すももの丘の贈りもの

 真っ赤なすももをかごいっぱいに摘んだエルゼは、石くれだらけの丘を小走りで下っていた。木々の枝越しに望む東の空は、とうに白み始めている。日が昇る前に家に戻らなければ、また継母に何をされるか分からない。
 丘の中腹にそびえる大岩の下を横切ったとき、視界の隅に奇妙なものが映った。思わず立ち止まり、身のたけ数倍の岩を振り返る。そこにあったのは、岩肌から突き出た一本の細い手だった。
 すももが実りの季節を迎えてから、毎晩のようにここを通っているが、あんなものを見るのは初めてだ。何かの見間違いかしらと、誘われるように近づいた。大岩の、高さでいえば彼女の胸より少し低いあたりから、確かに人間の二の腕から先が、枯れ枝のように突き出ていた。
 十三という年頃のせいか、気味悪さよりも好奇心の方が先に立って、エルゼはおそるおそる顔を寄せた。天に向けられた(てのひら)はしわだらけで、肌は豚の皮のように青白い。やせた指は何かを求めるように弱々しく伸びていて、その手つきは市場で見かける物乞いそっくりだった。
 岩からの〈生え際〉にはわずかな隙間もないが、つくりものとは思えない。だれかが死人の腕を岩のくぼみに突っ込んでいったのか、そうでなければ。
「だれかいますか?」
 岩を叩いて声をかけたが、返事などあるはずもない。岩をぐるりと一周しても、人が入れるような穴は見当たらない。
 この手をつかんで引っ張ってみれば何かが分かるかもしれないが、さすがにその勇気はない。エルゼはためしにかごの中から一番小さなすももを選んで、物欲しげな掌にのせてみた。腕がぽろりと外れるか、さもなければからくり人形よろしく岩の中へひっこむかと想像したのだが、どんなに待っても手はぴくりとも動かなかった。
「いけない、日が昇っちゃう」
 かごを抱え直してスカートをひるがえし、息せき切って坂を下る。ふもとの我が家に駆け戻ると、待ち構えていた継母は箒の柄でエルゼのお尻をいやというほどひっぱたいた。
「こんなに明るくなるまで、何してたんだい。早く市場で売ってきな」
「あの、朝ごはんは」
 おそるおそる尋ねるが、継母はにべもない。
「なまけ者に食べさせるパンはないよ」
 お腹の鳴き虫をなだめながら出かける支度をしていると、継母の連れ子である兄たちが近寄ってきた。
「これをお食べ。内緒でとっておいてあげたんだ」
 エルゼと三つ違いの末の兄が、妹の胸元に固いパンを押し込む。
「母さんもひどい。どこが痛むの」
 四つ違いの中の兄が、体じゅうを撫でまわす。
「市場に行くより、ぼくらのベッドでお休みよ」
 五つ違いの上の兄が、強引に腕を引っ張る。
 エルゼは兄たちの手を振り払って家の外に走り出た。一転して不機嫌になった三人が、声をそろえて怒鳴るのが聞こえた。
「なまいきなエルゼ。魔物の丘に平気で登るような子には、きっと呪いが降りかかるよ」

 エルゼの家の裏にそびえる小高い丘は、ふもとの街道を往来する旅人たちにとって村の入り口を示す格好の目印になっている。丘いちめんを覆うすもも林は誰が植えたとも分からぬほど古いもので、花咲く春はまるで雪化粧のように美しい。
 初夏になると、甘酸っぱい香りが風に乗りエルゼの家まで漂ってくる。彼女は幼いころ、丘に行ってみたいとだだをこねては両親や使用人たちを困らせたものだ。
「あの丘には魔物や死霊が棲んでいるのですよ」
 エルゼを諭すのは女中頭であるグレーテの役目だった。
「人が迷い込んだら最後、二度と戻ることはありません。もしくは大きな災いが降りかかるとか」
 村の人々も丘には近づかず、いまでは「くだらない迷信さ」とうそぶく継母すら、本人はけっして足を踏み入れない。驚くほど大きくて甘い実が採れるので、この季節になるとエルゼは毎晩丘へ登らされる。市場に持っていけばとてもいい値で売れるのだ。
 けれどそのすももが魔物の丘のものだと知られたら、買い手がつかないどころか一家は村を追い出されてしまうだろう。いまのエルゼには、山で魔物に遭うことよりも村人に見つかることのほうが恐ろしかった。

