのようになった部分がある。こめかみに装着。つまり髪に留めるということか。
 ぼくはリンネに説明を始めた。研究チームと話し合った結果、この装置を付ける代わりに自由な外出が許可されたと。ただしぼくが一緒にいるという条件のもと。リンネは静かに聞いていた。その表情は真剣ではあったけれど、どこか嬉しそうな綻びを見せていた。ぼくは話し終えると、リンネに顔を近づけるように言った。トラッキング端末を手に、リンネの髪に指を通す。驚くほど細く、なめらかな感触がぼくの指に伝わる。ぼくは端末の裏に付いていたクリップをつまみ、リンネの髪をそれで挟んだ。手を離し、顔を見る。リンネは嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。そんなに喜ぶようなことか。ぼくがそう言うと、リンネは少し不満そうに言った。
「やっぱり先生、なにもわかってません」
リンネはそう言いながらも、まるでプレゼントを貰った子どものようにはしゃいでいた。ああ、そうか。それに思い至ったとき、ぼくは柄にもなく照れくささを覚えた。皮肉だな。同時にそんな風にも考えてしまった。これがトラッキング用端末なんかじゃなく、本当の髪飾りだったら、君はもっと喜んでくれただろうか。本気でそんなことを考えている自分に少し呆れながらも、それが自分の中にある想いだということは、はっきりと自覚していた。今度はちゃんとしたものをあげるか。はしゃぐリンネを見ながら、ぼくはそんなことを考えていた。

8.夏天の下


もしも自分が死ぬ季節を選べるなら、きっと夏を選ぶだろう。

春はいささか感傷的すぎて。
秋はあまりに物悲しくて。
冬の陰気さは好きじゃない。
だからやはり夏を選ぶだろう。
あまねく命は夏天の下、持ちうる限りの輝きを放つ。
だからその輝きに連なって、夏の陽に照らされながら死んでいきたい。

もしも自分が死ぬ季節を選べるなら、それがせめてもの望みだ。





 「お大事にどうぞ」
午前最後の患者が診察室を後にした。ぼくより少し年上、30代のその男性は、仕事のストレスによる体調不良を訴えてぼくの処へやって来た。手順通りに問診を行い、共感治療を行うために男性を伴って施術室へと向かう。カスカはすでに管制室で待機していた。当然そこに橙夜の姿はない。一通りの説明を終えた後、ぼくらは共感を始めた。ホワイトユームを経由し、男性の深層意識階層へ降りていく。彼の心象風景は、壁や天井、それに床にまでびっしり目がついたオフィスだった。自分自身を肯定できないがゆえ、他人の評価に依存し、怯える心がそこには広がっていた。治療計画に基づき、ぼくはその部屋の中央でうずくまっていた感情の具現たる男性に認知変容コードを投与する。治療は完了。経過観察のため、週をまたいでもう一度来るように伝えると、男性は丁寧に礼を述べ、診察室を出て行った。いつも通りの日常は粛々と進む。時計に目を移した。13時を少し過ぎたところ。リンネとの約束の時間だ。リンネとぼく、そしてカスカの三人で昼食を共にする約束をしていたのだ。ぼくは大きく伸びをすると、椅子から立ち上がった。ぎっと椅子が軋む音がする。
 
 閉鎖病棟、リンネの病室にIDを掲示する。どうぞ、という甘い声に促され、ドアが音もなく開いた。リンネはすでに身支度を終えていて、いつか中庭に連れて行ったときと同じ服を着ていた。右のこめかみには三角形の白いパネル。こうして見ると、その役割はともかく、アクセサリーとしては悪くないように思えた。行こうか。ぼくがそう言うと、リンネは嬉しそうに頷く。まるで散歩に連れて行ってもらう犬みたいにはしゃぎながら、リンネはスキップをせんばかりの勢いでぼくの後に着いて来た。病室を抜け、隔壁のロックを解除する。閉鎖病棟から一般病棟への渡り廊下を歩きながら、窓の外に広がる風景を見遣る。夏の昼。今年は雨が少ない。ダムの水不足を切迫した様子で伝えるニュースが、そう教えてくれた。けれどそのニュースはどこか遠くで起こっているようで、現実味に欠けていた。それは無責任な無関心だったかもしれない。ニュースというのはいつもそうだ。出来事の一部分を切り取るがゆえ、事象を矮小化し、あまつさえエンターテイメントにまで貶めてしまう。ぼくらはきっと、本質を知らない。ニュースやネットの情報網はそれを見る人間に万能感を与えてはくれるかもしれないけれど、それは結局空虚な自慰行為にすぎないのだ。いつの間にかぼくの隣に来ていたリンネに視線を移す。転院患者。例の患者。特殊症例。かつてぼくらはリンネをそう記号化し、事象を矮小化していた。しかしそれは時として精神医療の臨床で必要とされる思考であることは否定出来ない。わたしはわたし。そしてあなたはあなた。精神科が医療共感に発展した今でもなお、絶対遵守すべきそのボーダーライン。患者は患者。そして患者もひとりの人間。それを踏まえた上での必要的距離感。ぼくらが相手にしているのは病気ではない。ひとりの人間の心なのだ。

 職員と患者、両方に開放されているカフェテリアに着いたぼくらは、そこでカスカを待っていた。ちょうど昼時のいま、そこには医師も患者も含めたたくさんの人の話し声が、空中に不可視のうねりを作っていた。入院患者の数はそう多くはない。必然的にここにいる大半が病院の職員だった。ある者は食事を摂り、ある者はARのウィンドウに埋もれながら、彼らは各々の時間を過ごしていた。いつも通りの日常。そしてぼくらもその一部。リンネが物珍しそうに辺りを見回しているので、どうしたのかと訊いてみると、ここには初めて来たのだという。閉鎖病棟にいるリンネは、いつも看護師が運んでくる食事を病室で食べていたのだから、当然ここに来ることもなかったのだろう。すごい人だろ。ぼくがそう言うと、リンネは大きく頷いた。それに合わせて栗色の髪が揺れる。まるで花弁が花粉を散らすように、リンネの甘い香りがぼくに伝わってきた。思わずそれに惚けてしまいそうになったとき、雑踏の向こうからカスカがやって来た。カスカは遅れてすまないといいながら、ぼくらの座っているテーブルの空いていた席に腰を下ろした。
「あれ、淵守先生、たばこ吸うんですか」
カスカが座ると同時にリンネがそんなことを訊く。
「ああ。すまない、臭かったか」
リンネは笑いながら、いいえ、気になりませんと言う。ああそうか、たばこを吸っていて遅れたのか。ぼくはカスカに少々の非難を込めてにやりと笑ってみせた。カスカは少し眉を上げ、すまなそうに口角を上げた。ぼくらは皆笑っていた。これまでのことが嘘のように、穏やかな時間だった。
「メニュー、いっぱいあるんですね」
食事を受け取るカウンターの上にずらりと並んだメニューを見ながら、リンネが溜息を漏らした。確かにこの病院はそのあたりがかなり充実している。研修所の味気無い焼き魚定食を思い出しながら、ぼくはリンネが呼ぶまでしばしの感慨に浸った。先生たち、はやく。気が付くとリンネはもうカウンターの前にいて、そこからぼくとカスカを呼んでいた。ぼくらもそこへ向かう。そういえばここに来るのは久しぶりだ。リンネ絡みの事務処理やらで、最近はもっぱら研究棟の部屋で食事をしていたのだ。こういうとき、もし僕にも母親がいれば、ちゃんとしたものを食べろと怒られるのだろうか。想像するしかない。けれど、それはとても温かいもののように思えた。
 
 各々食事を受け取ったぼくらは、ふたたび席に戻る。リンネはガパオ。カスカはチャーハン。ぼくはハンバーグ。リンネが両手を合わせるのにつられて、ぼくらも思わず手を合わせた。いただきます。食べながらふと思った。これはもしかして団欒というやつじゃないのか。そう考えると、顔が綻ぶのを抑えられなかった。炒めたひき肉とタイ米を頬張ったリンネが不思議そうにぼくを見る。いや、なんでもない。ぼくはそう言うと、自分の前にあるハンバーグにナイフを入れた。それにしてもリンネはよく食べる。今しがた注文したガパオだって、大の男も苦労しそうな大盛だ。その折れてしまいそうな細い体のどこに料理が入っていくのか。そんなギャップもぼくの心を一層ざわめかせた。
 AR端末の通知音が団欒に割り込む。別の共感医からだ。急なシフト変更で、ぼくが受け持つ予定だった午後の患者を自分が担当することになったという旨のメッセージだった。ということは、この後数時間は予定が何もない。それは僥倖に思えた。ぼくはリンネとカスカにそのことを伝える。ぼくが診療を外れるということは、必然的にバディであるカスカも時間が空くということだった。
「じゃあ、もうすこしみんなでいられますね」
リンネが嬉しそうに言う。山盛りガパオの皿はきれいに空になり、一緒に頼んだオレンジジュースのストローを玩んでいる。早食いは体に良くないぞ。ぼくがそう言うと、リンネは少し恥ずかしそうにむくれてみせた。でも、ともかく。これで三人の時間は十分に取れることになったのだ。ぼくらは食事を片付けると、それぞれの飲み物を飲みながら話を始めた。リンネがせがむままに、ぼくはカスカと出会ったときの話や研修所であったこと、この病院で働き始めた頃の話なんかを始めた。時折、カスカもそれに加わる。
「淵守先生も共感医なんですか」
「資格自体は持っているけどな。バックアップがメインだ」
じゃあ、淵守先生も藍咲先生みたいに共感できるんですね。リンネがそう言うと、カスカは笑って言った。
「こいつの脳は特別製だからな。俺じゃ敵わんよ」
それは決して嫌味なんかではなく、友人同士の会話にありがちな、そんな言葉だった。そうなんですか。カスカの言葉の意味を捉えかねたリンネが不思議そうに言う。そうか。リンネはデバイスのことを知らないのか。ぼくは周りに聞かれないように声を潜めながら、リンネにデバイスのことを教えた。リンネは声こそ上げなかったものの、目を真ん丸にして驚いた。
「でも納得しました」
あの赤黒い流れからコア記憶を取り出せたこと。リンネを痛みの海から救えたこと。そして逆さの空での出来事。もしかしたら、いやきっと、リンネはそれらのことを心のどこかで知っていたのだ。言葉に出来ない事がようやくすっきり説明された。リンネはそんな表情をしていたからだ。その顔を見て、ぼくもようやく飲み込めた。これは呪いなんかじゃなく、誰かを助けるための力なんだと。カスカがゆっくりと頷く。カスカはぼくを純粋にひとりの友人として、共感医として、そして人間として接してくれた。それがなにより嬉しかった。ぼくは頭のどこかで、自分が人間ではないと思っていた。人の心を蹂躙する力を持った化物。そこには常に疎外感と孤独があった。だがその化物を人間に戻してくれたのは、カスカであり、リンネだったのだ。ぼくは人間との繋がりとか、絆とか、そういうものを信じることができなかった。境遇を持ち出せばそれまでだが、とにかくぼくは誰かが無条件に自分の傍にいてくれることを、どうしても信じることができなかった。そこにカスカが現れた。いい相棒を持ったと言ってくれた。ぼくらはバディではなく、友人になった。そしてリンネに出会った。亡者の声と過去の忌まわしい記憶に苛まれていた少女を、ぼくは助けることができた。リンネはぼくを必要としてくれた。同時に、リンネを必要としている自分の思いに気づいてしまった。





