高層ビルとたんぽぽ
1.天高くより
少女はぷかーっと煙を吐いた。鳥も来ない高層ビルの、空に近い一画で。部屋に明かりはないけれど、ここはいつでも晴れだった。薄ぼんやりとした晴れだった。私いつからこうしていたかしら。綿のような煙を飛ばす。煙草の煙、昇っていく。地に根付くこともなく。いつか、いつだったか、忘れてしまった。たんぽぽの代わりに煙を、年中飛ばしていて、忘れてしまった。
かつてこの地に沼の神様がいらしたそうで、沼はどこかと探すのだが、空ばかり近くて、空が眩しくて沼など見えぬ。反射して、ゆらめいて、黒々とした溜まりが見えるはずなのだが。近隣の者も今は知らないだろう。寄せる波の代わりに、ビルの中に人が入っていく。引き寄せられていく。彼らは一点を見ている。心を奪われたように歩く。風にざわめいたり、雨に跳ね上がったり、夕凪、静まったりしながら、ビルとどこかを行き来する。
彼ら、どこから来ているの。ビルから見下ろす少女は知らない。黒々とした人の波が、寄せては引いて。人が沼ということなのだろうか。
見通すと、低く白い塔がビルの周りに広がっている。積み上げた平石の塔だろうか。無骨に無秩序に。白い彼岸。川は細く残り、黒い筋で描く地図。川を辿れば沼に着くだろうか。残念、遥かはるかに凪いだ海。
煙を目で追う。煙を追って、空ばかり見て、空虚。そこに何かあったはずなのだ。何かを求めていたようなのだ。誰かを見上げていたはずなのだ。空想の少女。ずいぶん遠くにおわすのですね、その御方。少女はまたぷかりと煙を吐いた。手元の小石を無造作に掴み寄せ、放り投げた。またビルが高くなった……。
2.沼のいきもの
「沼に近寄ってはいけないよ。恐ろしい魔物がいるから。」
そんな言い伝えがあって、子どもは沼に寄らないようになっていた。神様のおわす沼は、紙垂揺れ、白い大小の石転がり、自然と人の作った白に縁取られ、森の中にぽっかりと出来た空白。空白になみなみ注がれた沼の水は底なしのようで、見つめるまなこのようで、夜空とは対照的で、月を取って食うのだと言われていた。なるほど、得体の知れぬ恐ろしさ。取って食われるとか、まだかわいいような大口。ほとりには彩り慎ましやかにたんぽぽが咲き、綿毛の時期は、星が空に還るような光景が見られて幻想的であった。綿毛は地に帰るものだけれども。
怖いもの見たさに少年が沼を訪れたのもたんぽぽの咲く時期だった。春の終わりは早足に、駆けて過ぎていく。
少年は沼の魔物を想像した。月を呑む大口の獣、血生臭い大男、とぐろ巻く大蛇、異界に引きずり込む手、瞬きする沼。口々に脅かしてくる大人にさえも、まだまだ力では敵わない。だけれど会ってみたいと思った。言い伝えの魔物に。日毎夜毎膨らむ、それは憧れ。未知を求めて、畏怖も抱えて、一ツ目の沼へと走る。大人にはないしょだよ。
子どもを脅かすためのお話ではあった。しかし沼に人影を見る者はたまにいる。そして実際危険ではあった。底なしの沼は帰らずの門。門の前に、少年もまた人影を見た。足が凍りつく。門番が振り返る。もう帰れない。
紙垂の下の祠を奉る者はいずれ知ることになる、もう一つの言い伝え。
『沼には神様がおりまして――』
これまで何人もが帰らずの人となった。
『神様はたいそう美しく――』
「それでぼくも例外でなく、魅せられてしまった。」
振り向いた魔物は微笑んだ。それはそれは美しい少女であった。もう帰れないだろう、空想の魔物を夢見る少年には。神様に恋をした日々、最後の子どもの時間。
届かないほどの美しさ、触れられない神様の衣の裾が頬を撫でたのを覚えている。それだけだった。一度きりの彼女との接触。神様はいるのだな、なんて、誰にも笑われそうな感覚を今も抱いている。あの頃の感覚や色彩は鮮明に残っていて、神様と遊び過ごした日々は幻想のようで。
「神様はいるんだよ。」
夢を見るような大人になっていた。子どもを脅かすお話は、街ではあまり必要ないけれど、神様も魔物もひっくるめて住んでいると思いたい。どこかの窓に異界の者どもがパソコンを打つ姿が映るのだと、笑われながら語ってみる。神様を約束に閉じ込めてしまったその人。成長や、人の時代の移り変わりの隙間に落っことした小石。なかなか拾えなくて、残り続ける。言い伝えはまだ彼の中に生きている。
石を一つ、沼に投げ入れる。底なし沼に投げ入れた小石、見えなくなっていく。
季節は短く、子どもの時間は終わりかけていて、たんぽぽの綿毛が星になる前の夜に、また会おうと約束をした。石を一つ、沼に投げ入れながら。
「沼に石を一つずつ放り、沼の底からこちらに続く階段を、いつか築くことが出来たならば、また会えるでしょう。」
神様は約束にこくりと肯いた。約束で神様を縛る代わりに少年は、終わりかけの幼い時期を沼に置いてきて、幼少をきちんと終わらせたのか、今も知れぬ。
3.煙るたんぽぽ
石をひとつ落っことす、投げ入れる。そこはかつての沼。またひとつ、またひとつ。何のためにか石を積む。積み上げた石の上、高層ビルの女神様。今日も待ち人は来ず。
あなたの元へ。蒔いた約束の種も、目眩するほど遠くなった地面にあるもので、よくよく見えなくなって、忘れている。沼のほとりに座り待っていたあの頃、肩にその子の影がかかれば見上げて笑った。最後の訪ね人。
天の雲にも届くその部屋で、彼女、ぷかーっと煙を吹きながら、まだ空を見上げている。沼は埋まってしまったけれど、あの頃のまま、景色は白い。どこまでも白い。
ふか、ふか。たんぽぽの綿毛がいっぱいの空。雲は流れていく。どこかに根付くだろうか。誰かはまだ来ない、でも寂しくなんかない。ここにたんぽぽは咲くのかしら。
「おや、たんぽぽ。」
コンクリートの隙間から、昔話のあの頃と、今を見ている。
「空にとばそう。」
たんぽぽは地に根付くものだよ。
..end
15.11.07
高層ビルとたんぽぽ