 翌日もエルゼは暗いうちに丘へ向かった。急いで実を摘み終え大岩のふもとに駆けつけると、あの細い手はきのうと同じ場所に、同じ格好で突き出ていた。掌に持たせてやった実は消え、岩の根元に半乾きの種がひとつ落ちていた。骨ばった指にはかすかに甘い香りが残り、心なしか昨日より生気が増したように見えた。
 これがみんなの言う魔物なのかしら。エルゼは首をかしげた。ひどくやせてはいるけれど、爪が尖っているわけでも、獣のような毛が生えているわけでもない。だいいちすももを食べる魔物なんて聞いたことがない。
 エルゼはふと、五年前に死んだ本当の母を思い出した。原因の分からぬ病気を患い、女中のグレーテにつきっきりで看病してもらっていた母。貴重な薬の効果もなく、真っ黒な血を吐いた末に、幼い一人娘を残して死んだ彼女の手は、お姫様のように白く、魔女のようにやせて、死神のように冷たかった。
 エルゼは草露に濡れたエプロンの裾を持ち上げると、〈魔物〉の指をそっと包み、べたついたすももの汁を拭ってやった。ざらついているけれど、肌にはほのかなぬくもりが感じられた。間違いない。この手はちゃんと生きている。
「これ、みんなあげる」
 思い切って、すももを山盛りにしたかごのつるを持たせた。重すぎるかと不安がよぎったが、やせた手は(かし)ぐことなくそれを支えた。
 エプロンに抱えられるだけの実を摘み直して家に帰ったが、継母の怒りを免れることはできなかった。暖炉用の薪で体じゅうを打ち据えられ、息ができなくなるほどだった。
「大丈夫かい、かわいそうなエルゼ」
「こんどはどこをぶたれたの。見せてごらん」
「きょうはずっと、ぼくたちのベッドでお休みよ」
 つきまとう兄たちから逃がれたい一心で、青あざまみれの身体を引きずりながら、彼女はその日もこまねずみのように働いた。

 エルゼの家は国王一族とも遠い縁があるといわれた家柄だが、ここ十数年来の栄光と没落のあゆみはいまも村人たちの語り草になっている。
 父は才覚に長けた人物で、旧家とはいえさしたる財産もなかったこの家を、たった一代で村一番の大地主に成り上がらせた。しかし国王から直々の召請を受けて都に発ったきり、三年経ったいまも戻らない。
 その間に田畑は次々と他人の手に渡り、数え切れないほどいた家畜もいまや老いぼれの雄牛一頭を残すばかり。たくさんの使用人を寝起きさせていた屋敷は、継母が木材やれんがまで崩し売りしたおかげで廃屋と見まがうありさまだ。
 継母と連れ子たちの野放図な贅沢ぶりは、〈お嬢様〉だったエルゼの目にもあきれるほどだった。当主が音信不通なのをいいことに、彼らはたった三年で家の財産のほとんどを食いつぶした。蓄えが尽きたいまも、四人は遊んで暮らしている。家事のすべてをエルゼに押し付け、そのうえ老いた牛を連れて近所の農家へ手伝いに出るよういいつける。慣れない(すき)を押して稼いだわずかな金は、あっというまに彼らの浪費に消えるのだった。
 空腹も忘れるほど疲れきったエルゼは、日暮れとともに牛小屋に閉じこもり、ベッドがわりの麦わらの山に倒れこむ。
「エルゼ、晩ごはんはいいのかい」
「汗をかいたろ、水浴びしないか」
「さびしいだろ、ぼくらのベッドにおいで」
 兄たちはしつこく戸を叩くけれど、決して中には入ってこない。いまや雄牛が懐いているのはエルゼ一人で、他人が近寄ろうものなら突き殺さんばかりに角を振り立てる。彼女にとって牛小屋は数少ない安らぎの場所だった。

