今日も帰らない兄さんから「餌よろしく」のメッセージ。大学生になってから性格も見た目も変わり家から遠ざかっていく兄さん、兄さんのように酒を飲んで街を練り歩き大人のフリを楽しむ日は僕には来ないと思う。母さんは兄さんが念願の有名大学に合格したことで一安心したのか、以前のように製図用シャープペンシルで書き殴ったような金切声のヒステリーを起こすことはなくなった。
「ただいま」
「おかえりなさい。シノブー受験どうするの?」
 母さんはゴーヤの中身をスプーンで抉りながら玄関にいた。まだ六月だ、付属の大学に進学するつもりだから焦る必要はない。
「うん。まぁ、その内ね」
 目をそらしながら二階にある自分の部屋へ向かった。
 制服を脱ぎ、ハンガーにかけるという取留めもない一連の動作を運試しとしている。ニットベストが落ちなかったらその夜はいいことがあると信じているのだけれど、この運試しは凶しかでない、ベストがずれ落ちてこなかったことはない。今日も凶だと慣れたもので、日常が劇場に変わることはないのだから早く寝ようと、疑いもない凶に僕の平穏は保たれている。朝、ハンガーにかけておいた部屋着に着替えた。頼まれていた餌やりのために、向かいの兄さんの部屋のベタつくドアノブを握ったら掌が糖蜜まみれになっていく気がした。
 相変わらず汚い部屋だ、空気が淀んでいる。薮と化した雑貨を掻き分けて、ベッド脇の棚におかれた水槽のライトにスイッチをいれた。ほんのり青白く灯り始めた水槽の中の生き物、通称ウーパールーパー、メキシコサンショウウオが学名で兄さんがシコさまと名付け、大学入学とともに飼い始めて二年が経った。シコさまの風貌は魚ともトカゲともいえない珍奇なもので、例えるなら湯むきしたペニスに手足が生えてゴマが二粒つけられたよう。最初に目にした時は股間に蟻が集かったような気色悪さを感じたけれどエサやりを頼まれ顔を合わせる度に、ムニっと口角の上がった一文字の口や枯枝みたいな触角、回旋しようと不器用にもがく手足がどことなく可愛いらしく思えてきた。
「ほーら。たべな」
 一文字の口で餌を捕えて満足そうにすり潰している。
  屈む姿勢に疲れ棚に手をかけたら、脱ぎっ放しのボクサーパンツに掌が着地し、ヌルッと、パンツ内でなにかが滑った。まさかと思い水槽を確認したがシコさまは美味しそうに餌を咀嚼していて安心したけれど、ではこいつはなんだ、これは生ものの触感だ。哀しいかな兄さんのパンツの股間部分を撫でる、なんて屈辱、シコさま以外の誰にもみられたくない姿だ。意を決してゴム部分を摘みあげ股間のナマモノを振り落としてみた。
「っ……え、うわ」
  口を結んだコンドームだった。兄さんは何時ここで誰とセックスしていたのだろう。シコさまはそれもしっかり見ていたのだ、こんなゴマみたいな目で? もっと餌くれと前足でかりかり漂う無防備なシコ様。僕が僕の部屋で責任をもって世話をしたいと兄さんに提案することにしよう。
  母さんと二人の晩ご飯、ゴーヤが唐揚げにされていて驚いた、ゴーヤチャンプルー以外にゴーヤが輝やく料理があったなんて知らなかったと「美味しいね」なんて話かけようとしたが、母さんはずっと携帯電話をいじっているから黙って食べる。左手で頬杖つきながら携帯をいじる姿は女子がよくやるそれに似ていて、よそ見して食事することを叱られていた息子の身からすれば理不尽極りないうえに乙女ぶる姿に憤りを感じざるを得ない。
  ゴーヤの唐揚げと鰹のたたき、どちらもショウガがよくきいている。ショウガ臭い指で打ったメールを読んでいるのは誰だろう。面倒なことを言われないのなら、母さんがアダルトビデオに出ようが弟や妹ができようが、なんでもいい、でも兄貴がシコさまの前でセックスしていたことだけは許せない自分がいる。
  
  朝五時、母さんはパートに出かけた。リビングのテーブルの上にはワンプレートの朝ごはんと弁当が準備されている。目玉焼きの裾を引っ張って生温かくなったミニトマトを食べながら外を見たら、母さんは交差点を曲がって見えなくなっていった。