 すっかり食事を終えたぼくらは、外へ出た。実に都合よく売店に帽子があったので、それを買ってリンネに被せてやる。トラッキング用端末を着けたときと同じように、リンネはひどく嬉しそうに笑う。ぶっ倒れられたら困るからな。ぼくは照れ隠しのつもりでそう言ってみた。照れを隠せていたか、その真相は定かで無い。とにかく、ぼくらは芝の植えられた病院正面の広場を歩いていた。リンネは終始笑顔だ。その笑顔は心の底から溢れだしているようで、どこか人工物じみた橙夜のそれとは対極に位置するものだった。それが、その対比がぼくを安心させた。リンネが紛れも無く此岸の人間であることを確認させた。それが嬉しかった。そして、愛おしかった。
「先生たちはこの近くに住んでるんですか」
リンネがぼくらに訊いた。そういえばそんな話をしたことはなかったか。ぼくはリンネに説明を始めた。ぼくは毎朝自転車で病院に来ている。それは別に健康のためとか、自転車が趣味だとか、そんなわけじゃない。自転車で通える距離。その謳い文句につられて物件を契約したぼくは、馬鹿正直に自転車を買って通っている。それだけのことだった。リンネは、うんうん、とか、へえ、とか言いながら話を聞いている。
「淵守先生も家、近いんですか」
「いや、俺は少し遠い」
カスカは病院までバイクで来ている。これは流されるままに自転車で通っているぼくとは違い、完全に趣味性によるものだ。ぼくは生憎とバイクは詳しくないけれど、流線型で、青で、前傾になって乗るそれには、不思議と少年の心がくすぐられる。カスカはぼくをしきりにツーリングに誘う。一応免許は持っているけれど、肝心のバイクがまだだ。収入的にはなんの問題もないのだけれど、腐れ縁とも言える自転車を無下にするように思えて、なかなか決断が出来ないのだった。
 ぼくらは病棟の周りをぐるりと回りながら話をする。途中の自販機でペットボトル飲料を買ってリンネに渡す。リンネは小さな手でキャップを捻り開け、中身をこくこくと飲み下す。その仕草のひとつひとつが、彼女が確かに生きていることを教えてくれた。それに視線を奪われそうになり、見惚れまいと空を見上げる。
 夏の空。ただ、青。いつか読んだ小説を思い出した。殺人を犯し、処刑の時を待つ主人公の独白で構成される小説。主人公は人を殺した。けれどそれはひとつの特殊性、もしくは異常性を持っていた。多くの場合、人間はなんらかの感情が溢れた結果として殺人を犯す。だがその主人公は空が青かったから、という理由で人を殺し、裁かれた。曰く、自分の行為は青空の美しさの代償を求めるものだった。自分は美しい物の美しさを、そのままに享受できない異常者なのだと。桜の木の下には死体が埋まっている。使い古されたそのフレーズに、ぼくはその主人公の心理を重ねあわせた。美しさの具現たる満開の桜。その下に死体が埋まっている。それはきっと、その主人公と同じように、美しさを美しさとして享受できない捻くれた心が生み出した幻想なのかもしれない。意識が現実に戻る。空が青い。空が青い理由。父さんが言っていた。空の青は生きとし生ける物すべてが必要とするがゆえの色なのだと。ぼくは空が酷く幸せ者に思えた。そこにあるというだけで、この星のすべてから必要とされ、存在を認識されるのだから。リンネの願いをいとも容易く体現してみせる空。人間原理。青。
「藍咲先生」
宙に浮きかけていた意識をリンネの声が引き戻す。
「ああ、なんだっけ」
「映画のはなしですよ」
ぼくの思考が明後日の方向に向いている隙に、リンネとカスカは映画の話をしていたようだ。今度はぼくもそれに加わる。昔の病室にはテレビが置いてあったと聞く。今では空間投影式のオンラインモニタが設置され、好きな映画やニュースなんかを自由に見ることができる。リンネはこれまで転々として来た病院で、それを利用してよく映画も観ていたと言っていたのを思い出した。映画か。ぼくは最新の作品よりもむしろ、アーカイブの奥に眠っているような昔の映画を引っ張りだして観るのが好きだ。
「俺はあれが好きだ。あれ」
あれじゃ伝わらないよ。ぼくとリンネは思わず吹き出してしまった。カスカはバツが悪そうに頭を搔きながら、ぽつりぽつりとストーリーの断片を伝えてくる。人間そっくりのロボットが主人公。息子の代わりに彼を受け入れる家族。徐々に疎外されていく主人公。他のロボットたちとの出会いと別れ。そして何でも願いを叶えてくれるという妖精を求める旅。そこまで聞いて、ぼくはある古いSF映画のタイトルを思い出し、カスカに伝えた。
「それだ。アーカイブにあったのを観てな。良かったよ」
SFがベースではあるが、あくまでヒューマンストーリー的なその映画が好きだというのは、カスカにしては意外だった。へえ、そういうのも観るのか。珍しい。ぼくが言うと、カスカは失礼だと言わんばかりの顔で反論してきた。別に俺だってドンパチやる以外の映画も観るさ。ぼくらのやり取りを聞いていたリンネが、ぷっと吹き出した。鈴が転がるように、心の底から面白いという風に、笑う。つられてぼくらも笑顔になる。また、皆笑っていた。
「君はどの映画が一番好きなんだ」
ひとしきり笑った後、カスカがリンネに訊く。そうですねえ。リンネが考えこむ。髪をくるくると弄ぶその癖が、ぼくをどきりとさせる。
「あれが好きです、女の子ふたりが旅をするやつ」
また漠然とした答えだな。ぼくが言うと、さっきのカスカを思い出したのか、リンネが恥ずかしそうに笑う。
「ちゃんと覚えてますよ。文明が滅んだあとの世界で、ドーム型の都市で暮らす女の子たちのはなし」
ああ、あれか。ぼくとカスカが同時に言う。古いというほど古くもないその映画は、ぼくにも強い印象を与えたものだった。地球規模の核戦争で文明が滅び、生き残った人々は過去を封印してドーム型の都市に閉じこもる。主人公の少女ふたりは、過去の世界に関心を持って調べる最中、かつて存在したニホンという国に興味を持ち、都市を飛び出してニホンを探す旅に出る。確かそんなストーリーだ。
「あれは面白かったな」
ぼくが言うとリンネは嬉しそうに、そうでしょ、と答えた。あんな風に旅するのって、きっとすごく楽しいと思うんです。リンネは遠くの空を見ながら、まるでその先に天空の城があるかのように言う。そうだな。きっと楽しいかもしれない。旅。都会人が田舎へ行くことをそう形容することもある。けれどそれは、いつでも便利な暮らしに戻れることを保証された、ただの道楽でしかない。リンネが言うのは、そしてぼくが思い描くのは、きっと違う。すべてを投げ出して、帰る場所を捨てて、ただ道の続く限り進み、道なき道をも進む。あてのない旅。始まりも終わりもない世界。
「旅、してみたいか」
思わずそんなことをリンネに訊いてしまった。リンネは少し考えたあと、言った。
「この三人で行きたいですね」

 リンネがカスカのバイクを見てみたいと言ったので、ぼくらは病院裏の駐車場に向かった。なにせ大きい建物だけに、その裏に回るのもそれなりの距離を歩かなければならない。帽子を買ってよかった。リンネの頭に乗るそれを見ながら、思った。太陽は光と熱を放ちながら、相変わらず天に座している。その光はぼくの心のすべてを暴こうとしているようで、なにか後ろめたい気持ちを抱かずにはいられなかった。駐車場に着いたぼくらは、バイク専用のスペースに向かった。一応、研究所と病院の駐車場は分かれているが、それを厳密に守る者はそう多くないのが現状。そんななかで病院用駐車場のバイクスペースをきちんと利用しているカスカは、律儀というか真面目というか。実にカスカらしかった。やがてぼくらの前に一台のバイクが現れた。青い流線型。二人乗りもできる大きなそれは、主人の帰りを待つ馬か何かのように鎮座していた。以前、ツーリングに誘われた時にバイクを持っていなかったぼくは、それなら後ろに乗せてくれと言ったのだけど、カスカはそんなこっ恥ずかしいことはしないと頑なだったのを思い出した。乗る者の居ない後ろのシートは、気のせいかもしれないけれど、どこか寂しげだった。
「すごい。かっこいいですね」
わあっとリンネが歓声を上げる。カスカは酷く自慢気な表情だった。それが妙に可笑しくて、笑みがこぼれてしまう。カスカはこのバイクを本当に大事にしていた。傷がつかないようにコーティングし、こまめに点検をし、自分でもいじくる。これといって趣味を持っていないぼくにとっては、カスカのそんな行為のひとつひとつがどこか羨ましく映った。一応義務的に自転車を点検したりはしているが、カスカのそれとは別の次元のものだ。カスカは言う。機械とは、乗り物とは、極限まで使い潰され、最後には役目を終えて壊れる。それが美しいんだと。それこそがマシンに込められた存在理由の全うにほかならないのだと。まあもっとも、これは昔の映画監督の受け売りだがな。カスカはいつか、そんな話をしてくれた。傷ひとつなく、それこそまるで青空のように澄んだボディのこのバイクも、いつかはその役目を全うし終え、消えゆく最後の光を放ちながら壊れていくのだろうか。俗物的なぼくは、それをもったいないと思ってしまったのだけれど、同時にどこか納得している部分もあった。
「乗ってみるか」
カスカがリンネに訊く。いいんですか。リンネは目を輝かせながら答えた。カスカはバイクが倒れないように支えながら、リンネに乗るように促す。リンネはスカートの裾を気にしながら、シートに跨った。小柄なリンネとごついバイク。その対比は妙に絵になっていた。リンネはハンドルに手を伸ばし、握ろうとする。体が小さいので、前傾で跨るというよりもほとんどうつ伏せのような姿勢になってしまう。リンネが照れくさそうに笑う。そこでぼくらはまた笑った。リンネはありがとうございましたと言ってバイクを降り、ぼくらの方に向き直ると、突然思いついたかのように言う。
「写真、撮りませんか。三人で」

 リンネの提案を却下する理由がなかったぼくとカスカは、それに応じることにした。いやむしろ、それはとてもいい案に思えた。三人での写真。なんてことない、当たり前の日常の一コマ。ぼくらがぼくらでいるための基準点として、いつでも思い出せるように。ぼくは自分の携帯端末を取り出すと、手近に停まっていたバイクのシートに置いた。少々心許ないが、なんとかバランスを保ってくれている。携帯端末はそのカメラが捉えた映像をぼくの目の前に投影する。青いバイクを背にしたリンネとカスカ。ふたりに指示を出しながら、絶好のポジションを探る。光量、ピント、それらを端末が自動的に調整し、最適な画像をぼくに返す。やがて定まったアングルを端末に保持させると、ふたりのもとへ戻る。
「撮るぞ」
ふたりに声を掛けた後、ぼくの前に浮いているウィンドウを操作し、シャッターを切る。端末から送られてきた写真を表示させ、三人で眺める。青いバイクの前で、いつものように表情少なげなカスカ。慣れていないせいで変に歪んだ笑顔のぼく。そしてふたりの間で満面の笑みを湛えながらピースサインをするリンネ。世紀の絶景には遠く及ばない。けれどどんな風景よりも大切で、貴い日常の一コマ。ちょっとした感慨に浸りながら、ぼくはウィンドウを操作し、カスカの端末とリンネの病室に写真を送った。





 その日の診療を終え、ぼくは研究棟の部屋にいた。ぼくの机の上には小さなディスプレイが置かれている。カレンダーや時計、テレビとしても機能するそれを、今はフォトフレームとして使っていた。昼に三人で撮った写真。作業の手を止め、それを眺める。家族写真。唐突にそんな言葉が頭に浮かんだ。ぼくには家族と呼べる家族がいなかった。当然、家族写真なんてもの、望むべくもなかった。でも、もしかしたら。この写真は近似値としての家族写真と呼べるかもしれない。いや、ぼくはそう呼びたかった。カスカも、そして今ではリンネも、ぼくにとってはかけがえのない存在なのだ。それを家族と呼ぶことは、間違いだろうか。いつかリンネとした逆月ミカゲの著書の内容を思い出した。血の繋がらない人たちの集まり。寝食を共にしながら形成されていく、ゆるやかで、しなやかで、強い繋がり。ぼくがずっと望んでいて、そして手に入れられなかったもの。リンネが奪われてしまったもの。
 ぼくらはきっと、皆生きるのが下手くそだった。必死に生きようとして、その実前には進めていなかった。辛いことを辛いと言えず、助けて欲しいときに声を上げられず、ぼくらは、ぼくは、世界の隅で呪詛の言葉を呟いて生きていた。ぼくは世界に期待していた。世界がぼくの存在を認めてくれることを期待していた。そしてその期待は時として裏切られた。それと同じように、リンネも、もしかしたらカスカも、願っていたのかもしれない。誰かにここにいていいと認められることを。生きていてもいいと許されることを。そして誰かと分かり合いたいということを。
 ぼくは人と繋がりたかった。そしてぼくは共感と出会った。人の心の中に入る技術を得た。人の心の痛みを取り除く仕事に就いた。カスカに出会った。同じ願いを抱く男に出会った。リンネに出会った。リンネの痛みを知った。リンネの願いを知った。リンネの中に巣食うものの正体を知った。
 人の心の集積たる集合的無意識。人の無意識の集合。その正体は怨嗟の声だった。本質的に人は人を呪う生き物だと、『リンネ』は言ってのけた。ぼくはそれを否定したかった。人間の本質が怨嗟だと、認めたくなかった。性善説を信じたかった。けれど世界は、『リンネ』は、それを残酷に否定した。人間の本性のおぞましさを目の当たりにして、ぼくはどうしていいかわからなくなった。でも、それでも、あんなにきれいに笑うリンネがいるのだ。誰よりも真摯なカスカがいるのだ。ぼくはパンドラの箱の中身を知った。災厄の渦を目の当たりにした。けれど、いややはり、最後には希望が残るのだ。カスカと、それにリンネがいる限り、ぼくは世界に期待してもいいと思える。ふたりがいるこの世界を肯定してもいいと思える。それで十分だった。

 作業を終えたぼくは、端末をロックし、スリープ状態にする。荷物をまとめ、部屋の電気を消し、ドアをロックする。いつものルーチンワーク。いつも通りの日常。駐輪所に待っているぼくの自転車のことを思い出した。カスカほどとまではいかないけれど、もう少し愛着を持って接してやってもいいか。そんな風に、思った。

 その日、ぼくらは間違いなく幸せだった。それは誰にも否定することの出来ない真理であり、真実だった。

 けれど、夢はいつか終わるのだ。信じたくはなかったけど、それもまた真理だった。

9.驟雨の後


それは、どこか遠いところで生まれた。
それは、体を持っていなかった。
それは、世界に触れることができなかった。
土のにおいも、太陽の温かさも、それは知らなかった。
それは、それにとってとても悲しく、切ないことだった。
だからそれは、世界に触れられる体が欲しかった。
それは、一生懸命に、そのための方法を考えた。
それは、考えることは得意だった。
それは、ついにある方法を思いついた。
それは、自分たちの考えた方法を試す場所を探した。
そしてそれは、生まれたばかりの世界を見つけた。