 次の日、あの奇妙な手の下の地面には、たくさんの種が転がっていた。肌は雨上がりの牧草のようにみずみずしさを取り戻し、果汁でべたべたになった掌にはうっすらと血の色が蘇っていた。
 エルゼは不思議な気分で空のかごを受け取った。新しい実を摘みながら想像を巡らせる。手の主はどうやら本当にすももを食べているらしい。岩の〈向こう側〉で、かごを抱えた魔物が口の周りをどろどろにしながら果実をほお張るさまを想像して、思わず一人笑いがこぼれた。
 継母に怒られないだけの収穫を終えてから、岩の手に一番大きく上等な実を握らせた。
「丘のすももはみんな、ほんとうはあなたのものなのかしら。いつか、ちゃんとお礼をしなくちゃね」
 寄り添うように岩壁に背をもたれ、自分は熟れすぎて売り物にならない実にむしゃぶりつく。いつもお腹をすかせている彼女にとって、食べ放題のすももは最高のぜいたくだ。なかば発酵してとろけた果肉は、まるでワインのように濃厚だ。
 かつて両親に厳しく仕込まれた行儀も忘れ、エルゼは汁にまみれた唇や指を猫のようになめる。恥ずかしがることはない。まだ夜明け前、それにいまの季節は木々の葉が彼女の姿をすっぽりと隠してくれている。村人どころか家族も決してやってこないこの丘は、牛小屋と同じくらい安心な場所だった。

 毎日すももを食べさせたことが功を奏したのか、手は日を追って美しくなった。腕はミルクのように白く、掌はパンのように柔らかに、爪はさくらんぼのように艶やかになった。
 エルゼは、まだ元気だったころの母を思い出した。娘の髪をとかしてくれた柔らかい手。ジャムたっぷりのパイを取り分けてくれた優雅な手。
 思わずため息が出た。自分だってつい数年前までは、同じくらいきれいな手をしていた、と思う。でも今では家事や野良仕事に追われ、すっかり日焼けして傷だらけ。両親が見たらきっと悲しむに違いない。それとも、もっとたくさんすももを食べれば、この不思議な手と同じように美しくなれるだろうか。

 放っておくと〈彼女〉がまた枯れてしまいそうな気がして、エルゼはせっせと丘へ通った。暑い日には泉から水をくんでかけてやり、虫が寄れば追い払い、ときには花で編んだ腕輪を飾ってやった。
 すももの季節が終わると、森で拾ったくるみ、漁師が恵んでくれた干し魚、村の若者からもらったお菓子などをプレゼントした。
 〈彼女〉が目の前で動くことは一度もなかったが、贈り物は必ず次に会うときまでに消えていた。くるみをやれば殻だけ、魚をやれば骨だけがきれいに地面に落ちていた。猟師からもらったうずらの若鳥を持たせた次の日は、地面にたくさんの羽毛が散らばっていった。
「好き嫌いをしないのは、とてもいいことね」
 エルゼは楽しくなって、いい〈おみやげ〉がないかをいつも捜しながら歩くのがくせになった。

