ドーナッツを噛みしめてアンモナイトの夢を見る

 ハルキゲニア、アノマロカリス。
 それから、オパビニア。
 小学生の頃から古生物を愛してやまなかったAくんは、年月を経て、アニメ声優になるために上京した。わたしがAくんと最後に会話したのは、中学三年の夏休みだった。
 二十五歳になった今でも、はっきり覚えている。
 中学最後の思い出にと、クラスのほとんどが参加した海でのバーベキュー。
 白く輝く海面。
 寄せては返す波の音。
 焼けた肉の芳ばしい香り。
 水平線から立ちのぼる入道雲は綿菓子のようだった。
 みんなの輪から外れ、ふたりで浜辺を歩いていた途中、Aくんが拾ったアンモナイトの化石。のようなものを貰った。本物かどうかは未だにわからないまま、中学卒業の折に交換した友だちのネームプレートや、高校のときに憧れていた先輩からもらった制服のネクタイと一緒に、クッキーの平たい丸缶の中に収められている。
 ハルキゲニア、アノマロカリス。
 オパビニア。
 ついでに、アンモナイト。
 気持ち悪い形の古生物は好きになれなかったけれど、アンモナイトはかわいいと思った。
 アンモナイトの化石のようなものは波で削れたのか凹凸は滑らかで、指で繰り返し撫でていると我を忘れそうになった。実際の貝殻はもっとつるんとしていたに違いない。わたしは貰ったアンモナイトの化石のようなものを握りしめ、砂の上を軽やかに歩いた。Aくんはまぶしそうに海を見つめ、「ハルキゲニアの化石が欲しいなァ」と呟いた。もしハルキゲニアやアノマロカリスの化石が手に入ると言われたら、Aくんは海なんか躊躇なく飛び越えてしまうんだろうなあと思った。女の子の誘惑と古生物を天秤にかけたら、Aくんは迷いなく古生物を選ぶ男の子だった。
 でも、Aくん。
 今のあなたに、古生物を愛してやまなかった頃の輝きは感じられない。
 地元の駅前にAくんはいた。
 Aくんはティッシュを配っていた。
「お願いします」という声で、Aくんだと気がついた。どこかの企業ロゴが入った水色のキャップを目深に被っていたものだから、すれ違いざまに声を聞くまでAくんだとは想像もしなかった。
 そもそも専門学校を卒業後、アニメ声優としてデビューを果たしたと聞いていたものだから、予想できるはずもない。休暇で帰省したならまだしも、どこかの企業広告が入ったポケットティッシュを配っているなんて、それってつまり、ねえ。
 貰ったティッシュと窓ガラスの向こうでティッシュを配るAくんとを、交互に見る。ポケットティッシュにはコンタクトレンズ店の広告が入っている。
 駅前が見渡せる焼きドーナッツ店の窓際のカウンター席に、わたしはいる。
 抹茶の焼きドーナッツと、ホットコーヒーを選んだ。手袋がないと瞬時に指先が悴んでしまうほど、外は寒い。Aくんはキャップとおなじ水色のジャンパーを着ている。背中の白いゴシック体のロゴが、Aくんが動くたびに歪む。そういえば、髪が伸びていた。
 ほんの一瞬であるが、Aくんの顔を見た。
 にこりとも笑っていなかった。
 ハルキゲニアについて、アノマロカリスについて、自作の古生物ノートを片手に力強く語っていたあの頃の熱量も、瞳の煌めきも、すべて失くしてしまったかのようだった。わたしはAくんが声優を目指していると人づてに聞いたとき、Aくんなら夢を叶えられると思った。「ハルキゲニアの化石が欲しいなァ」と呟いたときの、なんだか恋患っているみたいな声の甘さは静々とわたしのからだに浸透し、目を瞑れば今でも頭の中で鮮明に再生される。
 長ったらしい前髪に、一昔前のチャラけている男を思わせるロン毛は、Aくんにまるで似合っていなかった。頬もこけていた気がする。声優の仕事はやめてしまったのだろうか。せっかくデビューまでしたのに。わたしなんてまだ、スタート地点にも立っていないのに。
 トートバッグからケースファイルを取り出す。今日、出版社に持ち込んだ原稿はすでにくたびれ、端っこが折れてしまっている。わたしの書く小説はただ長いだけで、中身が空っぽだと云われた。密度がないそうだ。単調に物語が進むだけで、深みがないのだと。
 Aくんはティッシュを配り続けている。
 貰っていく人もいれば、貰っていかない人もいる。
 Aくんからティッシュを受け取った女の人のフレアスカートが、はためく。Aくんの着ている安っぽそうな薄いジャンパーの裾が、スカートがはためいた方向に膨らむ。ティッシュの入った小さなバスケットを持ったまま、Aくんはジャンパーのジッパーを素早く上げた。
 わたしは原稿用紙をひろげて、しわになった部分や折れた角を手で伸ばして、折り紙で鶴を折るみたいに丁寧に折り畳んだ。それで、抹茶の焼きドーナッツを口に運んだ。
 噛む。
 抹茶の渋みと甘みが、一緒にやってくる。
(こんな拙い表現しかできない)
 ドーナッツを噛み切りたい。
 でも、噛み締めていないと涙がこぼれそうだったから、わたしは抹茶の焼きドーナッツを口に銜えたまま、昔から猫背気味のAくんの姿をじっと見つめていた。

ドーナッツを噛みしめてアンモナイトの夢を見る

ドーナッツを噛みしめてアンモナイトの夢を見る

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-10

CC BY-NC-ND
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