恋の始まり

「この曲、知ってる?」

広瀬が言った。
さっきまで吹奏楽の奴らが個々に出していた発声練習みたいな曲にならない音が、いつの間に全体練習に変わって演奏を始めていたらしい。
ちょっと遠くに聞こえるそれは、有名な映画の主題歌だ。多分。最近シーズン3か4が出てCMでよくやってる。

「映画のやつ、」
「うん、見たことある?」
「ない。」
「…………って知ってる?」
「知らない。」

向かい合わせに並べた机の先で俯いて、シャーペンを下唇に押し当てる広瀬を目だけ動かして盗み見る。何を知ってると問われたのか正確には聞き取れなかったけど、人の名前だと思う。多分。どっちにしたってピンと来ない時点で知らないんだろう。

「主演女優なんだけどね、」
「え?」
「さっきの。」

チラリとこちらを見る瞳と瞳がカチっと音を立ててあった気がした。
「あぁ、」
さっきの続きか。
「死んじゃったんだけどね、」
「え?」
今度は言葉を理解した上で聞き返す。CMで見たことのあるその女は確かまだ若かったはずだ。綺麗でセクシーで、若かった。

「その映画の撮影期間中に死んじゃったの。突然、事故で。」
「あぁ…え、でも映画は?いまやってるやつ。そいつ普通に出てなかった?」
「途中までは撮影してたらしいから。後は、まぁ、何とかしたの。」

何とかって、随分アバウトだな、と俺は思う。そんな俺の気持ちを察したように広瀬は
「ストーリー自体ガラッと変えたんだって。」
と付け足した。

「へぇ、凄いな。」
「そう。でも、凄いのはそれだけじゃなくてね、実はその女優は、監督と婚約してたらしいの。」
「その映画の監督と?」
「そう。」

色々情報が出てくるな…俺は頭の中を整理しながらふうんと相槌を打つ。お互い手は完全に止まっている。提出期限を過ぎたプリントは、完成するまでまだ時間がかかりそうだ。

「彼女は映画の中でも死ぬの。彼女が死んで、シリーズも終わる。彼が彼女に贈る愛の言葉を詩にしたのが、この曲なんだって。」

ちょうどサビの、よくテレビで聞いたメロディが流れる教室で、広瀬は幸せそうに目を伏せた。そのまつ毛に光が当たって、白い頬に黒い影が落ちる。

「天国の君にこの映画を贈ろう。この歌が届くといい。無理でもいいさ、その時は僕がそっちへ行って歌ってみせるから。」

歌うように呟くように、女らしい声で呟く広瀬とまた目があった。今度は逸らされないままこっちに身体を寄せて笑う。

「歌なんて初めて作ったらしいよ。素敵だよね。」
「うん。」
「私、この曲好き。」
「うん。」

俺は広瀬が好きだけど。

それは無意識のうちに、でも当然のように頭の中に浮かんだ言葉。
広瀬の細い指をいつも見ていた理由が、今ならなんとなくわかる気がする。

「またその映画、見てみるよ。」

その映画に興味はないけど、知らない女優の知らない恋の話にも興味はないけど、

「うんうんっ。見たらまた感想聞かせてね?」
「うん。」

誰もいないオレンジ色の教室で、カーテンが揺れる隙間から入り込んだ吹奏楽部の演奏に広瀬の鼻歌が混じる。
机の上の課題は二人とも半分も終わってないけど、どちらも急いではいない。眠気すら襲ってくる。

目の前でさらさら音を立てる髪の毛をそっと一束手元に寄せた。
何?と広瀬が言葉でも顔でも聞く。
無意識に浮かんだ言葉がまた頭をよぎる。

「なんでもない。」

今日出された明日提出の課題も、やらずに持ってこようかな。

恋の始まり

恋の始まり

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted