いつも通りに学校への道を歩いていたつもりが、知らない家の門の前まで来ていた。
 家と言うよりもむしろ、館と言うべきかもしれない。ずっとずっと小さな頃に、家族で神戸の異人館街を観光した時、これと似たような洋館を見た。だけどこれは、その時僕が見たものよりも一回りも二回りも大きい。
 外壁はくすんだクリーム色の板張り。所々に小さな窓が備え付けられているけど、そのほとんどはブラインドみたいな深緑色の木の板で閉め切られている。数カ所は板が外に向かって開け放たれているけれど、真っ白なカーテンにぴったりと覆われているおかげで、中の様子は全く分からない。
 全体的な色遣いは明るくて開放的な家に見えそうなものだけど、こうして目の前で見ると、どうも暗い閉塞感のようなものを感じてしまう。それは板やカーテンでぴったり閉め切られた窓のせいでもあるし、所々が黒っぽくくすんだ壁のせいでもある。それに、この家の裏手にしんと息を潜めてそびえている深くて真っ暗な森のせいでもあると思う。
 知らない家とは言っても、僕はこの家の外観を登下校の時に毎日ながめている。というよりも、僕が学校と名のつく施設に通い始めるよりももっと前——何も考えずに友達と近所で遊び回っていたほんの小さな頃にはもう、この家はこの場所から、当たり前のようにいつも顔をのぞかせていた。小学校の庭にぽつんと百葉箱が置いてあったり、海岸に灯台が立っているのと同じくらい当然のように、違和感なく近所の風景と僕の記憶の中にそれは溶け込んでいた。
 知らないというのはつまり、こんな家に一体どんな人が住んでいるのかだとか、この家の内装はどんなだろうかとか、そういう事柄についてである。
 僕の目の前には、僕の身長の倍くらいの大きな門がある。湿ったコケで覆われたように黒々とした緑の門だ。僕はその門の両端で優しく微笑む天使の装飾をぼんやり見つめながら、ここに至るまでの経緯を思い返してみた。
 自宅での出来事については何の変哲もない。いつも通り目覚め、歯を磨いてトーストを食べて、着替えて支度をして家を出た。その時、家には確かに僕一人しかいなかった。だから施錠した後に鍵を植木鉢の下に隠しておいて、家の門を出ていった。それだけだ。
 その後もしばらくは淡々といつものルートを歩いていった。
 しかしなにぶん、極めて憂鬱な朝だった。憂鬱じゃない朝なんてない。だけど今朝はとりわけ冷え込むし、空は灰色に淀んで陽射しの一つもありはしないし、こんな日は学校にいても大抵良いことはない。
 たぶん今日はいつも以上に周りの人達が遠くに見えて、いつも以上に自分の振る舞いがぎこちなくなるような、そういう日なのだ。だめな日のだめさ加減は、朝目が覚めた瞬間にはぴんと来てしまう。そしたらもう、出来るだけ一日の長さを意識しないようにやり切るしか方法はないのだ。
 そんな風に一人で適当に時を過ごしている僕のことを、皆は不思議だとか、静かだとか言ってくる。だけどもちろん、僕に変わったところなんて一つもない。ただ人よりも面倒くさがりなだけだ。たぶんそう思う。
 そんなことで今日も、半固体状の黒い液体で頭の中をどろどろに満たされたみたいに、酷く憂鬱な気分でいつもの道を歩いていた。
 それで何となく、僕はこの家の方に目を向けた。いつものように殺風景な道路の上から、ほとんど山の中にのぞいているこの白い館を眠たい目でながめた。空が灰色なせいか、いつも以上にそれはくすんで見えた。
 ながめながら、僕は無意識に歩みを止めていた。同時に、誰かがこっそりと植え付けていったみたいに、僕の心境に一つの小さな変化が生まれていた。
 それは始めは種のようなものだったけど、次第に成長して頭の中に根を張りめぐらせて、最後には完全に僕の意識を支配してしまっていた。
 それからだ。それから僕の歩みは変化した。いつもは曲がらないはずの交差点で曲がり、昔鬼ごっこのときに通って以来一度も足を踏み入れなかった塀と塀の間の細長い道を抜けて、学校とはほとんど正反対の方角へと進んでいった。そのときはそれが当然だとすら思い込んでいた。
 例えば夢を見ているとき、自分がどんなに突飛な状況に置かれて、どんなにおかしな行動を取ったとしても、大抵の場合、自分でそれを不思議に思うことは出来ない。さっきまでの僕はまるでそんな状態だった。この家の前まで来るということに僕はなんの疑問も抱いていなかったし、そうする以外の選択肢も存在していなかった。そしてとにかく僕は「来てしまった」のだ。この家の前に。
 もちろん引き返せばいい。時間もまだあるから、今から急げば何とか遅刻は免れるだろう。僕は一応、ここまで皆勤で通っているのだ。無遅刻無欠席で先生からは褒められているし、クラスメイトの間でも何となくそれは認識されている。今更、その固定化されたイメージを崩してしまうというのも気が引けた。「どうしたんだ?」とか、「珍しいな」とか、そういう同じような文句を散々ぶつけられることを考えると、気が滅入らずにはいられない。
 北風が吹き抜けて木々をざわざわと揺らした。あるいは、木々がひとりでに揺れて風を起こしたようにも見えた。ムクドリの群れが館の裏から飛び立ち、僕の頭上を越えてどこかへと去っていった。
 僕は目を閉じて、一度深く息を吸い込み、吐き出した。霜の冷たさが鼻の奥をついて、冷気が肺を震わせた。森の匂いがした。土っぽい匂いもした。僕はぼんやり目を開いて後ろを振り返り、その家を後にして歩き出そうとした。
 しかしその時、なにか妙な「ひっかかり」を胸に抱いて、僕は再び怪訝な顔を作りながら家の方へと向き直った。
 一見、そこにはなんの変化もなかった。だけどよく見ると、二階の右端の窓のカーテンがわずかに揺れている。
 僕はその箇所に注意を向けた。するとカーテンの端が少しだけめくられて、黒い長髪と大きな黒い瞳がそこからのぞいた。遠くてよく見えないが、その瞳のぬいぐるみのような大きさだけははっきりと確認することができた。彼女は僕と目が合ったことに気がつくと、さっとカーテンを元に戻して消えてしまった。
 少女はそれから一度もカーテンをめくらなかった。もしかしたら、僕が気付くよりももっと以前から隠れてこちらを窺っていたのかもしれない。さっきののぞき方を見た限り、そう考えてもおかしくはなさそうだった。
 彼女のおかげで、僕はそこから立ち去るタイミングを見送ってしまった。こんな辺鄙な場所のこんな古い家に、平日の朝から少女がひとり。それはしかし、大した問題じゃない。
 問題は、僕が彼女の目に気付いてしまったということだ。ほとんど無意識に足を運んだこの家で、カーテンの隙間からこちらをのぞく少女の顔を僕は見てしまった。「目が合った」のだ。このまま帰ってしまっては、この後どんな種類の後悔が僕を待っているのか知れたことではない。そのくらい、鮮烈かつどこか現実から離れたそのイメージがはっきりと脳裏に焼き付いてしまっていた。
 これから先、例えば僕が大学を受験する時や、交通事故で大怪我を負った時などでも、脈絡もなく頭に蘇ってきそうなくらい、強く鮮やかに。
 地面に伸びた自分の影を掴まれて引きずられるような感覚とともに、僕はにっちもさっちもいかなくなってしまった。
 呆然と門の前に立ち尽くしたまま時間だけが過ぎた。
 それから、第二の変化が不意にもたらされた。
 その家の真ん中にある大きな両開きの扉が、少しだけ開いたのだ。僕から向かって右側の扉だけがゆっくりと動いて、わずかに中の暗闇が見えた。少女が開けたのだろうか。しかし彼女はおろか、誰もその扉をくぐって外に姿を見せる者はいなかった。それにどうやら、外から見られまいとわざわざノブに手を掛けずに、蝶つがいの側から扉を押し開けたようである。まあ、幽霊や何かが開けたと思うよりは、そう考えるのが現実的だと思う。
 僕は数秒の間、その変化の意味することを理解できずにいた。そしてその意味が分かると、僕は生まれて初めてと言っても良いくらいの未体験の緊張に、思わず呼吸することさえ忘れてしまった。
 家の中へと誘われているのだ。僕の姿を認めてからしばらくして、彼女は僕を家に迎え入れてくれる決心をしたのだろうか。はたまた僕のことを彼女から話された両親のうちのどちらかが、気を利かせてくれたのだろうか。しかしだとしたら、あんな風に扉を片方だけ開けて放っておくはずがない。
 すると、やっぱり……。と、そこまで考えを巡らせた挙げ句、僕は意を決して重たい門を開いた。なにぶんこの寒さにも耐えかねている。向かい合っていた天使たちは僕を誘うかのように、二人揃って館の方を向いた。
 僕は広い庭の芝生に挟まれた道を渡って、扉の前まで歩いた。なんだか自分が酷く場違いな気がしていた。不思議の国に落ちたアリスも同じような心境だったのだろうか。いや——今の僕はきっと、それより何倍も戸惑っているに違いない。少なくともアリスみたいな年頃が持つ神秘的な、どんな出来事でも受け入れてしまうような適応力は、彼女より少し年を重ねた僕にはもう残されていない。