  これから大事な作業を行う。周囲に誰もいないことを再確認し、母さんのイスに掛けられたエプロンを裏返した。
  自分が座っていたイスを持ち上げ神棚の下に運びクッション部に足をかけ神棚をのぞく、さて榊の水を換えるほど僕はイイ子ではない、それどころか神棚の中央に置かれた封筒に手を伸ばすのだ、とんだ罰アタリ人間だろう。この封筒には単身赴任中の父さんが振り込んだ生活費と母さんのパートの給料の一部が、銀行から下ろされ現金として数十万ほどの束になって入っている。僕はそこから四日に一回、一万円を抜取っている。この封筒には元々いくら入っていて今いくら入っているのか、そこから僕が抜取った金額はいくらになるのかなんて分らない、抜取は半年以上も続いていて、そもそも四日に一回なのかも曖昧だ。やましい数字は忘れやすくプログラミングされているのかもしれない。政治家が金絡みでバッシングされていると親近感が湧く、僕たちは同じ腐った人間なんだと。家族がこのことを知ったら勘当されるか警察に突出されるかもしれない、いやそんなことより僕が泥棒だという事実を家族に知られることが一番怖ろしい。僕は水色と白が似合うような人間でなければならないのだ。泥棒のように唐草模様纏い髭面で上唇を舐めるような人間だと思われたくはない、でも泥棒はするノゾミのために、だから悟られないよう爽やかに泥棒すればいいだけのこと。自分の小癪さを振り返るとみぞおちがえづく、けれど何時か反省して止めればいいのだ、今はその時ではない。この類の様々な不安に襲われるのは毎日のことである、しかしこれは僕がノゾミに愛されるための儀式だから今は止めてはいけない。母さんからは「お金が必要な時は相談して」と言われていて、真面目な体を装えばいくらでもお小遣いはもらえる。では僕が本当のことを言ったら「ノゾミと一緒に期間限定のランチセットを食べて、放課後にスイーツ食べ放題に行って帰りにノゾミが欲しがる化粧品や服やキラキラした小物を買うから」それでも母さんはお小遣いをくれるのだろうか。くれる訳がない、ノゾミと別れるように言われるかもしれない。
  ノゾミに必要とされなかったら僕はただの普通の僕になってしまう。自分を特別だと思うな、世間が言うとおり僕だってそう思う、と頷いてはいるものの、自意識を見透かされたくないから事前に知ったような顔しているだけで、本当は、駅のホーム・教室というバカほど小さな空間でいいから、目の輝やきが違うモブであるだけでいいから、と期待している。何時の間にかそれは自意識となって僕の心に潜み、気づいて欲しいと謙虚さに包まりキョトンと僕を見上げてくる、体を丸めた小動物のように「こんなに醜い僕だけど、愛してね」とか言う。なんて醜くむしり殺したくなる、愛に飢えた自意識よ、自分なんてスクリーントーンの一欠片でしかない、モブでもない、モブを形成する要素でしかないのだ。自意識と自虐が交互に反り返ってくる度に僕は惨めで仕方なくなる。忌々しい激情を沸騰させながらも、しかし平然とモブとして害のない日常をこなすことができるのは僕だけじゃない。たくさんの背中が、冬は黒紺茶・夏は白青透るブラジャーにしか見えない背中の中で、誰しもそんなことを考えているのだ、そして平穏を保つ、誰も考えたことのないことなんてないのだから。
  そんな日常でノゾミを見つけた、いや見つけてくれた。ノゾミの頭の中では僕はモブではなくノゾミと対峙する「シノブ」という確固たる登場人物として存在できる。僕はノゾミから愛してもらうことによって特別な僕であることができるのだから。
 気付くと右手は一万円札を摘んでいた。長い言い訳で耳栓をした状態で抜取の作業をこなすなんてお手の物、耳栓でもしていないと罪悪感に見舞われてイスから転げ落ちてしまうと思う。折目のない一万円札の福澤諭吉は封筒からいきなり引張り出されたから驚いて唇をわなわな震わせている、マグカップの牛乳を飲みながらそれを朝日に透かしてみた、この諭吉の初めてを汚す優越感は、新雪を踏みつける時の少しの残虐性に似ている。