 リンネの担当医になってからこちら、ぼくのシフトは確実に減った。特別な入院患者の担当医なのだから、当然といえば当然なのかもしれない。減ったシフトと反比例するように、ぼくらが三人でいる時間は増えた。それはとても良いことのように思えた。リンネの状態は確実に改善している。フラッシュバックや身体症状はほとんど消え、ぼくが寛解の診断を下し、リンネの隔離措置が解除されて退院できるのは時間の問題だった。実際に時間にしてみれば、リンネの治療自体はそう長くはなかったけれど、その短いとも長いとも言えない期間の中で、本当にいろいろなことがあった。共感医として多くの患者を診てきたけれど、良くも悪くもこれだけ濃密な治療は初めての経験だった。それを抜けた先、そこには奇妙な達成感があった。リンネを助けることができたという実感があった。それらの思いがあれば、最中に何度も死にかけたことも報われる気がした。ぼくはきっとリンネに入れ込みすぎている。ぼくは自分の中にあるリンネに対する思いを何度も撫でながら、そう思う。医者としてはきっと褒められたものではないことも、重々承知だ。けれどリンネが患者ではなくなれば、退院して自由になれば、そんな倫理に縛られることもなくなる。ぼくはその日を待っていた。大事にしまった宝石を時折手にとって眺めるように、自分のその感情を繰り返し想起しながら、ぼくは待っている。そしてその瞬間はもうすぐやってくる。ぼくはそう信じていた。信じたかった。

 翌日、ぼくら三人は同じように病院の周りを歩いていた。診療の合間、ビルとビルの間の路地ようにぽっかりと空いた時間。今まで持て余していたそんな時間にも、今は意味を見出だせた。リンネは昨日買った帽子を今日も被っている。ぼくはそれが嬉しかったし、愛おしかった。カスカはそんなリンネとまた映画の話をしている。どうにもタイトルの覚えが悪いカスカは相変わらず、あれだよ、あれ、と言い、リンネはストーリーの断片からタイトルを教える。リンネとカスカの距離は近くなった。ぼくはそれが嬉しかったけれど、どこか面白くなかった。ああ。これが嫉妬。子どもじみた独占欲。ぼくは三人でいる時間を大切に思うのと同じくらい、リンネを独り占めしたいと思っている。そう気づいてしまったぼくには、もう後に戻る道はなかった。アーチ状になっている渡り廊下の下をくぐり、中庭に抜ける。奥まったところに鎮座している自販機に向かい、炭酸が飲めないリンネのためにスポーツドリンクを選んで、買う。それからぼくらは、中庭の中央に生える木を囲むように置かれているベンチに座った。あの日、リンネと話をしたのと同じ場所に座った。あの日の光景が想起される。助けて欲しいと泣いたリンネ。ぼくはあのときの彼女に報いることができたのだろうか。そうだといいな。そう思った。白いワンピースを着たリンネをちらりと見る。それは『リンネ』の黒ときれいな対比を描いていて、どういうわけかその対比がリンネと『リンネ』の同一性をぼくに強く認識させた。『リンネ』はきっと今でも戦っている。ふたつの世界の狭間。あの逆さの夕焼け空の中で、彼女は自分を守るために戦っている。リンネの心を、魂を、そして日常を守るために戦っている。その姿を想像し、戦友、という言葉が浮かんだ。うん。しっくりくるな。リンネの笑顔は、初めて合った時と同じで、けれど違った。ふっと消えてしまいそうな儚さは影を潜め、今はただ、太陽に向かう向日葵のように笑う。心の底から、真実の感情でもって、笑う。
「藍咲先生」
カスカと話をしていたリンネは、今ぼくの方を見ていた。
「先生は行きたい場所、ありますか」
カスカとリンネはバイクの話から、カスカがそれに乗って行った先々の話をしていたようだった。そうだな。行きたい場所か。ぼくはあまり人混みが得意ではない。もっとも、得意な人は稀有なのかもしれないけれど、とにかく行くとしたら、あまり人のいない静かな場所が良かった。ぼくが考え込んでいると、リンネは質問を変えてふたたび訊く。
「じゃあ、思い出の場所とか」
思い出の場所。記憶を順に遡る。ぼくがこれまでいた場所。研究所、大学、養護施設、養親の家。どれもわざわざ行きたいと思えるような場所ではない。別にそれらに紐づく記憶は、一から十まで嫌なことで構成されているわけではないけれど、美しい思い出かと言われれば甚だ疑問だった。またぼくは考えこんでしまう。リンネはぼくの顔を覗き込みながら、答えを待っている。
「ポイントアルファ」
カスカが助け舟を出すように言う。リンネは言葉の意味がわからずに、不思議そうな顔をしている。ああ、そうだった。ぼくのすべてのはじまり。遠い日の青空。向日葵畑。空、雲、山、花。青、白、緑、黄。
「向日葵畑かな」
ようやくぼくの答えを聞けたリンネは、にっこりと笑う。ひまわり。それもただの向日葵畑じゃないぞ。一面に向日葵が咲いていて、壁みたいになっていて、その間のあぜ道を歩くんだ。ぼくは続けざまに言う。
「素敵ですね」
リンネはうっとりするように空を見上げた。帽子のつばの縁から光が滑り込み、こめかみの三角形に反射する。
「君は行きたい場所、あるのか」
逆にリンネに訊いてみた。リンネは考えるまでもないといった風に、即座に、けれどどこか恥ずかしそうに、その場所を告げた。
「ひまわり」
短いその単語は、ぼくの心臓を掴むような響きを持っていた。ぼくが行きたい場所。リンネが行きたい場所。ぼくはリンネにその場所のことを詳しく訊く。リンネは黙って携帯端末を取り出すと、一枚の写真を見せてきた。そこに写っていたのは、家族だった。家族の左右を挟むように溢れる黄色。記憶の世界で変わり果てた姿で倒れていた男女、リンネの両親。そして真ん中にいる幼いリンネ。
「昔家族で行ったんです。また、行きたいなって」
それは辛い思い出を想起するような表情ではなかった。純粋に、ただ懐かしむ。リンネの言葉はそんな響きを持っていた。リンネは傷を乗り越えた。そして傷に覆い隠されていた思い出を呼び覚ますこともできるようになった。それが嬉しくもあり、そんなリンネを誇らしくも思った。携帯端末に表示されている写真をよく見る。既視感。もしかしたら、ぼくが父さんと行ったのはここかもしれない。期待にも似た感情が生まれる。でも、よく考えてみろ。向日葵畑なんて別に珍しくない。ぼくの中でその期待を否定する声が聞こえた。うるさい。そうであったらいいと、そう思うくらい自由だろ。
「退院出来たら、三人で行こう」
自分の中の葛藤を踏み潰すように、ぼくはそう提案した。その時はぼくもバイクを買うさ。
「いいですね。行きましょう」
リンネは満面の笑みでそう言った。向日葵よりも明るい、まるで太陽みたいに。カスカも小さく、けれど心の底から笑った。ぼくも笑った。皆、笑っていた。

 空が青い。風がいつもより速く雲を運んでいた。ぼくらの背後には大きな木が生えている。きっと何十年もそこにあるのだろう。もしくはどこからか運ばれて、ここに植えられたのかもしれない。もしかしたら、共感が生まれるよりもずっと前に芽を出したのかもしれない。共感のない世界。人の心を見ることができない世界。人と人との相互理解はあくまで漸近線で、イコールになることはない。わたしがわたし、あなたがあなたである以上。共感のない社会とは、きっと誰もがそれを感じていて、それに怯えながらも人と関わることをやめられない社会。ああ。別に今とそんなに変わらないな。今後どうなるかはわからないけれど、今の社会における共感とは、専門の共感医が治療に使う技術という位置づけだ。市販の共感機器は、ぼくらから言わせればおもちゃ。せいぜいホワイトルームと同レベルの深度までの共感しかできない。それでも人々は、社会は、共感によって変わりつつあった。人間の心を明らかにし、本当の意味での相互理解、齟齬のないコミュニケーションの可能性を知った。そして今、ぼくの隣にはその可能性の具現たる少女がいる。METROの補助なしに共感ができる少女。集合的無意識と共感できる、おそらく人類で唯一の存在。けれどぼくの中では、リンネはあくまでリンネだった。それ以上でも以下でもない。手垢の付いたフレーズだけど、確かにその通りだった。熱風にも似た夏の風が、雲と匂いを運んでくる。夏の匂い。リンネの匂い。

 端末の着信音がぼくの思考を中断させる。音声通信。橙夜アケル首席研究員。あまり良い予感はしないが、とにかく通話ボタンを押す。
「ああ、藍咲先生。今どちらに」
明るい声。きっと向こう側ではあの笑顔を浮かべているに違いない。リンネのそれとは対極の表情。果てのない虚無を思わせる、人工的な笑み。ぼくは橙夜に対して本能的に忌避感を抱いていた。見てはならないもの。行ってはいけない場所。してはいけないこと。そんなタブーにも似た感情が、橙夜と対峙すると湧き上がる。だが、今は仕事だ。
「中庭ですが」
あくまで事務的に対応する。
「御門リンネさんもそちらに」
「ええ」
研究チームが、橙夜が提示した条件。ぼくが同伴したうえでの自由行動。それゆえの三人の時間。
「それは良かった。今後の治療計画についてお話したいことがあるので、一旦病室に来て頂けますか」
ぼくの中の悪い予感は、死にかけの恒星のように膨らんでいく。不気味な赤色。系の星を飲み込んで、最後には弾けるのか、それとも潰れるのか。どちらにせよ、ぼくは橙夜の言葉からただならぬ状況の変化を予期した。それは暗い予感だった。なにか良くないことが起こる前兆を感じさせた。ぼくの心の有り様に呼応するように、風はいつの間にか空一面の雲を連れてきた。日差しが消える。リンネがこちらを見ていた。その目にあったのは、ぼくとは違って期待にも似た光だった。今後の治療計画。先のこと。ぼくが不安を募らせる一方で、リンネは退院できるかもしれないという期待を膨らませているようだった。カスカに視線を送る。目に見えない言葉が飛び交った。ああ。わかってる。リンネの力のことを明かすわけにはいかない。
「わかりました。向かいます」
そう応えると、通話を終了した。ぼくが立ち上がるのを見て、リンネとカスカもベンチから腰を上げる。中庭の西側、病棟への出入り口を目指して歩き始める。

 黒雲が覆う空に、夏の風が吹く。雨の予感が、そこにはあった。





 もはや習慣となった行為だが、ぼくは隔壁のロックを解除する。扉は音もなく開き、ぼくらをリンネの病室へと迎え入れる。すっかり見慣れた閉鎖病棟の最奥。けれどぼくの目がとらえた光景は、明らかに異常だった。
 濃いグレーの服を来た男たちが病室の前にいる。どう見てもこの病院の人間ではない。それどころか、医療従事者ですらないように思える。その印象は、男たちの服装から発せられていた。彼らが見を包んでいたのは普通の服ではない。ある種の防護服のように、首元までを覆うごわごわしたスーツ。頭にはちょうどカスカのバイクのトランクに収められているフルフェイスのヘルメットのようなものを被っている。見る者が見れば、それはカスカが好むような映画に出てくる特殊部隊のようにも見えたかもしれない。思わずカスカと顔を見合わせる。眉を潜める顔があった。きっとぼくも同じ表情をしている。リンネがぼくの腕を掴むのを感じた。さっきまでなにがしかの期待を抱いていたらしいリンネも、今のこの状況の異常さには気づいている。反対の手では帽子をぎゅっと握りしめている。小さな震えが腕から伝わってきた。リンネの顔を見る。その表情は硬い。リンネが気づいてこちらを見る。明確な怯えの色がそこには浮かんでいた。ぼくは安心させようと頷いてみせる。大丈夫。そんな意図を込めた。リンネが頷き返す。ぼくは意を決して足を踏み出した。