 そんなことをつい思ってしまうのは、この家の装飾や置物にところどころ不思議な趣があるからかもしれない。笑みを浮かべた横顔の月の壁飾りとか、色々な種類のカエルの置物とか、不自然なくらい綺麗な丸い形に刈られた木とか、そういう独特なものたちで溢れかえっている。あるいはそれらは全て、西洋風という意味では何もおかしくないのかもしれないけど、僕にとってはあまりに非日常的な──まるで不思議の国のような──そんな風に見えて仕方がなかった。
 大きな扉の隙間から中をのぞき見る。薄暗いが、カーテン越しにわずかな外の光が差し込んでいるおかげで、まるで真っ暗闇というわけではなかった。本当に、典型的なお屋敷のロビーという造りだ。広い空間の両端には階段があって、そのまま二階の廊下へと続いている。廊下もロビーを囲うような吹き抜けの造りで、その両端にはさらに館の奥へと続いていく階段が見える。
 それだけなら、何の変哲もない一軒の立派な館だ。だけどそこに施されている意匠は、その庭と同様に不思議なものばかりだった。ロビーの床はタイル張りで、まるでチェスの盤面みたいに目立つ白黒模様だった。その上にはワインよりも真っ赤な絨毯が敷かれて、真ん中に長いテーブルが置かれている。まるでヨーロッパの貴族が食事に使うような、長い長いテーブルだ。となれば、きっとここは食堂も兼ねているのだろう。
 そして何よりも奇妙なのが、家の中にも関わらず壁一面にびっしり張り巡らされた蔓である。緑の葉で埋め尽くされたその壁の中には、紅やピンクの花々がたくさん咲き誇っている。
 これは蔓薔薇だ。蔓薔薇はどこからともなく生えてきて上品な壁を葉と花々で覆い、二階まで上がって、さらに階段の奥の方へと伝っていた。
 その変わった光景に呆気にとられているうちに、気がつけば僕は家の中に足を踏み入れていた。どうやら僕の足は、見とれたものに向かって勝手に進むように出来ているらしい。薄暗いロビーは濃厚な薔薇の香りで満ち満ちていた。
 僕は彼女の姿を探した。他のどの人間でもない。彼女の姿を改めてちゃんと見ておきたかった。それに、この家にはどうも大人の気配というものがない。たぶん今は彼女が一人だけで留守番しているのだろう。根拠はないけど、僕のこういう感覚は結構当たることが多い。
 ロビーのどこにも彼女の姿は見えなかった。僕は少し声を張って呼びかけてみた。
 「ありがとう。開けてくれて」
 その声はロビーの中をくまなく響き渡って、高い天井にまで上っていった。見上げてみれば天井にも一つ窓がついていて、白い光が斜めに差し込んでいる。空気に漂うほこりが綺麗にきらめいていた。
 彼女からの返事はなかった。その代わりに、蔓の裏から一匹の白いウサギが飛び出てきて、テーブルの周りをぐるぐる駆け巡った後、左側の階段を慣れたように上がっていった。
 僕は少し笑って、ウサギの後についていった。ウサギは二階の廊下の真ん中で立ち止まって、真っ赤な瞳をこちらに向けた。僕はウサギのいる青いドアの前に立って、二回、そのドアを丁寧にノックしてみた。
 いくらか、沈黙の間があった。
 それから丁寧なノックが二回、返ってきた。僕はどきっとして、思わず息をのんだ。あるいは気のせいかもしれないと思い、今度は三回ドアをノックしてみた。すると三回、ノックが返ってきた。その間ウサギはずっと、カーペットに鼻をくっつけてありもしない餌を探し回っていた。
 僕はドア越しに、「誰かいますか」と当たり前のことを聞いてみた。
 すると、まるで同じ回数のノックを返すのと同じように、「誰かいますか」と返事があった。か細くも楽しそうな声音だった。
 遊び心が強いみたいだ。僕も今までの緊張がいくらか解けて、少し楽しくなってきていた。
 「入っていいですか?」と僕が尋ねる。「入っていいですか?」と彼女が返す。
 「開けますよ」と僕が言い、「開けますよ」と、彼女が言った。押し殺したような笑い声も小さく聞こえてきた。
 僕は金色の丸いノブを回して、ゆっくりとドアを開けた。
 ウサギが待ち構えていたかのように部屋の中に駆け込み、また意味もなく絨毯の上をぐるぐる走り回った後、サッとベッドに飛び乗って少女の膝の上で丸くなった。
 柔らかそうな青いドレスに満足げに包まったウサギを見下ろして、彼女は深く微笑んでいた。
 カーテンから漏れる仄かな光を背に、綺麗に揃った長いまつげを伏して優しくウサギの背を撫でる姿は、まるで幻のように淡くて、芸術的ですらあった。僕が入ってきたこともすっかり忘れてしまったみたいに、彼女はしばらく聖母のようにウサギを愛で続けていた。まるで邪魔してはいけない儀式みたいで、声を掛けるのもためらわれた。
 気がつけば、部屋の中がレモン色の光に包まれていた。外の雲が風に流されて晴れ間がのぞいたらしい。まるで夕暮れ時みたいだ。彼女の姿はほの暗いシルエットになり、そのディテールは一層あやふやに、幻想めいていった。
 世界中から隔離された小さな空間で、歴史から分断された静かな時間がゆっくりと流れていった。
 ウサギを撫でていた彼女が不意に顔を上げて、何も言わずに微笑んだ。
 僕はしばし呆気に取られてから我に返り、改めて挨拶をしようと口を開いた。
 口を開けたまま、話すことを考えていた。
 しかし僕が何か話し出すよりも先に、壁に掛けられた鳩時計がいきなりポッポと音を立てて、そのタイミングは失われた。白い鳩の人形が羽をバタつかせながら小さな扉を忙しく出入りしている。同時にいくつかの仕掛け時計が一斉にカタカタと動き出して、静寂の部屋は一転してパレードのように賑やかになった。
 「もうこんな時間!」
 さっきまでの儀式が嘘みたいにあっさりと終わって、彼女は驚くほど元気いっぱいに立ち上がった。ウサギもビックリしたらしく、床にずり落ちてまたグルグル駆け回っている。
 人形達が踊る全ての仕掛け時計は、一様に二本の針を真上に向けていた。
 「十二時?」
 口に出しても信じられない。十二時!
 今に至るまでそんなにも長い時間が経っていたなんて、どう考えても普通じゃない。茫然自失とする僕の腕を、彼女は構うことなく引っ張って部屋の外へと連れ出そうとしている。
 「ランチの時間だよ。あなたも食べるでしょ?」
 黙って首を縦に振ることしかままならなかった。
 こうして改めて見ると、彼女は思っていたよりも小さくない。むしろ、僕とほとんど変わらない背丈だった。
 何が何だか分からないままに、僕はどうしてか、取り残されたウサギの方にちらりと目をやった。
 ウサギは部屋中をグルグル走り回った後、突然ぴたりと動きを止めた。それから二本の足ですくっとその場に立ち上がり、隅っこの円い立ち鏡の前まで当然のように歩いていって、そのまま鏡の中に姿を消してしまった。
 僕は余計に、何が何だか分からなくなった。

 *

 部屋を出て廊下から一階を見下ろすと、ついさっきまで何もなかったはずのテーブルの上に所狭しと食べ物が並んでいる。フランスパンにかぼちゃのスープ、紅茶のポットやカップにグラタン、サンドウィッチ、フルーツの盛り合わせ……数え出せばきりがない。彼女は僕の手を引いたまま、ピアノのグリッサンドみたいに階段を滑らかに駆け下りていった。僕は転けないように必死に歩幅を合わせた。
 上座に座らされ、真っ白いナフキンを首に巻かれてナイフとフォークを持たされる。きっと僕には最低に似合わない格好だろう。それに対して同じ格好で左隣に座った彼女の方は、なんと様になっていることか。
 だけど今は、そんな気恥ずかしさなんて感じている余裕もなかった。混乱しっぱなしだ。思えばここに来てからというもの、一度も地に足をつけた感じがしていない。
 目の前に広がる色とりどりの食事、濃厚な薔薇の香り、キャンドルの灯り、エプロンドレスの少女……頭がくらくらする。ナイフとフォークを両手に持ったまま、僕は真面目な顔で呼吸を乱す。今この場で一番変な奴は、たぶん僕だ。
 「大丈夫?……食欲ない?」
 流石に彼女も少し怪訝そうな顔をしている。僕は慌てて背筋を伸ばし、無理やり笑顔を作った。ここでは普通じゃないことが普通なのだ。だから普段から普通な僕は、今は普通にしてちゃいけないということだ。
 例えば今、右隣の椅子にどっかり腰掛けたグレーの大きな猫もここでは普通の住人なのである。そいつがナイフとフォークを器用に使って魚を切りだしたりしても、僕はいつまでも取り乱しているわけにはいかない。
 現に彼女も、猫が現れたことには全く見向きもしない様子だった。
 「こんにちは」
 一応挨拶をしてみたが、猫は見向きもしない。魚の身と背骨を切り分けるのに夢中だ。
 「彼は無口だから。話し掛けても無駄だよ」と、横から彼女が忠告してくれた。僕は落ち着いた振りをしながら「それもそうか。猫だからね」と言葉を返した。