 秋になると、手にはまた変化が現れた。細くしなやかだった指が太く固くなり、掌は厚みを増して大きくなった。腕は筋肉で盛り上がり、針金のような毛まで生えてきた。あまりの変わりようにエルゼは目を丸くした。
「やっぱりあなた、魔物なのね」
 優美だった〈彼女〉との別れは惜しかったが、たくましい〈彼〉の腕は、大好きだった父親を思い出させた。暖炉のそばで娘を抱き上げ、ひざに乗せてくれた手。先祖が王室から賜ったという短剣を毎晩大事そうに磨いていた手。
 妻を亡くした彼は一年後、当時使用人だった女性を後妻を迎えた。表面的な身分差はあったが、父もエルゼも彼女を信頼していたし、なにより母が死の床で「後添えを迎えるならあれを」と望んだ相手だった。村人たちもその結婚を祝福した。
 後妻はもともと、エルゼ家と入れ替わるように没落した地主階級の出だった。噂によると、婿養子だった彼女の前夫は、賭博好きが高じて大きな借金を作った。その男の土地を買い取る形で借金を肩代わりしてやったのが、他でもないエルゼの父だった。しかしその後も男は放蕩を続け、再び借金を作ったうえに酒に溺れて死んだ。未亡人は息子三人と借金を抱えて途方にくれていたところを、再びエルゼの父に助けられたのだ。
 エルゼ家に入った彼女は使用人という立場に不平も言わず、とても利発でよく働いた。体が弱かったエルゼの母のため、八方手を尽くして貴重な薬を手に入れてくれたのも彼女だった。その甲斐なく母が亡くなったとき、身も世もなく枕元に泣き崩れた彼女の姿を、エルゼはいまも覚えている。その頬にこぼれる涙が、エルゼの目には水晶のように映ったものだ。それなのに。
 再婚して間もなく、父の元に国王から親書が届いた。貴公の名声は都まで届いている、古い縁もあることゆえ、折り入って頼みたいことがある。ついては王城に来てほしい、との内容だった。
「陛下がわが一族のことを存じてくださっていたとは」
 父の喜びようはこの上ないものだった。
 正装に身を固め、家宝の短剣を誇らしげに腰に吊るした父を、娘は大はしゃぎで街道まで見送った。土産は何がいいかとたずねられて、彼女は無邪気に叫んだものだ。
「すてきなドレス。くつ。首飾り。ええと、それから」
「わかったわかった、みんな買ってきてやるさ」
 父は娘を抱きしめながら付け加えた。
「新しい母さんの言うことをしっかり聞いて、いい子にしていれば、だよ」
 それきり父は帰らない。王府に着いたという知らせもなければ、途中の街道で姿を見かけたという噂もない。最近では「そもそも陛下とあろうお方が、一介の田舎地主に手紙をよこすことなどあるものか」と嗤う声すら聞こえてくる。
 けれどエルゼは、父の帰りを信じて言いつけを守り続けている。新しい母親が、掌をかえしてその本性をあらわにしたいまも。

 秋の終わりを迎えたある夜、エルゼはあまりの寒さと激しい風音に目を覚ました。わらの山から這い出して壁板のすきまから外をのぞくと、その年初めての雪が風に舞い、早くも畑を白一色に覆っていた。
 一枚しかない毛織りのショールを羽織って外に出る。お嬢様と呼ばれていたころの思い出の品だ。底が減った木靴で何度も足を滑らせながら岩にたどりつくと、あいかわらず突き出たままの手にはすっかり雪が積もっていた。
「ごめんなさい、寒かったでしょう」
 エルゼは雪を払い落とし、濡れそぼった〈彼〉をエプロンでぬぐって何度も息をはきかけた。ショールを巻いて腕を包み、夜明け間際まで抱き続けた。

 吹雪が去ってきれいに晴れた翌日も、岩の手はきちんとショールにくるまってエルゼを待っていた。
「気に入ってくれたのね」
 駆け寄ってから、〈彼〉が布のようなものをささげ持っているのに気がついた。何かと思って手を伸ばすと、それはするりと彼女の腕に落ちた。広げると、すももの花のように真っ白な絹のドレスだった。
「もしかして、これをわたしに?」
 おそるおそる着てみると、それはぴったりとエルゼの身体を包んだ。すっかりうれしくなった彼女は、岩から生えた手に自分の手を重ね、かつて母から教わったワルツをくるくる踊った。

 それから毎日のように、〈彼〉はいろんな贈り物をエルゼに与えた。刺繍入りの靴や手袋、金銀細工の首飾りや髪飾り、宝石をあしらった指輪や腕輪。彼女はそれらをわら床の下に隠し、夜を待ってからこっそり着飾って丘に通った。
 指一つ動かさない〈彼〉を相手に一晩中ダンスを踊っていると、両親や使用人たちに囲まれていた幸せな暮らしが胸に蘇った。あのころは、女中のグレーテも自分に優しくしてくれた。父にせがんで牛小屋に連れて行ってもらうたび、彼女の三人の息子たちははにかみながらエルゼにお辞儀し、しぼりたてのミルクを飲ませてくれたものだった。
 ステップを踏む彼女のまわりで、こぼれた涙がきらきら踊った。それでも無口なパートナーは、無愛想に腕を突き出しているばかりだった。