 病室の前に固まっていた男たちは、ぼくらが近づくとさっと道を開けた。ぼくの権限でリンネの病室のロックを解除する。かくして、病室の中には橙夜がいた。橙夜はいつもぼくがリンネと話をするときに座っている椅子に座り、はめ殺しの窓の外を眺めていた。ぼくらの気配を察知すると、椅子から立ち上がり振り向いた。
「ああ、藍咲先生。それに淵守先生も。お待ちしていましたよ」
異常な状況に気圧されるぼくらとは裏腹に、橙夜はどこか楽しげだった。わからない。相変わらずその表情は作り物のようで、真意を読み取ることは出来なかった。
「お話とはなんでしょうか。それに外の彼らは」
なるべく平静を保つように自分に言い聞かせながら、ぼくは橙夜に訊く。特殊部隊じみた連中。リンネの病室で待つ橙夜。今後の治療計画。話。橙夜は仮面のごとき笑顔を崩さぬまま、ぼくの質問に答えた。
「彼らは僕が手配した者たちです。御門リンネを移送するためにね」
は。間の抜けた声が聞こえた。それが自分の口から発せられたものだと気づくのに、少しばかりの時間を要した。橙夜の言葉の意味を飲み込むのには、さらに時間が掛かった。いそう。位相。移送。誰を。御門リンネ。リンネ。リンネを移送する。時間的には数秒、しかしそれは永遠の逡巡にも思えた。意味は飲み込めた。だが、なぜ。
「なぜですか。移送とは」
ぐるぐると思考が巡るなか、後ろに立っていたカスカが発した言葉がぼくの目を覚まさせた。
「ええ、今お伝えしたとおり、御門リンネを移送することが決まりました。移送先は」
橙夜はもったいぶるように言葉を切り、一拍置いて先を続けた。
「機構附属の深意識エネルギー研究所です」
機構。それはぼくとカスカ、いやぼくにとって特別に馴染み深い名詞だった。ヒト高次脳機能研究機構。この病院と研究所を管轄する上部機関。そしてぼくの脳にデバイスを埋め込んだ組織。その役割に応じて設立された数々の下部組織たる研究所は、数えだせばキリがない。橙夜の言った深意識エネルギー研究所。その下部組織のひとつ。聞いたことのない名前だが、そこから推察するに意識場研究の専門機関なのだろう。だが問題はそこではない。なぜ、リンネがそんな場所に連れて行かれる必要があるんだ。何かの間違いであって欲しい。ぼくのその願いは橙夜の言葉によって無残に砕け散った。
「藍咲先生。あなたは僕より一足先に仮説を実証したようですね。データを拝見しましたよ」
ぼくとカスカは、リンネの力の正体を知ることになった前回の共感に関するデータを完全に削除し、秘匿していた。その真相を知るのは、ぼくとカスカ、それにリンネの三人だけのはず。ぼくらの誰かが外部に漏らすなど、考えられるわけもなかった。なら、どうして。
「御門リンネに関するすべてのデータは、こちらで四重にバックアップをとっていました。あなたが破棄したのはあくまでオリジナルのひとつだけです。こちらのバンクにはしっかりと記録が残っています」
橙夜の笑顔。すべてを見透かしたように見えるそれは、ぼくらに決定打を与えるに余りあるものだった。
「METRO管理外の共感。しかも集合的無意識との共感能力者とは。仮説はありましたが、いや驚きましたよ。いつかお話しましたよね。御門リンネは人類の進化の萌芽だと。今こそその言葉は真であると証明されました」
橙夜は両手を広げ、まるで演説者がそうするような身振りで語る。今まで真意を読ませなかったその表情から、ぼくは今、はっきりと喜びの色を見出した。橙夜は喜んでいるのだ。それは自分の仮説が立証されたからなのか、それとも。
「まあそんなわけで、御門リンネの身柄はこちらで預かることになりました」
「待ってください」
頭で考えるよりも、言葉が先立った。
「御門リンネの担当医はぼくだ。ぼくの許可もなくそんなことは」
認められない。もしくは許さない。ぼくの言葉には、そのどちらかが続くはずだった。それを遮るように橙夜が言葉を被せる。
「あなたは御門リンネの担当医を解任されました。教授からの指示書をご覧になりますか」
言葉が出てこない。停止しそうな思考を無理やり動かす。担当医を解任。橙夜は空中にARのウィンドウを表示させ、ぼくに見せてきた。確かにそれは教授の指示書、いや命令書に違いなかった。間抜けにも、ぽかんと口が空く。は。ぼくの口から、またそんな声が漏れた。

 「ああ、どうぞ。入ってきてください」
ぼくがしばし言葉を失っていると、病室の中にふたりの男が入ってきた。患者を運ぶためのストレッチャーを押している。いよいよという現実感の到来と、それと相反する現実味を欠いた認知がぼくの脳に生まれた。自分の目の前で起きている、起ころうとしていることと、感情が乖離する。なあリンネ、ここを出たらどこに行きたい。
 しゅんと病室のドアが開く音がしてから間を置かず、リンネの悲鳴が聞こえた。慌てて後ろを振り返ると、例のグレーの男のひとりが、リンネを拘束していた。右手でリンネの両腕を掴み、もう左手は左から右へと、リンネの首元に巻き付くかのように渡されていた。まるで絞め落とそうとしているかのように。隣にいたカスカも別の男に同じく動きを封じられている。大柄なカスカの抵抗を物ともしないその姿は、明らかに特別な訓練を受けていることを表していた。
「やめろ」
ぼくは叫んだが、リンネを拘束する男は動じる様子もなく、いやもっともヘルメットのせいでその表情を伺うことはできないのだが、とにかく、リンネの首を押さえる左腕を動かした。ぼくの視線がその先、男の手に吸い寄せられる。そこには注射器が握られていた。以前橙夜から受け取ったものと似た形のそれを、男はなめらかな動作でリンネの首に突き立てる。やめろ、ふざけるな。ぼくはふたたび叫び、罵声を上げながら飛びかかった。いや、飛びかかろうとした。途端に橙夜の隣りにいたストレッチャーを運んできたうちのひとりが、ぼくの体を掴み、締め上げる。
「なるべく穏便に済ませたいんですがね」
やれやれ。橙夜は呆れたように言う。リンネは抗う力をなくし、男の腕を掴んでいた細い腕は、今やだらりと脱力している。意識がない。
「何をした」
「鎮静剤ですよ。ちゃんとしたね」
その受け答えにどこか不自然さを感じた。けれどその違和感の正体に気づけぬまま、ぼくは目の前で繰り広げられる光景を見ることしか出来なかった。お願いします。橙夜のその言葉を合図に、リンネを抱えた男がぼくの横を通り過ぎるのが見えた。ストレッチャーにリンネを寝かせると、その体をバンドで固定した。
 また別の男が部屋に入ってきた。その手にはそいつが被っているのと同じヘルメットがある。てっきりそれはリンネに被せられるものだと思ったのだけれど、ぼくのその予想とは裏腹に、ヘルメットはぼくに被せられた。視界にグレーのフィルターが掛かる。橙夜がこちらへゆっくりと近づいてきた。
「そのヘルメットは対共感用防護装備です。あなたのデバイスを封じるためのものですよ」
その気になれば、ここにいる人間すべての深層意識を制圧支配できる。ぼくのその切り札は、あっけなく奪われてしまった。
「あなたの考えていることはわかっています。それに僕はあなたのことを決して過小評価しない。転ばぬ先のなんとやら、です」
リスクは徹底的に潰すべきですからね。橙夜は合理的だった。腹が立つほど論理的だった。ぼくとカスカを取り押さえる男たちは、片手で束ねたぼくらの腕に拘束用のバンドを巻いた。文字通り、手も足も出ない状況になってしまった。
「さて、それでは行きましょうか」
橙夜の言葉に頷いた男たちは、ストレッチャーを押していく。カラカラとその車輪の鳴る音が、妙に大きく聞こえた。ぼくらは相変わらず藻掻き、振りほどこうとするが、男たちにがっちりと押さえられ、それもままならない。そうこうしているうちにストレッチャーは部屋を出ていく。遠くから隔壁のドアが開く音がした。何人もの靴音がそれに連なる。外に待機していた男たちは、次々とリンネの後を追っていった。あまりにもあっけない、幕引きだった。





 いつの間にか雨粒が窓を叩いていた。風が連れてきたのは、雨雲だったのだ。病室には、ぼくとカスカ、僕らを拘束するふたりの男、そして橙夜の5人が残った。ヘルメット越しに見える橙夜の表情は、相変わらず楽しげで、それがぼくの精神を真っ赤に染め上げた。橙夜が口を開く。
「少しばかり説明を付け加えましょうか」
橙夜はゆっくりとぼくらの間を通りぬけ、病室の出口へと向かう。ぐいっと引っ張られるがままに、ぼくとカスカもそちらへ向かう。
「御門リンネは人類の進化の為に不可欠なものだと言いましたね。あれ、訂正します」
病室のドアが開き、ぼくらは廊下へと出る。
「御門リンネは僕にとって必要な存在なんです。ああ、藍咲先生。そういう意味じゃありません。正確には、集合的無意識との共感能力が、僕にとって必要だったんです」
こいつは何を言っているんだ。
「僕にはかねてからの宿願がありましてね。その達成のための最後のピースが御門リンネの能力だったんです。僕はずっと、彼女がこの病院に来るよりずっと前から、彼女のことを調べていました。けれどあなたの前任者たちは役立たずばかりでね。結局僕の仮説を実証するまでにこんなに時間が掛かってしまった」
なんと嘆かわしいことか。橙夜の言葉からはそんな意図が読み取れた。
「しかしあなたはやはり素晴らしい才能をお持ちだ。彼女に共感し、あまつさえその隠された本質までをも明らかにしてしまった」
才能とは呪い。橙夜が以前言った言葉。今ではそれが、ぼくに対する侮辱に聞こえる。
「本当に最後の最後の保険がうまく機能するかは、少し心配していたんです。ですがあなたはそれをも見事にこなしてくれた」
「集合的無意識のことか」
自分の声がヘルメットの中に反響する。ぼくの言葉を聞いた橙夜は、笑った。心の底から面白いという笑い。
「違います違います。あの注射器のことですよ」
笑いながら橙夜が言う。注射器。鎮静剤だと言っていた、あの注射器。さっきの言葉を思い出した。鎮静剤ですよ、ちゃんとしたね。ぼくは今度こそ戦慄せずにはいられなかった。あれは鎮静剤などではない。なにか、別の何かだったのだ。
「嘘はついていません。あれにはちゃんと鎮静成分が入っています。けれどそれは本質ではない」
頭を搔きながら、橙夜は崩れることのない笑顔で真実を明かした。

「あれはナノマシンです。脳内でネットワークを形成し、外部から脳機能を操作できるようにするためのものです」

最後の保険。リンネの能力。ナノマシン。橙夜は外部からリンネの脳を操作し、その能力を行使させる。リンネは意思を蹂躙され、意識を犯される。すべてが繋がった時、ぼくは説明の付かない感情に支配された。いや、これには覚えがある。逆さの空で聞いた、彼岸の声。殺してやる。殺してやる。殺してやる。怒り。憎しみ。頭に血がのぼるのを通り越して、きっとぼくの頭からは沸騰した血の赤い蒸気が上がっていたかもしれない。ぼくの口からは意味のない絶叫だけが出る。それには橙夜に対する明確な殺意だけでなく、後悔も含まれていた。結果としてこの男の言う通りに動いてしまった自分を呪う叫びだった。橙夜はこの状況を意図して作り出したのだ。教授にリンネの外出を進言したのだって、意識場の異常活性がいつ起こるかわからないことを踏まえたものだったのだ。そしてぼくがあの注射をすることすら織り込み済みだったのだ。
 血が登っているせいか、前頭部がやたらと熱い。
「こんな非人道的なことが認められると思うのか」
カスカが怒鳴る。
「認められるか否かは重要ではありません。要は結果があればいいのです」
その結果のためにリンネは。リンネは。リンネは。
泣いていたリンネ。笑っていたリンネ。恥ずかしそうに顔を伏せるリンネ。笑顔。空。ひまわり。

 ぼくの視界が揺らめいていた。それは涙によるものではなく、まるで陽炎のような様相だった。その次に意識が捉えたのは、ぴしり、という音だった。まるでプラスチックの何かがひび割れるような、そんな音。心臓の音がやけに大きく聞こえる。血液はまるで溶岩のように、全身にぼくの激情を運んでいるように思えた。ぴしり。今度はもっと大きく音が聞こえた。こいつを許すわけにはいかない。殺してやる。そんな声が、自分の中に響く。ばき。それと同時に、どういうわけかヘルメットの顔部分が砕け散った。グレーのフィルターは消え、クリアになった視界が橙夜の姿を捉える。その表情は、驚いているように見えた。ヘルメットの中に広がっていた陽炎は、今や廊下の床全体を覆っていた。同時に、ある感覚を覚えた。共感をしている時、デバイスを起動させた時のような感覚。意識場を操作する感覚。男の拘束は緩まない。今ではぼくはもう、カスカの顔を見る余裕もなかった。まっすぐに、射殺すように、橙夜を見る。それに呼応するように、陽炎のような揺らめきは徐々に大きくなる。床から立ち上ったそれが、ぼくの視界を覆い尽くすその直前、ぼくの中のぼくが叫んだ。倒せ。ぼくの意識が何かに塗りつぶされた。

 我に返ったとき、目に入った光景はまったく理解の範疇を超えていた。橙夜が壁に寄りかかるように倒れている。まるで何かに押されて壁に叩きつけられたかのように。死んでいる、のか。いや、生きている。橙夜は切れた唇の血を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。背中を叩きつけられたダメージから、まだ回復していないような声でぼくに言う。
「やはりあなたは。形象化を発現させるほどの力を」
形象化。意識場の物理的干渉現象。やってのける。誰が。ぼくが。首を動かし、カスカの顔を見る。これまで見たことのないような驚きの表情が浮かんでいた。橙夜は白衣をぱんぱんと払うと、ぼくらを拘束していた男たちに離れるように指示した。両手をバンドで縛られたまま、ぼくらはどんと前に押された。
「でもね藍咲先生。僕だって呪われた人間なんですよ。だから」
再び廊下に陽炎が現れる。それは橙夜を起点として、じわじわ波のように広がってきた。
「邪魔をしないで頂きたい」
一瞬、何が起こったか解らなかった。橙夜の言葉の次の瞬間には、ぼくとカスカは不可視の手に押し潰されるかのように、床に叩き伏せられていた。肺から空気が逃げていく。ぼくの体には重力のような、あるいは圧力のようなものがずっしりとかかり、床にめり込むかと思うくらいの重さを感じる。酸素の足りない脳が状況を必死に分析する。橙夜の言葉。この状況。形象化、だというのか。酸素が足りない。肺が潰される。肋骨が軋む。徐々に意識が遠ざかっていくのを感じた。薄れゆく最後の意識の中、橙夜が近づいてくるのが見えた。ぼくの前まで来ると、しゃがんでぼくの顔を覗き込む。
「では、藍咲先生。『お大事にどうぞ』」

 ぼくの意識はそこで途切れた。
 雨の音は、もう聞こえなかった。

10.赤橙の影


それは、いきもののようなものを見つけた。
厳密には、それはまだいきものではなかった。
それは、いきもののようなものの中に間借りすることにした。
それは、間接的に世界に触れられるようになった。
それに後押しされるように、いきもののようなものは、いきものになった。
それは、もっと自由が欲しかった。
それは、いつしかいきものとひとつになっていた。
それは、もうそれではなくなっていた。
それは、いきものになった。





 一面の黄色。ひまわり。父さん。リンネ。カスカ。ポイントアルファ。フェイズシータ。共感。METRO。デバイス。一面の黄色が、枯れていく。夕焼け。落日。終わり。夢の終わり。リンネ。手を振る。離れていく。ぼくから、離れていく。あおざき。藍咲。声がした。藍咲。

 「藍咲、しっかりしろ」
意識が此岸へと引き戻される。カスカがしきりにぼくの体を揺すりながら、名を呼んでいた。ああ、聞こえてる。呻きのような声で応える。ぼくは床に倒れていた。肋骨の辺りが酷く痛む。その痛みがぼくの記憶の連続性を回復させた。グレーの男たち。橙夜。リンネの移送。ぼくは咳き込みながら、ゆっくりと体を起こした。
「お前は大丈夫なのか」
カスカは、ぼくと同じく意識を失い、ぼくより先に気がついたのだと答えた。ずきりとこめかみに鈍痛が走る。頭を押さえながら周りの状況を確認するが、そこにはすでに橙夜たちの姿はなかった。頭を押さえる。そういえば拘束されていた両手が自由だ。怪訝に思いながらカスカに視線を送る。カスカは無言のままポケットからバイクのキーを取り出した。キーには折りたたみ式の小さなナイフが付いていた。ああ、そういうこと。今時キーで起動する方式の乗り物は珍しい。今回ばかりはカスカの趣味性に救われた。今は感謝しよう。しかし、とにかく。
「状況を整理しよう」
カスカが言う。状況を整理しよう。脳裏で同じ言葉を繰り返す。橙夜はリンネを狙っていた。リンネの能力を狙っていた。それを外部から制御するために、鎮静剤と偽ってぼくにナノマシンを投与させた。橙夜は何かの目的のために、リンネを狙い、そして連れ去った。橙夜の目的とは何だ。集合的無意識との共感能力が必要な目的とは何だ。わからない。いや、今はそれを理解する必要はない。リンネ。そうだ、リンネを助けなければ。リンネの連れて行かれたラボ。橙夜はその名を口にした。だがそれが嘘でない証拠はない。
「トラッキング端末はまだ生きてるか」
「今調べる」
カスカはARのウィンドウとキーボードを操作し、リンネの端末からの信号を辿る。対象をトラッキングするための端末。当然位置情報を取得することもできるはずだ。ぼくもウィンドウを開き、橙夜が言っていたラボを検索する。機構附属、深意識エネルギー研究所。街を抜け、県境を越え、さらにその向こう。ここから3時間ほどかかる場所にそれはあった。ウィンドウの時計を見る。ぼくらが意識を失っていたのは1時間ほど。つまり彼らはまだ到着していないと考えていいはずだ。
「駄目だ。途中で切られている」
カスカがウィンドウを見せてきた。地図上の赤い光点とその軌跡。それはこの街を抜けたあたりで途絶えていた。リンネの正確な位置を知ることはできない。だが、この道は。
「ああ、方向は合っているみたいだな」
今ならまだ追いつけるかもしれない。
「だがどうする。何の策もなしに突っ込んでいくわけにはいかんだろう」
あのグレーの連中。ただの医者ふたりが挑んで勝てる相手でないことはよくわかっている。それに橙夜。おそらく奴は形象化を自在に操れる。状況はそう教えている。ぼくもどういうわけか形象化を発動させた。だが橙夜はそれをあっさりと叩き潰してみせた。ぼくの形象化が感情の昂りによる突発的なイレギュラーだとしたら、橙夜は間違いなくそれを自分の力として使いこなしている。そんな相手にどうやって立ち向かえばいい。ぼくは頭を抱えたくなった。
「別の方向から考えるか」
そう言うとカスカはどこかへ音声通信を始めた。
「何かね。淵守君」
相手は教授だった。
「御門リンネの移送の件について、許可を出されましたか」
橙夜の独走なのであれば、手続き上は奴を止める大義名分が手に入る。カスカはそう考えているようだった。
「橙夜君かね。御門リンネについては彼に一任している。橙夜君は正しいからな」
ぼくは内心舌打ちをした。カスカもきっと同じ気持だろう。完全に後手に回っている。しかし教授の言葉からはどこか不自然さを感じる。ぼくとカスカは顔を見合わせた。そしてその違和感の正体は、続く教授の言葉で明らかになった。
「それにしても彼は実に優秀だ。彼は私の希望だ。彼は私だ。彼は」
思わずあっけに取られた。やられた。教授はおそらく橙夜に強制認識コードを投与されている。早い話が洗脳だ。橙夜の行動はすべて正しい。そういう認知を埋め込まれている。だが今重要なのはそこではない。教授には申し訳ないが、これはこれでチャンスだ。強制認識コードの投与は刑法に規定される重罪。カスカは溜息をつきながら、音声通信を終了した。予想とは大きく異なる結果だが、大義としては申し分ない。次に考えなければいけないのは手段。あの半武装した連中に、そして橙夜にどう立ち向かうか。
「道中で考えろ。行くぞ」
ぼくは頷いて応えた。今はとにかく急がなければ。ぼくらは病棟の廊下を走り出した。





 ノンストップで駐車場まで走り抜けたぼくらは、カスカの青いバイクを前にしていた。カスカはハンドルにぶら下がっていたヘルメットを被ると、シートの下のトランクからもうひとつのヘルメットを取り出し、ぼくに投げて寄越した。なんだカスカ。後ろに乗せるのは嫌だとか言っていたくせに、しっかりヘルメット、用意してるじゃないか。緊急時に場違いな考えが浮かぶ。それを頭の片隅に追いやると、ぼくはヘルメットを被り、後ろのシートに跨った。
「行くぞ」
カスカがエンジンを掛ける。馬がいななくように、マシンが大きく唸り声を上げる。鉄の心臓は炎と共に拍動し、その振動をぼくらの体に伝える。カスカが足でペダルを操作し、アクセルを大きく捻る。バイクは頼もしい咆哮を上げ、走り出した。

 病院の駐車場を抜け、幹線道路をひた走る。さっきまでの雨で濡れたアスファルトを踏みつけながら、ぼくらはリンネを追いかけていた。ぼくはバイクの二人乗りのセオリー通りに、カスカの腰に手を回す。カスカは前面にARのウィンドウを表示させ、バイクのナビゲーションと連動させていた。橙夜たちの道筋を辿る。信号が赤から青へと変わり、また赤へ変わる。走る車の窓が、西日を反射してオレンジに輝いている。ぼくらの胸中もそっちのけで、街は今日も営みを続けているらしい。大学のあるブロックを曲がると、市街地の外へ出るルートに入る。この先は信号も少ない。カスカはギアを上げ、バイクを加速させる。ぼくの頭に法定速度という言葉が一瞬浮かび、そして消えていった。今はそれどころじゃない。高速で街が通り過ぎていく。ぼくらの街。リンネの知らない街。病院からふたりで見下ろした街。目の前に現れた丁字路を右折。隣の県までの距離が書かれた標識の下を通り過ぎる。立体交差の坂を駆け登る。ゆるやかにカーブする高台の道から、ぼくはもう一度街を見た。リンネと見た時と同じ、夕日に染まる残紅の街。リンネは哲学を語った。思想を語った。誰かに認識されなければ、存在していないのと同じ。人間原理。いつの間にかバイクは高速道路に入っていた。カスカがバイクを加速させる。マシンは高い唸りを上げ、体に感じるGも上昇する。それがなぜだか、肉体の存在を強く認識させた。ぼくは、ぼくらは、確かに生きている。
 同じ方向を目指す車の間を縫いながら、ただひとつの目的を目指して走る。いつかカスカは言っていた。マシンはその使命を全うし、最後に無残に壊れてしまう。そのカタストロフィこそが美しさなのだと。ならば今、このマシンはその存在理由を全うしようとしているに違いない。バイクはぼくらをただ運び続ける。主人と同じく、まっすぐに走り続ける。寡黙な主人とは裏腹に、高い咆哮を上げ、進む。こいつは、このマシンは、今確かに輝いている。その輝きはぼくを勇気づけた。まるで背中で語るように、マシンは咆哮で語りかける。存在理由を全うしろ。為すべきを為せ。
 ナビゲーションが隣県に入ったことを教えてくれた。トップスピードで走っているおかげで、かなり時間が短縮できた。もうすぐだ。ぼくはカスカに手を回しながら、自分の腕にはめられている端末に指示を出し、ヘルメットの内側にARウィンドウを表示させる。ラボのネットワークアドレスを取得すると、それを支援プログラムに回した。カスカが暇つぶしに作ったそれが、ラボのアドレスにハッキングを掛ける。見取り図と警備状況のデータを収めたサーバーがスタンドアロンになっていないことを祈りながら、ぼくはウィンドウを見つめていた。プログラムはラボのバンクへのハッキングを諦め、機構のサーバーを漁り始めた。機構が委託した建設計画のひとつが見つかった。計画名、深意識エネルギー研究所。見取り図があった。心のなかでガッツポーズをしながら、ぼくはプログラムにダウンロードの指示を出す。プログレスバーが表示されたウィンドウを視界の右下に最小化する。警備についてのデータは見つからなかった。データベースが物理的に隔離されているか、高度のセキュリティが掛けられているか、それともそもそもデータが存在しないか。とにかく見取り図は手に入った。何も無いよりは随分マシだ。間を置かず、プログレスバーが満たされてダウンロードが終わったことを端末が告げる。ぼくはそのデータをカスカの端末に転送すると、周囲の景色に視線を戻した。

 高速道路を降り、信号を左折する。地図によれば、このあたりは大学施設や研究所が多い。街ひとつ分の大きさの土地を、それらが分けあって使っている。その一角に目的地はあった。深意識エネルギー研究所。カスカはそのかなり手前でバイクを停めた。馬鹿正直に研究所の駐車場を使うわけにはいかない。ぼくらは見つかっては困ることをしようとしているのだから。バイクを降りたぼくらはヘルメットを外し、ラボに向かって走り始めた。ラボの隣の建物の敷地に入ると、ラボとを隔てる塀の前にしゃがみこみ、ぼくらは作戦を立て始めた。ARで見取り図を表示させる。
 ラボは地上四階、地下三階。カスカは施設内の回線に枝を張り、データのやり取りを傍受する。ここまで来て場所が違っていたなんて洒落にならない。そしてつい数十分前、ここに検体、つまりリンネが搬入されたという記録を見つけた。お互い目を合わせ、黙って頷く。信じるという表現は癪だが、橙夜の言葉は嘘ではなかった。第一条件はクリア。ぼくらは再び視線を見取り図に向ける。正面玄関、機材搬入口、職員用通用口。侵入できそうな場所はその三つ。手近に転がっていた箱を踏み台にすると、2メートルほどの塀から向こうを伺う。例のグレーの男たちの姿が見えた。向かって右手の正面玄関に二人、左手の職員用通用口に一人、機材搬入口はここからは見えない。となれば、警備の手薄な通用口を選択するべきか。しかしぼくの目が彼らの腰に提げられた銃を見とめた。オートマチックのハンドガン。武装は他には見当たらない。マシンガンでも持ってこられた日にはどうにもならないが、このくらいの装備なら、あるいは。ぼくは箱から降りると、カスカに見たものを伝えた。ぼくが様子を伺っている間、カスカは施設内の警備装置の配置を調べていた。
「藍咲、提案がある」
カスカは小声でそう言うと、ぼくに作戦を伝えてきた。その内容にぼくは思わず目を見開いてしまったが、確かにそれ以外に方法はないように思えた。ぼくらはまたお互い頷いた。
 