 すると彼女はさも意外そうに目をぱちぱちさせながら、「どうして猫なら話さないの?」と訊いてきた。僕は返答に詰まってしまった。
 僕が困ってもごもごしている間でも、彼女は一度も目を逸らそうとはしない。それはもちろん僕を困らせようとしているのではなく、純粋すぎる好奇心ゆえだと思う。
 こんなとき、何か面白い冗談でも言えたならかっこいいだろうなと僕は思った。それで考えてもみたけど、上手い文句は全然思い浮かばなかった。そしてついに僕は諦めて笑いながら、「なんでだろうね」と言いかけた——言いかけたところで、またも僕の発言は遮られてしまった。
 猫がいきなり唸るような大きな鳴き声を上げたかと思えば、ナイフとフォークを乱暴に前にぶん投げたのだ。二本ともまるで矢みたいに彼女のすぐそばを掠めていき、反対側の壁にバネみたいな音を立てて突き刺さった。それから猫は魚の乗った大皿を思いっきりひっくり返してテーブルの上に豪快にぶち撒け、前足を床について階段を駆け上がり、そのままどこかへと走り去ってしまった。
 唖然とした表情のまま、僕は首だけ彼女の方に動かした。さすがに今の出来事には驚いただろう。ちょっとした事件である。
 だけど僕の「期待」とは裏腹に、彼女は少し憮然とした面持ちで黙ってサンドウィッチを齧っていた。
 「気にしないで。いつも腹を立ててああするの」
 澄ました表情と、少しうんざりしたような声でそう言った。
 ——じゃあ、なんでナイフとフォークを使うんだ?
 そんな疑問はしかし、当たり前の疑問なので言わないことにしておいた。
 それから僕らは、おおむね普通に話をした。もちろん内容をよく考えてみればあまり普通とは言えないかもしれないけど、端から見ればそれは何の変哲もない会話であり、何の変哲もない食事だった。
 彼女について色々なことを尋ねてみたりもした。
 どうしてこんな、お屋敷みたいな家に住んでいるのか。そう聞くと彼女は「あなたはどうしてこの家に住んでいないの?」と聞き返してきた。
 「それは、ここは僕の家じゃないからだよ」と答えると、彼女は何故か楽しそうな様子で「じゃあ、あなたはなぜあなたの家に住んでいるの?」とおかしな質問を重ねて来る。
 「それは、それが僕の家だからだよ」と言うと、彼女はにっこり笑ってフランスパンの切れ端を溶かしたチーズに浸けて口に運んだ。
 何を訊いてもずっとこんな調子だった。確かな答えを得ることは一向に出来ないけど、それらの答えはなんとなく僕を納得させた。一つ一つの言葉が音楽みたいに頭の中に溶け込んで、それは確かな答えなんかよりもよっぽど正しいものに思えた。もっとも彼女の方はと言えば、終始、ただなぞなぞを楽しんでいる風にしか見えなかった。
 そして僕らはしばらく会話を止めて、テーブルに並んだありとあらゆる食べ物を黙々と平らげていった。彼女は本当によく食べた。三日三晩何も食べずに放浪してきたような見事な食べっぷりだった。僕も普段と比べればかなり食が進んだ方だったけど、それでも彼女には到底敵わなかった。
 途中、彼女が銀ドームの蓋を取ったとき、皿の上から何か動くものが飛び出してきたときには、それまで何とか平静を保ってきた僕も流石にぎょっとした。
 それは数匹の蛙だった。
 食用でもなんでもなさそうな、どこにでもいる黄緑のやつだ。しかも生きている。
 まさかとは思ったけど、そいつが蓋の下から現れたということは、その意味は一つしかない。
 彼女は落とした豆を拾うように蛙の柔らかい背に躊躇なくフォークを突き刺し、そのまままるっと口の中に入れて、咀嚼し、飲み込んだ。
 他の一匹が食器の間を跳ねながら抜けてひたすらに彼女の手を逃れ逃れて、僕の目の前までたどり着いた。そのままテーブルを飛び降りた蛙はちょうど僕の右腕に乗っかり、手のひらの中に滑り落ちた。僕は慌てて左手を添え、両手で蛙を包み込んだ。
 うろたえながら助けを求める僕の目と、それに合わせる彼女の瞳は全く意思を通わせていなかった。
 「食べないの?」
 無邪気な声と微笑みが余計に頭を混乱させる。もはや僕の両手のなかにあるものがどんなものなのか、はっきりと思い出すことも難しくなっていった。
 それは食べられるものだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。だけどあの子がさっきあんなに美味しそうに食べていたんだから、きっとそれは美味しい物なのだろう。そうに違いない。