  札を半分に折ってティッシュで包むと、祖母が「お母さんには秘密だよ」とお小遣いをくれたことを思い出して牛乳が埃っぽく苦みを感じた。罪滅ぼしという訳ではないけれど、祖母の名前はカタカナの二文字、それをチーズトーストにケチャップで書き残さず食べることにした。
  準備を済ませて弁当を持ち家を出た。母さんがアイロンがけしてくれる皺のないシャツとズボン、柑橘系のワックスを纏って所謂ご近所さんと挨拶を交わしバス停まで歩けば、誰も僕の財布に脅える諭吉が押し込められているなんて知る由もない。爽やかな朝だ。

  

  放課後、ノゾミが友達と遊ぶと言うから早々に帰宅しようとイヤホンを耳に押しこんでいたところ、幼馴染の今泉に話しかけられた。
 今泉は野球部に所属している。高身長に浅黒い肌、いつもニヤニヤしていて夏が似合う瑞々しい胡瓜のような男だ。
「よ、シノブー一緒にかえらね?」
「お、今泉久しぶり。うん、かえろ」
 左耳のイヤホンを抜いた、用事なんてこれくらいしかなかった。
  校舎を出て左手に曲がり、いつもならバス停に並ぶけれど今日は自転車を押す今泉とひたすら歩く、今泉が肩にかけている疵だらけのエナメルバックの大きさに圧倒されて僕は縁石の外に追いやられた。
「二年の林間学校の時さーノゾミとキャンプファイヤー抜け出してたじゃん、なにしてたん? まさか外でヤッた?」
「あーそんなことあったあった。忘れちゃったよ」
「うっそ! ぜったい覚えてるっしょー。おしえてよーいいじゃーん」
 覚えているに決まっている。ノゾミとセックスがしたくてキャンプファイヤーを抜け出して、駐車場にあった公衆トイレの真ん中、多目的トイレに二人で入った。
「やってないよ。自販機に行っただけ」
「え! まーじーかー。俺なら二回はヤッただろうなー」
 風呂上がりのノゾミの鎖骨に顔を近づけたら、甘く潮っぽい匂いに性欲を掻き立てられた。大好きな飼い主の顔を舐める犬のようにペニスを振り乱してノゾミを壁に押しつけた。
「部活、負けちゃったんだね」
「まぁでもよかったかなー。うちの野球部弱いくせに毎日練習あるからさー。三年になっていろいろ忙しくなるじゃん?」
「そっか。みんな忙しい、かぁ。今泉は受験すんの?」
 どんな愛撫をしても、ノゾミは目をきゅっと瞑って「ダメ、イヤ、はずかしい、あっ」の基本用語を様々なトーンで喘ぎ繰り返していた。今となっては面倒くさがっているのだと冷静に分析できるが、あの時はそんな声ですらペニスを鼓舞する協奏曲に聴こえてしまって堪らず、性欲に支配されノゾミと限界まで密着するため息を忘れ一心不乱にノゾミの入口を掻き分けた。あの時の自分が豚にしか思えずノゾミに頭が上がらないし、この一件のせいで英語のリスニングの時間は苦痛になった。棒を咥えながらでも口にすることができる簡単な言葉すら有難がって耳を傾ける僕たちに向け、同じ単語を同じ調子で繰返す外人の声、ノゾミが交差する。
「俺さスポ薦決まったん。だから勉強はしないで、放課後に大学の部活に顔出してるんよ」
『推薦決まったよ! シノブのお兄ちゃんと一緒のとこ! やったぁ』
 僕は我にかえった。今泉と話しながらの帰り道に、脳みそだけ一年前の林間学校の記憶に浸っていた、あの時以来ノゾミとセックスどころかキスも髪に触れさえしていない。なんとなく僕の方から、遠慮というか恐れ多い気がしてノゾミに触れることができず今日に至る。
「おめでとう。練習がんばれよ」
 脳みそここにあらずでも、耳鼻咽喉だけでなんとなく会話を進めていたからか粘膜に張り付いた情報を頼りに今泉を称えることができたが、無意識に作られた笑顔は風でさえ浮いてしまいそうだ。
「俺の学部はアレだけど“頭いい大学”だからね。ユウ兄ちゃんによろしく言っといてよ」