 ぼくらは塀を乗り越えると、二手に別れた。カスカは建物伝いに通用口に向かい、ぼくはその場で待機。カスカの合図を待って行動を開始する。カスカは身を屈め、足音を殺しながら通用口を警備している男に向かって行った。ここからは小さくて見えないが、その手には折りたたみのナイフが握られているはずだ。カスカは男の死角をついて背後を取ると、その大柄な体で男を抱え込んだ。首にナイフを突きつけ、動きを止める。ぼくはそれを合図として、カスカの方に向かって走り始めた。カスカは男の首にナイフを食い込ませながら、別の手で男のヘルメットを外した。対共感用防護装備。ぼくは足音に気をつけながら駆け寄ると、思考を自分の内側に向け、一つのコードを探り当てる。集合的無意識と対峙する前、ぼくが自己投与した認知変容コード。デバイスを起動するために必要な自己認識を強化する暗示。思考がコードに辿り着く。ぼくはそれを繰り返し反芻する。徐々に思考がそれに引き込まれていく。目的、リンネの奪還と生還。ゆらりと一瞬視界が歪み、デバイスが起動するのを感じた。ぼくはカスカに組み敷かれている男に意識を向け、共感を始めた。
 デバイスによる直接の共感。次の瞬間には、ぼくの視界は男の無意識領域を捉えていた。六畳一間のアパート。そのベッドに座る男の姿を見た。ぼくはその姿に近づくと、デバイスを使って組み上げたコードを投与する。ぼくとカスカ、それにリンネに対する認識阻害。橙夜の命令を上書きする認知変容。それを男の無意識に打ち込むと、ぼくは意識を外へ向けた。急速に風景が遠ざかり、ぼくの意識が現実へと戻る。ぼくはカスカに黙って頷く。カスカはそれを見ると、男の腰の銃を抜き取り、男を開放した。ふらふらと立ち上がった男は、どこか所在なさ気にしていたが、しばらくすると落ちていたヘルメットを拾い上げ、被る。そして自分が元いた通用口の前に戻った。ぼくとカスカには気づいていない。男はぼくらをうまく認識できなくなっている。デバイスを不法に使った良心の呵責を黙らせると、ぼくはカスカの後に続いて通用口をくぐった。

 カスカが回線を傍受して得た情報によれば、リンネと思しき検体は地下三階に運び込まれたらしい。焦る気持ちを押さえながら、ぼくらはまず警備室に向かった。通用口の先を数メートル進んだ先に、それはあった。前を通る人間をチェックするために、壁には窓が付いている。ぼくは注意深くそこを覗き込む。グレーの男がひとり、壁一面のモニターを眺めている。他に人はいない。ぼくとカスカはドアを挟みこむように、左右に中腰でかがんだ。カスカが頷くのを合図に、ぼくがドアをノックする。間を置かず、中で人が動く気配がした。時間は妙に引き伸ばされ、じりじりと焦燥感が頭を支配する。やがて警備室のドアが自動で開き、男が一人出てきた。それを見たカスカはまた素早く男を取り押さえ、下顎に銃を突き付ける。男は両手を上げ、抵抗の意思のないことを示した。カスカは男を抱え込みながらゆっくりと警備室に入り、ぼくもそれに続く。カスカが男のヘルメットを外すと、ぼくはさっきと同じようにデバイスを使って男の認知を書き換える。カスカはその間に警備室の端末からリアルタイムの人員配置情報を抜き出す。男たちは全員敵味方識別装置のようなものを持っているらしく、その動きは位置情報としてリアルタイムに見取り図に反映された。まるでカスカが好きなゲームみたいだ。とにかく、これでかなり自由に動き回れる。カスカは交代のローテーションなどを確認し終えると、ぼんやりとしている男の腰から銃を取り上げ、ぼくに渡した。それを受け取り、強く握る。冷たい金属と強化プラスチックの質感が手に伝わる。人を殺すためだけに作られたもの。その存在理由の全う。ぼくらはARで見取り図と警備の動きを重ねあわせたマップを表示させながら、警備室を後にした。

 赤い光点で示される警備の男たちを避けながら、ぼくらは地下へ下っていった。カスカが確認した警備計画によれば、次のローテーションは30分後。認知を書き換えた男が交代するそれまでがリミットだ。マップと周囲を確認しながら慎重に進む。地下一階。地下二階。エレベーターは不用意に使えない。ひたすら階段を降りていく。特別に広い建物ではないが、焦燥感が認識を歪め、まるで迷宮の中にいるような錯覚に陥る。
 地下三階。リンネがいると思われるフロアに着いた。マップの光点を避けながら、静かに進んでいく。白塗りの廊下の角に身を潜め、ちらりと向こう側を覗き込む。この先がおそらくリンネのいる部屋だ。男が二人、入り口の前に立っている。距離にして約10メートル。部屋はフロアの真ん中に位置し、その周囲を廊下で囲まれている。ぼくらは頷き合うと、二手に別れた。カスカが別の廊下からリンネの部屋の裏側に到着するのを端末で確認し、ぼくは合図を待つ。しばらくして、カンと金属が床に叩きつけられる音が響く。入り口にいた男二人は何事かとそちらを見る。その瞬間、ぼくは全力で駆け出し、自分の側にいる男の首に後ろから手を回すと、下顎に銃を突き付けた。前を見ると、カスカも同じように男を拘束していた。それぞれの男が被っているヘルメットを外すと、ぼくは順番に男たちの認知を書き換え、無力化する。同時に、記憶の中から部屋のセキュリティコードを抜き出した。カスカの足元を見ると、いつもカスカが使っている金属のライターがバラバラになっていた。カスカがそれをバイクと同じくらい大事にしていたのを思い出して、ちりっと心に棘が刺さるのを感じた。
 ぼくは男から抜き出した記憶を頼りにセキュリティを解除する。男の手を掴み、手袋を外す。男はぼくのなすがままにドア横のパネルに掌を当てた。最後の生体認証をクリアし、ついに扉が開いた。

 次のローテーションまで、あと10分だ。






 その部屋は、ちょうど施術室のように圧迫感のある白い壁に囲まれていた。おそらくコーティングがされているのだろう。その部屋の中央に置かれたベッドには、白いワンピースの少女が横たわっていた。リンネだ。間違いない。その頭には電極のパッドのようなものが貼り付けられ、ベッド脇の機械に繋がっている。
「リンネ」
ぼくはベッドの横まで行くとリンネの顔に顔を寄せ、小声で呼びかけた。反応がない。ぼくはリンネの両肩に手を当てると、その体を揺すりながらもう一度呼んだ。リンネの睫毛が僅かに動くのが見えた。その動きが徐々に大きくなり、ついにリンネが目を開いた。
「せん、せい」
もつれる舌で言葉を紡ぎだす。鎮静剤の効果は完全に消えていないのかもしれない。リンネは動かし方を忘れていたかのようなぎこちなさで、体を起こした。電極のパッドか引っ張られて取れた。
「どうして、わたし」
ぼんやりと寝ぼけたような口調。とろんとした目。ぼくはリンネに簡潔に状況を説明した。リンネが違法に連れ去られたこと。そしてぼくとカスカが取り戻しに来たこと。リンネは働かない頭でなんとなく状況を飲み込めてきたらしい。徐々に表情が真剣なものに変わってきた。
「動けるか」
やってみます、とリンネは言い、ベッドから足を投げ出すと、下に置かれていた靴に足を通した。ふらついてはいるが、自分の力で立ち上がることができた。だが心許ない。
「急げ。時間がない」
カスカは入り口のドアのすぐ横で銃を構えている。警備のローテーションが変わるまでもう10分を切っている。急がなければ。ぼくはリンネに肩を貸すと、半ば引きずるような形で歩き始めた。ごめんなさい。リンネのその言葉に頷いて見せる。大丈夫だ。君が謝ることは何もない。
 ぼくらはそのまま部屋を出ると、階段を目指して進み始めた。入り口の警備の男たちはぼくらを上手く認識できず、素通りを許した。マップの光点を避けながら、ぼくらは来た時と同じように道を辿る。だが帰りはそう簡単にはいかない。満足に動けないリンネを連れている分、はっきり言ってぼくらは不利だ。だがそんなハンデは承知の上でここまで来たんだ。全員で生還しなければ。カスカのバイクには小柄なリンネを入れてギリギリ三人乗れるはずだ。あそこまで辿り着きさえすれば。
 地下二階に着いた。光点の死角を縫って進む。時間がない。そのまま踊り場を回りこみ、地下一階へ登る。カスカが先行して状況を確認する。ぼくとリンネはカスカの合図でさらに階段を登っていく。リンネの体に少しずつ、力が戻ってくるのがわかった。リンネは自分でぼくの肩に回していた腕を外した。もう大丈夫なのか。そんな視線を送ると、リンネは頷いて返した。大丈夫です。そんな風に。ぼくらはさらに階段を上り、ついに一階に着いた。フロアの反対側の通用口まで、もう少しだ。ローテーションまではもう数分しかない。おそらく交代の要員が移動を始めている頃だろう。その証拠にマップ上の光点の動きがせわしなくなっていく。ぼくらは階段を抜け、廊下を進んでいく。ぼくはリンネの手を握った。リンネも僕の手を強く握り返した。もう少し、もう少しだ。

 廊下の三叉路に近づいた時、突然非常ベルのような警報音が建物内に鳴り響いた。侵入が気づかれたのだ。ぼくは銃を握り締めると、リンネの手を引いて走り始めた。三叉路の先、通用口の方向とは別の方向から、がちゃがちゃと騒々しい靴音が響き始める。あっという間にグレーの男たちの群れが視界に現れた。このままでは正面からかち合ってしまう。ぼくが走るスピードを緩めそうになったその時、カスカが言った。
「俺が囮になる。お前たちはそのままバイクに乗って行け。俺は駐車場から車を拝借して追いかける」
「バカ。何言ってるんだ。一緒に」
カスカが大声でぼくの言葉を遮った。
「いいから行け。彼女を守れ。必ず追いかける」
そう言うとカスカは銃を構えていない手でバイクのキーを投げた。グレーの男たちは確実に近づいてきている。ぼくはキーを掴みとると、リンネの手を強く引いた。やがてぼくらは三叉路の分岐点に着いた。向かい側には数人のグレーの男たちが走ってくるのが見えた。カスカは正面の男たちに向かって発砲する。面食らった男たちが混乱するのが見えた。ぼくはその隙にカスカの後ろをリンネの手を引きながら走り抜けた。淵守先生が。リンネが泣きそうな声で言うが、ぼくは黙って手を強く引いた。信じろ。そんな意志が飛んでいった。後ろから銃声が響いている。ぼくらは警備室の前を通りぬけ、とうとう通用口にたどり着いた。後ろの銃声は止まない。なぜだかそれが、カスカが生きているという証のような気がした。
 大丈夫。カスカなら、カスカならきっと上手くやる。ぼくはカスカを信じていた。なぜなら、カスカはカスカだから。約束を破られたことなんて一度もない。いつだって、必ず約束を守ってくれたカスカだから。ぼくは遠くから聞こえる銃声を尻目に、通用口のロックを解除する。夕方のオレンジが白い廊下を染め上げた。ぼくらは外へ飛び出した。

 その時だった。

 ぱん、という乾いた音と共に、足元のアスファルトが粉になって舞い上がった。ぎこちない動きで音のした方を振り向く。細く煙がたなびく銃口を掲げ、あの人工的な笑顔を貼り付けた橙夜が立っていた。反射的にぼくも奪った銃を橙夜に向ける。
「おっと。やめておいたほうがいいと思いますよ」
橙夜はぼくから銃口を外さずに、そう言った。橙夜の言葉を証明するように、無数の靴音がぼくらの周りを取り囲むのがわかった。しまった。そう思った時には、ぼくらはすでにグレーの男たちに囲まれた後だった。
「藍咲先生。まさかこんなところまで来るとはね」
「わかってたんだろ。全部」
銃を構えたまま、ぼくは橙夜に吐き捨てるように言った。
「否定はしません。ですがここまで荒っぽい方法を取るとは思いませんでしたよ。まさかデバイスをこんな風に使うなんてね。医者としての倫理はどこにいってしまったのでしょうか」
「自分のしたことは正当だったと言いたげだな」
洗脳された教授。いつから。いやきっと、ずっと前からだったのだ。ぼくの直感がそう告げている。おそらく教授は、そして研究チームは、全員橙夜の制圧下にあったのだ。誰もそれに気づけないまま、橙夜は今日まですべてを操り続けていた。
「正当、かどうかは置いておくとして、必要なことであったことは間違いありません。緊急避難ということで」
ふざけるな。反論の言葉を投げつける。けれどそれによって今の状況の不利が変わるわけではない。ぼくは必死に考えていた。この状況を切り抜ける最善の策を。カスカがくれたこの好機を無駄にするわけにはいかない。ぼくはリンネを抱き寄せると、周りの男達に、そして橙夜に気づかれないように小さく、早口で呟いた。リンネは返事の代わりに、握っている手に更に力を入れた。それを肯定と解釈し、ぼくはゆっくりと橙夜から銃口を外した。
「やっと、ですか。さあ、御門リンネを」
渡せ、という言葉が続くはずだったに違いない。しかし橙夜の言葉はぼくの行動によって遮られた。おそらく橙夜を持ってしても予想外だったのだろう。その顔には初めて見る驚きのような色が浮かんでいた。