 僕はそれを一気に口に含み、咀嚼し、飲み込んだ。柔らかくて妙な噛みごたえがあった。苦みが強いけど、ほんの少しだけ甘みもある。案外悪くないと思った。────
 「兵隊が来る」と、唐突に彼女は言った。
 テーブルの上の食器がほとんどまっさらになった頃だった。
 揺れるキャンドルの炎をぼんやり眺めながらナフキンで口を拭っていた僕は、その一言を聞きそびれてしまった。
 「今、何か言った?」と僕は尋ねた。
 彼女はこれまでにない真剣な面持ちで、テーブルの真ん中辺りをじっと見つめていた。そして驚くほど低く冷たい声音で、同じ言葉を繰り返した。
 「兵隊が来る」
 僕は何も言わずに、彼女が今頭に思い描いているであろう光景を想像してみた。それはまるでトランプのような姿をしていたり、あるいはくるみ割り人形みたいな見た目をした兵隊たちによる行進だった。その想像はあながち間違っていない気がした。だけど目の前の彼女は、それよりも遥かに恐ろしいものに怯えているように見える。
 「そんなに怖いのかい。その、兵隊って」と僕が訊くと、彼女は寒気を感じたように両肘を抱え込んでうずくまってしまった。まるで、らしくない仕草だった。
 「……兵隊は、なぜここに来るんだ?」
 あまり考えさせるべきじゃないとは思いつつも、僕は焦ったように質問を重ねていた。
 気がつけば僕は椅子を蹴って立ち上がり、責めるように彼女の側に近付いていた。
 彼女は悩める未亡人みたいに頭を抱えて綺麗な髪をくしゃくしゃにしながら、震える声で「わからない」と口にした。ほとんど泣き出しそうだった。我に返った僕はごめんと謝り、慌ただしく席に戻った。
 ロビーはいっそう暗さを増して、周りに深い暗闇を作り出していた。薔薇の香りはいよいよ不気味な妖しさを帯び始めて、静寂の中には震える彼女の息遣いだけが弱々しげに響いた。
 胸にぽっかりと大きな穴を開けられたような気分だった。
 「兵隊」が暗闇の中から音もなく現れて僕の背後に忍び寄り、胸の穴に鎖を通して引っぱり去ろうとしているような気がした。僕はおどおどと周囲を見廻しながら、右の拳で自分の胸を強く押さえつけた。
 かすかな気配があった。あるいはそれは、かすかな音だったのかもしれない。僕はうずくまりながらも、そちらにじっと注意を向けた。
 やがて現れたのは一匹の蛙だった。さっきどさくさに紛れてテーブルから逃げ出していたんだろう。蛙は食われる恐怖をすっかり忘れてしまったみたいに、真っ黒い眼で僕の顔をじっと見つめ返していた。それから蛙は一度だけ、げこっと鳴いた。
 「どうせ逃げられないんだ」と、蛙は言った。
 そして再び暗闇の中へと消えて行き、それきり二度と姿を見せなかった。
 高い天井を見上げると、窓から大きな白い月が見えた。月は煙のように淡い光を落として、僕達の周りだけを冷たく照らしていた。
 「そろそろ寝よう?」
 不意にそう呼びかけた彼女の微笑みには、疲れ果てたような色が滲んでいた。
 「うん」
 僕は小さく返事をした。
 
 *

 彼女があんな風に何かに怯える姿を見せたのは、それが最初で最後だった。
 席を立ってからはいつかの元気を取り戻した様子で、寝室に向かうまで、先に立って家の中を案内してくれた。
 多くの部屋はこれといって奇妙でもなんでもなかった。もっとも、内装はどれもこの家にふさわしい一風変わった洋風のデザインで統一されていたけど、それ以上に不思議なことは何も起こりはしなかった。
 「こんなにたくさんの部屋、誰が使ってるの?」と僕は訊いてみた。すると彼女は踊るように体ごと振り返って答えた。
 「この辺りはどれも、いない人の部屋だよ」
 「いない人の部屋」と僕は静かに繰り返した。
 それはまたも、なぞなぞめいた答えだった。だけどその頃には僕も、彼女の言いたいことがほとんど違和感もなく伝わるようになっていた。
 いない人の部屋と言うのなら、それは誰かの部屋というわけでもなく、また誰もいない部屋というわけでもないのだろう。矛盾でもなんでもなく、全くその通りなんだと思う。
 寝室に到着する直前、足下から細くて甲高い鳴き声が聞こえてきた。鳴き声は一つだけではなく、三重にも四重にも折り重なって聞こえた。
 見ると、廊下の隅で数匹のネズミ達が何やら話をしているようだった。よく耳をこらしてみると、話の内容を少しだけ聞き取ることができた。
 「屋根裏のやつらは意地汚いね。すぐにがっつこうとする」
 「台所もひどいよ。そこら中食べかすだらけだった」