 今泉はエースで兄さんはショート四番、少年野球のチームでスターだった二人、僕は案山子のように立っているだけのランナーコーチ、手をぐるぐる回すだけの案内板。反射だけに頼っていた数秒前と違い今泉を称賛し続けることができないで俯いた。
「そういえばノゾミもっしょ?」
「え、あぁ。ノゾミは商学部だって」
「これでシノブもいればめっちゃ楽しそうじゃね?」
「俺は頭悪いからムリだよ」
 今泉は口を尖らせて「そっかぁ」と頷きながらスマートフォンを確認してニヤッと笑い、ハンドルを持ち上げて前輪次に後輪と縁石を越えていった。最後にきっちり目を合わせて、
「ごめん! ちょっと先輩に呼ばれたわ。じゃーシノブまた!」
  めいっぱいペダルを押し込み、納豆坊主のてっぺんから手をひらひら振り笑いながら去っていった。並んで歩いていたはずの今泉は交差点を曲り、いくら目を細めても姿は見えなくなった。唐突に突き付けられた綻び、あまりにも雑すぎて僕はかえって冷静にならざるを得なかった。
 
 結局家までバスに乗らずに歩いて帰ってきた。梅雨時のたまの青空は夕焼け色と湿気を含んで重みを増しアスファルトの灰色と草々のにおいが滲み始めた頃、僕の嫌いな夏が来ると直観した。途端にローファーの底が熱を帯びてズボンの煙突に蒸気が立ち込める、ただでさえむくんでいた脹脛がその中で発酵し始めて不快どころではない。
「ただいま」
「おかえりなさい。ねぇシノブ、受験のことちゃんと考えてる?」
「……ちゃんとってなに? そもそも大学って絶対いかなきゃだめ?」
 疲れのせいか口調が荒くなった。母さんは、今日はカボチャの種をくり抜きながら玄関にいる。僕の返事に「うーん」と首を傾げる母さんを放っておいて二階の部屋に一段抜かしで上がっていった
 珍しくベストがハンガーから落ちてこない。僕のジンクスによると、落ちてきたらアンラッキー落ちなかったらラッキー。この運試しを始めてからベストは毎回落ち続けてきた、僕はそれを律儀に拾いハンガーにかけ直し、厄を祓うという名目で、不安定なベストの上に明日着ていく洗濯済みのワイシャツをかけることで、毎夜の平穏を保ってきた。落ちなかったらのだから素直にラッキーと喜べばいいのだけど、木耳か海月なのか分らないような、得体の知れぬ不安に足の裏を擽られている気がしてならない
「シノブー。ご飯食べよー」
  母さんの緩い声が聞こえて我に帰り、リビングへ向かうことにした。
 夕食は白米に青菜のみそ汁、春雨サラダとゴマ鯖の味噌煮、そしてなにより目をひいたのはさっき母さんが種をくり抜いていたカボチャだ。カボチャは甘く煮付けにされるだけの運命だと、カボチャ自身を含めて誰しもが思考を停止していると思っていたが、今夜のカボチャは山吹色の肌をさらけ出すように三日月型に切られて、種をくり抜いた窪みにチーズがとろけ、優雅に皿の上でシーソーしている。
「カボチャ美味しそう」
「でしょ? いつも煮物だからつまらないなぁと思って、ふふ」
 やっぱり最近の母さんから不倫とか熟女の類の濃い紫した粘り気を感じる。兄さんの受験が終わってから父さんが出張と言ってずっと家に帰らないことが主な原因だと推測できる。母さんは家で一人の時間が長く寂しくてつまらなくて堪らないのかもしれない。
「受験さぁ、焦らないでいいからね。父さんとも相談しないと」
「うん。父さん、呆れられるだろうね」
「そんなことないわよ、自信もって?」
「……なんか母さん変わった」
「そう? イライラはよくないから、豆乳飲み始めたら女性ホルモンがね」