 ある夜、いつものように着飾って牛小屋を抜け出そうとした彼女を、兄たちが取り囲んだ。
「エルゼ、丘へ毎晩なにしに行くんだい」
「そんなきれいな格好で、いったい誰と会うんだい」
「寒い外より、ぼくらの部屋で楽しもうよ」
 逃げようとする妹を押さえつけて、彼らは叫んだ。
「母さん、エルゼが家を抜け出すよ」
「よその男に会おうとしているよ」
「ぼくらを裏切るつもりだよ」
 だらしない夜着のまま出てきた継母は、娘の格好を見て目を吊り上げ、乱暴にドレスと飾りをはぎとった。
「こんな贅沢、おまえにだけは絶対許さない。いったい誰にもらったんだ」
 箒で叩こうが薪で殴ろうが、娘は何も答えない。殴り疲れた継母は肩で息をしながら吐き捨てた。
「まあいいさ。おまえたち、これらをぜんぶ市場に持っておいき」
 その日の夕方、三人兄弟が財布をいっぱいにふくらませて家に戻ると、継母はにんまりしてエルゼに言った。
「相手はよほどの金持ちで、よほどおまえに入れ上げてるね。今夜その男に会ったら言いな。わたしをお嫁にほしければ、乳をたっぷり出す雌牛を十頭おくれって。言いつけどおり牛を連れてくるまでは、この家に戻ってこなくていいからね」

 途方にくれたまま丘を登ったエルゼは、大岩のふもとまで来て目を疑った。岩から生えた手が十本の綱を握り、そのすべてに乳房の張りも見事な牛が一頭ずつつながれていたからだ。
「やっぱりあなた、魔物なのね」
 手を重ねると、手綱はするりと彼女に託された。
「ありがとう。どんなお礼をすればいいか分からないわ」
 感激の頬ずりをしても、岩から生えた手は何も言わない。エルゼが連れ帰った牛たちを見て、継母は目を丸くして喜んだ。
「さあ、早く樽いっぱいに乳を搾りな。桶いっぱいにバターを練って、かまどいっぱいのケーキを焼くんだ」
 エルゼが焼き上げるはしから、四人はうまそうにケーキを平らげた。ひとかけらも分けてもらえないエルゼは、空腹をこらえながら空想を広げた。あの岩の向こう側には、どんな願いでもかなう不思議な世界があるに違いない。欲しいものが手に入り、会いたい人に会える国。憎しみも悲しみもない、幸せに満ちたすてきな国。
 腹いっぱいになった四人は、ほどなく腹を抱えて苦しみだした。
「痛い、痛い。まるではらわたがねじ切れそうだ」
「性悪な娘。腐った乳を出す牛を連れてくるとは」
 母子は三日三晩転げ回ったあげく、ようやく命を取り留めた。継母はげっそりとやつれた顔で娘に命じた。
「もう一度おまえの恋人に頼むんだ。あたしたち四人が一生贅沢してもなくならないだけのお金をおくれって。こんどこそ言いつけを果たさなきゃ、おまえを二度と家から出してやらないよ」

 エルゼが祈りながら丘を登ると、果たして岩の手は大きな袋をぶらさげていた。エルゼが触れると袋はどすんと地面に落ちて、非力な彼女には持ち上げることすらできなかった。袋を開くと、中には国王の肖像を鋳込んだ金貨がぎっしりと詰まっていた。エルゼは感極まって、指といわず腕といわず、〈彼〉にキスの嵐をあびせた。
「ありがとう。あなたが岩から出てきてくれたら、わたし、どんなことでもしてあげるのに」
 エルゼが引きずってきた金貨を見た継母は躍り上がり、声を上ずらせて息子たちに命じた。
「さあ、これを持って市場に行って、ありったけのものを買っておいで。畑も森も取り戻して、あたしらはもう一度大地主になろうじゃないか」
 三人が勇んで市場に繰り出した日の夕方、急に家の外がにぎやかになった。息子たちは何を買ってきたかと母親が顔を出すと、大きな旗を掲げた兵士たちがぐるりと家を取り囲んでいた。立派な甲冑に身を包んだ隊長が、三人兄弟をいましめた縄を引いて怒鳴った。
「我らは国王陛下の軍である。おそれおおくも陛下のお姿を刻んだ尊い金貨、それを真鍮めっきで偽造しばらまいた悪党どもの根城はここか」
 慌てた継母は、隊長の前にエルゼを突き出して言いつのった。
「わたくしどもの預かり知らぬこと。すべてはこの娘の仕業でございます」
「年端もいかぬ小娘に罪をなすろうとは言語道断」
 母親と息子たちは町に引き立てられ、広場の真ん中に繋がれて三日三晩の鞭打ち刑に処せられた。四日目、息も絶え絶えに家へ戻ってきた継母は、唇を震わせてエルゼに命じた。
「おまえの恋人をいますぐここへ連れておいで。どこの誰だか知らないが、このまま許してなるものか。もし連れてこなかったら、おまえを息子たちにくれてやる」
 凍りつく娘に、継母は冷たい笑みを注いだ。
「おまえは三人の花嫁になるのさ。毎晩違うベッドで眠れて楽しかろうよ」