 「一番悪いのは床下のやつらだな。寄ってたかって醜いったらないね」
 なんの話かよく分からないけど、あえて考えたいとも思わなかった。ひどくつまらない話をしているということだけは、何となく伝わってきた。
 「意味のない話をするネズミ」
 彼女がそう呟いた。やっぱりそういうものかと僕は思った。
 そんな呼び方をされるくらいだから、きっとこのネズミ達は四六時中どうでもいいことばかり話し続けているのだろう。
 「そんなの放っといて、もういこうよ。眠くなっちゃった」
 彼女がそう言った直後だった。突然、後ろの方から聞き覚えのある猫の唸り声が響き渡ってきた。
 あのグレーの大きな猫が猛烈な勢いで階段を駆け上がってきて廊下に入り、意味のない話に興じるネズミ達に虎のように襲いかかっていった。それがあまりにも凄まじい勢いだったので、僕はすっかり気圧されてしまった。僕らはその場から逃げるようにして寝室へと向かった。
 寝室には大きなベッドが一つと、小さめのベッドが一つ置かれていた。彼女は大きい方を僕に促して、自分は小さなベッドに入った。
 手持ちキャンドルの火が消されて、部屋のランプも消灯された。カーテン越しに青白い月明かりがもれていた。僕は青白く浮かび上がった天井を見つめながら、今までのことを一つ一つ順番に思い返していた。
 今朝のことや、昨日のことや、それよりも前の色々なことが、とてつもなく古い思い出に感じられた。それは白黒写真みたいに過去の一点に閉じ込められたまま、実感の無い静止画となって思い出された。幼い頃に見た夢の記憶を不意に思い出したみたいだった。そこには今の瞬間と繋がる要素がほとんどなかった。
 だけど、多分何もないわけじゃない。ただ、今はそれを思い出したくないだけだ。
 眠りが徐々に意識を支配していく。
 怒りっぽい猫の唸り声やネズミ達の叫ぶ声は、いつのまにか聞こえなくなっていた。

 *

 僕がベッドの上で目を覚ましたとき、そこには今までで一番静かな朝が訪れていた。世界中から全ての人がいなくなったように静かだった。
 となりの小さなベッドを見ると、そこに彼女の姿はなかった。部屋の中を見まわしてみても、どこにも彼女はいなかった。女の子と男の子の古いフランス人形が、タンスの上に並んで腰掛けているだけだった。
 僕はベッドから降りて、部屋の真ん中でしばらく立ち尽くした。部屋の隅には、彼女の部屋にあったのと同じ円い立ち鏡が置かれていた。鏡には、遠くから僕の半身が映っていた。僕の後ろのフランス人形達も映っていた。
 鏡の側には窓がある。この部屋の窓は今まで見た物よりも大きく、引き戸のようになっていた。窓の外には歩廊があり、その向こうには森が広がっている。
 どうやらここは、家の裏側に位置する部屋らしい。歩廊と柵はコンクリートで出来ていて、風変わりなところはどこにもなかった。それはどんなビルや病院にもありそうな、ただ歩くためだけに造られた通路にしか見えなかった。
 冷たい風が体に当たった。よく見ると、窓の端が少しだけ開いていた。
 胸の鼓動が激しくなる。強いためらいで足が重くなった。僕は長い間、窓の外を見つめたままその場で停止していた。
 雲の流れる音がした。どこかでかすかに、木が軋むようなパキッという音もした。
 やがて僕は、目を閉じてため息をもらした。そしてしぶしぶと窓を開けて、歩廊に踏み出した。
 左の隅の方に、風に吹かれながら彼女が立っていた。彼女は柵の上に両腕を乗せて、大きな瞳で遠くの景色を見つめていた。僕も彼女と同じ方向に目を向けた。そこには広大な森と灰色の空以外、何もなかった。
 森はどこまでも続いていた。地平線の彼方まで、全部が森だった。今までこの場所に、こんなにも広い森があったのか。そんな風に驚くこともなかった。僕は再び彼女の方を向いた。
 彼女もこちらを向いていた。そして、微笑んでいた。それはウサギを愛でていた時とも、「ランチ」を済ませた後の疲れた表情とも違う、全てを受け入れた寂しい微笑みだった。きっと僕も彼女と全く同じ表情をしていたんだと思う。
 灰色の空と、コンクリートの歩廊と、微笑む彼女の姿が僕の目に映った全てだ。それはいつかどこかで見た光景のように思えて仕方がなかった。それは現実のどこかかもしれないし、夢の中だったのかもしれない。生まれて初めてのデジャヴだ。
 「兵隊が来る」
 そう言ったのは僕だった。彼女は小さくうなずいた。