 僕はまた一つ現実世界からおいていかれた、狭い世界に束ねて詰め込まれている近しい人さえ僕の知らない顔を持ちどんどん変わっていく。変わらないものといったら、母さんのエプロンに縫いつけられた熊のアップリケ、彼としか目を合わせられないでいる。彼は丸い手をひょいと顔の横にあげ「cookie mind」なんて意味の分らない台詞がエクトプラズムしているにも関わらず、秋空のようにカラッと大口開けて笑っている、物心ついた時には母さんの前面にいた彼、母さんに抱っこされている時も母さんと僕の間には、穴のような黒目の彼がぬって入っていたし、叱られている最中でもケラケラ笑う彼が目に付いてしまって説教どころではなかった。毎日毎日飽きもせず母さんの胸元でクッキーらしきものを口に向けるだけで、その角度ではこの世の終わりまでクッキーを口にすることができないのだが、それでもクッキー精神を掲げる彼には恐れ入るばかりだ。
「兄さんにも相談してみようかな」
「ふふ、きっとユウだったら無理するなよーとかいうんだろうね」
 兄さんの名前は勇、僕は忍、父さんは徹で母さんは梢、強い照りを放つ父さんと兄さん、僕と母さんは何となく寒色を帯びている。
 
 母さんが風呂に入っている間、僕は近所のコンビニに出かける。
  エロ本や煙草を買うためではなくて、弁当箱の中身を捨てにいくためだ。母さんが毎朝作ってくれる、二段の弁当箱にぎっしり詰ったおかずと白米を、コンビニ近くの小さな公園でビニール袋に移しコンビニに設置されたゴミ箱に袋ごと捨て、明日使う袋を調達するためにノゾミへ菓子を買って帰る、これを人口消化吸収サイクルと密かに名付けている。
  今夜もベンチと滑り台くらいしかないツツジに囲まれ、一つの電灯より住宅街から漏れる灯りが頼りほどの薄暗い公園に僕一人。幸運なことに弁当廃棄を始めてから誰かに見られたことは一度もない、さらに盛夏の頃でも中身が腐っていたことはなく、少々の甘酸っぱい臭いにも慣れ、手際よく袋の口を縛り弁当の息の根を簡単に止めることができるようになった。
  ベンチに腰かけ包のネイビーのバンダナを解き、母さんの愛情こもった弁当箱を太ももにおいて「いただきます」と呟き止め具をはずした。蓋のズレを防ぐゴムが水分を含み「開けてたまるか」という抵抗に、弁当箱の重い意志を感じる。これだけは未だに慣れないでいる。
  蓋を開けると土気色した白米の粒達が身を寄せ合って僕を見上げてくる。親を見つけた迷子のように泣き喚いて手を伸ばしている、一瞥してすぐに袋の口を拡げ端を折り、よれないようにして白米が詰まった上段の箱を力を込めてベンチの縁に何度も叩きつけて中身を空にした。何回か目で右手がフワッと軽くなり袋を持つ左手に重みが移る、この瞬間の罪悪感を「受精のようだ」と生命の営みに例えて紛らわすこともあった、しかし今となっては罪悪感などまるでない。ノゾミのためと自信をもっている。
  下段のおかずは、僕のために栄養バランスが考えられ一品一品が手作りされ冷凍食品の類は一切使用していない、母さんが早起きして作ってくれた。こちらも廃棄に慣れない頃は、母さんや食材に対すると罪悪感に襲われて手づかみで貪ったこともあったが、今では街を引っ繰り返す怪獣にでもなった気で何処か楽しんでいる自分がいる。袋の口を縛って溜りの部分を揉む、これも最初は、純粋な指先が震えたが、今となっては弁当廃棄を行う際に詩人のような気分になることはない、死体処理係のように淡々と目の前の生ものを処理し、悟られない形に扱下ろすだけだ。僕の死んだ胃袋の消化を助けているだけなのだ。
『え? なにそれ手作り弁当? だっさ。それより一緒にランチ行こうよーねぇねぇ、チーズリゾット食べたーい!』
 暗闇にいたからコンビニの明るさは痛烈に目に刺さる、いまだこれにも慣れていない。右手にぶらさげた袋を“燃える”ゴミ箱に押し込めた、一連の動作は無意識の内に完了した。コンビニで明日ノゾミにあげる菓子を買った。期間限定のチョコ、どうしてこれが三百円もするのだろうか、しかしたかが三百円、引抜いた一万円をもってすればノゾミの望みはほとんど叶えてやれる、なくなればまた拝借すればよいだけなのだ。一万円札はあっという間に消える、タネも仕掛けもない、ノゾミの血となり肉となり装飾品となりノゾミの内外に吸収されて美しく輝やく。