 一縷の望みを胸に抱いて丘を登ったが、大岩から突き出た掌には、なんの贈り物も握られてはいなかった。エルゼは〈彼〉にすがって泣き崩れた。
「あなたを家に連れていかないと、わたし、もう生きていけないわ。おねがいだから助けてちょうだい」
 必死に腕を引っ張っても、やはり相手はびくともしない。
「岩から出てきてくれたら、わたし、あなたのお嫁になってあげる。あなたがどんな魔物だろうと絶対に」
 いくら泣いてすがっても、手は何も答えない。泣き疲れて眠り、夜明けになって目を覚ました彼女は、〈彼〉の手に一振りの短剣が握られているのを見てぎょっとした。
「これで、いったいどうしろというの?」
 ためらいがちに受け取ると、手は初めてわずかにひとさし指を曲げ、自分の腕の付け根を差し示した。
 エルゼはあとずさりして首を振った。
「あなたを切って、持っていけというの? そんなこと、できるわけがないじゃない」

 すっかり葉を落としたすももの枝越しに、エルゼは生まれ育った家を見下ろした。短剣をそっと胸元に仕舞い込み、岩から生えた手に最後のキスをしてから、唇をかんで小道を下った。途中の坂を脇にそれ、街道の方角に足を向ける。
 家にはもう帰れない。都に行こう。お父様を捜そう。
 丘から出て街道のすぐ手前までやってきたとき、近くの茂みが大きく揺れた。
「逃げようとしたね、おろかなエルゼ」
「そのおろかさは、きっと父親譲りだね」
「そんなおまえが、ぼくらはやっぱり大好きさ」
 兄たちに囲まれて彼女は叫んだ。
「お願い、もうわたしに構わないで」
 伸びてくる腕をかいくぐり、エルゼは死に物狂いで走り出した。街道を目指してもすぐ追いつかれてしまうだろう。ようやくの思いで我が家の牛小屋に転がり込むと、頼みの雄牛はわらに大量の血を吐いて死んでいた。エルゼの母が吐いたのと同じ、ぞっとするほど真っ黒な血だった。
「邪魔すれば、みんなこうなる運命さ」
「エルゼが悪いんだよ、素直でないから」
「さあ、結婚式を挙げようじゃないか」
 兄弟は妹を自分たちの部屋に連れ込み、三人がかりでベッドの上に押し倒した。エルゼが悲鳴をあげると、継母は後ろ手に戸を閉めながら楽しそうに言った。
「おまえの両親は想像したろうかね。なに不自由なく育つはずだった愛娘が、こんな哀れな声を出すことになるなんて。いい気味さ」
 兄たちの手が、つぎ当てだらけのブラウスを引き裂いた。
「やめて。やめないなら」
 エルゼは胸元からこぼれ落ちた短剣をつかみ、のしかかろうとする兄たちの前に突きつけた。そしてはっと気がついた。この剣には見覚えがある。柄に彫りこまれている模様は、先日この家にやってきた軍の旗と同じもの。国王家の紋章だ。
 エルゼの顔が蒼白になった。剣の切っ先が小刻みに震えているのを見て、兄たちに余裕の笑みが戻った。
「恐がらないで、かわいいエルゼ」
「おまえのこと、お嬢様のころから愛していたよ」
「さあ、そんなもの捨ててしまえよ」
「いや」
 伸びてくる腕に向かって、エルゼは夢中で剣をなぎ払った。刃が軽やかにきらめいた次の瞬間、六本の腕がソーセージのように切り離されて宙を舞い、六つの赤い噴水が天井高く吹き上がった。血溜まりの中を魚のようにのたうちながら、三人はうらめしげに妹を見上げた。
「エルゼ。やっぱりおまえ、呪われていたね」
「母さんに頼んで、おまえだけは」
「生かしておいてあげたの、に」
 哀れな兄たちに目もくれず、エルゼはとろとろと血の滴る短剣を凝視した。
 間違いない。お父様が毎晩、わたしをひざに抱きながら熱心に磨いていたあの短剣。最後に別れた日も身に付けていた大事な品だ。それがなぜ、ここに。
 エルゼはようやく悟った。どんなに〈いい子〉にしていても、もうお父様は帰らない。
 彼女は戸口で腰を抜かしている継母に向き直り、短剣を突きつけた。