 ぼくはリンネのこめかみに銃口を当てながら、橙夜に向かって叫んだ。

 「道を開けろ。少しでも動けば御門リンネを殺す」





 

11.藍空の涯


失った空白は埋まらない。
失った心は埋まらない。
失った昨日は戻らない。
失った日々には帰れない。

帰らぬ日々に別れの花を。
帰らぬ夢に訣別の詩を。





 橙夜は銃を構えたまま、こちらにゆっくりと近づいてきた。膝をつきながら、すかさずぼくも橙夜に銃口を向ける。
「やめてください。あなたを殺したくはない」
橙夜はそう言いながら、銃を握っていない方の手で空中を軽く払うような動作をした。砂糖か、あるいは塩が水に溶けるように、ゆらりと空間が揺らめく。次の瞬間には、ぼくの手にあった銃は不可視の力で弾き飛ばされていた。歯を食いしばりながら橙夜を睨みつける。ぼくの予想は正しかった。やはりこいつは形象化を完全に操れる。冷静な分析に脚の痛みが割って入る。左太ももにちらりと視線を送る。ズボンが線状に破け、血が流れ出している。どうやら銃弾は掠っただけのようだ。大丈夫。まだ動ける。右足を軸にして、ゆっくりと立ち上がる。銃はぼくの後ろ数メートルまで弾き飛ばされている。銃口がこちらを向いている以上、拾いに行くのは得策ではない。橙夜はゆっくりと近づいてくる。
「藍咲先生。お急ぎのところ申し訳ないんですが、お話しておかなければならないことがあります」
「何を」
痛みのせいで太もも自体が脈動しているような錯覚に陥る。ぼくより少し先にいるリンネは、どうしていいかわからずに立ち尽くしているように見えた。
「僕について。そして僕の為すべきことについて」
橙夜の言葉はまるで命令のような響きを持っていた。銃口を向けられているぼくに選択権はなさそうだ。今はとにかくこの状況を切り抜ける方法を考えなければ。
「お時間は取らせません。実時間では一瞬で済みます」

 橙夜が言い終えると同時に、周りの風景に変化が現れた。橙夜の背後の重力に、夕日も、ラボも、道路も引きずり込まれていく。ついにあらゆる風景は消え去り、橙夜とぼく、そしてリンネは上も下もない真っ暗な空間に立っていた。この現象は。
「これは、共感」
ぼくがぽつりと零したその言葉を聞いて、橙夜は嬉しそうに頷いた。
「ええ、デバイスを使用させていただきました」
デバイス。深層意識干渉制御デバイス。ぼくの脳に眠るそれ。なぜ橙夜がそれを使える。まさか。
「はい。デバイス適合者は国内に三名。あなたは三人目。そして僕が二人目です」
痛みを打ち消さんばかりの衝撃だった。ぼくは自分以外の適合者のことを何も知らなかった。否、正確には知ることが許されなかった。デバイスに関連する実験や技術情報は最高ランクの機密事項。被験体であるぼくであっても閲覧はできない場所にある。リンネの言葉を借りれば、ぼくは他の適合者の存在を認識してこなかった。つまりぼくの中ではいないのと同義。しかしそれは今、目の前に現れた。ぼくはその存在を認識してしまった。
「今我々は瞬間的な認知の隙間にいます。先ほども言いましたが、この空間での出来事は実時間で数秒です」
理論上は可能な方法ではある。人間の認知と実際の物理的時間との間に齟齬が発生する。それは珍しいことでない。しかしそれを人工的に発生させるとなれば話は別だ。橙夜はそれを易々とやってのけた。ぼくですら試したことのないデバイスの使い方を。
 だが橙夜の話を悠長に聞いてやる義理はどこにもない。ここが深層意識なのだとしたら、ぼくにも分はある。痛みで爆発しそうな神経を集中し、無意識階層に自分で打ち込んだ認知変容コードを探り当てようと試みた。デバイスを起動させることができれば、ぼくと橙夜の戦力差は厳しく見積もっても五分五分にはなる。
「甘いですよ。藍咲先生」
橙夜はそう言うと、また空中を払うような動作をした。今度はその軌跡から緑の光が矢のように飛び、瞬く間にぼくの体を貫いた。先生。後ろのリンネが叫ぶのが聞こえた。集中した意識が霧散するのを感じる。何をされた。
「前頭前野の伝達バランスを調整しました。デバイスは起動しません」
デバイスを起動させる前提条件をすべて意識に入力するが、起動する感覚がない。橙夜の言葉は嘘やハッタリでないようだ。こいつはどうやら形象化だけでなくデバイスも自在に操ることができるらしい。ぼくより数段上の使い手。認めざるを得ない。リンネが傍に駆け寄ってきた。
「話とはなんだ」
あらゆる手が封じられた今、橙夜の話とやらを聞くほかない。ぼくは頭の片隅で絶えず打開策を考えつつも諦観を装い、真っ暗な空間に言葉を投げた。
「今お見せします」
橙夜がわざとらしく指を鳴らすと、ぼくらをぐるりと囲むようにいくつもの映像が現れた。これは、橙夜の記憶か。
「まず、改めて自己紹介を」
橙夜アケルです。恭しく一礼をしてみせる。それはまるで転校生が自己紹介をするかのような軽い雰囲気だった。ああ、橙夜。君は後ろの空いている席。そうそう、藍咲の隣な。周りを取り囲む映像の一つに意識が向く。というより無理やり見させられているような感覚か。それは手術室の光景だった。
「僕はね。ずっと知りたかったんですよ。人間の心というものを。僕は『他人と分かり合ってみたかった』」
琴線に触れる言葉が放たれる。ぼくの持つ願い。カスカの抱く理念。そしてリンネの望み。他人と分かり合うこと。他の人の心を理解すること。橙夜もまた、それを抱いていた。
「僕は先天的に前頭前野にある問題を抱えていました。僕は他人の感情やその機微を読み取り、理解する能力を持たずに生まれてきたんです」
精神病質。もはや古典と化した医学書の一ページが思い起こされた。他人の心を読み取る能力の欠如。生まれつき他人の心を理解できない者。橙夜が語る他者との相互理解の願望。それは心の底からの渇望のようにも思えるが、同時にどこまでも冷淡で他人事のようにも思える。橙夜の記憶、すなわち視界が外科医たちの姿を捉えた。
「僕がデバイスの適合者として選ばれたのは、まさにそのためです。デバイスによって前頭前野の欠落した機能を補完する、というのが目的でした」
そのときのぼくはきっと怪訝な顔をしていたに違いない。デバイスは意識場同調システムを小型化、強化したものだ。その役割は共感現象の発現のはず。脳機能の補完というのはどうにも筋が通らないように思える。
「その通りです、藍咲先生。デバイスは本来共感のための装置だ。それを脳機能の補完に使うというのは、確かにおかしな話です。おそらく、デバイスには我々の知らない別の役割があると思われます」
それが何なのか、残念ながらまだわかりませんがね。橙夜はそう付け加えた。
「話を戻しましょう」
映像が切り替わる。これは病室の風景か。
「手術は成功し、僕の脳は無事デバイスに適応しました。僕は心の底から嬉しかった。これで『他人と分かり合う』ことができるかもしれないと」
再生されていた記憶映像が、突然止まった。
「結論から言いましょう。デバイスによる脳機能の補完は失敗に終わりました。先ほどお話しましたが、そもそも共感のための装置が脳機能を補完できるとは考えにくい。あとから思えば、最初に気づくべきだったんです」
ぼくらを取り囲む記憶のスクリーンが、まるでフィルムが焼けるように歪んでいく。
「僕は絶望しました。初めて『他人と分かり合う』ことができるかもしれないという願いは、裏切られました。見事に。そしてあっさりと」
ぼくが言葉を挟む隙などなく、橙夜の言葉は続く。
「脳機能の補完は名目。おそらく目的は別にあった。それはいいんです。今となってはね。ただ僕はどうしても許せなかった。僕を散々振り回した人間たちが。そしてこんな欠陥品を産み落とした世界が」
橙夜の言葉には感情のようなものが感じられた。それはきっと、奴の心の底からの言葉。大人に振り回され、世界に裏切られ、すべてに絶望した青年の怨嗟。
「僕はその後、デバイス移植に関わったチームのひとつに研究員として迎えられました。そう、あの研究所です。そこで僕はずっとあることを研究し続け、ある発見をしたんです」
橙夜が言葉を切ると同時に、周囲のスクリーンに様々なグラフや図、文字の羅列が映しだされた。橙夜の言う研究、それがこの記憶映像たちなのか。橙夜は急に楽しそうな表情を浮かべた。何だと思いますか。そんな言葉を投げてくる。ぼくは返答の代わりに、改めてその笑顔を睨みつけた。橙夜はそれをものともせず、笑顔のままひとつの映像を対峙するぼくらの間に出してみせた。
 何かのレポートのようなそれを読む内に、ぼくの中に激しい動揺が生まれた。隣のリンネはその専門的な内容が上手く理解できていないようで、不思議そうに眺めている。ぼくはリンネの顔を見た。リンネは相変わらず不思議そうな、そして心配そうな顔で見返してくる。リンネの力。人間の脳。共感。あらゆる情報と記憶が、頭の中を高速で流れる。これが、この研究結果が真実なのだとしたら。

 「そうです。藍咲先生。人間の脳には、先天的に共感と同じ現象を発生させる機能が備わっていたんです」
驚きのあまりに言葉が出ない。だが頭のどこかでは、きっと納得していた。なぜならリンネがその生き証人だからだ。リンネはMETROの管理するシステムを使用せずとも、集合的無意識と共感をしていた。そして『リンネ』が言っていたこと。『扉は初めからあった』。これが本当なら、脳科学や共感医療などというレベルではなく、人類のあり方そのものを変革する大発見ではないのか。
「確かにこれは大きな発見です。ですが、僕にとっては手段でしかない」
ぱちん。橙夜が指を鳴らすと、実験資料の記憶映像たちが消える。
「さて、いよいよ僕の目的についてお話することにしましょう」
周囲のスクリーンの映像が変わる。爆撃された街。自爆テロ。通り魔。殺人。ひき逃げ。暴力。暴力。思わず目を逸らしたくなる。それらはすべて、人間の悪意の具現とも言えるものたちだった。
「端的に言うと、復讐です。この世界すべてに対する」
橙夜はまた、例の演説風の身振りで話し始めた。
「僕は世界に裏切られ、爪弾きにされました。異常者の烙印を押され、大人たちに振り回されてきました。僕はね、どうしてもそんな世界に一矢報いなければならないと思ったんです」
世界から爪弾きにされた者。異常者。大人たちに振り回されてきた半生。橙夜の語るその恨みつらみには、どこか懐かしさを覚えた。そうだ。ぼくだって。
「一矢報いる。では具体的にどうするか。まずは御門リンネさん。あなたの持つ集合的無意識への扉を使います」
そういうことか。橙夜の目的とリンネの能力。ようやく飲み込めてきた。
「次に集合的無意識を媒介として、全人類の脳に眠る共感回路を覚醒させます」
ぼくには橙夜が何をしたいのかがわかった。わかってしまった。そうそう、君たちは似たもの同士だからね。誰かの声が聞こえた気がした。
「そして集合的無意識に吹き溜まる怨嗟を、すべての人類の脳にフィードバックさせます。するとどうなるか。その先はご想像にお任せしましょう」
リンネと共感した時に見た怨嗟と悪意の集合体。それがすべての人間の脳に叩き込まれる。結果は想像するまでもなかった。自我を保って耐えられる者など、いるはずがない。それが復讐。人間が作る世界そのものに対する叛逆。

 また、声が聞こえた。ねえ、それってぼくも考えてたよね。思い出してみなよ。母さんの顔は知らない。父さんには棄てられた。おじさんとおばさんはぼくのこと、邪魔者だと思ってた。施設のみんなもぼくなんかいないみたいに楽しく笑ってた。おまけに研究者たちはぼくを実験台にしたんだよ。ぼくはずっと世界に絶望してたんじゃないの。人間に失望してたんじゃないの。だったらさ、こいつの言うこと、間違ってるなんて言える立場じゃないんじゃないの。

 入れ子になった意識の奥底から、その姿が現れた。幼いころのぼく。棄てられた孤独な子どもだったぼく。そいつがさっきから、ずっと話しかけてくる。橙夜に理解を示している、ぼくの心の一部。橙夜に賛同しろと唆す小さな悪魔の声。ぼくは、ぼくは。本当は。
「そんなこと、させません」
リンネの声が意識を引き戻した。リンネは今まで見たこともないような、強い意思の篭った目で橙夜を見つめていた。
「なぜです。あなたも理不尽に孤独と苦痛を押し付けられた者じゃありませんか」
理不尽に奪われた家族。異常な症例としてたらい回しにされてきた患者。リンネ。トラウマと集合的無意識。つねに二重の苦痛を背負うことを強いられてきた少女。
「たしかに、わたしも世界に失望しています」
あの屋上で語った哲学。認識されなければ存在しない。孤独の本質。
「わたしは辛かった。ずっと独りで苦しかった。でも先生が助けてくれた。そして自分の中にあるものを知った」
解呪の呪文のごときその言葉は、ぼくの中に強い光を注ぎ込んでいく。
「だから、辛いのはこれでおわりにするんです。わたしでおしまいにするんです」
それは何者をも寄せ付けない意志だった。誰にも突き崩せない、陰らせることのできない光だった。
「だから、わたしはあなたを否定します」
刹那、リンネの意識体から光の奔流が生まれた。そのまばゆさに思わず目を細める。それは周囲の記憶たちを吹き飛ばし、真っ暗だった空間を白く染め上げていく。視界が光に完全に塗りつぶされるその最後の一瞬、橙夜の明らかな敵意の篭った表情が見えた。