  ノゾミは細長い、けれどよく食べる、小さな口はカロリーが大好物なのだろう。摂取した大量の不純物を均一に骨の周りに塗りたくる漆塗りの職人がいるのか、いや元は醜い脂肪の塊だけれど、鉋がけの達人がノゾミをノゾミたらしめているのかもしれない。どちらにせよ、素麺のように滑らで美しいノゾミが、僕が買い与えた醜い食事を貪り狂う姿を見ているだけで何も食べなくても満たされた気分になるし、大量の脂や糖分を摂取していても長い髪や白い肌の艶は失われない常に美しいノゾミの強さのようなものに憧れている。美しく強いノゾミが望むものを、僕が、買い与えている。例え僕の地獄行ポイントがここ数年で圧倒的に加算されようと構わない、非道徳的であればある程、平凡過ぎる僕は身を削ってでもその快楽を手にいれたいと思う。
 遠回りをして駅前のノゾミの好きなチェーンの喫茶店の前を歩いていたら、茶色に緑を基調とした落ちついた店内で異彩を放つ坊主頭が目についた。
  今泉だ。ソファにかなり深く腰かけ件の大学名が刺繍された新品の大きなスポーツバックに足を乗せ、抹茶フロートにささったストローを噛んでニヤけている。僕はとっさに死角に隠れた。向かいの席に座る人物、ノゾミだ。それを知った途端鼻の奥がキンと劈かれた、ダツに膝かっくんをされて膝裏の組織が射抜かれ力が抜けたような錯覚が駆け巡る。情けないくらい鼓動が激しくのたうち周り、肩で息をしないと口と鼻が爆発しそうになった。
  優越感で溢れた今泉の視線の先にはノゾミ、僕の知らない、恐らく新作の桃色のドリンクをすするノゾミ。ノゾミはあんなに美しいのだから僕だけのものになるはずがない、ノゾミと今泉は選ばれた人間であり僕は彼らの空間には入っていけないことくらい分っていた、分っていたのだと自分に言い聞かせてその場をふらふらと去った。冷静に思考した結果、今ここから全速力で駆け出して青春ドラマのように駅前を蛇行する人の列を乱すように、迷惑がられながら全力疾走することでしか救われないとして、眼球をひん剥いた、が、走ることができない。緊張のため脚がもつれて、結局ただの俯いて早歩きしているだけになった。それでも何人もの肩や背中にぶつかっていく、調子に乗ってい走るとも歩くとも言えぬ速度で浮遊していたら「んだこらぁ」と見知らぬ中年に威嚇され、ありがたいことにその一言で暴発は収まりキュッと冷静になった。しかし止まらない止めない、駅の高架下をくぐるまでは足を止めることはできない。歩く速度をあげることによってでしか、救われない、いきなりピタッと止まって汗を拭い「また二十秒きれなかった」とか言ったら警察を呼ばれるくらいのスピードになりたい。今まで少しでもぶつかった人たちに向ける顔がないから、この道で一番おかしい、そうな、人になるしかないと何時からか逃げていた僕はみんなに急がされているだけなんだと。僕は青春ドラマの主人公を徹することができないのだ、一生モブでいい。

 久しぶりに汗をかいたからか下唇を舌で巻いたら塩気がきつく、黒いシャツには白い首輪がくっきりと現れている。息を乱したまま家に入ると侵入者対策用赤外線の網目にでも引っかかったような、異様な空気の痺れを感じた。リビングの電気は点いているものの母さんの気配がない、代わりにテーブルの上には文字が書かれたチラシがある
『シノブへ。いきなりごめんね、お友達と箱根に旅行に行きます。日曜日の午後に帰るつもり。何かあったら連絡ください。五千円おいておくからご飯買って食べて下さい、一応冷凍庫に色々ストックあるけど念のため。父さんとケンには言っておいたから。よろしくね』
 今日は木曜日、今までどおりならば母さんが帰ってくるまでの四日間を五千円で過ごすことは不可能、しかしノゾミと関わらず僕の胃袋を満たすだけならばあり余る五千円。手にしてみると一万円より掠れていて赤みを帯びている、一万円札がくずれて五千円札として財布に入っている時間は短い