 「逃げようよ」と彼女が言った。「鏡の中に逃げるの」
 その言葉に焦りや執着はひと欠片もなかった。その後はどうなっても構わない、という風な言い方だった。僕はしばらく黙ったまま、森と空の間をじっと見つめていた。
 「うん」
 僕は真っすぐに彼女の顔を見つめ返して答えた。彼女は嬉しそうに笑うと、昨日みたいに僕の腕を固く握って、部屋の中へと駆け込んだ。そしてそのまま、鏡の向こうの世界めがけてためらいなく突っ込んだ。

 *

 校庭では三人の男子と一人の女子が、ドッヂボールのような、そうではないようなことをして遊んでいた。曇り空の中には一羽のカラスが飛んでいる。さっきからずっと同じ広さの空間を、同じスピードでぐるぐる飛び回っている。頬杖にしていた右腕が疲れたので、左腕に切り替えた。留まっていた血が流れ出して、腕がじんじんした。
 隣の席はいつも通り、路地裏に集まる猫みたいににぎやかだった。立ったまま、ずっと携帯に目を落としている子もいる。自分の席でやればいいのにと思う。みんなどことなく、つまらなさそうな目をしていた。多分、私ほどじゃないだろうけど。
 私は口を押さえて静かにあくびをした。それから朝に強制終了された眠りの続きに入ろうと、両腕を枕にして目を閉じた。長い髪の毛がちょうど耳をカバーしてくれる。
 そのとき、教室の前のドアががらっと開かれて、担任のおじさん先生が早歩きで教卓まで歩いてきた。先生は黒くて四角いファイルみたいなやつを教卓の上に置いて、珍しく眼鏡を外した。それを見て、流石にみんなも何かを思ったのか、珍しく静かになった。
 「えー。朝一だけど、報告があります」
 先生が、なるべく事務的に聞こえるようにした感じで口を開いた。先生は少し目線を上げて、みんなの顔を見ながら続けた。
 「昨日欠席していた香田の件。何人かは聞いているかもしれないが、実は、行方が分からなくなっていました」
 香田くん。私の右斜め後ろの席の子だ。下の名前は覚えていない。今まで一度も休んだことはなかったのに、昨日から来ていない。私もずっと気になっていたところだ。
 「ついさっき、香田が見つかったという報せが入りました。……ただ、ひどい怪我をしていたらしい。警察によれば、身体中に深い切り傷があったみたいだ」
 先生はぎこちない丁寧語から、いつものおじさん口調に戻っていた。私はちらりと香田くんの席を振り向いた。
 そこには誰も座っていない。
 「香田は空き家で見つかったらしい。皆も知ってるだろ?あそこの山の、中ほどの、あの白い家だな。……香田について、何か知っている人がいたら教えてください。後で俺のところに来てくれれば、話を聞きます。それじゃあ、起立」
 先生はあらかじめ用意した台本を読み上げるみたいにそれだけ言って、いつも通りにホームルームを始めた。私はまだ頭を切り替えることが出来ずに、礼をするのも忘れたまま、香田くんの席を振り返っていた。
 そこには誰も立っていない。
 廊下側の窓がひとつだけ開いていた。よく見ると、遠くの方に山の上の白い家がポツンと見えた。小さい頃から見慣れている、けっこう立派な外国風の家だ。空き家だったのは知らなかった。
 プリントが配られ、前から順番に回されてくる。隣の女子は後ろも振り向かずに、香田くんの机の上にプリントを置いた。いつものクセみたいだ。
 ホームルームが終わった後で、私はそのプリントを机の中に仕舞ってあげた。机の中はごちゃごちゃなままで放置している私のと違って、ガラガラだった。
 空っぽかと思ったら、奥の方に、一冊の文庫本が入っていた。文庫本は古っぽくて、深い緑色をしていた。
 『不思議の国のアリス』と、白い文字で表紙に書いてあった。その下には、ルイス・キャロルという著者の名前も書いてある。表紙の絵は白黒で、私が知っているディズニーの可愛い絵柄とはだいぶ違っていた。私は周りの人の目を忍びつつ、ちょっとだけ本をめくってみた。
 挿絵はどれもすごくリアルで、ギョロ目の猫や、小太りの双子や、首の長いアリスの姿などがいくつかのページに描かれていた。
 なんだかちょっと気味の悪い絵だな、と私は思った。

いつも通りの憂鬱な朝。気がつくと僕は、一軒の白い家の前まで来ていた。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-10

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