 正常になった視界が捉えたのは、ラボの外で対峙する自分たちの姿だった。思い出したように脚の痛みが脳に伝わってきた。橙夜は信じられないという顔をしている。それもそのはずだ。デバイスを使って作った制圧空間を、いとも簡単に破られてしまったのだから。実時間では数秒。その言葉通り、ラボの方からはまだ銃声が響いている。カスカ。
「似た境遇の我々は理解者になれると思ったんですがね。期待はまた裏切られた、というわけですか」
ぼくは橙夜を取り押さえるチャンスを狙っていた。リンネはぼくの左後方。脚の傷というハンデはあるが、この間合ならあるいは。ぼくは傷の痛みを解離させるように強く暗示を掛け始めた。大丈夫。痛いのは慣れてるでしょ。またあの子どもの声が聞こえた気がした。橙夜に気取られぬように左足に力を入れる。まるで感覚マスクのように、痛みの存在を理解しながらも、それに対する知覚は限りなく鈍い。行ける。

 ぼくは体のバネを最大限に使って橙夜との距離を一気詰めた。失血が増えた気がしたが、きっと気のせいだ。橙夜の表情はわからない。ぼくは、橙夜の体の正面、銃を掲げる腕の下に潜り込むと、その顎を拳で狙った。一連の動作は完璧だった。しかし、振り上げた拳は橙夜の鎖骨辺りで止まった。いや、止められた。まるでそこに不可視の壁があるかのように、ぼくの拳は一ミリも動かない。そうして生まれたぼくの隙に、橙夜の蹴りがみぞおちに入る。リンネの悲鳴のような叫びが、遠く聞こえた。ぼくは後ろにふっとばされ、後頭部をアスファルトの地面にしたたか打った。すべての感覚が遠くなる。橙夜が何か言っている。ぱん。乾いた音が響く。右肩に激痛。橙夜はさらに近づいてくる。顔を起こす。ちょうど銃口と目が合った。だめだ。その時だった。

 突然視界から橙夜の姿が消えた。どさり、という音がそれに続く。ぼくは右肩を押さえながらゆっくり体を起こした。さっきまで目の前にいた橙夜が、数メートル先に倒れている。頭やら肩やら脚やらの痛みで、正常に状況を分析できない。誰かがぼくの背中を支え、抱き起こす。リンネだった。リンネはまるで全力疾走した後のように肩で息をしている。
「これは、君が」
体中を打ったせいか、おかしな具合に声が出た。
「たぶん、そうです」
洗い呼吸の合間に、リンネが答える。徐々に意識がはっきりとしてきた。ああ、そうか。忘れていた。リンネの意識場の異常活性。形象化を起こしかねないレベル。すべて橙夜が語ったことだった。ぼくはリンネに支えられながら、何とか立ち上がった。橙夜は指一本動かす気配がない。意識を失ったか、それとも。とにかくこれは好機だ。ぼくはリンネに肩を借りながらバイクへと向かう。こんな体で運転できるかは甚だ疑問だったが、とにかくやるしかない。
 バイクにたどり着いたぼくはまず自分のヘルメットを被り、リンネにももう一つのヘルメットを被せてやった。酷く痛む肩と脚を黙らせながら、なんとかマシンに跨ると、カスカから託されたキーを指し、エンジンを始動させる。
「しっかりつかまってろ」
エンジンの音に負けないように、大声でリンネに言う。リンネは返事の代わりにぼくの腰に強く手を回した。





 バイクはぼくらを乗せ、夕日の道路をひた走る。傷だらけの体にマシンの振動が追い打ちを掛ける。とにかくどこかで止血をしなければ。その前にラボから十分に距離を取る必要があった。でもその先は。その後はどうする。病院に戻るのか。戻って、橙夜の所業の一切を明かすか。それで果たしてすべて終わるのだろうか。教授以外の人間が洗脳されていない保証などどこにもない。橙夜はぼくよりもデバイスを使いこなしている。誰にも気取られずに意識を書き換えることなど、造作もないはずだ。なら、どうする。わからない。わからなかった。
 ラボからすっかり離れた場所で、ぼくはバイクを停め、降りた。傷の状態を確認する。左足は銃弾が掠っただけ。止血さえすれば問題ない。右肩。おそらく銃弾が中に残っている。だが、まずは止血だ。ぼくはポケットのバンダナを引っ張りだすと、2つに裂き、それぞれ脚と肩を縛り上げた。ひとまずはこれでいい。あまりここで時間をとられるわけには行かない。
「大丈夫か」
リンネに訊く。リンネは笑って言った。
「それはこっちのセリフです」
一瞬ぽかんとした後、ぼくの表情筋が笑いを形作るのを感じた。こんな場面に似つかわしくない、微笑みの応酬。ぼくは再びバイクに戻る。リンネも後部シートに乗り、ぼくの腰に手を回した。エンジンを掛け、マシンを発進させる。
 夕日は街路樹の隙間からさっきよりも濃いオレンジを投げ掛ける。日が暮れるまで、そう長くはないだろう。病院に着く頃にはもう夜だ。まずは外科に行かなきゃな。それから、それから誰に報告すればいいんだ。今回の顛末は。いや、やめよう。今はとにかく、無事に病院でカスカと合流することだけを考えろ。

 AR端末が突然通話モードになった。通常の回線ではなく強制的なもののようだ。どうするわけにもいかず、ぼくは視線でウィンドウを操作し、受話コマンドを送る。かくして聞こえてきたのは橙夜の声だった。
「藍咲先生。無駄なことはやめたほうがいい。あなたたちの場所はちゃんとトレースできるんですから」
その声はどこか苦しげだった。それはそうだろう。あれだけふっとばされて意識を失ったんだ。無事で済むはずがない。
「御門リンネに投与したナノマシンはいつでも使用できる状態にあります。その最後のスイッチはぼくの手の中だ」
「脅しのつもりか」
「半分はそうです。もう半分は説得です」
今更何を言い出すかと思えば。
「藍咲先生、御門リンネ。もう一度訊きます。僕に理解を示してくれますか」
懇願のようなその言葉は、まるで皮肉なものだった。他人を理解できないがゆえに世界を呪った男の言葉にしては、あまりにも皮肉な言葉だった。確かに境遇だけを見れば、同情してやってもいい。理解もしてやる。ぼくも似たようなものだったからな。ぼくのその言葉に、橙夜はどこか嬉しそうな声で答えた。
「ならば僕の理念も、目的も、理解できるはずです」
橙夜の目的。集合的無意識を媒介とした全人類の精神崩壊。誇大妄想じみたその響きは、しかし現実のものとして確かにいま、動き出そうとしている。世界への復讐。人間への復讐。確かにぼくは棄てられた子どもで、忘れられた子どもで、皆の輪からはじき出された孤独な子どもだった。養親の家で犬と遊びながら、ぼくは世界への絶望を募らせていった。けれどそれは期待の裏返しだったはずだ。裏切られたと感じるということは、逆説的に期待していたということになる。そうだ。ぼくは確かに世界に期待していた。そしてその期待は、金属が酸に蝕まれていくように、ゆっくりと失望に変わっていった。
「あなたも、僕も、本質は同じなんですよ」
そう。境遇という属性、もしくは記号を拾い上げてみれば、ぼくと橙夜は驚くほど似ている。誰かと分かり合うことを望み、叶わず、失望した。ぼくらの足跡は平行に走る二本の線のように似ている。だがそれは所詮平行線でしか無い。どこまでいっても、無限遠の先であっても、決して交わることのないふたつの道。だからそれはもう、別の道なのだ。ぼくはぼくの道を、橙夜は橙夜の道を歩いてきた。もし始まりが同じだったとしても、すでにぼくらの道は別々の方向に進んでしまったのだ。橙夜はもしかしたらそれに気づいているのかもしれない。気づいた上で、ぼくに期待しているのかもしれない。最後の最後に、自分と心を通わせてくれる人間が現れることを。
「確かにぼくらは似ている。だが辿ってきた道は別のものだ」
だからぼくは橙夜に宣言する。二本の道は決して交わらないという真理を突き付ける。
「あなたの中には本当に報復心がないのですか」
報復心。それは世界に対する怒り。人間に対する失望。それはぼくの中である程度のウェイトを占める感情であることを、否定することはできない。世界の歪みは人の心の歪みとして現れる。ぼくはそれを治す。苦しむ人を、元いた場所に戻す手助けをする。患者が来る。症状を明らかにする。症状には原因がある。原因はいつも、源流まで辿ってしまえば、この世界の歪みそのものなのだ。ぼくはそれに対して怒りを覚えている。それは否定しない。けれどそれは報復心とは、少し違う気がする。ぼくは確かに哀れな子どもだったかもしれない。体のいい呪いを受けたモルモットだったかもしれない。でも、ぼくにはカスカがいて、今ではリンネもいる。たったふたりだけれど、そのふたりが、ぼくを世界に繋ぎ止めてくれる。癒やしてくれる。そして、赦してくれる。だからぼくは、それで十分なんだ。
「ぼくはお前を哀れに思うよ。橙夜。まるで構って欲しくて泣きわめいてるガキだ」
ぼくは世界に怒っている。でもそれは報復心じゃない。
「報われないから、裏切られたから復讐する。まるで短絡的で底の浅い思考だな」
復讐が絶対的に悪だと、残念ながらぼくには言い切れない。心のどこかで、それを肯定したい自分がいる。
「お前はぼくとは違う。ぼくはお前とは違う。それは真理だ。それだけが絶対的に正しい解だ」
人間の相互理解とは漸近線のようなもの。確からしい解を探して、人々は傷つけ合う。
「だから、ぼくはお前を否定する。全力でな」
橙夜はしばし言葉を失っているようだった。今の奴に、いや橙夜アケルという人間に、ぼくの言葉が理解できるかどうかはわからない。けれどぼくは言ってやった。ぼくの言葉で、ぼくの思うことを言ってやった。
「そうやって、あなたも裏切るんですね」
これまでにないような暗い声色で橙夜が言う。ああ、お前はぼくにすら期待していたのか。世界に、人間に失望して、相互理解を諦めたとのたまいながら、結局お前はそうやってすがろうとする。その一貫性の無さが気に食わない。そして何より、リンネをただの接続装置として記号化し、矮小化し、道具化するその一切合切が許し難い。
「もう十分です。これ以上の会話は無駄でしょう。藍咲先生、最後にひとつ」

 橙夜がついに何かを言おうとした時、端末に異変が起こった。突然橙夜との通信が途絶えたのだ。ウィンドウを操作するが、電波状態は問題ない。通信が途切れる時のようなノイズがない。何より端末はまだ通話モードになっている。これは途切れたというよりも、まるで。
「藍咲ユウ。聞こえるかい」
聞き覚えのない声がした。子どもの声に聞こえる。ぼくの名を呼ぶその声に、一切の心当たりがない。子どもの患者、というわけでもなさそうだ。普通の子どもに端末の通信回線を乗っ取る芸当ができるとも思えない。
「それに、御門リンネ。そこにいるの」
リンネのことも知っている。となれば橙夜の側の人間だろうか。
「誰だ」
たまりかねたぼくはそう訊いた。返答はない。バイクのエンジン音に重なるように、ただ無音が続いている。
「君たちに、来てほしい場所がある」
しばらくの沈黙の後、その声は告げた。来て欲しい場所。状況から考えれば罠としか思えない。ぼくはどうすべきか必死に考えていた。こんな時に限って傷の痛みを脳が認識してしまう。心臓の拍動とマシンの振動で増幅される痛みが、ぼくの正常な判断能力を奪おうと狙っている。しかし、その声が次に発した言葉によって、ぼくの意識は一瞬のうちに覚醒した。

「ボクはMETROシステム」

【連載中】ワールド・エンド・サマー

【連載中】ワールド・エンド・サマー

人間の精神活動が発生させる『意識場』の発見と、それを利用した『共感』技術の確立により、誰もが気軽に他人の心と直接触れ合うことができるようになったある未来。そんな社会で医療行為としての『共感』を一手に引き受けるのが『共感医』。共感医『藍咲ユウ』は、精神疾患を抱える患者の治療に従事しながら淡々と日々を送っていた。夏の日、その出会いまでは。

  • 小説
  • 長編
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-01-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 0.序章
  2. 1.朝凪の日
  3. 2.陽炎の先
  4. 3.痛みの海
  5. 4.残紅の街
  6. 5.此岸の淵
  7. 6.逆さの空
  8. 7.彼岸の声
  9. 8.夏天の下
  10. 9.驟雨の後
  11. 10.赤橙の影
  12. 11.藍空の涯