『一葉さんお久しぶりです』
『ぁ? あんたほんましょうもない男やなぁ、はようしんだらえぇねん』
 樋口一葉が言った。彼女がそんな馬鹿っぽいこと言うはずがないのだけど、僕にはそう聞こえて怖くなった。
 母さんはこのまま帰らない気がしてならない。旅行なんて嘘だ、今までだって旅行に行くことはあったけれど、こんなに唐突に家を出ることはなかった。父さんと兄さんに話したとあるが本当だろうか。一大事にも関わらず家の中はいつもと変わらぬサラダ油っこいフローラルの生活臭が漂っている。僕と母さんの日常を保ってきた家具家電は、こんな時でもやはり日常を保とうと表情なく鎮座しているのだから恐ろしいと思う、さらに腹立たしいことにエプロンのくまも相変わらずクッキーを自分に向け笑っている。
  階段を上り兄さんの部屋の前に立った。シコ様に餌をやるんだ、皺が絡みマリモのようになった頭の中でシコ様が腹を空かせているのだから僕がしっかりしなければと自分を奮い立たせると正気でいることができた。
  相変わらずべたつくドアノブを握り手に力を込めようとしたが、部屋から物音が聞こえ手を放した、この家には母さんと僕以外に出入りする者はいないと決めつけて靴の数なんて気にしなくなっていたのだが、父さんも兄さんも何時この家に帰ってきてもおかしくないのだ。ましてやここは兄さんの部屋なのだから、ノックもせずに入ろうとしていた僕こそ侵入者である。たじろぎつつ自分の部屋に戻ろうとしたけれど、薄いドア越しに伝わってくるセックスの気配に、脳より先に若く鋭い僕のペニスが反応していた。馬鹿だと分っていても、衝動を止められず音をたてないように耳だけで出歯亀するため背中を丸めて耳をドアにつけてみた。
「ダメ、イヤ、はずかしい、あっ」
 どこかで聞き覚えのある声、ドア越しでもはっきり分る、切り張りの喘ぎ声は確実にノゾミのものだ。ドア一枚越しにノゾミと兄さんがセックスしているのだろうか、セックスしているに決まっているだろうでなければあんな声聞こえてこない、もしかしたらノゾミが一人で? いやもういい、つまりはシコ様の前でセックスするなんて許されざることが今目の前で起きている訳で、さらには兄さんと愛するノゾミが汗まみれのジュルジュルになっているのだけど、この僕はよく冷静でいるなぁと思う。あぁ、あの使用済コンドームはノゾミの体内にあったものだったのか。
「ん? 誰っ? シノブ?」
 息を切らして兄さんが声を張り上げた、蕎麦を啜っている最中に話しかけられたような声なのは、つまりそういうことだろう。
「うん。兄さん久しぶり、シコ様に餌あげた?」
 クスクスと笑い声が聞こえる
「あー、まだ。シノブーちょっと空気読んで? ね?」
  無言で頷き、階段を降りて脱ぎ散らかした靴を履いて外に出た。ノゾミもシコ様も、僕から餌をもらわなくても生きていけると証明されたから明日には餌係の座を降りて、僕は何者でもなくなる。上手くできている、僕がノゾミに餌をやり優秀な兄さんが美しいノゾミを食べる、しかし僕の餌はこの家の一万円札で買ったものだから、兄さんが消費すれば無駄がなくていいではないか。そして一人で何もできない僕に餌をやっていた母さんはいなくなった、本当に母さんが僕を見捨てて消えてしまったとしたらそれはそれでいい、今財布の中には一万五千円と小銭が少し。これで何処かに行ってみようか。いや結局一時間後も五時間後もここにいて僕の日常はかわらない、救いがない。
  

救いのない日常を生きていかなければならない、静かな少年の話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-10

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
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