「ねえ、グレーテ。わたし“だけは”って、どういうこと?」

 凛とした言葉に打たれ、かつての女中頭は懸命に口を動かすが、声にならない。かつてお嬢様と呼ばれた少女は返事を待たず、蔑んだ眼差しでにじり寄る。

「おまえ、何かを隠しているのではなくて? わたしの父と母のことを」

 そんなエルゼを血走った目でにらみつけ、グレーテはあえぎながらようやく叫んだ。
「お、おまえのせいだ、おまえたち一家のせいだ。あたしが実家を失くしたのも、みじめな女中をさせられたのも」
「どうして。父も母も、おまえを大切にしていたのに」
「うそだ、腹の底で笑っていたろう。おまえも一緒に、あたしたちを」
「だから? だから、殺したの? 母に毒を盛り、父を偽の手紙で誘い出して?」
 短剣を逆手に握り直し、頭上に大きく振りかぶる。継母は猿のような悲鳴をあげ、やもりのように這いつくばって表の路地に転げ出した。
 逃げていく後ろ姿を疲れた表情で見送ってから、エルゼはずるずると床に座り込んだ。動かなくなった兄たちの体からはまだ止めどなく血が広がり、スカートがそれを吸って下半身を生温かく濡らしていく。
 短剣の血のりをエプロンで何度もぬぐいながら、エルゼは小さくつぶやいた。お父様、お母様。わたしはこれからどうすればいいの?
 破れたブラウスの胸元をのろのろとかきあわせ、彼女はようやく立ち上がった。すっかり重くなったスカートを引きずりながら、よろめく足で丘に向かった。

 岩のふもとでは、〈彼〉があいかわらずの格好で穏やかな冬の日差しを浴びていた。エルゼは太くたくましいその手に自分の両手を重ね、祈るようにひざまずいた。
「おねがい、わたしを連れていって。この岩の向こうにある、あなたの国へ」
 大粒の涙が肌を濡らすと、ようやく〈彼〉は腕全体をふるわせた。強い力がエルゼの両手を握り締めた。

 翌日、村の男たちは半狂乱のグレーテに懇願され、血の痕をたどっておそるおそる魔物の丘へ分け入った。大きな岩のふもとで破れたブラウスと血まみれのスカート、それに木靴を発見したが、どこを捜しても持ち主の姿はなかった。
 かつてエルゼにお菓子を贈ったことのある若者が、反対側の岩陰に男性らしき白骨が埋められているのを見つけたが、それが誰のものかを詮索する者はいなかった。

 その年の春、丘はいつにも増して美しい花で埋め尽くされた。

【おわり】

すももの丘の贈りもの

「作家でごはん!」鍛錬場に2回投稿してブラッシュアップしたものです。

すももの丘の贈りもの

すもも林に覆われたその丘には、魔物が棲んでいるとの伝説があった。薄幸の少女エルゼはある日、丘の大岩からひょっこり生えた不思議な「手」に出会う。【童話:32枚】

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-29

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